岩崎宏美とフルトヴェングラー

2021年02月08日 (月) 12:00 - HMV&BOOKS online - クラシック

連載 許光俊の言いたい放題 第285回


 私は流行歌に疎い。流行歌という言い方はたぶんほとんど死語だろうが、ほかにどう言えばいいのか知らないので、こう書く。歌謡曲? それでもいいんですが。
 小学生のときからクラシック音楽が最高だと思っていたので(クラシックのマニアにありがちな尊大な思い込みですね・・・まあ、人生にはそういう時期もあるということで)、四十を越えるまで、クラシック以外のCDを買ったり聴いたりすることなどあり得なかった。しかし、歳は取るものですね。今は、わりとまあ何でも聴ける。みんなでがんばろう、みたいな曲以外は。
 時々、おっと思って、妙なものに熱中してしまう。昨年の夏、結局一番頻繁に聴いていたのは、ここでも書いた畑中葉子の「後ろから前からBOX」だった。昔の歌謡曲って、つまり、男女の闘争だったんだね。それがおもしろい。男はこうじゃなきゃ、女はこうじゃなきゃ、という社会的な枠組みがきつい。だから、その中でどう戦うか、自分の欲望を実現させるかという話になるのだ。

 畑中葉子と同時に気になっていたのが岩崎宏美である。この人は歌がうまい。ビブラートを必要としない、すうっと伸びる声。それに、声の質に恵まれている。そんなことは前からわかっていたのだが、私が子供のころにテレビや町のあちこちで流れていた彼女の歌は一本調子で単調という印象が拭えなかった。若いから当然なのだけど。クラシックの分類だとリリコ・スピント、緊張感や強さがある抒情的な声。でも、馬力もあるよ。というかありすぎて、それに頼っていたのかも。
 ところが、おお、ああ、とすっかり引き込まれてしまったのが、昨年たまたま耳にした「北の宿から」である。そう、演歌ですよ。「DEAR FRIENDS Z」というアルバムに入っている。
 これはマジですごい。若いときには声の力で歌いまくっていた人が、抑制を覚える。全然叫ばない。半ばひとりごとをしゃべるよう。ぐっと抑えたまま。そんなふうに静かに、「女心の未練・・・」と歌うのを最初に聴いたときには、うわあと声が出て、鳥肌が立った。ごくあたりまえに誰もが叫ぶように歌う箇所である。そこで叫ばないからの浸透力。諦観。やはりこの静けさで「あなた、死んでもいいですか」というひとことはぐさりとくる。叫ばれるより怖い。
 本当に、寂しい旅館の部屋で、孤独に取り囲まれている女の心の中をのぞいたという感じがする。シューベルトの「冬の旅」みたいだ。ちなみにこれ、シャンソン風の編曲というのもアイデアもの。控えめなバックだ。
 「ジョニーへの手紙」もすごい。淡々と歌っている中に、諦観と、寛大さと、悲哀と、ほんのりした希望がある。しびれますねえ。この歌の語り手は「踊り子」である。昔を知っている人なら、これがストリッパーだとわかるでしょう。上品なダンサーじゃないですよ、本来は。だけど、岩崎が歌うとこの踊り子が、蓮っ葉なんかでは全然ない、純情で気のいい若い女だと感じられるのだ。そんな女が、男への未練を捨て(でもすこーしは、いやかなりかな、残っている)、ほかの町へ向かう。希望を探す。ほの白い、酸っぱい希望。いろいろな気持ちの微妙なカクテル。
 ほかにもいろいろな歌手が歌っている曲だから、ユーチューブで簡単に聴き比べられる。いやはや、みなさん、お下品、いや、情熱的に歌いあげていること。おつむが悪そうな女にしか聞こえない。また男に振られちゃったわよ、次のを探そう、アハハ、という肉弾自爆派みたいな。ま、そっちほうがリアルだと言う人もいるでしょうが、阿久悠の歌詞は知的で繊細だからね。それを生かしてほしい。
 このCDの最初に入っているのは「みずいろの手紙」という曲だが、岩崎の声の色がどんぴしゃりで水色なのにも驚かされた。
 と書いているときりがない。このアルバムは、聴くと興奮して頭が猛烈に冴えてしまうので、夜遅くには聴かないことにしているほどだ。

