(こちらは新品のHMVレビューとなります。参考として下さいませ。中古商品にはサイト上に記載がある場合でも、封入/外付け特典は付属いたしません。また、実際の商品と内容が異なる場合がございます。)
チェリビダッケ/展覧会の絵
1993年ミュンヘン・フィル創立百周年記念演奏会の一環として、本拠地のガスタイクでデジタル収録されたライヴ盤。演奏は驚きもので、各曲の正味時間合計で42分を越えるという凄まじいばかりに遅いテンポが設定されていますが、テンポの速い遅いという、単純な時間軸へのこだわりが皮相な見解に過ぎないことを証明する優れたアプローチでもあります。
冒頭《プロムナード》からすでに、個性的なパート・バランスと絶妙なフレージングによる濡れ光るような色彩美・旋律美が素晴らしく、このプロムナードが、これから始まる壮大な美の祭典の幕開けにふさわしいオープニング・ナンバーと位置付けられた見事な解釈だと言えるでしょう。
続く《グノムス》も、間合いのとりかたや細部の強調といった、グロテスク表現の巧みさでは比類が無く、次の《プロムナード》での沈潜と瞑想を経て、美しい《古城》へと自然に繋がってゆきます。ここでのサクソフォン・ソロと伴奏声部の醸しだす、繊細な色彩の移ろいと、たゆたう雰囲気の描写も素晴らしいもの。
一転、3度目の《プロムナード》では、再びデフォルメによる重量感の付与がみられますが、これは次の《テュイルリーの庭》を通過して、ヘヴィーな《ビドロ》にかかる音響力学上の収拾策とみるべきでしょう。この《ビドロ》は、チェリ流儀のシリアスな情念傾注が、雄弁を極める名手ザードロのティンパニを得て、前半のクライマックスを築くところでもあり、一途な深刻さには胸打たれるほかありません。
脱力感さえ伴うその終止に続く、4度目の《プロムナード》は、後半での巧みなブリッジ的アプローチが《殻をつけた雛の踊り》にスムーズに移行するさまが実にユニーク。しかもこの《踊り》がまたあきれるほどうまいのです。奏者への教示テクニックの卓越ぶりを示す、豊かで当を得た表情付けが、LD《古典交響曲》でのリハーサルの巧みさを改めて想起させてくれますが、このリズム感と微妙な表情は本当にみごとです。
続く《サミュエル・ゴールデンベルクとシュミュイレ》も個性的。威圧的で傲慢なサミュエルが相手では、シュミュイレの姑息な言い訳も通用しないという、『対立』よりも『同根とりこまれ』的要素を強調した解釈(ユダヤ的経済感覚への揶揄?)が秀逸。
次の《リモージュ》は何と言っても地方都市の市場の描写という点が眼目。よく見受けられる不自然なまでの大都市的活気はあらわさず、市井の賑わいを自然に伝えるカラフルな表情付けで、次のモノトナスなナンバーとのコントラストを形成するさまが見事。
その《カタコンブ》での厳粛を極めた金管セクションは、最後の2曲を導くにふさわしく変形された《プロムナード》としての機能を万全に果たすと共に、黄泉の世界への『畏怖』を表し、逆に木管セクションは『馴化』を示唆して、続く《バーバ・ヤーガの小屋》の奇想へと自然に推移させるのです。
この《バーバ・ヤーガ》でのザードロの活躍には目を見張るものがありますが、ラプソディックなトランペットも作品の味わいをさらに深めることに成功し、《グノムス》的な中間部を不気味にひき立たせて秀逸。
フィナーレへのなだれ込みも効果的で、威厳に満ち溢れた《キエフの大門》の出現は、壮大な『幻想』を『現実』にするほどの力を感じさせます。言うまでもなくそれは、この演奏のクライマックスを形成しているわけで、示されたアプローチも極めて個性的です。
まず主要主題のアクセント。最後の音で力を抜くというこの手法、チェリならではの強引なデフォルメともいえますが、こうすることで、呑気に分断されがちに聴こえるフレーズに連続性が与えられ、ひとつながりの旋律として劇的な彫琢が施されるさまが、全くもって凄いの一語に尽きます。
副次主題部との、強烈なコントラストが呼び覚ます様式的な感覚、つまり、作品全体を支配する、ロンド形式的枠組みへの意識的な喚起が、このフィナーレに於いて成されることによって、終結部のまさにブルックナー風巨大回帰と見事に呼応して昇華されてゆくのです。