ミヒャエル・ギーレン

指揮者・作曲家のミヒャエル・ギーレンさんが3月8日、オーストリア、モントゼーの自宅で亡くなられました。心よりご冥福をお祈りいたします。

【ミヒャエル・ギーレン】
ミヒャエル・アンドレアス・ギーレンは、1927年7月20日、高名な演出家の父親と女優の母親というきわめて劇場的な環境のもと、ドレスデンで誕生。
 その後、父がベルリン国立歌劇場の指揮者クレメンス・クラウスに招かれたため、ベルリンへ移りますが、同地が反ユダヤ政策の本拠地であったこともあり、母がユダヤ人のギーレン家は、ウィーンへ逃れることになります。
 しかし、1940年にはオーストリアはナチス・ドイツに併合されてしまったため、父がエーリッヒ・クライバーから招かれたこともあって、一家はアルゼンチンへと亡命。
 同地でギーレンは、作曲・ピアノ・理論・哲学を学び、テアトロ・コロンの練習指揮者をつとめます。
 その間、1949年には同テアトロ・コロンで作曲者の生誕75周年を祝い、シェーンベルクのピアノ作品全曲演奏会を開く一方、『弦楽四重奏のための変奏曲』を作曲するなど、若い頃から前衛的な作品への取り組みはきわめて積極的だった模様です。
 同時に歌劇場の練習指揮者として劇場人としての経験も積んでおり、1950年からウィーン国立歌劇場の練習指揮者も務め、1952年には指揮者として正式にデビューしていますが、プログラム前半はシェーンベルクのピアノ曲、後半は『兵士の物語』というなんとも斬新なものでした。
 また、この頃にはまだ若かったアルフレート・ブレンデルとシェーンベルクのピアノ協奏曲の世界初録音をおこなっています。
 そうした実績が買われてか、1960年から1965年にかけてはストックホルム王立歌劇場の首席指揮者として、また、1965年から1968年にはケルン歌劇場でも活躍。
 この頃の前衛的活動としては、B.A.ツィンマーマンのオペラ『兵士たち』の初演(1966年)や『ある若き詩人のためのレクイエム』初演(1969年)という二大傑作への取り組みが有名です。特に前者は演奏不可能と言われていた作品だけに、ギーレンの果敢なアプローチが果たした役割は非常に大きなものと思われます
 その後、1969年からはアンドレ・クリュイタンスの後任としてベルギー国立管弦楽団の首席指揮者となり、1973年から1975年はオランダ歌劇場、1977年から1987年はフランクフルト歌劇場の芸術総監督、シュトゥットガルト放送交響楽団の指揮者としても活躍。
 同じ頃、1978年から1981年にはロンドンのBBC交響楽団の首席客演指揮者、1980年から1986年にはシンシナティ交響楽団の音楽監督も務め、1986年から現在までは南西ドイツ放送交響楽団の首席指揮者として世界的名声を獲得しているのは周知のとおり。
 日本には1975年と1972年にNHK交響楽団の招きで来演して以来しばらく音沙汰が無く、ようやく1992年に手兵の南西ドイツ放送響と来日して、そのときは一部で大いに話題になったものです。
 レコーディングは1950年代後半からおこなっており、レパートリーはバッハから前衛音楽まで実に多彩。1970年代には名高い『モーゼとアロン』をレコーディングして大きく注目され、以後、複数のレコード会社にさまざまなレパートリーを録音してきました。

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