伝説となる来日公演に遭遇した

2021年06月07日 (月) 18:00 - HMV&BOOKS online - クラシック

連載 許光俊の言いたい放題 第290回


 伝説のコンサートやオペラ上演というものが存在する。その場で聴いた人の記憶に一生残って消えない。何かの折にふと思い出される。人から人へと、すごかったという話が伝わる。
 もし運がよければ、また、熱心に会場に足を運べばそうした公演に遭遇できるかもしれない。だが、よりによって今、コロナ下の東京、神奈川でそんなものにお目にかかれようとは。まったくわからないものである。
 先ごろ、東京・春・音楽祭でムーティが指揮するヴェルディ「マクベス」、モーツァルトの交響曲第35番と41番のコンサートを聴いて、そのあまりのすばらしさ、信じられないような美しさに呆然とさせられた。客の数は決して多くはない。それどころか、ミューザ川崎でのモーツァルトを聴きに来た人はきわめて少なかった。だが、あれを聴けた人は、本当に幸運だった。一晩にたった2つの交響曲だけ? 正味1時間を切るのでは? そのわりにチケットが高くない?  しょせん寄せ集めの楽団でしょ? そういう判断も当然あっただろう。というより、詳しくて、ものがわかっている人ほどそのような判断をしたのかもしれない。だが、そのような判断をした人ほど、貴重な経験を取り逃してしまったのだ。まことに難しいものである。
 ムーティが指揮したのは、この音楽祭のオーケストラ。臨時編成の日本の楽団である。それがまさかここまですごい演奏をしようとは、いったい誰が想像できたろう。「マクベス」はまさにイタリアのオペラの楽団のように、軽やかで、溌剌としていて、でも決め所の音は重く強く濃い。抑揚が日本語なまりではない。音色に中間色があって、しかも変化する。金管楽器の響きに説得力があって、一発で勝負が決まる。イタリアに行ってもどこでもこんな音楽が聴けるわけではまったくない。それどころか、今までスカラのオーケストラ以外からは聴いたことがないと言っても過言ではない。こうやって演奏されると、ヴェルディの一見単調な音楽は、実に多彩で変化に富み、これ以上何が必要かと思えてくるほどだ。これこそがイタリア・オペラの真髄であり、適切に演奏されたとき、ヴェルディに限らずドニゼッティ、ベッリーニの作品においても起きることなのである。イタリアでない楽団にこんな演奏をさせることができた指揮者は、ここしばらくの間、故ネロ・サンティ以外にはいなかったはずだ。
 若いムーティが指揮した「マクベス」の録音は、この作品の代表的な録音とされてきた。だが、聴きなおしてみると、これはこれでハイレベルで、キレキレだった時代のムーティの代表盤なのだが、現在とのあまりの違いに驚く。かつてのムーティには、若さを前面に押し出したスピード感があった。リズムをはしょり、たたみかけ、緊張感を高めた。ちょっとせっかちなくらい。それはそれで、見事な統率力だったのだが、作品がすべてこのムーティ色一色になってしまい、単調になってしまったことも否めない。改めて聴いて、録音の「マクベス」は、ヴェルディの音楽というより(かつての)ムーティの音楽だと思った。
 つまり、ムーティとは、ムーティ節とも呼べる独特の音楽をやる指揮者だったのである。ところが、数年前、ウィーン・フィルを指揮したブルックナーの交響曲第7番をたまたまベルリンで聴く機会があって、あまりの豹変ぶりに唖然とし、自然体の美しさを満喫した。全然強引なところがなかった。また、もうひとつ驚いたのは、彼の指揮姿の美しさだった。かつての両手をぶんぶん振り回す指揮とは別のエレガントで無駄のない指揮だったのだ。それがあったから、今回の来日公演が実現されたのも嬉しく思っていたのである。
 今回、ムーティが日本で見せた指揮は、驚くほど細かく、求めている音楽がダイレクトに目からも聞こえてくるような、それはそれは見事な指揮だった。やればできるんだ、というか、こんなことができるすごい実力者なんだとひたすら感心した。その指揮に、オーケストラが喜々として反応し、ついていく。これこそが至福の時間である。おそらく、人生の最後が見えてきた彼は、何事かを遺したいのだろう。そうでなければ、最上等の楽団からいくらでも仕事がある彼が、あえてそうではないところに振りに行き、教育的な仕事を増やしているはずがない。まさかムーティから、もう消えてしまったようなイタリア・オペラの本道のあり方を教えてもらえるとは。もうイタリア・オペラの世界で、イタリアの指揮者で、彼の上に立つ者はいない。そうなったとき、ある種の責任感が強まったのかもしれない。

