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2014年4月3日 (木)
連載 許光俊の言いたい放題 第231回リヒテルにほれぼれ
1980年代半ば、日本もいよいよ世界有数の裕福な国となり、これからバブルへ突入しようという時代。西武あるいはセゾンという名前は、その時代のキーワードのひとつだったかもしれない。物欲が満たされた次の段階、つまりもっと気分的で心理的な満足や豊かさが問題になってきた時代の。
今の若い人々にとって西武やセゾンがどれくらい文化的に発信力があったかは想像もつかないだろう。国立○○だの県立××だのという上から押しつけられるものではなく、もっと自由で私的な文化や芸術の感覚が広まったのは彼らの功績かもしれない。
今でも忘れられないのが、ある音楽家の「西武が金を出してくれたら、世界で活躍する日本人演奏家を集めてすごいオーケストラを作れる」という言葉だ。国や自治体ができないことを民間がやれるのではないかという大きな期待や夢が語られるようになったのである。
そのセゾンを率いていたのが堤清二氏だった。大企業のトップというだけでなく、文化や芸術に関心を持つことでも知られ、いろいろなイベントを手がけたほか、自ら小説を書いてさまざまな文学賞をとってしまうほどの人物だった。
その氏が死去したのが昨年のこと。偶然だろうが、かつて氏が開いたプライベートなコンサートの録音が製品化された。なんとリヒテルを呼んで聴衆100人のコンサートをやっていたとは。いや、それはコンサートというより、サロンと呼ぶほうがふさわしかろう。リヒテルはミケランジェリほどではないにしても、気むずかしくてキャンセルも多いことで知られていただけに、すごい話である。もし私に堤氏なみの経済力があったら、同様の使い方をしてみたい。
ちなみに、リヒテルは気むずかしい一方で、ときたま意外な時と場所で弾いたりする人ではあった。たまたまある日本式の建物を気に入って、そこで演奏をしたくなったのが話の始まりだという。ただし、容易に想像できる通り、音響はとてもではないがピアノ向きではなかったらしい。当時を回想する人々の苦労話が解説書に入っていて、おもしろい。
幸い、このCDを聴く限りでは、悪条件が気になることはない。それどころか、小さな空間で聴くドビュッシーはもうたまらないものだったのではないかと推測されるほどだ。すばらしく精妙な響きに耳を奪われる。それでいて神経質な感じがない。たぶん、大ホールでないので心理的、技術的に楽なのだ。とてもくつろいだ感じがする。速い曲ものびのびとしている。あたたかみがある。リヒテルの澄んだ音はしばしば冷たい感じがするが、これは全然そうではない。
私は必ずしもこのピアニストを高く評価はしていない。私と同様か、それより上の世代の人たちは、この人のできのいいコンサートに遭遇して打ちのめされていたが、残念ながらそういう機会に恵まれなかった。それでもこのドビュッシーは掛け値なしにすばらしいと思う。
ほれぼれするほど美しい。幸せな気持ちにさせられる。こんなドビュッシーはほとんどなかろう。
(きょみつとし 音楽評論家、慶応大学教授)
評論家エッセイ情報ブロンズ・ゴールド・プラチナステージの場合です。
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輸入盤
ドビュッシー:前奏曲集第1巻より、ハイドン:ソナタ集、他 リヒテル(1984年 蕉雨園ライヴ)
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