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ベルリン・フィル・ラウンジ特別号 「ベルリン・フィルと小澤征爾」発売! ベルリン・フィル・ラウンジへ戻る

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2024年11月26日 (火)



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ベルリン・フィル&HMV&BOOKS online提携ページ『ベルリン・フィル・ラウンジ』
 「ベルリン・フィルと小澤征爾」がリリース


  ベルリン・フィル・レコーディングスより、新タイトル「ベルリン・フィルと小澤征爾」がリリースされました。今年2月に逝去した小澤征爾は、1966年の定期演奏会デビュー以来、ベルリン・フィルと半世紀に及ぶ密接なパートナーシップを築きました。今回リリースされるのは、CD6枚とBlu-rayから成るボックスセット。1980年代を中心とする、両者の共同作業のとりわけ濃密で実り多い時期における放送録音を厳選して収録したもので、CDの音源はすべて初出というたいへん注目すべき内容となっています。
  ベルリン・フィル楽団員代表のエヴァ=マリア・トマジとシュテファン・ドールは、「小澤征爾さんはあらゆる面で私たちにインスピレーションを与えてくれる芸術家でした。私たちのパートナーシップの精神が、これらの録音を通じて伝わることを願っています。音楽への献身と人間的な交流という理想を共有した精神が」と語ります。まさにベルリン・フィルから捧げられる小澤へのオマージュと呼べるセットに仕上がりました。



  ハードカバー装丁のブックレットには、多数の未発表写真に加えて、小澤の長女の小澤征良、作家の村上春樹の両氏によるエッセイを掲載。さらにCDとBlu-rayに収録されたハイレゾ音源をダウンロードできるコード、デジタル・コンサートホールの7日無料視聴チケットが含まれています。

商品ページ
 ベルリン・フィルの野外公演「ヴァルトビューネ」が河口湖に海外初登場



  2025年7月、ベルリン・フィルがグスターボ・ドゥダメルと共に日本公演を行います。毎年シーズン最後に行われるヴァルトビューネ野外コンサートはベルリンの夏の風物詩として広く知られていますが、ドイツ国外では世界初となる野外コンサート「ヴァルトビューネ河口湖2025」が開催されることになりました。
  舞台となるのは、富士山を背景に可動式屋根と優れた音響を有する野外劇場「河口湖ステラシアター」。ヴァルトビューネの常連、ドゥダメル指揮による南米をテーマにしたエキサイティングなプログラムの公演は、ベルリン・フィルの来日公演に新たな歴史を刻むことになるでしょう。この他、大阪と名古屋でもコンサートが行われる予定です(こちらヴァルトビューネ公演ではなく通常の公演となります)。

写真:日本公演の会場となる河口湖ステラシアター(野外音楽堂・可動式屋根付)
c 河口湖ステラシアター



写真:ベルリンのヴァルトビューネ・コンサートの様子
c Stephan Rabold



ベルリン・フィルの来日公演情報(外部サイトが開きます)
ベルリン・フィル/ヴァルトビューネ・ボックス(ブルーレイ20枚組)
 小澤征爾 関連情報


父親譲りの度胸と人を惹きつける話術の巧みさに加え、運動神経の良さ、勘の良さを備えた小澤征爾少年は、齋藤秀雄のスパルタ指導と、ストイックな努力によって高度な実力を獲得。戦後14年という困難な時期に単独渡欧して大きな成功を収めています。以下、簡単に流れをまとめておきます。
満州
期間:1920〜1936(小澤開作 約16年間、小澤征爾 約1年間)


1920 小澤開作[1898-1970]、租借地である関東州(満洲)の大連に神戸から日満連絡船で渡航。シベリア鉄道経由でドイツに行き歯科医の勉強を続けるためでしたが、重い中耳炎で入院して旅費が無くなり、大連の日下歯科医院に就職。満鉄勤務の大津隆が英語を指導。

1923 小澤開作、長春(のちの新京)で小澤歯科医院を開業。

1927 小澤開作と若松さくら[1907-2002]、遠距離見合を経て奉天で結婚。さくらは大連で英語を習った満鉄の大津隆の姪。


1928 小澤開作、満鉄(南満洲鉄道)の山口重次[1892-1979]らが「満洲青年連盟」を結成。民族協和を目指して活動。
1931 奉天郊外の柳条湖事件により満洲事変勃発。小澤開作は、嘱託を経て関東軍政治参謀となり、交通委員会の警務担当委員に就任。小澤家は奉天に転居。

