Nick Drake

Nick Drake (ニックドレイク) プロフィール

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’90年代に入り、俄然再評価の高まったニック・ドレイク。英国インディ・ギター・バンド達からのリスペクトや、次から次へと現れる、静かなるアコースティックの弾き語り風、新世代シンガー・ソングライター達のデビューなどが相次いだ’90年代。正にこの時代の”裏の顔”がこのニック・ドレイクだったとは言えないだろうか。

抗鬱剤の過剰摂取で、’74年に26歳の若さで亡くなったニック・ドレイクに、伝説のシンガー・ソングライターという形容を与えることは容易なことかもしれないが、そんな事実だけではここまでの評価は得られなかったに決まっている。’92年にリリースされたニック・ドレイク・トリビュート Brittle Daysのリリースや、各種再発CDが若い世代のリスナーに「発見」されたという事実が、あくまで彼の音楽性そのものが評価の中心であったことを物語っているのだ。

ニック・ドレイクは’48年6月19日にビルマに生まれた。家柄は英国の典型的なアッパー・ミドル・クラス。ドレイクが2歳の時、イギリスに戻った一家は、イングランド中南部のウォリックシャー州タンワース・イン・アーデンに暮らす。そこでドレイクは何不自由ない生活を送った。一家が代々通ったマールボロー・パブリック・スクールへ入学したドレイクは、学業成績優秀、またその恵まれた体躯(身長が190cmほどある)を生かして陸上選手としても活躍した。文武両道な名門学校の生徒という、この時期のニック・ドレイクからは、後の陰鬱で孤独そうなシンガー・ソングライターの顔は想像できない。

音楽方面への興味は、母親がアマチュアの作曲家だったということもあって、スポーツと並行して、クラシック・ピアノやサックス、クラリネットなどを学んだ、という辺りかららしい。’65年、17歳頃のニック・ドレイクはやはり当時激動していたポップ・ミュージック・シーンに惹かれ、その影響でブルース、R&B、ジャズなど幅広く聴くようになった。当時のフェイバリットはスペンサー・デイヴィス・グループグレアム・ボンドズート・マネーなど黒人R&Bの影響を強く受けたビート・バンドや、そしてやはり、のボブ・ディランだったという。

最初のギターを安価で手に入れたドレイクは、自らも作曲するようになった。その多くは早くも後の彼の作風を特徴づける、悲しげなものだったとも言われている。またマールボロー校での最後の夏に南仏に旅行。ストリート・バスキングをするなどして過ごしたという。

’67年、ケンブリッジのフィッツウィリアム・カレッジに入学。大学に入りドレイクの憂鬱さには拍車がかかった。スポーツを止めた彼は、髪を伸ばし黒づくめの服に身を包み、ランボー、ヴェルレーヌなどフランス象徴派の詩人を愛好した。学校での自分のアウトサイダー的な立ち位置は、それら詩人達の影響もあったのかもしれない。当時出たばかりだったペンタングルの2人のギタリスト、バート・ヤンシュ&ジョン・レンボーンBert & Johnにいれ込んでいたといわれるドレイクは、本格的にギターの練習と作曲に没頭する。極端に外部との接触を嫌ったといわれるこの時期以降のニック・ドレイクは、辛うじて自らの鬱でメランコリックな心情とそこからの救済(僅かばかりの)を歌に託し、外界とのコミュニケーションをはかっていたと言えるかもしれない。

’68年、ロンドンのラウンドハウスで開かれたチャリティー・コンサートに出演したドレイクは、フェアポート・コンヴェンションの前座で歌う機会に恵まれた。フェアポートのベーシスト、アシュレイ・ハッチングスはドレイク独自の個性と世界観を有した歌に衝撃を受け、当時フェアポートのマネージャーだったジョー・ボイドにドレイクを紹介。インクレディブル・ストリング・バンドなどをプロデュースする一方で、アンダーグラウンドの才能発掘にも力を入れていたボイドは、ドレイクのデモ・テープを聴き、彼の類まれな才能を感じ取り、ドレイクと即座に契約した。

ドレイクのデビュー作ファイヴ・リーヴズ・レフト(Five Leaves Left)は’69年に発表された(アルバム・タイトルは手巻きタバコのペーパーに印刷された”残り5枚”という表示から)。この時ドレイクはまだ在学中だった。このアルバムのバックを務めたのはフェアポート・コンヴェンションリチャード・トンプソン(g.)、ペンタングルダニー・トンプソン(b.)、ポール・ハリス(p.)という英フォーク名うての面々。またケンブリッジでの友人、ロバート・カービーが4曲でストリングスなどのアレンジを手掛けている。

