Pete Townshend

Pete Townshend (ピート・タウンゼント) プロフィール

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かつての過小評価に比べるとかなりマシではあるものの、ここ日本ではまだまだビートルズローリング・ストーンズ級の評価をものにしているとは言い難いザ・フー。そのフーのギタリストであり、頭脳ともいえる存在がピート・タウンゼンドである。手をグルグルと回しギターを殴りつけるかのように弾く「風車奏法」や「ギター壊し」など、派手なアクションで有名なピート・タウンゼンドだが、彼の鳴らす音自体も、あのフィードバックの咆哮、叩きつけるかのようなパワー・コード、切れ味鋭いカッティング、狂気めいたサウンドの響き...と実に「カッコいい」としかいいようのないサウンドなのだ。またタウンゼンドは、それらの音を効果的に使った、独特のひらめきを感じさせる名曲を幾つも生み出してきた。以下はそのピート・タウンゼンドの功績の主要な部分を占めるザ・フーの歴史である。

ザ・フーの母体となったバンド、ザ・デトゥアーズはロンドンのアクトン・カウンティ・グラマー・スクールに通う元学友達によって結成。その中にはロジャー・ダルトリージョン・エントウィッスルが居た。デトゥアーズはダルトリー、エントウィッスルの他、3名が在籍する5人組グループ。そのうちにリズム・ギターを担当していたメンバーが脱退したことから、エントウィッスルは以前在籍していたスコーピオンズというバンドで一緒だったピート・タウンゼンドをバンドに招き入れた。デトゥアーズにリズム・ギタリストとして加入したタウンゼンドだったが、リード・ギターだったダルトリーが仕事の鉄板工の作業中に手を怪我してしまったため、代わりにタウンゼントがリード・ギターを弾くようになった。同時期にヴォーカルを務めていたメンバーが脱退。代わりにダルトリーがヴォーカルをとる事になる。こうしてデトゥアーズの編成はロジャー・ダルトリー(vo.)、ピート・タウンゼンド(g.)、ジョン・エントウィッスル(b.)、ダグ・サンデン(ds.)となった。

活動を始めたデトゥアーズだったが、TV番組に出ていた同じくデトゥアーズと名乗る9人編成のバンドを見つけ、結局別の名を探すことに。案としては’ザ・グループ’、’ザ・ネーム’、’ノー・ワン’などがあったが、最終的に’ザ・ヘアー’と’ザ・フー’というのが残り、結局’ザ・フー’に決まった。活動を開始したザ・フーに最初に目を付けたのは、ドアノブ製造業者(!)のヘルムート・ゴードン(当時’63年頃というとビートルズ旋風が吹き荒れていた頃で、ロック・バンドのパトロンやマネージャーになってひと山当ててやろう、という輩が多かったのだろう)。ゴードンはザ・フーのマネージャーとなりパブリシストとしてピート・ミーデンを雇用。しかし、何故かゴードンはすぐにミーデンにマネージャーの座を譲ってしまう。

ピート・ミーデンは当時英国で流行していたモッズ族のひとり。ザ・フーをモッズ・ヒーローに仕立てようと、モッズ用語の”ナンバー”をグループ名に入れ、”ハイ・ナンバーズ”と改名させ、彼らをフォンタナ・レコードに売り込み、それが成功。’67年7月、ハイ・ナンバーズはシングル"アイム・ザ・フェイス/ズート・スーツ"(ザ・フーのボックス・セット30イヤーズ・オブ・マキシマム・R&B、などで聴ける)でデビューを飾った。この二つの曲はモッズ好みのR&Bを改作したものだったが、自作の曲が使ってもらえなかったタウンゼントは不満を持っていたという。さて、このシングルのセールスだが、結果は惨憺たるもの。売り上げ枚数は僅か500枚で、しかもその内容はミーデンが予約で買い取った所謂”サクラ”で買われた250枚と残りはメンバーの身内が買ったものだと言われている。デビュー・シングルの失敗がありながらも、ハイ・ナンバーズはライヴ演奏を続けた。そんな中、’64年秋のある晩のギグで、客席に居たひとりのモッズ少年がドラマーのダグ・サンデンに挑戦を申し込む。サンデンより巧く叩けるという彼を、残りのメンバー達はステージに上げ、演奏させてみたところ、3人はひどく彼のことを気に入った。この少年が当時17歳の若きキース・ムーンだった。

ハイ・ナンバーズはサンデンの代わりにキース・ムーンを迎え、バンドには黄金のラインアップが揃った。またこの時期、カネに困ったミーデンがハイ・ナンバーズのマネージメント権を、キット・ランバートとクリス・スタンプという二人に売り渡すという事件が起こったが、かねがねミーデンのやり方に不満を持っていたバンドにとってはこれはかえって良い出来事といえた。彼らはバンド名を再びザ・フーに戻し、再スタートを切る。

