「チッコリーニにいじられたい」

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2014年1月20日 (月)

連載　鈴木淳史のクラシック妄聴記　第53回

「チッコリーニにいじられたい」

　演奏会に行ったあと、何日も経つのにアタマのなかがヘンテコな動きをしているのを感じたり、深夜に突然やっほーなどと叫びたくなる。もうこれは完全に脳味噌をいじられたのであって、当然そう頻繁にあるものではなし、神の差配か悪魔の悪戯か、身体に妖気が満ちてきて、とまれ、これは猛烈な勢いで自分のなかに音楽が入ってきた証左でもあろう。

　最近では、カンブルラン指揮読響の演奏会にすっかり脳味噌いじられた。まるで教会で古楽器を聴いているようなガブリエリによって響きへの意識がむくむく高まり、ベリオで一気にその意識が爆発的に拡大、耳の穴が３倍くらい大きくなったところで、最後にノリノリなベルリオーズを注ぎ込まれたのだった。

　アルド・チッコリーニには、一昨年の来日公演以来、じわりじわりと脳味噌をいじられ続けられているような気がする。ここ数年来日するたびに、ふわふわ度が高まっていったのだけれど、前回の公演での、すべての日常的な法則を乗り越えた世界に行ってしまったような境地の音楽が、ずっとアタマのどこかに残ったまま。
　そのチッコリーニが昨年レコーディングしたディスクが出ている。三拍子、ワルツの曲ばかり集めたアルバムだ。今の彼には、長大なソナタ作品よりもこういった可愛らしい小品がよく似合う。

　たとえば、サティの《お前が欲しい》。情熱もなければ、諦念もない。世俗的なものがすっかり抜け落ちており、最後の和音が弾かれた後には、そこで何もかもが終わったような不思議な余韻が残るのみ。
　アルバムの最後を飾る、ブラームスのワルツの第15番とタイユフェルの《ヴァルス・レント》はとりわけ美しい。一音一音が律儀に、そして柔らかく導き出され、それがまったく何のしがらみもなく、そこで浩然と響いている。

　以前にも録音した曲が多いので、聴き比べてみるのも興味深い。かつて1983年に録音されたサティ作品は、カラリと晴れわたった音色でキビキビと動く。この健康的な感じが、他の場末感漂わしたサティ演奏とは対極的だったなあと、往時を懐かしく思い出す。
　一方、ドビュッシーの《レントより遅く》は、最新録音よりも1991年のもののほうが、テンポも遅く、濡れたシャツのように重たい。チッコリーニには、こういう時代もあった。現在の彼では考えられないような、ぬめっとした重さ。

　現在90歳に手が届きつつあるチッコリーニ。往年はもっと、サクサク快調に進むテンポとドライで澄み渡った表情で弾く印象が強かった。あまり情感に惑わされず、リズムを明確に打ち出して、キッチリと弾くタイプ。
　最近は、さすがにテンポは遅くなった。とはいえ、これまでの彼の演奏の特徴を文字にして並べてみると、今でもさしたる相違はないのではないか。しかし、以前とは音楽から受ける印象がからっきし違うのだ。

　たぶん、チッコリーニは、昔と変わらぬ感覚で弾いているのだと思う。以前のようなテンポで、キッチリと。でも、彼のなかの何かが、常識的な範囲を超えているのだ。おそらく、彼はそこに気づいていない。だからこそ、わたしたちの想像もつかない、自由で浮遊感に満ちた音楽がそこに降りてくる。
　彼は地に足を付けて普通に歩いていると思っているのかもしれないが、わたしには彼が宙をふわふわと舞っているように見えてしまうのだ。

　抗しがたい力でその音楽がわたしのなかに入ってきて、何も恐れるものなどないのだぞと、ふわふわな心地のままに往来に繰り出し、宙を舞うべく一歩を踏み出したところ、段差に足を取られて転倒しそうになった。常人にとって、ふわふわしたままでは生きにくい世の中である。

（すずき　あつふみ　売文業）　