ショスタコーヴィチ(1906-1975)
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ショスタコーヴィチ(1906-1975) プロフィール

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【交響曲】  全集 | 第1番 | 第2番『10月革命に捧ぐ』 | 第3番『メーデー』 | 第4番 | 第5番(『革命』) | 第6番 | 第7番『レニングラード』 | 第8番 | 第9番 | 第10番 | 第11番『1905年』 | 第12番『1917年』 | 第13番『バビ・ヤール』 | 第14番『死者の歌』 | 第15番
【管弦楽曲】  祝典序曲 | バレエ組曲 | ジャズ組曲 | 『ボルト』 | 『馬あぶ』 | 『ハムレット』 | 『ベルリン陥落』 | 映画音楽 | 弦楽四重奏曲編曲版
【協奏曲】  ピアノ協奏曲 | ヴァイオリン協奏曲 | チェロ協奏曲
【室内楽曲】  弦楽四重奏曲 | 弦楽四重奏曲全集 | ピアノ三重奏曲 | ヴィオラ・ソナタ | チェロ・ソナタ
【器楽曲】  24の前奏曲とフーガ
【オペラ】  『鼻』 | 『ムツェンスクのマクベス夫人』 | 『カテリーナ・イズマイロヴァ』 | 『賭博者』
【声楽曲】  『森の歌』
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「わたしの交響曲は墓碑である」という例の『証言』の中の言葉に色々な意味で象徴されるショスタコーヴィチの音楽と生涯への価値観の変質は、今もって盛んな議論や推論、研究、演奏解釈によって再認識過程の最中にあるとも言えますが、作品によってはすでに演奏年数も75年に及び、伝統と新たな解釈の対照がごく自然におこなわれてきているとも言えそうです。

 圧政と戦争の象徴でもあったソビエト共産主義社会の中に生き、そして逝ったショスタコーヴィチの音楽は、最も20世紀的な音楽のひとつとして位置付けられており、没後四半世紀以上を経た現在では録音点数も増えて、音による鑑賞&検証も比較的容易になりました。以下、彼の生涯を簡単にご紹介しておきます。

 作曲家、ドミトリー・ドミトリエヴィチ・ショスタコーヴィチは、1906年9月25日午後5時、ペテルブルグに誕生します。父親はポーランド系で度量衡検査院主任、母親はペテルブルグ音楽院を卒業したピアニストで、ドミトリーは9歳から母親にピアノを習い始めて異常なほどの上達ぶりをみせ、さらに作曲にも大きな関心を示し、『自由の賛歌』(ピアノ曲)を書きあげます。同年、私立の学校とグリャッセルの音楽学校という二つの学校に通い出したショスタコーヴィチは、1917年、二月革命で警官が子供を殺害するのを衝撃を受け『革命の犠牲者の行進曲(葬送行進曲)』(ピアノ曲)を作曲。

 1919年、ペトログラード音楽院に入学し、母の師でもあったロザノヴァにピアノを、シテインベルグに作曲を師事します。画家、クストーディエフとも交流を持ち、有名な肖像画が書かれているのもこの頃のこと。作曲活動も活発になり、ピアノ曲のほか、未完に終わったオペラ『ジプシー』や、オーケストラ伴奏歌曲、R=コルサコフ作品のオーケストラ編曲もおこなっています。1922年、父親が亡くなり、ショスタコーヴィチ家の経済状態は貧窮に陥りますが、グラズーノフが手をさしのべてくれたおかげで学業を続けることができました。

 翌1923年にはピアノ科を修了、映画館で解説ピアニストとして働き始めます。この頃、ショスタコーヴィチの結核の症状が悪化し、クリミヤ半島に転地療養することになりますが、同地ではタティアナ・グリヴェンコという同年齢の少女と恋に落ち、5年間に150通の恋文が書かれたほか、ピアノ三重奏曲第1番が献呈されています。1925年には作曲科を修了。卒業作品、交響曲第1番作品10のニコライ・マリコによる初演は大成功を収め、ソヴィエトだけでなく西欧でも演奏されてショスタコーヴィチの名を一躍世界に広め、これが作曲家としての本格的なデビューになったといえるでしょう。

 1926年春、新設された大学院に入学したショスタコーヴィチは交響曲第1番の成功にも関わらず、ピアニストとしての実力の高さからも進路を決めあぐねていました。翌1927年1月には第1回ショパン・コンクールに参加しますが、急性盲腸炎のためいつも通りには弾けず、結局、第1位にはレフ・オボーリンが選ばれてショスタコーヴィチは特別賞を受賞することになります。

