CD 輸入盤

ディミトリ・ミトロプーロスの芸術〜ライヴ・レコーディングス・ウィズ・ニューヨーク・フィルハーモニック(19CD)

基本情報

ジャンル
:
カタログNo
:
SC836
組み枚数
:
19
レーベル
:
:
Europe
フォーマット
:
CD
その他
:
輸入盤

商品説明


ディミトリー・ミトロプーロスの芸術(19CD)
ライヴ・レコーディングス with ニューヨーク・フィルハーモニック


ヒストリカル系レーベル、スクリベンダムから往年のギリシャ人指揮者ミトロプーロスのニューヨーク・フィル・ライヴ録音ボックスが登場。マーラーの交響曲第1番、第3番、第5番、第6番、第9番、第10番、ストラヴィンスキー「火の鳥」、ベートーヴェン「英雄」(2種)と第1番、第8番、R.シュトラウス「アルプス交響曲」、「家庭交響曲」、「ドン・ファン」、「死と変容」、「影の無い女」交響的幻想曲、ダンディ「ヴァレンシュタイン」、ヒンデミット「世界の調和」、そしてヴェーベルン「パッサカリア」など実演のミトロプーロスの魅力を伝える録音が多数収録されています。

 ディオニュソス的芸風

ミトロプーロスのプロとしての最初の固定給仕事は、1922年9月にシュティードリーとブゾーニの推薦で契約できたベルリン国立歌劇場のコレペティートア(助手)というものでした。
  戦争や進路変更のせいで、26歳になってもまだブゾーニのもとで勉強中だったミトロプーロスは、上司の第1指揮者フリッツ・シュティードリーのもとでさまざまな実務をこなし、1年後には契約を更新、オーケストラのリハーサル指揮や、本番でのピアノ演奏なども任されるようになり、すでに「コレペティートア」の枠を超えた存在になっていました。

  その実務上の恩師とも言えるフリッツ・シュティードリーは、マーラーの弟子でシェーンベルクの仲間ともいえる人物ですが、彼はベルリン国立歌劇場のミトロプーロスとジョージ・セルについて、「2人は昼と夜ほども違う」としてこう語っています。

「一方は首から上、もう一方は首から下」

冷静でアポロ的なジョージ・セルと、情熱的でディオニュソス的なミトロプーロスという対比なのでしょうが言いえて妙です。
  ちなみにミトロプーロスが早くから熱心にマーラーと新ウィーン楽派作品に取り組んでいたのは、そのシュティードリーの影響と考えられますし、ブゾーニをよくとりあげたのもやはり恩師への感謝の気持ちでしょう。
  そしてミトロプーロスのディオニュソス的なスタイルが特に成功したマーラーでの解釈は、バーンスタインなど多くの指揮者に影響を与えることになります。


 暗譜

ミトロプーロスは作品を徹底的に研究・咀嚼し、独自の記憶法で暗譜することでも知られています。
  トスカニーニも絶賛したというその記憶内容には、練習番号やページ番号、小節番号まで含まれるというから驚きです。ミトロプーロスの勉強風景を目撃した人の情報では、小さなメモ用紙を何枚も使った一種の記憶術のようなものということですが、何であれ驚異的なことに違いはありません。ベルクの「ヴォツェック」のような複雑で記譜情報も膨大な作品まで暗譜でしたので。


 指揮

ミトロプーロスは、作品を暗譜すると、本番(とリハーサル)で全身を使ったダイナミックな動作によって楽員(と聴衆)に向けて作品情報を伝えます。
  ときにうずくまったり高く飛び上がったり、楽員の間を歩き回ったりしてコンサートの聴衆を驚かせたりもしたようですが、遺されたライヴ音源を聴くと、どれも個性豊かな演奏なので、ミトロプーロスの極端な方法が効果的だったことがわかります。

  ミトロプーロスは初期には指揮棒を使ったり使わなかったりしましたが、1933年からは指揮棒を使わなくなっています。
  しかし1954年にメトロポリタン歌劇場の首席指揮者になってからは、オーケストラピットから歌手に指示を出すには指揮棒があった方が良いということで、以後は指揮棒を使うようになっています。前年に最初の心臓発作に襲われ、医師から体を酷使することを控え、指揮棒を使うように勧められたことも理由のひとつです。
  つまりミネアポリス響時代[1938-1948]は全期間が指揮棒無し、ニューヨーク・フィル時代[1949-1958]は5年目から指揮棒ありということになります。


 弾き振りで得た世界的名声

1924年の春にベルリンからアテネに戻ったミトロプーロスは、地元のオケを指揮したり、教えたりして過ごしていましたが、1930年にベルリン・フィルに客演できることになります。
  曲目は、自作のコンチェルト・グロッソ、デュカスの交響曲、そしてエゴン・ペトリ[1881-1962]の弾くプロコフィエフのピアノ協奏曲第3番というもので、要するにエゴン・ペトリがメインということでした。
  しかし、直前になってペトリがキャンセルしてきたため、ほかのピアニストにも打診するものの急なことで引き受け手がおらず、結局、ミトロプーロスが弾き振りをすることになり、これがベルリンの聴衆に衝撃を与えることになります。
  以後、ミトロプーロスは客演の際にはこの弾き振りをプログラムに組み込むようになり、一度弾いたところでは、次のシーズンの依頼が入ることも多く、さらに客演要請は続々と届き、リオデジャネイロや東京などの遠方からの要請には応じられない多忙な状況が続きます。
  そしてこのミトロプーロスの成功に複雑な思いを抱いていたのが作曲者のプロコフィエフ本人です。プロコフィエフは優れたピアニストでもあり、自作の演奏をすることで著作権料と演奏報酬の両方を得ており、それが大きな収入にもなっていました。
  演奏回数が増えたのは著作権料面では良いものの、自分の出番が減ってしまったのは少し残念だったようで、1932年にパリ公演を聴いた際には、友人に向かって「ミトロプーロスにすっかりやられてしまったよ。私は自分のために別の協奏曲を書かなければならないようだ。」と語っています。もっとも、すでにその頃にはピアノ協奏曲第5番を作曲中で、夏には完成して同年10月に自身のピアノとフルトヴェングラー指揮ベルリン・フィルの演奏で初演しています。


 クーセヴィツキー

ミトロプーロスのアメリカ・デビューのきっかけもプロコフィエフの弾き振りです。すでにドイツ、フランス、イタリア、ベルギー、モナコ、ポーランド、セルビア、ソ連などで成功を収めていたミトロプーロスですが、その模様は、ピアノ協奏曲第3番の楽譜を出版していた「ロシア音楽出版社」の経営者でもあるクーセヴィツキーにも知らされていました。ミトロプーロスに興味を持ったクーセヴィツキーは、自身が音楽監督を務めるボストン交響楽団に客演するよう要請し、1936年1月にミトロプーロスが渡米します。
  そしてこのクーセヴィツキーによる招聘がきっかけになって、ミトロプーロスのキャリアが本格的に花開き、そして学生だったバーンスタインも自分をミトロプーロスに売り込むことに熱中するようになっていくのです。
  もっとも、当のクーセヴィツキー本人は、ミトロプーロスのことを現地新聞などが書き立てた際に自分のことを揶揄されたのが面白くなかったのか、翌1937年の再客演以降は1944年まで客演話はありませんでした。
  そしてそうしたミトロプーロスのボストンやミネアポリス、ニューヨークでの成功により、1946年2月のライフ誌では、ミトロプーロスの紹介記事が5ページに渡って掲載され、その内容にクーセヴィツキーが激怒。楽団側が決めていた同年12月のミトロプーロスのボストン交響楽団への客演を妨害し、キャンセルさせてしまいます。
  原因は、ミトロプーロスのボストン響客演の成功にクーセヴィツキーが嫉妬していたなどという記者の文章でした。また、そこに掲載されていた水泳パンツ姿で日光浴用ランプの光を浴びる写真なども真面目なクーセヴィツキーを刺激した可能性があります(南欧人のミトロプーロスにはカナダ国境に近いミネアポリスの冬は太陽が弱すぎたということなのですが)。
  クーセヴィツキーはもともと、不倫を問題視したボストン市議会議員の告発によって契約を打ち切られたピエール・モントゥーの後任として選ばれた人物であり、道徳的なスキャンダルには過敏に反応する傾向があったようで、自分で委嘱したオペラ「ピーター・グライムズ」についても、作曲者のブリテンが同性愛者だったことを後から知って困惑するほどでした。そして、ボストン響の周りに同性愛の音楽家が多いことを嘆いてみせてもいました。要するにモラル重視の資産家後援者たちの機嫌を損ねないよう必死だったということです。
  ともあれ、このクーセヴィツキーの1936年の招聘のおかげでアメリカを拠点にする生活に切り替わったので、やはりクーセヴィツキーの存在は有難いものでした。ギリシャは1941年にはドイツに占領されて略奪され、翌年にかけて30万人が餓死するなど大変なことになっていたので。


 収録情報

CD1
●ベルリオーズ:序曲「ローマの謝肉祭」
  1 April 1951

●ベルリオーズ:歌劇「ベンヴェヌート・チェッリーニ」序曲
  26 April 1956 or 1953?

