Brian Wilson

Brian Wilson (ブライアン・ウィルソン) プロフィール

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ブライアン・ウィルソンの現在の歌声には彼の人生そのものがある、といっても言い過ぎではないかもしれない。60年代にビーチ・ボーイズのメンバーとしてデビュー。サーフィンなどを題材としたユニークな音楽を作り続け、60年代半ばに音楽的な天才としてのブライアン・ウィルソンは、ライバル、ビートルズ作品の芸術性の高さにプレッシャーを受けながら、それに対抗すべく自信を持って作り上げた『ペット・サウンズ』を発表した。しかしそのセールスは不振、またこの「先を行き過ぎていた作品」は周囲に理解されず、その後のアルバム『スマイル』は未完成に終わり、幻となった。その辺りの事情や創作上の煮詰まりに端を発するドラッグ禍にブライアン・ウィルソンは深く陥っていったが、その後よろよろとではありながら周囲の人物にも助けられながら音楽界へと復帰してきている。更に言えば現在では完全にシーンに復活を果たしたといっていいだろう。彼の現在の歌声を聴くとき、ファンはこうした経緯を思い起さずにはいられない。

ブライアン・ダグラス・ウィルソンは1942年6月20日、カリフォルニア州ホーソンで生まれた。 ブライアンはマレー&オードリー・ネヴァ・ウィルソン夫妻の長男で、デニスとカールという兄弟がいた。彼らは後にビーチ・ボーイズのメンバーとなる。父マレーは作曲家として働いており、ウィルソン家はいわゆる音楽一家だった。ブライアン・ウィルソンの自叙伝によれば、彼が音楽に目覚めたのは、生後間もなくのことであったという。生後11ヶ月のときに両親の歌う“マリーン・コープス・ヒム”という歌に合わせて、 ブライアンはハミングし両親を喜ばせたといわれている。もっと意識的に音楽の素晴らしさを受けとったのは、 ブライアンが二歳のとき。祖母の家で聴いたジョージ・ガーシュインの“ラプソディ・イン・ブルー”で、 ブライアンは音楽に開眼したのだと本人は回想している。しかしこのころまでは比較的音楽に対して純粋な喜びを見出していたブライアンだが、彼の悲劇的なところは思春期を迎えた頃には、音楽は逃避の手段とも裏合わせだったところだ。父マレーは今でいうところの虐待の気のある父親であった。マレーは子供達、特にブライアンに精神的、肉体的なダメージを加えたりもした。そんなブライアンの心が幸せになれるときがピアノを弾いているとき。彼はくる日もくる日もそんな父親、現実から逃避するかのようにピアノを弾き続けていった。

そんな中、 ブライアンは自分の人生を変える啓示のようなレコードに巡り遭う。カー・ラジオから何気なく流れてきたフォー・フレッシュメンの“デイ・バイ・デイ”。その曲がすごく気に入ったブライアンは彼らのアルバム『フォー・フレッシュメン&ファイヴ・トロンボーンズ』を買い、その音楽からたいへんな影響を受けたのだった。高校に入る頃になると、 ブライアンはいとこのマイク・ラヴ、クラスメイトのアル・ジャーディン、弟のカールとともに自宅でリハーサルを行うようになる。4パート・ハーモニーを重ねた彼らの歌は当時から特別なものだったとブライアンは回想する。

1961年10月3日、ケニー&カデッツ、ペンデルトンズなどと名乗って活動していた(デニスを加えた)5人組の彼らは、ハイト&ドリンダ・モーガン夫妻の経営するレーベルに、 ブライアンとマイクが書いたオリジナル曲“サーフィン”を吹き込んだ。ハイト・モーガンはキャンディックス・レーベルにこの録音を持ち込み、リリースが決定。名前はこのとき会社の提案で「ビーチ・ボーイズ」となった(既に録音時のテスト盤に書いてあったともいわれる)。“サーフィン”はローカル・ヒットに終わったが、マネージャーとしてグループを支えた(プレッシャーをかけた)

