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Review List of 蝉の抜殻 

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  • 22 people agree with this review
     2011/06/11

    レビューには誠実に感想・印象を語るタイプ。視点を持って分析を提示してくれるタイプに大きく分かれる。ただ、困ったレビューもある。「良い演奏には構造も音色も技術も物語も感情も何でもある」と紹介するレビューだ。例えば某教授のレビューは私も参考にするのだが、気に入った演奏には全てが備わっていると無邪気にはしゃがれると、正直私は困惑する。気に入った演奏を誉めることは良いことだが、それでも責任ある影響力を持つ人のレビューは正確であって欲しい。全てを手に入れることはできない。これは世界の全てを知ることができないことと共通する。全てのあらゆる物を描きつくすことはできない。音楽の世界はそれほど狭いものではないから当然だと思う。しかし、視点を導入し、その視点の範囲で全てを描きつくそうと試みることはできる。優れた演奏とは、明確な視点と立場を持ち、ブレない。その中であらゆる可能性を追い求め、独自の世界を構築するようなものだと思う。MTTのマーラーは正直異色だ。特に6番7番8番が最もわかりやすいのだが、徹底してリズムの再現に徹しており、特に7番で解釈上議論の的になるトレモロと16分音符処理の使い分けは、リズムのために使い分けるという徹底ぶりで、まさにリズムゲーム。ちなみにコクとは成分が留まった状態だが、MTTはそのような安易な表現を徹底的に排除している。蒸留水のように透明感溢れるオケの音色。音色の成分が留まった状態で、この表現は無理だ。だから、このオケは機能を使いこなせない指揮者が振ると鳴らないのだが、構造と成分を自在に使いこなす名手にかかると、現在世界最高峰の透明で濁らない音のテクスチャを聴かせてくれる。本当に凄い指揮者でなければ本当の高機能オケは使いこなせないし、鳴らない。それを抜群に凄い録音で聴かせてくれる。最近のメジャーレーベルは、デジタルを音を録るために使用せず、音を操作するためにデジタルを使う。最近のメジャーの録音が、電子ピアノかシンセサイザーのように聴こえてしまうのはそのせいだ。しかしこのレーベルは、デジタルを音の再生と音場の再現のために使う。空間としての音を収録するためにデジタルを使用する。でも、これが本来の使い方なのではないか?SACDのセットは高いかもしれない。しかし、この音、トレーニングされた音、吟味されて収録された音を聴けるなら、盤質も最高のものが手に入るなら、むしろ安い買い物だ。安い全集を買ってシンセサイザーのような音でガッカリするより、本物のプロ集団の録音にかける情熱を聴こう。盤の材料費が安くなると、当然音も安くなる。良い装置ほどそれは明確にわかる。SACDでマーラー全集を聴くなら、現時点で文句無く最高。私もほとんど持っているのだが、この10年余りで技術は飛躍的に進歩している。もしかして初期の録音はリマスタリングやり直しているかもしれない。是非買い直したい。この演奏は安い盤質で再現しきれるようなものではないと私は思う。これはそのような商品だ。「この演奏に関してはSACDでなければダメ」と主張しても言い過ぎではないと思う。逆にSACDでなくても十分にパフォーマンスを聴ける、そのような程度の演奏ではない。これは言い切って良いと思う。

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  • 8 people agree with this review
     2010/09/18

    ドビュッシーの音楽の特徴だが、例えばラヴェルの場合、不協和音は和音の中心にクラスターになって配置され、隠されている。しかしドビュッシーの不協和音は中心和音から離れて配置される。基本的に中心和音が存在しない音域。高、中、低のどこかに不協和音が配置される。そこがポイントだと思う。主題の連続変形、極端なダイナミズム記号の謎、コラージュ的な解釈の導入、ハーモニーの推移の可能性など、ドビュッシー解釈の重要なポイントは、その「不協和音」との関係を抜きにして論じることはおかしいのでは?ドビュッシーは中心和音と別の音域に存在する不協和音を明確に描き分けて、初めてドビュッシーになる。と、私は考えます。事実を書いて申し訳ないが、ドビュッシー演奏のほとんどは面白くない、でもそれはドビュッシーのせいではない。それを音楽に出来ない演奏家のせいだ(その種の演奏は、中心和音と不協和音の描き訳が何故か出来ていない)。この録音では中心和音と不協和音の描き訳が実に見事だ。それぞれがどう関連して発展していくのか、ここまで追及した演奏は聴いたことがない。というより、ここまで不協和音に自覚的な演奏はなかったのでは?と思う。画期的な演奏という意見に大賛成です。最高です。

