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「カルロス・クライバーとフー・ツォン」

2009年10月5日 (月)

連載 許光俊の言いたい放題 第168回

「カルロス・クライバーとフー・ツォン」

 ここ数日で夜更かしの癖がついてしまった。最近日本語版が出たカルロス・クライバーの伝記、『カルロス・クライバー ある天才指揮者の伝記(上) 』(クラウス・ヴェルナー著、音楽之友社)を寝る前に読んでいたら、ついつい就寝時間が遅くなってしまったのである。
 最近日本では、演奏史譚を標榜する山崎浩太郎氏や、何冊もカラヤン本を書いた中川右介氏など、物語として読ませる演奏家伝が多い印象があるけれど、この本はその逆。起伏に富んだ物語として構成しようという腹づもりはほとんどなさそうである。とにかく大勢の関係者に取材して、生の声をいっぱい載せているのである。
 クライバーが気むずかしい人間でキャンセルも多かったことは、日本でも周知の事実だが、こうしてまとめて読んでみると、われわれの想像以上だったようだ。ミュンヘンだろうが、シュトゥットガルトだろうが、バイロイトだろうが、常に彼が指揮台から下りてしまう危険があって、関係者はいつもドキドキしていたらしい。クライバーはまったく問題なく(少なくとも私たちからはそう見えたが)日本公演をこなしていたが、これなど稀な例外だったのだ。
 晩年のクライバーは演奏回数が極端に減ってしまったこともあって、才能はあるが怠惰な音楽家というイメージを免れなかった。が、本書を読めば、彼が人並み外れた完全主義者だったがゆえに、なかなか仕事ができなかったのだとわかる。クライバーもまた、練習魔の指揮者のひとりであって、オペラハウスの慣習、音楽家の常識と衝突してばかりいたのである。その一方で、彼の好ましからぬ面も隠さず記されていて、決して人格を美化しようとしてはいない。いずれにしても著者は、いい悪いという価値判断からあえて身をひき、事実や証言を記すにとどまっている。見識である。
 闊達な文章で楽しませるタイプの本ではないけれども、かつてクライバーの法外な音楽に胸打たれた経験がある人にはとても興味深く読めるだろう。そして、読んでいるうちに間違いなく、再びあの独特の音楽が聴きたくなってくるはずだ。私も、どうしようもなく懐かしくなってしまった。
 原文のせいでもあるだろうが、文意が取りにくい訳文、訳者がきちんと内容を理解しているか疑問と思われる文が散見されるなど、翻訳には不満を感じる。もちろんこれは翻訳者だけでなく、編集者の責任でもある。下巻ではもっとこなれた訳を期待したい。
 価格は、未曾有の出版不況や、紙代の高騰ということから仕方がないのかもしれないとはいえ、一般の音楽愛好家が手軽に手を出す値段にはなっていない。特に激安CDに慣れた人には割高に思えるだろう。まあ、CDが安すぎるとも言えるのだが。

 さて、秋である。コンサートの季節である。先日、名ピアニストのフー・ツォンが来日してリサイタルを開くというので、京都まで出かけた。東京まで来てくれないのだから、こちらから出向くしかない。めんどうだろうが、新幹線が高かろうが、行くか行かないか、聴くか聴かないか、それを決めるのは自分だ。聴けない、などと言うのは、ただの言い訳だ。本当に聴きたかったら、万難を排して聴かねばならない。
 主催はロマン・ロラン研究所というところ。フー・ツォンの父親は、翻訳を通じて中国にロランを紹介した人物だった。その縁で実現したコンサートだから、ピアニスト自身が英語で自分の「ジャン・クリストフ」体験などを語る微笑ましいコーナーもあった。
 プログラムはオール・ハイドン。ところどころ年齢ゆえ、またコンディションゆえのほころびがあるとは言っても、予想以上に超濃厚で緊張感あるショパン的、ベートーヴェン的な音楽が繰り広げられた。モーツァルトもビックリという陰影の濃さが魅力的だったが、何といっても白眉はアンコールで弾いたソナタ第46番第2楽章だ。すごい演奏というのは、本当にすごいものだ。そして、神秘的だ。実に単純な作品なのに、弾き出された途端に別世界が開ける。これはまさに天上に連れ去られるがごとき至純の音楽。この曲、たとえばポゴレリチもCDを作っている。そのポゴレリチの自己流をやり尽くした演奏も立派とは認めるけれど、このときフー・ツォンが弾いた音楽は、まさしく最晩年ならではの境地に達していて(今年で75歳)、もう別格。ベートーヴェンの最後のピアノ・ソナタ、あるいはグールド晩年のゴルトベルク変奏曲に通じる美しさだった。永遠に向かってムダと知りつつ手を伸ばしているような虚無感、同時に満足感。微笑みを浮かべつつ別れを告げているような音楽。これには痺れた。時よ、止まれと思った。この数分を聴くためにだけでも、京都まで出かけた甲斐はあった。こういうのを体験してしまうと、今後ずっと記憶を引きずることになるだろう。家に帰ってから、あれこれCDを引っ張り出して聴いてみたが、ブリリアントの激安セット、「ハイドン、ピアノ・ソナタ全集」に入っている演奏が悪くない。
 京都府民ホール・アルティという会場は、新しくて快適だが、音響的にはとても満足できるところではない。最初、あまりに安っぽいピアノの音色に驚いて、2メートル移動したら、今度は快適。ひどいホールほど、こうした差が大きいのだ。ピタリと反響板の前にすわらねばろくな音が聴けないのである。
 加えて、コンサートのマナーをわきまえぬ人々が何人もいたのが残念だ。何度も鈴の音をさせたり、繰り返し携帯を鳴らしたり、雑音を立てたり、あげくには終演後、いい大人が携帯で写真撮りまくり。このような場合には、隣近所の人がひとこと注意すればすむことなのである。迷惑をかける人も人だが、周囲も同罪に近い。見て見ぬふりは止めていただきたい。それとも、京都ではこれが普通の聴衆なのだろうか?
 何はともあれ、近々またフー・ツォンの演奏を聴きたいものである。名声に比して、CDが少ないのは困ったことだ。

(きょみつとし 音楽評論家、慶応大学教授) 

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