●ショーソン:交響曲変ロ長調 Op.20
  29 August 1943, Carnegie Hall, NEW YORK

●マーラー:交響曲第10番嬰ヘ長調〜プルガトリオ
  16 March 1958, Carnegie Hall, NEW YORK

●フランク:「交響的変奏曲」
  19 April 1953, NEW YORK

CD2
●マーラー:交響曲第1番 ニ長調「巨人」
  9 January 1960, Carnegie Hall, NEW YORK City

●マーラー:交響曲第10番 嬰ヘ長調よりアダージョ
  16 March 1958 or 17 January 1960, Carnegie Hall, NEW YORK

CD3
●マーラー:交響曲第3番 ニ短調
  Beatrice Krebs, contralto; The Westminster Choir
  15 April 1956, Carnegie Hall, NEW YORK

CD4
●マーラー:交響曲第5番 嬰ハ短調
  2 January 1960, Carnegie Hall, NEW YORK

CD5
●マーラー:交響曲第9番 ニ長調
  23 January 1960, Carnegie Hall, NEW YORK

CD6
●ドビュッシー:「イベリア」
  7 February 1954, Carnegie Hall, NEW YORK

●ラロ:「スペイン交響曲」 Op.21
  ジノ・フランチェスカッティ(ヴァイオリン)
  3 April 1955, Carnegie Hall, NEW YORK

●ストラヴィンスキー:組曲「火の鳥」 (1919)
  29 August 1943, Carnegie Hall NEW YORK

●ラフマニノフ:「ヴォカリーズ」
  8 May 1955, Orpheum Theatre, Seattle

CD7
●シェーンベルク:ペレアスとメリザンド Op.5
  29 October 1953, Carnegie Hall, NEW YORK

●ヴォーン・ウィリアムズ:交響曲第 4 番 ヘ短調
  05 April 1953, Carnegie Hall, NEW YORK

CD8
●ブラームス:交響曲第3番 ヘ長調 Op.90
  20 April 1952, Carnegie Hall, NEW YORK

●ブラームス:交響曲第4番 ホ短調 Op.98
  15 November 1953, Carnegie Hall, NEW YORK

CD9
●シューマン:交響曲第1番 変ロ長調 Op.38「春」
  15 November 1953, Carnegie Hall, NEW YORK

●R.シュトラウス:「アルプス交響曲」 Op.64
  23 November 1947, Carnegie Hall, NEW YORK

CD10
●ヴェルディ:歌劇「運命の力」序曲
●ベートーヴェン:交響曲第3番 変ホ長調 Op.55「英雄」
●スカルコッタス:4つのギリシャ民謡舞曲
  1&2 October 1955, Orpheus Hall, ATHENS

CD11
●マーラー:交響曲第6番 イ短調
  10 April 1955, Carnegie Hall, NEW YORK

CD12
●ボロディン:「中央アジアの草原にて」
  19 April 1953, NEW YORK

●スクリャービン:交響曲第4番「法悦の詩」 Op.54
  19 April 1953, NEW YORK

●ラフマニノフ:「交響的舞曲」 Op.45
  29 January 1950?

●ヴェーベルン:パッサカリア Op.1
  23 January 1960, Carnegie Hall, NEW YORK

CD13
●モーツァルト:交響曲第39番 変ホ長調, K.543
  22 April 1951, Carnegie Hall, NEW YORK

●チマローザ:「美しいギリシャ(予期せぬ結婚)」序曲
  21 February 1954

●モーツァルト:「魔笛」序曲
  2 February 1958

●モーツァルト:「フィガロの結婚」序曲
  12 April 1953 or 2 February 1958

●モーツァルト:「イドメネオ」序曲 (編曲:ブゾーニ)
  28 December 1941

●ハイドン:交響曲第100番 ト長調「軍隊」
  4 November 1956, NEW YORK

CD14
●R.シュトラウス:「家庭交響曲」 Op.53
  23 April 1950, NEW YORK

●R.シュトラウス:交響詩「死と変容」 Op.24
  2 December 1956, Carnegie Hall, NEW YORK

●バーバー:「メディアの瞑想と復讐の踊り」 Op.23a
  16 March 1958, Carnegie Hall, NEW YORK

CD15
●ベートーヴェン:交響曲第1番 ハ長調 Op.21
  31 January 1954, Carnegie Hall, NEW YORK

●シューマン:「序曲、スケルツォとフィナーレ」 Op.52
  11 March 1951

●R.シュトラウス:交響詩「ドン・ファン」 Op.20
  26 October 1956

●R.シュトラウス:交響曲的幻想曲「影のない女」
  11 February 1954

CD16
●ベートーヴェン:交響曲第3番 変ホ長調 Op.55「英雄」
  11 December 1949, Carnegie Hall, NEW YORK

●ブラームス:「大学祝典序曲」 Op.80
  9 February 1958, Carnegie Hall, NEW YORK

●コープランド:「アパラチアの春」
  7 February 1954, Carnegie Hall, NEW YORK

CD17
●ベルリオーズ:「幻想交響曲」
  14 April 1957, NEW YORK

●シェーンベルク:「期待」 Op.17
  ドロシー・ダウ(ソプラノ)
  18 November 1951

CD18
●ベートーヴェン:交響曲第8番 ヘ長調 Op.93
  5 May 1957, Carnegie Hall, NEW YORK

●ゴードン・シャーウッド:「序奏とアレグロ」
  5 May 1957, Carnegie Hall, NEW YORK

●ヒンデミット:交響曲「世界の調和」
  25 December 1953

CD19
●ウェーバー:交響曲第1番 ハ長調 Op.19
  1 April 1951, Carnegie Hall, NEW YORK

●ダンディ:交響詩「ヴァレンシュタイン」 Op. 12
  14 April 1950, Carnegie Hall, NEW YORK

●ヒナステラ:「クレオール舞曲」
  24 February 1952 (1957?), Carnegie Hall, NEW YORK

●グアルニエリ:「プロローグとフーガ」
  16 March 1958, Carnegie Hall, NEW YORK

ニューヨーク・フィルハーモニック交響楽団
ディミトリー・ミトロプーロス(指揮)



 年表

18961897189818991900190119021903190419051906190719081909191019111912191319141915191619171918191919201921192219231924192519261927192819291930193119321933193419351936193719381939194019411942194319441945194619471948194919501951195219531954195519561957195819591960

 1814年

◆9月、秘密結社「フィリキ・エテリア」、ロシア帝国ウクライナの港湾都市オデッサで結成。ギリシャ移民の3人の商人により、ギリシャの解放を目的として発足したもので、商人を中心に次第に規模を拡大。ギリシャは1453年のコンスタンティノポリス(現イスタンブル)陥落以来、約360年間もオスマン帝国に統治されていました。

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 1818年

◆秘密結社「フィリキ・エテリア」、本拠地をオデッサからコンスタンティノポリスに移転。

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 1820年

◆4月、軍人のアレクサンドル・イプシランティスが秘密結社「フィリキ・エテリア」の指導者に選出。

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 1821年

◆3月、ギリシャ独立戦争勃発。まずダニューブ公国(ルーマニアの前身的地域)で蜂起するもののすぐに鎮圧。され、はん

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統治国オスマン帝国の国力衰退を好機と捉えての挙兵で、のちにイギリス、フランス、ロシアの支援も受けて9年間に及ぶを受け斜陽を
 1830年

◆2月、ギリシャの独立がロンドン議定書により承認。

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 1832年

◆6月、ギリシャを王国として独立させることが新たなロンドン議定書により決定。

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 1833年

◆2月、初代ギリシャ国王に、バイエルン王国の王子オットーがオトン1世として即位。列強による人選でした。
◆ギリシャ王国が成立。国内人口は約90万人。このときの議定書では、テッサリア、イピロス、マケドニア、トラキアなどがまだギリシャに含まれておらず、それら国外に居住するギリシャ人の人口は約200万人と国内の倍以上でした。これにより、ギリシャとオスマン帝国の間には争いの火種がくすぶり続けることになります。

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 1834年

◆ギリシャ王国の首都がアテネに決定。当時のアテネの人口は約3万人、ギリシャの人口は約200万人。以前の首都はナフプリオン。

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 1862年

◆2月、ギリシャで革命勢力が蜂起。運動は、かつての首都ナフプリオンから、サントリーニ島、イドラ島、トリポリ、メセニアへと拡大するものの、3月末には政府により鎮圧。
◆10月、ギリシャで革命勢力が蜂起。運動は、西部のボニッツァ、メソロンギ、パトラスと拡大し、6日後にアテネに到達。オトン1世を追放し、新しい君主を選出するために議会を召集。オトン1世はイギリス軍艦HMSスカイラに保護されます。

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 1863年

◆2月、ギリシャ国王にデンマーク王国の王子ヴィルヘルムがゲオルギオス1世[1845-1913]として即位。ロンドン議定書では列強の王族による継承を禁じていましたが、イギリスとの関係強化を望んでいたギリシャは、国民投票(24万票)まで実施し、イギリスのヴィクトリア女王の次男でエディンバラ公のアルフレッドが95%の票を集めるという国民の意思を示しましたが、ヴィクトリア女王は拒否。結局、イギリスと列強が、デンマークの王子を選出して即位が決定しています。

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 1864年

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 1893年

◆12月、ギリシャ、国家破産を宣言。

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 1896年(0歳)

●3月1日、ディミトリス・ミトロプーロス、アテネに誕生。ユリウス暦では2月18日(ギリシャは1924年に現在のグレゴリオ暦に変更)。革製品を扱う店などを経営する父ヤニスはアルカディア地方の出身。曽祖父も祖父も司祭で、父ヤニスの弟2人もアトス山の聖職者という家系。そして母アンゲリキも信心深く敬虔という環境でしたが、家庭内では音楽会が開かれるなど、両親ともに音楽に理解があり、ミトロプーロスも早くから音楽に関心を示し、イタリアのピアニスト、アキレア・デルブオノからレッスンを受けていました。
  母からディミトラキスと呼ばれていた子供時代のミトロプーロスは、友人を集めて宗教的な儀式のまねごとをしあたり、慈善活動のまねごととして貧しい人に衣服や靴などを与えたりしていたということで、宗教的な環境の影響は大きそうです。
  当時のギリシャ王国の面積は、64,790kuで、人口は約200万人(現在は131,957kuで1,042万人)。ちなみに1896年の東京府の人口は約190万人でした。


◆4月6日、第1回近代オリンピック大会、アテネで開始。


◆5月、オスマン帝国軍がクレタ島のキリスト教徒を虐殺。ギリシャは艦隊を派遣して対抗。列強各国はクレタの自治化を提案するもののオスマン帝国は拒否。クレタ島の面積は8,303km²で、東京・神奈川・埼玉を合わせたくらいの広さ。

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 1897年(0〜1歳)

