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5 people agree with this review 2012/01/21
ジュリーニは、イタリア人指揮者であるが、独墺系の作曲家による楽曲も数多く演奏した大指揮者であった。ブラームスの交響曲全集は2度も録音しているのに対して、意外にもベートーヴェンの交響曲全集は一度も録音していないところだ。これほどの大指揮者にしては実に不思議と言わざるを得ないと言えるだろう。ジュリーニは、最晩年に、ミラノ・スカラ座歌劇場フィルとともに、ベートーヴェンの交響曲第1番〜第8番を1991〜1993年にかけてスタジオ録音を行った(ソニー・クラシカル)ところであり、残すは第9番のみとなったところであるが、1990年にベルリン・フィルとともに同曲を既にスタジオ録音していた(DG)ことから、かつて在籍していたDGへの義理立てもあって、同曲の録音を行わなかったとのことである。このあたりは、いかにもジュリーニの誠実さを物語る事実であると言えるが、我々クラシック音楽ファンとしては、いささか残念と言わざるを得ないところだ。それはさておき、本盤におさめられたのは交響曲第3番及び第4番であるが、このうち、第3番については、ロサンゼルス・フィルとのスタジオ録音(1978年)、前述のミラノ・スカラ座歌劇場フィルとのスタジオ録音(1992年)が既に存在していることから、3度目のライヴ録音、第4番については、前述のミラノ・スカラ座歌劇場フィルとのスタジオ録音(1993年)に次ぐ2度目のライヴ録音である。本盤の演奏は、オーケストラがウィーン・フィルということも多分にあると思うが、これらの既に発売されている各演奏をはるかに凌駕する、ジュリーニによる両曲の最高の名演と高く評価したいと考える。このような圧倒的な名演奏が、今般、アルトゥスレーベルによって商品化にこぎつけられたことに対して、感謝の意を表さずにはいられないところだ。それにしても、凄い演奏だ。悠揚迫らぬゆったりとしたテンポ設定は、いかにも最晩年のジュリーニならではの指揮ぶりと言えるが、いささかの隙間風の吹かない、粘着質とも言うべき重量感溢れる重厚な響きは、かのブルックナーの交響曲第9番の重量級の名演(1988年)に比肩するものとも言えるだろう。もっとも、これだけの重厚で粘着質の演奏でありながら、いささかの重苦しさを感じさせることはなく、歌謡性溢れる豊かな情感が随所に漂っているのは、イタリア人指揮者ならではの面目躍如たるものと言えるだろう。いわゆる押しつけがましさがどこにも感じられず、正にいい意味での剛柔のバランスがとれた演奏と言えるところであり、これには、ウィーン・フィルによる美しさの極みとも言うべき名演奏が大きく貢献しているのを忘れてはならない。いや、むしろ、ウィーン・フィルが敬愛するジュリーニを指揮台にいただいたからこそ可能な名演奏であったと言えるのかもしれない。いずれにしても、本盤の両曲の演奏は、巨匠ジュリーニならではの至高の超名演と高く評価したいと考える。ジュリーニ&ウィーン・フィルによるベートーヴェンの交響曲の演奏については、本盤の第3番及び第4番以外に遺されているのかどうかはわからないが、本盤の超名演を聴いて、第5番や第6番、第7番、第9番あたりが遺されていて欲しいという思う聴き手は私だけではあるまい。音質は、1994年のライヴ録音だけに、十分に満足できる良好な音質と高く評価したい。
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3 people agree with this review 2012/01/21
ミサ・ソレムニスは交響曲第9番と並ぶベートーヴェンの最高傑作であるが、交響曲第9番には若干の親しみやすさがあるのに対して、晦渋な箇所も多く、容易には聴き手を寄せ付けないような峻厳さがあると言えるだろう。したがって、生半可な指揮では、名演など到底望むべくもないと考えられる。同曲には、クレンペラーのほか、ワルターやトスカニーニ、そしてカラヤンやバーンスタインなどの名演も存在しているが、クレンペラーによる本演奏こそは、同曲のあらゆる名演に冠絶する至高の超名演と高く評価したい。なお、クレンペラーは、その芸風が同曲と符号しているせいか、同曲の録音を本演奏のほか、ウィーン響(1951年)、ケルン放送響(1955年ライヴ)及びフィルハーモニア管(1963年ライヴ)との演奏の4種類遺しているが、音質面などを総合的に考慮すれば、本演奏の優位は動かないものと考える。クレンペラーは悠揚迫らぬテンポを基調にして、曲想を精緻に真摯に、そして重厚に描き出している。そして、ここぞと言うときの強靭な迫力は、我々聴き手の度肝を抜くのに十分な圧倒的な迫力を誇っていると言える。演奏全体の様相としては、奇を衒うことは薬にしたくもなく、飾り気などまるでない演奏であり、質実剛健そのものの演奏と言っても過言ではあるまい。もっとも、同曲の壮麗さは見事なまでに描出されており、その仰ぎ見るような威容は、聴き手の居住まいを正さずにはいられないほどである。かかる格調が高く、なおかつ堅固な造型の中にもスケールの雄渾さを兼ね備えた彫の深い演奏は、巨匠クレンペラーだけに可能な圧巻の至芸と言えるところであり、その音楽は、神々しささえ感じさせるほどの崇高さを湛えているとさえ言える。例によって、木管楽器の活かし方もクレンペラーならではのものであるが、それが演奏に独特の豊かなニュアンスを付加するのに大きく貢献している点も忘れてはならない。独唱陣も素晴らしい歌唱を披露しており、クレンペラーの確かな統率の下、最高のパフォーマンスを行っているニュー・フィルハーモニア管弦楽団及び同合唱団に対しても大きな拍手を送りたいと考える。音質は、従来CD盤では高音域が若干歪むのが大いに問題であり、これは同時期のEMIの大編成の合唱曲の録音に多く見られる由々しき傾向であると言えるところだ(例えば、ジュリーニがフィルハーモニア管弦楽団ほかを指揮してスタジオ録音を行ったヴェルディのレクイエムなど)。したがって、その後リマスタリングされた従来CD盤を聴いても、その不満が解消されることは殆どなかったが、今般、発売されたSACD盤を聴いて大変驚いた。もちろん、最新録音のようにはいかず、音が歪む箇所も完全に解消されたわけではないが、SACD化が行われることによって、見違えるような鮮明な音質に生まれ変わったと言えるのではないだろうか。音質の鮮明さ、音場の幅広さ、そして音圧のいずれをとっても一級品の仕上がりであり、あらためてSACDの潜在能力の高さを思い知った次第である。いずれにしても、クレンペラーによる至高の超名演を、SACDによる高音質で味わうことができるのを大いに歓迎したいと考える。
