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13 people agree with this review 2012/01/09
ドイツ人ピアニストの巨匠ケンプによるベートーヴェンのピアノ協奏曲全集としては、これまで2つのスタジオ録音が知られていたところだ。最初の録音は、ケンペン&ベルリン・フィルとともに行った演奏(1953年)であり、二度目の録音は、ライトナー&ベルリン・フィルとの演奏(1961年)である。このうち、最初のものはモノラル録音であることから、ケンプによるベートーヴェンのピアノ協奏曲全集の代表盤としては、ライトナー&ベルリン・フィルとともに行った演奏を掲げるのが一般的であると考えられるところだ。そのような中で、今般、最晩年のケンプが来日時にNHK交響楽団とともにライヴ録音した全集が発売される運びとなったのは何と言う幸せなことであろうか。演奏は1970年ものであり、ケンプが75歳の時のものである。いずれの楽曲も至高の名演と高く評価したい。ベートーヴェンのピアノ協奏曲全集の録音は現在でもかなり数多く存在しており、とりわけテクニックなどにおいては本全集よりも優れたものが多数あると言える。ケンプによる録音に限ってみても、前述の2つのスタジオ録音の方が、テクニックに関しては断然上にあると言えるが、演奏の持つ味わい深さにおいては、本演奏がダントツであると言えるのではないだろうか。本全集におけるケンプによるピアノ演奏は、例によっていささかも奇を衒うことがない誠実そのものと言える。ドイツ人ピアニストならではの重厚さも健在であり、全体の造型は極めて堅固であると言える。また、これらの楽曲を熟知していることに去来する安定感には抜群のものがあり、その穏やかな語り口は朴訥ささえ感じさせるほどだ。しかしながら、一聴すると何でもないような演奏の各フレーズの端々から漂ってくる滋味に溢れる温かみには抗し難い魅力があると言えるところであり、これは人生の辛酸を舐め尽くした最晩年の巨匠ケンプだけが成し得た圧巻の至芸と言えるだろう。 なお、同時期に活躍していた同じドイツ人ピアニストとしてバックハウスが存在し、かつては我が国でも両者の演奏の優劣についての論争が繰り広げられたものであった。現在では、とある影響力の大きい某音楽評論家による酷評によって、ケンプの演奏はバックハウスを引き合いに著しく貶められているところである。確かに、某音楽評論家が激賞するバックハウスによるベートーヴェンのピアノ協奏曲の演奏も素晴らしい名演であり、私としてもたまに聴くと深い感動を覚えるのであるが、体調が悪いとあのような峻厳な演奏に聴き疲れすることがあるのも事実である。これに対して、ケンプの演奏にはそのようなことはなく、どのような体調であっても、安心して音楽そのものの魅力を味わうことができると言える。私としては、ケンプの滋味豊かな演奏を聴衆への媚びと決めつけ、厳しさだけが芸術を体現するという某音楽評論家の偏向的な見解には到底賛成し兼ねるところである。ケンプによる名演もバックハウスによる名演もそれぞれに違った魅力があると言えるところであり、両者の演奏に優劣を付けること自体がナンセンスと考えるものである。なお、本全集において、巨匠ケンプの至高のピアノ演奏を下支えしているのが、森正率いるNHK交響楽団であるが、ケンプのピアノ演奏に触発されたせいか、ドイツ風の重厚さにもいささかも不足がない名演奏を繰り広げていると高く評価したい。音質は、名指揮者の来日公演の高音質での発売で定評のあるアルトゥスレーベルがマスタリングを手掛けているだけに、本全集においても1970年のライヴ録音としては十分に満足できる良好な音質に仕上がっているのが素晴らしい。
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9 people agree with this review 2012/01/08
一昨年、ユニバーサルがSACDの発売を再開してから、SACD復活の兆しが見られつつあったところであるが、昨年より、EMI、アルトゥスが相次いで発売を開始。そして、一時はBlu-spec-CDでお茶を濁していたソニークラシカルまでがヴァントによる過去の超名演のSACD化を開始した。SACDの発売に対して消極的姿勢に転じつつあるオクタヴィアには若干の疑問を呈したいところであるが、パッケージメディアが瀕死の状態にある中で、極めて実りの多い状況になりつつあると言えるのではないだろうか。そのような良好な流れの中で、日本コロムビアがシングルレイヤーによるSACD&SHM−CD盤の発売を昨年より開始するとともに、今般、FM東京のアーカイヴ録音を発売していたTDKの版権を獲得して、その貴重な名演の数々のシングルレイヤーによるSACD&SHM−CD化を開始したというのは、実に素晴らしいことであると言えるだろう。今回は、その第1弾として、没後30年を迎えたベームと、本年惜しくも逝去されたザンデルリングによる歴史的な来日公演の際の名演がSACD化の対象として選定されたのは、その演奏の素晴らしさから言っても見事な選択と言っても過言ではあるまい。本盤には、ベームが1977年に3度目の来日を果たした際のライヴ録音をおさめており、楽曲は、モーツァルトの交響曲第29番、ブラームスの交響曲第2番、R・シュトラウスの交響詩「ドン・ファン」など、ベームのお得意のレパートリーで占められているのが特徴であると言えるだろう。先ず、モーツァルトの交響曲第29番であるが、ベームは同曲のスタジオ録音を繰り返して行っており、名高いのはベルリン・フィルとの交響曲全集(1959年〜1968年)に含まれる演奏、そして最晩年のウィーン・フィルとのスタジオ録音(1979年)である。いずれ劣らぬ名演であるが、実演でこそその真価を発揮するベームだけに、演奏の持つ根源的な迫力や音楽をひたすら前進させていこうという強靭な生命力において、本演奏は頭抜けた存在と言えるのではないだろうか。全体の堅固な造型、そしてシンフォニックな重厚さを兼ね備えたいわゆる旧スタイルの演奏ではあるが、軽妙浮薄なモーツァルトの交響曲の演奏様式が定着しつつある現代においてこそ存在価値がある、正に古き良き時代の味わい深さを多分に有した素晴らしい名演と高く評価したい。加えて、最晩年のベームならではのゆったりとしたテンポによる演奏には、深沈とした独特の味わい深さがあると言えるところだ。