◆2月、ギリシャ=トルコ戦争勃発。クレタ島領有をめぐる戦争。
◆12月、ギリシャ=トルコ戦争終結。イスタンブールで和平条約締結。ギリシャが敗北するもののクレタ島の自治を獲得。

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 1898年(1〜2歳)

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 1899年(2〜3歳)

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 1900年(3〜4歳)

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 1901年(4〜5歳)

●ミトロプーロス、小学校に入学。
◆9月、現代ギリシャ語版聖書が出版。これは、病院を寄付するなど慈善活動に熱心だったオルガ王妃の支援によるものでした。オルガ王妃は、ギリシャ正教会の旧約聖書と新約聖書が、古典ギリシャ語で書かれているために一般人が読めないという状況を改善するため、現代ギリシャ語版聖書を出版しますが、正教会の許可を得ていなかったことから関係者の怒りを買ったというものでした。
◆11月、現代ギリシャ語版聖書の発行に怒ったギリシャ人がアテネで暴動。警察により鎮圧されますが、死者8人、負傷者70人以上という被害が発生。これは、病院を寄付するなど慈善活動に熱心だったオルガ王妃の行動が原因でした。オルガ王妃は、ギリシャ正教会の旧約聖書と新約聖書が、古典ギリシャ語で書かれているために一般人が読めないという状況を改善するため、現代ギリシャ語版聖書を出版しますが、正教会の許可を得ていなかったことから関係者の怒りを買ったというものでした。

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 1902年(5〜6歳)

●ミトロプーロス、木の笛を彫って演奏。
●ミトロプーロス、小学校に在学。

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 1903年(6〜7歳)

●ミトロプーロス、小学校に在学。

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 1904年(7〜8歳)

●ミトロプーロス、小学校に在学。

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 1905年(8〜9歳)

●ミトロプーロス、小学校に在学。

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 1906年(9〜10歳)

●ミトロプーロス、小学校に在学。

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 1907年(10〜11歳)

●ミトロプーロス、小学校を卒業。
●ミトロプーロス、ヴァルヴァケイオ学校に入学。家庭教師からフランス語とドイツ語を学び、ピアノのレッスンも継続していましたが、毎週のように土曜日の午後には、ミトロプーロス家で仲間を集めて音楽会を開催。彼が司会と指揮を務めたほか、ヴァイオリン・ソナタや室内楽、声楽曲など自作曲の発表もおこなうなどしていました。また、ミトロプーロスは、詩やギリシャ劇、哲学、神秘主義にも熱中していました。

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 1908年(11〜12歳)

●ミトロプーロス、ヴァルヴァケイオ学校に在学。

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 1909年(12〜13歳)

◆8月、ギリシャ軍将校たちによるクーデター。これによりヴェニゼロス政権が樹立。
●ミトロプーロス、ヴァルヴァケイオ学校に在学。

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 1910年(13〜14歳)

●ミトロプーロス、ヴァルヴァケイオ学校を卒業。
●ミトロプーロス、アテネ音楽院に入学。音楽理論とピアノなど勉強。理論はフィロクティス・イコノミディスに師事。


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 1911年(14〜15歳)

●ミトロプーロス、アテネ音楽院を退学。父ヤニスの意向に従ったものでした。ヤニスは息子に弁護士か海軍士官になって欲しかったのだとか。


●ミトロプーロス、アテネ大学に入学。法学部で勉強するもののカリキュラムが嫌だったようです。


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 1912年(15〜16歳)

●ミトロプーロス、アテネ大学を退学。数か月での退学。父も諦めます。
●ミトロプーロス、退学後、叔父たちのいた女人禁制のアトス山の修道会に滞在したと考えられています。


◆3月、バルカン同盟が発足。ロシア帝国の主導により、ギリシャ王国、ブルガリア王国、モンテネグロ王国、セルビア王国の4か国が加盟。オスマン帝国の弱体化により勢力を増していたオーストリア=ハンガリー帝国に対抗する目的もありました。
●夏、ミトロプーロス、アルマン・マルシックのローマの家に滞在。邸内で開催される様々な音楽家による室内楽演奏に参加したほか、市内のコンサートやオペラを堪能し、自身の作曲にも時間を割くことができ、ピアノ曲「スケルツォ 変ホ長調」を完成。また、アッシジの聖フランチェスコの生涯とその著作を知ったミトロプーロスは、人生の最後の日まで、聖フランチェスコの原則に従って生きようと考えたりもします。


◆10月、第1次バルカン戦争勃発。バルカン同盟とオスマン帝国の間の戦争で、ギリシャ軍司令官はコンスタンティノス1世。
●10月、ミトロプーロス、アテネ音楽院に再入学。


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 1913年(16〜17歳)

◆3月、ギリシャ国王ゲオルギオス1世がテッサロニキで暗殺。
◆3月、コンスタンティノス1世、ギリシャ国王に即位。
●3〜4月、ミトロプーロス、アテネ音楽院のコンサートに、作曲家、ピアニストとして出演。師マルシックがヴァイオリンを担当。


◆5月、第1次バルカン戦争終結。バルカン同盟の勝利により、オスマン帝国はヨーロッパに保有していた領土を失います。
◆6月、第2次バルカン戦争勃発。第1次バルカン戦争での領土配分を不服としたブルガリアが、ギリシャとその同盟国のセルビアに侵攻。しかし両国は反撃しブルガリア領に進軍。これによりブルガリアと領土問題を抱えていたルーマニア王国とオスマン帝国もブルガリアに侵攻。ルーマニア軍が首都ソフィアに迫るとブルガリアは停戦を求めて降伏。
◆8月、第2次バルカン戦争終結。ギリシャ、ブルガリア、ルーマニア、セルビア、モンテネグロの間でブカレスト条約を締結して講和。
◆8月、ブカレスト条約により、ギリシャの面積は、64,790kuから108,610kuに大幅に拡大。人口も約266万人から約436万人に一気に増加(現在は131,957kuで1042万人)。拡大した地域は、アトス山のあるカルキディキ半島、ヨハンニナ、クレタ島、東エーゲ海の島々、そして現在のギリシャ北部にあたるテッサロニキで、当時のテッサロニキにはスペイン語を話すユダヤ人(セファルディム)が多く暮らしていました。
◆9月、コンスタンティノープル条約締結。ブルガリアがオスマン帝国にエディルネを割譲して講和。
●ミトロプーロス、アテネ音楽院に在学。


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 1914年(17〜18歳)

◆第1次大戦開戦。
◆ギリシャでは、ヴェニゼロス首相が協商国(イギリス、フランス、ロシア)側につくことを主張し、中央同盟国(ドイツ、オーストリア=ハンガリー等)寄りの国王コンスタンティノス1世は中立を唱えて対立。
◆8月、オスマン帝国とドイツ帝国が同盟に関する密約を締結。ダーダネルス海峡を封鎖。
◆10月、ブルガリア、中央同盟国側で第1次大戦に参戦。
◆11月、協商国側がオスマン帝国に宣戦布告。オスマン帝国は中央同盟国側で第1次大戦に参戦。
●ミトロプーロス、アテネ音楽院に在学。


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 1915年(18〜19歳)

◆ギリシャでは、国王コンスタンティノス1世とヴェニゼロス首相が対立して世論が分裂。
◆3月、ヴェニゼロス首相が辞任。
◆10月、中央同盟国側のブルガリアがセルビアを攻撃したため、セルビアと同盟を結んでいたギリシャは参戦を迫られるものの、国王コンスタンティノス1世は拒否。
◆10月、セルビアを助けるために協商国のイギリスとフランスがギリシャのテッサロニキに上陸。
●ミトロプーロス、アテネ音楽院に在学。


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 1916年(19〜20歳)

◆1月、協商国のイギリスとフランスがギリシャのケルキラ島を占領して、中央同盟国に敗北したセルビア軍兵士を亡命者として収容。
●7月、ミトロプーロス、ギリシャ軍に志願し、4等音楽家としてアテネ駐屯地の音楽隊に配属。志願兵だったため勤務地を選ぶことができ、さらに軍務も非常に軽微だったため、アテネ音楽院での勉強も継続でき、さらに、音楽院オーケストラのティンパニ、およびパ―カッション奏者としての活動も翌年まで継続することができました。


◆8月、協商国のイギリスとフランスが事実上占領していたテッサロニキで、ヴェニゼロス派の将校によるクーデターが発生。これには同地で形成されていた市民グループ「国家防衛(エスニキ・アミナ)」の支援がありました。
◆10月、ヴェニゼロスがテッサロニキでギリシャ分離政府を樹立し、市民グループ「国家防衛(エスニキ・アミナ)」を軍隊として再組織。
◆12月、イギリス軍とフランス軍部隊は、ギリシャ政府に圧力をかけるためアテネに向けて進軍するもののギリシャ軍の抵抗で中止。
◆国王派ギリシャ政府との関係構築を諦めたイギリスとフランスは、テッサロニキの首相派分離政府を承認し、国王派の勢力が強い南部を禁輸対象として圧力をかけます。
●ミトロプーロス、アテネ音楽院に在学。


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 1917年(20〜21歳)

●2月、ミトロプーロス、国王コスタンティノス1世の戦争チャリティ・イベントで、自作コンサートに出演。ピアノ・ソナタ「私の魂」、スケルツォヘ短調、そしてピアノのための新作「兵舎生活の情景」を演奏したほか、ミトロプーロスのヴァイオリン・ソナタが教授たちにによって演奏されました。
●5月、ミトロプーロス、アテネ国立劇場で、教授陣が指揮者として出演するコンサートに指揮者として登場。
◆6月、イギリスとフランスの圧力に屈した国王コスタンティノス1世は退位に同意し、長男ゲオルギオスを連れてスイスに亡命。
◆6月、次男のアレクサンドロスがギリシャ国王に即位。ヴェニゼロス首相は、分離政府をアテネに移して再構築。
●ミトロプーロス、アテネ音楽院に在学。


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 1918年(21〜22歳)

