Chet Atkins

Chet Atkins (チェットアトキンス) プロフィール

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「ギターの神様」の異名を持つチェット・アトキンス。ロカビリー・サウンドなどで聴かれるギャロッピング・ギター奏法の確立、カントリー・ギターの帝王、ファズやワウワウなどのエフェクター開発における発案者、RCAレーベルのエグゼクティヴにまで登り詰めたポピュラー音楽界の成功者….と彼の業績を挙げればその賛辞はより大きなものとなる。

ただ正直なところ、「世界一のフィンガーピッキング」を持つといわれた彼よりも、巧いギタリストは実際には結構居たし、またギャロッピング奏法にしても確立したのはチェット・アトキンスかもしれないが、そのオリジネイターということではマール・トラヴィスが挙げられるのが定説だ。しかしそれでも「ギターの神様」。チェットは幾つものジャンルを横断しながら、ジャズやクラシックで用いられるような技術もとことん追求していった。前述の異名は、広くポピュラー系音楽において、チェットが既に確立しているギター・サウンドのヴァリエイションを生かしながらジャンルを気楽に横断するという姿勢ではなく、むしろギターの鳴りそのものやその奏法に対して真摯なアプローチをしていった末に与えられた賞賛なのではないだろうか。その中でも大きな成果である「ギャロッピング奏法」はエルヴィス・プレスリーのバンドのギタリスト、スコッティ・ムーアに受け継がれ、その後広くロック界に伝播していったのはよく知られたところである。

チェット・アトキンスは1924年6月20日、テネシー州に生まれた。チェットの家庭は一般に「プア・ホワイト」と呼ばれる白人の低所得者層に属していた。面白いことに彼が初めて触れた楽器はギターではなかったという。幼いチェットは、上の兄に勧められてフィドルをまず手にしている。しかし9歳になる頃までには、やはりギターに興味を持ち、それを手にした彼は、後の偉大なるギタリストとしての一歩を踏み出したのだった。その後チェットは急速にギター奏法を学んでいき、1941年にハイスクールを卒業する頃までには、かなりの腕前になっていたという。

やがてチェットはさまざまな手を尽くし、地元テネシー州のノックスヴィルの放送局で配信されていたラジオ番組「ビル・カーライル・ショウ」に出演する機会を得る。これはディキシー・スイングスの一員という形で、だった。またこの仕事の間にチェットは、ホーマー&ジェスロ――ホーマー・ヘインズ(vo, g)とジェスロ・バーンズ(mandolin, vo)――らと仕事をしている。そしてその三年後、チェットはシンシナティのラジオ局に移り仕事をするようになった。

その後チェットは仕事を求めて各地のラジオ局を転々としていった。1946年、チェットは、自分より7つ年上のカントリー歌手レッド・フォーリーの助力もあって、現在でも続く長寿カントリー番組 Grand Ole Opryに初出演を果たす。そして同年に初めてのレコーディングも経験している。またこの頃チェットは、ヴァージニア州リッチモンドのラジオ局でのレギュラーを獲得するが、ラジオ局のお偉方が期待するものとは異なるアレンジメントを施したことがもとで、何度かレギュラーを降ろされたとも言われている。結局、その後チェットはミズーリ州スプリングフィールドのラジオ局で働くことになるが、このときのチェットのパフォーマンスを収録したテープが、シカゴのRCAレコード・オフィスに渡る。そしてそのテープを聴いたのが、RCAのカントリー部門プロデューサー、スティーヴ・ショールズだった。ショールズはそれ以前にチェットのパフォーマンスを聴いたことがあり、それ以来数年間、彼を探していたという。ともあれ既にコロラド州デンヴァーに移っていたチェットは、RCAからの連絡を受け、レコーディングのためナッシュヴィルに移住することになった。

1949年、スティーヴ・ショールズは、RCAスタジオでのセッションに、チェットをスタジオ・ミュージシャンとして雇うことにした。その後のRCAナッシュヴィルでのチェット・アトキンスの仕事は目を見張るものだった。彼は数々のヒット・レコードでプレイを聴かせたほか、ナッシュヴィル・サウンドの流行に大きな貢献を果たした。

こうしたチェット・アトキンスの50年代の仕事ぶりは高く評価され、彼は遂にレーベルのマネージメントの重要な部分を担うという大役をも手にすることになった。1957年にショールズがRCAポップ部門A&Rのトップを務めるためニューヨークへ旅立った後、RCAナッシュヴィルのマネージメントをチェットが務めることになったのだ。そしてチェットが仕切るRCAは、エルヴィス・プレスリーをはじめとするヒット・レコードの数々を生み出していく。しかしながら一方で、チェットは音楽家としての顔も捨てなかった。60年代初頭にはニューポート・ジャズ・フェスティヴァルやホワイト・ハウスで行われた演奏会にも出演。また1965年には彼にとって初めてのトップ5シングルとなる、“Yakety Axe”(ブーツ・ランドルフの“Yakety Sax”をリメイクしたもの)というヒットを放っている。

その後、60年代後半から70年代初頭にかけても幾つかのマイナーヒットは飛ばしていたチェット・アトキンスだが、1970年から72年の間までは、旧知のホーマー&ジェスロとともに、ナッシュヴィル・ストリング・バンドというトリオで5枚のアルバムをリリース。地味ながら70年代もレコーディング、作品作りを続けていた。

そんなチェットに転機が訪れるのは80年代に入った頃のこと。チェットはジャズ・アルバムを制作しようとするが、これがレーベル側の反対に遭い、結局1982年に古巣のRCAを離脱。その後はコロンビア・レーベルに移籍して作品を発表していった。

コロンビア・レーベルに移籍してからもコンスタントに作品を作り続け、マーク・ノップラージェリー・リードと競演アルバムを発表したりもしていたチェット・アトキンスだが、そんな彼の活動は残念ながら1997年で止まった。同年チェットは腫瘍を脳から摘出するという大手術を受け、その後は闘病生活を強いられていたが、2001年6月30日、地元ナッシュヴィルで息を引き取ったのだった。享年77歳だった。

たった一本のギターを駆使し、親指でベースラインを弾きつつ、リズム、コード感、メロディを奏でるというチェット・アトキンス一流のギャロッピング・ギター。そしてそうした技術を、いち音楽家として最大限にまで追求しながら、カントリーとポップ、あるいはジャズにまで通用するクロスオーヴァーな活躍を果たしたチェット・アトキンス。彼はまさに後世にまで名を残すべき偉大なるギタリストだった。

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