1932 満洲国建国。7月、奉天忠霊塔前で「満洲国協和会」結成。メンバーは満洲青年連盟の山口重次、小澤開作、于静遠(奉天自治指導部顧問兼自治訓練処処長)、阮振鐸(長春・吉林・吉敦鉄路医院院長)らで、関東軍参謀の石原莞爾と板垣征四郎が設立準備金2万円を拠出。その後、活動資金として年120万円を日本政府が用意。関東軍と満鉄を中心に日本からの資本により設立された満洲中央銀行発足直後の結成(当時の1円の価値は現在の3千倍から4千倍ほど)。下の画像は奉天忠霊塔に隣接した千代田公園。


1934 奉天‐北平(約700km)の直通列車運行再開。満洲事変以来3年間、中華民国側が満州国の承認に繋がりかねないとして拒否していたものの利用者便益に配慮して東方旅行社を新たに設置することで対応。下の画像は満鉄の奉天駅。


1934 小澤家、奉天駅前の八幡町に移り、その後、同じく駅前の平安通りに土地を購入して家を新築。近くには満洲医科大学や千代田公園がありました。下の画像は平安広場から見た青葉町、春日町方面の様子。


1935 奉天の満洲医科大学付属病院で小澤征爾誕生。征爾という名は、父と親しかった関東軍参謀の2人、板垣征四郎[1885-1948]の「征」と、石原莞爾[1889-1949]の「爾」に由来。満洲国には国籍法が無かったので日本国籍。


北平
期間:1936〜1941(約5年間)


1936 満洲国奉天から、中華民国の北平市新開路に転居。住居は四号院と呼ばれる中庭付きの伝統建築。16部屋もあるため集会も可能で「小澤公館」とも。北平市は、現在の北京市城六区に相当する部分の1928年から1949年にかけての呼称。

1937 12月14日に中華民国臨時政府が成立。その10日後、中華民国臨時政府が出資して父たちが創立委員となり、「新民会(中華民国新民会)」が創設。父は総務部長に就任し、歯科医院は閉鎖。筆名は小澤開策。

1938 父が日系職員の養成機関「新民塾」を開設し塾長に就任。山中湖畔に別荘を建て、ゴルフ場の会員権も取得。「新民会」予算は252万円で、翌1939年には600万円と巨額化。

1940 「新民会」が、日本軍の「宣撫班」と統合されることになり、父は数名の委員とともに辞任。日本語言論誌「華北評論」を編集し創刊号を発行。

1940 クリスマスに母が大通りの王府井でアコーディオンを購入。長兄の克己がすぐに上達し、家族の讃美歌合唱を伴奏。

1941 母、克己[1928-1984]、俊夫[1930- ]、征爾[1935-2024]、幹雄[1937- ]の5名が満洲の大連から日満連絡船で日本に渡航。


立川
期間:1941〜1947(約6年間)


1941 日満連絡船で神戸に到着後、列車で東京に移動(直通で約9時間)。住居は東京府の立川市柴崎町3丁目。小澤征爾は若草幼稚園に入園。

1942 立川市柴崎国民学校に入学。

1946 野球部でピッチャーを務め、東京都大会にも出場していた小澤征爾は、5年生のときに青木キヨ教諭により講堂のピアノを体験。これに刺激され、長兄の克己が在学中の学校で音楽室のピアノを用いて小澤征爾にバイエルのレッスンを開始。さらに横浜の親戚からピアノを購入し、兄たちがリヤカーで立川まで運んで小澤家にピアノが登場。学芸会では「エリーゼのために」を演奏。


金田小学校
期間:1947〜1948 (約1年間)


1947 金田小学校に4月に転入(6年生)。父が友人と白百合ミシン会社を小田原に設立したため、小田原に近く、農業で自活もできる神奈川県足柄上郡金田村金手(現・神奈川県足柄上郡大井町金手)に転居。最寄り駅は新松田駅で、徒歩15分ほど。在学中、兄2人が参加していた小田原の混声合唱団「シグナム」の指揮者、石黒先生の夫人からピアノの指導を受けています。


成城学園中学校
期間:1948〜1951 (約3年間)


1948 成城学園中学校 入学。新松田駅からの距離は約60kmですが、急行が1944年から中止されていたため、徒歩など込みの通学時間は片道2時間強(当時の運行表によれば乗車時間は約1時間40分)。急行は翌1949年10月、2年生の秋に再開されたため、成城学園前には当時は急行は停まらないものの乗車時間は約1時間10分になり、通学時間は約30分短縮。


