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ブルックナー:交響曲第3番 第2稿&第3稿、および1876年版アダージョ

2004年1月16日 (金)

ブルックナー:交響曲第3番 第2稿&第3稿、および1876年版アダージョ
ヨハネス・ヴィルトナー指揮 新ヴェストファーレン・フィルハーモニー管弦楽団 
2001年10月―2002年1月 レックリングハウゼン祝祭劇場にて録音

ワーグナー・シンフォニーとして知られているブルックナーの交響曲第三番は、ワーグナーのオペラからの数多くの引用が含まれ、ブルックナーが崇拝していたワーグナーに献呈するのにふさわしいものでした。
 長年の間、この作品は彼の交響曲の中で最も数多く改訂されたものとして有名であり、ブルックナー自身、彼の協力者、後代の楽譜編纂者によって何度も改訂されています。
 このアルバムでは、レオポルト・ノヴァークの批判全集楽譜に基づき、1876、77年の第二稿と1888/9年の第三稿が収録されています。併録された第二楽章の別ヴァージョンは、1877年9月27日のウィーン・フィルとの非公式なリハーサルで演奏されたというもので、ブルックナー自身の指揮による第二稿の初演時には短縮されてしまったため、中間的な存在といえますが、ブルックナーによる作品推敲の痕跡を追跡するという意味からは大変に興味深い存在といえるでしょう。ブルックナー作品の楽譜の完全全集では「1876年版アダージョ」として独立して出版されています。
 なお、この交響曲の1873年オリジナル・ヴァージョン(ノヴァーク編纂)は、ティントナーの名演奏で聴くことが可能です。


ベンヤミン・グンナー・コールスによるライナー・ノート (ジョン・A・フィリップスの英訳より)


@第三交響曲作曲時のブルックナー
 「ワーグナー交響曲」の第一稿は短期間で仕上げられた。ブルックナーは、そのスコアを1873年の2月から12月にかけて作曲した。献呈用のコピー譜を用意し、ワーグナーに捧げることは1874年の夏まで延ばされた。6月24日付けのコジマ・ワーグナーの手紙では、夫の名前でブルックナーに謝意を伝え、ペスト歌劇場のカペルマイスターであったハンス・リヒターにスコアを送り、1876年には演奏することを検討中だと報告している。それとは別に、ブルックナーはウィーン・フィルハーモニーにも「第三」を送った。1874年の夏にはオットー・デッソフが読譜をした。しかし、1875年1月12日付けの手紙の中で、ブルックナーはモーリッツ・フォン・マイフェルトに対して、デッソフが演奏会を考えていると言った約束を破ったと不平をもらしている。1875年8月11日にもブルックナーは再度ウィーンフィルに働きかけ、曲の長さを考慮し、曲を二つの部分に分けて、二回のコンサートに分割して演奏することもできるように準備していると説明したが、徒労に終わり、再び拒否された。一方、ブルックナーは1868年にウィーンに移住して以来、この都市で職業的および社会的地位を確立するために粘り強く着実に努力していた。1869年5月には「オーストリア最高のオルガン奏者」と宣伝され、ナンシーとパリで成功を収めた。1868年5月9日に第一交響曲の世界初演を指揮したロンドンでは、一年後、ホ短調ミサ、ヘ短調ミサ三回、第二交響曲の初演の演奏会もあった。1868年秋にはウィーン音楽大学の和声、対位法、オルガンの教授に任命され、侍従オルガニストとして、宮廷礼拝堂のオルガン奏者のポストも得ることになった。こうしたことに加えて、彼はたくさんの学生を教育し、教育委員も引き受け、他にも仕事をした。1875年秋にはウィーン大学の音楽理論の講師に任命され、1878年には宮廷礼拝堂の正会員にまでなった。10年もしない間にブルックナーは途方もない出世を遂げたのである。

Aブルックナーの作曲技量の向上
ブルックナーは自身の作曲技法への洞察力を深めると共に、彼の作品を実演することの経験を重ねたことも当然である。いくつかの作品の初演指揮者としてかなりの経験を積んだのである。傑作「第五交響曲」を完成するより前に、それまでの4作を改訂するということも開始した。何よりも4つの作品をより理解しやすくするためであったが、同時に音楽理論上もっと「適切な」語法にするためでもあった。おそらく批評家達より投げかけられた「判りにくい」という批判に対して反応したということもあるかもしれないが、作曲経験を重ねて熟達した音楽学上の見地に基づくものの方が強かったであろう。この改訂作業ではしばしば短縮されたが、時には付加もあり、無数の細部が変更された。さらに、ブルックナーは演奏のための指示やアーティキュレーションの表記も一新した。こうしてブルックナーは声楽と器楽の扱い方を進歩させた。交響曲全曲の主題と動機の通奏低音の変化をより厳格に施すことを追求することで、発展と展開の意識を強め、過剰な部分を切り捨てた。楽器法は構造上の必要性に応じて拡大された。この目的の副産物として、ブルックナーはより鳴り響く音響に到達することになったのである。

