Phil Spector

Phil Spector (フィル・スペクター) プロフィール

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ド、ッドド、タ――迫力あるバス・ドラムとスネアの響き〜ロネッツの永遠の名曲"ビー・マイ・ベイビー"を耳にしたことのないロックンロール/ポップス・ファンは居ないと言っても言い過ぎではないでしょう。この曲のサウンドを生み出したのが他ならぬフィル・スペクターなのです(勿論周辺のスタッフ、ミュージシャンにも同様のリスペクトを)。 ビートルズを育てたジョージ・マーティンも偉大なプロデューサーですが、 ジョージ・マーティン・サウンドと呼ばれることはないし、モータウン・サウンドだって会社の名がついているのです。スペクター・サウンドというネーミングには、フィル・スペクターのワンマン的な敏腕ぶりや、彼の存在理由・イコール・サウンドという部分までも意味合いに含むのでは…などと考えてしまいます。

’40年にニューヨークのブロンクス地区、ユダヤ系の家庭に生まれた フィル・スペクターは、彼が幼い頃に父親が亡くなったため、’53年家族とロサンゼルスに移り住んだ。少年期は黒人系ラジオ局から流れるジャズ、R&Bに合わせてギターを弾いたり、またクラシック音楽なども聴いていたそう。高校に入りロックンロールの波に刺激された彼は、曲作りを始めたり、バンド活動もするようになる。カレッジに入学すると家庭用レコーダーでスピーカーから鳴らした音をそのままマイクで拾い音を重ねるという、一種野蛮ともいえる録音方法を実際のプロ用スタジオで試みる、という夢を抱くようになった。その後’57年5月高校時代の仲間ハーヴェィ・ゴールドスタインと紅一点アネット・クレインバード、スペクターとでお金を出し合い、シングルを自主制作する。"ドント・ユー・ウォーリー・マイ・リトル・マイ・ペット"というその曲は高校の同級生だったエンジニアに頼んで、ゴールド・スター・スタジオ(のちにスペクターの本拠地になる)で例のレコーディング法で録られたものだった。これを地元のローカル・レーベルに持ちこんだスペクターは契約を取り付け、テディ・ベアーズ名義でデビューした。前述したA面曲は大した話題にもならなかったが、地元のラジオDJ達はB面の"逢ったとたんに一目惚れ(To Know Him Is To Love Him)"に注目、こちらを流すようになった。これも例のダビングを繰り返した劣悪ともいえる音質だったが、エコーたっぷりの独特のサウンドはインパクト充分で、ついには同年9月全米チャートに初登場し、以後TV番組にも出演したテディ・ベアーズは全米1位(!)を獲ってしまった。気を良くしたテディ・ベアーズは後続のシングル、アルバム等をリリースするが、ことごとく惨敗。アルバムの方はスペクターによる自己プロデュースで制作され始めたが、その遅すぎる作業振りに業を煮やしたレーベル側が別のプロデューサーを立てて作られたものだった。また、このセールス不振が原因で間もなくテディ・ベアーズは解散する。