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昨年11月に、スメタナ弦楽四重奏団によるベートーヴェンの弦楽四重奏曲第15番及び第16番をおさめたCDが待望のシングルレイヤーによるSACD&SHM−CD化されて発売されたところであるが、本盤の第12番及び第14番は、その第2弾と言える存在だ。スメタナ弦楽四重奏団によるベートーヴェンの弦楽四重奏曲の名演としては、1976〜1985年という約10年の歳月をかけてスタジオ録音したベートーヴェンの弦楽四重奏曲全集が名高い。さすがに、個性的という意味では、アルバン・ベルク弦楽四重奏団による全集(1978〜1983年)や、近年のタカーチ弦楽四重奏団による全集(2002年)などに敵わないと言えなくもないが、スメタナ四重奏団の息のあった絶妙のアンサンブル、そして、いささかもあざとさを感じさせない自然体のアプローチは、ベートーヴェンの音楽の美しさや魅力をダイレクトに聴き手に伝えることに大きく貢献していると言える。もちろん、自然体といっても、ここぞという時の重量感溢れる力強さにもいささかの不足はないところであり、いい意味での剛柔バランスのとれた美しい演奏というのが、スメタナ弦楽四重奏団による演奏の最大の美質と言っても過言ではあるまい。ベートーヴェンの楽曲というだけで、やたら肩に力が入ったり、はたまた威圧の対象とするような居丈高な演奏も散見されるところであるが、スメタナ弦楽四重奏団による演奏にはそのような力みや尊大さは皆無。ベートーヴェンの音楽の美しさや魅力を真摯かつダイレクトに聴き手に伝えることに腐心しているとも言えるところであり、正に音楽そのものを語らせる演奏に徹していると言っても過言ではあるまい。本盤におさめられたベートーヴェンの弦楽四重奏曲第12番及び第14番は、前述の名盤の誉れ高い全集におさめられた弦楽四重奏曲第12番及び第14番の演奏(1981年ほか)の約10年前の演奏(1970〜1971年)だ。全集があまりにも名高いことから、本盤の演奏はいささか影が薄い存在になりつつあるとも言えるが、メンバーが壮年期を迎えた頃のスメタナ弦楽四重奏団を代表する素晴らしい名演と高く評価したい。演奏の基本的なアプローチについては、後年の全集の演奏とさしたる違いはないと言える。しかしながら、各メンバーが壮年期の心身ともに充実していた時期であったこともあり、後年の演奏にはない、畳み掛けていくような気迫や切れば血が噴き出してくるような強靭な生命力が演奏全体に漲っていると言えるところだ。したがって、後年の円熟の名演よりも本盤の演奏の方を好む聴き手がいても何ら不思議ではないとも言える。第12番及び第14番は、ベートーヴェンが最晩年に作曲した最後の弦楽四重奏曲でもあり、その内容の深遠さには尋常ならざるものがあることから、前述のアルバン・ベルク弦楽四重奏団などによる名演などと比較すると、今一つ内容の踏み込み不足を感じさせないわけではないが、これだけ楽曲の魅力を安定した気持ちで堪能することができる本演奏に文句は言えまい。いずれにしても、本盤の演奏は、ベートーヴェンの弦楽四重奏曲の魅力を安定した気持ちで味わうことが可能な演奏としては最右翼に掲げられる素晴らしい名演と高く評価したいと考える。音質は、1970年代初頭のスタジオ録音ではあるが、比較的満足できるものであった。しかしながら、今般、前述のようについにシングルレイヤーによるSACD&SHM−CD盤が発売される運びになった。本シングルレイヤーによるSACD&SHM−CD盤は、従来CD盤とはそもそも次元が異なる極上の高音質であり、音質の鮮明さ、音圧、音場の広さのどれをとっても一級品の仕上がりであると言える。4人の各奏者の弦楽器の音色が見事に分離して聴こえるのは殆ど驚異的ですらある。いずれにしても、スメタナ弦楽四重奏団による素晴らしい名演を、このような極上の高音質SACD盤で味わうことができるのを大いに喜びたい。
6 people agree with this review 2012/01/15
ノイマンは手兵チェコ・フィルを引き連れて何度も来日を行ったが、単身で来日してNHK交響楽団を指揮して数々の名演を成し遂げたことでもよく知られているところだ。既に、1986年の来日時にNHK交響楽団を指揮して演奏したドヴォルザークの交響曲第9番とスメタナの交響詩「わが祖国」が発売されている。当該演奏は、名演と評価するのにいささか躊躇するものではないものの、とりわけドヴォルザークの交響曲第9番については、ノイマンが生涯に150回も演奏した十八番という楽曲だけに、ベストフォームにある演奏とは必ずしも言い難いものがあったと言える。本盤におさめられたスメタナの「わが祖国」とドヴォルザークのスラヴ舞曲全曲は、ノイマンが1978年及び1990年に来日した際にNHK交響楽団を指揮した際の演奏であり、前述の1986年の来日時の演奏よりもはるかに優れた素晴らしい名演に仕上がっていると高く評価したいと考える。特に、スメタナの交響詩「わが祖国」は、録音年代はいささか古いが、圧倒的な名演と言っても過言ではあるまい。ノイマンによる同曲の録音は意外にもあまり遺されていない。最初の録音はライプチヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団との演奏(1967年)、2度目のものはチェコ・フィルとの演奏(1975年)、そして3度目は、チェコ・フィルとの来日時のライヴ録音(1982年)ということになる。クーベリックが5種類もの録音を遺していることに鑑みれば少ないと言えるが、今般、NHK交響楽団との1978年のライヴ録音が加わったことは実に素晴らしいことであると言える。ノイマンによる交響詩「わが祖国」の代表盤は何と言っても1975年のスタジオ録音盤であるというのが衆目の一致するところであると思われるが、本演奏は、それにライヴ録音ならではの気迫や熱き生命力が付加されたものと言っても過言ではあるまい。