B第三交響曲の改訂と初演
第三交響曲は何度も作り直された。結局、第一楽章は94小節短縮され、第二楽章は27小節、第四楽章は126小節削除された。スケルツォのみが8小節延長されたのである。第二楽章の改作途中の版は現存し、完全全集では「1876年版アダージョ」として独立して出版された。1877年の5月には総譜が十分進展したので、ブルックナーは再びパート譜に写し、ウィーンフィルに再度演奏を要請した。読譜後またもや拒否されたが、指揮者ヨハン・ヘルベックがオーケストラの代表者を集めて特別会議を開き、この作品を1877年12月16日に演奏することの同意を取り付けることに成功した。ところが10月28日にヘルベックが急死し、ブルックナーは自身で演奏することを求められた。1877年12月、ついに彼がこの作品を指揮したときには、同時代の批評家達は何を表現しているか理解しなった。エドゥアルト・ハンスリックはこう書いている。「ブルックナー氏の巨人の様な大交響曲を理解できないことを謹んで告白しなければなりません。詩的な意図がよく分かりませんし――おそらくベートーヴェンの第9を意識し、ワーグナーの「ワルキューレ」と肩を並べようとしたのでしょうが、ワルキューレの乗る馬の群の蹄で踏みにじられて台無しにされていますね――純音楽的な構造も明瞭ではありません」人々もまたこの作品を十分受け入れなかった。楽章が終わるごとに聴衆が席を立ち、終演後まで残っていたのは少しの人だけだったと報じられた。

C1877年の第二稿
 ブルックナーは最初落胆したが、コンサート終了後、驚いたことに出版業者テオドール・レッティヒが第三交響曲の出版を申し出た。こうして、初演終了後すぐに、ブルックナーはこの作品を印刷準備のために清書し、多数の変更を施しもした。この変更の中には、今日完全全集版に収められているスケルツォのコーダもある。これは初演時には聴くことができなかったものだ。ブルックナーはこの部分を1878年1月30日の直後に作曲したが、1879年11月に出来上がった総譜の中では採用しないことに決めた。たくさんの音楽学者や音楽愛好家だけでなく、多数の指揮者もこの第二稿を初稿よりも均整が取れて決定的なものだと見なしている。しかし、問題をはらんだカットが第二楽章にあり、本来の五部構成を崩している。このために、1876年版の長いアダージョを読みかえて採用することにしている指揮者もたくさんいる。最終楽章で初稿と比較して特記すべきものは、歌謡楽節である導入部のポルカが削除されていることと、ベートーヴェンの「第九」を想起させる先行楽章主題の回想である。初稿に迸るような力感をもたらしていた、非常に野放図なパッセージの多くは第二稿には見当たらない。とはいえ、この交響曲はより理解しやすく明快なものに変貌を遂げたのである。第一楽章冒頭のテーマが終楽章の終結部で引用されるが、これは初稿には無いものであり、意味深い締めくくりとなっている。

D1889/90年の第三稿(最終稿)
最終稿を重視する考え方と進歩があったと思われた思い込みにより、この交響曲の第三稿がコンサートのレパートリーとして定着することになった。これはフランツ・シャルクの協力で1888/9年に誕生したものである。他方、まさにシャルクが協力したために、しばしば疑念が表明されていたのである。トーマス・レーダーの「第三交響曲に関する批判報告」(1997年)では、最終稿とそれを書いた動機に関して非常に丹念に論じている。そのために、レーダーは実にたくさんの理由を呈示している。結局、1877年の初演版や手書き草稿資料でたどることのできるカットの多さゆえに批判を受けている、刊行版である第三稿は、正当性を持たせることを意図していたのである。最終稿の初めの三楽章では、1877年版からの変更はそう重要ではないが、多くのパッセージが、第三交響曲初稿の音響世界から年数の経過に沿って変化している。第一楽章(373―392小節)と最終楽章(393-―426小節)の改変箇所は、おそらく第九交響曲のスケッチから復活させたものであろう。アダージョ楽章のクライマックスでトランペットに現われるメロディーは、「テ・デウム」の「わが望みはとこしえに空しからまじ」を回想したものであり、第九交響曲の中にも登場する。他方、この終楽章にはシャルクのスタイルの影響が残存していることも疑いの余地がない。例えば、ブルックナーにとっては、トランペットとホルンを重ねたり、ティンパニを特に効果をねらって配置したりすることは例外的なことなのである。第三交響曲の最終稿では、ブルックナーは多くの経過句を簡潔なものに手直しした。前の版を振り返るとむしろ空虚に響いていたパッセージの多くが、効果的で密度の濃いものとなったのである。終楽章から結局143小節が削除されたことを悔やむ人は多いかもしれないが、そのためにかえってこの楽章は、第六、第七、第一交響曲の終楽章同様、ある種「壮行会」のような気持ちよく聴き手を送り出す気分を纏うことになった。特にコンサート会場においては、聴衆の期待を裏切ることはないだろう。


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