ブラームスの交響曲第2番については、ベームは、ベルリン・フィル(1956年)及びウィーン・フィル(1975年)とともに2度にわたってスタジオ録音を行っている。このうち、特にウィーン・フィルとの演奏は素晴らしい名演であるが、モーツァルトの交響曲第29番と同様に、トゥッティに向けて畳み掛けていくような気迫といい、演奏の持つ圧倒的な力強さといい、本演奏こそはベームが遺した同曲の最高の名演と言っても過言ではあるまい。R・シュトラウスの交響詩「ドン・ファン」は、シュターツカペレ・ドレスデンとのスタジオ録音(1957年)以来の録音ということになるが、これはそもそも本演奏とは勝負にならない。本演奏の持つ、切れば血が噴き出てくるような強靭な生命力は、とても83歳の老巨匠とは思えないほどの圧倒的な迫力を誇っており、ベームとしても会心の名演と言えるのではないだろうか。その他にも、ワーグナーの楽劇「ニュルンベルクのマイスタージンガー」前奏曲などもおさめられており、ゲネプロではあるが、同時期のスタジオ録音(1978年)とは比較にならないほどの素晴らしい名演と高く評価したいと考える。ウィーン・フィルも、ベームの統率の下、持ち得る実力を十二分に発揮した最高のパフォーマンスを発揮していると評価したい。音質は、シングルレイヤーによるSACD&SHM−CD盤だけに、従来CD盤とはそもそも次元の異なる高音質であると言える。音質の鮮明さ、音場の幅広さ、音圧のいずれをとっても一級品の仕上がりであり、あらためてSACD盤の潜在能力の高さを思い知った次第だ。いずれにしても、ベームによる至高の超名演を、現在望み得る最高の高音質SACD盤で味わうことができるのを大いに歓迎したいと考える。
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7 people agree with this review 2012/01/08
ヴァントが1990年代後半にベルリン・フィルやミュンヘン・フィル、そして手兵北ドイツ放送交響楽団を指揮して行ったブルックナーの交響曲の演奏は、いずれも至高の超名演である。同時期に朝比奈が成し遂げた数々の名演と並んで、今後ともおそらくは半永久的にブルックナーの演奏史上最高の超名演の地位を保持し続けていくものと考えられる。もっとも、そうした地位が保全されているのは、ブルックナーの交響曲のすべてにおいてではないことに留意しておく必要がある。要は、ヴァントの場合は第4番以降の交響曲に限られるということである。本盤におさめられた交響曲第3番の演奏は、ヴァントによる唯一の全集を構成するケルン放送交響楽団との演奏(1981年)に次ぐものであるが、それ以後、ヴァントは同曲を一度も録音していない。ということは、本演奏がヴァントによる第3番の最後の録音ということになる。ヴァントは、ベルリン・フィルと第8番をライヴ録音した後、惜しくも鬼籍に入ったが、存命であれば第6番のライヴ録音が予定されていたと聞いている。そして、おそらくはその次に第3番のライヴ録音を想定していた可能性が高い。仮に、最晩年におけるベルリン・フィルとの第3番のライヴ録音が実現していれば、決定的な超名演になったと思われるが、これは無いものねだりと言うべきであろう。本演奏は1992年のライヴ録音であり、オーケストラは手兵北ドイツ放送交響楽団。ヴァントが、前述のような至高の超名演を成し遂げるようになる直前の時期のものだ。それでも、私としては、朝比奈&大阪フィルによる名演(1993年)に次ぐ名演と評価したいと考える。そして、往年の名演として定評のあるベーム&ウィーン・フィルによる名演(1970年)よりも上位に置きたいとも考えている。本演奏においても、ヴァントは例によって厳格なスコアリーディングの下、峻厳に楽想を進めていく。造型もきわめて堅固であり、金管楽器などを最強奏させているのもいつもどおりであるが、本演奏においてもいささかも無機的になることはない。ただ、音楽全体を徹底して凝縮化させているので、スケールはいささか小ぶりと言わざるを得ない。このあたりが、1990年代後半以降のスケールも雄渾なスケールによるヴァントによる超名演とはいささか異なっていると言えるであろう。しかしながら、スケールがやや小さいという点が気にならなければ、演奏自体は文句のつけようがない至高の名演と評価したい。音質は、従来CD盤からして比較的良好な音質であったが、今般、ついに待望のSACD化が行われることによって、更に見違えるような鮮明な音質に生まれ変わったところだ。音質の鮮明さ、音場の幅広さ、そして音圧のいずれをとっても一級品の仕上がりであり、あらためてSACDの潜在能力の高さを思い知った次第である。いずれにしても、ヴァントによる至高の名演を、SACDによる高音質で味わうことができるのを大いに歓迎したいと考える。
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6 people agree with this review 2012/01/08
ヴァントの伝記を紐解くと、ブルックナーの交響曲の演奏に生涯をかけて取り組んできたヴァントが特別視していた交響曲は、第5番と第9番であったと言えるようだ。朝比奈も、交響曲第5番を深く愛していたようであるが、録音運がいささか悪かったようであり、最晩年の大阪フィルとの演奏(2001年)を除くと、オーケストラに問題があったり、はたまた録音に問題があったりするなど、いささか恵まれているとは言い難い状況に置かれているところである。これに対して、ヴァントの場合は、あくまでも比較論ではあるが、かなり恵まれていると言えるのではないだろうか。ヴァントが遺したブルックナーの交響曲第5番の録音は、唯一の全集を構成するケルン放送交響楽団とのスタジオ録音(1974年)、そして、本盤におさめられた手兵北ドイツ放送交響楽団とのライヴ録音(1989年)、数年前に発売されて話題となったベルリン・ドイツ交響楽団とのライヴ録音(1991年)、ミュンヘン・フィルとのライヴ録音(1995年)、そして不朽の名演として名高いベルリン・フィルとのライヴ録音(1996年)という5種類を数えるところであり、音質、オーケストラの力量ともにほぼ万全であり、演奏内容もいずれも極めて高水準であると言える。この中でも、最も優れた超名演は、ミュンヘン・フィル及びベルリン・フィルとの演奏であるというのは衆目の一致するところであろう。