’59年、 フィル・スペクターはテディ・ベアーズのレコーディングで知り合ったレスター・シルのもとを訪れ、歌手/シンガー・ソングライター+プロデューサーという契約で雇って貰う。リー・ヘイゼルウッドと組んで録音プロデュースを行っていたシルに付いて、”トゥワンギー・ギター”で有名なデュアン・エディのレコーディングを見学したスペクターは、その深いエコー効果の秘密などを会得したと言われる。また自分の声に女声コーラス被せ”スペクター・スリー”という名を付けレコードをリリースするなどしたのもこの頃だ。そんな中、シルと共に仕事でニュー・ヨークを訪れたスペクターはこの地で名作曲家チーム、ジェリー・リーバー&マイク・ストーラーと邂逅。また二人はジェリー・ゴフィンキャロル・キングバリー・マン&シンシア・ウェイルらを擁するアルドン音楽出版社のドン・カーシュナー(「黄金の耳を持つ男」の異名をとる)の所へ赴き、楽曲調達したりしている。一旦西海岸に戻ったスペクターはシルに頼んでリーバー&ストーラーのもとへ修行がてら雑用係として送ってもらうようにする。ニュー・ヨークに舞い戻った彼は音楽業界筋のさまざまな重要人物と顔をあわせ、親交を深める。この頃’60〜’61年辺りにレイ・ピーターソンのプロデュースをはじめ、楽曲提供なども行い、スペクターはヒットを生み出したほか、シルの依頼で引き受けたパリス・シスターズとの仕事もこなし、これまたヒットに結び付けている。それらのヒットですっかりシルの信頼を得たスペクターは、シルがヘイゼルウッドとコンビ解消した機に、自分を共同経営社にしないか、という話を持ちかけ、了承される。そこで設立されたのが有名な”フィレス・レコード”だ(二人の名前を組み合わせて名付けられた)。

今までに得た人脈を駆使して強力スタッフを集めたスペクターは、フィレスで独自のスペクター・サウンドを作り上げ、多くのヒットを生み出した。中でもその成果が結実した例として挙げられるのが、 クリスタルズの"ヒーズ・ア・レベル"。 ダーレン・ラヴの迫力あるヴォーカルと分厚いバック・サウンドが融合した独特の音像。そうしたスペクター独自のサウンドは”音の壁=ウォール・オブ・サウンド”と呼ばれた。その後’62年には会社からシルを追い出し、スペクターの独裁状態。ゴフィン&キング、グリニッチ&バリー、マン&ウェイルなど一流のヒット・メイカーである作曲家達を起用。またラリー・ネクテル、ハル・ブレインレオン・ラッセルニノ・テンポなど歴史に残る名セッション・マン達に指示を出し、納得いくまでレコーディングを続けるなど、自分の求めるサウンド、ヒットの為なら容赦ない行動に出ることは日常茶飯事だった(のちにスペクターのスタジオを見学したビーチ・ボーイズブライアン・ウィルソンはそうした光景にインスパイアされペット・サウンズ制作時に同様の独裁体制をとった)。

スペクター・サウンド〜ウォール・オブ・サウンドの代表的作品といえば、前述したクリスタルズ "ヒーズ・ア・レベル"のほか、冒頭で述べた、後のスペクター夫人、ヴェロニカ・ヴェネット(=ロニー・スペクター) 擁するロネッツの"ビー・マイ・ベイビー"(’63年)、そしてライチャス・ブラザーズの"ふられた気持ち(You’Ve Lost That Lovin’Feelin’)"(’64年)、そして’63年のクリスマス・アルバムだろう(アルバム最後にスペクターのコメントが入っている。プロデューサーといえば裏方だった時代に、そんな試みは前代未聞)。ここまでが全盛期とされる’60年代半ばまでの活動。また’60年代後半にはアイク&ティナー・ターナーのリヴァー・ディープ・マウンテン・ハイを手掛け評価を得たが、それが唯一の評価といってもいいもので、やはり激動のロック、サイケの時代には フィル・スペクターの存在はアウト・オブ・デイトと言わざるを得なかった。

’70年ごろ以降の作品では、ビートルズが制作を投げ出したレット・イット・ビーを仕上げる仕事を引き受けたり、ジョン・レノンの諸作、レナード・コーエンラモーンズなどのプロデュースをするが、結局はそれほどの評価を受けず仕舞い。ただ、唯一ジョージ・ハリスンの傑作3枚組(CDは2枚)アルバムオール・シングス・マスト・パスでのサウンド、シングル"イ・スウィート・ロード"の音の重ね具合にはスペクター・サウンドの片鱗が伺えることも付け加えておこう。

