トップ > 音楽CD・DVD > クラシック > シューベルト(1797-1828) > ミサ曲第6番 ジュリーニ&バイエルン放送交響楽団&合唱団、他

シューベルト(1797-1828)

CD ミサ曲第6番 ジュリーニ&バイエルン放送交響楽団&合唱団、他

ミサ曲第6番 ジュリーニ&バイエルン放送交響楽団&合唱団、他

商品ユーザレビュー

  • ★★★★★ 
    (4 件)
  • ★★★★☆ 
    (0 件)
  • ★★★☆☆ 
    (0 件)
  • ★★☆☆☆ 
    (0 件)
  • ★☆☆☆☆ 
    (0 件)

レビューを書いてみませんか?

レビューを書く

検索結果:4件中1件から4件まで表示

  • ★★★★★ 

    mimia  |  石川県  |  不明  |  2020年08月10日

    美しい曲、美しい演奏である。 シューベルトはすでに5曲のミサ曲を作曲していて、これは最後の、あの奇跡的な年の、傑作群の中の一曲である。 シューベルトのミサ曲は、しばしば指摘されるように、歌詞(通常文)に省略箇所がある。大抵は、意味が変わったりはしないささいなものだけど、ひとつだけ捨て置けない箇所がある。 クレドの中の、「そして 唯一の 聖なる 普遍の そして 使徒継承の 教会を (信ずる)」という一文がそっくり抜けている。 信仰告白であるクレドは、神を信じます、という言葉で埋め尽くされているが、その中に、教会の権威を信ずるという一文を擦り込みのように忍ばせてある。シューベルトのミサ曲にはその部分が消えている。 これが意図的であれば、シューベルトの宗教観に関わるのだが、事はそう簡単ではなさそうである。 ジョン・ワラックというひとは、「ローマ教会の権威がオーストラリアの教会に及ぶのを厳しく制限した皇帝ヨーゼフU(治世1765-90)の統治時代に作られたテキストを使ったためだたろう」と書いている。(J.E.ガーディナー指揮 シューベルト ミサ曲5番のCD解説文より) アルフレート・アインシュタインは大著「シューベルト」の中で、シューベルトが教会や僧侶に対して否定的な言葉を残している事を紹介した上で、それでもなお、意図的にクレドの一文を省略したという事の判断を控えている。 ハイドンが1790年代に作曲した「戦時のミサ曲」を聴くと、やはりその一文は抜けているようだ。ただし、私のラテン語を聞きとる能力はなきに等しいので断定はできません。 ベートーヴェンは二つのミサ曲とも正規の通常文で作曲している。 この当時のウィーンでは、ミサ曲に対してそれほど厳格ではなかったという事なのだろう。 ただ、シューベルトが、正規の通常文を知らなかったとは考えにくい。知っていて、それでもなお、ヨーゼフU時代のテキストを使い続けたという事は考察されるべき事だと思う。 作曲家の宗教観、人生観を知ることは、ミサ曲など宗教曲を聴く時には、無神論者の私には重要なことなのだ。 「神々しい山と湖を眺めることができたら、ー中略ー、新しい生のために大地の不可解な力に再び身をまかせるのを大きな幸福と思うようになるでしょう。」(シューベルトの手紙) これは、ベートーヴェンの手紙だと言われても信じてしまいそうなほど、大自然への畏敬の念が表明されている。シューベルトの神もまた教会ではなく、大自然の中にいる。 シューベルトの生きた時代のヨーロッパはフランス革命後のナポレオン戦争、それに続く、悪名たかい反動政治など大混乱にあった。そんななかで、従来の価値観にとどまるのではなく、自らの思想、宗教観を作り上げていったひとたちの一人として、シューベルトの姿が立ち上がってくる。 ミサ曲全体をふかんしてみると、作曲者の宗教観は、終曲アニュス・デイにいちばん分かりやすくあらわれるように思う。   「神の子羊、    世の罪を除かれた主よ、    私たちをあわれんでください。    私たちに平和を与えてください。」 たったこれだけである。が、単純だからこそ、自由な解釈ができる。ここにどんな音楽をつけるのか、というところが作曲者の個性と力量。 「あわれんでください」の部分はほぼ悲痛な音楽になるが、後半の「ドナ ノビス パーチェム」は様々だ。 バッハは、上昇する旋律に乗って天に舞い上がる壮大なスペクタルエンド。 モーツァルトは、依頼主のお好みに合わせて、どんな風にでもやりまーす。 ベートーヴェンのミサ・ソレムニスは、正直言って、はちゃめちゃ。 シューベルトの最後の年のこの部分の音楽には、静かな凄みがある。 どこかモーツァルトのレクイエムを思わせる響きとリズムで始まる慟哭の調べ。 ここから先は、「死者のためのミサ曲」です、と暗示しているかのようだ。 一瞬の安らぎがやってきて、美しいけれど、束の間、さらに慟哭が続く。 後半は、静かに、すでに平和を得ているかのように穏やかに流れていく。 けれど、終盤にさしかかり突然、慟哭が戻ってくる。 あの安らぎは見かけだけだったのか。 いや、穏やかな諦念のなかにも、悲しみはある。 これはやはりレクイエムなのだ。 レクイエムでも終曲はアニュス・デイだ。 が、パーチェム(平和)が、レクイエム(平安)に置き換えられる。 シューベルトはほんとうは、レクイエムとしたかったのではないだろうか。 曲はやがてバッハとは正反対に、内なる自分へと下降し続けていく。 私はこういうことの全てをジュリーニの指揮するこのCDを聴きながら思った。 ジュリーニの長い演奏生活の、その引退を間近に控えたころの録音である。

    0人の方が、このレビューに「共感」しています。

    このレビューに 共感する

  • ★★★★★ 

    アリエッター  |  京都府  |  不明  |  2017年12月15日

    久しぶりに拝聴して感動しました。「エト・イン・カルナトゥス」の四重唱は琴線に触れ過ぎて涙が滲む。シューベルトの最高傑作。

    0人の方が、このレビューに「共感」しています。

    このレビューに 共感する

  • ★★★★★ 

    シゲ  |  佐世保  |  不明  |  2008年12月27日

    シューベルトのミサ曲第6番は、このCDとベームのDVDがあれば十分であろう。心が洗われる静謐な曲であり、クラシック音楽の原点のような美しい曲である。

    2人の方が、このレビューに「共感」しています。

    このレビューに 共感する

  • ★★★★★ 

    こばと  |  東京都  |  不明  |  2005年06月26日

    晩年のジュリーニらしく、遅めのテンポで切々と歌いあげられ、曲を構築しています。私のファーストチョイスですI

    2人の方が、このレビューに「共感」しています。

    このレビューに 共感する

検索結果:4件中1件から4件まで表示