もっとも、北ドイツ放送交響楽団との最後の録音となった本盤の演奏も、さすがにミュンヘン・フィル及びベルリン・フィルとの演奏のような至高の高みには達していないが、十分に素晴らしい名演と高く評価したい。1980年代までのヴァントによるブルックナーの交響曲の演奏におけるアプローチは、厳格なスコアリーディングの下、楽曲全体の造型を厳しく凝縮化し、その中で、特に金管楽器を無機的に陥る寸前に至るまで最強奏させるのを特徴としており、優れた演奏である反面で、スケールの小ささ、細部に拘り過ぎる神経質さを感じさせるのがいささか問題であった。前述のケルン放送交響楽団との演奏は、優れた名演ではあるものの、こうしたスケールの小ささが気にならないとは言えないところだ。これに対して、ミュンヘン・フィル及びベルリン・フィルとの両超名演は、ヴァントの厳格なスコアリーディングに裏打ちされた厳しい凝縮型の演奏様式に、最晩年になって漸く垣間見せるようになった懐の深さが加わり、スケールに雄大さを増し、剛柔併せ持つ至高・至純の境地に達していると言える。本盤の演奏は、これらの超名演の6〜7年前の録音ということになるが、ベルリン・ドイツ交響楽団との演奏(1991年)と同様に、頂点に登りつめる前の過渡期にある演奏と言えるかもしれない。後年の超名演にあって、本盤の演奏に備わっていないのは正に懐の深さとスケール感。全体の厳しい造型は本盤においても健在であり、演奏も荘重さの極みであるが、いささか懐の深さが不足し、スケールがやや小さいと言えるのではないだろうか。しかしながら、これは極めて高い次元での比較であり、本盤の演奏を名演と評価するのにいささかの躊躇もしない。音質は、従来CD盤からして比較的良好な音質であったが、今般、ついに待望のSACD化が行われることによって、更に見違えるような鮮明な音質に生まれ変わったところだ。音質の鮮明さ、音場の幅広さ、そして音圧のいずれをとっても一級品の仕上がりであり、あらためてSACDの潜在能力の高さを思い知った次第である。いずれにしても、ヴァントによる至高の名演を、SACDによる高音質で味わうことができるのを大いに歓迎したいと考える。
6 people agree with this review
10 people agree with this review 2012/01/07
昨年(2011年)はベーム没後30年であった。生前は、とりわけ我が国において、当時絶頂期にあったカラヤンに唯一対抗し得る大指揮者として絶大なる人気を誇っていたが、歳月が経つにつれて、徐々に忘れられた存在になりつつあるというのは残念でならないところである。そのような状況の中で、本年7月に、ベームによる3つの名演のシングルレイヤーによるSACD&SHM−CD化、そして先般、ベームの得意のレパートリーであったモーツァルトの交響曲全集及び協奏曲・管弦楽曲集、ベートーヴェン、シューベルト、ブラームスの各交響曲全集がSHM−CD化されたというのは、ベームの偉大な芸術を再認識させてくれる意味においても極めて意義が大きいと言わざるを得ないだろう。本盤には、ベートーヴェンの交響曲全集(及び3つの序曲)がおさめられているが、これはベームによる唯一の全集である。ベームは、本全集以外にも、ベートーヴェンの交響曲をウィーン・フィルやベルリン・フィル、バイエルン放送交響楽団などと単独で録音を行っているが、全集の形での纏まった録音は本全集が唯一であり、その意味でも本全集の価値は極めて高いと言える。ベームによる本全集の各交響曲や序曲の演奏は、重厚でシンフォニックなものだ。全体の造型は例によってきわめて堅固であるが、その中で、ベームはオーケストラを存分に鳴らして濃厚さの極みと言うべき内容豊かな音楽を展開している。スケールも雄渾の極みであり、テンポは全体として非常にゆったりとしたものである。演奏は、1970〜1972年のスタジオ録音であり、これはベームが最も輝きを放っていた最後の時期の演奏であるとも言える。ベームは、とりわけ1970年代半ば過ぎになると、持ち味であった躍動感溢れるリズムに硬直化が見られるなど、音楽の滔々とした淀みない流れが阻害されるケースも散見されるようになるのであるが、本演奏には、そうした最晩年のベームが陥ったリズムの硬直化がいささかも見られず、音楽が滔々と淀みなく流れていくのも素晴らしい。いずれの楽曲も名演であると言えるが、最も優れた名演は衆目の一致するところ第6番ということになるであろう。本演奏は、ワルター&ウィーン・フィルによる演奏(1936年)、ワルター&コロンビア交響楽団による演奏(1958年)と並んで3強の一角を占める至高の超名演と高く評価したい。本演奏の基本的な性格は前述のとおりであるが、第4楽章の畳み掛けていくような力強さや、終楽章の大自然への畏敬の念を感じさせるような崇高な美しさには出色ものがあり、とりわけウィンナ・ホルンなどの立体的で朗々たる奥行きのある響きには抗し難い魅力があると言える。次いで第9番を採りたい。ベームは、最晩年の1980年にも同曲をウィーン・フィルとともに再録音(ベームによる最後のスタジオ録音)しており、最晩年のベームの至高・至純の境地を感じさせる神々しい名演であるとは言えるが、演奏全体の引き締まった造型美と内容充実度においては本演奏の方がはるかに上。とりわけ、終楽章の悠揚迫らぬテンポであたりを振り払うように進行していく演奏の威容には凄みがあると言えるところであり、グィネス・ジョーンズ(ソプラノ)、タティアーナ・トロヤノス(アルト)、ジェス・トーマス(テノール)、カール・リッダーブッシュ(バス)による名唱や、ウィーン国立歌劇場合唱団による渾身の合唱も相まって、圧倒的な名演に仕上がっていると評価したい。その他の楽曲も優れた名演であるが、これらの名演を成し遂げるにあたっては、ウィーン・フィルによる名演奏も大きく貢献していると言えるのではないだろうか。その演奏は、正に美しさの極みであり、ベームの重厚でシンフォニック、そして剛毅とも言える演奏に適度な潤いと深みを与えているのを忘れてはならない。音質は、1970年代初めの頃のスタジオ録音であるが、従来盤でも十分に満足できるものであった。本全集のうち、第6番〜第8番については既にSHM−CD化されていたが、今般、全集及び3つの序曲がSHM−CD化されるに及んで、従来盤よりも若干ではあるが、音質が鮮明になるとともに音場が幅広くなったと言えるところだ。もっとも、ボックスとしてはあまりにも貧相な作りであり、安っぽい紙に包まれたCDの取り出しにくさについても大いに問題があるなど、必ずしも価格(9000円)に見合った作りにはなっていないことを指摘しておきたい。ベーム没後30年を祈念したCDとしてはいささか残念と言わざるを得ないところだ。せっかく発売するのであれば、SHM−CDと言った中途半端な高音質化ではなく、より豪華な装丁にした上で、全集が無理でもとりわけ至高の超名演である第6番のみでも、シングルレイヤーによるSACD&SHM−CD盤で発売して欲しかったという聴き手は私だけではあるまい。