●春、ミトロプーロス、アテネ音楽院管弦楽団のコンサートで、ピアニストとして、ダンディ「フランスの山人の歌による交響曲」、フランク:交響的変奏曲など演奏。


●春、ミトロプーロス、手術。療養中にオペラ「尼僧ベアトリス」を完成。
●4月、ミトロプーロス、オペラ「尼僧ベアトリス」を演奏会形式で上演。
●秋、ミトロプーロス、歌手で女優のカティナ・パクシヌーと最初の出会い。ピアノ伴奏でした。
◆10月、ムドロス休戦協定が調印。同盟国側だったオスマン帝国が連合国に降伏。イギリスはイラクのモースル、南東アナトリア、西アナトリア、黒海の沿岸都市を占領し、フランスはキリキア地域、イタリアはアナトリア半島南西部のアンタルヤとコンヤを占領。
●ミトロプーロス、アテネ音楽院に在学。


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 1919年(22〜23歳)

●春、ミトロプーロス、アテネ音楽院卒業リサイタルで、ベートーヴェン、フランク、ショパン、リスト、自作を演奏。


◆5月、ギリシャ=トルコ戦争勃発。ギリシャが休戦協定を破り、イギリス軍の支援を得てイズミルに上陸。同地付近に多く住むギリシャ人保護という名目でした。
●6月、ミトロプーロス、アテネ音楽院を最優秀の成績で卒業。教授陣の満場一致で特別な金メダルも授与。


●ミトロプーロス、卒業後も個人的にマルシック教授から理論を1年間学びます。


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 1920年(23〜24歳)

●春、ミトロプーロス、ギリシャ軍を名誉除隊。
◆3月、連合国軍がトルコの首都イスタンブールを占領。
●5月、ミトロプーロス、オペラ「尼僧ベアトリス」を劇場で上演。主演はカティナ・パクシヌー。好評のため再演もおこなわれ、サン=サーンスも高く評価。
●6月、サン=サーンスの高評価がアテネの新聞に掲載されたのがきっかけで、アテネ音楽院運営委員会の特別会議が、ミトロプーロスに月額700ドラクマの奨学金を与え、マルシック教授の故郷であるベルギーでオルガンを勉強できるよう奨学金を与えることが決定。ミトロプーロスは特にオルガンに興味があったわけではないものの、ブリュッセルに住んでみたかったので、申し出を快諾、必要な書類にサインをしています。


●ミトロプーロス、カティナ・パクシヌーと恋愛関係に。
●ミトロプーロス、アテネの裕福な銀行家ミルティアデス・ネグロポンテからかなりの規模の資金援助を受けます。妻のマリアがミトロプーロスの熱烈なファンで、ミトロプーロスも彼女を敬愛し、数百通に及ぶ手紙を書いていました。
◆8月、セーヴル条約締結。連合国とオスマン帝国の間に交わされた講和条約。オスマン帝国内の反対勢力は否認。
●8月、ミトロプーロス、友人とカティナに別れを告げ、ブリュッセルに向けて出発。
●ミトロプーロス、ブリュッセル王立音楽院に入学。


●ミトロプーロス、ブリュッセル王立音楽院でアルフォンス・デスメットからオルガンを学びます。


●ミトロプーロス、ベルギー文化省の音楽教育査察官であるポール・ジルソン[1865-1942]に作曲を師事。ジルソンは元ブリュッセル音楽院とアントワープ音楽院の教授で、1年間に渡ってミトロプーロスの作曲を指導しています。


●10月、ミトロプーロス、ピアノの為の「ギリシャ・ソナタ」を完成しブリュッセルで初演。50分近い大作。 ◆10月、ギリシャ国王アレクサンドロス1世がペットのサルに噛まれて破傷風になり27歳で崩御。
◆10月、ギリシャ国王にコンスタンティノス1世が再び即位。

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 1921年(24〜25歳)

●ミトロプーロスの妹、ヘレニが結核に罹患。スイスで療養することになります。
◆10月、カルス条約締結。ソ連とオスマン帝国の間に交わされた講和条約。
●ミトロプーロス、ブリュッセル王立音楽院に在学。


●ミトロプーロス、ポール・ジルソンからドイツに行くよう勧められ、ベルリンに移り住み、ブゾーニに師事するようになります。


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 1922年(25〜26歳)

●5月7日、ミトロプーロスの妹、ヘレニが結核により死去。スイスでの療養が行き詰っていたことから、ミトロプーロスは妹をベルリンに引き取って看病していました。
◆夏、ミトロプーロスの父ヤニスが反乱罪で逮捕され投獄。収容所では司祭として活動し、瀕死の被収容者の世話をしていたヤニスは、やがて過酷で不衛生な環境の中、チフスに感染して亡くなっています。娘と夫を亡くした母アンゲリキはベルリンに移り住み、ミトロプーロスと暮らすことになります。
◆9月、スミルナの大火。
◆9月、ギリシャ国王コンスタンティノス1世がクーデターにより失脚。イタリアに亡命し3か月後の1923年1月にシチリア島で54歳で死去。
◆9月、ギリシャ国王にゲオルギオス2世が即位。
●ミトロプーロス、ベルリンの名士でもあった師ブゾーニの手配でさまざまなコンサートに出かけ、シェルヘンによる「兵士の物語」ベルリン初演では、ブゾーニと共に立ち上がって喝采し、周囲の騒ぐ聴衆に対抗。


●ミトロプーロス、まさかのベルリン国立歌劇場デビュー。完売になっていた「パルジファル」をどうしても聴きたかったミトロプーロスは、友人のギリシャ人舞台美術家、パノス・アラヴァンティノスの助力によって、オケ・ピットのティンパニの後方に椅子を置いてもらうことに成功。その場所で聴こうとしていたところ、上演が始まってもティンパニ奏者が戻ってこなかったため、ティンパニ演奏も得意だったミトロプーロスが代わりに席に収まって第1幕を無事に演奏。楽員たちと指揮者のシュティードリーはミトロプーロスを称えます。シュティードリーはマーラーの弟子でシェーンベルクの仲間でした。


●9月、ミトロプーロス、ベルリン国立歌劇場とコレペティートアとして翌年8月31日までの1シーズンの契約が成立。合唱リハーサルの指揮や、歌手リハーサルのピアノ伴奏などを担当。「パルジファル」での出来事が評価されたもので、第1楽長のシュティードリーとブゾーニの推薦で決定し、総監督のマックス・フォン・シリングスが署名。音楽監督ブレッヒは1920年にシリングスと揉めて退任していたため、1920年なかばから1923年秋までの3年間は第1楽長のシュティードリーが指揮者のトップでした。


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 1923年(26〜27歳)

◆1月、ドイツのルール工業地帯をフランス・ベルギー軍が占領。
◆ハイパーインフレ発生。インフレには債務軽減効果(デフレには債務増大効果)があるため、ドイツ政府は莫大な国内債務を一気に解消することに成功しています。
◆7月、ローザンヌ条約締結。セーヴル条約に代わる講和条約で、これにより連合国とオスマン帝国の戦争が終結。
●9月、ミトロプーロス、ベルリン国立歌劇場の指揮助手の契約を更新。オーケストラのリハーサルも担当することが決まります。また、ピアノの技術も高く評価され、シュターツカペレ・ベルリンの演奏会で「ペトルーシュカ」やスクリャービンの「プロメテウス」でピアノを任されてもいました。


◆9月、ギリシャ革命政府は、国王ゲオルギオス2世に亡命を強要。
◆10月、ギリシャ=トルコ戦争終結。
●10月、ベルリン国立歌劇場音楽監督にエーリヒ・クライバーが就任。1920年なかばから3年間空席でした。
●12月、ベルリン国立歌劇場第1楽長シュティードリーが退任。退任後は得意の現代作品コンサートを数多く指揮し、翌1924年5月には故郷のウィーンでワインガルトナーの後任としてウィーン・フォルクスオーパーの音楽監督に就任。当時のフォルクスオーパーは通常の歌劇場で、シュティードリーはシェーンベルクの「幸福な手」の初演も指揮。しかし、翌1925年4月にはハイパーインフレの余波で劇場経営が破綻し退任。その後1929年までソ連、イタリア、スペイン、北欧に客演。1929年には国際現代音楽協会ベルリン支部の監督となり、ベルリン市立歌劇場(ベルリン・ドイツ・オペラ)にも客演。第1楽長のブルーノ・ワルターが総監督のティーティエンと揉めて辞任すると後任となり、ワーグナー、ヴェルディ、ヴァイルなどを指揮。しかし、1933年3月11日に突撃隊の妨害によってシュティドリーは劇場に入ることができなくなり、7月末までの休暇と給与の支払いの後、解雇されることが決定。
  シュティードリーはオーストリアに戻ったのち、1933/1934年のシーズンからの契約ということで、1933年10月にアレクサンドル・ガウクの後任としてレニングラード・フィルの首席指揮者に就任。10月15日にはショスタコーヴィチのピアノ協奏曲第1番の初演を指揮。翌1934年7月にはクレンペラーと同じく、ウニヴェルザール社からベルクの「ルル」の世界初演について相談を受けてもいました。
  翌1934/1935年のシーズンには、シュティードリーはレニングラードやモスクワで数多くの公演を指揮する中で、シェーンベルクの「管弦楽のための変奏曲」、室内交響曲第1番、「月に憑かれたピエロ」(妻のエリカ・シュティードリー=ワグナーと共演)も指揮しています。
  しかし1934年12月1日にスターリンの政敵だったセルゲイ・キーロフが暗殺されると、逮捕者が続出するようになり社会不安が増大。新ウィーン楽派作品もブルジョア音楽と非難されるようになります。
  そうした中、1936/1937年のシーズンには、シュティードリーはソ連で40のオペラ公演と80のオーケストラ・コンサートを指揮していますが、モダンな作品は難しくなり、1936年11月にはショスタコーヴィチが交響曲第4番の初演を取り下げています。
  そして1937年1月以降、大粛清が本格化する中、5月に多忙なシーズンを終えてヨーロッパに客演していたシュティードリーは、1937/1938年のシーズン開始前にソ連に戻る際、入国ビザが発行されなくなってしまいます。契約は1938年までだったので、8か月を残しての途中解約ということでしたが、ちょうどその期間は大粛清が激化していた時期だったので、シュティードリーは幸運だったと言えると思います。