 ところがである。このアルバムは抑制系の、コントロールがよく効いた、あえて言うならばドイツ・リート的歌唱なのだけど、その反対方向でも異常に強烈な録音があったのだ。なんと、チェコ・フィルをバックに従えた、その名も「PRAHA」というアルバムだ。東欧やロンドンのオーケストラが時折映画音楽やポップスを演奏することはあるが、岩崎宏美もその例とは最近まで知らなった。
 聴いてビックリである。本格的なクラシックのオーケストラが使えるからなのか、編曲も歌唱も尋常ならぬ気合の入り方。
 最初に入っている「聖母たちのララバイ」は、あまりにもゴージャスすぎる編曲とオーケストラ演奏、それに負けじという灼熱の歌唱にあっという間にノックアウトされた。おそらく一撃必殺でこれをアルバムの頭に置いたのでしょうが、見事にやられました。
 どれくらいすごいかって、これじゃあ、どんな曲なんだか全然わからない! というほどなのだ。
 まさに絹のようなヴァイオリン、すばらしいホルン・セクション、漂うようなオーボエの美しさ。次々に音色や陰影を変える和音。ちょっとした弦楽器の刻みだけで、オケのすばらしさにドキドキさせられる。もしかして、チェコ・フィルの最高の録音ってこれですか、と嫌みが言いたくなるほどだ。
 こんなオーケストラに耳を傾けていると、声や歌詞が頭に全然入ってこない、ということはない。歌も負けじとすさまじい熱量なのだから。驚くほどの超のろのろテンポでこれでもかと、声、歌、言葉のひとつひとつを刻印していくみたいに続けていく。個々の要素をクリアにして、噛んで含めるように念を押すのは、まるで晩年のチェリビダッケ。
 すべての音を長めに取りたがるのは、昔のオペラ歌手みたいだなあなどと思いながら聴いていると、パイプオルガンまで鳴り出して不意を突かれる。ああ、確かに。マドンナですからねえ。
 そして最後は、ストコフスキー版「トッカータとフーガ ニ短調」みたいに、ごうっという響きでとどめを刺される。マニアならご存知でしょう、ストコフスキーとチェコ・フィルのバッハ集。長めの後奏が実にうれしい。
 参りました。完全に降参。はっきり言って、一度聴いただけでは、とてもじゃないが、すべては味わいつくせない。何度でも聴いてください。私も何度でも聴いています。これが5,6分の曲とはまったく信じられない、異様なまでの濃さである。それとこの曲、歌詞の内容が強烈なんですね。ただの恋じゃない。ずいぶん思い切ったものだ。
 「思秋期」はピアノ五重奏曲みたいな編曲で、これまたいったい何だかわからなくなっている。語るレチタティーヴォみたい。あるいはリート。
 念のために言っておくと、わからないという言葉を私は連発しているが、これは誉め言葉である。普通は、わからないというのは悪い意味で使うが、わからないということはドキドキさせる、未知の新たな曲面を見せてくれるわけだから、発見や刺激があるわけだから、おもしろいということだ。私はたいがいの場合は誉めるために使う。
 「夢やぶれて」という曲では、地獄に落ちるとか、夢は帰らないとか歌っているくせに、超豪華な編曲。おい、そんなところでハープ鳴らすなよ。
 弦楽合奏向けにアレンジされた「ロマンス」の始まりは、ドヴォルザークの弦楽セレナーデですか。チェコならではの弦楽器の美しさ(と昔の評論家が言いたがるに違いない)、その伝統的な美感と日本語の歌、楽想のずれがたまらない。身がよじれる。あなたが好きなんです、というところの弦楽器のリズムには赤面。チェコ・フィルにこんなもの弾かせたのかあ。
 「シンデレラ・ハネムーン」、これもチェコ・フィルが弾いていると思うと、何とも言えない気持ちになる。チェンバロまで動員されているし。弦の刻みはストラヴィンスキーの新古典主義みたい。
 ともかくクラシックをよく知る者なら、あちこちで、驚きの声をあげてニヤニヤするアルバムなのだ。そして、西洋音楽の流れで演奏するオーケストラと、日本語の抑揚や感覚が一致しないという決定的で残酷な事実を再確認させるアルバムでもある。たとえ同じように五線譜に書かれていたとしても、その間には容易に超えられない壁がある。
 とはいえ、こんな金のかかりそうなアルバム、よく作ったなあ。いったい誰が買うんでしょう。チェコ・フィルに反応するクラシック愛好家が買うとも思えない。岩崎宏美ファンが、おおチェコ・フィル!と喜ぶようにも思えない。
 わからないけど、まあいいや。とにかくすごいアルバムが制作されていたことを知った。愛聴します。