10 people agree with this review
14 people agree with this review 2012/01/03
クライバーは、その実力の割にはレパートリーがあまりにも少ない指揮者であるが、ひとたびレパートリーとした楽曲については、それこそより優れた演奏を志向すべく何度も演奏を繰り返した。ベートーヴェンの交響曲第4番は、そうしたクライバーの数少ないレパートリーの一つであったと言えるが、DVD作品や海賊盤を除けば、本盤におさめられた演奏は、その唯一の録音となったものである。私が、本盤の演奏を聴いたのは大学生の時だったが、それまで今一つ親しめる存在ではなかった同曲の魅力を、本演奏を聴くに及んではじめて知ったことが今となっては懐かしく思い出されるところだ。その後は、同じスタイルの演奏であれば、ムラヴィンスキー&レニングラード・フィルによる来日時のライヴ録音(1973年)などが高音質で発売(昨年、ついにシングルレイヤーによるSACD化)されたことから、本演奏の存在感は若干色褪せてきていたことは否めないところであったが、今般、高音質化されて発売された本演奏に接すると、あらためてその演奏の凄さを思い知った次第である。全曲を約30分という凄まじいスピードで駆け抜けており、繰り返しなどもすべて省略しているが、それでいて、各旋律の端々に込められた独特のニュアンスの豊かさ、そして、思い切った強弱の変化やテンポの効果的な振幅を駆使して、実に内容豊かな演奏を繰り広げていると言えるだろう。クライバーが本演奏の発売を許可したのは、数多く行ってきた同曲の演奏の中でも、崇敬するベームの追悼コンサートに際しての本演奏を特別視していたからであると思われるが、それも十分に納得することが可能な圧倒的な超名演と高く評価したいと考える。バイエルン国立歌劇場管弦楽団も、クライバーの統率の下、渾身の名演奏を繰り広げていると言える。第1楽章のヴァイオリン演奏のミスや、とりわけ終楽章など、あまりのテンポの速さにアンサンブルが乱れる箇所も散見されるが、演奏全体に瑕疵を与えるほどのものではなく、むしろ、実演ならではのスリリングさを味わうことができる点を高く評価すべきであろう。音質は、従来CD盤でも十分に満足できるものであったが、今般、シングルレイヤーによるSACD化がなされるに及んで大変驚いた。待望のSACD化が行われることによって、見違えるような鮮明な音質に生まれ変わったと言える。音質の鮮明さ、音場の幅広さ、そして音圧のいずれをとっても一級品の仕上がりであり、あらためてSACDの潜在能力の高さを思い知った次第である。いずれにしても、クライバーによる圧倒的な超名演を、SACDによる高音質で味わうことができるのを大いに歓迎したいと考える。なお、本盤の価格について一言コメントをしておきたい。前述のように、演奏内容や音質においては超一流である本盤であるが、約30分程度のベートーヴェンの交響曲第4番の演奏を収録したのみのSACDの価格として、3780円という価格がはたして適正と言えるだろうか。同じくシングルレイヤーによるSACD&SHM−CD盤を発売しているユニバーサルや日本コロムビアが4500円で発売していることを視野に入れたのであろうが、それでも収録されている楽曲の密度からすれば、そもそも比較の対象にならないと言える。いずれにしても、SACD化に果敢に取り組む姿勢には敬意を表するが、その価格設定については、この場を借りて再考を促しておきたい。
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2 people agree with this review 2012/01/03
ブルックナーの交響曲第6番は、ポピュラリティを獲得している第4番や峻厳な壮麗さを誇る第5番、そして晩年の至高の名作である第7番〜第9番の間に挟まれており、知る人ぞ知る存在に甘んじていると言わざるを得ない。楽曲自体は、極めて充実した書法で作曲がなされており、もっと人気が出てもいい名作であるとも考えられるところであるが、スケールの小ささがいささか災いしていると言えるのかもしれない。いわゆるブルックナー指揮者と称される指揮者であっても、交響曲第3番〜第5番や第7番〜第9番はよくコンサートで採り上げるものの、第6番はあまり演奏しないということが多いとも言える。このことは、前述のような作品の質の高さから言っても、極めて残念なことと言わざるを得ないところだ。そのような中で、ヴァントは、この第6番を積極的に演奏してきた指揮者である。ヴァントが遺した同曲の録音は、唯一の全集を構成するケルン放送交響楽団とのスタジオ録音(1976年)、そして、手兵北ドイツ放送交響楽団との2度にわたるライヴ録音(1988年と1995年(本盤))(DVD作品としては、翌年のライヴ録音(1996年)が別途存在している。)、更には、ミュンヘン・フィルとのライヴ録音(1999年)の4つの録音が存在している。これらはいずれ劣らぬ名演であると言えるが、この中でも最も優れた超名演は、ミュンヘン・フィルとの演奏であるというのは衆目の一致するところであろう。もっとも、北ドイツ放送交響楽団との最後の録音となった本盤の演奏も、さすがにミュンヘン・フィルとの演奏のような至高の高みには達していないが、当該演奏の4年前の演奏ということもあって、十分に素晴らしい至高の名演に仕上がっていると高く評価したい。第1楽章など、金管を思いっきり力強く吹かせているが、決して無機的には陥ることなく、アルプスの高峰を思わせるような実に雄大なスケールを感じさせる。それでいて、木管楽器のいじらしい絡み合いなど、北欧を吹く清涼感あふれる一陣のそよ風のようであり、音楽の流れはどこまでも自然体だ。