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  • 8 people agree with this review
     2010/09/18

    歌劇「ペレアスとメリザンド」の演奏が圧倒的に凄い。本当に見事だ。音色は驚くほどに地味。他の指揮者の演奏が、音色を重視して操作したスタインウェイのようだと形容すると、アンゲルブレシュトは古いが、良く整音されたベヒシュタインを操作しているかのようだ。普通の指揮者が精密、豪華絢爛に攻めても、小さな部屋で音楽が進行しているかのように聴こえるこの曲。ドビュッシーの音楽は音色の幅を広げるだけでは駄目だ。そのレベルでドビュッシーを取り繕う演奏群を一蹴するかのように、アンゲルブレシュトの演奏は、色彩を落とした諧調表現のようにも聴こえる。しかし個々の音のエッジは明瞭に出されている。例えばラヴェルの曲が和音の中心に不協和音のクラスターを配置する作風のため、静かな響きでは空間に広がっていかない。しかしドビュッシーの不協和音は基本的に中心和音から離れた別の音域に配置される。そのため静かな響きを作っても、高音域から低音域まで豊かに広がる。アンゲルブレシュトはその和音の響きの違いを明確に聴かせるために、最適の音色を選択している。ドビュッシーの開拓した、協和音から構成される中心和音と別の音域から関わってくる不協和音とが作り出す響きの世界。その豊かさに感心している間にこの稀代の名演は終わってしまう。ドビュッシーの曲に音色旋律の考えを導入したり、やたら精密に細部を描きこんだり、豪華絢爛の音色を持ち込んだり、表層を緩やかに処理して音色を溶かし込むような演奏は単なる勘違いで、和音の違いを聴くという行為を妨害する行為でしかない。だから雑誌等でこの曲の代表的な名演といわれているブーレーズとかカラヤンは、その他の演奏と比較すると飛びぬけた圧倒的な演奏なのだろうが、残念ながらドビュッシー演奏において最も大切な「協和音と不協和音の描き分け」において、残酷な現実だが、アンゲルブレシュトの足元にも及ばない。ドビュッシーの音域の対比効果がわかる人にとって、これは最高の演奏の一つ。歌劇「ペレアスとメリザンド」をつまらないと思っている人は多いはずだ。でもそれは演奏が良くないのだ。「ペレアスとメリザンド」は大傑作だ。その真価はドビュッシーの音域の対比効果を使いこなせる本物のプロでなければ表現できない。それだけのことだ。私はディスク・モンティーニュ盤を持っているが、もし音質が改善されていたら買い直すつもりです。

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  • 14 people agree with this review
     2010/08/28

    遂にでる。20世紀最強のベートーヴェン全集。1977年11月13日から18日にかけて日本で演奏されたカラヤン+BPOのベートーヴェン交響曲全曲演奏のLIVE。5番6番はテレビで放送され、他の演奏はFMで放送された伝説の「超」がつく演奏。会場で聴いて度肝抜いた人もいたでしょう。この演奏はBPO創立100周年記念コンサートの「英雄」とマーラーの第9、1983年8月のザルツブルグ音楽祭での一発録りLIVEのブラームス交響曲全集(「英雄」以外は正規ルートでは入手できない)に匹敵する物凄いもの。カラヤンのベートーヴェン交響曲は、この録音群と、100周年記念コンサートの「英雄」こそが真に最高の名に値する演奏です。何故カラヤンとベルリンフィルが「世界最高」と謳われたか、これを聴けばそう判断せざるを得ないでしょう。磨きぬかれた高機能オケの、圧倒的な音の厚み。絶頂期のこのコンビがどれほど物凄かったか、今回特にマニアが喜ぶのはこの5番6番。これは今までモノラルでしか入手できなかった。それがステレオ音源とは驚きです。とにかく御自分の好きな曲を一つ買ってみて聴いてみて下さい。おそらく全部欲しくなると思います。余談ですが、1979年の普門館ライブレベルと一緒にしてはいけません。次元が、格が桁外れに違います。1977年の11月のLIVEこそが、20世紀最強の演奏の一つと語り継がれている本物の「伝説の普門館ライブ音源」です。

