「激安オペラ三昧」

2010年1月9日 (土)

連載 許光俊の言いたい放題 第173回

「激安オペラ三昧」

 昔からクラシックを代表する名盤とされていたオペラ全曲が、目を疑うほど安くなっている。たとえば、フルトヴェングラー指揮の「トリスタンとイゾルデ」や、カラスが出演しているさまざまな録音だ。もともとはEMIの音源だが、こんなものが激安になってしまうなんて、普通の値段ではもはや売れないと判断されてしまっているのか。あるいは、制作後50年を経て著作隣接権が消滅し、さまざまな会社から発売されるであろうことを見越して先手を打っているのか。
 フルトヴェングラーの「トリスタン」は、この指揮者の数ある録音の中でも一番すばらしい部類に入る。正直言って、私はフルトヴェングラーのライヴ録音があまり好きではない。実際に会場にいたわけでもない私にとってはテンポの変化などがあまりに極端すぎるように感じられてしまうのだ。それに合奏が乱れ過ぎるのが不快である。機械的な正確さが何よりも大事というわけではないが、現代の精度に慣れた耳には耐え難い瞬間が多々あるのだ。
 その点「トリスタン」は、大げさなことはしていないにもかかわらず、にじみ出てくる凄みがある。この録音が作られてから半世紀、ベームやバーンスタインやクライバーによって立派な演奏が世に出された。だが、やはりこのフルトヴェングラーは別格ではないかという気がする。
 実は昨年、今をときめくふたりの指揮者による「トリスタン」を聴いた。ハーディング指揮のマーラー室内管(第2幕のみ)、ラトル指揮のウィーン国立歌劇場だ。ハーディングは悪くはなかったが、深みがまったくなかった。ラトルのほうはオーケストラの反応が悪すぎ、イライラさせられた。ラトルの音楽としてまったくできあがっていなくて、これでは批評の対象にならないほどだ。ダメなときのウィーンは、本当に救いようがない。期待しただけに、落胆も大きかった。唯一おもしろかったのは、ラトルの指揮台にコップ2杯の水が用意されていたことである。新陳代謝が盛んな人であることがよくわかった。
 いずれにしても、精神性がないただ情熱だけの「トリスタン」は退屈なものである。彼らの演奏を聴きながら、これだったらフルトヴェングラーを家で聴いているほうがよほどいいなと思わされた。
 最近はDVDが安価になった。決して多くはないにしても中にはおもしろいものもなくはない。だが、音をじっくり楽しむべき演奏も存在するのだ。このフルトヴェングラーなどはその最たるものだろう。ただ官能だけではない、運命の重みを感じさせる前奏曲や第2幕はその好例である。

 カラスがジルダを歌った「リゴレット」は、かつてジュリーニの録音がDGから発売されるまでは第一に聴くべきとされていた盤だ。モノラルとはいえ、歌唱や演奏を楽しむにはまったく問題ない。
 ジュリーニは確かにいい演奏ではあるのだけれど、ちょっと静的に過ぎるというか、抑圧的な重苦しさがありすぎるように私は思う。救いようがない暗いストーリーではあるにしても、だ。一般的なオペラ・ファンには、こちらのほうがよほど楽しめるのではないだろうか。セラフィン指揮のスカラ座管弦楽団は、ジュリーニとウィーン・フィルのようにいかにも注意深く演奏しているわけではない。といって、緩んでいるわけでもない。ちょっとロッシーニを連想させる軽さがあって(たとえば第1幕のマントヴァ公とジルダの二重唱が終わったあとの軽快な疾走)、これがイタリアの伝統的な感覚なのだろうなと思う。ウィーンをはじめとするイタリア以外のオーケストラだとどうしてもまじめすぎ、重すぎになってしまうのだ。ワーグナー風の渋顔と言おうか。イタリア・オペラの芸能っぽさがなくなるのである。
 「オテロ」のヤーゴ役で一世を風靡したゴッビが主役を歌っている。娘が消えてしまい、「どこにいるのか知らないか」と聞いてまわるシーンでは、ドキリとするほど嫌らしい声音がたまらない。めそめそから怒りまで硬軟強弱取り混ぜてここまでやるかというほど表現力全開である。イタリア・オペラ好きなら一度は聴いておくべき芸である。
 マントヴァ公を歌っているディ・ステファノがどんぴしゃりである。軽薄さ、甘さが、まさにこの役にふさわしいのだ。ドミンゴあたりが歌うと、立派すぎてちょっと、いやだいぶ違うなあと思ってしまうのだが。その一方で、第2幕冒頭ではただの軽薄野郎で終わらぬ情熱も表現している。

 カラヤンとシュヴァルツコップの「ばらの騎士」も、長年この作品の最高の演奏とされてきたもの。速めのテンポで快速に進んでいくにもかかわらず、色っぽさ、艶っぽさが十分あるのがいい。シュヴァルツコップの演技を見るためにはDVD(こちらも安くなった)を買わねばならないし、その価値はもちろんある。ただ、オーケストラだけならこっちのほうがきりっとしていて好ましい。カラヤンの演奏様式は当時の人にさぞ新鮮に感じられただろう。1980年代の古楽が人気を得ていく期間、人々はとにかく古楽のサッパリした味が新鮮だと喜んだものである。それと同じだ。

 小説の名作は、高価な初版で読もうが、全集で読もうが、文庫だろうが、基本的には同じである。音楽にしたところで、微妙な音質の差はあるかもしれないが、安い盤で聴いたって一向構わない。その音楽の特徴がきちんと聴き取れる人にとっては多少の音質の差など大きな問題ではない。最近は素材にこだわり、音質を向上させた(と称する)盤が高めの値段で売られている。その違いにこだわりたいならそちらを買えばいいが、私なら安い盤をたくさん買うだろう。

(きょみつとし 音楽評論家、慶応大学教授) 

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