最後に現在のシーンとの関わりの中で フィル・スペクターの業績に対する評価を考えてみたい。何を歌わせるか、といった歌本位の考え方ではなく、最初にサウンドありき、という表現の在り方、執拗な録音方法への拘りといった フィル・スペクターの手法は、テクノや音響派〜ポスト・ロックを通過しつつある現在のリスナー、ミュージシャン達にとっては馴染み易いモノのはずだし、大きな示唆を与えるのではないだろうか?また、そうした中でポップス研究者気質の大瀧詠一山下達郎両氏以来の伝統の恩恵を受けるポップ・クリエイターが、 フィル・スペクターのスピリットを間接的に受け取って、ここ日本において育ち、花開くという夢もまんざら実現不可能ではない気もしている、筆者である。

Brian Wilson
本文でも少し触れたように ブライアン・ウィルソンフィル・スペクターのサウンド、録音手法に大きなインスピレーションを得ました。 シャット・ダウンvol.2収録の"ドント・ウォーリー・ベイビー"でスペクター風サウンドが聴けるし、’99年7月に行われた来日公演では同曲と共にロネッツの"ビー・マイ・ベイビー"(ビーチ・ボーイズとしても’80年頃録音。ただし未発表)も演奏されました。また名作ペット・サウンズの録音風景はさながらスペクターがブライアン・ウィルソンに乗り移ったかのような趣きで、キビしい注文がミュージシャンにビシビシ飛ぶ(スペクターゆかりのミュージシャン多数参加も見逃せない)。そんなセッションの様子はボックス・セットペット・サウンズ・セッションズで陽の目を見たのでした。

A Homage To Phil Spector
今と比べると洋楽情報が極端に少なかった時期には木崎義二氏、我妻一郎氏らポップス評論家の方々が日本にスペクター・サウンド、ウォール・オブ・サウンドなどを紹介していたのみでした。ポップスの裏方さんにスポットを当てた文章(ライナーを書くのにクレジットを追うしか方法が無かったという苦労もあった)は貴重な情報源だったと言われます。スペクター・マニアを公言する大瀧詠一、>、山下達郎。御二方がスペクター・サウンドへの愛情をカタチにしたサウンドを聴かせてくれる貴重なミュージシャンであるのはご存知の通り。殆ど”スピリット”のレベルから受け継いでいる、とも言えるのでここではその記念碑的作品を挙げるに留めさせて頂きます。

はっぴいえんど”後期のライヴで演奏されたクリスタルズ "ハイ・ロン・ロン(Da Doo Ron Ron)"風アレンジの"はいからはくち"を元に、大瀧氏は"ウララカ"という曲に仕上げた、というのは有名な話。のちの”ナイアガラ・サウンド”にも繋がる"ウララカ"は大瀧さんの1stアルバムで聴けます。 若き山下達郎氏が大貫妙子さんらと組んでいたグループ”シュガー・ベイヴ”(プロデュースは大瀧氏)の唯一のアルバムに収録された"雨は手のひらにいっぱい"。スペクター・サウンドへの純粋な試みが胸を打つ名曲。

海外には、ほぼ フィル・スペクターと同時期の’60年代に活躍した”イギリスのスペクター”トニー・ハッチが居ます。オムニバス盤ヒア・カムズ・ザ・ガールズ〜のシリーズでブレイカウェイズなど素晴らしいガール・グループの曲が聴くことが出来ます。

また’80年代中頃、スコットランドのグラスゴー近辺で結成されたジーザス&メリーチェインのデビュー作サイコ・キャンディではギターのフィードバックノイズに塗れたスペクター・サウンドとも言うべき曲が聴かれます。その初期ジーザス〜に掛け持ちで在籍していたのが、ご存知ボビー・ギレスピー。彼率いるプライマル・スクリーム1st発表時のメンバーだったジム・ビーティーのユニットが”アドヴェンチャーズ・イン・ステレオ”です。現在(2000年)までに3枚のアルバムを発表しており、1stそしてその後の2ndでも聴かれる、チープな録音機材によるオーヴァー・ダビングと女声ポップスへの拘りにフィル・スペクターへの愛情を感じるのです。

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