Doobie Brothers

Doobie Brothers (ザ・ドゥービー・ブラザーズ) プロフィール

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イーグルスと並び70年代の米ウエスト・コーストを代表する人気バンドだったドゥービー・ブラザーズ。数多くのメンバー・チェンジと音的な変化を伴うバンド活動だったが、彼らの爽快なドライヴ感を感じさせるサウンドやポップなソウル風味の楽曲などは今も色褪せていない。

ドゥービー・ブラザーズの中心メンバー、トム・ジョンストンはカリフォルニア州南部の農業地帯に生まれた。11歳になりギターを手にした彼は、それまで好んで聴いていたというブルースやロックンロールを弾き始めるようになり、練習に明け暮れる中、シャレーズというソウル・グループのバック演奏を務めたり、自身のブルース・バンドを結成してバーなどでプレイするようにもなる。

その後、ジョンストンはサン・ノゼに移住し、当地のカレッジに通い美術を専攻するようになった。学校に通いながらもフォーク・ミュージックを演奏したりして小遣い稼ぎをしていた彼は結局二年間、学校に在籍しただけでドロップ・アウトした。そうして学校を辞めぶらぶらしている頃に出会ったスキップ・スペンサーモビー・グレイプ、初期ジェファーソン・エアプレインのメンバー)の紹介で、ジョン・ハートマンと知り合い、ドゥービー・ブラザーズの原型となるバンド結成に至ったのだった。意気投合したジョンストン(g,vo)とハートマン(ds)は、ベースにグレッグ・マーフィーを加え、PUDというバンドを結成。まもなくマーフィーがデイヴ・ショーグレンに代わり、更にパット・シモンズが加わったグループは、やがてドゥービー・ブラザーズと名乗り演奏活動を行っていくようになった。

ドゥービー・ブラザーズの名前は、彼らがこの無名時代にバンドの練習を行っていた倉庫で、マリファナのまわしのみをしていたことから付けられた。ドゥービーとはカリフォルニア周辺のスラングでマリファナのことを指すが、練習をしていた彼らのうちの一人が「まるで俺たち、ドゥービー・ブラザーズみたいだな…」と、ふと口にした一言からとられたのだった。

北カリフォルニアのヘルス・エンジェルスのバーで演奏を行っていたドゥービー・ブラザーズは、やがてワーナー・ブラザーズと契約。当時新進気鋭のプロデューサーだったテッド・テンプルマンのプロデュースを仰ぎ、1971年、アルバム ドゥービー・ブラザーズ・ファースト(Doobie Brothers) でデビューを飾った。しかし同作の評判は当時惨憺たるものだったという。ワーナーは早くもドゥービー・ブラザーズをレーベルから締め出そうとしたらしいが、彼らの将来性を信じるテッド・テンプルマンがそれを押し止めたといわれている。それが結果的に、二作目以降の成功に繋がっていくのだった。60年代にハーパース・ビザールというバンドに在籍したテッド・テンプルマンは70年からワーナーの専属プロデューサーとなったが、実はこのドゥービー・ブラザーズのデビュー作が初プロデュース仕事だった、という事情もあったのだ。尚これ以降、1983年までの全ドゥービー・ブラザーズ作品をテッド・テンプルマンが手掛けることになった。

ドゥービー・ブラザーズは、1972年にセカンド・アルバム トゥールーズ・ストリート(Toulouse Street) を発表。ここではメンバーのデイヴ・ショーグレン(b)が脱退し、代わりにタイラン・ポーターが加入。またリズム・セクションの強化のために二人目のドラマー、マイケル・ホザックも迎え入れられている。ともあれ同作からは“リッスン・トゥ・ザ・ミュージック”が彼らにとっての初ヒットとなり、またその曲に代表されるような爽やかな歯切れのよいサウンドが彼らの人気を決定付けることになった。