1950 ラグビーの対抗試合で両手の人差し指を骨折、顔面も蹴られて全治6か月の重傷。

1950 同学年の男子と中学1年の女子生徒たちで賛美歌を歌う合唱グループを作って指揮も担当。兄の俊夫、弟の幹雄も参加。現在もアマチュア合唱団「城の?(しろのね)」の名で活動。成城のアマチュア合唱団「コーロ・カステロ」(1946年創設)に参加。


豊増昇
期間:1948-1950 (約2年間)


1948 成城学園中学校に入学すると、ピアニストの豊増昇[1912-1975]から自宅(世田谷区奥沢)で指導を受けられることになります。これは豊増昇の兄が「中華民国新民会」で小澤開作と一緒だった縁で実現したもので、弟子には舘野泉[1936- ]もいました。舘野泉は小学校5年から高校2年まで指導を受けていたので、小澤征爾とは2年間一緒だったことになります。小澤征爾はバッハばかり弾かされていたとか。

1950 ラグビーで負傷し、ピアニストになることが難しくなった小澤征爾に対し、指揮者になる道もあるとアドバイス。


齋藤秀雄
期間:1950-1952 に師事(約2年間)


1950 ラグビーで負傷し、指揮者になると決めた小澤征爾は、齋藤秀雄[1902-1974]の自宅(千代田区麹町)を1人で訪れ、弟子入りを交渉。齋藤秀雄は、東京都北多摩郡神代村(現・調布市)の桐朋女子高等学校に共学で創設を予定している音楽科に入るよう勧め、それまでは市ヶ谷の東京家政学院内にある「子供のための音楽教室」でソルフェージュなどの基礎を勉強しておくようにアドバイス。

1951 月に2度ほど指導を受けるようになり、また、齋藤秀雄の指示により、山本直純[1932-2002]が小澤征爾の家を週1回訪問し、1年間に渡って指揮を指導しています。


成城学園高等学校
期間:1951-1952(約1年間)


1951 成城学園高等学校に入学しますが、これは桐朋女子高等学校への音楽科併設がまだだったからで、翌年には退学する予定でした。指揮者になると決めた小澤征爾にとっては、齋藤秀雄、山本直純からの指導と、「子供のための音楽教室」での柴田南雄からの作曲、小林福子からの聴音の指導が重要でした。


桐朋女子高等学校音楽科
期間:1952-1955 (約3年間)


1952 新設され4月に開校した男女共学校。初年度入学者は女子42名、男子4名。場所は東京都北多摩郡神代村(じんだいむら。現・調布市)。最寄り駅は京王帝都電鉄の仙川駅。入学当時は小澤家は経堂に住んでおり、直線距離では5km弱でしたが、ほどなく笹塚に転居したため電車通学となっています。また、成城学園までは直線距離で約2kmなので、放課後に合唱の練習に行く際には歩いて通っていました。


桐朋学園短期大学
1955-1957 (約2年間)


1955 新設され4月に入学。翌月にシンフォニー・オブ・ジ・エアの面々が桐朋に見学に来たり小澤征爾がリハーサルを見に行ったりというイベントがあり、海外志向が強まります。同年、父が歯科医院を開業したため、川崎からの通学となり、約10分だった乗車時間が約1時間に拡大。1957年には桐朋学で指揮と作曲で一等賞を獲得し、雑誌音楽の友でも傑出した才能と紹介。しかし3月に卒業式に出席した際には、自分1人だけ単位不足で留年していたことが判明。そのことについて何の連絡も受けていなかったため絶望し、やがて卒業は諦めることにします。


渡航


1959 大学を辞めたあとは、齋藤秀雄の弟子のようなことや、アマチュア合唱団の指揮をしてなんとか生活。しかし1957年12月に日本フィルの「子供と魔法」公演で渡邉暁雄のアシスタントをしたことや、1958年の桐朋学園オーケストラのブリュッセル万博行きが資金不足で頓挫したことも影響しているのか、なんとしてもヨーロッパに行きたくなった小澤征爾は、1958年にフランス政府給費留学生試験を受験するものの不合格。それでも諦めきれなかったため、人脈を頼って渡航資金を調達し、先のことはあまり考えずにとにかく渡欧することにします。滞在資金の大半と渡航手段は、のちに結婚する江戸京子の父が手配。


