New Order

New Order (ニュー・オーダー) プロフィール

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New Order

かつてこれ程までに様々な(しかも無意味な)記号に彩られたバンドがあったろうか?ある種のバンドにとっては記号性とは自らのカリスマを保つためには不可欠なモノだが、 ニュー・オーダーの場合、メンバーのルックスには派手さの欠片もなく、サウンドは無機質なデジタル・ビートを主とした音楽性、と全くカリスマ性に欠けるのだ。しかし、その無意味な記号が逆に作用する時、それはこの上なくカリスマ性として機能する。ニュー・オーダーとはそんなバンドだ。

イアン・カーティスの死。初めの記号は無意味などというものではなく、非常にシビアなものだった。その重すぎる意味をリスナーに付加され、スタートしたニュー・オーダージョイ・ディヴィジョンがそのカリスマ・ヴォーカリストの自殺という結末で幕を下ろした時、残された3人―バーナード・サムナー、ピーター・フック、スティーヴン・モリスは(傍目には)何事もなかったかのように、またバンドを始めてしまったのだ(’81年、ジョイ・ディヴィジョンのナンバーだった"セレモニー"、続くアルバム『ムーヴメント』ニュー・オーダーとして再デビュー)。勿論それは重大な決断であるはずだったが、逆に言うとニュー・オーダーにおいてこの再デビューという以上の決断は、それ以降無かったとも言える――初めから終わっているバンド――(もはや新しいものなんて無いんだ、みたいな)ポスト・モダン的な気分が支配的だった’80年代においては、それはこの上なく甘美な響きだった。

彼らが選んだ音楽スタイルもまたふるっていた。ゴスの元祖とも言える陰鬱なムードを孕む楽曲を得意としたジョイ・ディヴィジョン(それはイアン・カーティスが居る限りにおいて可能だった)から、デジタル・ビートが鳴り響く無機質なサウンドへ(当初、無個性と言われたバーナードのヴォーカルがその無機質さに拍車をかけた)。ジョイ・ディヴィジョン後期にもシンセなどエレクトリック楽器の使用が認められるが、ハッキリとこの方向性を打ち出したのはニュー・オーダーがマーティン・ハネットの手を離れたシングル"テンプテーション"の時だろう(’82年のこの頃スティーヴンの友人、女性キーボーディスト/ギタリストのギリアン・ギルバートが加入)。

こうしたニュー・オーダーの独自路線が早くも極まったのが、シングル"ブルー・マンデー"だった。イアンの死が確認された月曜日をタイトルに冠した同曲は、ドラム・マシーンのバスドラ連打に始まり、ビコビコと鳴るデジタル・ビートに乗って、どんな気持ちがする?と無表情に歌われるナンバー。あんな出来事が起こっても自分達はこうして生き延びているし、人生とはそうしたものだ、という圧倒的に冷酷な現実。それこそが真実だ、という(ニヒリスティックに映るが実は)ごく当たり前の認識。そうしたものを音に転化したような奇妙な味がそこにはあった。そのあまりにも即物的なサウンドに対して、リスナーの深読みがあった事は確かだろう。以降、彼らのファンはこうした深読みに没入させられる事となり、またそれを喜んだのだ! これは’80年代後期の話だが、マンチェスター出身の彼らが”Life‘s The Beach”(ライフ・イズ・ア・ビッチ〜人生は娼婦なり、という英語表現を文字っている)というサーファー御用達のTシャツを着る時、ファンやメディアはそんなところにも表層とも本質とも言えない何か(無意味な記号に過ぎないと判っていても)を受け取ってしまうのだ。実際のところ、このプチブル・ファッションはイビザ辺りの日焼け系観光地、クラブ・シーンへの憧れや同化(出来る訳ないのに!)を単に表しているだけなのだが。ただ、彼ら自身がそうした自分達の表とも裏ともつかない、謎めいたイメージを弄んでいたとは言える。それは大ヒット"ブルー・マンデー"で得た彼ら一流の、あまりにもシリアスなジョークの変種だったのだ。

話がだいぶ逸れてしまったので、以降は時系列で追っていこう。  ’83年3月リリースの"ブルー・マンデー"はインディ・チャートのトップに長期間居座り続け、驚くことに全米でも70万枚を売り上げるヒットになった。2nd『権力の美学』と、当時売れっ子のヒップホップ・プロデューサー、アーサー・ベイカーを迎えたシングル"コンフュージョン"を’83年に発表。続く3rd『ロウ・ライフ (’85年リリース)は彼らがアルバム単位の表現で見せることに成功した最初の作品なのではないか、と思う。充実した内容で、彼らの評価を不動にした作品と言えるだろう。ジョナサン・デミが撮った本作収録"パーフェクト・キッス"のヴィデオ・クリップは単にメンバーがスタジオで演奏してるだけというものだったが(しかもヘタクソ!)、とてつもなくカッコイイものだった。 またこの頃(’85年)彼らは初来日を果たし、新宿厚生年金会館などで公演を行った(その模様を収めたヴィデオ『Pumped Full Of Drags』はV00年再発された)。その演奏の下手さ加減はロック・ファンには長い間の語り草だった。また2度目の来日時(’87年)には当時の深夜番組”11PM”で演奏を披露。口パクは嫌だといってボロボロの演奏を聴かせ、しまいにはCMのためにその演奏は打ち切られてしまうのだった。しかし、それさえも伝説になってしまうバンドがニュー・オーダーなのである。