 受賞後、新作のピアノ・ソナタ第1番作品12を各地で演奏する一方、同年3月末には国立出版所音楽部門から、その年の秋に控えた十月革命10周年記念式典で演奏される交響曲の作曲を委嘱されたことは、当時の不安定な立場を物語るかのようです。同年にはさらに前年に出会ったソレルティンスキーの影響でピアノ組曲『アフォリズム』作品13を書き上げ、大胆なオペラ『鼻』作品15にも着手。この時期の作風がショスタコーヴィチ自身の変化に伴ってさまざまに変貌していることを伝えてくれますが、これには当時のモダニズムにあふれかえっていた社会情勢の影響も見逃すわけには行きません。

 同じ1927年の8月から9月、ショスタコーヴィチはレニングラード近郊のデッツコエ・セロのサナトリウムで盲腸炎手術後の休養をとっていましたが、同地で工業大学の物理の学生、ニーナ・ヴァルザルと出会い、のちの結婚へと繋がって行きます。この年の暮れにはスターリンによる独裁体制も始まりました。

 1928年、オペラ『鼻』完成。上演をめぐって知り合った著名な前衛演劇人メイエルホーリドの家に住み込み、彼の劇場の音楽を担当。翌1929年には、高名な詩人マヤコフスキーの知己を得『南京虫』の音楽を作曲。また、交響曲第3番『メーデー』作品20も書き上げ、さらにバレエ『黄金時代』作品22に着手。ほかに劇音楽『射撃』作品24、ドレッセルのオペラ『コロンブス』のための間奏曲と終曲作品23も書かかれています。

 秋には演奏会形式で『鼻』の初演がおこなわれ、モダニズム派の形勢が不利だった時代ということもあり、ロシア・プロレタリア音楽協会から酷評を受けることに。ちなみに、『射撃』はプロレタリア側組織、労働青年劇場との関わりから生まれた作品。この頃からすでにショスタコーヴィチの音楽と政治の関係は複雑だったようです。同年末、レニングラード音楽院大学院を卒業。

 1930年1月、マールイ劇場で『鼻』初演。さらに同月、交響曲第3番『メーデー』が初演され、3月にはバレエ組曲『黄金時代』が初演。5月には労働青年劇場との共同作業で音楽を担当した演劇『処女地』の上演が開始され、10月には『黄金時代』がバレエとして上演されます。同じ年、ショスタコーヴィチは、労働青年劇場の機関誌『プロレタリア音楽家』にプロレタリア音楽を熱烈に支持する発言を寄せています。

 なお、前年(1929年)の初めから翌1931年の暮れにかけては、のちのショスタコーヴィチの言葉によれば「『実用』作曲家として過ごした時期」であり、1930年には『処女地』のほか、映画音楽『女ひとり』を書いています。とはいえ、この年はもっぱら、前半の初演の多さと、傑作『ボルト』、『ムツェンスク郡のマクベス夫人』の作曲に着手したことで知られており、現在の認識ではむしろ充実した年という判断が主流です。

 1931年、バレエ『ボルト』作品27完成。その他、劇音楽『ハムレット』、『支配せよ、ブリタニア!』、『条件付きの死者』、映画音楽『黄金の丘』(組曲版も)、弦楽四重奏のための2つの小品、『緑の工場』のための序曲を作曲。

 1932年、ニーナ・ヴァルザルと結婚。組曲『ハムレット』(前年の劇音楽から)、映画音楽『呼応計画』、声楽付き交響詩『カール・マルクスから我々の時代へ』、『チェロのためのモデラート』、『大きな稲妻』作曲のほか、ストラヴィンスキー『詩篇交響曲』を4手ピアノに編曲。また、24の前奏曲の作曲にも着手し翌1933年に完成しています。

 1933年、レニングラード市オクチャーブリ区議会議員に選出。ピアノ協奏曲第1番作品35、劇音楽『人間喜劇』作曲。

 1934年、歌劇『ムツェンスク群のマクベス夫人』初演。大成功を収め、翌年1月にはロジンスキーによってアメリカ初演もおこなわれています。ジャズ・オーケストラのための第1組曲、チェロ・ソナタ、バレエ『明るい小川』、映画音楽『司祭とその下男バルダの物語』、『愛と悲しみ』、『マクシムの青年時代』、『女友達』作曲。妻・母とともにドミトリエフ小路のアパートに転居。嫁姑の確執からか、妻ニーナが病気がちになり保養所で過ごす時間が増加。

 1935年、管弦楽のための5つの断章作品42を作曲したほか、交響曲第4番に着手。バレエ『明るい小川』初演。その他、黄金時代からのポルカをピアノ独奏用に編曲。前年に入居したアパートを母親名義にし、妻とキーロフ大通りのアパートに転居。妻妊娠。(続きは少々お待ちください)

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