 他方、モーツァルトは、余韻と言おうか、漂う気配の美しさ、儚さ、優雅さに恍惚となった。まるで晩年のベームが指揮したウィーン・フィルのようだ。ひとつの音、ひとつの休符に深い意味がある。
 ムーティはこんなにも美の奥義に通じた人だったのか。こんなにも高貴で気品ある音楽を奏でる人だったのか。これまで、時々は感心していた音楽家ではあったが、その実力に完全に叩きのめされた。もっと前からこれを聴かせてくれればよかったのに、と半分は恨みつつ。私がフィラデルフィアやパリやミラノで聴いたムーティとは別人じゃないか。
 モーツァルトの35でも41でも、ゆっくりした楽章は、まさに永遠の音楽のようだった。メヌエット楽章は極限まで優雅。基本的に、編成は小さくない。なのに大きな音を出さない。そのことの何という効果。まるでシューベルト、それも最後の交響曲のような抒情美にもため息が出た。ふっと調性がゆらぐときの空気の代わり方。これ、ウィーン・フィルじゃないんですよ。35番のあちこちに見えるユーモアの表情。こんな「ハフナー」は初めて聴いた。まさに大家の余裕。大人の微笑。41のフィナーレ、あそこは晩年のアーノンクールもすごかった。力ずくで天に駆け上がろうという凄まじい意志の力があった。だが、ムーティはその逆だ。いっさいの力みがない。天上は目指さなくてもよい。なぜなら、天上は今ここにあるから。そういう圧倒的に自然体の美しさ。
 ムーティがこんなにも細かく、こういう音を出せと指示し続けたコンサートやオペラは見たことがない。そして、実際にオーケストラからはそういう音が出たのだ。さらに、「マクベス」の合唱も、普段の日本の貧相なオペラのコーラスとは大違いの歌を歌ったのだ。
 私だけの感想ではない。たまたまいっとき興奮したか乱心したかの感動ではない。会場にいた友人知人が、みな馬鹿のような顔になっていた。深く感動したとき、人間は馬鹿の顔になるのである。
 どうせコロナで不安定になった世界である。こうなったら、東京・秋・音楽祭も創設してほしい。そして再びムーティを呼んでほしい。いつになったら海外旅行ができるようになるのか、皆目わからないけれど、今後最優先で聴くべき音楽家のひとりはムーティである。見た感じはびっくりするほど若々しい。だが、音楽は見事にきれいに枯れている。今、これを聴かないでどうする。
 モーツァルトの35,41は、比較的最近のCDがある。決して超一流のオーケストラではないし、最高の音質とも言えないが、特に「ハフナー」のほうはあちこちで日本での演奏を思い出させるところがある。思いのほかのやわらかな表情、しみじみした情感、耽美性など、かつてのムーティにはなかった。ちょっとしたテンポの緩め方もだ。ふっとあの世に吸い込まれていくような甘美な消滅の誘惑。。
 41番では第1楽章冒頭の主題、この中にはすでに2つの対照的な要素があることはアーノンクールが言っており、演奏に際してはわざとらしいまでに露骨に強調していた。一見アーノンクールとは水と油のムーティだが、ここは同じ考えのようだ。ただし、ムーティの場合はもっとスマートに表現するのだ。
 それにしても・・・かつて明快で徹底的なムーティ節を持っていた人が、それを捨てた。あるいは失った。そのときどれほどの豊かな美の世界が開けたか。私は目も眩む思いがする。もっと言えば、過剰な自意識を捨てたときに、本当の美の世界が開ける。そのことに感動を覚える。
 ムーティは研究する価値があるな。すでに持っているCDも多くてダブるけれど、今度発売される巨大セットを予約した。それ以外のCDもあれこれ買い込んだ。おもしろいもので、「わかった」あとで聴くと、これまで何とも思わなかったものの価値、聴き逃していた部分に改めて気づいたりする。それはチェリビダッケでもヴァントでも経験したことだ。今の私にとっては、ムーティの過去の録音を聴くのは、そういう過去に向かっての宝探しのようなおもしろさがある。スカラを振ったイタリアの作曲家のセット、これもいいですよ。