ついでに彼らのアート・ワークを全面的に手掛けたピーター・サヴィルにも触れよう。その個性的なセンスはニュー・オーダーの各種ジャケやファクトリーに所属したアーティストのアート・ワークを並べてもらえば分かるが、ニュー・オーダーというカリスマを欠いたバンドのイメージを外側からグングン引っぱったのがこのサヴィルといえる。『ロウ・ライフ』のスリーヴは表がスティーヴン・モリス、裏がギリアンというアザー・トゥー。割合キャラ的に目立つバーナードとピーターを何故か内側に配したものだった。もともと目立たない4人だが、その上で執拗にフロント・マンという概念を崩す彼らの意図すら、ここから読み取ることも可能だ。

’86年4th『ブラザーフッド』はメロディアスなギター・バンドとしての側面が強く出た人気作。筆者が個人的にも好きなアルバムだ。前作辺りからホントに遅々とした進歩ではあるが、バーニー(バーナードは仲間うちからそう呼ばれる)のヴォーカルは表情を感じさせるものになってきた。本作ではバーニーのヴェルヴェット・アンダーグラウンドからの影響を感じさせるギター・カッティングと歌、相変わらず第二のメロディ・ラインを奏でるピーター・フックのベース、スティーヴンの無機質なドラムが、有機的に(?)組み合わさった印象を受ける( "ビザー・ラヴ・トライアングル"だけは異質な感触)。またファンにとって最も大きな話題となったのは、オリジナルLPでのラスト曲"エヴリ・リトル〜"の静かに始まるイントロ部分で、歌い始めたバーニーが笑いを堪えきれず(歌詞がバカバカしかったので、と本人は言っている)吹き出しながら歌っているテイク(泣いているようにも聞こえる)をそのままアルバムに使用している事だった。’87年発表のコンピレーションサブスタンス 。12インチ・シングルに拘った初期の彼らの活動はこのアルバムを抜いては語れない。"ブルー・マンデー">や"テンプテーション"、"セレモニー"(関係無いけどギャラクシー500の名カヴァーがある)はココに入っている。

彼らにしてはやや間を置いたアルバム・リリースだった’89年『テクニーク』はインディ・ファンが待望したアルバムだった。同郷出身のザ・スミス、リヴァプール出身のエコー&ザ・バニー・メンら大物UKバンドが相次いで解散。インディ的なカルト・バンドの中で、残る大物はキュアーと彼らくらいだったのだ。流行のハウス・ミュージックのサウンドもとり入れた『テクニーク』は、イビザ島やアンダーグラウンドで盛り上がったドラッグやって踊り狂う”アシッド・ハウス”と呼ばれるシーンを広く音楽ファンに紹介する役目も果たした『テクニーク』もヒットし、順調に活動していく様に思われた彼らだったが、その後メンバーは別行動をとるようになる。ピーター・フックは地元マンチェスターのほとんどシロウトと思われる仲間と”リヴェンジ”を結成。 バーナードはインディ界のスーパーユニットと言われた”エレクトロニック”を、またスティーヴンとギリアンは自虐的な名を持つユニット”ジ・アザー・トゥー”を組んだ。この頃にリリースされたニュー・オーダー名義の作品は’90年に出場を決めたサッカー・ワールド・カップのイングランド公式応援歌”ワールド・イン・モーション”(イングランド・ナショナル・チームの主要プレイヤーらがコーラスで参加)くらいのものだった。

そうした個別活動を経て’92年頃にニュー・オーダー新作の制作のウワサが伝わってきたが、’93年に彼らが所属するファクトリー・レコードが倒産。そのためその音源は新たに契約したロンドン・レコードから『リパブリック』というタイトルでリリースされた。充実した作品だったにも関わらず、またもやこの先ニュー・オーダーとしての活動はストップしてしまっている(個々人のプロジェクトでの活動はあるが)。

99年、ケミカル・ブラザーズのアルバムにバーニーがゲスト参加したという話題があったが、ケミカルのその作品におけるアティチュードにはかつてのニュー・オーダーを思わせるところがある気がする。こちらが考える以上にダンス+インディ・サウンドの先駆者としてのニュー・オーダーの影響は計り知れないほど大きいのだ。またマンチェスターという街の音楽シーンを支えてきた役割も見逃せない。彼らが有名になってもマンチェスターに居残り、地元のファクトリーから作品をリリースし続け、そのファクトリーが経営した伝説のクラブ”ハシエンダ”に深く関わっていたことの意味は余りにも大きい。例えばファクトリーからデビューしたハッピーマンデーズ。"ブルー・マンデー"をモジった名を持つ彼らの”24アワーズ・パーティ・ピープル”的な享楽主義のルーツは明らかにニュー・オーダーだし、ストーン・ローゼズはシングル"エレファント・ストーン"のリミックスをピーター・フックに頼んでいる(イアン・ブラウン1stソロに、もろジョイ・ディヴィジョン〜初期ニュー・オーダー的なナンバーが収録されていたことは記憶に新しい)。マンチェスターから出た英国のヒーロー、 スミスよりも地元に残り続け、後続バンドの活動を手助けしたりするニュー・オーダーの方が、彼らにとって親しみ易かったことは間違いないのだった(ハシエンダに行けばウロウロしてたしね)――98年、突如としてバンドは、レディング・フェスティバルのステージに立った。そして99年、バンドはニュー・アルバムのための制作を開始。

2000年3月には映画『ザ・ビーチ』のサントラに8年ぶりとなる新曲"ブルータル"を提供。そして2001年、8月フジロック・フェスティバル01に出演。同年9月には8年ぶりとなる新作『ゲット・レディ』を発表した。

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