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16 people agree with this review 2011/05/20
本盤には、テンシュテットがEMIに遺した録音のうち、ロンドン・フィルとの一連のマーラーの交響曲の演奏や、チョン・キョンファやケネディなどとの各種協奏曲の演奏を除いたほぼすべての演奏がおさめられている。本全集の中には、シューマンの交響曲第3番及び第4番、4本のホルンのためのコンチェルトシュトゥック、メンデルスゾーンの交響曲第4番、そしてドヴォルザークの第9番など、最近では入手困難な音源も含まれており、仮にその他の楽曲のCDを何枚か所有していたとしても、価格が2712円という廉価であることに鑑みれば、購入する価値が十分にある充実したラインナップであると言える。テンシュテットと言えば、何と言ってもマーラーの一連の交響曲の豪演が思い浮かぶが、本ボックスを聴くと、それ以外の楽曲でも数多くの名演を遺した大指揮者であったことがあらためてよく理解できるところだ。テンシュテットは、1985年に咽頭がんを患い、その復帰後はがんの進行との壮絶な闘いであった。健康がいい時だけに指揮を許されるという絶望的な状況に追い込まれたが、それでもテンシュテットは一つ一つのコンサートをそれこそ命がけで行っていったのである。したがって、1986年以降の録音は、それこそ死と隣り合わせの狂気のオーラさえ感じさせる渾身の豪演揃いであると言えるが、それ以前の録音においても、テンシュテットはオーケストラを徹底的に追い立て、それこそドラマティックの極みとも言うべき劇的な名演奏を繰り広げていた。本ボックスはその壮絶な記録であり、どの演奏もテンシュテットならではのとてつもない凄みのある超名演であると言える。先ずは、何と言っても十八番のマーラーの交響曲第1番(CD7)が素晴らしい。シカゴ交響楽団を指揮したためか、別売のロンドン・フィルとの一連のマーラーの交響曲集に含まれず、本ボックスの方に収録されているが、これは壮絶の極みとも言うべき爆演だ。1990年というテンシュテットとしても健康状態が最悪の時期であったが、本演奏のような渾身の命がけの演奏は、我々の肺腑を打つのに十分な圧倒的な迫力を誇っていると言える。とりわけ終楽章などは、ほとんど狂っているとしか言いようがないような爆発的な昂揚感を垣間見せるが、これぞマーラーの交響曲を鑑賞する醍醐味があると言えるだろう。同曲にはワルター&コロンビア響盤(1961年)やバーンスタイン&COA盤(1987年)という超名演があるが、本演奏はそれらに比肩し得る至高の超名演と高く評価したい。次いで、ワーグナーの管弦楽曲集を集めた2枚(CD10、11)を掲げたい。録音は1980年〜1983年という、カラヤン&ベルリン・フィルの黄金時代の末期からザビーネ・マイヤー事件が勃発して両者の関係に大きな亀裂が生じ始めた頃の録音である。本演奏では、最晩年の病魔と闘うという鬼気迫るような凄まじい気迫はいまだ感じられないが、それでも、オーケストラを全力で追い立てて行く生命力溢れる爆演ぶりは、テンシュテットだけに可能な至芸と言えるだろう。テンシュテットは必ずしもインテンポに固執せず、楽劇「ニーベルング」の指環からの抜粋(CD10)においてはテンポを相当に動かしているが、それでいて音楽が矮小化せずスケールの雄大さをいささかも失っていないのは、テンシュテットならではの圧巻の至芸であると言える。これらの演奏の録音当時はカラヤン自身の健康悪化もあり、ポストカラヤンが大きくクローズアップされていた。そのような中で、いまだ病魔の影さえ感じられなかった当時のテンシュテットは、カラヤン自身の高い評価もあって後継者の第一人者との評価も得ていたのである。ベルリン・フィルも、関係が悪化しつつあるカラヤンへの対抗意識も多分にあったと思うが、ポストカラヤンと目される指揮者とは圧倒的な名演を繰り広げていた時期に相当し、本演奏においても、テンシュテットの圧倒的な統率の下、うなりあげるような低弦の重量感溢れる迫力やティンパニの雷鳴の如き轟き、天国的な美しさを誇る高弦の囁き、悪魔的な金管の最強奏など、カラヤンによる同曲の演奏とは一味もふた味も違う圧巻の名演奏を繰り広げているのが素晴らしい。他の楽曲もいずれも超名演であるが、とりわけシューマンの4本のホルンのためのコンチェルトシュトゥック(CD14)に注目したい。同曲はカラヤンが一度も演奏・録音しなかった楽曲であるだけに、何よりも全盛期のベルリン・フィルのホルンセクションの圧倒的な実力を知る上では格好の演奏と言えるのではないだろうか。ゲルト・ザイフェルトとノルベルト・ハウプトマンという両首席に、下吹きの名人と言われたマンフレート・クリアなど、当時ベストフォームにあったベルリン・フィルのホルンセクションによる卓越した技量と極上の美しい響きを味わえるのが素晴らしい。いずれにしても、本ボックスは、同時発売のマーラーの交響曲集と並んで、テンシュテットの桁外れの実力を広く知らしめる意味において、極めて意義が大きいものであると言える。価格も2712円という破格の廉価であり、クラシック音楽の初心者にも、そして本演奏をいまだ聴いていない熟達した愛好者にも自信を持ってお薦めできる名ボックスと高く評価したい。