 さて、フルトヴェングラーだ。年配のクラシック愛好家、それもドイツ音楽至上主義の人は、ドイツ精神主義の権化フルトヴェングラーと流行歌手を並べるなんて、許しがたいかもしれない。
 が、現実として、私は岩崎宏美の30分後に、フルトヴェングラーを聴いて喜んでいたりするのである。それも、「魔笛」と「魔弾の射手」だ。
 昔から、フルトヴェングラーのモーツァルト演奏はあまり褒められていなかった。戦前のドイツですらそうだったようだ。ところが、この「魔笛」、改めて聴いてみると、たいへんおもしろかったのだ。古楽のやりすぎ感あふれる演奏に慣れてしまった今、フルトヴェングラーを聴いても、おおげさだと思わなくなったのだ。それどころか、こういう考えでこうやっているんだなと気づかされるところが多い。
 やはり昔の録音である。だから、「魔笛」は何が何でもこの録音を聴いて親しめ、楽しめ、とは言わない。だが、聴いているとやがて音質が気にならなくなる。この音質でも伝わるものがある。ワーグナーのような深遠、神秘的な響きで奏される音楽が、確かにこのように響いても歴史的なコンテクストからしておかしくはないのだと思われてくる。19世紀のロマン主義の人たちは、イメージとしてはこんな感じに憧れたのではないかと思われてくる。「夜の女王」のアリアの伴奏など、19世紀的、ゴシック的な美としてすごい。

 「魔弾の射手」は、ステレオだなんだという話があるらしいけれど、私はフルトヴェングラーの音源についてはあまり知らないので、そのあたりについては語れない。はっきりしているのは、「魔笛」より快適な音であり、この程度の音質なら、鑑賞上まず問題はなかろうということ。それどころか、昨今の褒められない録音よりも、よほど現場をほうふつとさせる。聞こえないなら聞こえないで、こんな感じだろうと想像ができるのである。少なくとも、聞こえないということがわかる聞こえなさである。一見クリアですべての音が聞こえるようでいて、実際はまったくナマのイメージとかけ離れた録音よりよほどいい。
 このオペラがワーグナーのように響くのに嬉しくなった。ワーグナーはウェーバーの強い影響を受けた。ということは、ウェーバーがワーグナーのように響く可能性があるということだ。
 「魔弾の射手」は幼稚な子供向けの作品ではない。善と悪のどす黒い戦いだ。暗く重たく薄気味悪いオーケストラの響きがたまらない。それと、転調したときに、すっと明暗の変化が起きるのものもいい。フルトヴェングラーは物量作戦の人じゃないですよ。マックスとアガーテの二重唱など、このオーケストラ伴奏が効いている。
 カスパールと悪魔のやりとり、狼谷の場面は、どんな演奏でも暗黒の雰囲気にはなるものだが、フルトヴェングラーは別格かもしれない。まるで「ワルキューレ」のようなのだ。狼谷では、ぎょっとするようなポルタメントが気持ち悪い。低弦のすばらしい実在感。各パートがこれでなくてはというふうに弾き、吹き、叩いている。この盛り上がり、ナマだとどれほどすごかっただろう。
 最後、隠者が登場するときのコントラバスが強烈。そのあとのおおげささも。でも、こうでないと、いかにも取ってつけた最後になる。取ってつけたんだよ、と言いたい演奏、演出ならそれでもいいが、本来はこうなんだろうと思う。演奏する人間が、作品を信じているという感じがとてもする。考えてみたら、もうこの何十年も、こういうふうに信じられる演奏や演出はできなくなっていた。だから、改めて新鮮なのである。あ、原点を見せてもらったという感じ。

(きょみつとし 音楽評論家、慶応大学教授)

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フルトヴェングラー
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