現地での移動手段としてスクーターも無償で確保。これは父の亡き知人で富士重工の重役だった松尾清秀の未亡人を頼って実現。企業側からは、「日本国籍を明示」、「音楽家であることを示す」、「事故をおこさない」という3つの条件を提示されたため、日章旗を携行し、音楽家であることをわかりやすく示すために兄が買ってきたギターを背負い、安全運転のために白いヘルメットをかぶることで対応。


2月1日に神戸から淡路山丸でマルセイユに向けて出発。船室は船長室のとなりの部屋があてがわれ、食事も充実。約50名の船員とはすぐに仲良くなり、器用な船員がギターケースをつくってくれたり、スクーターに日の丸を描いてくれたり、皆で合唱したりと楽しい船旅でした。途中、ボンベイでは船長の奢りでヴェーグ四重奏団のコンサートを聴いたりもしています。3月23日にはマルセイユ到着。スクーターを走らせ安宿に泊まりながらパリに向かい4月8日、パリに到着。 住居はパリ14区、「国際大学都市」のフランコ・ブリタニク館(通称イギリス館)。


ブザンソン国際指揮者コンクール


1959 9月7日の第1次予選には各国から48名が参加。小澤征爾はメンデルスゾーンのルイ・ブラス序曲で大胆にリハーサルして聴衆と楽員の両方から歓声を得て無事通過。
9月9日の第2次予選の参加者は17人まで絞り込まれ、サン=サーンス:序奏とロンド・カプリチョーゾで伴奏能力のテストと、フォーレのドリー組曲の第4曲で12か所仕込まれたパート譜の間違った音を5分で見つけ出して完全な状態にするというテスト。鋭敏な耳の持ち主である小澤征爾はこれも難なく合格。
9月10日の本選には6人が出場し、「牧神の午後への前奏曲」と「春の声」、そしてウジェーヌ・ビゴーの新作を初見で演奏するという課題。初見に強く指揮テクニックも高度な小澤征爾は巧みに指揮をし、メインのビゴーの作品では作曲者も感激するほどの出来映えを示して見事に優勝。オケも聴衆も大騒ぎです。


バークシャー音楽センター


1960 期間中におこなわれた指揮講習の実技で、成績優秀と判断された参加者に渡されるクーセヴィツキー賞の奨学金500ドルを獲得。他の参加者と共通の180ドルの奨学金を合わせると680ドル(約120万円相当)になるため、小澤征爾は99ドルで中古車を購入しています。なお、この指揮講習について、よくコンクールと言われていますが、コンクールは開かれていないので間違いです。


ヘルベルト・フォン・カラヤン国際指揮者実習


1960 10月、ベルリンの市立音楽院(旧・シュテルン音楽院、現・ベルリン芸術大学)で開催される「ヘルベルト・フォン・カラヤン国際指揮者実習」の実習生を選ぶための選考会に参加。50人ほどの中から、小澤征爾、ウルリヒ・エックハルト[1934- ]など4人が選ばれてカラヤンの指導を受けています。ちなみにこの「ヘルベルト・フォン・カラヤン国際指揮者実習」について、よく「カラヤン・コンクール」第1位と紹介されていますが間違いです(カラヤン財団主催の指揮者コンクールは1969年開始)。



 小澤征爾と数多く共演した団体(最初に指揮した年の順)

ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
名誉団員:2016〜2024(約8年間)


1961 最初は2月20日におこなわれた日独修好100周年記念演奏会で、石井眞木:小オーケストラのための七章(1960、世界初演)、入野義朗:小オーケストラのためのシンフォニエッタ(1953)、モーツァルト:交響曲第28番(1773)を演奏。フルサイズの公式演奏会を初めて指揮したのは1966年。最後は2016年。その際、「名誉団員」の称号を拝受。通算175回指揮。
ニューヨーク・フィルハーモニック
副指揮者:1961〜1962(約1年間)


1961 4月13日にバーンスタインの演奏会に特別出演して黛敏郎の饗宴(バッカナール)を指揮。単独では1963年4月のスタジアム・コンサートが最初で、幻想交響曲、キャンディード序曲と、アンドレ・ワッツとのサン=サーンス:ピアノ協奏曲第2番を指揮。最後は1971年。通算124回指揮。

サンフランシスコ交響楽団
音楽監督:1970〜1976(約6年間)、音楽顧問:1976〜1977(約1年間)