ノイマンによる同曲の演奏は、民族色をやたら振りかざしたあくの強いものではなく、むしろ、淡々と曲想が進んでいく中で、各旋律の随所からチェコの民族色や祖国への深い愛情の念が滲み出てくるような演奏と言えるところだ。NHK交響楽団も、さすがに技量においてはチェコ・フィルには及ばないが、その渾身の名演奏ぶりにおいてはいささかも引けを取っておらず、ノイマンともどもチェコの楽団と言ってもいいような味わい深い演奏を繰り広げていると言ってもいいのではないだろうか。他方、スラヴ舞曲全曲については、ノイマンは、いずれもチェコ・フィルとともに3度にわたってスタジオ録音を行っている(1971〜1972年、1985年、1993年)。いずれ劣らぬ名演であるが、本演奏は、ライヴ録音ならではの畳み掛けていくような気迫や強靭な迫力が全体に漲っており、演奏の持つ根源的な力強さという意味においては、ノイマンによる随一の名演と言っても過言ではあるまい。1990年代に入って、その技量を格段に向上させたNHK交響楽団も、ノイマンの統率の下、最高のパフォーマンスを発揮していると高く評価したいと考える。音質は、名指揮者の来日公演の高音質での発売で定評のあるアルトゥスレーベルがマスタリングを手掛けているだけに、十分に満足できる良好な音質に仕上がっているのが素晴らしい。
6 people agree with this review
5 people agree with this review 2012/01/15
ショパン弾きとして名を馳せたピアニストは多数存在しているが、サンソン・フランソワほど個性的なピアニストは他に殆ど類例を見ないと言えるのではないだろうか。コンクール至上主義が横行している現代においては、おそらくは許されざる演奏とも言えるところであり、いわゆる崩した弾き方とも言えるものである。もちろん、稀代のショパン弾きであったルービンシュタインによる演奏のように、安心して楽曲の魅力を満喫することが可能な演奏ではなく、あまりの個性的なアプローチ故に、聴き手によっては好き嫌いが分かれる演奏とも言えなくもないが、その演奏の芸術性の高さには無類のものがあると言っても過言ではあるまい。フランソワは、もちろん卓越した技量を持ち合わせていたと言えるが、いささかも技巧臭を感じさせることはなく、その演奏は、即興的で自由奔放とさえ言えるものだ。テンポの緩急や時として大胆に駆使される猛烈なアッチェレランド、思い切った強弱の変化など、考え得るすべての表現を活用することによって、独特の個性的な演奏を行っていると言える。各旋律の心を込め抜いた歌い方にも尋常ならざるものがあると言えるが、それでいて、陳腐なロマンティシズムに陥ることなく、常に高踏的な芸術性を失うことがないのが見事であると言えるだろう。また、一聴すると自由奔放に弾いているように聴こえる各旋律の端々には、フランス人ピアニストならではの瀟洒な味わいに満ち溢れたフランス風のエスプリ漂う情感が込められており、そのセンス満点の味わい深さには抗し難い魅力に満ち溢れているところだ。本盤におさめられたワルツ集の演奏も、正にセンスの塊であり、近年では同じくフランス人であるルイサダが素晴らしい超名演(1990年)を成し遂げているが、強烈な個性という意味においては、フランソワによる本演奏も同格の超名演と高く評価したいと考える。音質は、従来CD盤ではやや鮮明さに欠ける音質であり、時として音がひずんだり、はたまた団子のような音になるという欠点が散見されたところであったが、今般、ついに待望のSACD化が行われることによって大変驚いた。従来CD盤とは次元が異なる見違えるような、そして1963年のスタジオ録音とは到底信じられないような鮮明な音質に生まれ変わった言える。フランソワのピアノタッチが鮮明に再現されるのは殆ど驚異的であり、あらためてSACDの潜在能力の高さを思い知った次第である。いずれにしても、フランソワによる至高の超名演を、SACDによる高音質で味わうことができるのを大いに歓迎したいと考える。
3 people agree with this review 2012/01/15
クレンペラーは、メンデルスゾーンの楽曲を得意としており、とりわけ交響曲第3番「スコットランド」(1960年)や劇音楽「真夏の世の夢」(1960年)、序曲「フィンガルの洞窟」の演奏などは、現在でも他の指揮者による数々の名演に冠絶する至高の超名演と言っても過言ではあるまい。これに対して、交響曲第4番「イタリア」の演奏の評価は必ずしも芳しいとは言い難い。これには、とある影響力の大きい某音楽評論家が酷評していることも一つの要因とも言えるが、確かに、トスカニーニ&NBC交響楽団による豪演(1954年)などと比較すると、切れば血が噴き出てくるような圧倒的な生命力や、イタリア風の歌謡性溢れるカンタービレの美しさなどにおいて、いささか分が悪いと言わざるを得ないところだ。しかしながら、北ヨーロッパ人が南国イタリアに憧れるという境地を描いた演奏という考え方(ライナー・ノーツにおける解説において、松沢氏が「武骨で不器用な男気に溢れた演奏」と評価されているが、誠に至言であると言える。)に立てば、必ずしも否定的に聴かれるべきではないのではないかと考えられるところであり、本演奏の深沈たる味わい深さとスケールの雄大さにおいては、出色のものがあると言えるのではないだろうか。いずれにしても、私としては、クレンペラーの悠揚迫らぬ芸風が顕著にあらわれた素晴らしい名演と高く評価したいと考える。これに対して、シューマンの交響曲第4番は、正に文句のつけようがない至高の名演だ。クレンペラーの本演奏におけるアプローチは、意外にも早めのテンポによる演奏であるが、スケールの雄大さは相変わらずであり、重厚さにおいてもいささかの不足はないと言える。ブラスセクションなども力奏させることによって、いささかも隙間風の吹かない剛毅にして壮麗な音楽が紡ぎだされており、全体の造型も極めて堅固であると言える。木管楽器などを比較的強く吹奏させて際立たせる(とりわけ、第2楽章は抗し難い美しさに満ち溢れている。)のもクレンペラーならではであるが、全体に独特の格調の高さが支配しているのが素晴らしい。第4番は、独墺系の大指揮者(フルトヴェングラーを始め、ベーム、カラヤン、ヴァントなど)がその最晩年に相次いで名演を遺している楽曲であると言える。