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0 people agree with this review 2011/05/20
本盤におさめられたベートーヴェンの第5や田園を聴いていると、ベルリン・フィルの音色の前任のカラヤン時代からのあまりの変わりように大変驚かされる。アバドがベルリン・フィルの芸術監督に就任してから10年近く経った頃の録音でもあり、その間にカラヤン時代の名うての奏者の大半が代替わりしたのも大きいと言えるのかもしれない。それにしても本演奏は、フルトヴェングラーはもとより、カラヤンによる重厚な演奏とは一味もふた味も違う軽妙な演奏である。その音色はカラフルという表現が当てはまるほどで、南国イタリアの燦々と降り注ぐ陽光を思わせるような明るい響きが支配していると言える。アバドが1980年代にウィーン・フィルと録音したベートーヴェンの交響曲全集には若干なりとも存在したドイツ風の重厚な響きは、もはや本演奏では完全に一掃されており、良くも悪しくもアバドの個性が完全に発揮された演奏ということになるのであろう。このような軽妙浮薄な演奏を、天下のベルリン・フィルを指揮して成し遂げたということについては、古くからのクラシック音楽ファンからすれば許し難いことのように思われるのかもしれない。私としてはさすがに許し難い演奏とまでは思わないが、好き嫌いで言えば到底好きになれない演奏と言わざるを得ない。しかしながら、最新の研究成果を採り入れたペンライター版使用による本演奏が、近年におけるピリオド楽器の使用や古楽器奏法による演奏の先駆けとなったということについては否定できないところであり、その意味においては一定の評価をせざるを得ないのではないかと考えている。録音については従来盤でも十分に高音質であったが、今般のSHM−CD化によって音質はより鮮明になるとともに音場が幅広くなった。DVD−audio盤がこれまで発売された中ではベストの音質であったと言えるが、現在では入手難であり、現時点では本SHM−CD盤が最もベターな音質ということになるであろう。いずれにしても、SHM−CDによる若干の高音質化を加味して、少々甘いとは言えるが★3つの評価とさせていただくこととする。
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0 people agree with this review 2011/05/19
アバドがベルリン・フィルとともにベートーヴェンの交響曲全集の録音を開始したのは、芸術監督に就任後10年近く経ってからである。その理由としては、芸術監督就任の少し前にウィーン・フィルと全集を録音していたのが何よりも大きいとは思うが、ベルリン・フィルを完全に掌握するのを待っていたという側面もあったのではないだろうか。前任のカラヤンも、ベートーヴェンの交響曲全集の録音を開始したのは芸術監督就任から10年近く経ってからであったことを考慮に入れれば、これは天下のベルリン・フィルの芸術監督の宿命と言えるのかもしれない。いずれにしても、本演奏は、良くも悪しくもアバド色の濃いベートーヴェンと言えるだろう。フルトヴェングラーやカラヤン時代の特徴であった重量感溢れる重厚な音色がベルリン・フィルから完全に消え失せ、いかにも軽やかな音色が全体を支配していると言ったところだ。かつて、とある影響力の大きい某音楽評論家が自著において、本演奏を「朝シャンをして香水までつけたエロイカ」と酷評しておられたが、かかる評価が正しいかどうかは別として、少なくとも古くからのクラシック音楽ファンには許しがたい演奏であり、それこそ「珍品」に聴こえるのかもしれない。私としても、さすがに許しがたい演奏とまでは考えていないが、好き嫌いで言えば決して好きになれない軽妙浮薄な演奏と言わざるを得ない。しかしながら、最新の研究成果を反映させたペンライター版の使用による本演奏は、近年主流の古楽器奏法やピリオド楽器の使用による演奏の先駆けとも言えるところであり、その意味においては、好き嫌いは別として一定の評価をせざるを得ないのではないかと考えている。録音は従来盤でも十分に鮮明な高音質であったが、今般のSHM−CD化によって、若干ではあるが音質がさらに鮮明になるとともに、音場が幅広くなったように思われる。かつて発売されていたDVD−audio盤が廃盤ということを考慮すれば、現時点では本SHM−CD盤がベストの音質になるのではないかと考えられる。本演奏のその後の演奏に与えた影響や今般のSHM−CD化による若干の高音質化を加味して、少々甘いと考えるが★3つの評価とさせていただくこととしたい。
0 people agree with this review 2011/05/18
