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「ついに聴いた、ドス黒い『月光』ソナタ」

2009年4月6日 (月)

連載 許光俊の言いたい放題 第161回

「ついに聴いた、ドス黒い『月光』ソナタ」

 4月3日、クン・ウー・パイクというピアニストを紀尾井ホールで初めて聴いた。圧倒された。一見地味な、ショボショボした初老の男が、こんなベートーヴェンを弾くなんて。
 パリで聴いた人からすごいピアニストだとは教えられていたが、それにしても日本では無名に近い。ちょっとばかり目立つところがあるとむやみやたらと持ち上げられる昨今である。にもかかわらず、そしてメジャーなレーベルからCDを発売しているにもかかわらず、ほとんど無視されている様子だ。そんなこともあって、さして興味は持っていなかったのだが、たまたま「ぶらあぼ」でコンサート情報を見かけたので、出かけてみたのだ。
 聴いてみてすぐにわかった、この人がまだ日本で評価や人気に恵まれていないわけが。いわゆるピアノ的美がまったくないのだ。たとえばキラキラした美しい高音、黒光りするような低音。粒の揃ったきらびやかなパッセージ、右手と左手の心地よい掛け合い、微妙な音色の混ざり合い等々。そうした私たちの感覚を喜ばせる要素が、ものの見事に欠落しているのだ。少なくとも、私がすわった一階後方ではそのように判断せざるを得なかった。
ベートーヴェンの恋人ジュリエッタ・グイチャルディ 曲目はオール・ベートーヴェン。最初のピアノ・ソナタ第30番が始まってすぐ、私は「なんだ、全然大したことないじゃないか」とがっかりし、これが終わったら帰ってもいいかなくらいに思ったのである。が、わずかの無音を置いてすぐに弾き出された「月光」を聴くに及んで、唖然とした。驚くべき遅いテンポ。これ以上はないのではないかとまで思わせる暗い情念、濃密な幻想美。その暗鬱な森は、どこまでも、どこまでも続く。「月光」を有名にしているこの第1楽章だが、実は演奏時間はあまり長くない。が、パイクの演奏だと、果てしもなく続くように思われる。こんな印象は、アファナシエフがシューベルトの最後のソナタを弾くのを初めて聴いたとき以来だ。実は私はかねてから、常識を超えた、極限までドス黒い「月光」を聴いてみたいと思っていた。もっともっと濃厚でロマンティックな演奏を聴きたいと願っていた。その願いが、思いがけず実現したのだった。
 そして、フィナーレの暗い疾走のすさまじさ。もちろん、名のあるピアニストなら、申し分ない力感で見事に弾いてのけるだろう。が、パイクの音楽は、そういうレベルではない。本当に、暗い情念の奔流であり、不気味な力が次々に押し寄せてくるのだ。  後半では、「熱情」がやはりそうした演奏だった。そのフィナーレは、作曲者のどうしようもない激情が激しく踊り狂っているように聞こえる。おそらくフルトヴェングラーのナマは、これと似た印象だったのではないか。
 こういう演奏だと、ピアノらしい美しさなど、どうでもよいように思われてくる。そんなことをピアニストは問題にしていないし、おそらくベートーヴェンもそうだったろうと思わされる。私は目をつぶって聴きながら、何度も何度もベートーヴェン自身が弾いているのではないかという錯覚に陥った。もしこの作曲家が思いのたけをピアノにぶつけたら、こういう演奏になるのではないか。
 ベートーヴェンはもし他に救いがあれば音楽などやらなかっただろう。そのあまりにも単純明快にしてもっとも基本的な事実を、パイクの演奏はハッキリと告げる。こういうのに比べれば、他のほとんどの演奏は、ただのお遊び、感覚の愉楽に過ぎまい。  ピアノのリサイタルとしては異例ながら、アンコールは一切なかった。見識である(もっとも、私としては漆黒に塗り込められた「エリーゼのために」を聴いてみたい気もするが)。
 私は、コンサートが終わるとその場で4月6日のチケットを買った。もう一度、紀尾井ホールでリサイタルがある。今度は「悲愴」や最後のソナタを弾くのだ。  そして、家に帰ってから、このサイトでベートーヴェンのソナタ全集を注文した。なんとも便利な時代で、試聴ができる。ぜひとも「月光」や「悲愴」第1楽章を聴いてみてください。そして「熱情」や「ワルトシュタイン」を。私がここに書いたことが、すぐに確認できるはずだ。
 このピアニストは、もう60歳を超えている。こんな激烈なベートーヴェンが弾ける時間はあまり長く残されていないだろう。東京に続いて大阪のいずみホールでもリサイタルが開かれる。

(きょみつとし 音楽評論家、慶応大学教授) 

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