Django Reinhardt (ジャンゴ・ラインハルト)

Django Reinhardt (ジャンゴ・ラインハルト) プロフィール

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 フランスが生んだ最も偉大なジャズミュージシャンと言えば、異口同音にジャンゴ・ラインハルトの名前が挙がるに違いない。ギタリストとしての貢献に止まらず、作曲家として数え切れない名曲、しかも、パリのエスプリ溢れる作品を残している。ジャンゴの紡ぎだすメロディには、幼少のころの思い出や、火事になって不自由になってしまった指に対する悲しみ、そして、その不自由な指で彼だけにしか出来ない奏法を生み出すまでの血の滲むような努力が礎となっている。ジャンゴ・ラインハルトこそは、ジプシー・スイングのコンセプトをジャズと総合し、鑑賞音楽として認識されるに相応しいレベルに引き上げた稀有な存在だった。

 1920〜30年代、アメリカのチャーリー・クリスチャンと同時代に現われたJean Baptiste Reinhardtことジャンゴ・ラインハルトは1910年1月23日、ベルギーに生まれている。母、ローレンス“ネグロス”ラインハルトはダンサー、父、ジャン−ユージン・ワイスはヴァイオリンをはじめ様々な楽器を演奏する人だった。 初めに演奏したのはバンジョーで他にはヴァイオリンを手にした、ハンガリアン・ジプシーのメロディなどを演奏していたようで、ヨーロッパ独特の、様々な民族の音楽が絡まりあい混交していた。ジャンゴは「ジプシーキャンプ」の中で多くの仲間たちとセッションを重ね次第に一目置かれる存在となっていた。

 この時期、1928年ジャンゴの住んでいたキャラヴァンが火事となり、指を火傷したジャンゴは一年半をリハビリと、新しい奏法を編みだすのに費やす。この頃、1931年、初期のジャンゴを見出し、積極的に応援したジャン・コクトーはジャンゴにとって文化的なバックグラウンドとしても重要な存在だった。
 そして、このころジャンゴにとって永遠の盟友となるステファン・グラッペリとの出会いがある。グラッペリは、パリのキャバレーのヴァイオリニストであり、無声映画のピアニストとして演奏活動をしていた。 また、兄ジョセフとのコートダジュールでの仕事の時、彼等の音楽を気に入った、絵描きであり、写真家のエミール・サヴトリーの家で「ジャズ」に出合ったジャンゴは、これ以降ジプシー・ミュージックとジャズの融合を試みることになる。

 1932年、パリに戻ったジャンゴは、彼の人生の中でも特別の新しいページを歩みだすことになる。このころ、後にグループを組むことになるアルゼンチンのミュージシャン、ギターのオスカー・アルマンとも出会っている。そして、人気歌手ジャン・サブロンの伴奏者としてパリの有名クラブに出入りするようになり、絵画の“ゴヤ”になぞらえられたジャンゴは、1934年から「ホット・クラブ」での「席」を確保するようになり、様々なセッションを残している。
 1935年にはルイ・アームストロング、ベニー・カータ−、ビル・コールマン等、スイング時代の大御所と共演している。1934年から1935年にかけて遂にジャンゴは自己名義の録音を開始している。

 このころからパリを訪れるアメリカのミュ−ジシャンたちが最も共演したがるのはジャンゴになっていったという。コールマン・ホーキンス、ベニー・カーターを含めて多くのミュージシャンが来仏した。 当時、ジャンゴはユベール・ロスタンをフィーチャーしたベニー・グッドマン・スタイルのバンドでも並行して演奏している。

 1940年代に入り、ロスタンの代わりに様々なミュージシャンが行き来するが、基本的には「ヌーボー・クインテット・オブ・ホット・クラブ・デ・フランス」を旗印に活動を続け、1944年にはグレン・ミラー楽団のバンドメンバーとも録音をしている。戦争が終わった1945年12月、ビッグバンドでのコンサートを開いたジャンゴは、彼のキャリアの中でもひとつのピークを得ている。

 1946年、GIたちがパリを去り、スイング時代は終わりを告げた。クラブは閉鎖、BBC放送の依頼で「元のクインテット」を再結成、これにはグラッペリも参加している。その後、ジャンゴはデューク・エリントンとのアメリカ・ツアーを契約、1947年2月にはパリに戻り、再びビッグバンドで出演、さらに、11月にはクインテットを再結成するが、1948年、「ニューオリンズ・リヴァイバル」が起こり、ジャンゴは音楽的に苦境に立たされる。

 時はビバップの時代を迎えていた。ディジー・ギレスピーが大成功を収めるのもこの時期だった。一方のジャンゴはモーリス・メニエ、ユベール・ロスタンなどを入れ替えてクラリネット・クインテットを結成するが、時代はすでに彼のスタイルを『オールド・ハット』と決め付け始めていた。

 1950年代に入るとジャンゴは時代から取り残されるようになり、「次代」を担うユベール・フォル、モーリス・ヴァンデール、ピエール・ミシェロ、、マーシャル・ソラールら数少ない音楽的な信奉者とのセッションを行なって過ごしていた。

 1953年5月16日、ジャンゴはフランスジャズ史上最高のジャズミュージシャンとして、そしてマヌーシェを出自とする最高の音楽家としての実績を残して神に召されて行った。

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