アバドは、ベルリン・フィルの芸術監督に就任するまでの間は、持ち味である豊かな歌謡性と気迫溢れる圧倒的な生命力によって素晴らしい名演の数々を成し遂げていた。しかしながら、ベルリン・フィルの芸術監督に就任後は、なぜかそれまでとは別人のような借りてきた猫のように大人しい演奏に終始するようになってしまった。前任者であるカラヤンを意識し過ぎたせいか、はたまたプライドが高いベルリン・フィルを統御するには荷が重すぎたのかはよくわからないが、そうした心労が重なったせいか、大病を患うことになってしまった。ところが、皮肉なことに、大病を克服し芸術監督退任間近になってからは、凄味のある素晴らしい名演の数々を聴かせてくれるようになった。最近発売されるアバドのCDは、いずれも円熟の名演であり、紛れもなく現代最高の指揮者と言える偉大な存在であると言える。それはさておきアバドは、ベルリン・フィルとともにベートーヴェンの交響曲全集を2度完成させている。正確に言うと、第9だけは重複しているのだが、第1〜8番の8曲については別の演奏であり、1度目は前述の大病を患う直前のスタジオ録音、そして2度目は大病を克服した直後のライヴ録音となっている。本盤におさめられた第1番及び第2番は、1度目の全集に含まれるもの。演奏自体は前述のような低調なアバドによるものであり、2度目の録音を大病克服直後に行ったことからしても、アバド自身もあまり満足していなかったのではないかと考えられる。最新の研究成果を盛り込んだペーレンライター版を使用したところは、いかにもアバドならではと言えるが、記者の質問に対して版の問題は他に聞いてくれと答えたという芳しからざる噂もあり、実際のところ、アバドが自らの演奏に版の問題をどのように反映させたのかはよくわからないところだ。本演奏を聴くと、アバドならではの歌謡性は豊かであるが、非常に軽やかな演奏という印象だ。これは、近年のピリオド楽器や古楽器奏法による演奏を先取りするものと言えるが、天下のベルリン・フィルを指揮してのこのような軽妙な演奏には、いささか失望せざるを得ないというのが正直なところである。前々任者フルトヴェングラーや前任者カラヤンなどによる重厚な名演と比較すると、長いトンネルを抜けたような爽快でスポーティな演奏と言えるが、好みの問題は別として、新時代のベートーヴェンの演奏様式の先駆けとなったことは否定し得ないと言える。決して私の好みの演奏ではないが、そうした演奏の新鮮さを加味して★3つとさせていただくこととする。なお、本演奏については、他の交響曲も含めDVD−audio盤が発売されていたが廃盤になってしまった。おそらくは、それがベストの音質なのであろうが、それがかなわない以上は本SHM−CD盤で満足せざるを得ないだろう。もっとも、今般のSHM−CD化によって、音質が鮮明になるとともに、音場が若干ではあるが幅広くなった点については評価したいと考える。
20 people agree with this review 2011/05/17
ティルソン・トーマス&サンフランシスコ交響楽団によるマーラーの交響曲全集は、2001年9月の交響曲第6番を皮切りとして、2009年のさすらう若人の歌に至るまで、約10年の歳月をかけて成し遂げられたものである。本全集のメリットはいくつかあるが、先ずは何よりも全曲がマルチチャンネル付きのSACDによる極上の高音質であると言う点である。マーラーの交響曲のような大編成のオーケストラ曲には、臨場感溢れるSACDが相応しいと思われるが、これまでのところSACDによる全集は、本全集のほかはバーンスタイン&ニューヨーク・フィル等による最初の全集(1960〜1975年)、ジンマン&トーンハレ管による全集(2006〜2010年)しか存在していないところだ(現在、マーツァルやゲルギエフ、ヤンソンスなどによる全集が進行中であるが完成までにはまだまだ時間を要すると思われる。)。これはきわめて嘆かわしい状況にあると言えるが、その分、本全集の価値がより一層高まることになると言えるだろう。次いで、本全集にはカンタータ「嘆きの歌」が含まれているということである。カンタータ「嘆きの歌」は、その後の交響曲の萌芽を聴くことが可能なマーラーの最初期の意欲作であるが、同曲の録音は著しく少ない状況にあり、バーンスタインやジンマンも同曲を録音していない。私が知る限りでは、同曲を全集に取り入れたのはシノーポリだけであり、その意味では、本全集はマーラーのほぼ完全な全集であるという意味においてその価値は極めて高いものであると言える(歌曲集「子供の魔法の角笛」が全曲ではなく、抜粋であることだけが唯一惜しい点であると言える。また、第10番についてはクック版などの輔弼版には目もくれず、アダージョのみとしたのも大変興味深い。)。そして、何よりも演奏が素晴らしいということである。ティルソン・トーマスは、バーンスタインやテンシュテットのようにドラマティックな演奏を行っているわけではない。むしろ、直球勝負であり、曲想を精緻に、そして丁寧に描き出していくというものだ。加えて、オーケストラを無理なくバランス良く鳴らし、マーラーの作曲した数々の旋律を実に明瞭に美しく響かせるべく腐心しているように思われる。それでいて、スコアに記された音符のうわべだけをなぞっただけの浅薄な演奏にはいささかも陥っておらず、どこをとっても豊かな情感とコクに満ち溢れているのが素晴らしい。正に、純音楽的な演奏と言えるところであり、マーラーの交響曲の魅力を安定した気持ちで満喫できるという意味においてはきわめて優れた名演であると言える。