特に、フルトヴェングラー&ベルリン・フィルによる超名演(1951年)の存在感があまりにも大きいものであるため、他の演奏はどうしても不利な立場にあると言えるが、クレンペラーは前述のような剛柔バランスのとれたアプローチによって、シューマンが同曲に込めた寂寥感や絶望感を鋭く抉り出していくような奥行きのある演奏に仕上がっていると言えるところであり、その演奏の彫の深さと言った点においては、前述のフルトヴェングラーによる超名演にも肉薄する名演と言えるのではないか。音質は、従来CD盤がARTによるリマスタリングによって比較的良好な音質であったと言える(両曲のうちシューマンの交響曲第4番については、昨年、ESOTERICがフランクの交響曲ニ短調とのカプリングで第4番をSACD化したところであり、これによって素晴らしい鮮明な高音質に生まれ変わったところだ。)。しかしながら、今般、ついにEMIによって両曲ともに待望のSACD化が行われることによって大変驚いた。従来CD盤とは次元が異なる見違えるような、そして1960年代のスタジオ録音とは到底信じられないような鮮明な音質に生まれ変わった言える(シューマンの交響曲第4番については、ESOTERIC盤との優劣については議論の分かれるところだ。)。いずれにしても、クレンペラーによる至高の名演を、SACDによる高音質で味わうことができるのを大いに歓迎したいと考える。
先ずは、先日、逝去されたワイセンベルクに対して、心よりその冥福をお祈りしたい。さて、本盤の演奏についてであるが、かつてはワイセンベルクの個性が、カラヤン&ベルリン・フィルによる豪壮華麗な演奏によって殆ど感じることができない演奏であると酷評されてきたところであるが、今般のSACD化によって、その印象が一掃されることになった意義は極めて大きいと言わざるを得ない。もちろん、カラヤン&ベルリン・フィルの演奏は凄いものであり、今般のSACD化によって更にその凄みを増したとさえ言える。もっとも、流麗なレガートを駆使して豪壮華麗な演奏の数々を成し遂げていたカラヤンの芸風からすれば、ラフマニノフの楽曲との相性は抜群であると考えられるところであるが、カラヤンは意外にもラフマニノフの楽曲を殆ど録音していない。カラヤンの伝記を紐解くと、交響曲第2番の録音も計画されていたようではあるが、結局は実現しなかったところだ。したがって、カラヤンによるラフマニノフの楽曲の録音は、本盤におさめられたピアノ協奏曲第2番のみということになり、その意味でも、本盤の演奏は極めて貴重なものと言えるだろう。しかしながら、前述のように、演奏はいかにも全盛期のカラヤン&ベルリン・フィルならではの圧倒的なものであると言える。一糸乱れぬ鉄壁のアンサンブル、唸るような低弦の重量感溢れる力強さ、ブリリアントなブラスセクションの響き、桁外れのテクニックで美音を振りまく木管楽器群、そして雷鳴のように轟わたるティンパニなど、圧倒的な音のドラマが構築されていると言える。そして、カラヤンは、これに流麗なレガートを施すことによって、正に豪華絢爛にして豪奢な演奏を展開しているところであり、少なくとも、オーケストラ演奏としては、同曲演奏史上でも最も重厚かつ華麗な演奏と言えるのではないだろうか。他方、ワイセンベルクのピアノ演奏は、従来CD盤やHQCD盤で聴く限りにおいては、カラヤン&ベルリン・フィルの中の一つの楽器と化していたと言えるところであり、その意味では、カラヤン&ベルリン・フィルによる圧倒的な音のドラマの構築の最も忠実な奉仕者であったとさえ言える。しかしながら、今般のSACD化により、ワイセンベルクの強靭にして繊細なピアノタッチが、オーケストラと見事に分離して聴こえることになったことによって、実はワイセンベルクが、カラヤン&ベルリン・フィルの忠実な僕ではなく、むしろ十二分にその個性を発揮していることが判明した意義は極めて大きいと言わざるを得ない。いずれにしても、私としては、同曲のベストワンの演奏と評価するのにはいささか躊躇せざるを得ないが、全盛期のカラヤン&ベルリン・フィル、そしてワイセンベルクによる演奏の凄さ、素晴らしさ、そして美しさを十二分に味わうことが可能な素晴らしい名演として高く評価したいと考える。併録のフランクのピアノと管弦楽のための交響的変奏曲は、ワイセンベルクのピアノ演奏の個性がラフマニノフよりも更に発揮されているとも言えるところであり、カラヤン&ベルリン・フィルによる名演奏とも相まって、同曲の美しさを存分に味わわせてくれるという意味において、さらに素晴らしい名演と高く評価したい。音質は、1972年のスタジオ録音であり、従来CD盤では今一つ冴えない音質であったが、数年前に発売されたHQCD盤は、若干ではあるが音質が鮮明になるとともに、音場が幅広くなったところである。しかしながら、今般、ついに待望のSACD化が行われることによって、見違えるような鮮明な音質に生まれ変わったところだ。音質の鮮明さ、音場の幅広さ、そして音圧のいずれをとっても一級品の仕上がりであり、あらためてSACDの潜在能力の高さを思い知った次第である。とりわけ、前述のように、ワイセンベルクのピアノ演奏とカラヤン&ベルリン・フィルの演奏が明瞭に分離して聴こえるのは殆ど驚異的ですらある。いずれにしても、カラヤン&ベルリン・フィル、そしてワイセンベルクによる素晴らしい名演を、SACDによる高音質で味わうことができるのを大いに歓迎したいと考える。