 さて、こんなふうにまったく思いがけずとんでもない演奏に遭遇することだってないわけではないにせよ、いわゆる伝説の来日公演は、実は前もってある程度わかっていることが多い。大家の貴重な来日公演、半世紀も前のオペラの大規模公演など、公演日のはるか前から大きな話題となり、特にかつてなら主催、共催の新聞社やテレビが盛り上げた。
 そうしたものの典型的な例としてまっさきに名が挙がるもののひとつが、1967年に大阪で行われたバイロイト音楽祭のそれ、とりわけ「トリスタンとイゾルデ」であろう。私がワーグナーを本格的に聴きはじめた1980年代初頭から、すでに伝説になっていた。テノールのヴィントガッセン、演出のヴィーラント・ワーグナーがすでにこの世になかったことも理由に違いない。
 いったいそれがどんなものであったか。実は私はある筋から、その公演のビデオをもらったことがある。が、画像劣悪で白黒、音質もお話しにならず、見ないほうがよいくらいのものだった。それだけに、今回のCD発売にもまったく期待していなかったのだが・・・。
 いや、すばらしいですよ。最初の前奏曲は、日本のオーケストラの悪い癖、いつもの癖が出て、重みもこくもないのに音楽が停滞してしまっているが、ニルソンが出てくると徐々に温度が上がってくる。この日のニルソンは最高の状態ではなかったようだが、そのあとで登場してくるヴィントガッセンがすごい。そして、この幕の最後は、合奏の細かな精度などまったく問題にしない、燃え盛る炎のうちに閉じられるのである。これでこそ劇場だ。技術的なエラーより大事なことがあるのである。ちなみに、ブーレーズは時々このように異常な領域に達してしまうことがあったようで、本場のほうのバイロイトでは「リング」を指揮した初年、つまり1976年がやはりそうだった。
 いっそう驚くのは第2幕である。これまた最初はオーケストラがしょぼいのだが、やがてとんでもなく甘美になってくる。日本の楽団がこんな音を出したのは聴いたことがない。ブーレーズのテンポは速めで、ドイツ的な感覚からすればここはふんばるというところをすいすいといくので、ドビュッシーの「海」みたいにも聞こえるのがおもしろい。が、それはそれとして、とにかく熱い。
 第3幕はヴィントガッセンの独壇場。このとき彼は50歳以上。彼の声が比較的長く保たれたのは、全力を出して歌うのはバイロイト音楽祭の初日だけだからだと聞いたことがある。だが、この日大阪での「トリスタン」は全力だろう。ワーグナーが書こうとしたのはオペラではなく、音楽を表現手段のひとつとしたドラマだった。その事実を突きつける。歌手についていくオーケストラも自爆覚悟の突撃みたい。想像するに、ブーレーズもよかったが、歌手の卓越した力量があってこそ、オーケストラも通常ならば絶対に到達できない高みに上れたのではないか。
 ブーレーズは「トリスタン」の楽譜を全然勉強していなかったとか、そういう裏話があるようだが、結果として、これはずば抜けた指揮者でなければできない音楽である。どうにも否定しようがない。響きには透明感があり、それでも情熱にも感情にも欠けていない。細部の表現も念がいっていて、まったく無表情に過ぎてしまったりはしない。これ、いまだに日本のオーケストラはオペラでしばしばやらかすからね。要所要所で金管楽器が生きていることにも驚かされる。トリスタンが死んだあとのイゾルデを支えるオーケストラは慟哭のようだ。湧き上がってくる甘美な思い出。ブーレーズ、こういうときも、いつもみたいに淡々と指揮していたのでしょうか、まさか。楽譜を知らなかったなんて信じがたい。それとも天才は数日でこの作品をものにしたのだろうか。
 音質についてはまったく期待していなかったけれど、きわめて明晰。贅沢を言えばきりがないが、これなら文句は何も言わないですむ。

(きょみつとし 音楽評論家、慶応大学教授)

評論家エッセイ情報
ムーティ
ブーレーズ

評論家エッセイへ戻る

5件中1-5件を表示
表示順:
※表示のポイント倍率は、ブロンズ・ゴールド・プラチナステージの場合です。

チェックした商品をまとめて

チェックした商品をまとめて