ファウストのバッハ協奏曲集

2020年03月31日 (火) 08:00 - HMV&BOOKS online - クラシック

連載 許光俊の言いたい放題 第273回


 生きているといろいろなことがあるもので、思いがけぬコロナ渦にてんてこ舞いの毎日となった。こんなこと、いったい誰が想像したでしょう。昔のヨーロッパの絵画で、笑い楽しむ人々の後ろに、鎌を持った死神がたたずむ姿を描かれたのは、まことに至当と言うしかない。まさにそれが人生の真実なのだ。
 もっとも、既視感を感じる人も多いはずだ。うんと若い人たちを別にすれば、あの福島原発事故の記憶はいまだ鮮明なはずなのである。あのときも、刻一刻と変化する放射線の数値が報告され、汚染地域の拡大をテレビで見ながら、暗い気持ちになったものである。今回も、世界のあっちこっちで大流行、都市が閉鎖などというニュースを読みながら、あのときと同じ気分になってきた。いや、あのときに比べれば、まだましか。原発事故のときは、へたをしたら関東地方は人が住めなくなるという恐ろしい事態だったのだから。
 しかし、マスクと手洗いかあ・・・。B29に竹やりとバケツリレーで立ち向かうような・・・。などとは言っていられませんね。

 さて、そのコロナがまだドイツで本格的に広がる前、私はベルリンにいた。そこで、訪れた音楽会のひとつが、イザベル・ファウストとベルリン古楽アカデミーのバッハの夕べだった。実はその日はピアニストのソコロフのリサイタルがあって、そちらに行くつもりだったのだが、すでにコロナの渦中にあったイタリアにいるソコロフがドイツには来ないことになり、急遽ファウストを聴くことにしたのだ。なぜかおもしろそうなコンサートは重なるもの。この日は高齢者優先でソコロフに行くと決めていたのだが、ファウストにも未練があったので、ちょうどよいといえばよかった。
 会場はフィルハーモニーの小ホール。収容人数は少ないのだが、空間は案外広い。席選びが難しい会場のひとつだ。売り切れだったが、直前によい席が買えた。35ユーロ。ファウストは、楽器を豊かに鳴らすことには興味がなさそうな人なので、やはり近くで聴きたい。そのとき奏された曲目は、日本でもCDやSACDで入手できるアルバムとほぼ同じ。
 始まってみてすぐに気づいたのは、ファウストのヴァイオリンは、全体から突出するのを嫌っていること。普通、独奏者は、持っている楽器も輝かしい音色を出す名器だし、音程を高めに調律したりで、オーケストラから浮き上がって聞こえるものだけれど、ファウストはそうではない。音色はじわっと渋い艶があるが、ブリリアントというものではない。CDでもホ長調の協奏曲の第1楽章など、ソロパートがあまりにも表に出てこないので、戸惑うほどだ。
 ベルリン古楽アカデミーは、正直なところ、私が好きではない楽団である。この町の名前を冠するだけあって(ベルリン市民には申し訳ないが)、どうにも大味でやぼったいのだ。ズンズンズンと軍体調になる傾向があるし。しかし、ファウストはどうやらこの楽団がお好きのようである。彼女のコンサートには何度も足を運んでいるが、こんなにリラックスして楽しそうなことってあったっけ、というほど。演奏家の立場と聴く人の立場は、しばしばこのように異なるものである。楽団員も満面の笑みでファウストに大喝采しているのが印象的だった。
 その演奏は、CD,SACDで聴けるものと基本的には同じなので、詳述する必要はなかろう。きわめて細やかで、音色の変化に気を使い、音の粒立ちがいい。そんないつものファウストの演奏だ。だが、生で聴いてみて、私がおっと意外に思ったのは、意外にもエスニックと言おうか、エキゾチックと言おうか、ジプシー・ヴァイオリンと言おうか、はやい話がコパチンスカヤみたいな瞬間があったことだ。とっくにインターナショナルになっているヴァイオリンから、思いがけず土の匂いがしてきたのだ。CDでもこれは確認できる。
 そして、特におもしろかったのが、アンコールの「管弦楽組曲第2番」終曲だった。もともとフルートが活躍する名曲とされているが、そのフルートパートをヴァイオリンが担うのだ。すると・・・ヴァイオリンの名技全開、きわめてスリリングな音楽になる。フルートでやるときよりも、もっとそういう感じになる。ファウストは、こんなふうに演奏したければやれる人なのだ。なのに、普段はやろうとしない。私にとっては、まだ謎が多い演奏家である。
 この「管弦楽組曲」もCDに収録されている。「バッハの音楽はどの楽器で演奏してもよい」みたいなことがしばしば言われるが、いえいえどうして。やっぱりこれは横笛のために書かれた作品なのだなと改めて思わされる。そしてやっぱり終曲にはニヤリとさせられる。

 というわけで、家に帰ってから、時折、このCD、正確にはSACDを再生しているのだが・・・私がファウストのコンサートを聴いたのが3月9日。タクシーの運転手は「こんなコロナ騒ぎは馬鹿馬鹿しい。株価を操作したい連中の陰謀だ」などと熱弁をふるっていたが、まさか早くも13日からベルリンをはじめドイツのコンサートやオペラは次々にクローズ。現在に至るのである。まったく、この世は不思議なものである。

(きょみつとし 音楽評論家、慶応大学教授)

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イザベル・ファウスト

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