これまでは、モノラル録音ということもあって、最新録音によるドビュッシーのピアノ曲の演奏と比較すると分が悪かったワルター・ギーゼキングの代表的な名演とも言うべきドビュッシーのピアノ曲の一連のスタジオ録音が、EMIによってついにSACD化されることになったというのは、何と言う素晴らしいことであろうか。ギーゼキングによるドビュッシーのピアノ曲の演奏は、特別な個性を発揮したり、はたまた奇を衒った解釈を施したりするということは薬にしたくもなく、緻密なスコアリーディングに基づき、曲想を精緻に、そして丁寧に描き出していくという、ある意味ではオーソドックスなアプローチに徹したものと言える。卓越したテクニックにも出色のものがあると言えるものの、モノラル録音ということも多分にあるとは思うが、素っ気なささえ感じさせるところもあり、即物的な演奏とさえ言えるところだ。しかしながら、一聴すると淡々と流れていく各旋律の端々には、独特の細やかなニュアンスやフランス風のエスプリ漂う豊かな情感に満ち溢れており、決して無機的な演奏には陥っていないと言える。そして、ギーゼキングの演奏で素晴らしいのは、1950年代の演奏であるにもかかわらず、いささかも古臭さを感じさせるということがなく、むしろ、その演奏は清新さに溢れていると言えるところであり、その気高い格調の高さにおいても卓抜としたものがあったと言えるだろう。ドビュッシーのピアノ曲を得意とするピアニストは、その後数多く誕生しているが、それらのピアニストによる数々の名演を耳にした上で、ギーゼキングによる本演奏を聴いても、録音の古さは感じても、演奏内容自体には違和感など全く感じさせず、むしろ新鮮味さえ感じさせるというのは殆ど驚異的ですらあると言えるところだ。本盤におさめられた映像をはじめとした各種のピアノ作品についても、前述のようなギーゼキングによる芸風が見事にあらわれた名演と言えるところであり、正に古くて新しい、現代においてもドビュッシーのピアノ作品演奏の規範とも言うべき至高の名演と高く評価したいと考える。このように、ギーゼキングによるドビュッシーのピアノ作品の演奏は、演奏自体は素晴らしいが、モノラル録音というハンディもあって、その音質は、従来CD盤では鮮明さに欠ける音質であり、時として音がひずんだり、はたまた団子のような音になるという欠点が散見されたところであった。ところが、今般、ついに待望のSACD化が行われることによって大変驚いた。従来CD盤とは次元が異なる見違えるような、そして1950年代前半のモノラル録音とは到底信じられないような鮮明な音質に生まれ変わった言える。ギーゼキングのピアノタッチが鮮明に再現されるのは殆ど驚異的であり、あらためてSACDの潜在能力の高さを思い知った次第である。いずれにしても、ギーゼキングによる至高の名演を、SACDによる高音質で味わうことができるのを大いに歓迎したいと考える。
2 people agree with this review 2012/01/14
NHK交響楽団との数多くの公演で我が国でも非常に有名なサヴァリッシュであるが、人気の方については今一つと言わざるを得ない。我が国のオーケストラを頻繁に指揮する指揮者については、過小評価されてしまうという不思議な風潮があるのはいかがなものかとも思うが、それでもサヴァリッシュの不人気ぶりには著しいものがあると言わざるを得ない。確かに、サヴァリッシュが外国の一流オーケストラを指揮した名演というのは殆ど存在していないというのは事実である。唯一、現在でも素晴らしい名演とされているのは、ドレスデン国立管弦楽団を指揮してスタジオ録音(1972年)を行ったシューマンの交響曲全集であるというのは衆目の一致するところだ。ただし、各交響曲のいずれもが様々な指揮者によるそれぞれの楽曲の演奏中のベストの名演ということではなく、全集全体として優れた演奏ということであり、正に最大公約数的な名全集に仕上がっていたところである。これはいかにもサヴァリッシュらしいとも言えるのではないだろうか。サヴァリッシュは、史上最年少でバイロイト音楽祭に登場するなど、きわめて才能のある指揮者として将来を嘱望されていたにもかかわらず、その後はかなり伸び悩んだと言えなくもないところだ。膨大な録音を行ってはいるが、前述のシューマンの交響曲全集以外にはヒット作が存在しない。いい演奏は行うものの、他の指揮者を圧倒するような名演を成し遂げることが殆どないという、ある意味では凡庸と言ってもいいような存在に甘んじていると言っても過言ではあるまい。本盤におさめられたブラームスの交響曲全集は、目立った名演を殆ど遺していないサヴァリッシュとしては、前述のシューマンの交響曲全集に次ぐ名全集と言えるのではないだろうか。確かに、個々の交響曲の演奏に限ってみれば、いずれの交響曲についても他に優れた演奏があまた存在していると言えるが、全集全体として見ると、水準以上の名演が揃った優れたものと言えるところだ。堅固な造型美と重厚かつ剛毅さを兼ね備えたいかにもドイツ風の硬派の演奏と言えるが、かかる芸風はブラームスの交響曲の性格に見事に符号していると言えるところであり、NHK交響楽団の渾身の名演奏も相まって、素晴らしい名全集に仕上がっていると言えるだろう。交響曲第1番については、NHKホールのこけらおとし公演の記録ということであるが、その意味でも大変貴重な存在と言える。そして併録の悲劇的序曲が各交響曲以上に圧倒的な超名演だ。冒頭のたたきつけるような和音からして、これがあのサヴァリッシュかというほどのとてつもない強靭な迫力を誇っており、その後の気迫と生命力溢れる力演にはただただ圧倒されるのみである。音質は、名指揮者の来日公演の高音質での発売で定評のあるアルトゥスレーベルがマスタリングを手掛けているだけに、1970年代前半のライヴ録音とは思えないほどの十分に満足できる良好な音質に仕上がっているのが素晴らしい。
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5 people agree with this review 2012/01/14
2011年9月18日に惜しくも逝去したクルト・ザンデルリングは、2002年には既に指揮活動から引退していたところであるが、現役時代は我が国にもたびたび来日して、素晴らしい名演の数々を聴かせてくれたのは、我が国のクラシック音楽ファンにとっても実に幸運なことであったと言わざるを得ない。本盤におさめられたベートーヴェンの交響曲第8番、ブラームスの交響曲第1番などは、ザンデルリングが1973年にシュターツカペレ・ドレスデンを率いて来日した際の記念碑的な名演奏であると言える。先ず、ベートーヴェンの交響曲第8番は、おそらくはザンデルリングによるベストの名演と評価したい。ザンデルリングは、フィルハーモニア管弦楽団とともにベートーヴェンの交響曲全集をスタジオ録音しているが、全く問題にならない。中庸のテンポによる本演奏ではあるが、ドイツ風の重厚さが演奏全体を支配しており、加えてシュターツカペレ・ドレスデンのいぶし銀の音色が、演奏に独特の潤いと味わい深さを付加させているのを忘れてはならない。ブラームスの交響曲第1番は、ザンデルリングの十八番とも言うべき楽曲であり、本演奏の2年前にもシュターツカペレ・ドレスデンとともにスタジオ録音(1971年)するとともに、ベルリン交響楽団とともにスタジオ録音(1990年)を行っているところだ。