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DVD Step Across The Border -ステップ・アクロス・ザ・ボーダー

Step Across The Border -ステップ・アクロス・ザ・ボーダー

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    Slow Moon’s Rose  |  京都府  |  不明  |  2011年01月09日

     この映画のタイトルと写されている地名とを一見すると、「ステップ・アクロス・ザ・ボーダー」とは、〈国境を越えて〉を意味しているかのようで、1990年という公開の年の世界情勢下にあってはとりわけそう思われたかも知れないが、このタイトルが由来し、映画の冒頭で聞くことになる「ザ・ボーダー」という曲を参照するなら、「境界を踏み越える一歩」という歌詞は、「ここではない何処かへの小さな一歩」、更には、「何処にもない所への一歩」へと展開される。虚心に観通すなら、《何処にもない所へのささやかな一歩》と、この映画を呼んでみることができるであろう。〈主人公〉の最初の登場の直後にジョナス・メカスが語る、蝶の羽ばたきの振動が世界を巡り、あらゆるものを結び付け、変化が起きる、という「蝶の羽理論」がそれを証している。/監督たちも〈主人公〉フレッド・フリスも、この映画が〈ドキュメンタリー〉と称されるのを拒否する。主人公の音楽に映像を付随させるのでも、映画にサウンド・トラックを被せるのでもなく、それらから遠く離れて、都市と自然が営む生と音と映像とが異響し同時に共振する、独自の映画の次元が切り開かれている。屋台での対話で最初に引用されるタルコフスキーの、芸術が社会と人間とを交感させる、という引用句が暗示的に映像化されたようなうつろな白黒映像 ─ 煙や霧や雨や水溜まりを初めとする湿気を強く帯びた画質感は、敢えて言えば、まさにタルコフスキーの映像に迫っているのではなかろうか。そうだとすると(フレッド・フリス本人は、『惑星ソラリス』を好むと、日本での映画公開時のインタビューで述べているが)白黒の『僕の村は戦場だった』と、一部が白黒の『アンドレイ・ルブリョフ』とが、ここで思い起こされる/一方、画像の含む水分と、音質のざらつきとは不思議と対照的に、或いは交差して、フレッド・フリスの語りは、横に素早く移動する画像 ─ 本人も走る ─ と協働するかのように、率直で、それを元にしてこの映画の骨格が形作られている。最初の主人公の登場で、ヘンリー・カウ解散後の新たな出発を画する作品『グラヴィティー』(1980) からの楽曲がハミングされることで、この映画の核心が開示される。《グラヴィティー》という概念でフリスの試みたのは、商業的なダンス・ミュージックが猛威をふるう時代に、その猛威とそれをもたらしている資本制が生む重力場を、ギヨーム・ド・マショーに代表される中世音楽と世界の民俗音楽とのリズムを援用して、脱中心化することであった。続いて演奏される「キリング・タイム」(皮肉な命名だ)を収録した同名のアルバム(1981) は、やはり当時猛威をふるっていた「ニュー・ウェーブ」の単純性に(学びつつ)拮抗すべく、三人という少人数編成のバンドで速度と音量とを最大限に至らしめた皮肉な試みであった。(このアルバムがどれ程の熱狂を持って迎えられたかは、再発売CDに付された、/この複線的な音楽の方向性が示され、更にそれを支える根源的な発想として、写真家アンリ・カルティエ=ブレッソンの「写真は叫びである ─ 独自性の主張ではなく、自己解放である」という意義深い句が語られるに至って、映画の最初の数分で、展望は意外にも明瞭になっている。勿論、アート・リンゼイの悲観とロバート・フランクの諦観とを対置することも忘れられておらず、映画自体は決して単線的に構成されてはいないのが素晴らしい。この明確な展望と構成の元では、風に揺らぐ木々の音やかもめの鳴き声、龍安寺の石庭で砂紋を刻む静謐な音からごみ処理機の轟音まで、ほとんどあらゆる音が楽となり、更に映像と分かちがたく融合するのを、誰も怪しむことはできないだろう。/しかし、ていたらくに眠り耽る(日本の!)地下鉄の通勤者たちは、やはり音楽にすることはできない(そこでは地下鉄の動く轟音以外の音は付されていない) ─ 最後の語りで、フレッド・フリスは情報の一方的な受け手となり果てている人民の目醒めを率直に願っている。若き日には自分の音楽が世界を変えると信じた、しかし今では一人一人の聴き手が自分の音楽に驚き困惑して、更にはコンサートの後に語りかけてくれる、そういったことに意義を見出すと、屋台で語った、その当人であるからには、その率直さの返報としての人民の目醒めは、蝶の羽ばたきが創る振動に人々の魂が打ち震える、そのようにしてきっと訪れるに違いない。その時まで、「我々は同じ過ちを際限なく繰り返し続ける」(最後に流れる歌、「多すぎる 少なすぎる」の歌詞」)にせよ。

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