かかるアプローチは、同じくSACDによる全集完成に向けて進行中のマーツァル&チェコ・フィルによる演奏と似通っている面が無きにしも非ずであるが、マーツァル盤は、マーラーがボヘミア出身であることに着目した独特の味わい深さが演奏の底流にあるのに対して、本ティルソン・トーマス盤は、マーラーをその後の新ウィーン派に道を開いた20世紀の音楽家として捉えているという点に違いがあると言えるのかもしれない。また、完成に約10年の歳月を費やした全集であるにもかかわらず、本全集では各交響曲や歌曲毎の演奏の出来にムラが殆どないというのも見事であると言える。サンフランシスコ交響楽団も、ティルソン・トーマスの確かな統率の下、ライヴ録音とは思えないような安定した技量を発揮して、望み得る最高の演奏を繰り広げているのも、本名演に大きく貢献しているのを忘れてはならない。いずれにしても、本全集は、マーラーの交響曲の魅力を、望み得る最高の臨場感溢れる高音質により安定した気持ちで満喫できるという意味において、自信を持ってお薦めできる名全集と高く評価したい。もっとも、本全集の最大の難点は高額であるということである。価格が20790円というのは、ジンマンによる全集が7190円であることに鑑みれば、前述のようなメリットなどを考慮しても、あまりにも高額と言えるのではないだろうか。因みに、私はすべて分売で入手しており、それを考えると20790円でもかなりの値引きとは言えるが、それでも高額であることにはかわりはなく、このような素晴らしい名演を多くのクラシック音楽ファンに聴いていただくためにも、更なる低価格化の努力を是非ともお願いしておきたいと考える。
20 people agree with this review
4 people agree with this review 2011/05/17
バーンスタインは、チャイコフスキーの第6をマーラーの第6と勘違いしているのであろうか。確かに、同曲には「悲愴」と言う愛称が付いてはいるがそもそも「悲劇的」とは異なる。しかも、もっと大事なことは、チャイコフスキーはマーラーではないということである。最晩年のバーンスタインの演奏には、このような勘違いの演奏が極めて多かったと言わざるを得ない。かかる勘違いの演奏は、本盤と同時に発売されたドヴォルザークの第9、モーツァルトのレクイエム、ショスタコーヴィチの第7、シベリウスの第2など、枚挙にいとまがないほどである。同時期に録音されたマーラーの交響曲や歌曲の一連の演奏は、いずれもそれぞれの楽曲の演奏史上最高の超名演であるにもかかわらず、その他の作曲家による大半の楽曲の演奏に際しては、とても同一の指揮者による演奏とは思えないような体たらくぶりであると言える。バーンスタインは、このような勘違いの演奏を意図して行ったのか、それとも好意的に解釈して、健康悪化によるものなのかはよくわからないが、いずれにしても、これらの演奏の数々は、バーンスタインとしても不名誉以外の何物でもないと考えられる。本盤の「悲愴」の演奏も、粘ったようなリズムで少しも先に進んでいかない音楽であるが、その大仰さが例によって場違いな印象を与える。スケールはやたら肥大化しているが、内容はきわめて空虚にして浅薄。正にウドの大木の最たるものと言えるだろう。とりわけ終楽章の殆ど止まってしまうのではないかと思われるような超スローテンポにはほとほと辟易とさせられてしまった。もちろん、バーンスタインには熱烈な支持者がいることから、このような演奏をスケールが雄大であるとか、巨匠風の至芸などと褒めたたえたりするのであろうが、一般の愛好者の中には、私のようにとてもついていけないと感じる者も多いのではないだろうか。本盤の救いは併録のイタリア奇想曲であろう。こちらの方は、例によって大仰な表現ではあるが、悲愴のような凡演ではなく、濃厚な味わいのある好演と評価するのにいささかも躊躇するものではない。録音は、1980年代半ばのライヴ録音であり、もともと十分に満足できる音質であったが、今般のSHM−CD化によって、音質がやや鮮明になるとともに音場が広くなったように感じられる。本盤の評価としては、「悲愴」の凡演によって★1つとするところではあるが、イタリア奇想曲の好演とSHM−CD化による若干の高音質を加味して、★2つの評価とさせていただくこととする。
4 people agree with this review
3 people agree with this review 2011/05/16
バーンスタインの芸風は、1980年代に入ってから大きく変化したように思われる。テンポが著しく遅くなるとともに、表現は雄弁できわめて大仰なものとなったからである。こうした変化は、バーンスタインの健康の衰えによるものなのか、それとも晩年になって感情移入の度合いが高くなってきたためなのか定かではないが、いずれにしても、その変化の大きさは、常識をはるかに超えているとさえ言えるだろう。バーンスタインには、熱烈な愛好者も多く存在しており、そのような者からすれば、かかる演奏を持って、晩年になって新境地を開いたとか、スケールが雄大になったとか、あるいは真の巨匠になったなどと評価するのであろう。しかしながら、一般の愛好者の中には、とてもついていけないと感じる者も相当数いるのではないだろうか。かく言う私もその一人である。