いずれ劣らぬ名演であるが、本演奏は、実演ならではの畳み掛けていくような気迫や強靭な生命力が全体に漲っており、演奏の持つ根源的な迫力においては、ザンデルリングの同曲の演奏の中でも頭一つ抜けた存在と言えるかもしれない。シュターツカペレ・ドレスデンのいぶし銀の味わい深い音色は本演奏でも健在であり、とりわけペーター・ダムによるホルンソロの朗々たる音色には抗し難い魅力が満ち溢れていると言える。いずれにしても、本演奏は、ザンデルリングによる至高の名演と高く評価したいと考える。さらに、ウェーバーの歌劇「オベロン」序曲やワーグナーの楽劇「ニュルンベルクのマイスタージンガー」前奏曲もおさめられているが、いずれもザンデルリングならではの重厚な素晴らしい名演に仕上がっていると評価したい。音質は、シングルレイヤーによるSACD&SHM−CD盤だけに、従来CD盤とはそもそも次元の異なる高音質であると言える。音質の鮮明さ、音場の幅広さ、音圧のいずれをとっても一級品の仕上がりであり、あらためてSACD盤の潜在能力の高さを思い知った次第だ。いずれにしても、ザンデルリングによる至高の超名演を、現在望み得る最高の高音質SACD盤で味わうことができるのを大いに歓迎したいと考える。
エルガーのチェロ協奏曲は、悲劇のチェリストであるデュ・プレの代名詞のような楽曲であったと言える。エルガーのチェロ協奏曲とともに2大傑作と称されるドヴォルザークのチェロ協奏曲については、ロストロポーヴィチをはじめ数多くのチェリストによって録音がなされ、あまたの名演が成し遂げられている。ところが、エルガーのチェロ協奏曲に関しては、近年では若手の女流チェリストであるガベッタによる名演(2009年)なども登場しているが、デュ・プレの名演があまりにも凄いために、他のチェリストによる演奏が著しく不利な状態に置かれているとさえ言えるだろう。かのロストロポーヴィチも、デュ・プレの同曲の名演に恐れをなして、生涯スタジオ録音を行わなかったほどである(ロストロポーヴィチによる同曲のライヴ録音(1965年)が数年前に発売された(BBCレジェンド)が出来はイマイチである。)。デュ・プレは同曲について、本盤のスタジオ録音(1965年)のほか、いくつかのライヴ録音を遺している。テスタメントから発売されたバルビローリ&BBC響との演奏(1962年)なども素晴らしい名演ではあるが、演奏の安定性などを総合的に考慮すれば、本演奏の優位はいささかも揺らぎがないと言える。本演奏におけるデュ・プレによる渾身の気迫溢れる演奏の力強さは圧巻の凄まじさだ。本演奏の数年後には多発性硬化症という不治の病を患い、二度とチェロを弾くことがかなわなくなるのであるが、デュ・プレのこのような凄みのあるチェロ演奏は、あたかも自らをこれから襲うことになる悲劇的な運命を予見しているかのような、何かに取り付かれたような情念や慟哭のようなものさえ感じさせると言える。もっとも、我々聴き手がそのような色眼鏡でデュ・プレのチェロを鑑賞しているという側面もあるとは思うが、いずれにしても、切れば血が出てくるような圧倒的な生命力と、女流チェリスト離れした力感、そして雄渾なスケールの豪演は、我々聴き手の肺腑を打つのに十分であると言える。それでいて、エルガーの音楽に特有の人生への諦観や寂寥感、深遠な抒情の表現においてもいささかの不足はないと言えるところであり、その奥深い情感がこもった美しさの極みとも言える演奏は、涙なしには聴くことができないほどのものだ。このような演奏を聴いていると、同曲はデュ・プレのために作曲されたのではないかとの錯覚さえ覚えるほどであり、さすがのロストロポーヴィチも、同曲のスタジオ録音を諦めた理由がよく理解できるところである。デュ・プレのチェロのバックの指揮をつとめるのはバルビローリであるが、ロンドン交響楽団を巧みに統率するとともに、デュ・プレのチェロ演奏のサポートをしっかりと行い、同曲の数々の抒情的な旋律を歌い抜いた情感豊かな演奏を繰り広げているのが素晴らしい。併録の歌曲集「海の絵」も、ジャネット・ベイカーの歌唱が何よりも美しい素晴らしい名演と評価したい。音質は、1965年のEMIによるスタジオ録音であり、従来CD盤では音にひずみが生じているなど今一つ冴えないものであったが、数年前にHQCD化されたことによって、音場が広がるとともに音質もかなり鮮明に改善されたところだ。しかしながら、今般、ついに待望のSACD化が行われることによって、更に見違えるような鮮明な音質に生まれ変わったところだ。音質の鮮明さ、音場の幅広さ、そして音圧のいずれをとっても一級品の仕上がりであり、あらためてSACDの潜在能力の高さを思い知った次第である。いずれにしても、デュ・プレやバルビローリ等による素晴らしい超名演を、SACDによる高音質で味わうことができるのを大いに歓迎したいと考える。
4 people agree with this review 2012/01/09
マタチッチの桁外れにスケールの大きい芸風を味わうことが可能な圧倒的な名演だ。本盤には、様々な作曲家による楽曲がおさめられており、遺された録音が必ずしも多いとは言い難いために、とかくレパートリーが少ないなどと誤解されがちなマタチッチが、意外にも幅広いレパートリーを有していたことを窺い知ることが可能であるとも言えるだろう。本盤におさめられた各楽曲の演奏も、いずれもマタチッチの偉大な芸術を味わうことが可能な圧倒的な名演揃いであると言えるが、とりわけ凄まじい演奏として、先ずはヤナーチェクのシンフォニエッタを掲げたい。近年では、村上春樹氏による有名小説によってにわかに脚光を浴びつつある同曲であるが、これまでの同曲の名演としては、どちらかと言うとモラヴィアの民謡風の旋律の数々に焦点を当てた民族色豊かな演奏が主流を占めてきたと言えなくもないところだ。これらの演奏に対して、マタチッチによる本演奏は一線を画しているとも言えるだろう。冒頭のファンファーレからして、壮絶な迫力を誇っているし、その後の強靭な迫力や彫の深い表現には出色のものがあり、演奏全体としては、正に壮大な交響曲のようなとてつもないスケールの雄大さを誇っていると言っても過言ではあるまい。