1962 1月10日の演奏会が最初で単独出演では北米初でした。その後の客演を通じて1970年12月には音楽監督に就任。ヨーロッパ・ツアーやソ連ツアーも成功させ、1973年には合唱団まで創設。しかし当時のアメリカの東高西低といわれる状況から楽員の入れ替えをおこなおうとした小澤征爾に対し、サンフランシスコ響では楽員委員会が強大な権限を持っていたことからトラブルも起きるようになり、当初、約4,300km離れたボストン響と並行して活動するはずだった計画を変更。1976年には音楽顧問として年間滞在期間を9週間に減らし、翌年には退任。最後の客演は2001年。
シカゴ交響楽団(ラヴィニア音楽祭)
音楽監督:1964〜1968(約4年間)、首席指揮者:1969(約1年間)


1963 7月、急病のプレートルの代わりにシカゴ響の夏の音楽祭「ラヴィニア音楽祭」で2公演指揮して成功を収め、2か月後には翌1964年の同音楽祭音楽監督に任命。1970年以降は、ラヴィニア音楽祭中心に、オーケストラ・ホールも含めてシカゴ交響楽団に複数回客演。最後は1985年。通算約80回指揮。

トロント交響楽団
音楽監督:1965〜1969(約4年間)


1964 客演で成功して翌年に音楽監督に就任。小澤征爾の就任に伴い定期会員数も大幅に増加。翌年にはトロント市議会が助成金を37,500ドルから43,500ドルに引き上げ、CBC(カナダ放送協会)も放送料金を5,500ドル値上げするなど小澤征爾の経済効果は明白でした。退任時に名誉音楽監督に任命。最後は1996年。通算約230回指揮。
ボストン交響楽団
音楽顧問:1972〜1973(約1年間)、音楽監督:1973〜2002(約29年間)


1964 最初はタングルウッドで、シンフォニー・ホールでの最初の指揮は1968年。客演を繰り返して実績を積み、スタインバーグの後任として1972年にまず音楽顧問となり(サンフランシスコ響音楽監督、新日本フィル首席指揮者と兼務)、翌1973年に音楽監督に就任。以後、29年間に渡って在任。最後は2004年。通算約2,000回指揮。

ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団


1966 最初はザルツブルク音楽祭。シューベルトの交響曲第5番とブラームスの交響曲第2番に、シューマンのピアノ協奏曲(ブレンデル)。最後は2016年。通算約160回指揮。

新日本フィルハーモニー交響楽団
首席指揮者:1972〜1991(約19年間)、名誉芸術監督:1991〜1999(約8年間)、桂冠名誉指揮者:1999〜2024(約25年間)


1972 最初は9月15日の結成演奏会。ローマの謝肉祭、マ・メール・ロワ、英雄。最後は2016年。通算624回指揮。

サイトウ・キネン・オーケストラ
総監督:1992〜2024(約32年間)


1987 最後は2021年。通算218回指揮。母体となった「桐朋学園齋藤秀雄メモリアル・オーケストラ」は1984年に小澤征爾と秋山和慶を中心に結成。

ウィーン国立歌劇場
音楽監督:2002〜2010(約8年間)


1988 得意のエフゲニー・オネーギンでデビューして成功。小澤征爾は1967年と1968年にザルツブルク音楽祭でカラヤン&ウィーン・フィルのドン・ジョヴァンニでアシスタントを務めてオペラを学び、また、その際にフレーニからチャイコフスキーのオペラを勧められてもいます。翌1969年7月にザルツブルク音楽祭でウィーン・フィルとコジ・ファン・トゥッテを上演する機会が得られたため、5月に日本フィルと演奏会形式で同曲を演奏し、さらにラヴィニア音楽祭の音楽監督を辞退し首席指揮者として指揮回数を減らすなどして取り組んで成功。1974年にはエフゲニー・オネーギンでロイヤル・オペラにデビューし、1979年には子供と魔法でパリ・オペラ座にもデビュー。1980年にはボストン響と半舞台形式でトスカを上演し、続いてトスカでスカラ座デビューするものの、初日はパヴァロッティの不調もありブーイング。その後は調子が戻って事なきを得ています。以後はオペラの指揮機会が増え、2002年にはウィーン国立歌劇場総監督のイオアン・ホレンダーによって音楽監督に任命。2010年に健康問題により辞任。最後は2009年。通算175回指揮。

水戸室内管弦楽団
音楽顧問:1990〜2013(約23年間)、音楽総監督:2013〜2024(約11年間)


1990 水戸芸術館の専属オーケストラ。最後は2017年。通算88回指揮。


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