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  • 11 people agree with this review
     2010/08/12

    発売当時物議を醸し出した問題作。ほとんどの雑誌が「どうしてスタジオ録音をしなかったの?」のみで文句をつけたのが印象に残った。皆「空前の精度による完璧なスタジオ録音」を求めたのだ。エマーソンなら可能だっただろうが、彼らはそれを見事に裏切る。それ以上に全曲LIVE収録という無謀な試みに挑戦する。出てきた録音は過剰な響きを厳しく排除し、線を明確に聴かせ、ベートーヴェンの様式でおそらく限界だろうリズムとスピード、それをバルトークでも演奏するかのように多様な奏法を叩き込んだ、スタイリッシュでクールでカッコいいベートーヴェンだった。初期の作品群は形式美とかバランス重視の曲で、古典的なのだが自己主張が強く、ハイドンより少しダサかわいい曲群だが、エマーソンは、例えばイギリスのロックバンドが貴族の軍服をファッショナブルに着こなすような、ダサイけどカッコいい演奏に仕上げている。中期、誰が演奏してもそれほど代わり映えしないラズモフスキーを抜群のスピード感で失踪させる。中期から後期の、響きが不必要に膨らんで、和声以外が潰れやすい作品では、余分な響きを整理し、シャープでスタイリッシュな音響を聴かせてくれる。後期の14番がまた見事で、速度を様式の限界まで上げている部分の立体感は、これまでどの団体からも聴けなかったものだ。全曲通じてスタジオ録音なら当然録り直し間違いなしの、バランスが危うい部分も何のその、時間の流れの中で、最良の表現を模索する彼らの試みは見事だ(さすがに大フーガだけはあちこちが破綻しまくりで残念。やはりこの曲は難しいのだろうと思う)。雑誌で不評を買い、評論家をムカつかせ、DGもよく冒険したと思うこのベートーヴェンSQ全集。その後DGはSQ全集を作らせてない。精緻で完成度の高いキズのない全集より、キズだらけ欠点だらけだが、ハートが炸裂するスリリングな熱い塊の方が私には好ましい。音楽は演奏家が個人で作るものではない。演奏者達だけが作るものではないし、ましてそれを押し付けるものでもないと思う。演奏者とそれを聴く聴衆。それぞれの相互作用で初めて生きた音楽は可能になる。エマーソンの一連のLIVE物は本当に素晴らしい。今後スタジオ録音で、より精緻で完成度の高い演奏は出てくるだろう。しかし、LIVE収録でこれ以上のモノはなかなか難しいと思う。完成度の高い演奏を希望される方は他を探した方が良い。それだけは気をつけてください。

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  • 11 people agree with this review
     2010/08/11

    テンシュテットの表層は確かに凄い。でも最初の数小節を聴けばわかるが、本来テンシュテットは楽曲の設計を完璧に仕上げてくる人だ。最初の和音で終止が予測できる。構成の見通しが極めて良好。これが彼の演奏の元々の形のはずなのだが、演奏が発熱してくると、それが崩れてくる。衝動が押えきれなくなるのだろう。音の上に音を重ねる彼の手法が作品を内側から変形させていく。完璧だったはずの原型が崩れていき、崩壊寸前で構造上にバランスを取ろうとする。テンシュテットの音楽が並外れてスリリングに聴こえるのはそのためだ。この演奏も冒頭は完璧な構造美。しかしそれが崩れていく。ここでVPOは頑固なまでに自分達の音出しに拘る。テンシュテットが指示が出るのだろう。VPOの音が揺らぐ。ますますVPOが自分達の音を死守しようとする。しかし揺らぐ。オケの内部で奏者ごとの葛藤が起こっていることが明確に聴き取れる。うねる。聴いたことの無いような響きに飲み込まれていくオケ。そして「英雄」は終わる。凛とした「英雄」が変容する凄さ。次にマーラー。冒頭で、再度自分達の方法を強烈に主張するVPO。しかしその存在証明でもあるはずの彼らの音が、次々にうねりの中に投げ込まれていく。それでも美音を死守しようとしているのがわかる。VPOでなければ、これは濁りになっていたかも知れない。次々にテンシュテットの指示が通っていく。それでも「音出し」だけは死守するVPO。聴いたことが無いような美音と混沌のうねり。この10番アダージョの解釈は、全体の中の1部と位置づける人と、このアダージョ単品で解決する人とに大きく分けられるが、この演奏は後者。そのため終止に向かって、崩れかけた構造と音の上に音が重なる進行とVPOの美音がカオス状態で落ちていく。その凄さ。私がテンシュテットに常に感じるのは「構造上に崩れゆく過程の地獄的様相」であり、表層の激しい、大人しいは全く関係ない。両者は2度と競演しなかったそうだが、互いの魅力を認めつつも、そのやり方に納得できない者同士が実力の高い部分で実現させた、本当の意味での「一期一会」の演奏に間違いないと思う。元々音の良い音源で有名だったのですけど、それを加味してもアルトゥスの仕事は見事です。

