「ラトルのカルメン」

2012年12月28日 (金)

連載 許光俊の言いたい放題 第213回

「ラトルのカルメン」

 日本でもすっかり人気が定着しているピアニストのファジル・サイだが、イスラムの価値観と衝突したがゆえに、苦境に立たされているという。そんなニュースが伝えられたとき、たまたま、今年出ていた彼の伝記を読んでいた。『ファジル・サイ ピアニスト・作曲家・世界市民』(オッテン著、畑野小百合訳、アルテス)である。おもしろかった。著者が特にすぐれているとは思われないし、むしろ凡庸な感性の持ち主と想像される。つまらぬ饒舌も見受けられる。それでもなお、読んで得られるものは多い。翻訳が流麗で、注が親切なのもよい。
 演奏だけ聴くと、自由気ままに振る舞っているようなサイだが、その人生には、相当の波乱があり、危機や危険があり、苦労があった。やはり、人を圧する迫力を持つ芸術を生み出すためには、こうした暗部が必要なようだと痛感させられた。なるほど、芸術は美を求めることである。祈りでもある。だが同時に、戦いでもあるのだ。
 イスタンブールは、観光客として訪れるだけなら、意外に西欧的な街である。そして、トルコ自体もイスラム諸国の中ではもっとも西欧寄りの国である。だが、そうは言っても、そこは西欧ではないし、完全に西欧化されているわけでもない。端的に言って、トルコでクラシックの音楽家になることは、生活面でも文化面でも決して安全なことではないのだ。その事実に、私は虚を突かれた。たとえば、自由な芸術を求めるギャラリーが保守的な人々に襲われるということもあるという。いつでもどこでも自由な表現活動に我慢できない人々がいるのである。サイの場合も、当局と少なからぬ摩擦があるという。決してスターとして大歓迎されているわけではない。
 日本にもタブーがないわけではない。たとえば、戦争のすぐあとよりも、今のほうが皇室や国家や国旗をめぐるタブーめいた雰囲気が強くなっているのではないか。悲惨な経験をして間もないだけに、1960年代までは、こうしたものに直感的な嫌悪を表現する文学や映画は決して少なくなかったのだが。そう考えれば、決してサイのケースは他人事ではない。
 私がトルコを訪れたのはもう20年も前だけれど、もう一度じっくり、ゆっくり様子を見てみたいという気がしてきた。いにしえの建築や遺跡を見て楽しむだけでなく、もっと生々しい姿を見なければいけないと思われてきた。たぶん、サイの音楽をもっと深く理解するためにヒントが見つかるだろう。
 
 2012年は、ことのほかSACDが活況を呈した年ではなかったか。多くの有名な演奏がSACDで再発された。たとえば、EMIの大規模なシリーズなど、好きな演奏がある人はもう1度改めて聴いてみる価値はあろう。思いがけない空間性や生々しさを感じさせるものがある。逆に期待したほどではないものもある。ケース・バイ・ケースである。
 私の場合には、バルビローリ指揮のマーラーの第5交響曲が、CDよりずっと迫真性をもって聞こえたのがとても印象的だった。今まで知っていたよりも旋律の歌わせ方が繊細な色や起伏やニュアンスを持っていて、それが情念の濃さに結びついていることがよくわかった。

 EMIといえば、ラトル指揮の「カルメン」が想像していたよりおもしろかった。この「カルメン」は、私が生では聴かなかったものである。どうせ見当外れで場違いの演奏が繰り広げられるに違いないだろうと侮ったのである。
 実際その通りだった。一般的なオペラの快楽も、「カルメン」らしい魅力もほとんどありはしない。だが、オーケストラの異常なまでの精密さには度肝を抜かれるはずだ。冒頭からしてあまりに重量級の響きや堅いリズムで押しまくる。管楽器のアンサンブルの密度は、おそらくSACDだからわかる超絶的なもの。まるで舞台の上で名手の遊びを目撃しているかのようで、これはこれでたいへんな聴きものだ。「カルメン」の本筋、本質にはまったく関係がないのだが、ついつい嬉しくなってしまう。あのさ、キミら、これは木管アンサンブルのための曲ではないのだからね、とニヤニヤしながら嫌みを言ってみたくなる。
 さらには、合唱が、まるでかつてのケーゲル指揮の「カルメン」みたいに荘重で深刻なのも気に入った。どうせフランス的な演奏でないのなら、このように独自性を突っ走ってくれたほうがよほどありがたい。2時間退屈しないで聴けることは間違いないユニークな「カルメン」である。 (きょみつとし 音楽評論家、慶応大学教授) 



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