その後、フェイヒイはガソリン・スタンドで稼いだお金を使い、100枚のLPを自主制作した(このアルバムで既にTakomaというレーベル名表記がある)。1959年にプレスされたこのアルバムは早くもこの異端のアーティストの個性を示したもので、アルバムの片面に「John Fahey」、もう片方に「Blind Joe Death」と印刷されたこの自主制作盤は、のちに形を変え大きな注目を浴びることになるのだった。
バークレーに拠点を移した60年代の半ば頃に、フェイヒイはエド・デンソンらと共にTakomaレーベルを正式に設立。そこから前述の自主制作盤 John Fahey/Blind Joe Death を再レコーディング、そしてリリース。ルーツ音楽に多くを負いながらも、独自の表現の中で展開された同作品は、当時のアメリカにおけるカウンター・カルチャーの盛り上がりの中で、ヒップな一部の層に絶賛されることとなる。