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  • 7 people agree with this review
     2010/07/29

    「冷たい音楽」と形容された場合。それはどの程度の「冷たさ」なのか?はっきり指摘する人は少ない。クーラーなのか、扇風機なのか、プール程度?それとも氷か氷河か絶対零度か。そうゆうコトは明らかにして欲しいと思うのは私だけだろうか(違うと思うけどなあ)?ソロの場合、タローの「冷たさ」は体温よりは明らかに低い。寒く感じる。暖かさが欲しい。1人のままだと夜は凍えてしまうかもしれない。そういう「冷たさ」だと私は思う。その中で精密に音を並べて見せるラヴェル。私の好きなラヴェル演奏は、圧倒的に精密な描写で他の追随を許さないフランシェス。いわゆる教科書通りかもしれないが、徹底して基本どおりに弾き込む凄さを教えてくれるロルティ。表現の多彩さで聴き手を振り回すラティック。彼らの演奏では中心和音の内部で不協和音が蠢く有様を聴き取ることができる。いくら精密でもその中心で不協和音が蠢く様子を聴かせてくれなければ、いくら方法論が面白く、声部を整理されても私は困る。タローの演奏は彼らの演奏に比べると、おとなしい、印象も「冷たい(笑)」。精密に音を並べる。全てを音型を部品のように並べる。冷静に組み上げられた静的な構築物。きれいに組み上げられ整理されているので、それぞれの部分がどのような特徴があるのか良くわかる。私は好きだ。表層でアピールしないその姿勢がとても好ましい。私はこの演奏やラヴェルの作品から感じることは、冷静に徹して論理的に計算され整理される行為が多彩な表現を引き出す驚きのようなものだ。それは「理性的」な凄みといったものではないのか?私見で申し訳ないが、「狂気」とはもっと不条理なものが行き過ぎるような状況だと思うのだが。

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  • 9 people agree with this review
     2010/07/28

    ノットの音楽はとにかく細かい。徹底して細部に向かっている。マーラーの交響曲は、世界で鳴り響くあらゆる音風景から成り立っている要素があって、かなり騒がしい。外部から圧力がかかり、様式が歪む。交響曲というよりは詩篇的で動的な音楽のようにも思える(そういう演奏が多いけど)。そういったものから一旦音楽を隔離し、ゆったりとしたテンポでひたすら精密にクールに展開する。そこには交響曲のロジックが浮かび上がっている。誤解の無いように断っておくが、私はノットの演奏で「マーラーを聴きたい」とは思っていない。「マーラーをどう演奏するか」を聴きたい。私見で申し訳ないが、ノットのマーラーは精密描写によるロジックと形の世界だ。このチクルスは骨格だけの交響曲である5番から始まり、これまで、交響曲のカテゴリーで分析可能で理解できるものから進行していると思う。この9番も歴代の演奏と比較すると相当に変だ。物語としての間、とか広がりとか、は排除され、音が主張してこない。ただ音同士が関係しながら進行する。まるでハイドンのようなコテコテの交響曲。この演奏で聴くと純粋な交響曲として9番は凄いなあと思うし、形式感を重視する聴き手だったら最もシックリ来る演奏ではないだろうか?さて、様式マニア(こんな人いるのかなあ(笑))にとって、いよいよこれからが本当の楽しみ。ノットは明らかに交響曲の形にこだわっていると思う。果たして、解決が失敗する反則の交響曲6番の、最後の音をどう鳴らすのか?交響曲の死亡通知書とも言われている7番はどう診断するのか?大地の歌が何故交響曲なのか、これも明らかにしてくれるのだろうか?誰が演奏しても交響的組曲になってしまう3番の構成に論理的な解答を出してくれすのだろうか?マーラーの交響曲に交響曲の論理と手法を徹底的に押し付けて、果たして何が聴こえてくるのか、ノットのマーラーは今後が楽しみ、その手法が半端でなくしっかりしているので期待大です。初めてノットを聴いてみたい人にもこの9番はお薦めです。

