新海誠とプッチーニとショスタコーヴィチ

2019年10月21日 (月) 11:20 - HMV&BOOKS online - クラシック

連載 許光俊の言いたい放題 第271回


 この更新をずいぶん滞らせてしまった。普通なら夏の間に二度は更新できるのだが、今年は集中したいことがあって、それで手一杯になってしまったのである。
 そのひとつは、かねてから手掛けていたある文学作品の翻訳。ライフワークというと大げさだが、それくらい気合を入れてやっていたのだけれど、翻訳というのは恐ろしいもので、読みの深さのレベル、そして日本語力のレベルがもろに出る。いや、そんなことを言うなら、普通に文章を書くこと自体がそうなのだが・・・。演奏もそうですね。聴く人が聴けばわかってしまう。やっている本人が意識していないことも。
 そして、もうひとつが新海誠のアニメ作品についてのエッセイだ。以前、「君の名は。」をたまたま見てすっかり驚いてしまい、以来、まとまったものを書きたかったのである。で、ありったけのDVDを買い込んで、見た。書いた。予定の半分しか書けなかったけれど。
 ズバリ、新海の作品は日本の古典文学と同質である。圧倒的な無常観。儚さ。『雨月物語』か、あるいは泉鏡花のような幻想性。実は、私は新海の作品を夢中になって見るのだけれど、見ると必ず、異様に悲しい気持ちになる。眠れなくなる。特に「秒速5センチメートル」はすごすぎる。呆然自失させられる。こんな作品と出会えるのは幸せと言うしかない。
 新海作品を見たあとには、世界がまるでそのアニメの世界のように見える。駅を見て、空を見て、人を見て、風景を見て、アニメみたいだなと感じる。すさまじいことだ。
 そんな新海のアニメを見ながら、私は繰り返しプッチーニを思い出した。プッチーニの特徴はいろいろあるが、最大の特徴でありかつ魅力なのは、儚さだ。ヴェルディやワーグナーには絶対にない類の感情だ。ヴェルディやワーグナーはしばしば年齢高めの人物設定をするが、その人たちが感じる悲哀とはまったく別物。新海もプッチーニも、主人公は若い。若い人間が一生懸命生きていて、彼ら自身は儚さなど感じない。感じるのは鑑賞者の側だ。それがよけい切ない。
 また、今までのところ、結局、新海が本当に言いたいこと、つまり彼にとって人生の大問題とは、ひとつかふたつしかないようだ。だが、それでいい。それがいい。それが誠実ということだ。プッチーニも同じだ。


 この夏、私は新しい本の校正もやっていた。講談社現代新書の『オペラ入門』で、頼まれてからずいぶん経っていたのをようやく仕上げた。300ページ強、それでオペラの歴史を概観したのだけれど、できあがってみて、自分でも驚いたことがある。序文からモーツァルトまでで60ページもあるのだ。そして、全体の三分の一はプッチーニ以後のオペラについて費やされている。常識的にはあり得ないバランスだろう。ヴェルディやワーグナーについてならいくらでも書ける。が、そんな本はもうたくさんあるし、今更同じことをやってもつまらない。そう考えてということもある。
 たまたま、以前ここでも取り上げた上原善広の『発掘狂騒史 「岩宿」から「神の手」まで』(新潮文庫)という本を読んでいて気づいたのだけれど、私の入門書には、「カヴァレリア・ルスティカーナ」も「道化師」も載っていない。そして、気づいたけれど、あえて書き加えなくてもいいやと思った。
 ついでに言うと、『発掘狂騒史』は、発掘や偽物をめぐるたいへんおもしろい本なのだが、なんと詐欺師がオペラ「道化師」を聴くエピソードで書き始められる。オペラの愛好家ならニンマリすること間違いなしだ。
 