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 1924年(27〜28歳)

●1月、ジョージ・セルがベルリン国立歌劇場第1楽長に就任。シュティードリーの後任でした。
●春、ベルリンのミトロプーロスのもとにアテネ音楽院の使者が到着。アテネ音楽院管弦楽団の音楽監督就任を要請されます。ミトロプーロスは最初断ろうとしますが、母からの説得により、1年間ギリシャの音楽界に貢献する道を選び、翌日、音楽監督のエーリヒ・クライバーに休職を願い出て承認を得ています。しかし結局戻れませんでした。


●夏、ミトロプーロスはアテネに帰還しますが。待ち受けていたのは意外な冷遇でした。まずミトロプーロスが奨学金や支援を得て留学したのは、オルガニストになって戻るという約束だったので、指揮者では話が違うということで非難の対象になります。また、一部で話が進められていた、アテネ音楽院のオーケストラの音楽監督の話も、実際には3人の教授によって運営管理されているということで拒否されてしまいます。
●夏、ミトロプーロス、ピアノの為の「パッサカリア、前奏曲とフーガ」を作曲。
●10月、ミトロプーロス、アテネのヘレニズム音楽院のオーケストラを初めて指揮。以後、翌年夏までに計17回のコンサートを指揮しています。


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 1925年(28〜29歳)

●アテネのヘレニズム音楽院管弦楽団が解散。


●ミトロプーロスのパトロン、ネグロポンテを委員長とする音楽好きの実業家たちの委員会は、2つの音楽院のオーケストラを「コンサート協会管弦楽団」という名前のオーケストラに統合することを計画して資金を提供。
●10月、ミトロプーロス、「コンサート協会管弦楽団」を初めて指揮。以後、翌年夏までに計14回のコンサートを指揮しています。計4人の指揮者によってコンサートが維持されます。
●冬、ミトロプーロス、カティ・カツォヤニスと恋愛関係に。生涯に渡って手紙のやりとりを続ける関係でのちに出版されています。

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 1926年(29〜30歳)

●ミトロプーロス、「コンサート協会管弦楽団」の指揮者として活動。

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 1927年(30〜31歳)

●春、「コンサート協会管弦楽団」が解散。原因はアテネ音楽院とヘレニズム音楽院の音楽家の対立でした。
●秋、アテネ音楽院管弦楽団が再結成。ミトロプーロスが音楽監督となり、他の3人の指揮者の合計数と同じ数の公演を指揮するよう求められます。


●ミトロプーロス、アテネ音楽院管弦楽団。ギリシャの作曲家スクラヴォスの「『キラ・フロシーニ」を指揮。
●12月、ミトロプーロス、アテネ音楽院管弦楽団。初の弾き振り。フランクの交響的変奏曲。
●ミトロプーロス、指揮者の仕事の傍ら、オーストリアのリヒャルト・シュテーアの「音楽形式論」をギリシャ語に翻訳して講座を開き、受講者との活発な質疑応答で人気を集めていました。


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 1928年(31〜32歳)

●ミトロプーロス、アテネ音楽院管弦楽団音楽監督在職。

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 1929年(32〜33歳)

●ミトロプーロス、アテネ音楽院管弦楽団音楽監督在職。

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 1930年(33〜34歳)

●ミトロプーロス、アテネ音楽院管弦楽団音楽監督在職。
●2月、ミトロプーロス、ベルリン・フィルを初めて指揮。自作のコンチェルト・グロッソとデュカスの交響曲にプロコフィエフのピアノ協奏曲第3番というプログラム。予定されていたソリストのエゴン・ペトリが作品を嫌ってキャンセルしたため、多くのほかのピアニストにも打診したものの引き受けてはおらず、結局、ミトロプーロスが弾き振りすることになり、ベルリンの聴衆は衝撃を受けます。

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 1931年(34〜35歳)

●ミトロプーロス、アテネ音楽院管弦楽団音楽監督在職。
●オーマンディ、ミネアポリス交響楽団の音楽監督に就任。前任者のヴァーブラッゲン(フェルブリュッヘン)が脳出血で指揮できなくなったため。
●ミトロプーロス、ベートーヴェンの弦楽四重奏曲第14番を弦楽オーケストラ用に編曲。のちにバーンスタインが録音。
●ミトロプーロス、アテネ音楽院で「ホフマン物語」を指揮。


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 1932年(35〜36歳)

●ミトロプーロス、アテネ音楽院管弦楽団音楽監督在職。
●2月、ミトロプーロス、パリ交響楽団を初めて指揮。バッハとフランクの編曲とシュミットの「サロメの悲劇」、そしてプロコフィエフのピアノ協奏曲第3番というプログラム。弾き振りで大成功を収めます。
●2月、ミトロプーロス、リヴァプールでハレ管弦楽団を指揮してイギリス・デビュー。
●ミトロプーロス、サンタ・チェチーリア管弦楽団を指揮してイタリア・デビューし、ヴェネツィア、パリでも演奏。

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 1933年(36〜37歳)

●ミトロプーロス、アテネ音楽院管弦楽団音楽監督在職。
●ミトロプーロス、翌年にかけてベオグラード、フィレンツェ、トリノ、ローマ、ヴェネツィア、モンテカルロ、ブリュッセル、パリ、ボローニャ、ワルシャワ、そしてモスクワとレニングラードで指揮。

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 1934年(37〜38歳)

●ミトロプーロス、アテネ音楽院管弦楽団音楽監督在職。
●ミトロプーロス、翌年にかけてフィレンツェ、トリノ、パリで指揮。

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 1935年(38〜39歳)

●ミトロプーロス、アテネ音楽院管弦楽団音楽監督在職。
●4月、ミトロプーロス、ナポリ、ボローニャ、ミラノで指揮。
◆11月、ギリシャ国王、ゲオルギオス2世が再即位。

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 1936年(39〜40歳)

●ミトロプーロス、アテネ音楽院管弦楽団音楽監督在職。
●ミトロプーロス、ギリシャを離れアメリカに渡航。
●1月25、27日、ミトロプーロス、ボストン響デビュー。「レオノーレ」序曲第2番、リヴィエ:序曲「ドン・キホーテ」、ドビュッシー:「海」、R.シュトラウス「家庭交響曲」という曲目。初めてミトロプーロスの指揮を見て驚いた楽団マネージャーがリハーサルの最終日をマスコミに公開したことで、チケットは争奪戦とななっていました。


◆王政復古。
●ミトロプーロス、カーネギー・ホールでストコフスキー指揮フィラデルフィア管弦楽団のコンサートを聴いて衝撃を受けます。後年「私の人生の中で最も素晴らしい音楽体験の一つだった。オーケストラからあのような音が出るとは知らなかった。」と語っています。
●オーマンディ、ミネアポリス交響楽団音楽監督と兼務で、フィラデルフィア管弦楽団の共同音楽監督に就任。これはストコフスキーが楽団の経営陣とうまくいかなくなったことで変則的につくられた役職で、ストコフスキーは2年後の1938年に辞任。

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 1937年(40〜41歳)

●ミトロプーロス、アテネ音楽院管弦楽団音楽監督在職。
●1月15日、16日、22日、23日、ミトロプーロス、ボストン響。マーラー第1番、他。


●1月、ミトロプーロス、18歳のバーンスタインとの出会い。ギリシャ人コミュニティのプライベートなレセプションに、バーンスタインが母親と一緒に牡蠣を土産に乱入し、その夜の終わりには、22歳年長の指揮者の興味を惹くことに成功。


●1月29日、ミネアポリス響。ベートーヴェン第2番、「レオノーレ」第2番、バッハ:幻想曲とフーガ ト短調、そしてレスピーギのピアノとオーケストラのためのトッカータを弾き振りというプログラム。公演は大成功。
●2月9日、ミネアポリス交響楽団、次期音楽監督をミトロプーロスと発表。


●2月、ミトロプーロス、ベルリン・フィル。
●3〜4月、ミトロプーロス、モンテカルロ・フィル。

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 1938年(41〜42歳)

●ミトロプーロス、アテネ音楽院管弦楽団音楽監督在職。
●1月、ミトロプーロス、ミネアポリスに転居。
●1月、ミトロプーロス、ミネアポリス交響楽団音楽監督に就任。シーズン終了までの4か月ほどで30回のコンサートを指揮。本拠地はノースロップ・オーディトリアムで4,847席という巨大なホールでした。く


●2月17日、ミネアポリス響。前年12月28日に亡くなったラヴェルの追悼公演で、ピアノ協奏曲を弾き振りし、「クープランの墓」「マ・メール・ロワ」「ダフニスとクロエ」を演奏。
●2月、ミネアポリス響。メンデルスゾーン3番、他。
●3月、ミネアポリス響。ワーグナー・プログラム、マーラー第4番、他。


●5月28日、ミトロプーロス、NBC響。ニューヨーク・デビュー。プログラムは、パーセルの『ディドとエネアス』の「私が地上に横たわるとき」の自身の編曲、グラズノフの「ギリシャ風テーマによる序曲」、ミトロプーロスの名刺代わりとなっていたシューマンの第2番、そしてショパンの「革命のエチュード」と「英雄ポロネーズ」をオーケストラ用に編曲したというものでした。


●8月1日、ミトロプーロス、アテネ音楽院管弦楽団。楽員のための年金基金コンサートを指揮。


●11月、ミネアポリス響。シーズン・オープニングは、4,847席のうち4,600隻が売れる好調な滑り出し。チャイコフスキー5番、ブラームス3番などに加え、グリーグの弦楽四重奏曲、フランクの弦楽四重奏曲、ベートーヴェンの弦楽四重奏曲「セリオーソ」、バッハ「ゴルトベルク変奏曲」のオーケストラ版など編曲物も多数。ラフマニノフ本人が登場するピアノ協奏曲第1番での公演もありました。ミトロプーロスはミネアポリスで30公演を指揮したほか、ツアーでも指揮。