同曲の演奏としては異色の演奏とも言えるところであるが、聴き終えた後の充足感には絶大なるものがあるところであり、私としては、マタチッチの芸術家としての桁外れの才能を大いに感じることが可能な圧倒的な超名演と高く評価したいと考える。次いで、ストラヴィンスキーのバレエ音楽「火の鳥」が素晴らしい。これまた、ヤナーチェクのシンフォニエッタに勝るとも劣らぬ迫力を誇っており、とりわけ終結部の壮絶さ、そしてユニークな解釈は我々聴き手の度肝を抜くのに十分であると言える。コダーイの組曲「ハーリ・ヤーノシュ」も、冒頭のくしゃみからして凄まじく、ハンガリーの民族色とは殆ど無縁の演奏であるが、スケールは雄渾の極みであり、その桁外れの壮大な迫力にはただただ圧倒されるのみである。加えて、各曲の描き分けが実に巧みであり、聴かせどころのツボを心得た心憎いばかりの演出巧者ぶりを発揮しており、本演奏では、マタチッチのオペラ指揮者としての才能が見事に功を奏していると言えるのではないだろうか。ポピュラーな名曲であるが、近年では最新録音に恵まれてない同曲だけに、極めて価値のある名演の登場と言っても過言ではあるまい。ウェーバーやワーグナーの序曲や前奏曲も、マタチッチならでは重厚で、なおかつスケール雄大な至高の超名演と評価したい。NHK交響楽団も、アンサンブルに乱れが生じているなど、必ずしも万全とは言い難い演奏であると言える(特に、エキストラが参加していたと思われるヤナーチェクのシンフォニエッタ)が、敬愛するマタチッチの指揮に必死で喰らいつき、渾身の名演奏を展開しているのが見事であり、芸術的な感動という意味においては申し分のないパフォーマンスを発揮していると言っても過言ではあるまい。音質は、名指揮者の来日公演の高音質での発売で定評のあるアルトゥスレーベルがマスタリングを手掛けているだけに、本全集においても1969年〜1975年のライヴ録音としては十分に満足できる良好な音質に仕上がっているのが素晴らしい。
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1 people agree with this review 2012/01/09
2011年9月18日に惜しくも逝去したクルト・ザンデルリングは、2002年には既に指揮活動から引退していたところであるが、現役時代は我が国にもたびたび来日して、素晴らしい名演の数々を聴かせてくれたのは、我が国のクラシック音楽ファンにとっても実に幸運なことであったと言わざるを得ない。本盤におさめられたモーツァルトの交響曲第35番、チャイコフスキーの交響曲第4番、そしてウェーバーの歌劇「オベロン」序曲は、ザンデルリングが1973年にシュターツカペレ・ドレスデンを率いて来日した際の記念碑的な名演奏であると言える。先ず、モーツァルトの交響曲第35番は、ザンデルリングとしては極めて珍しいレパートリーと言えるだろう。そもそも、ザンデルリングによるモーツァルトの交響曲演奏の録音は、先般発売された交響曲第39番などを除いて殆ど遺されておらず、必ずしも得意のレパートリーではなかったと言えるのかもしれない。しかしながら、本盤の演奏は、そのようなことをいささかも感じさせないような素晴らしい名演に仕上がっていると評価したい。近年流行の古楽器奏法やピリオド楽器を使用した軽妙な演奏とは正反対の、いわゆる旧スタイルの演奏と言えるが、シンフォニックにしてスケール雄大な演奏は、いかにもドイツ人指揮者ならではの面目躍如たるものがあると言えるだろう。次いで、チャイコフスキーの交響曲第4番であるが、ザンデルリングは、チャイコフスキーの交響曲を得意のレパートリーとし、歴史的な名演の数々を成し遂げたムラヴィンスキーに師事していたわりには、チャイコフスキーの交響曲の録音を必ずしも数多く行っているわけではない。そのような中で、ザンデルリングは交響曲第4番だけは得意としているようであり、本演奏の他にも、レニングラード・フィルとのスタジオ録音(1956年)、後期三大交響曲集の一環としてベルリン交響楽団とともに行ったスタジオ録音(1979年)、そしてウィーン交響楽団とのライヴ録音(1998年)が遺されているところである。いずれも、ムラヴィンスキーのように即物的とも言うべき純音楽的な引き締まった演奏ではないが、演奏全体の堅固な造型美などが光った、いかにもドイツ人指揮者ならではの重厚な名演に仕上がっていたと言える。同じく独墺系の指揮者であるカラヤンがチャイコフスキーの交響曲の数々の名演を成し遂げているが、カラヤンによる豪華絢爛な演奏とはあらゆる意味で対照的な質実剛健たる演奏と言っても過言ではあるまい。本演奏は、前述の1979年のスタジオ録音の6年前の演奏ではあるが、基本的なアプローチ自体は、殆ど変りがなく、どちらかと言うと、一切の虚飾を排した地道さを身上としているとも言えるところだ。しかしながら、本演奏には実演ならではの畳み掛けていくような気迫や強靭な生命力が演奏全体に漲っており、演奏の持つ根源的な迫力においては、1998年のウィーン交響楽団との演奏とほぼ同格であり、1979年のスタジオ録音を大きく上回っていると言っても過言ではあるまい。加えて、シュターツカペレ・ドレスデンのいぶし銀の味わい深い音色が演奏全体に独特の潤いと温もりを付加させており、オーケストラ演奏の魅力においては、1998年のウィーン交響楽団との演奏をはるかに凌駕していると言えるだろう。いずれにしても、本演奏は、ザンデルリングによるチャイコフスキーの交響曲第4番の演奏としては、随一の名演と高く評価したいと考える。併録のウェーバーの歌劇「オベロン」序曲も、ドイツ風の重厚さと実演ならではの強靭な迫力を兼ね備えた圧倒的な名演と高く評価したい。音質は、シングルレイヤーによるSACD&SHM−CD盤だけに、従来CD盤とはそもそも次元の異なる高音質であると言える。音質の鮮明さ、音場の幅広さ、音圧のいずれをとっても一級品の仕上がりであり、あらためてSACD盤の潜在能力の高さを思い知った次第だ。いずれにしても、ザンデルリングによる至高の超名演を、現在望み得る最高の高音質SACD盤で味わうことができるのを大いに歓迎したいと考える。