 さて、そのプッチーニ。私はかなり前から、これまでよいとされてきた名演奏なるものに、疑いを抱くようになっている。たとえば、ケント・ナガノ、サイモン・ラトルといった現代の演奏家の仕事に間近で接すると、オーケストラの情報量がとてつもないのだ。そうそう、7月にびわ湖ホールで聴いた大野和士の「トゥーランドット」もそうだった。
 プッチーニが書いたオーケストラパートの可能性は、これまで名演奏とされてきたものでは十分に表現されていないのではないか。そう考えてしまう。それに、これはあらゆる芸術に関して言えるが、作った当人も意識していなかったさらなる可能性が含まれているのではないか。
 というと昔からの愛好家からは、カラヤンはどうだ、という声が上がるだろう。確かに、カラヤンは、声中心でないプッチーニ演奏の元祖みたいな人ではある。が、カラヤンでもまだ全然物足りない。少なくとも、録音で聴く限りでは。カラヤンは、やはり伝統的な、音を溶け合わせる方向性の世代である。それはいかんともしがたい。きれいに溶け合わせず、微粒子のように情報を見せてくれる演奏が聴きたい。だが、そうは言っても、レコード産業がすっかり斜陽となってしまった現代において、案外、そのような録音はないものだ。
 私も最近ようやく入手したのだけど、ケント・ナガノの「ボエーム」は見事にモダンで、音質も克明、現代ならではの傑作だが、もう二十年前の録音だ。しかも今は手に入れるのが難しい。印象派どころか、まるでヴァレーズやアイヴズのように聞こえたりする。弱音の繊細な美しさといい、パレットが豊富。こういうものこそ聴きごたえがある演奏と呼ぶのだ。新海のアニメは、きわめて精密、精妙だが、プッチーニも同じだ。儚いですよ、儚いですよと百回繰り返しても儚くはならない。人やものを淡々と克明に、精密に描いていくと、そこにおのずと儚さが生まれる。儚さとはそういうものだ。
 ナガノは「蝶々夫人」もすばらしい。録音はないようだが、私はハンブルクで聴いてあまりの美しさにうっとりした。かつ、いつもはクールなナガノが熱くなっているのに驚いた。ぜひ録音してもらいたいものだ。
 ラトルにはすでに「トスカ」のすばらしいDVDがある。「マノン・レスコー」はレパートリーにしているけれど、「ボエーム」には興味がないのだろうか。その「マノン・レスコー」、いやになるほどねっとりと演奏するかと予想すると、いやいやその逆、19世紀に書かれたとは思えない新しさを強調する解釈だ(デジタルコンサートホールで聴けるようだ)。「マノン・レスコー」というとシノポリの録音を愛聴していたけれど、やはり美意識は時代によって変わる。五十年以上生きていると、それを痛感する。シノポリは今聴いてもいい演奏をしている。が、美や芸術の世界は、正しい正しくないで簡単に分けられる世界ではない。せっかく今を生きているのだから、今における最高水準の演奏を聴きたいと思うのだ。


 ところで、20世紀のオペラ作曲家と言えば絶対に見逃せないのがショスタコーヴィチ。同時に交響曲の作曲家でもあり、日本ではどうしても後者のイメージが強いだろう。が、有名な「ムツェンスクのマクベス夫人」事件のせいでオペラは寡作となってしまったが、本来きわめて明快な芝居的イメージを持っている人だった。彼の交響曲は、言葉のないオペラのようなものだと思う。おそらく同時代のわかる人にはそれがわかった。口では言わなくても、通じる人には通じた。
 が、残念ながら、昨今はそのあたりをまるで気にしない浅薄な演奏が増えているのではないか。あえて誰と名前はあげないが、有名演奏家だから、スターだからと言って信用してはいけない。ロシア系だから、というように、出身地で判断してもいけない。
 その点、大野和士は、常に作品の原点を忘れないようにしている指揮者である。たとえばバルセロナ交響楽団との交響曲第10番を聴けば、いわゆる南欧的なイメージからはるか隔たっていることがわかるだろう。バルセロナあるいはカタルーニャ地方は長いことスペイン中央政府から冷遇、いやそれどころかもっとひどい対応をされている。弾圧されてきた歴史がある。その歴史を、大野はショスタコーヴィチに重ねている。
 決してソヴィエト系のような大音量で咆哮する演奏ではない。むしろ端正かもしれない。が、その端正とは、紙と鉛筆で描いた端正ではない。木炭がにじむように、押し付けられて砕けるように、触れば手が黒くなるように、そんなふうに描かれた端正だ。
 この演奏は美しい。が、氷のように冷たい美しさではない。また、やわらかでやさしい美しさでもない。いいバランスで美しい。「ああ、きれいだなあ」で終わる美しさではない。「このオーケストラはうまいなあ」、そういう感想をあとに残す演奏でもない。大野の演奏はこれに限らず、聴く者の関心を作品自体へと向けさせる。稀有である。
 たとえば、第2楽章は、物量作戦で演奏されがちな音楽である。そういうありがちな運動会的演奏に比べると、これはおとなしく感じられるかもしれない。が、聴き進めていけばわかるが、あとに行くほど追い立てられるような緊迫感が増していくのだ。だから、最初から全開の演奏にはない焦燥感や恐怖が生まれる。知的だ。

(きょみつとし 音楽評論家、慶応大学教授)

評論家エッセイ情報
大野和士
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