1973年にサード・アルバム キャプテン・アンド・ミー(Captain And Me) を発表。前作にも参加していたリトル・フィートのキーボード奏者、ビル・ペインが再び加わり、更にスティーリー・ダンのジェフ・バクスターもゲストとして参加している。同作は彼らの初期の代表作として名高い作品だ。印象的なギター・カッティングをフィーチャーした“ロングトレイン・ランニン”、“チャイナ・グローヴ”の二曲がヒット。トム・ジョンストンの手によるこの二曲のヒットは、ドゥービー・ブラザーズを西海岸のみならずアメリカを代表するバンドの一角に押し上げたのだった。

1974年に通算4作目となるアルバム ドゥービー天国(What Are Once Vices Are Now Habits) を発表。ここからは泥臭い南部テイストも感じさせる“ブラックウォーター”がじわじわとチャートを昇り、遂には彼らにとって初の全米ナンバーワンとなる楽曲となった。もともと同曲はシングル“アナザー・パーク”のB面曲だったが、この曲を気に入った南部のラジオ・ステーションがエアプレイし始めたことがきっかけで、全米へとその人気が波及していったのだった。

ドゥービー・ブラザーズは激しい入れ替わりをするグループだが、メンバー・チェンジはこの時点でもあった。前作ドゥービー天国 録音時に脱退したマイケル・ホザックに代わり、元リー・マイケルズ・バンドのドラマー、キース・ヌードセンが加入、また元スティーリー・ダンのジェフ・バクスターが正式メンバーとして加入している。ツイン・ドラムにトリプル・ギターという編成になった彼らは、1975年に通算5作目 スタンピード(Stampede) を発表。同作は予約だけでミリオン・セラーとなった作品で、よりスケールを増したサウンドを聴かせる一枚。“君の胸に抱かれたい”、“スウィート・マキシン”、“ハングマン”というシングル・ヒットも生まれた。

しかし順風満帆に見えたドゥービー・ブラザーズにここで大きな事件が起きた。リード・ヴォーカルとギター、グループの中心的な存在であるトム・ジョンストンが1975年夏のツアーの際に、腹痛で倒れその後のツアーへの参加が不可能になったのだ。しかし、ここで代わりに急遽加入したのがマイケル・マクドナルドだった。バクスターと同じくスティーリー・ダン出身の彼は、皮肉なことに後期ドゥービーズの顔ともいえるメンバーとなっていくのだった。

1976年発表の6作目ドゥービー・ストリート(Talin’ It To the Streets) は、早くもマクドナルドのカラーが押し出された作品となった。シングル・ヒットした表題曲はじめ、全体にギター中心のロック・サウンドからキーボードを中心とするマクドナルドのジャズ、R&Bスタイルへと移行し始めている。

1976年リリースのベスト盤 ベスト・オブ・ドゥービーズ(Best Of The Doobies) を経て、1977年には7作目のオリジナル・アルバム 運命の掟(Livin’ On The Fault Line)を発表。これは前作の路線を踏襲したもので、因みにトム・ジョンストンが正式メンバーとして参加した最後のアルバムとなった。

1978年に発表された ミニット・バイ・ミニット(Minute By Minute) で彼らはその活動の頂点を極めた。アメリカ国内だけでも発売後短期間に400万枚を売り上げるセールスとなったこのアルバムは、マイケル・マクドナルドケニー・ロギンスの共作となる“ある愚か者の場合”(全米1位)の大ヒットを生んだ。なお同曲は翌年発表のグラミー賞でレコード・オブ・ジ・イヤー、ソング・オブ・ジ・イヤーなど4部門を受賞するという栄誉にも輝いた。

ミニット・バイ・ミニットリリース直後にジョン・ハートマンとジェフ・バクスターが脱退。入れ替わりに元クローヴァーのジョン・マクフィー、ドン・ランディス・バンドに在籍したチェット・マックラケン、モビー・グレイプに居たコーネリアス・バンプスという3人の新たなメンバー加わった。このメンバーで1980年に発表されたのが ワン・ステップ・クローサー(One Step Closer) だった。しかし同作発表後のツアー直前にタイラン・ポーターが脱退している。