マーラーや、精神分裂気質がマーラーと似通っているシューマンの楽曲の演奏については、私は高く評価している。それどころか、特にマーラーについては、バーンスタインこそは史上最高のマーラー指揮者として高く評価しているところだ。しかしながら、その他の作曲家による大半の楽曲の演奏については、雄弁であるが内容は空虚。スケールはやたら大きいが、いわゆるウドの大木の誹りは免れないのではないかと考えている。本盤におさめられたドヴォルザークの第9も、そのようなバーンスタインの欠点が露骨にあらわれた凡演と言えるだろう。バーンスタインは、最晩年になって、あらゆる楽曲がマーラー作曲の楽曲のように感じるようになったのであろうか。粘ったような進行や表情過多とも言える大仰さはほとんど場違いな印象を与えるところであり、とりわけ第2楽章のあまりにも前に進んで行かない音楽にはほとほと辟易とさせられた。バーンスタインは、1962年にニューヨーク・フィルと同曲を録音しているが、そちらの方がよほど優れた演奏であり、いかにもヤンキー気質の力づくの箇所もないわけではなく名演と評価するには躊躇するが、若武者ならではの爽快な演奏であると言える。本盤での救いは、併録のスラヴ舞曲集であろう。これとて、大仰さが気にならないわけではないが、交響曲よりはよほどまともな演奏と言える。録音は交響曲が1988年、スラヴ舞曲集が1986年のライブ録音であり、従来盤でも十分に満足し得る高音質であったが、今般のSHM−CD化によって、若干鮮明さを増すとともに音場が広がったものと考える。このSHM−CD化による若干の高音質化とスラヴ舞曲集がややまともな演奏であることを踏まえ、交響曲の演奏の評価は★1つではあるが、★2つの評価とさせていただくこととする。
3 people agree with this review
7 people agree with this review 2011/05/15
本盤には、モーツァルトによるセレナードを除くとバロック音楽の有名な小品がおさめられているが、いずれも至高の超名演と高く評価したい。名演の前に超を5つぐらい付してもいいのかもしれない。本盤においてカラヤンが指揮しているのはベルリン・フィルであり、ソロは基本的にベルリン・フィルの有名スタープレイヤーで占められている。カラヤン&ベルリン・フィルは、クラシック音楽演奏史上でも最高の黄金コンビの一つであると考えるが、その蜜月時代は1960代及び1970代というのが一般的な通説だ。1980年代に入るとザビーネ・マイヤー事件が勃発し、このコンビに修復不可能な亀裂が走ることになった。そこで、まずは本盤の録音が、そうしたザビーネ・マイヤー事件が両者の関係により深刻な影を落とし始めた1983年9月の録音であるのに着目したい。というのも、本盤におさめられた演奏を聴く限りにおいては、前述のように素晴らしい名演に仕上がっており、演奏の水準にはいささかも支障が生じていないということである。音楽以外の局面ではいかに醜い争いを行っていたとしても、カラヤンも、そしてベルリン・フィルも真のプロフェッショナルとして、音楽の面においては、最高の演奏を構築すべく尽力をしていたことが伺えるのだ。本演奏においても、全盛期のこのコンビを彷彿とさせるような圧倒的な音のドラマを聴くことが可能だ。アルビノーニのアダージョやバッハのG線上のアリアなどにおける分厚い弦楽合奏、パッヘルベルのカノンとジーグ等における弦楽による鉄壁のアンサンブルなど、あまりの凄さに圧倒されるばかりだ。カラヤンの指揮も、聴かせどころのツボを心得た演出巧者ぶりが際立っており、例えばグルックの精霊の踊りなどのような抒情的な箇所における耽美的な美しさには身も心も蕩けてしまいそうだ。録音は、従来盤でも十分に満足できる音質ではあったが、今般のSHM−CD化によってさらに鮮明さを増すとともに音場が若干ではあるがより広がったと言える。カラヤン&ベルリン・フィルによる超名演を、SHM−CD盤による鮮明な高音質で味わうことができるのを大いに喜びたい。
7 people agree with this review
8 people agree with this review 2011/05/15
カラヤンとツィマーマンが組んで行った唯一の協奏曲録音である。そもそもカラヤンが、協奏曲の指揮者として果たして模範的であったかどうかは議論の余地があるところだ。カラヤンは、才能ある気鋭の若手奏者にいち早く着目して、何某かの協奏曲を録音するという試みを何度も行っているが、ピアニストで言えばワイセンベルク、ヴァイオリニストで言えばフェラスやムター以外には、その関係が長続きしたことは殆どなかったと言えるのではないだろうか。ソリストを引き立てるというよりは、ソリストを自分流に教育しようという姿勢があったとも考えられるところであり、遺された協奏曲録音の殆どは、ソリストが目立つのではなく、全体にカラヤン色の濃い演奏になっているとさえ感じられる。そのような帝王に敢えて逆らおうとしたポゴレリチが練習の際に衝突し、コンサートを前にキャンセルされたのは有名な話である。本盤におさめられた演奏も、どちらかと言えばカラヤン主導による演奏と言える。