第2楽章は、とある影響力の大きい某音楽評論家が彼岸の音楽と評しておられたが、本盤の演奏こそが正に彼岸の音楽であり、前述のようにミュンヘン・フィルとの演奏ほどの至高の高みには達していないものの、ヴァントとしても、最晩年になって漸く到達し得た至高・至純の境地をあらわしていると言えるのではないだろうか。第6番は、第3楽章や第4楽章のスケールが小さいと言われるが、ヴァントの演奏を聴くと必ずしもそうとは思えない。終楽章など、実に剛毅にして風格のある雄大な演奏であり、特に、第2楽章の主題が回帰する箇所のこの世のものとは思えないような美しさには抗し難い魅力に満ち溢れていると言える。ヴァントは、2002年にベルリン・フィルと同曲を演奏する予定だったとのことであるが、その死によって果たせなかった。本盤の演奏やミュンヘン・フィルとの超名演を超えるような名演を成し遂げることも十分に想定出来ただけに残念という他はないところだ。音質は、従来CD盤からして比較的良好な音質であったが、今般、ついに待望のSACD化が行われることによって、更に見違えるような鮮明な音質に生まれ変わったと言える。音質の鮮明さ、音場の幅広さ、そして音圧のいずれをとっても一級品の仕上がりであり、あらためてSACDの潜在能力の高さを思い知った次第である。いずれにしても、ヴァントによる至高の名演を、SACDによる高音質で味わうことができるのを大いに歓迎したいと考える。
2 people agree with this review
4 people agree with this review 2012/01/02
ヴァントと言えば、何と言ってもブルックナーの交響曲の至高の超名演が念頭に浮かぶ。その他にも、シューベルト、ベートーヴェン、ブラームスの交響曲などにおいて比類のない名演の数々を成し遂げているところである。本盤におさめられた諸曲のうち、ベートーヴェンのレオノーレ序曲第3番については、こうしたヴァントの芸風に見事に合致した楽曲と言えるところであり、本盤の演奏についても、いかにもドイツ風の剛毅にして重厚な素晴らしい名演に仕上がっていると言えるところだ。NHK交響楽団も、1979年という録音年代を考慮すれば、ヴァントによる厳しいリハーサルの賜物とも言えるところであるが、実力以上のものを発揮した渾身の名演奏を行っていると高く評価したい。これに対して、本盤におさめられたヘンデルの諸曲については、ヴァントとしてもあまり採り上げない楽曲であり、モーツァルトの諸曲は、後期3大交響曲集を除けば、必ずしもコンサートの演目に採り上げることが多いとは言い難かったモーツァルトの楽曲の中でも例外に属するとも言うべきヴァントが十八番としていた楽曲と言えるところだ。これらの諸曲については、いずれも現在では古楽器奏法やピリオド楽器を使用した演奏が主流を占めているところであり、本盤の演奏はその意味でも異色の演奏と言っても過言ではあるまい。頑固一徹とも言える職人肌の指揮者だけに、とりわけ、モーツァルトのセレナードなど、ヴァントの芸風とは水と油のようにも思われるところであるが、これが実に素晴らしい演奏なのだ。演奏全体としての堅固な造型美は相変わらずであるが、一聴すると無骨とも言える各旋律の端々からは豊かな情感が滲み出しているところであり、血も涙もない演奏にはいささかも陥っていない。本演奏のシンフォニックな重厚さは、モーツァルトを得意としたベームによる名演を想起させるほどであるが、優美さや愉悦性においては、本演奏はベームによる名演に一歩譲ると言えるのかもしれない。それでも、前述のような古楽器奏法などを駆使した軽妙な演奏が主流を占める中で本演奏を聴くと、あたかも故郷に帰省した時のように安定した気持ちになるのは私だけではあるまい。ヴァントの最晩年のインタビューの中で、とあるNHK交響楽団のオーボエ奏者が指揮室にいるヴァントを訪ねてきて、モーツァルトのセレナード「ポストホルン」の解釈についてジェスチャーで感動を伝えに来たとの発言があったと記憶している。当該演奏は1982年4月のものであったようであるが、本盤の演奏も同様の解釈によるものであったのであろうか。いずれにしても興味は尽きないところだ。ヘンデルの両曲も、モーツァルトのセレナードについて述べたことと同様のことが言えるところであり、軽妙な演奏が一般化している現代でこそ存在価値のある素晴らしい名演であると高く評価したい。音質は、名指揮者の来日公演の高音質での発売で定評のあるアルトゥスレーベルがマスタリングを手掛けているだけに、十分に満足できる良好な音質に仕上がっているのが見事である。
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ブルックナーの交響曲を数多く演奏・録音してきたヴァントが、最も数多くの録音を遺した交響曲は、何と言っても第8番であったと言える。ケルン・ギュルツェニヒ管弦楽団との演奏(1971年)にはじまり、ヴァントによる唯一の全集を構成するケルン放送交響楽団との演奏(1979年)、先般発売されて話題を呼んだNHK交響楽団との演奏(1983年)と続くことになる。そして、その後は、北ドイツ放送交響楽団との3度にわたる演奏(1987年ライヴ録音、1990年東京ライヴ録音、1993年ライヴ録音(本盤))、ミュンヘン・フィルとの演奏(2000年ライヴ録音)、ベルリン・フィルとの演奏(2001年ライヴ録音)の5度にわたって録音を行っており、合計で8度にわたって録音したことになるところだ。これは、演奏・録音に際して厳格な姿勢で臨んだヴァントとしても信じ難い数多さと言えるところであるが、それだけ同曲の演奏に自信を持って臨んでいたということであり、これら遺された録音はいずれ劣らぬ素晴らしい名演であると高く評価したいと考える。この中で、最も優れた超名演は、ミュンヘン・フィル及びベルリン・フィルとの演奏であるというのは衆目の一致するところであろう。もっとも、北ドイツ放送交響楽団との最後の録音となった本盤の演奏も、さすがにミュンヘン・フィル及びベルリン・フィルとの演奏のような至高の高みには達していないが、十分に素晴らしい名演と高く評価するのにいささかも躊躇するものではない。1980年代までのヴァントによるブルックナーの交響曲の演奏におけるアプローチは、厳格なスコアリーディングの下、楽曲全体の造型を厳しく凝縮化し、その中で、特に金管楽器を無機的に陥る寸前に至るまで最強奏させるのを特徴としており、優れた演奏である反面で、スケールの若干の小ささ、そして細部にやや拘り過ぎる神経質さを感じさせるのがいささか問題であった。