美しいギターの爪弾きにあわせて、淡々と綴られた歌が続く作品ファイヴ・リーヴズ・レフト(Five Leaves Left)は評論家、ライターに絶賛されたが、しかし全くといっていいほど売れなかった。ニック・ドレイクは’69年12月にフェアポートやジョン&ビヴァリー・マーティンらとロイヤル・フェスティヴァル・ホールのステージに立った。フェアポートの復活ライヴということもあって満員の聴衆を前にドレイクは見事なパフォーマンスを披露したと言われる。また一方でこの頃の他のギグを観た人物の証言によると、ドレイクのライヴは曲紹介などのMCは全くナシ、というより歌以外にはひと言も口をきく事はなかったという。

保守的な父親の反対を押し切り、大学をドロップアウトしたニック・ドレイクは、ロンドンに移り住み、次作用の曲を書き溜めた。セカンド・アルバム ブライター・レイター(Brighter Layter)を’70年11月リリース。プロデュース、アレンジは再びジョー・ボイドとロバート・カービー。ファーストは音数の少ない静謐とも言える印象の作品だったが、このセカンドでは、フェアポートのリズム隊、ジャズ系ミュージシャンによるホーン、ジョン・ケイルによるヴィオラなどを配し、アレンジにも凝った作りとなっている。そうした部分からか、このセカンドはもともと英トラッド/フォークのファンには評判の悪かった作品だったが、近年の若いリスナーを中心とした再評価の中で、ジャジーさやボサ系のフィーリングなどが好まれ、彼の代表作のひとつとして目されることになった。しかしながら、当時のセールスはまたもや低かった。ニック・ドレイクが自信を持って送り出した2作品が連続して低セールスしか記録できなかった事に加え、セカンド・アルバムにおいては、歌自体への評価よりも、ジョー・ボイドのプロデュース・ワークへの注目が高かったため、ドレイクはかなり落胆することとなった。更にトドメとなってしまった出来事が起こる。音楽業界でのたった一つの繋がりと言えたジョー・ボイドとの関係が終わってしまうのである。ボイドは所有のプロダクション(もちろんドレイクの契約も含む)、ウィッチシーズンの権利をアイランドへ売却。彼の故郷であるアメリカへ帰ってしまうのだった。

自己の表現を研ぎ澄ませ、それがいつかは世間に受け入れられると、強く信じてきた繊細な青年の希望はここで閉じられる結果となった。ロンドンを後にし、タンワース・イン・アーデンの両親のもとへと戻ったドレイクは精神科医にかかり、抗鬱剤を常用するようになった。'72年にリリースされ、結果的にラスト・アルバムとなったピンク・ムーン(Pink Moon)はドレイクのギター、ピアノ、歌のみの演奏で、二晩で録られた作品。ギリギリの精神状態で生み出されたこの作品は、完成度云々や時代性を超えて、現在でも切実な表現としてリスナーに届く。そこがこの作品を特別なモノとし、同作品がポスト・パンク以降のアーティスト達や、新世代シンガー・ソングライター達の心を掴んだ所以でもある。

ドレイクの精神状態は以降、悪化の一途を辿った。’74年2月録音の4曲が彼が遺した最後のレコーディング記録である。これは’79年にリリースされたオリジナル3LP・ボックス>Fruit Treeに収録され、陽の目を見た。’86年には件の4曲に、新たに発掘された10曲がまとめられ、LP/CD4枚組新装ボックスが発売。尚そのDisc-4のみ切り離された盤がタイム・オブ・ノー・リプライ(Time Of No Reply)で、これはデビュー・アルバム制作時のアウト・テイク音源や、BBC「ジョン・ピール・ショウ」出演時の貴重な音源を収録している。

’74年11月25日、昼遅くになっても起きてこない息子の様子を、2階へ見に行った母親が目にしたのは、息子ニック・ドレイクがベッドに横たわり死んだ姿だった。部屋のターン・テーブルにはバッハの「ブランデンブルク協奏曲」のレコードが乗ったままになっていたという。死因は抗鬱剤の過剰摂取。自殺とも事故だとする声もあるが、今日では事故説が有力な見方になっている。

サイキックTVニック・ドレイク・カヴァー辺りから始まったパンク以降のリスナーによる「再発見」は大きな出来事だったし、絶望に向き合わざるを得ないアーティストにとって、今でもニック・ドレイクの音楽は避けては通れないほどの大きな影響力を持つ。同時代には不遇な活動を強いられたニック・ドレイクは、’90年代に入りトリビュート盤のリリースや、ベスト盤ウェイ・トゥ・ブルー(Way To Blue) (サブ・タイトルの「イントロダクション・トゥ・ニック・ドレイク」の言葉どおり、これからドレイクの音に触れてみようというリスナーには最適な入門編である)のリリースなどを通じて、’70年代とは比べ物にならないほどの広い層にまで聴かれるようになり、良心的なリスナーに愛される存在となった。ニック・ドレイクが遺した、ナイーヴな憂いと微かな希望を含んだ歌と、彼の普遍的ともいえる存在感はこれからもずっと人々の心を奮わせ続けるに違いない。

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