Felix Da Housecat

Felix Da Housecat (フェリックスダハウスキャット) プロフィール

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2001年のアルバム『Kittenz and the Glitz』のリリースによって、フィリックス・ダ・ハウスキャットはダンス・ミュージック界の注目の的となった。「Silver Screen」「Madame Hollywood」では今や悪名高きミス・キトゥン(Miss Kittin)と、そして「Harlot」「What Does it Feel Like」ではメリスター(Melistar)とそれぞれコラボレーションが実現し、シンセ・サウンド主流のクラブ・リヴァイバルの旋風を巻き起こした。フィリックスはプレスからも高く評価され、Entertainment Weekly誌、 Rolling Stone誌、Spin誌といった主要誌には、今日音楽で最もクリエーティヴなアーティストの一人と評されるようになった。

今回"Emperor Norton"からリリースされる『Devin Dazzle and the Neon Fever』('04)では、かつてヒップホップ界のダン・ジ・オートメーター(Dan The Automator)とプリンス・ポール(Prince Paul)が仕掛けたように、今一度フィリックスは多種多様のプロデューサーとヴォーカリストの才能を繋ぎあわせ、実に楽しめる内容のアルバムに仕上げた。「What She Wants」では、フィリックスいわく「ファンク精神に満ちたクールな白人ボーイ」のゲスト・ヴォーカル、ジェームズ・マーフィー(DFA/LCD Soundsystem)の他に、タイロン“ヴィジョネリー”パルマー(「Ready to Wear」「Neon Human」)、ケイト・ワックス、そしてザ・ネオン・フィーヴァーとして知られるガール・グループを迎え(「Rocket Ride」「Short Skirts」「Everyone is Someone in LA」「Hunting Season」)、単なるダンス/ロック/ポップ・ミュージックを超越したアルバムが出来上がった。

『Kittenz and the Glitz』はDJ、クラブ・カルチャーの枠組みでとらえられる作品だが、『Devin Dazzle and the Neon Fever』はパンク/ポスト・ニューウェーブ・カルチャーの傾向が強く、意図的に歌モノが多い。フィリックスは新たなアプローチを試み、「このアルバムにはライヴ・ミュージシャンを使いたいと思ったんだ。誰もが使っているアルペジアのベース・ラインに辟易してきたので、真っ当なライヴ・ミュージシャンを起用したかったのさ。ホンモノのライヴ感みたいなものを追究するために、このアルバムでは僕もキーボードを弾いているんだ」と説明する。

このアルバムにクレジットされているいくつかのアーティストのキャラクターを見ると、それがアルバムの超自我的な内容に反映されていることに気が付く。『Devin Dazzle and the Neon Fever』ではアップビートでスピリチャルな側面と、ネオンが灯るナイトライフの誘惑、つまりパーティとセックスの世界の対比が描かれている。後者を代表するのがザ・ネオン・フィーヴァー(元グラマラマ)。「ザ・ネオン・フィーヴァーは世界中から集まった5人組の女のコで、それぞれ5つのタイプの女性を表現している。歌詞を通じて彼女たち個々の性格を捉えて、曲の中で彼女たちの声を一つの集合体にしたかったんだ。野郎がオンナの世界を覗き見ているような世界観を出したかったというか。結果的には、男が一般的には書かないような歌詞もあると思うよ」。

フィリックスの相棒、デイヴ・ザ・ハスラー(Dave the Hustler)を介してフィリックスはケイト・ワックスと出会った。「彼女には実に感心したよ。彼女自身、才能のある優れたプロデューサーであるにも関わらず、人の意見を聞き、さらにいいモノを作ろうと僕と組んでくれたんだ。とてもキレイだし、野心家だし、とにかく素晴しい雰囲気の持ち主。「Let Your Mind Be Your Bed」は彼女の才能の氷山の一角に過ぎないよ」。

また、「タイロン“ヴィジョネリー”パルマーはアルバム全体を、精神的な支えとなって引っぱってくれたし、僕に有意義な歌詞を書かせてくれた。アルバムに良いバランスをもたらしてくれたというか」とフィリックスは語る。

20年以上も常に新しい方向性に意欲的に精進を続けてきた結果、マドンナガーベージニュー・オーダージョルジオ・モロダーといったアーティストのリミックスを手掛け、世界でも高名なミュージック・フェスティバルにDJとして招聘され、そしてグラミー賞にノミネートされるまでに至った。1971年にデトロイトで生まれ、シカゴ郊外のパーク・フォレストで育ったフィリックス・スターリングJr.の最初の音楽との出会いは、サックス・プレイヤーだった彼の父の影響だった。'70年代のクラシック・ファンク、スティーヴィー・ワンダーアース・ウィンド&ファイヤーといったソウル・アーティストなどに魅了されたフィリックスの次の大きな音楽的分岐点は、プリンス&ザ・レボリューションの大ヒット・アルバム『パープル・レイン』がリリースされた時だった。彼はSHADES OF BLUEというバンドのキーボード・プレイヤーとなり、プリンス&ザ・レボリューションのカヴァー曲を弾いたりした。

'80年代に入ってからは、フィリックスの関心はハウス・ミュージックに向けられるようになる。Chicago102.7やパイオニア的な存在だったHot Mix DJを中心に、「昔よく、Farley "Jack Master" Funk、Mike "Hitman" Wilson、Micky "Mixin'" OliverやKenny "Jamming" Jasonを聴いていたよ」とシカゴ・ハウスの先駆者たちをスラスラと挙げる。そして14歳の頃には、フィリックスは自分のマルチ・トラック・レコーダーでハウス・ミュージックを作るようになっていた。学校の友人を介して知り合ったDJピエール(DJ Pierre)とは、後にクラシックなハウス・トラックとなった「Phantasy Girl」でコラボレーションする。

