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2006年11月20日 (月)
連載 許光俊の言いたい放題 第41回「こんなすごいモーツァルトがあった!」
途方もなくすばらしいモーツァルト演奏が登場した。CDをかけはじめてすぐ、数秒で、「ああ、これはいい!」、そう強く思わせる演奏もなかなかない。それほどまでに美しい演奏だ。アレクサンダー・シュナイダー指揮イギリス室内管弦楽団、ピアノ独奏はルドルフ・ゼルキン。ピアノ協奏曲第12番をやっている。
夢見心地とはこういう音楽にふさわしい言葉である。往年のウィーン・フィルのような柔らかい弦楽器が何と言ってもいい。こんなに気品がある演奏は、しばし耳にしたことがない。あでやかな音量の漸増といい、艶やかな響きの溶け合いといい、同じ音型の繰り返しの官能的なことといい、固すぎもせず軟弱でもない絶妙のリズムのとり方といい、あまりに美しすぎる序奏は何度でも聴きたくなる。それでいて、明るい一方ではなく、微妙な陰りを感じさせる。まさに昔のモーツァルト演奏なのだが、このオーケストラがあまりにきれいなので、ゼルキンの大まじめなピアノの影が薄くなるほどだ。何せ、ピアノを支えるオーケストラが霞のようなたまらないピアニシモを聴かせたり、壊れそうなくらい繊細な表情を出したりするから。イギリスの楽団も、かつてはこういう演奏ができたのだ。
第2楽章の響きもとてつもなく深い。けだるそうな駘蕩たる趣には無限の憂愁がこもる。ふくよかな美女の肉体のような、崩れ落ちそうなはかなさ。細い指先でなでるような音の愛撫。それでいて雄大なバス声部の生命感。身体にしみ入るような甘美。ピアノが示す沈黙の美しさ。絶品、いや、超絶品だ。
第3楽章もまるで軽薄でなく、むしろ不思議な悲しさ、寂しさをにじませつつ進行する。短調の部分が強調されてなどいない。逆に、あっさりと処理される。それなのに全体として不思議な愁いがあるのだ。これこそ、モーツァルトならではの超絶的な音楽であり、これを聴かないで、これを味わえないで何がクラシック愛好家だ、そこまで私は言いたい。
余談だが、実は、私はこれにそっくりなオーケストラの響きを最近聴いたことがある。井上喜惟指揮ジャパン・シンフォニアのベートーヴェン、ヴァイオリン協奏曲だ。これが日本の楽団かと、とうてい耳が信じられぬ天上の響きに驚かされたが、なんと柔らかさといい繊細さといい瓜二つなのである。
ピアノ協奏曲第20番は、むろん悪くはなく、ところどころに耳をそばだてる箇所が点在するが、第12番のように最初から最後まで異常な美しさが続くというほどではない。あの繊細にして神経質でなく、細心にして自由自在に聞こえる演奏に比べれば、鈍感かつ凡庸の印象は免れない。第20番がひどいのではなく、それほどまでに第12番がよかったということだ(第20番では、ストレートに押し切る第3楽章が一番よい)。ただし、オーケストラは生彩を欠くのと反対に、ピアニストのほうはこちらのほうが力が入っている。
おもしろいことに「6つのドイツ舞曲」になると、オーケストラが別人のように突然張り切りだす(プログラムの順番として、これが最後に奏されたとは考えにくいのだが、収録順からするとそうなる)。切れのいい、溌剌とした踊りの音楽となっていて、曲想の描き分けも鮮やかだ。これはどういうわけか、ウィーン風のしっとり感より、イギリス風のさっぱり感、きっぱり感が強い。微妙なユーモアというより、明るい哄笑のような音楽で、終曲のあとでお客が笑い声をあげるのも無理はない。
ソロのリサイタルからだろう、別の日に収録された「前奏曲とフーガ ハ短調」は、特にフーガの部分が瞑想的で落ち着いていて、とても美しい。ゼルキンの長所がよく発揮されている。
(きょみつとし 音楽評論家、慶応大学助教授)
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