そうした短所も1990年代に入って、かかる神経質さが解消し、スケールの雄大さが加わってくることによって、前述のミュンヘン・フィルやベルリン・フィルとの歴史的な超名演を成し遂げるほどの高みに達していくことになるのだが、1990年の来日時の演奏や本盤におさめられた演奏は、そうした最晩年の超名演の先駆であり、高峰への確かな道程となるものとも言える。比較的ゆったりとしたテンポをとっているが、必ずしも持たれるということはなく、ゆったりとした気持ちで、同曲の魅力を満喫することができるというのは、ヴァントのブルックナーへの理解・愛着の深さの賜物と言える。金管楽器の最強奏も相変わらずであるが、ここでは、やり過ぎということは全くなく、常に意味のある、深みのある音色が鳴っているのが素晴らしい。音質は、従来CD盤からして比較的良好な音質であったが、その後、SHM−CD盤が発売されるに及んで、更に鮮明さを増すなど十分に満足できる高音質であり、私も、当該SHM−CD盤をこれまで愛聴してきたところだ。ところが今般、ついに待望のSACD化が行われることによって、更に見違えるような鮮明な音質に生まれ変わったところだ。音質の鮮明さ、音場の幅広さ、そして音圧のいずれをとっても一級品の仕上がりであり、あらためてSACDの潜在能力の高さを思い知った次第である。いずれにしても、ヴァントによる至高の名演を、SACDによる高音質で味わうことができるのを大いに歓迎したいと考える。
6 people agree with this review 2012/01/02
凄い演奏だ。リャードフの八つのロシア民謡より「愁いの歌」を除くと、極めてポピュラーな名曲ばかりがおさめられているが、朝比奈は、ポピュラーな名曲であっても、楽曲にあわせて自らの芸風を変化させるようなことはしない。聴かせどころのツボを心得た演奏など薬にしたくもなく、それこそ、朝比奈が得意とするブルックナーやベートーヴェン、ブラームスなどの交響曲に接する場合と同様の悠揚迫らぬアプローチで演奏を行っていると言えるだろう。したがって、演奏のスケールは極大であり、音楽そのものの大きさがこれらのいわゆる小品にはそもそもハイスペックに過ぎるとさえ言えるだろう。したがって、聴き手によっては、違和感を感じるであろうし、鶏を割くのに牛刀を持ってとの諺にも例える者さえいるのではないかとも考えられるところだ。しかしながら、私としては、これら小品についても、いささかの手抜きをせずに、自らの芸風を如何なく披露して、正に真剣勝負で壮大な演奏を繰り広げた朝比奈に対して大きな拍手を送りたいと考える。いや、むしろ、軽妙浮薄な演奏があまた氾濫している嘆かわしい状況にある中で、朝比奈による重厚な演奏は非常に貴重な存在と言えるのではないだろうか。冒頭のチャイコフスキーの弦楽セレナードからして、その悠揚迫らぬゆったりとしたテンポ設定と、構えの大きい音楽に圧倒されてしまう。その演奏の随所から発散されるエネルギーの凄まじさにはただただ圧倒されるのみであり、とかく甘い旋律の美しさに耳を奪われがちな同曲の真の魅力を抉り出すことに成功した稀有の名演と高く評価したいと考える。R・コルサコフの序曲「ロシアの復活祭」も、他の指揮者による演奏とは一味もふた味も異なると言える。管弦楽法の大家として知られるR・コルサコフの作品だけに、そうしたオーケストレーションの見事さに関心が行ってしまいがちな同曲であるが、朝比奈は、重厚かつ彫の深い表現で、同曲の知られざる魅力を描出するのに成功していると言えるだろう。随所に付加されたテンポの思い切った振幅も実に効果的だ。リャードフの八つのロシア民謡より「愁いの歌」は、私としてもはじめて聴く楽曲であり、他の演奏との比較はできないが、それでも本演奏は、朝比奈だけに可能な深沈たる奥行きを感じさせる重厚な名演と言えるのではないか。ウェーバーの「オイリアンテ」序曲も素晴らしい名演であるが、更に凄いのは、ヨハン・シュトラウス2世の3曲。とりわけ、皇帝円舞曲の雄渾なスケールによる演奏は、もはやワルツというジャンルを超えた一大交響曲にも比肩し得るだけの崇高さを湛えているとさえ言えるところであり、朝比奈の偉大さをあらためて認識させられたところだ。いずれにしても、本盤の各演奏は、朝比奈のスケール雄大な、そして彫の深い芸術を存分に味わうことができる圧倒的な名演と高く評価したいと考える。音質は、1970年代半ばから1980年代前半にかけてのライヴ録音であるが、モノラル録音であるウェーバーの「オイリアンテ」序曲を除けば十分に良好な音質と言えるところであり、朝比奈の偉大な芸術を良好な音質で味わうことができるのを大いに喜びたい。
5 people agree with this review 2012/01/01
クラシック音楽の世界には、この世のものとは思えないような至高の高みに達した名作というものが存在する。ロマン派のピアノ作品の中では、何よりもシューベルトの最晩年に作曲された最後の3つのソナタがそれに相当するものと思われるが、それに次ぐ作品は、諸説はあるとは思うが、ブラームスの最晩年のピアノ作品ということになるのではないだろうか。いかにもドイツ色濃厚で、重厚で分厚い作品を数多く作曲してきたブラームスとしても、最晩年のピアノ作品については、その後の十二音音楽や無調音楽に通じる必要最小限の音符による簡潔な書法をとるなど、これまでとは全く異なる作風を垣間見せていると言えるところであり、その神々しいとも言うべき深みは、前述のシューベルトによる最後の3つのソナタにも比肩し得るだけの崇高さを湛えていると言っても過言ではあるまい。これだけの至高の名作であるだけに、これまで数多くの有名ピアニストによって様々な名演が成し遂げられてきたところだ。個性的という意味では、グールドやアファナシエフによる演奏が名高いし、人生の諦観が色濃く漂うルービンシュタインによる懐の深い演奏もあった。また、千人に一人のリリシストと称されるルプーによる極上の美演も存在している。このような海千山千のピアニストによるあまたの名演の中で存在感を発揮するのは並大抵のことではないと考えられるが、田部京子による本演奏は、その存在感を如何なく発揮した素晴らしい名演を成し遂げたと言えるのではないだろうか。田部京子による本演奏は、何か特別な個性を施したり、はたまた聴き手を驚かせるような斬新な解釈を行っているというわけではない。