カラヤンにとっては、シューマン、グリーグのいずれのピアノ協奏曲も既に録音したことがある楽曲でもあり、当時期待の若手ピアニストであったツィマーマンをあたたかく包み込むような姿勢で演奏に望んだのかもしれない。特に、オーケストラのみの箇所においては、例によってカラヤンサウンドが満載。鉄壁のアンサンブルを駆使しつつ、朗々と響きわたる金管楽器の咆哮や分厚い弦楽合奏、そしてティンパニの重量感溢れる轟きなど、これら両曲にはいささか重厚に過ぎるきらいもないわけではないが、オーケストラ演奏の極致とも言うべき圧倒的な音のドラマの構築に成功していると言える。カラヤンの代名詞でもある流麗なレガートも好調であり、音楽が自然体で滔々と流れていくのも素晴らしい。ツィマーマンのピアノも明朗で透明感溢れる美しい音色を出しており、詩情の豊かさにおいてもいささかの不足はなく、とりわけ両曲のカデンツァは秀逸な出来栄えであるが、オーケストラが鳴る箇所においては、どうしてもカラヤンペースになっているのは、若さ故に致し方がないと言えるところである。もっとも、これら両曲の様々な演奏の中でも、重厚さやスケールの雄渾さにおいては本演奏は際立った存在と言えるところであり、本演奏を両曲のあらゆる演奏の中でも最も壮麗な名演と評価するのにいささかも躊躇するものではない。本盤は1981〜1982年の録音であり、従来盤でも十分に満足し得る音質であった。しかしながら、今般、特にピアノとの相性が抜群のSHM−CD盤が発売されたが、音質がより鮮明になるとともに、音場が広くなったと言えるところである。さすがにSACD盤ほどではないが、本名演をより鮮明な音質で味わうことができるようになったことを大いに喜びたい。
8 people agree with this review
3 people agree with this review 2011/05/15
サットマリーによるバッハのオルガン名曲集の第2弾であるが、第1弾と同様に素晴らしい名演と高く評価したい。まず、何よりもXRCDによる超高音質録音について言及しておきたい。第1集のレビューにおいても記したが、オルガンの録音は非常に難しいと言える。オルガンの音色は、教会の豊かな残響があってこそ活きてくるものであるが、残響を最大限に収録してしまうと、オルガンの旋律線が極めてぼやけた不明瞭な録音に陥ってしまう危険性がある。他方、その危険性を避けるために残響をあまりに絞り過ぎると、演奏全体の荘重な雰囲気をぶち壊してしまうことにもなりかねない。また、オルガンの重低音の再現が必要不可欠であるが、ダイナミックレンジの加減によっては音のひずみが生じることもあり、さりとて、低音を抑制して収録してしまうと、迫力のない干物のような音質になり下がってしまう可能性が大である。これほどまでにオルガンの録音は難しいと言えるが、本演奏の録音は前述のような問題は皆無であり、聴き手の耳にずしりと響いてくるような重厚にして迫力満点のオルガン演奏を聴くことが可能であり、オルガンの録音としては最高の出来栄えと言える。なお、本盤は第1弾とは異なり、同じXRCDとは言ってもSHM−CD仕様にはなっていないが、その音質の差は微々たるものであり、本盤の音質が第1弾と比較して劣っているということには必ずしもなっていないという点も銘記しておく必要があるだろう。そして、演奏内容についても、前述のように素晴らしい。本盤においては、第1弾とは異なり、収録されている楽曲はどちらかと言うと認知度の低いものが中心であると言えるが、サットマリーは、各楽曲を誠実に弾きこなしていくことを通じて、その魅力を聴き手にできるだけわかりやすく伝えていこうという真摯で丁寧な知的アプローチが功を奏していると言える。確かに、本盤における演奏には、ヴァルヒャやリヒターの演奏に聴かれるような、聴き手を容易には近づけない峻厳さにおいてはいささか後塵を拝しているとは言えるが、バッハのオルガン曲をゆったりとした気持ちで満喫することができるという意味においては、本演奏も過去の個性的な名演の中でも、十分にその存在感を発揮していると言える。また、ヨーロッパ最大規模を誇るとされるズウォレ聖ミヒャエル教会のシュニットガー・オルガンの壮麗な音色を堪能できるのも、本演奏の大きな魅力であると高く評価したい。
4 people agree with this review 2011/05/15
広範なレパートリーを誇ったミュンシュとしても、ドヴォルザークの録音はきわめて珍しいと言えるが、本演奏はそのようなことを感じさせない素晴らしい名演と高く評価したい。何よりも、チェリストにピアティゴルスキーを起用したことが功を奏していると言える。ピアティゴルスキーは、フルトヴェングラー時代のベルリン・フィルの首席チェロ奏者をつとめるなど、一時代を築いた名チェリストではあるが、ロシア人ということもあり、「ロシアのカザルス」と例えられた割には名声においては後輩のロストロポーヴィチの陰にどうしても隠れがちである。確かに、技量や力感においては、さすがにロストロポーヴィチにはかなわないと言える。しかしながら、一聴すると無骨とも感じる演奏の中に深い情感や豊かな詩情が込められており、随所に聴かれるニュアンスの豊かさにおいては、ロストロポーヴィチにいささかも引けを取っておらず、「ロマンティック・チェリスト」と称されただけのことはあると考えられる。