●12月、ミトロプーロス、バーンスタインからの手紙に応え、200ドルを送金してミネアポリスに招きます。寮住まいのミトロプーロスの部屋の隣に滞在させ、町やコンサートを見聞させています。バーンスタインの最初の出会いからずいぶん時間が経っているのでミトロプーロスは忘れていたものと思われます。


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 1939年(42〜43歳)

●ミトロプーロス、アテネ音楽院管弦楽団音楽監督在職。
●ミトロプーロスに対し、ミネアポリス交響楽団が新たな3年の契約を提示。ミトロプーロスは承諾。
●6月、ミトロプーロス、ナポリのサンカルロ劇場管弦楽団とサンピエトロ音楽院管弦楽団の合同コンサートでベルリオーズのレクイエムを指揮。
●7月、ミトロプーロス、アテネのアクロポリスにあるヘロディス・アッティコス音楽堂で4公演を指揮。多くの聴衆を集めます。


●9月、ミトロプーロス、ニューヨークでバーンスタインと再会。音楽の勉強やその後の仕事の相談に乗ります。


●11月、ミネアポリス響。シーズン開幕。ミトロプーロスは18公演を指揮。


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 1940年(43〜44歳)

●4月、ミトロプーロス、バーンスタインが切望していたミネアポリス交響楽団での助手の仕事はできないことを説明。ミネアポリス交響楽団の助手はミネアポリス出身者でなければだめという音楽家ユニオンの取り決めがあったためです。カーティス音楽院在学中にはミトロプーロスから月75ドルの支援を受け、卒業後にはすぐにミトロプーロスのもとで仕事ができると思っていたバーンスタインは落胆します。


●バーンスタイン、フリッツ・ライナーの薦めでセルゲイ・クーセヴィツキーが創設したタングルウッド音楽センターの指揮講座を受講。クーセヴィツキーの指揮テクニックや、表現の秘訣などについて教わります。
●バーンスタイン、バークシャー・ミュージック・センター・オーケストラを指揮して、リムスキー=コルサコフ『シェエラザード』の第2曲と第4曲を指揮。初のフル編成オーケストラの指揮体験でした。
◆9月、1940年の選抜訓練徴兵法、ルーズヴェルト大統領(民主党)が署名して成立。18〜65歳の全男性に徴兵登録を要求、18〜45歳の全男性に徴兵登録を義務付け。兵役期間は18か月。第二次世界大戦では1,011万人が徴兵。
●11月、ミネアポリス響。シーズン開幕。シーズン中の全公演数48回。


●12月、ミトロプーロス、ニューヨーク・フィル・デビュー。ベートーヴェン:弦楽四重奏第14番、交響曲第4番、シュトラウス:家庭交響曲、バッハ:フーガの技法〜3つのフーガ、他。翌月にかけて19回のコンサートを指揮。


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 1941年(44〜45歳)

●1月、NYP。ツェムリンスキー:シンフォニエッタ、マーラー第1番、ルーセル第3番、ベートーヴェン:弦楽四重奏第14番、他。


●1月、ミネアポリス響。29日間で21都市を回るツアーを開始。
◆4月、ギリシャ国王ゲオルギオス2世がイギリスに亡命。ドイツに侵略されたため。
●6月、ミトロプーロス、ニューヨーク・フィル。ルイゾーン・スタジアムで演奏。
◆6月、ギリシャがドイツ軍に敗北。3分割占領されます。ドイツはアテネ、マケドニア中部のテッサロニキ、クレタ島を含むエーゲ海の島々を占領、ブルガリアはギリシャ北東部のマケドニア東部とトラキア西部を占領・併合。そしてイタリアが、イオニア島などギリシャの3分の2を占領。
◆ギリシャで右派が傀儡政権を樹立。
◆冬、翌年にかけて、飢饉やドイツの略奪、傀儡政権の搾取、連合軍の封鎖などによりギリシャ人30万人が餓死。
●11月、ミトロプーロス、ヒンデミットと楽団のトラブルを自費で解決。交響曲変ホ調の世界初演に立ち会うためにニューヨーク近郊から招かれていたヒンデミットが、ミネアポリス響の事務局に対して、交通費と宿泊費に妻の分が含まれていないと怒っていたため、ミトロプーロスは自分の金をオケに渡して事態を収拾。ちなみにこの初演はラフマニノフも聴いていましたが、感想は否定的でした。


●12月、NYP。ブゾーニ:甲冑をまとった組曲、ファウスト博士のための2つの習作、インディアン幻想曲、ヴァイオリン協奏曲、ヒンデミット:交響曲変ホ調、シュトラウス:ツァラトゥストラ、ベートーヴェン:大フーガ、ラフマニノフ:交響曲第3番、ダイヤモンド:交響曲第1番、他。


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 1942年(45〜46歳)

●1月、NYP。マーラー第4番、シューマン第2番、グラズノフ:ギリシャの主題による序曲、ミヨー:プロヴァンス組曲、他


●1月、ミネアポリス響。ショスタコーヴィチ5番、他。


●2月、ミネアポリス響。ツアー。
●バーンスタイン、カーティス音楽院を卒業し、クーセヴィツキーの助手として契約。
●バーンスタイン、タングルウッド音楽祭コンクールで優勝。
●多くのユダヤ人音楽家と同じく平和主義者だったバーンスタインは、戦地に行かずに済む方法を探り、師のクーセヴィツキーに対し、「USO(The United Service Organizations、アメリカ軍への慰問などをおこなう民間非営利組織)」に入った場合のことなどを手紙で質問、クーセヴィツキーが有力者に依頼して関係者に問い合わせてもらったところ、「USO」に入れば戦地行きの可能性は低いものの、確実とは言い切れないといった内容の返信でした。しかしほどなく、バーンスタインを診察した医師が、「慢性の喘息」により「兵役不適格」という診断を下したため、バーンスタインは兵役を免除されることとなります(バーンスタインは少年時代から亡くなるまでヘビースモーカーでした)。ちなみに同じくクーセヴィツキーの弟子で、1943年に「USO」の顧問となったフレデリック・フェネルは、終戦まで徴兵されることはありませんでした。
●夏、ミトロプーロス、ラヴィニア音楽祭でシカゴ交響楽団を指揮。メンデルスゾーン3番、シューマン2番、グリーグ弦楽四重奏曲オケ版、ショスタコーヴィチ5番、他。


●秋、ミネアポリス響から12人の奏者が徴兵。代わりに8人の新人が入団。
●クレネクがミネアポリスの隣、セント・ポール市のハムリン大学音楽学部の教職に就きます。担当は理論、作曲、音楽史、ピアノで、学生数約600名の小さな大学でした。しかし隣のミネアポリスにはミトロプーロスがいたため、作品発表の機会に恵まれ、ミトロプーロスも聴衆と楽員に対して最大限の努力をおこなってクレネク作品の普及に努めます。


●10月、ミネアポリス響。「ウェリントンの勝利」など戦争関連作品公演。「1812年」では大砲も使用。
●11月、ミネアポリス響。ショスタコーヴィチ「レニングラード」のミネアポリス初演。


●12月、NYP。1812年、威風堂々、ラプソディー・イン・ブルー、ハリス:交響曲第4番、シェーンベルク:浄夜、メンデルスゾーン第3番、ブラームス第3番、バッハ:管弦楽組曲第3番、ラフマニノフ:交響的舞曲、他。


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 1943年(46〜47歳)

●1月、NYP。プロコフィエフ:ピアノ協奏曲第3番(弾き振り)、レスピーギ:トッカータ(弾き振り)、タンスマン:ポーランド狂詩曲、ヴォーン・ウィリアムズ第4番、ハイドン第100番、ブラームス第3番、他。


●夏、ミトロプーロス、赤十字社の移動式献血部隊にボランティアとして参加。オーバーオールを着て器具の洗浄作業や車内清掃、運搬業務、事務仕事などをおこないます。その前にはトラック1台分の粉ミルクを購入して赤十字を通じてアテネに送ってもいました。
●8月、NYP。タリス幻想曲、ラ・ペリ、ラ・ヴァルス、火の鳥、ショーソン:交響曲、他。
●8月、バーンスタイン、クーセヴィツキーに薦められてロジンスキーと会って気に入られ、ニューヨーク・フィルの副指揮者として採用。
●9月、NYP。展覧会の絵、プロヴァンス組曲、他。


●冬、ミネアポリス響。7千マイル(約11,265km)の全米ツアーを実施。
●11月、ミネアポリス響。ショスタコーヴィチ1番、バルトーク:ヴァイオリン協奏曲、ヒンデミット「今日のニュース」、クレネク交響曲第2番、他。


●11月14日、バーンスタイン、カーネギー・ホールでのニューヨーク・フィル演奏会で大成功。これは風邪をこじらせて指揮不能になったブルーノ・ワルターの代役を急遽まかされたもので、本番前にワルターからアドヴァイスを受けて『ドン・キホーテ』などを指揮、ラジオ中継も入り、翌日には新聞でも大きく取り上げられたことで、バーンスタインの知名度は一気に上がることになりました。
●12月、ミトロプーロスとクレネクの共同作業の結果、現代音楽協会(ISCM)ツインシティ支部が設置されることになります。ツインシティとはミネアポリスと隣のセント・ポールのことです。協会はこの月からコンサート活動を開始。ミトロプーロスもピアニストや手伝いとして参加します。


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 1944年(47〜48歳)

●ミネアポリス響音楽監督在職。


●夏、ミトロプーロス、ハリウッド・ボウルに出演。ロサンジェルス・フィルを5回指揮。


●夏、ミトロプーロス、ロビンフッド・デル管弦楽団(フィラデルフィア管弦楽団の夏の名前)を指揮。最終公演の後、オーケストラはミトロプーロスに金メッキのバトンを授与。ロビンフッドデル・コンサートの13年の歴史の中で初めての栄誉。