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  • 6 people agree with this review
     2010/07/25

    今回の、このシリーズはピアノ協奏曲を除いて、ほとんどが80年代のベルリンフィルシリーズで放送されているので、私のように録音して所有している人も多いと思う。内容は最高。テンシュテットの演奏を聴いたカラヤンが彼を次の常任指揮者に即指名したのも納得の凄い内容です(BPOとのスタジオ録音しか知らなかったらピンと来ないと思うけど)。今回発売されるモノでは、私見ではドヴォルザークがお薦め、曲の概念をひっくり返すような凄い演奏(特に9番の「家路」)。マーラーも真っ青の内容です。ところで、次のシリーズで伝説のBPOとのマーラーは出るんでしょうねえ。期待しております。良い音質で聴きたいです。テスタメント頑張れ!!ちなみに私は何回かに分けて、このテンシュテットのシリーズは全部買います。ま、内容を知っていたら当然です。

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  • 3 people agree with this review
     2010/07/24

    「美しき水車小屋の娘」。私見で申し訳ないが、何故かこの曲集には良い演奏がない。しかし、このDVDは別格。ディースカウの抜群に巧い歌唱と、自分の好きなことにしか興味を示さないのに、楽曲の構成を表現させると抜群の見通しの良さを聴かせるエッシェンバッハの伴奏を、天才モンサンジョンが収録した決定的な演奏。録音では、どちらかと言うと「語る」要素が強いはずのディースカウが歌っているのが驚きだし、ディースカウの演劇的な演出の巧さも圧倒的だ。嵌りまくっている、それを理解して支える伴奏が驚異的に巧いのだ。特に裏の主人公の「小川」がその仮面を剥ぎ落し、悪魔的な形相へと変貌していく過程は空前絶後、鳥肌モノの凄さだ。この曲集は基本テノールなのだが、裏の主人公「小川」を表現するにはバリトンの方が向いていると思える。この演奏の欠点は表の主人公「職人」がどう聴いても若者のようには聴こえないこと(笑)。しかし、それはこの圧倒的な表現の前では些細なことだ。それにしても「小川」の表現で、コレを超えるものは今後出てくるのだろうか?

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  • 20 people agree with this review
     2010/07/16

    全てのフレーズに音色を振り分けることが出来、それが音楽的に機能するという、とんでもない才能の持ち主だったシノーポリ。80年代に某権力闘争に巻き込まれ、某本の誹謗中傷でイメージを落とされ、まあその結果90年代に入って音楽が変貌し、「変態」とも称された異様な時期があり、ドレスデンに移ってから、オケが彼の特異性を緩衝してくれたおかげで、誰にも真似ができそうにない独自の音楽を残してくれたシノーポリ。彼の、細部にまで色彩を与え、曲をほじくりまわす手法は(だから分析的と誤解されたけど)、様式が悲鳴をあげるマーラーの音楽に向いている。私見で申し訳ないが、ベルティーニやインバル以降、興味ある新時代のマーラー指揮者といえば、徹底したリズム解析と正確な処理で、新時代のマーラー演奏の一つのスタイルを作りつつあるMTTがまず挙げられるが、シノーポリも、内部から圧力がかかり様式が歪む、いわゆるほとんどの演奏で聴かれるような外側からの強度で曲が揺さぶられる手法とは全く異なるアプローチで、相当に興味深く、新時代を開いた1人だったと総括して良いと思う。シノーポリはいわゆる「構造」を描く指揮者ではなく、そのアプローチ法は極めて表層的なのだが、ここまで徹底すると、曲の構造に独特の光が当たり、驚かされる。返って構造重視を唱える指揮者より、明確に構造が聴き取れるのだ。「構造」「構造」と主張する指揮者などより、よほどシノーポリの方が「構造」を表出していることが面白い。好き嫌いを超えて、シノーポリのマーラーは一回は聴いておきたい。7番と9番の「歪み」が特に心地よい(フィルハーモニアでは緩衝作用が働かないのかも(笑))。でも「構造」と奇妙なバランスが苦手な人は、困惑するかもしれませんので注意してください。

