奇跡の「ワルキューレ」

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2016年12月30日 (金)

連載　許光俊の言いたい放題　第251回

　早いもので、今年ももうおしまいだが、最後に、超ド級の名演奏を紹介しよう。さまざまなライヴ録音が世をにぎわす今でも、まだこんなお宝が眠っていたのだ。
　テンシュテット指揮ロンドン・フィルの「ワルキューレ」第１幕。１９９１年秋、最晩年のライヴ録音で、関係者によると、これまで諸事情によりなかなかCD化できなかったものだという。
　これはものすごくいい。とんでもなくいい。指揮者もいいが、オーケストラもいい。
　ロンドン・フィルは、オペラハウスのオーケストラではない。グラインドボーン音楽祭などでオペラの仕事をやっていなくもないが、あくまで例外だ。ウィーンやドレスデンの楽団のように「ワルキューレ」を熟知しているとは思えない。加えて、想像するに、例外的に長い練習時間を取ったということもないだろう。にもかかわらず、細部まで驚くほど生々しい表現力に溢れている。殺風景な音がまったく鳴らないのだ。ロンドンのオーケストラは指揮棒への反応がいいとは常から言われることであるが、それがどれほどのものか、腹の底まで納得させられる。反応が素早いだけではない。指揮者の音楽を自分のものにするところがすばらしい。
　前奏曲からして、異常な迫力だ。チェロ、コントラバスの恐怖に満ちた刻み。強弱の表現力。そこに雪崩のように重なってくるヴァイオリン。壮麗な金管楽器。この前奏曲を聴いただけで、これほどの「ワルキューレ」演奏にはなかなかお目にかかることはできまいと確信できる。
　結論から言うと、これほどまでにオーケストラが濃密な表現力を持った「ワルキューレ」はほとんどない。あり得ない。そう言ってしまえば、ひとことで終わるし、終わらせたい気もするほどだ。オーケストラが歌手以上にドラマを語り、心理を表現する。最初の数分で、その徹底度に舌を巻く。楽譜が見えるようだ。ワーグナーが、テンシュテットが考えたことが手に取るようにわかる。「ワルキューレ」１幕は、歌手を支えるオーケストラが物語のすべてを語る。その事実を改めて痛感させる。

　テンシュテットの棒が見えるようなオーケストラの自由自在な動き。伸縮も強弱も、艶めかしい生き物のようだ。チェロのすばらしい迫真性、弦全体のリズムの適切さ、オーボエやクラリネットなど木管の切々とした歌、一瞬顔を見せるコントラバスの不気味さ。金管楽器の暗いうごめき。最弱音の緊張感。オーケストラの力が極限まで生きている。これを聴いてこそ、テンシュテットが、どのオーケストラよりもこの楽団との共演を好んだ理由がわかる。テンシュテットは北ドイツ放送響のシェフになったものの、すぐに仲たがいした。おそらく、あの楽団では３倍練習しても、こんな演奏はできなかったろう。これほどまで忠実に棒についてこられなかったろう。いい悪いは別として、それは間違いない。
　全曲上演ではないがゆえに、７０分弱の中で全力を尽くせる。腰を落として慌てず騒がずじっくりと音楽を進める。ついなんとなく出てしまったという音がひとつもない。ワーグナーが書いた音符に真っ赤な血が流れ込み、脈動している。テンシュテットとロンドン・フィルがこんな感じで「ワルキューレ」全幕、それどころか「ローエングリン」や「神々の黄昏」をやってくれたら、どれほどすばらしかったか。そんなことまで考えてしまう。が、それは無理と言うものだ。こんなに丁寧に、あらゆる部分に気持ちが入った演奏を３時間も４時間も行うことは、人間のできない相談だ。
　オーケストラがやっていることが手に取るように聞こえる明快な音質も嬉しい。
　間違いなく、テンシュテットとロンドン・フィルによる最高の録音のひとつだ。

（きょみつとし　音楽評論家、慶応大学教授）