また、ロストロポーヴィチは、技量があまりにも人間離れしているために、いささか人工的な技巧臭というものが感じられるきらいがないとは言えないが、ピアティゴルスキーのチェロは、あくまでも楽曲の美しさが全面に出てくるような演奏であり、聴き手によっては、ロストロポーヴィチよりも好む者がいても何ら不思議ではない。このように、技量よりも内容重視のチェリストであるというのは、さすがはフルトヴェングラー時代のベルリン・フィルの首席チェロ奏者をつとめただけのことがあると言えよう。ミュンシュは、フランス人でありながら、ドイツ語圏にあるストラスブールの出身であり、ドイツ風の重厚な演奏を数多く行ってきた指揮者でもある。本演奏においても、ミュンシュは、ドイツ風とも言える重厚なアプローチを披露しており、質実剛健なピアティゴルスキーのチェロ演奏と見事に符号していると言える。正に、指揮者とチェリストの息があった稀有の名演と言えるだろう。そして、本盤で素晴らしいのは、XRCDによる超高音質録音であり、今から50年以上も前の録音とは思えないような鮮明な音質に生まれ変わったと言える。いずれにしても、ピアティゴルスキーのチェロの弓使いまで鮮明に聴こえる驚異的な高音質に拍手を送りたい。
やはりXRCDは素晴らしい。本盤のような極上の高音質録音を聴いていると、あらためてXRCDの潜在能力の高さを思い知らされる。他のXRCDでも同様のことが言えると思うが、30年以上も前の1970年代の録音が、最新録音に匹敵するような鮮明な音質に生まれ変わるというのは殆ど驚異的ですらある。1960年代や1970年代はLPの全盛時代であり、その大半の録音が既にCD化されてはいるが、SACD化されたものは別格として、その殆どはLPを凌駕する音質に至っていないとさえ言える。また、この時代の録音には、かつての巨匠による歴史的な名演も数多く含まれている。この場を借りて、本盤のようなXRCD化、可能であればSACD化を行って、音質の更なる向上努力を求めたいと考える。本XRCD盤も、あたかも最新録音であるかのように鮮明で素晴らしい高音質であるが、これだけの高音質であると、演奏自体もより一層素晴らしい演奏のように思えてくることになるのが実に不思議だ。本盤には、モーツァルトの交響曲第38番と第39番がおさめられているが、両曲ともにかつての大指揮者が至高の名演を遺してきた。第38番については、ワルター&コロンビア響(1959年)とシューリヒト&パリオペラ座管(1963年)の名演があったし、第39番については、ムラヴィンスキー&レニングラード・フィル(1965年)などの名演が掲げられる。したがって、このような海千山千の大指揮者による個性的な名演と比較すると、他の指揮者による演奏はいささか不利な状況にあると言わざるを得ないが、本パイヤールによる演奏は、フランス人指揮者ならでは独特の瀟洒な洒落た味わいに満ち溢れていると言える。少なくとも、近年の古楽器奏法やピリオド楽器を使用した軽妙とも言えるモーツァルトの交響曲演奏に慣れた耳で本演奏を聴くと、あたかも故郷に帰省した時のように安定した気持ちになると言えるところであり、私としては、楽曲の魅力をいささかも奇を衒うことなく、ダイレクトに聴き手に伝えてくれるという意味においては、本演奏も豊穣な味わいに満ち溢れた名演と評価したいと考える。
素晴らしい超高音質XRCDの登場だ。今から30年以上も前の録音であるにもかかわらず、あたかも最新の録音のように鮮明な音質であるというのはほとんど驚異的であり、あらためてXRCDの潜在能力の高さを思い知った次第だ。特に、各弦楽セクションの動きが明瞭にわかるほどの鮮明さは、弦楽合奏を中核とするモーツァルトの交響曲の録音の理想的な結実と言える。これだけの高音質録音であると、演奏自体もより輝きを増してくるのは必然のことと言えるだろう。本盤には、モーツァルトの交響曲第35番、第36番及び第37番第1楽章がおさめられているが、このうち、第35番については文句の付けようがない名演と評価したい。第35番は、モーツァルトによるいわゆる後期6大交響曲の中では、最も愉悦性に富んだものと言える。それは、同曲がもともとセレナードから転用されたことにも起因しているものと考えられるが、他方、そうした経緯から、内容においては他の交響曲と比較するといささか乏しいと言わざるを得ない。したがって、音楽内容の精神的な深みを追及するような演奏を必ずしも必要とはしない交響曲とも言えるところであり、むしろ、曲想をいかにセンス良く優美に描き出すかが求められていると言える。こうなるとパイヤールは俄然その力を発揮することになる。パイヤールのフランス人ならではのセンス満点の洒落た味わいが演奏に独特の魅力を付加し、極上の豊穣な味わいの美演を成し遂げることに成功していると言える。これに対して、第36番の方はやや事情が異なってくる。同交響曲には、ワルター&コロンビア響(1960年)やバーンスタイン&ウィーン・フィル(1966年)などのシンフォニックな名演が目白押しであり、そのような海千山千の大指揮者による重厚な名演と比較すると、本演奏は旗色が悪いと言わざるを得ないと言える。しかしながら、古楽器奏法やピリオド楽器による演奏に慣れた現在の我々の耳で本演奏を聴くと、あたかも故郷に帰省した時のようなほっとした気分になると言えるところであり、第36番を安定した気持ちで味わうことができるという意味においては、第35番と同様の味わい深い豊穣な名演と評価するのにいささかの躊躇もしない。なお、第37番第1楽章は、殆ど録音される機会の楽曲だけに、そもそも録音自体が貴重であり、演奏自体も素晴らしい演奏と評価したい。