しかしフィリックスの趣向は一つのジャンルだけでは留まらなかった。ハイスクール最後の年にはR&BスタイルのバンドUncutに在籍し、そして卒業後アラバマ州の大学に進学した彼はヒップホップを作り始める。ディープな南部で2年間を過ごした後、退学する(まるで囚人生活のようだった、と彼は振り返る)。'91年には両親の家のベースメントに引っ越した彼は、コロンビア・カレッジでオーディオ・エンジェニアリングを学び、エドアルドの“ピザーラ”で働いていた。「あれは大変だったよ。あのオーブンが嫌いでさ、何かを犠牲にしないといけないって常に考えていたよ」とフィリックスは言う。

そして遂に、DJピエールからまたとないオファーが舞い込んできた。「ロンドンで溢れかえっているパンク・ロッカーたちを見た時、ここしかないと思ったんだ」。DATを詰めたカバンを持って、フィリックスは飛び回った。「クレイジーだったよ。レーベルの事務所を訪ねてはトラックをかけ、そして彼らは即サインをしたんだ!」。すぐさま「What's Love About」は"Freetown Inc"レーベル、「Thee Dawn」はウィリアム・オービットのレーベル"Guerilla"と契約が決まり、今までに見たこともない大金を持ってアメリカに戻って来た。'92年には「Thee Dawn」がヨーロッパで大ブレイクし、彼の評判は海外で広まった。「当時は毎週、違うレーベルのために曲を作っていたよ」と彼を言う。次の年、「Thee Underground Made Me Do It」とAphrohead名義でリリースされた「In Thee Dark We Live」の成功によって、彼の人気は不動のものとなった。ちなみにAphroheadは彼の数多い名義の中の一つで、その他にはWonderboy、Rocketmann、Outerrealm、Thee GlitzやThee Maddkatt Courtshipなどがある。

'93年には"Deep Distraxion"とアルバム契約し、ダンス・ミュージックのアーティストとしては当時異例のフル・アルバム『By Dawns Early Lite』をリリース。他のダンス・アーティストとは異なって、フィリックスがDJを始めたのはキャリア中盤にさしかかった頃だ。「初めてのDJは'94年のロンドンだったんだけど、酷かったよ。あちこちで列車事故でも起こした感じだった」と彼は笑う(もちろん今では、SpinやUrbでは"DJ・オブ・ザ・イヤー" と称されるほどの実力)。'95年にはヨーロッパのディストリビューター、Play it Again Sam(PIAS)と一緒に"Radikal Fear records"を設立。'95年から'96年の間に『Alone In The Dark』『Metropolis Present Day? Thee Album』『Thee Underground Made Me Do It』『Rocketman』の計4枚のフル・アルバムをリリースした。

'97年にはThee Maddkat Courtship名義で輸入盤のみのアルバム『I Know Electrikboy 』をリリースし、限定盤だったにもかかわらず各誌で大絶賛された。同年、スイス公演の際にミス・キトゥンとデイヴ・ザ・ハスラーに出会い、「僕らはすぐ仲良くなり、スタジオに入ってバカげたことをいっぱいしたんだ」とフィリックスは説明する。

彼らの“バカげたこと”は具体化し、それは過去10年間の中でも最も影響力のあるダンス・ミュージックのリリースとなった。『Kittenz & Thee Glitz』の華々しい成功に関して、「誰も予想しなかったことなんだ。ただただ上手く行ったんだ」とフィリックスは言う。ジョルジオ・モロダーの影響が聴いてとれるビート、ファンキーなシンセ・ライン、そしてそのロス・ミーツ・ユーロトラッシュ的なスタイルが、当時の政治混乱の世相に疲れた人々のモードにピッタリはまったのだ。The New York TimesやRolling Stone誌には好意的なレヴューが掲載され、Muzik Magazine誌とDancestar USA誌では『Kittenz & Thee Glitz』が"アルバム・オブ・ザ・イヤー"を獲得した。

『Kittenz & Thee Glitz』リリース後、フィリックスは世界で最も引っ張りだこのリミキサー/プロデューサーとなり、ペット・ショップ・ボーイズやカイリー・ミノーグ、ニーナ・シモンに至るまであらゆるアーティストのリミックスを手掛けるようになる。2003年にはライノセラスの「Lost Love」のリミックス曲がグラミー賞にノミネートされ、また2枚のミックス・アルバム『Excursions』『Bugged Out』をリリースし、彼の並外れたプロダクションの才能に惚れ込んだP.ダディなどといったアーティストと一緒に仕事をするようになった。

さて、一つだけ疑問に残るのは、『Devin Dazzle and the Neon Fever』というタイトル名の由来は何だろうか?さすがはフィリックス、全ての質問に答えを用意をしている。「Devin Dazzleはナイト・ライフに魅了されたキャラクターで、彼はネオンの灯りを見る度に、熱に浮かされるんだ。でもDevinにはNeon Feverという友人がいて、そいつはDevinと全く正反対の悪影響を与える人物なんだ」。では、このアルバムは自叙伝的な部分があるのかな?「確かに個人的なところはあるよ。でもそれは言わないぜ」。

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