ブルックナー (1824-1896)

SACD 【中古:盤質B】 交響曲第9番 インバル&東京都交響楽団

【中古:盤質B】 交響曲第9番 インバル&東京都交響楽団

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    norry  |  東京都  |  不明  |  2014年03月08日

    今までもそうであったが、インバルのブルックナーを聞くたびに、音楽とか、演奏についてよく語られる「宗教性」とは何か、ということを考えさせられる。「宗教性」は当然神に関わることだろう。今回そこで思いついたのは、「宗教性」を音楽やその演奏について感じるというとき、音楽や演奏は、神の「肉体」ないし「家」なのか、それとも神の「言葉」なのか、ということである。インバルのブルックナー演奏が「宗教的」であるとしたら、それは間違いなく後者の意味においてである。一方で、ブルックナーの音楽は以前から、カトリック聖堂に例えられてきた。いうまでもなく、聖堂(教会)は神の家である。つまり、神の家にふさわしい荘厳さと神秘性こそが、これまで論じられていたブルックナーの宗教性である。その観点から今回のインバル・都響のブルックナーを聴いてみると、そのような荘厳さと神秘性は、例えば、そのような側面を最大限かつ圧倒的に発揮しているジュリーニ/VPOの演奏などと比べると、かなり抑制的である。これが聖堂であるとすれば、(このことは同じコンビの第5のレビューでも指摘したが)絢爛たるゴシック建築のものではなく、コンクリート打ちっぱなしのモダニズム建築の聖堂であろう。あるいは、(実演を含めて聴いた感覚としてはこちらが近い)白木で新たに創建されたばかりの神社建築のような、極めて清浄な印象を与える。そしてその分、1楽章、2楽章では、ブルックナーが最晩年に到達した、作曲技法上のモダニズム性がクローズアップされる。都響の全く隙のない完璧な演奏によって、ブルックナーが到達した未曾有の音楽的境地が、何ら装飾的要素なく、明らかにされていると言えるだろう。この演奏が空前絶後なのは、3楽章である。この演奏を聴くと、1,2楽章で神殿が構築され、3楽章でようやく神の言葉が開示されるとでもいうような感じがする。冒頭の有名なG線上の短9度の跳躍を含む主題は、私のこれまで愛聴してきた、フルトヴェングラー・BPOでも、ジュリーニ・VPOでも、スクロヴァチェフスキ・ミネソタ管でも、極めて感動的に奏され、これからいよいよ(死を経ての)天上への上昇の過程が始まるとでもいうような感覚を味わうし、その後頻出する複付点音符の主題も、あたかも星辰のきらめきのようなイメージを呼び起こすが、このインバル・都響の演奏では、いずれの主題も非常に正確かつ美しく奏されるものの、それ自体が何か個々のイメージを喚起するようなものとして提示されるのではなく(それを否定するものではないが)、あくまで全体の中の一部を構成することにより、(それが他のものではないということによって)何らかの意味を伝えるようなものとして提示されている。なかなかそれ以上にその意味が何か、を書くことができない(もともとそういうものだと思うが)のがもどかしいし、だから結局神の「言葉」という言い方をしたくなってしまうのだが、3楽章が「伝えようとしているもの」をこの演奏は今までのどの演奏よりもはっきりと伝えていると思う。本当に特に変わったことをやっているわけではなく、すべてのパートを、正確に、完璧なバランスを持って音にしているだけなのだが。しかしそれこそがインバルの奥義であり、それに完璧に都響が応えたということだろう(1回だけのライブであることを考えるといつもながら驚異的である)。

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    みのる  |  埼玉県  |  不明  |  2014年02月14日

    この世のものと思えない深い神秘性にみちたこの曲に、もっともふさわしい表現(この世への告別として書き進めていたブルックナーの精神によりそい、このうえなく明晰に雄大な表現)をなしとげたインバルさんに大いに敬意を表したいと思います。

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