畑中葉子とロンドン響

2020年05月28日 (木) 12:55 - HMV&BOOKS online - クラシック

連載 許光俊の言いたい放題 第278回


 コロナのせいで、まったくひどいことになった。正直な話、最初は、あのかつての原発事故や放射能の問題に比べれば、はるかにましではないかと思っていたのだ。何しろ放射性物資はほとんど永遠というくらい長い期間消えない。その影響がいつどう出てくるかもわからない。それに比べれば・・・。
 だが、実はそうではなかった。これはこれで社会や生活にとんでもない影響を与える災禍なのだった。話を音楽に限っても、世界中でコンサートやオペラの上演は停止。音楽家も音楽業界も、前例がないような事態に陥っている。どこかに逃げて、そこで仕事をするというわけにもいかない。その点では、なんと戦争よりもひどい状況である。ドイツでは、早くもコンサートの再開が目指されているが、大ホールに200人しか客を入れないとか、特殊なやり方を考えている。それでうまくいくのかどうか・・・。
 日本ではこの秋以後、サロネン指揮バイエルン放送響、ソヒエフ指揮パリ管、ラトル指揮ロンドン響といったまさにこれを今聴かなくてどうするといった来日公演が目白押しだが、それもいったいどうなるのか・・・。全部つぶれてしまうのはあまりにも惜しいのだが。
 
 ところで、もし、コンサートというものがなくなったら・・・うっかり私がそう書いてしまったのは、今発売されている「ステレオサウンド」214号においてだった。まだコロナが世界的な大問題にはなっていない時期なのになんとなくそんな想像をして書いたのだが、仮定や冗談ではすまないことになってしまった。
 だが、そもそも私が「もし、コンサートというものがなくなったら」あるいは「自分がコンサートに行けなくなったら」などと想像してしまったのは、あるスピーカーを聴かせてもらったからだった。
 いったい、世界最高峰のオーディオは、この場合はスピーカーだけれど、どんな音がするのか。家でCDを聴いて楽しむ人たちにとって全然興味が湧かないことではないだろう。私はまったくオーディオ・マニアではなくて、むしろできれば簡単にすませたいと思っていたほどなのだが、たまたま「ステレオサウンド」に執筆するようになって、よい装置を聴かせてもらう機会ができ、これはこれでやはり大した世界なのだなあとたいへん納得がいくようになった。そして先日は、最高峰のスピーカーをいくつか聴いてみませんかと言われて、喜び勇んで出かけていったのである。詳細は誌面をご覧いただくとして、あるスピーカーでは、ここでも取り上げたことがあるチェリビダッケ指揮ミュンヘン・フィルの「ダフニス」が、驚くほどリアルに鳴って、興奮してしまった。あのチェリビダッケ独特の、ホールを漂うような妖しい煙のような弱音が想像以上に再現されるのだ。さらにはサヴァールのルベル「四大元素」冒頭の奇妙な響きも。
 また、別の装置ではサヴァールの「ケルトのヴィオール」やファジル・サイの「トロイ・ソナタ」を聴き、まさしく目の前で弾いているのではないかという錯覚にとらわれた。ちなみに、こうしたCDの選択は私自身が行ったもので、普段聴いているものばかり、ナマになじんでいるものばかりである。別に、特にすばらしく鳴る盤、いわゆるオーディオ・マニアが好みそうな盤を選んだわけではない。
 きわめて真剣な話、このクラスのオーディオをセットで組めば、室内楽やピアノなら、ナマに拘泥しなくてもいいのではないかとすら思った。まあ、誰にでも容易に買える価格ではないし、広い部屋も必要とはいえ、このような可能性が世の中には存在するということは知っておいていい。裕福な音楽愛好家なら、躊躇することなく買えばいい。私の友人で株で財産を作った人がいるが、どうせならこういうものにお金を使えばいいのに、と余計なおせっかいながら考えてしまう。