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  • 5 people agree with this review
     2010/05/16

    協奏曲。1人で弾く協奏曲でもを集めてきたような、タロー独特のコンセプトアルバム。協奏曲とは、例えばバロック時代の合奏協奏曲(コンチェルト・グロッソ)、弦楽中心のオケと独奏楽器。そもそも協奏曲の形態は、6声から16声までの声楽+器楽による17世紀初めの教会用声楽曲に、最初の形を見ることができるそうだ。武満徹の「ノーヴェンバー・ステップス」も、西洋的な和音や和声の意味からは大きく離れるのだが、実質的には「協奏曲」だ。「イタリア風協奏曲」バッハでは珍しく本人がfとpを書き込んでいる。この曲をさらったことのある人なら、イタリア協奏曲のfとpを「フォルテ」と「ピアノ」とは呼べないだろう。これを合奏を意味する「トォッティ」と、独奏楽器と通奏低音で演奏する「ソロ」に読み替える。fの部分では表層重視の多彩な音色、pの部分では右手と左手の構造としての会話として演奏するのが普通だし、もともと2段チェンバロの発明をバッハが面白がって作った曲だ(この前提を踏み潰す論外演奏の多いこと多いこと(泣))。以前カツァリスの録音があった。カツァリスはチェンバロ(しかも2段チェンバロ。凄い技術!)のパロディーをやっていたが(当時のレコ芸は「カツァリスの音が硬い。緊張したのだろうか?」と絶望的な大ボケコメントを炸裂させてたけど)、タローの録音はもっとピアノの特徴を生かしたもので、解釈としてより進化したものと評価できると思うのだが。楽譜を見ながら聴くと、この確信犯的な戦略が見えて面白い。「現代ピアノを使った1人で弾く協奏曲の在り方」という策略。このような企画を通してしまう演奏家。私はそのような視点からタローを面白がっています。これはオタク向きの企画のように思えてならない(そもそもタローの演奏からはオタッキーな感覚がムンムン漂ってきて、大変面白いのだが(笑))。

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  • 8 people agree with this review
     2010/05/05

    「完璧なチューニング」チェリの演奏はそれに尽きる。どんな時間も解体し、終止に向かわず拡大する彼の音楽。構造重視派からその姿勢は常に議論の対象になるが、その演奏は構造重視派さえも夢中にさせてしまう。全てを表現できる演奏なんかあるわけが無いし、ここまで方法論が徹底されると好みの問題は些細なことだ(キュビズムの絵画をヘタクソと発言する馬鹿げた議論と同じ(笑))。チェリも当然主調を中心和音としてオケをチューニングしている。全ての楽器が末端に到るまで完璧にチューニングされ、しかも全ての奏者がその調和を崩すことなく音楽を進行させる。その核となる和音のバランスの見事な匙加減。これほど聴感的に完璧なチューニングが出来る指揮者は今はいない。完璧なチューニングを施したオケは、それだけで人の心を強く揺さぶる。例えば彼がドビュッシーやラヴェルで、中心和音と不協和音の関係性に自覚的ではない演奏を展開しても、それが浮上して響いているのは完璧なチューニングの賜物です。チェリのブルックナーは確かに凄い。何が凄いのか。音楽は主調から離れた和音を使用すればするほど、主調からの距離感が出てくる。これはロマン派でうやむやにされたが、ブラームスはその機能に執着し、何とチェリの演奏ではブルックナーでもその機能が生きていることがしっかりと聴き取れる。「完璧なチューニング」が出来ていなければ、これは絶対に音になって出て来たりはしない。コレが収録出来ているこのスタッフの録音技術は凄いと思います(彼らが自覚的であったかどうかはわかりませんが(笑))。ただし、セッション録音でもチューニングすら出来ない残念極まる無能演奏家の演奏を聴いていると、この完璧なチューニングは理解できないと思うし、私が問題として取り上げる微妙な構造の問題は意識にすら登らないと思います。音が正しく扱えない音楽家でなければ決して聴くことができない問題なのですから。余談ですが、有名なチェリ大好きな学者さんが、チューニングすらできない指揮者をボロクソ言うのは残念ですが当然です。このチューニングがわかる人ならそれは仕方が無いと思います。

