女王と王女と王子 評論家エッセイへ戻る

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2018年3月1日 (木)

連載 許光俊の言いたい放題 第258回


 誰が言い始めたのか、ムターを女王様と呼ぶのは実に適切だ。堂々たる技巧、完成された演奏様式、安定感、現代ヴァイオリン界を見まわして、匹敵する者はいない。
 私は昨年もいろいろなコンサートを聴いたが、特に忘れられないもののひとつが、ハンブルクにおけるムターのシャコンヌ、そうバッハのパルティータ第2番である。ムターは、パルティータ2番のいくつかの曲をアンコールではしばしば弾く。が、むろんあまりにも長大で重たいシャコンヌをそんな際に選ぶことはない。また、パルティータ2番全曲をプログラムに載せることもここしばらくなかったのではないか。
 いやはやそのシャコンヌの極大スケールは圧倒的だった。まるでストコフスキーのオーケストラ版バッハ、あるいはカラヤンみたいだ。
 また、この人は極端にネチネチ、トロトロの極甘口に弾いてみせたりもするけれど、ドイツ音楽の基本が骨の髄まで叩き込まれているということも痛感された。とりわけシャコンヌでは、まるで複数の楽器で演奏しているかのような効果が意図されているが、ムターの演奏はほんとに2つ、あるいは3つの楽器で弾いているかのように聞こえるのだ。それもおそろしく生々しく。バッハがそのような音楽を書いたのは常識の中の常識である。が、これほどまでに明確にそれが再現された演奏を私はほかに聴いたことがない。思わず目を見開いて楽器を凝視してしまった。
 ところで、ムターは性格的にはちょっと不思議なところがあるようだが、この日のコンサートでも意外なことがあった。シャコンヌの前、ジーグが終ったところで、これが一気呵成にいく演奏だったので、客席で拍手が起きた。すると、「咳をするのは今が最後のチャンスですよ」などと軽口をたたき、それからシャコンヌを弾き始めたのだった。真剣かつ壮大崇高なシャコンヌの前にそんなこと、ふつう、喋るか?
 これまたついでだから書いておくと、「シンドラーのリスト」を弾く前には、「皆さんがご存知かどうかわかりませんが、アメリカにジョン・ウィリアムスという作曲家がいて・・・」 ドイツではジョン・ウィリアムスは無名なのか? そんなことはないだろう。やはり女王様は別世界に住んでいるらしい。
 さて、そのムターの新譜は、意外なことにシューベルトの「鱒」だ。もちろん、女王様が全体を支配する演奏になっている。若いチェリストなど、必死になってムターの弾き方を模倣しているのが微笑ましい。いや、それは残念ながら、チェロでは無理だよ。
 「鱒」の最高の演奏と強弁するつもりはないが、好きな人には楽しいCDである。