ライヴ・ハウス、マーキー・クラブの毎週火曜のレギュラーとなったザ・フーは、さまざまな趣向でライヴをこなしていった。ステージではピート・タウンゼンドが風車奏法(腕をグルグルと回し、ダイナミックにギターを掻き鳴らす)を発明、またギターをアンプにこすりつけたり、キース・ムーンはドラム・キットを崩し倒すなど、ザ・フーの過激なパフォーマンスは話題を呼び、マーキー・クラブの入場者動員記録を塗り替えるほどの人気を得るようになった。その頃ザ・フーは改めてデモ録音を行ったが、これがキンクスのプロデューサー、シェル・タルミーのもとへ渡りとたんに状況が好転した。デモ・テープを気に入ったタルミーはザ・フーと契約。その後、タルミーはアメリカのデッカ・レコードに売り込み、アルバム12枚分の契約をとりつける。

’65年1月、デッカのイギリスでのレーベル、ブランズウィックからシングル"アイ・キャント・エクスプレイン"をリリース。人気音楽TV番組'レディ・ステディ・ゴー'への出演もあり、全英8位とヒット。続く"エニウェイ・エニハウ・エニホエア"、"マイ・ジェネレーション"とヒットをものにしたザ・フーは、そのジェネレーション・ソングのヒットから、モッズ族に限らず多くの若者にとってのヒーローとなった。ただ、ザ・フーのマネージメントを手掛けたランバート&スタンプが大きな額の衣装代をかけ、モッズ・ファッションのリーダーとしてのザ・フーを戦略的に宣伝したため、そのイメージは非常に強かったのだが(ユニオン・ジャックやターゲットのデザインのシャツやスーツがザ・フーを彩った)。

‘65年12月、1stアルバム マイ・ジェネレーション リリース。これも全英5位となり、バンドは順調な活動を続けていくかに見えたが、裏ではメンバー間の揉め事や、プロデューサー、シェル・タルミーとのトラブルもあった。後者が弾きがねとなって、ザ・フーのマネージメント、ランバート&スタンプは、バンドを設立間もないリアクション・レコードに移籍させる。そこからリリースした"サブスティテュート"、"アイム・ア・ボーイ"がヒット。一方のタルミー側もブランズウィックから"リーガル・マター"、"キッズ・アー・オールライト"をリリースするなどしたため、ザ・フーのシングル・リリースは、二つのレーベルから出される、という異常事態となった。’65年のヨーロッパ・ツアーも成功、’66年12月に2ndアルバム クイック・ワンリリース。’67年にはバンドのマネージメント、ランバート&スタンプの二人が新たに自らのレーベル、”トラック”を立ち上げザ・フーをそこに移籍させたりもした(ここにはジミ・ヘンドリックスや、のちにT・レックスで有名になるマーク・ボランが居たジョンズ・チルドレン等が在籍)。

‘67年、ザ・フーハーマンズ・ハーミッツの前座などで初のアメリカ公演、TV出演も果たし、"恋のマジック・アイ(I Can See For Miles)"は全米トップ10ヒットを記録。また、この年行なわれたモントルー・ポップ・フェスティヴァルに出演。その過激なステージが話題になり、ザ・フーはアメリカでの人気も定着させていった。

‘68年1月、3rdアルバム ザ・フー・セル・アウトリリース。初のオセアニア・ツアーをスモール・フェイセズらと行ない成功。9月からはいよいよザ・フーの名声を決定的にするロック・オペラ トミー のレコーディングに入る。’69年5月、アルバムトミー リリース。この発表と前後してヨーロッパ、アメリカのオペラ・ハウスを廻るステージを敢行。アルバム、ステージ共に絶賛を持って迎えられた。同年、伝説的なフェスティヴァル 'ウッドストック'に出演、またワイト島でのフェスティヴァルなど精力的なライヴ活動を行ないながら、’70年にはトミー からのシングル・カットを発表していき、2月に行なわれたリーズ大学でのライヴ音源を ライヴ・アット・リーズとしてリリースした。

’71年、名作の誉れ高い ザ・フーズ・ネクストリリース。ジョン・エントウィッスルのソロやロジャー・ダルトリーの映画出演など個別活動も目立った。’72年にはピート・タウンゼンドもソロ現人神(あらひとかみ)を発表。オールスター・キャストによるオーケストラ版トミーのリリースと公演もこの頃行なわれた(この後トミー は’75年に映画化されるなど、ロック・オペラの名作として語り継がれて行く)。さらにタウンゼントはロック・オペラ構想第2弾として、モッズをテーマにした四重人格('79年にさらば青春の光として映画化)を発表する。