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     2010/05/04

    シューベルトの「様式」に関する問題。「構造」とか「構成」とは異なり、「和声」とか「独自の歌いこみ」が大切だという議論に逃げ込んでいるが、それは違うのではないかと思う。現実に「歌いこみ」ができる演奏家なのに、シューベルト(特にD.944)が全く駄目な演奏家は多い。まだ明らかにされていないとされるシューベルトの様式を支えるもの。シューベルトの場合、リズムの扱いが絶対だと言われている。事実リズムを崩す演奏家のシューベルトは聴いていられない。我々はそれで「様式」がズタズタになっていることに気付くためだ(同様にどの演奏家も同じように処理する音楽家のシューベルトは論外)。では「リズム」が構造を支え、かつ表層に浮かび上がらせるものは何か?それは「時間感覚」だと思う。いろいろ話を伺って回ったが、シューベルトの様式を支えるもの、それは「時間」に間違いないだろう。ただしコレが語られることは難しいと思う。誰かが指摘していたが「時間」を操作する技術は訓練などでは決して身に付かない。ほとんど天性のようなものだ。かつ時間を操作できても、シューベルトの時間、その特殊で相対的な時間を描けなければ(特にD.944)駄目で、自分の時間を押し付ける演奏家では全く駄目。現在の演奏家ではほとんど駄目だ。これはメーカー主導の現在の市場(自分達所有の音源は価値あるもので無ければならないとするテーゼ)では認められないと思う(利点が生ずれば話は別だが)。あのヴァントのD.944があまりにも見事すぎるのは、厳格なリズム処理による時間表現の的確さのおかげだ。このダウスゴーの録音、聴かせてもらったときは驚いた。相変わらずスリム化され「歌う」シューベルトとは違う演奏なのだが、やはりリズム処理が秀逸。リズムが時計のように「時間」を刻んでいく。レビューにもあったが「明瞭すぎる」ほどだ。ヴァントとダウスゴーの演奏はまるで「シューベルトの様式とは「時間感覚」である(しかも相対としての時間)」ことを証明しているかのようだ(特にD.944(笑))。

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     2010/05/02

    最高のエヴァンゲリストと称されるプレガルディエン。アポロンの如き神の声を思わせるような美声。シュタイアーと組んで素晴らしいシューベルトも録音しているが、表現の凄さは認めるのだが、神の視点から語られる物語のように響き、個人的な苦悩の音楽には聴こえない(笑)。この「詩人の恋」もそうだ。プレガルディエンの歌は、内向的な情感の発露というより、人の苦悩を、神が第3者的視点で語って聴かせるかのように聴こえる。例えば超名盤(というよりこれ以上の録音って今後出てくるのかしら?)ディースカウ+エッシェンバッハの本音と建前を完璧に描き分けた内向内在的な演奏の対極にあると言って良いと思う。ところでシュタイアーは様々な種類のフォルテピアノを使うようで、録音により音の減衰速度、倍音構成が微妙に違っている。実に面白い演奏家だと思う。ただ、この「詩人の恋」とか同コンビの「冬の旅」で聴かれる、ある種の超越的な視点を感じさせる音楽は、プレガルディエンに負うところが大きいと思う(例えばジョッパー組んだ「冬の旅」は内向的な情感の発露を描いた傑作に仕上がっている)。まるで神話を聴かされているかのような「詩人の恋」だ。残りのハイネの詩による歌曲も大変に魅力的に仕上がっている(特にメンデルスゾーンの曲が興味深かった)。

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