父マレー・ウィルソンの働きかけもあって、ビーチ・ボーイズは1962年4月、大手のキャピトル・レコードと契約を結んだ。そしてビーチ・ボーイズはサーフィン、クルマ、女の娘、降り注ぐ西海岸の陽光、といったイメージの歌を数多くヒットさせ、アメリカを代表するバンドとなったのだった….で終わればめでたしといわけだが、そうはならなかったところがビーチ・ボーイズの、いやブライアン・ウィルソンの注目すべきところだった。詳述するスペースはないが、ビートルズ(レノン&マッカートニー)にソングライティングや創造性の点で危機感を抱いたブライアン・ウィルソンは、グループを取り囲む状況や、周囲のメンバーとは浮いた状態で作り上げた孤高の名作『ペット・サウンズ』 を制作。そしてそのセールス不振やドラッグなどの影響で、ブライアンは精神的な危機に追い込まれ、一時期は音楽業界への復帰すらあやぶまれる状態となっていったのだった。しかし現在では比較的コンスタントに作品を発表するようになっており、ブライアン・ウィルソンはいつになく充実した音楽への取り組み方で活動を行っているようだ――2001年現在までのソロ作を挙げると、1988年の『ブライアン・ウィルソン』、1995年同名フィルムのサントラ 『駄目な僕』(I Just Wasn't Made For These Time) 、1998年の『イマジネイション』がリリースされており、その他では元々ヴァン・ダイク・パークスの作品だった共同作品『オレンジ・クレート・アート』、当初インターネットのみの発売だったライヴ盤 『Live At Roxy』がある。
追記
2004年には『イマジネイション』から6年ぶりとなる『ゲッティン・イン・オーヴァー・マイ・ヘッド』をリリース。また未発表に終わった『スマイル』を録音し直してリリースするめども立っている。

ビーチ・ボーイズ、あるいはブライアン・ウィルソンに影響を受けたミュージシャンは数限りない。ただ『ペット・サウンズ』に代表されるブライアン・ウィルソン作品にある繊細かつ内省的なムードが意識され広く受け入れられたのは、比較的最近のこと。60年代のビーチ・ボーイズとほぼ同時代に活躍したものの最近になって発掘され知名度を上げる事になったトニー・リヴァース率いるハーモニー・グラス サマーワインクリス・ホワイトクリス・レインボウ、ギデア・パークなどのハーモニー・ポップの人達。あるいは最近のグループでは奇才・ショーン・オヘイガン率いるハイ・ラマズなど。これらのアーティスト達は一部を除いていずれも90年代になってからビーチ・ボーイズ・フォロワーとして注目を集めたのは記憶に新しい。それはソフト・ロックの再評価やペット・サウンズと幻の作品『スマイル』辺りの大きな再評価が起きたことがきっかけとなっていた。

冒頭で触れたようにブライアン・ウィルソンの現在の歌声には、彼の人生が詰まっていて、聴く者を否応なしに惹き込む。高音部でやや不安定になるところは否めないし、かといって低音に安定感のある「いぶし銀」というのとは異なるが、その歌声の質感には何か確固たる重さ、本当に大事なもの、イノセントに歌に向かうものだけが有することができる切羽詰った歌表現が聴き取れる。たとえがおかしいかもしれないが、ピカピカとした真新しい金属の輝きとは別種の、使い込まれあちこちにぶつけられ続けた金属だけが持ちうる、リアルな本物の輝き。鈍く光ってはいるが、そうした輝きにしか出せない美しさや重厚さ。そうしたものをブライアン・ウィルソンの歌声からは連想してしまう。そして60年代のブライアン・ウィルソンの歌声同様に、そのような現在ならではのブライアン・ウィルソンの声も等しく愛しい、ということにはファンには同意してもらえるのではないだろうか。

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