●7月、NYP。ラフマニノフ:交響曲第2番、死の島、他。
●8月、NYP。シベリウス第1番、シューマン第2番、ブラームス第2番、メンデルスゾーン第3番、他。
●9月、NYP。シューベルト第5番、ブラームス:ピアノ協奏曲第1番(フィルクシュニー)


●9月、ミネアポリス響コンサートマスターにルイス・クラスナー[1903-1995]が就任。ニューヨークで偶然出会ったミトロプーロスからの就任要請でした。


●11月、ミネアポリス響。ヴォーン・ウィリアムズ「ロンドン交響曲」、ミヨー「屋根の上の牛」、他。


●12月、ミトロプーロス、ボストン響。ラフマニノフ交響曲第2番、ファリャの「三角帽子」、メンデルスゾーン「スコットランド」、クレネク「ノースカロライナの民謡による変奏曲」、モートン・グールド「スピリチュアル」、シューベルト2番、他。


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 1945年(48〜49歳)

●1月、ミネアポリス響。ベルク:ヴァイオリン協奏曲(クラスナー)、ハチャトゥリアン:ピアノ協奏曲(カペル)、ウォルトン:ヴァイオリン協奏曲(ハイフェッツ)、他。
●1月、ミネアポリス響。タンスマン:交響曲第5番、シェーンベルクの弦楽四重奏曲第2番の弦楽合奏版、他。


●1月、NYP。ガランタ舞曲、バッハ:組曲(オネゲル編)、メニン:交響曲第3番、ラフマニノフ:ピアノ協奏曲第3番(ジャニス)


●夏、ミトロプーロス、ロビンフッド・デル管弦楽団(フィラデルフィア管弦楽団の夏の名前)を指揮。前年の最大客数9千人を大幅に抜き1万1千人集める人気ぶりでした。


●8月、NYP。黄河で感傷的なワルツ、屋根の上の牛、バッハ:幻想曲とフーガ(ミトロプーロス編)、他。


●10月、ミネアポリス響。戦勝コンサート。ベートーヴェン第5番、ブロッホ:アメリカ、他。聴衆5,100人の新記録。 ●11月、ミネアポリス響。チャイコフスキー:小ロシア、シューベルト第6番、他。


●ミネアポリス響。戦時中のツアー実績は、アメリカ379都市、カナダ18都市、そしてキューバのハバナで1回の計2,647回という過酷なものでした。戦時中は娯楽税が適用されチケット代は20%上がっていましたが、売れ行きは好調でした。
●バーンスタイン、ニューヨーク・シティ交響楽団音楽監督就任(1947年まで)。恩師クーセヴィツキーの推挙によるものでした。
●12月、バーンスタイン、ミネアポリス響。ベートーヴェン、シュトラウス、ブラームス、コープランドの作品を指揮。終演後のレセプションでふざけてミトロプーロスの物真似をしてコンサートマスターのクラスナーの夫人に叱られています。バーンスタインは酒席ではミトロプーロスとクーセヴィツキーの言い回しや英語のアクセントを馬鹿にした物真似を友人たちに披露していました。

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 1946年(49〜50歳)

●ミネアポリス響音楽監督在職。


●ミトロプーロス、アメリカ国籍を取得。
●2月、ライフ誌でミトロプーロスが5ページに渡って紹介され、クーセヴィツキーが激怒。楽団側が決めていた12月のミトロプーロスのボストン交響楽団への客演を妨害。キャンセルさせます。原因は、ミトロプーロスの客演の成功にクーセヴィツキーが嫉妬していたなどという記者の文章。そこに掲載されていた水泳パンツ姿で日光浴用ランプの光を浴びる写真なども真面目なクーセヴィツキーを刺激した可能性があります。


●2月、ミトロプーロス、作曲家デイヴィッド・ダイアモンド[1915-2005]からの電話で異変を察知し救急に連絡して睡眠薬自殺を未然に防ぎました。ミトロプーロスは、ダイアモンドを金銭的にも支援していました。自殺未遂の理由は自作があまり取り上げられないことへの絶望でした。


◆3月、ギリシャ内戦勃発。1949年8月まで継続し、米英の支援する右派と、ユーゴスラヴィアが主に支援するギリシャ共産党系の左派が衝突し、右派の死者が約1万5千〜4万3千人、左派の死者が約2万5千〜3万9千人。女性も多く参加していました。1948年6月にソ連と東欧諸国がユーゴスラヴィアと関係を断絶した結果、ギリシャ共産党系左派はソ連支持派とユーゴ支持派に分裂して勢いを失います。ミトロプーロスがギリシャの新聞で叩かれた理由のひとつがミトロプーロスがアメリカ国籍を取得したことに由来するものでした。


●5月、ミトロプーロス、国際現代音楽協会のニューヨーク公演で、兵士の物語、ピストン:ディヴェルティメント、クレネク:9つの楽器のための交響曲を指揮。
●夏、ミトロプーロス、ロビンフッド・デル管弦楽団(フィラデルフィア管弦楽団の夏の名前)のコンサートに出演。19公演を指揮。曲目はブルックナー第4番、マーラー第1番、ヴェルディ:レクイエム、モートン・グールド:管弦楽のための協奏曲、ブラームス第1番、イベリア、チャイコフスキー第2番、メノッティ:セバスチャン、他。初日の聴衆は1万2千人を記録。


●10月、ミネアポリス響、シーズン開始。女性奏者が5人入団して楽員は定員を満たし、資金も安定。ミトロプーロスはバックスの交響曲第3番やブリテンのシンフォニア・ダ・レクイエム、レスピーギのグレゴリオ聖歌風協奏曲など計143公演を指揮。


●ミトロプーロス、シュナーベルの難曲、交響曲第1番に取り組み、100人以上の聴衆が途中退場するものの、シュナーベル本人は指揮もミネアポリス響の演奏も絶賛していました。


◆11月、ギリシャ国王、ゲオルギオス2世が再々即位。
●12月、ミトロプーロス、フィラデルフィア管弦楽団に客演。捻挫したオーマンディの代わりでした。
●母アンゲリキ、死去。
●冬、ミネアポリス響ツアー。国内27都市35公演を実施。

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 1947年(50〜51歳)

●春、ミネアポリス響ツアー。国内31都市38公演を実施。
◆4月、ギリシャ国王、ゲオルギオス2世、心臓発作により56歳で崩御。
◆4月、ギリシャ国王にパウロス1世が即位。
●5月、NYPツアー。寄港地、ばらの騎士組曲、ベートーヴェン第2番、チャイコフスキー第5番、シベリウス第2番、他、。
●7月、NYP。プッチーニ:蝶々夫人。


●夏、ミトロプーロス、ロビンフッド・デル管弦楽団(フィラデルフィア管弦楽団の夏の名前)のコンサートに出演。プロコフィエフ第5番など28公演を指揮。演奏会形式、エレノア・スティーバー主演で上演された「蝶々夫人」では、1万4千人近い聴衆が集まっていました。


●11月、NYP。アルプス交響曲、コリオラン、イベリア、呪われた狩人、シューマン第4番、クレネク:交響曲第4番(世界初演)、他、。
●12月、NYP。マーラー第6番(アメリカ初演)、ベートーヴェン第5番、シューマン第4番、バルトーク:舞踊組曲、他、。


●12月、クレネクがハムリン大学を突然辞任し、学生や職員らは激怒。クレネクと親しかったミトロプーロスにまで怒りの矛先が向けられ、ミトロプーロスも困り果てます。気候が穏やかなウィーン育ちのクレネクは、5か月も寒さが続くカナダ国境近くの環境が耐えられず、すでに温暖なカリフォルニアに転居し、亡くなるまでの44年間を同地を拠点として暮らしています。


●バーンスタイン、ミネアポリス響に客演。

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 1948年(51〜52歳)

●ミネアポリス響音楽監督退任。


●5月、ミトロプーロス、国際現代音楽協会のニューヨーク公演で、兵士の物語、ベルク:ピアノ、ヴァイオリン、13管楽器のための室内協奏曲を指揮。クラスナー、シュトイアーマンらが演奏。
●夏、ミトロプーロス、ロビンフッド・デル管弦楽団(フィラデルフィア管弦楽団の夏の名前)のコンサートに出演。マーラー第1番など14公演を指揮。この年からテレビ中継もされ始めた共和党大会のおけげで会場への足となるタクシーが出払い、ロンバーグの指揮したポップス・コンサートは天候にも恵まれ1万5千人の大観衆に沸いたものの、ミトロプーロスの指揮する日は悪天候もあって興行収入が激減。シーズン途中で打ち切りが決まり、ミトロプーロスがそのことをステージで発表したため問題となり、以後、ミトロプーロスがフィラデルフィア管弦楽団を指揮することはありませんでした。


●7月、NYP。プッチーニ:トスカ。


●10月、NYP。ツァラトゥストラ、ドン・ファン、イタリアの印象、シェーンベルク:5つの管弦楽曲、ウェーベルン:パッサカリア、ボロディン第2番、ブラームス第1番、チャイコフスキー第4番、シューマン第3番、M.グールド:交響曲第3番、他、。
●11月、NYP。マーラー第7番、チャイコフスキー第5番、ブラームス第1番、スペイン交響曲、他、。
●11月、NYP[ヤング・ピープルズ・コンサート]。魔的序曲、青少年のための管弦楽入門、チャイコフスキー第4番、他。


●冬、ミネアポリス響ツアー。国内27都市で実施。

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 1949年(52〜53歳)

●春、ミネアポリス響ツアー。国内35都市で実施。
●ミトロプーロス、ストコフスキーと共にニューヨーク・フィル音楽顧問に就任。
●8月、NYP。フィンガルの洞窟、大学祝典序曲、ベートーヴェン第3番、ラフマニノフ第2番、ブラームス第4番、メンデルスゾーン第3番、プロコフィエフ:ピアノ協奏曲第3番(弾き振り)、他。


●11月、NYP。古典交響曲、魔笛序曲、謝肉祭序曲、ベートーヴェン第3番、ブラームス第4番、他。
●12月、NYP。ファウスト交響曲、ヴォーン・ウィリアムズ第4番、ベルク:ヴァイオリン協奏曲(シゲティ)、他。
●12月、NYP。R.シュトラウス:エレクトラ。