 昨今の日本において、イザベル・ファウストは非常に高評価を得ているようだ。しかし私にとっては、どうも完全には理解しかねるヴァイオリニストである。彼女が実に丁寧に、何かの考えをもって演奏を行っていることは間違いないが、その中身が私にはよくわからないことが多いのだ。
 たとえば、この人の抑揚や音符の長さの取り方が、私にはなんとも奇妙に聞こえることがある。常識的にはここを少し長めにして、ここは短めにして、そうするとなめらかに聞こえる・・・そんなふうな普通にきれいに聞こえるやり方をしない。しばしば寸詰まり感がする。なんでそんなことをするのだろう。
 舞台で見ても、究極のマイペースと言おうか、完全引きこもり方のような印象を受ける。特に協奏曲においては、自分の周囲1メートル半径に「入ってくるなよ」オーラを出しているように感じられることもある。
 弱音じくじくはムター女王様の得意技だが、ファウストもよくやる。むろんファウストの場合は、色気とか妖しさはない。もっと別の何か、孤独感と言うと単純すぎるが、隔絶感がある。
 しかし、新譜で出たバッハのソナタ集は、実に快適なのだ。素直に美しいと言える演奏だ。神経質すぎない。独り相撲を取っている感じがしない。正確であると同時に伸びやかだ。こういう清潔な音を聴いていると、凡庸なヴァイオリニストがむやみやたらとかけるヴィブラートに対する嫌悪感がますます募る。これは、王女様に認定してもいいかな。別に私が認定しなくてもよいのだけれど、そう思った。
 第4番の冒頭楽章は「マタイ受難曲」にそっくりの悲哀あふれる音楽だが、ちょっと驚くほど情感的で、かすかな色気すら漂う。ファウストの音は、きわめて静的であり、テンポが速い場合ですら、不思議と静止しているように聞こえる。普通、これはダメなのだが、彼女の場合は個性として認められる、独特の美しさに通じる。
 念のためだが、これは無伴奏のソナタではなく、チェンバロといっしょのソナタのほうだ チェンバロも生き生きとしていて、かつ奔放すぎず、実にバランスがいい。ソナタの第6番の中間楽章では、ヴァイオリン抜きのソロが繰り広げられるが、素直にエモーショナルなところはちょっとグールドみたい。この楽章は、こういうチェンバロでないと楽しくない(グールドと言えば、どうせこの曲を聴くのなら、ついでにグールドとラレードの録音も聴いたほうがいい。たぶん、ファウストのあとで聴くと、ずっこけます。同じ曲とは思えません。だけど、妙にはまる)。
 音質も心地よい。ヴァイオリンの音もチェンバロの音も、クリアでいながらとげとげしくない。演奏者のすぐそばで聴かせてもらっている感じがしていい。


 さて、女王様、王女様とくれば、次は王様、王子様だが・・・。王様と呼ぶほどには巨大な人はいなさそうなので王子様。
 最近、フランク・ペーター・ツィンマーマンが弾くブラームスの協奏曲を予想外に楽しく聴いた。ハイティンク指揮コンセルトヘボウ管とのライヴ録音だ。おそらく数えきれないほどこの曲を弾いているツィンマーマン、テンポを揺らし、ポルタメントも駆使し、すすり泣いたり、思いのほかロマンティックだ。低い音域の表現力も十分。ところどころ、「あれ、ムター?」と思わせる箇所すらある。第1楽章のカデンツァから終わりにかけて、ゆっくりしたテンポで噛みしめるように弾いていくところなど、実に印象的。
 伴奏をしているコンセルトヘボウ管もいい。一般的には、ハイティンクとコンセルトヘボウというと重厚だのオーソドックスだの渋い音だのを連想する人が多いと思うが、実際のところハイティンク、あるいはコンセルトヘボウの音楽は必ずしもそうではないのだ。ハイティンクはリズムが軽い。和音も軽い。それがブルックナーをやるといかにも物足りなく理由にもなるのだが、ブラームスの場合は必ずしもマイナスにならない(ブラームスはいろいろな解釈を許す作曲家なのだ)。ハイティンクはこのところ、急激に最晩年の枯れた音楽をやるようになったが、冒頭の、拍節感を薄めた、かすみがたなびくような風情など、その典型だ。
 コンセルトヘボウ管の音も、案外明るい。突き詰めないゆるさがある。オランダはドイツのとなりだが、その音楽や感性はまったく違う。不思議なほどの軽さや明るさやおおらかさがあるのだ。これでもかと暗い顔をしたゴッホをオランダ人の典型、オランダ的芸術の典型と見なしてはいけない。
 もしかしたら、あの独特のホールがこういう演奏を生み出すのかもしれない。力んだところで、音は濁り、飽和するだけだ。それより軽やかな弓づかいできれいに鳴らしたほうがいい。
 よって、このブラームスも厳しく威圧的な演奏では全然ない。漂わせるような柔らかさや軽さで聴かせるのだ。虚心坦懐に聴いてみれば、このブラームスはまったく重くなく、透明感が勝っていることに気づくはずだ。緊張感ややる気が目いっぱい強いわけではなく、リラックスした感じがする。そんなオーケストラをバックにしてソロが甘美に弾く。結果として、満ち足りて幸せな感じがする音楽になっている。特に第1楽章だ。ついつい何度も聴いた。

(きょみつとし 音楽評論家、慶応大学教授)

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