‘74年になるとザ・フーとランバート&スタンプの間の関係が悪化。マネージメント権はビル・カービシュリーに渡る。再び米MCA、英ポリドールと契約を結んだザ・フーザ・フー・バイ・ナンバーズをリリース、これも大ヒットさせ、続くツアーでもスタジアム・ツアーをソールド・アウトにするほどの人気を顕示した。'75〜'76年とツアーに明け暮れたザ・フーは、’77年に一旦休息。その後リリースした’78年作フー・アー・ユートミー 以来となるビッグ・セールスを記録し、根強い人気ぶりを示すこととなった。

しかし、ここでバンド結成以来の大きな事件が…'78年9月7日、ポール・マッカートニー主催の”バディ・ホリー生誕記念パーティーに出席したドラマーのキース・ムーンが、その晩に急死しまったのだ。ワイルドな私生活で知られたキース・ムーンはバンドのキャラクターの大きな部分を占めるダイナミックなドラミングを担う存在だったため、これは本当にザ・フーにとって致命的な事件だった。そんな最大の危機に直面したバンドは、元スモール・フェイセズフェイセズのケニー・ジョーンズを迎え、翌’79年5月、ロンドンのレインボー・シアター・コンサートをもって再スタートを切ることにした。

またこの年、ザ・フーのヒストリー映画とキッズ・アー・オールライトを公開、そのサントラ盤をリリース。前述のさらば青春の光も公開されるなど、大きな注目が再びザ・フーに集まったが、その一方で12月3日、シンシナティ公演で観客11人が圧死、というロック史上でも最悪といえる事故にも見舞われてしまった。

その後ザ・フーはアメリカでのレコード会社を変更。ワーナーに移籍し、’81年フェイス・ダンス、‘82年イッツ・ハードとリリースを続けるが、’82年4月、ピート・タウンゼンドがいきなりザ・フー解散を声明。同年10〜12月の北米ツアーとその模様を収録したフーズ・ラストのリリースを最後に、ザ・フーは栄光の歴史に幕を下ろした。

しかし’85年7月チャリティー・ショウ、'ライヴ・エイド'で再結成。また’88年2月には英国レコード協会からの特別賞受賞を受けて、ロンドンのロイヤル・アルバート・ホールにて2曲を演奏。デビューから25周年を経た‘88年には記念ベスト盤フーズ・ベター、フーズ・ベスト同名ヴィデオ作品をリリース。そしていよいよ大きな話題を振り撒いた’再結成ツアー’が’89年から始まる。ドラマーにサイモン・フィリップス、サポート・ギタリストにゲイリー・ボルトンを迎え、約2ヶ月間に渡る全米ツアーを敢行。この間、ニュー・ヨークとロサンゼルスでは’トミー’の再演もあった(’89年8月のLAでのライヴをトミー、ニュー・ライヴ89で見ることができる)。また10月にはイギリス公演も行なわれた。当初、’カネのため’とも言われたこの再結成ツアーだが、その後’90年4月にリリースされた再結成ツアー音源のジョイン・トゥゲザーを聴く限りでは、演奏自体は悪いものではなく、むしろピート・タウンゼンドの作る楽曲の重要性を改めて認識させられるキッカケとなるツアーとも言えた。その後予定されていた日本、オーストラリアでのツアーは実現せず、全てキャンセル。その後は’91年エルトン・ジョン・トリビュートへの参加や、’94年ボックス・セット30イヤーズ・オブ・マキシマム・R&B、’96年ベスト盤マイ・ジェネレーション〜ザ・ヴェリー・ベスト・オブ・ザ・フーワイト島ライヴのリリースなどがあった。

そして’99年にまたザ・フー周辺が騒がしくなってきた。まず夏頃に一旦リリース予定の出たBBCセッションズ(これは結局2000年初頭のリリースとなった)。そして秋に届いた、またも、の再結成ニュース。2000年には再結成ツアーを廻ることとなった。

バンドが放出するサウンドをときに支え、ときに引っ張るリズム・ギタリストであるピート・タウンゼンドは、技術的に傑出したソロイストといったものではない。ただそうしたギタリストと肩を並べてしかるべき存在として、ロックにおける優れたギター・サウンドをいくつも生み出してきたギタリストとして認識されている。アンプによるディストーションやフィードバックの強力な使い方は、のちのロックに本当に多大な影響を与えた。大袈裟な表現ではなくピート・タウンゼンドは、もし彼がいなかったら、ロックのサウンドはもう少し大人しいものになっていたかもしれない、と言えるほどのイノヴェイターなのだ。またその独自のコードワークによる作曲法は多くの名曲を生み出してもきた。そのセンス溢れる曲作りの冴え、そして冒頭でも触れたアクロバティックな奏法までも含み、ピート・タウンゼンドは、ロック界随一のスタイリッシュなバンド・ギタリストと言えるのだ。

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