4 people agree with this review 2011/05/14
本盤には、チャイコフスキーとドヴォルザークによる弦楽セレナードがおさめられているが、いずれも素晴らしい至高の名演と高く評価したい。録音は1980年であるが、これはカラヤン&ベルリン・フィルという黄金コンビが最後の輝きを見せた時期でもある。健康問題が徐々に顕在化しつつあったカラヤンと、長年にわたる独裁政権に辟易とし始めたベルリン・フィルとの関係は、1970年代後半頃から徐々に悪化しつつあったが、それでも1980年には、いまだ対立関係が表面化することはなく、少なくとも演奏の水準においては究極の到達点にあったとさえ言える。翌々年には、ザビーネ・マイヤー事件の勃発によって両者の関係が修復不可能にまで悪化することから、本演奏の録音のタイミングとしては、ベストの時期であったと言っても過言ではあるまい。本演奏においては、全盛期のベルリン・フィルの弦楽合奏がいかに桁外れに凄いものであったのかを思い知らされることになるのは必定だ。一糸乱れぬ鉄壁のアンサンブル、重量感溢れる肉厚の合奏、情感溢れる美しさの極みとも言える高弦の艶やかな響きなど、とても人間業とは思えないような超絶的な機能美を誇っていると言える。カラヤンの指揮も流麗なレガートを駆使して、これ以上は求め得ないような濃厚で耽美的な指揮を披露している。このように最高の指揮者と最強の弦楽合奏が生み出した音楽は、極上の美しさを湛えていると言えるだろう。両曲の演奏には、本演奏においてはいささか欠如している、ロシア風の強靭な民族色やボヘミア風のノスタルジックで素朴な抒情を求める聴き手も存在し、その線に沿った名演(チャイコフスキーについてはスヴェトラーノフ&ロシア国立交響楽団(1992年)、ドヴォルザークについてはクーベリック&バイエルン放送交響楽団(1977年ライヴ)など)も少なからず成し遂げられているが、オーケストラ演奏の極致とも言うべき圧倒的な音のドラマを構築したカラヤン&ベルリン・フィルの名演との優劣は、容易には付け難いのではないかと考える。録音は、従来盤でも十分に鮮明な高音質であったが、今般のSHM−CD化により、音質が若干鮮明になるとともに、音場がより広がることになった。カラヤン&ベルリン・フィルの至高の名演をこのような鮮明な音質で味わうことができるのを大いに喜びたい。
5 people agree with this review 2011/05/14
カラヤンがショスタコーヴィチの15曲ある交響曲の中で唯一演奏・録音したのは第10番のみだ。その理由は定かではないが、オイストラフがカラヤンに、第10番をショスタコーヴィチの交響曲の中で最も美しい交響曲だと推薦したという逸話も伝えられている。また、最も有名な第5番については、カラヤンがムラヴィンスキー&レニングラード・フィルの豪演を聴いて衝撃を受け、二度と指揮しないと誓ったとの説もまことしやかに伝えられている。そうした逸話などの真偽はさておき、カラヤンは第10番に相当の拘りと愛着を抱いていたようで、スタジオ録音を2度(1966年及び1981年)、ライブ録音を1度(1969年)行っている。いずれも素晴らしい名演であるが、演奏の完成度と言う意味においては、本盤におさめられた1981年盤を随一の名演と高く評価したいと考える。本演奏でのカラヤンは、一糸乱れぬ鉄壁のアンサンブルを駆使して、曲想を徹底的に美しく磨き抜く。加えて、ここぞという時のトゥッティの迫力も凄まじいもので、雷鳴のようなティンパニのトレモロは、殆ど悪魔的ですらある。金管楽器や木管楽器のテクニックも桁外れで、分厚い弦合奏の揃い方は圧巻の技量だ。これは、間違いなく、オーケストラ演奏の極致とも言うべき名演奏であり、かつて、レコード芸術誌において故小石忠男先生が使っておられた表現を借りて言えば、管弦楽の室内楽的な融合と評価したいと考える。同曲の音楽の内容の精神的な深みを追及した名演と言うことになれば、ムラヴィンスキー&レニングラード・フィルの名演(1976年盤)を第一に掲げるべきであるが、これだけの徹底した音のドラマを構築したカラヤンの名演との優劣は、容易にはつけられないのではないかと考える。録音は、1981年の録音ということもあって、従来盤でも十分に満足し得る音質であったが、今般のSHM−CD化によって、音質は若干鮮明になるとともに音場が広くなったように感じられた。いずれにしても、カラヤン&ベルリン・フィルによる超名演を、SHM−CDによる鮮明な高音質で味わうことができるのを大いに歓迎したい。
5 people agree with this review
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