1982年7月末から9月にかけてドゥービー・ブラザーズは全米22ヵ所、計24回の公演を行う「フェアウェル・ツアー」を敢行。12年間に及ぶ活動に終止符を打った。このときのメンバーはパトリック・シモンズ、マイケル・マクドナルド、キース・ヌードセン、ジョン・マクフィー、チェット・マックラケン、コーネリアス・バンプスといったところに、タイラン・ポーターの後任、ウィリー・ウィークス、パーカッションのボビー・ラカインドを加えたもので、更にコンサート終了近くには特別にトム・ジョンストンが参加した。このフェアウェル・ツアーの模様は ドゥービー・ブラザーズ・フェアウェル・ツアー〜ライヴ(Doobie Brothers Farewell Tour)として1983年にリリースされた。

解散後、ドゥービーズのメンバー達はそれぞれソロ活動を展開していたが、1987年に突如ライヴのみで復活。そのライヴとはベトナム帰還兵の救済を目的としたチャリティ・コンサートだった。ドゥービーズに関わったメンバー総勢12名が顔を揃えた同イヴェントは一時的な、いわば同窓会的なものといえたが、しかしこのコンサート実現を機にドゥービー再結成、新作レコーディングという話が持ち上がり始めたのだった。

解散から7年を経た1989年にドゥービー・ブラザーズは遂に再結成を果たす。新たにキャピトルと契約した彼らは同年に サイクルズ(Cycles) を発表。メンバーは、トム・ジョンストン、パトリック・シモンズ、ジョン・ハートマン、タイラン・ポーター、マイケル・ホザック、ボビー・ラカインドだった。シングル“ザ・ドクター”をヒット(全米9位)させた彼らだったが、この後ボビー・ラカインドが脱退。しかし残る5人は1991年に、続く新作 ブラザーフッド(Brotherhood) を発表し(来日公演も実現)、バンド存続を強くアピールした。

この時期、バナナラマによる“ロング・トレイン・ランニン”のカヴァーが話題となったり、1993年にはベン・リーブランドによる同曲のオリジナル版のダンス・リミックスがヒットしたりと、ちょっとしたドゥービーズ・リヴァイヴァルが起こった。またリミックス版の“ロング・トレイン〜”を収録した ドゥービーズ・ベスト!(Listen To The Music) もリリースされたりした。それからやや話題が途切れたところへ1996年4月突如来日公演を行った彼らは、やはり同時期にDCトークによるドゥービーズ・カヴァー“ジーザス・イズ・ジャスト・オールライト”のヒットという追い風もあり、この後大掛かりな全米ツアーを敢行。その模様を収録した ロッキン・ダウン・ザ・ハイウェイ〜ザ・ワイルドライフ・コンサート(Rockin’ Down The Highway: The Wildlife Concert) を同年9月に発表している。

その後2000年にドゥービー・ブラザーズはスタジオ録音の新作 シブリング・ライヴァルリー(Sibling Rivalry) を発表。現在に至っている。

1971年のレコード・デビューから91年の20年間に残したオリジナル・アルバム12枚、そのトータル・セールスは4000万枚を既に超えているというドゥービー・ブラザーズ。初期の名作 キャプテン・アンド・ミー でのドライヴ感溢れるサウンドの魅力、またマイケル・マクドナルドが主導権を握った時期の名盤 ミニット・バイ・ミニット での成熟したソウル感覚。しっかりしたサウンド・プロダクションのもと、どちらもどこか彼ら独自の軽快な味わいを感じさせる。雰囲気的におっさんぽいロックじゃないの?と思っている人には、意外な感じがするかもしれないが、実はリズム・センスの良い意識的なこの辺りの往年の作品は、今聴いてもカッコよいと思える音なので、若いロック・ファンもぜひ一聴してみてはいかがだろう。

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