 さて、そのコロナ、今は少しずつ落ち着いてきたようだけれど、いったいこれからどうなるかと思われた最盛期、私はどういうわけか緊張を強いるような音楽を聴く気がしなかったのである。前回書いたラトルの「ワルキューレ」などは稀な例外だ。ドラマティックで聴いているうちにおのずと集中するのではなく、リラックスできるもの、気持ちがゆるむものしか、聴く気が起きなかったのである。それで普段なら絶対買わないであろうCDなども買い込んでしまった。
 たとえば、畑中葉子「後から前からBOX」。私は流行音楽にはまったく無関心で、カラオケもやらないので、この手の歌手や曲はほとんど知らない。1980年前後に一世を風靡したこの歌手にも本来興味はゼロだったのだけれど、なんとはなしに、気まぐれで注文してみたのである。何しろ家にずっといますからね。
 おもしろいもので、この時代の音楽を再生すると、まるで当時に戻ったかのような懐かしさがする。あの頃の町の風景や空気が生々しく思い出されてくる。
 エロ歌謡と呼んだりもするようだが、思わず失笑したり、呆れたりもする内容。曲の間に入る語りなど、聴いていて恥ずかしくなるようなこともたくさん。あえぎっぱなしの「モア・セクシー」とか、まったくよくやるよ。だけど、もはや腹を立てたり馬鹿にする気は起きない。それと、畑中葉子、歌、うまいですよ。よけいなヴィブラートがなくて、決め所でだけ使う。
 懐古は甘い。愛おしい。若い人たちは、将来が見えなくなると不安、心配になる。当たり前だ。だけど、中高年は、過去に逃避できるのだなあ。そんなことに気づいた。

 それと、ジョン・アダムズの「ハルモニーレーレ」を繰り返し聴いた。少し前、この作曲家のセットがベルリン・フィルで出されて、日本でも案外たくさん売れたそう。
 ラトルはこの曲が好きらしく、バーミンガムの楽団とのCDがある。最近ではロンドン響とも演奏した。
 あとは、ケント・ナガノとモントリオール響のCDもいい。ラトルだと力こぶが入った感じ。ナガノはもっと淡々としている。そのふたつをとっかえひっかえしながら聴いていた。ラトルの演奏はベルク「ルル」みたいな官能美の味が濃厚にする。ナガノの演奏はドビュッシーのようできれい。特に3つめの楽章は「パルジファル」を得意にしている人だけに実に美しい。白い光がさんさんと降り注ぐようだ。それに、どちらの盤も、いっしょに入っている曲がいい。
 ミニマル作曲家の管弦楽曲は、いわゆる一流楽団が演奏すればよいというものではどうやらないようだ。うますぎるというか、こんなにうまくなくていいという過剰な感じがする。うまいということは、集中力が高いということでもあり、集中力が高い演奏をミニマル作品に対して行うと、違和感に通じるのだ。だが、さすがにラトルやナガノは、この手の作品の扱いをよく心得ているので、そうした違和感は生じない。
 ヨーロッパでは、アダムズやフィリップ・グラスの演奏会は客がよく入る。雰囲気も普通のクラシックとは違う。ロンドンではビールを飲みながら聴いている人が多数いて驚いたことがある。え、ロイヤル・フェスティヴァル・ホールって、飲み物持ち込みOKだったんですか。終演後も、ブラヴォーではなく、変な裏声の歓声がたくさん。その一方で、繰り返しばかりが多くて長いと、業を煮やして帰ってしまう人もいるが。
 いずれにしても、ミニマルっぽい音楽は日本で想像する以上に広く普及している。駅や空港に置かれたピアノで弾かれているのは、その手のが圧倒的に多い。

 最近発売されたロンドン響のパーカッション・アンサンブルが演奏したライヒなどの作品集も気に入った。ジャズっぽいものなど、聴きやすい曲が選ばれている。ヴィブラフォンやマリンバの響きも涼やか。この手の曲も、ヨーロッパの音楽家が演奏すると、雰囲気がちょっと変わる。落ち着きがある。
 暑い夏が近づいている。この盤を聴く機会も増えるだろう。

(きょみつとし 音楽評論家、慶応大学教授)

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LSOパーカッション・アンサンブル

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