むしろ、スコアに記された音符を誠実に音化しているというアプローチに徹していると言えるところであり、演奏全体としては極めてオーソドックスな演奏とも言えるだろう。とは言っても、音符の表層をなぞっただけの浅薄な演奏には陥っておらず、没個性的で凡庸な演奏などということも決してない。むしろ、徹底したスコアリーディングに基づいて、音符の背後にあるブラームスの最晩年の寂寥感に満ちた心の深層などにも鋭く切り込んでいくような彫の深さも十分に併せ持っていると言えるところであり、同曲に込められた奥行きの深い情感を音化するのに見事に成功していると言っても過言ではあるまい。いずれにしても本演奏は、同曲のすべてを完璧に音化し得るとともに、女流ピアニストならではのいい意味での繊細さを兼ね備えた素晴らしい名演と高く評価したいと考える。演奏全体に漂う格調の高さや高貴とも言うべき気品にも出色のものがあると言えるだろう。音質は、マルチチャンネル付きのSACDによる極上の高音質録音であり、田部京子による素晴らしい名演の価値をより一層高めるのに大きく貢献していることを忘れてはならない。
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4 people agree with this review 2011/12/30
昨今においてますます進境著しいエレーヌ・グリモーであるが、意外にもモーツァルトの楽曲については殆ど録音を行っていない。ラフマニノフのピアノ・ソナタ第2番を2度も録音していることなどに鑑みれば、実に不思議なことであると言えるだろう。本盤におさめられたモーツァルトのピアノ協奏曲第19番及び第23番についても、グリモーによるモーツァルトのピアノ協奏曲初の録音であるのみならず、モーツァルトの楽曲としても、ピアノ・ソナタ第8番の演奏(2010年)以来、2度目の録音ということになる。ピアノ・ソナタ第8番については、モーツァルトを殆ど演奏していないグルモーだけに、他のピアニストによる演奏とはまるで異なる、いわゆる崩した個性的な演奏を繰り広げていたが、グリモーの心の込め方が尋常ならざるレベルに達しているため、非常に説得力のある名演に仕上がっていたところだ。それだけに、本盤のピアノ協奏曲においても、前述のピアノ・ソナタ第8番の演奏で聴かれたような超個性的な表現を期待したのであるが、見事に肩透かしを喰わされてしまった。カデンツァにおける即興性溢れる演奏には、そうした個性の片鱗は感じさせるものの、演奏全体の基本的なアプローチとしては、グリモーはオーソドックスな演奏に徹しているとさえ言えるところだ。グリモーのピアノ演奏は、ラフマニノフのピアノ・ソナタ第2番を得意のレパートリーとしていることからも伺い知ることができるように、力強い打鍵から繊細な抒情に至るまで、表現の起伏の幅が桁外れに広いスケールの大きさを特徴としていると言える。とりわけ、力強い打鍵は、男性ピアニスト顔負けの強靭さを誇っているとさえ言えるところである。ところが、本演奏においては、モーツァルトのピアノ協奏曲だけに、むしろ、楽曲の随所に盛り込まれた繊細な抒情に満ち溢れた名旋律の数々を、女流ピアニストならではの清澄な美しさを保ちつつ心を込めて歌い抜くことに主眼を置いているように思われる。そして、モーツァルトの楽曲に特有の、各旋律の端々から滲み出してくる独特の寂寥感の描出についてもいささかも不足はないと言える。加えて、グリモーが素晴らしいのは、これは濃厚な表情づけを行ったピアノ・ソナタ第8番の演奏の場合と同様であるが、感情移入のあまり感傷的で陳腐なロマンティシズムに陥るということは薬にしたくもなく、どこをとっても格調の高さを失っていない点であると考えられる。このように、本盤の演奏は総じてオーソドックスな様相の演奏であるとは言えるが、前述のような繊細にして清澄な美しさ、そしていささかも格調の高さを失うことがない心の込め方など、グリモーならではの美質も随所に盛り込まれており、バイエルン放送室内管弦楽団による好パフォーマンスも相まって、正に珠玉の名演に仕上がっていると高く評価したいと考える。併録のレチタティーヴォ「どうしてあなたが忘れられるでしょうか?」とアリア「心配しなくともよいのです、愛する人よ」については、グリモーの透明感溢れる美しいピアノ演奏と、モイツァ・エルトマンの美声が相まった美しさの極みとも言うべき素晴らしい名演だ。音質についても、2011年のライヴ録音であるとともに、ピアノとの相性抜群のSHM−CD盤での発売であることから、グリモーのピアノタッチがより鮮明に再現されるなど、申し分のないものであると高く評価したい。
2 people agree with this review 2011/12/30
実に個性的な素晴らしい超名演だ。いわゆるショパン弾きと称されているピア二ストは数多く存在しているが、その中でも、サンソン・フランソワは最も個性的な解釈を披露したピアニストの一人ではないかと考えられるところだ。いわゆる崩した弾き方とも言えるものであり、あくの強さが際立った演奏とも言える。それ故に、コンクール至上主義が横行している現代においては、おそらくは許されざる演奏とも言えるところであり、稀代のショパン弾きであったルービンシュタインによる演奏のように、安心して楽曲の魅力を満喫することが可能な演奏ではなく、あまりの個性的なアプローチ故に、聴き手によっては好き嫌いが分かれる演奏とも言えなくもないが、その演奏の芸術性の高さには無類のものがあると言っても過言ではあるまい。フランソワは、もちろん卓越した技量を持ち合わせていたと言えるが、いささかも技巧臭を感じさせることはなく、その演奏は、即興的で自由奔放とさえ言えるものだ。テンポの緩急や時として大胆に駆使される猛烈なアッチェレランド、思い切った強弱の変化など、考え得るすべての表現を活用することによって、独特の個性的な演奏を行っていると言える。各旋律の心を込め抜いた歌い方にも尋常ならざるものがあると言えるが、それでいて、陳腐なロマンティシズムに陥ることなく、常に高踏的な芸術性を失うことがないのが見事であると言えるだろう。また、一聴すると自由奔放に弾いているように聴こえる各旋律の端々には、フランス人ピアニストならではの瀟洒な味わいに満ち溢れたフランス風のエスプリ漂う情感が込められており、そのセンス満点の味わい深さには抗し難い魅力に満ち溢れているところだ。本盤におさめられた練習曲集も、正にセンスの塊とも言うべき名演奏であり、自己主張をコントロールして全体を無難に纏めようなどという考えは毛頭なく、強烈な個性という意味においては、フランソワによる本演奏の右に出る演奏は存在しないと言っても過言ではあるまい。音質は、従来CD盤ではやや鮮明さに欠ける音質であり、時として音がひずんだり、はたまた団子のような音になるという欠点が散見されたところであったが、今般、ついに待望のSACD化が行われることによって大変驚いた。従来CD盤とは次元が異なる見違えるような、そして1958〜1966年のスタジオ録音とは到底信じられないような鮮明な音質に生まれ変わった言える。フランソワのピアノタッチが鮮明に再現されるのは殆ど驚異的であり、あらためてSACDの潜在能力の高さを思い知った次第である。いずれにしても、フランソワによる至高の超名演を、SACDによる高音質で味わうことができるのを大いに歓迎したいと考える。