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近年様々なライヴ録音が発掘されることによってその実力が再評価されつつあるテンシュテットであるが、テンシュテットによる最大の遺産は、何と言っても1977年から1986年にかけてスタジオ録音されたマーラーの交響曲全集ということになるのではないだろうか。テンシュテットは、当該全集の掉尾を飾る交響曲第8番の録音の前年に咽頭がんを患い、その後は放射線治療を続けつつ体調がいい時だけ指揮をするという絶望的な状況に追い込まれた。テンシュテットのマーラーの交響曲へのアプローチはドラマティックの極みとも言うべき劇的なものだ。これはスタジオ録音であろうが、ライヴ録音であろうが、さして変わりはなく、変幻自在のテンポ設定や思い切った強弱の変化、猛烈なアッチェレランドなどを駆使して、大胆極まりない劇的な表現を施していると言える。かかる劇的な表現においては、かのバーンスタインと類似している点も無きにしも非ずであり、マーラーの交響曲の本質である死への恐怖や闘い、それと対置する生への妄執や憧憬を完璧に音化し得たのは、バーンスタインとテンシュテットであったと言えるのかもしれない。ただ、バーンスタインの演奏があたかもマーラーの化身と化したようなヒューマニティ溢れる熱き心で全体が満たされている(したがって、聴き手によってはバーンスタインの体臭が気になるという者もいるのかもしれない。)に対して、テンシュテットの演奏は、あくまでも作品を客観的に見つめる視点を失なわず、全体の造型がいささかも弛緩することがないと言えるのではないだろうか。もちろん、それでいてスケールの雄大さを失っていないことは言うまでもないところだ。このあたりは、テンシュテットの芸風の根底には、ドイツ人指揮者としての造型を重んじる演奏様式が息づいていると言えるのかもしれない。本盤におさめられたマーラーの交響曲第5番及び第10番は、前述の交響曲全集におさめられたものからの抜粋である。テンシュテットのマーラーの交響曲第5番と言えば、同じく手兵ロンドン・フィルとの演奏であるが、来日時のライヴ録音(1984年)や壮絶の極みとも言うべき豪演(1988年)が有名であり、他方、交響曲第10番については、ウィーン・フィルとの一期一会の名演(1982年)が名高いところだ。それだけに、本盤におさめられた演奏は、長らく陰に隠れた存在とも言えるところであったが、今般、久々に単独での発売がなされたことによって、その演奏の素晴らしさがあらためてクローズアップされた意義は極めて大きいものと言わざるを得ない。確かに本演奏は、咽頭がん発病後、一つ一つのコンサートに命がけで臨んでいた1988年の演奏ほどの壮絶さは存在していないが、それでも前述のようなテンポの思い切った振幅を駆使したドラマティックにして濃厚な表現は大いに健在であり、スタジオ録音ならではのオーケストラの安定性も相まって、第10番ともども、正にテンシュテットのマーラー演奏の在り様が見事に具現化された至高の超名演と言っても過言ではあるまい。本盤におさめられた演奏については、前述のように個別には手に入らず、全集でしか手に入らなかったことから、HQCD化などの高音質化がこれまで施されていなかったが、そのような中での、今般のSACD化は長年の渇きを癒すものとして大いに歓迎したいと考える。いずれにしても、本SACD盤を聴いて大変驚いた。従来CD盤とは次元が異なる見違えるような鮮明な音質に生まれ変わった言える。いずれにしても、テンシュテットによる至高の超名演を、SACDによる高音質で味わうことができるのを大いに歓迎したいと考える。そして、可能であれば、全集の他の交響曲の演奏についても、SACD化して欲しいと思う聴き手は私だけではあるまい。
0 people agree with this review 2012/01/09
ワルター・ギーゼキングの代表的な名演とも言うべきドビュッシーのピアノ曲の一連のスタジオ録音が、EMIによってついにSACD化されることになったというのは、何と言う素晴らしいことであろうか。ギーゼキングによるドビュッシーのピアノ曲の演奏は、特別な個性を発揮したり、はたまた奇を衒った解釈を施したりするということは薬にしたくもなく、緻密なスコアリーディングに基づき、曲想を精緻に、そして丁寧に描き出していくという、ある意味ではオーソドックスなアプローチに徹したものと言える。卓越したテクニックにも出色のものがあると言えるものの、モノラル録音ということも多分にあるとは思うが、素っ気なささえ感じさせるところもあり、即物的な演奏とさえ言えるところだ。しかしながら、一聴すると淡々と流れていく各旋律の端々には、独特の細やかなニュアンスやフランス風のエスプリ漂う豊かな情感に満ち溢れており、決して無機的な演奏には陥っていないと言える。そして、ギーゼキングの演奏で素晴らしいのは、1950年代の演奏であるにもかかわらず、いささかも古臭さを感じさせるということがなく、むしろ、その演奏は清新さに溢れていると言えるところであり、その気高い格調の高さにおいても卓抜としたものがあったと言えるだろう。ドビュッシーのピアノ曲を得意とするピアニストは、その後数多く誕生しているが、それらのピアニストによる数々の名演を耳にした上で、ギーゼキングによる本演奏を聴いても、録音の古さは感じても、演奏内容自体には違和感など全く感じさせず、むしろ新鮮味さえ感じさせるというのは殆ど驚異的ですらあると言えるところだ。本盤におさめられた前奏曲集も、前述のようなギーゼキングによる芸風が見事にあらわれた名演と言えるところであり、正に古くて新しい、現代においてもドビュッシーのピアノ作品演奏の規範とも言うべき至高の名演と高く評価したいと考える。このように、ギーゼキングによるドビュッシーのピアノ作品の演奏は、演奏自体は素晴らしいが、モノラル録音というハンディもあって、その音質は、従来CD盤では鮮明さに欠ける音質であり、時として音がひずんだり、はたまた団子のような音になるという欠点が散見されたところであった。ところが、今般、ついに待望のSACD化が行われることによって大変驚いた。もちろん、最新録音のようにはいかないが、従来CD盤とは次元が異なる見違えるような、そして1950年代前半のモノラル録音とは信じられないようなかなり鮮明な音質に生まれ変わった言える。いずれにしても、ギーゼキングによる至高の名演を、SACDによる比較的良好な高音質で味わうことができるのを大いに歓迎したいと考える。
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