Thin Lizzy

Thin Lizzy (シン・リジィ) プロフィール

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シン・リジィ、アイルランドが生んだ大いなる遺産。その中心人物のフィル・ライノットの存在感、後続に与えた影響の大きさは21世紀に突入した今なお語り継がれるほどである。

アイルランドのダブリンに生を受けたフィル・ライノットはブラジル人とアイルランド人の間に生まれたハーフである。幼少時代に父親と生き別れた彼は仕事の都合で母とも別れなくてはならなくなり、祖母と共にアイルランドで暮らしていた。その影響かは分からないが、良くある事で彼も学生時代は札付きのワルだった。そんな彼の音楽に目覚める切っ掛けとなったのは後のバンド仲間となるブライアン・ダウニーがドラムを叩いているところに偶然出くわしたからだという。その後叔父の知り合いのバンドにヴォーカリスト参加するなどして音楽の世界に没頭していく事になる。

当時既に天才ギタリストとして名を馳せていたゲイリー・ムーアの在籍したスキッド・ロウにヴォーカリストとして参加するも、楽器の弾けない彼はその時楽器を演奏する必要性を痛感。ゲイリーの手ほどきもあり初めてベースをプレイするがほどなくしてバンドから脱退。ヴォーカリスト兼ベース・プレイヤーとしての道を断念する事になった。しかしここで彼に転機が訪れる。学生時代彼が音楽に目覚める切っ掛けとなったブライアン・ダウニーとの再会である。これを機に再びベースを手にし、新たなバンド、オーファネイジ(Orphanage)を結成する。ヴァン・モリソン&ゼムに在籍していたエリック・ベルをギタリストに迎えたバンドは名前をシン・リジィと改めここからシン・リジィとしての伝説が始まるのであった。

バンド活動が軌道に乗りEMIとの契約にこぎつけたバンドは70年シングル“モーニング・デュー”を発表するも不発に終わる(バンド名変更はこのシングル発表後との説もある。厄掃いの意味でも込められていたのだろうか)。ワン・ショットで終わったEMIに見切りをつけイギリスに渡ったバンドはデッカと契約。71年記念すべきファースト・アルバム、シン・リジィ – Thin Lizzyを発表する。翌72年にはブルー・オーファン - Shades Of A Blue Orphanageを発表。73年には初のヒットとなる“ウィスキー・イン・ザ・ジャー”を含む西洋無頼 - Vagabonds Of The Western Worldを発表。と、ここまではコンスタントにやってきたのだが、エリックが体調不良の為バンドを脱退。後任に以前活動をともにした経緯でゲイリー・ムーアを加入させるが、数曲レコーディングしただけで脱退。フィルはバンド解散まで思い悩むが西洋無頼がイギリスのみならず、アメリカでも売れ始めていた為、上からストップがかかり、2人の助っ人ギタリストを加える形でドイツ・ツアーを敢行。イギリスに戻りバンド再建を決意したフィルはオーディションの末、ブライアン・ロバートソン、スコット・ゴーハムを正式メンバーとして迎え入れる。心機一転バンドはヴァーティゴに移籍し74年ナイトライフ - Nightlifeを発表。75年にはファイティング – Fighting を発表。ここからは“ロザリー”というヒットも生まれる。76年には大ヒット曲“ヤツらは町へ”を含む脱獄 – Jailbreakを発表。本作は初のゴールドディスクを獲得し遂にトップ・バンドの仲間入りを果たす。その脱獄から7ヶ月間というハイスピードで作られたサギ師ジョニー – Johnny The Foxの発表を前後してブライアン・ロバートソンが左手を負傷。バンドでの思うようなプレイが難しくなり、脱退にまで発展する。ツアーにはゲイリー・ムーアをサポートで参加させ難を逃れるが、目ぼしい後任もおらず結局ブライアンを準メンバーという形でバンドに呼び戻す。77年バッド・レピテイション – Bad Reputationを発表するもすぐにブライアン・ロバートソンは脱退してしまう。ソロ活動を始めたフィルは同時にドラッグに溺れるようにもなり、この頃からバンド間に嫌な雰囲気が流れ始めていた。

79年ゲイリー・ムーアを正式なメンバーとして迎えた唯一の作品にして、最高傑作との呼び声も高いブラック・ローズ - Black Roseを発表。ゲイリーはソロとしての活動も平行して行っていた為、ソロ活動を優先し再びフィルと袂を分かつ事になる。この後のゲイリーの活躍は周知の通りである。これにショックを受けてかフィルは一層ドラッグに溺れセルフィッシュな行動が目に付くようになっていった。80年代に入りピンク・フロイドのツアーなどに参加していた腕利きのスノーウィ・ホワイトを加入させたバンドは同年にチャイナタウン - Chinatown、翌81年には反逆者 - Renegadeを発表。しかしここでもギタリストの座は安定せず、83年にはスノーウィが脱退。元タイガース・オブ・パンタンジョン・サイクスを加入させる。この頃にはフィルのわがまま放題の行動は誰にも押さえ切れなくなり、もはやバンドは空中分解寸前、結果的に最後の作品となってしまうサンダー・アンド・ライトニング - Thunder And Lightning発表を前にしてバンドは解散を宣言した。その後幾つかの新バンドやゲイリー・ムーアとのコラボレイトなどで活動を続けていたフィルであったが、以前から使用していたドラッグが原因で心臓疾患を患い、更には肺炎を併発させ86年1月4日に帰らぬ人となってしまった。そしてその後一時的な再結成などを経てフィル・ライノットの死後15年の時が経ち、2001年Thin Lizzyの歴史を総括したボックスセットVagabonds Kings Warriors And Angelsが発売された(国内盤は遅れて2002年発売)。

フィル・ライノットは才気溢れる人間であると同時にトラブル・メイカーでもあった。こうして歴史を振り返ってみてバンド間の複雑な動きはフィルの行動によるものであったと考えるのは想像に難しくない。しかし人を惹きつける事の出来る人間というのは、えてしてそういうものなのかもしれない。同じように短くして人生を終えてしまったもうこの世に存在しないのロックのカリスマ達がそうであったかのように。

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