4 people agree with this review 2011/12/29
若くして不治の病でこの世を去らなければならなかった悲劇のピアニストであるディヌ・リパッティであるが、その最大の遺産とも言うべき至高の名演こそは、本盤におさめられたショパンのワルツ集であると考えられるところだ。モノラル録音という音質面でのハンディがあることから、近年ではルイサダなどによる名演の方にどうしても惹かれてしまうところであるが、それでもたまに本盤の演奏を耳にすると、とてつもない感動を覚えるところだ。それは、リパッティの演奏に、ショパンのピアノ曲演奏に必要不可欠の豊かな詩情や独特の洒落た味わいが満ち溢れているからであると言えるところであるが、それだけでなく、楽曲の核心に鋭く切り込んでいくような彫の深さ、そして、何よりも忍び寄る死に必死で贖おうとする緊迫感や気迫が滲み出ているからであると言える。いや、もしかしたら、若くして死地に赴かざるを得なかった薄幸のピアニストであるリパッティの悲劇が我々聴き手の念頭にあるからこそ、余計にリパッティによる本演奏を聴くとそのように感じさせられるのかもしれない。いずれにしても、リパッティによるかかる命がけの渾身の名演は、我々聴き手の肺腑を打つのに十分な底知れぬ迫力を有していると言えるところだ。ワルツ集を番号順に並べて演奏するのではなく、独自の視点に立ってその順番を入れ変えて演奏している点にも、リパッティのショパンのワルツ集に対する深い拘りと愛着を感じることが可能だ。いずれにしても、リパッティによる本ワルツ集の演奏は、あまた存在している様々なピアニストによるショパンのワルツ集の演奏の中でも、別格の深みを湛えた至高の超名演と高く評価したいと考える。もっとも、リパッティによるショパンのワルツ集の演奏は、演奏自体は圧倒的に素晴らしいと言えるが、モノラル録音というハンディもあって、その音質は、前述のように鮮明さにいささか欠ける音質であり、時として音がひずんだり、はたまた団子のような音になるという欠点が散見されたところであった。ところが、今般、ついに待望のSACD化が行われることによって大変驚いた。従来CD盤とは次元が異なる見違えるような、そして1950年のモノラル録音とは到底信じられないような鮮明な音質に生まれ変わった言える。リパッティのピアノタッチが鮮明に再現されるのは殆ど驚異的であり、あらためてSACDの潜在能力の高さを思い知った次第である。いずれにしても、リパッティによる圧倒的な超名演を、SACDによる高音質で味わうことができるのを大いに歓迎したいと考える。
6 people agree with this review 2011/12/29
インバルは現代最高のマーラー指揮者の一人と言える。インバルの名声を一躍高めることになったのは、フランクフルト放送交響楽団とともにスタジオ録音したマーラーの交響曲全集(1985年〜1988年)であるが、その後も東京都交響楽団やチェコ・フィルなどとともに、マーラーの様々な交響曲の再録音に取り組んでいるところだ。本盤におさめられたチェコ・フィルとのマーラーの交響曲第7番の演奏も、そうした一連の再録音の一つであり、インバルとしては、前述の全集中に含まれた演奏(1986年)以来、約25年ぶりのものと言える。当該全集の中で、最も優れた演奏は同曲であった(全集の中で唯一のレコード・アカデミー賞受賞盤)ことから、25年の歳月が経ったとは言え、当該演奏以上の名演を成し遂げることが可能かどうか若干の不安があったところであるが、本盤の演奏を聴いて、そのような不安は一瞬にして吹き飛んでしまった。実に素晴らしい名演であり、正に、近年のインバルの充実ぶりが伺える圧倒的な超名演と言っても過言ではあるまい。かつてのインバルによるマーラーへの交響曲演奏の際のアプローチは、マーラーへの人一倍の深い愛着に去来する内なるパッションを抑制して、可能な限り踏み外しがないように精緻な演奏を心掛けていたように思われる。全集の中でも特に優れた名演である第7番についても例外ではなく、全体の造型は堅固ではあり、内容も濃密で立派な名演奏ではあるが、今一つの踏み外しというか、胸襟を開いた思い切った表現が欲しいと思われることも否めない事実である。ところが、本演奏においては、かつての自己抑制的なインバルはどこにも存在していない。インバルは、内なるパッションをすべて曝け出し、どこをとっても気迫と情熱、そして心を込め抜いた濃密な表現を施しているのが素晴らしい。それでいて、インバルならではの造型の構築力は相変わらずであり、どんなに劇的かつロマンティックな表現を行っても、全体の造型がいささかも弛緩することがないのは、さすがの至芸と言うべきであろう。いずれにしても、テンポの効果的な振幅を大胆に駆使した本演奏のような密度の濃い表現を行うようになったインバルによる超名演を聴いていると、バーンスタインやテンシュテット、ベルティーニなどの累代のマーラー指揮者が鬼籍に入った今日においては、インバルこそは、現代における最高のマーラー指揮者であるとの確信を抱かずにはいられないところだ。オーケストラにチェコ・フィルを起用したのも功を奏しており、金管楽器、特にトランペットやホルンなどのブラスセクションの卓抜した技量は、本超名演のグレードをさらに上げる結果となっていることを忘れてはならない。そして、SACDによる極上の高音質録音も、本超名演を鮮明な音質で味わえるものとして大いに歓迎したいと考える。
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