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 1950年(53〜54歳)

●1月、NYP。三角帽子、セント・ポール組曲、フランチェスカ・ダ・リミニ、オイリアンテ序曲、交響的舞曲、アナクレオン序曲、交響的舞曲、ジークフリート牧歌、セッションズ:交響曲第2番、シューマン第1番、ハイドン第105番、レーガー:ピアノ協奏曲(ゼルキン)、ウェーベルン:交響曲、ブラームス第4番、ベートーヴェン第2番、他。
●4月、NYP。ワルシャワの生き残り、タンホイザー序曲、寄港地、ルイ・ブラス序曲、家庭交響曲、いやいやながらの王様〜ポーランドの踊り、シベリウス第4番、シューベルト第2番、他。


●9月、NYP。売られた花嫁序曲、古典交響曲、三角帽子、オイリアンテ序曲、タンホイザー序曲、他。ニューヨーク・フィルはたびたび巨大なロキシー劇場(約6,000席・1927年)で、映画上映の前に演奏会をおこなっており、映画上映に合わせて、1日4回の短い演奏会を開催。一連の過密公演について、ニューヨーク・フィルのマネージャーであるアーサー・ジャドソンは、膨大な数の映画観衆が劇場に訪れるため良い宣伝になると喜びましたが、演奏者は大変だったようです。


●10月、NYP。英雄の生涯、ローマの謝肉祭、コリオラン、ラ・ヴァルス、ペルペッサス:キリスト交響曲、バッハ:シャコンヌ(カゼッラ編)、ビゼー:交響曲、プロコフィエフ第5番、ベートーヴェン第4番、他。
●11月、NYP。海、スペインの時、スペイン狂詩曲、道化師の朝の歌、亡き王女のためのパヴァーヌ、マ・メール・ロワ、精霊の王序曲、シャクンタラ序曲、オイリアンテ序曲、フィガロの結婚序曲、バビン:カプリッチョ、ミヨー:コエフォール、シューマン第2番、ベートーヴェン第4番、ビゼー第1番、他。
●12月、NYP。スペイン狂詩曲、ケルビーニ:二日間序曲、ペルペッサス:キリスト交響曲、他。


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 1951年(54〜55歳)

●3月、NYP。ペトルーシュカ、イドメネオ組曲(ブゾーニ編)、ロブ・ロイ序曲、フィンガルの洞窟、ウェーバー第1番、アレクサンダー:オーケストラのための墓碑銘、クレネク:交響的悲歌、マリピエロ:ピアノ協奏曲第4番(弾き振り)ラフマニノフ:交響曲第2番、ベートーヴェン第4番、他。
●4月、NYP。ノアの洪水前奏曲、シェロモ、椿姫前奏曲、デロ・ジョイオ:ニューヨーク・プロフィール、モーツァルト第39番、ハイドン第105番、メンデルスゾーン第3番、ビゼー:子供の遊び、バックス:ピカレスク・コメディへの序曲、他。
●4月、NYP。ベルク:ヴォツェック。


●5月、NYP。ワルキューレの騎行、セミラーミデ序曲、ローマの謝肉祭、マドンナの宝石間奏曲、三角帽子、バッハ:幻想曲とフーガ(ミトロプーロス編)、ラフマニノフ:交響曲第2番、メンデルスゾーン第3番、他。


●6月、NYP。ヴェルディ:レクイエム、ブラームス第1番、モーツァルト:イドメネオ組曲(ブゾーニ編)、他。
●7月、NYP。1812年、海、コリオラン、ばらの騎士組曲、スペイン狂詩曲、ラコッツィー行進曲、鬼火のメヌエット、三角帽子、フランク:交響曲、ベートーヴェン第2番、他。


●8月、NYP。エジンバラ音楽祭に出演。コリオラン、魔弾の射手序曲、精霊の王序曲、ヴォーン・ウィリアムズ第4番、プロコフィエフ第5番、ハイドン第105番、ベートーヴェン第4番、クレネク:交響的悲歌、メンデルスゾーン第3番、M.グールド:フィルハーモニック・ワルツ、バックス:ピカレスク・コメディへの序曲、スワンソン:ショート・シンフォニー、ベルリオーズ:ファウストの劫罰より3曲、他。
●9月、NYP。エジンバラ音楽祭に出演。三角帽子、ローマの謝肉祭、ケルビーニ:二日間序曲、ベートーヴェン第2番、ラフマニノフ:交響曲第2番、マリピエロ:ピアノ協奏曲第4番(弾き振り)、他。


●10月、NYP。魔法使いの弟子、後宮からの誘拐序曲(ブゾーニ編)、ブゾーニ:アルレッキーノ、ダンディ:ヴァレンシュタイン、マーラー第1番、ハイドン第80番、サティ:貧者のミサ、パッサカリア(ダイアモンド編)、他。
●11月、NYP。シェーンベルク:期待、バッハ:コラール前奏曲「装うべし、おお愛する魂よ」、「来たれ、創り主にして聖霊なる神よ」.(シェーンベルク編)、モハウプト:交響曲第1番、ハイドン第104番、サン=サーンス第2番、フランク:前奏曲、コラールとフーガ(ピエルネ編)、ミルズ:主題と変奏曲、バラキレフ:イスラメイ(カゼッラ編)、ウォルペ:ミディアンから来た男、他。
●12月、NYP。バッハ:コラール前奏曲「われらみな、唯一なる神を信ず」(ボッセンロス編)、トラヴィス:シンフォニック・アレグロ、ブラームス第1番、他。


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 1952年(55〜56歳)

●2月、NYP。フィデリオ序曲、ベートーヴェン第6番、チャイコフスキー第5番、他。
●3月、NYP。浄夜、ガランタ舞曲、ベアトリスとベネディクト序曲、フランク:交響曲、サン=サーンス第2番、チャイコフスキー第5番、レスピーギ:トッカータ(弾き振り)、M.グールド:フォールリバー伝説、他。
●4月、NYP。ペトルーシュカ、リエンツィ序曲、ガランタ舞曲、ハイドン第86番、シマノフスキー第4番、フランク:交響曲、ブラームス第3番、他。
●4月、NYP。メンデルスゾーン:エリヤ。


●6月、NYP。ばらの騎士組曲、タンホイザー序曲、ガランタ舞曲、モンテヴェルディ:アリアンナの嘆き(オルフ編)、ベートーヴェン第3番、レスピーギ:トッカータ(弾き振り)、他。、
●6月、NYP。ビゼー:カルメン


●11月、NYP。ツァラトゥストラ、ダッタン人の踊り、三角帽子、レオノーレ序曲第1番、リエンツィ序曲、ベンヴェヌートチェッリーニ序曲、ベルク:管弦楽のための3つの小品、ミヨー:クリストフ・コロンブ、ビゼー:交響曲、ブラームス第2番、ブラームス第1番、ベートーヴェン第8番、ショスタコーヴィチ第5番、他。
●10月、NYP。ベートーヴェン:ミサ・ソレムニス、悲劇的序曲、イタリアのハロルド、宗教改革、世界の調和、星条旗よ永遠なれ、フィンガルの洞窟、静かな海と楽しい航海、ボロディン第2番、シューマン第1番、第3番、メンデルスゾーン第3番、アイネム:カプリッチョ、シェーンベルク:ペレアスとメリザンド、ファリャ:はかなき人生、他。
●12月、NYP。スペイン奇想曲、星条旗よ永遠なれ、三角帽子、ベートーヴェン第5番、シューマン第4番、フランク:交響的変奏曲、他。


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 1953年(56〜57歳)

●4月、NYP。コーカサスの風景、ラ・ヴァルス、マイスタージンガー組曲、アルペジョーネ協奏曲、中央アジアの草原にて、スクリャービン:法悦の詩、プロメテウス、ハイドン第100番、プロコフィエフ第5番、他。


●ミトロプーロス、最初の心臓発作で苦しみます。
●11月、NYP。スペイン狂詩曲、交響的舞曲、悲劇的序曲、フィンガルの洞窟、リーバーマン:フリオーゾ、ブロッホ:シェロモ、静かな海と楽しい航海、メンデルスゾーン第3番、ベートーヴェン第2番、シューマン第1番、他。


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 1954年(57〜58歳)

●1月、NYP。ガランタ舞曲、後宮からの誘拐序曲(ブゾーニ編)、ベートーヴェン第1番、モーツァルト:セレナーデ第11番、R.シュトラウス:ブルレスケ、他。
●2月、NYP。アパラチアの春、春のロンド、イベリア、道化師の朝の歌、ハイドン第80番、R.シュトラウス:祝典前奏曲、影の無い女幻想曲、インテルメッツォ抜粋、ベートーヴェン:バレエ「プロメテウスの創造物」、他。
●3月、NYP。ローマの謝肉祭、チャイコフスキー第5番、シューベルト第2番、プロコフィエフ第5番、チャイコフスキー第5番、ブラームス番4番、他。
●3〜4月、NYP。北米ツアー。
●5月、NYP。ナブッコ序曲、ラフマニノフ:交響曲第2番、他。


●8月、VPO。クレネク:交響的悲歌、アイネム:オルケスタームジーク、シューマン第2番、プロコフィエフ第5番、他。ザルツブルク音楽祭。


●10月、NYP。ワルキューレ第1幕、宗教改革、魔弾の射手序曲、ショスタコーヴィチ第10番、プロコフィエフ第5番、他。
●11月、NYP。宗教改革、ハイドン変奏曲、謝肉祭序曲、ハリス:交響的エピグラム、シューマン第2番、スカルコッタス:ギリシャ舞曲、他。


●12月、ミトロプーロス、メトロポリタン歌劇場首席指揮者に就任。サロメ、ヴェルディ:バレエ「ヴィットリオ」。


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 1955年(58〜59歳)

●1〜2月、MET。サロメ、仮面舞踏会、ヴェルディ:バレエ「ヴィットリオ」。


●2月、NYP。ペトルーシュカ、リエンツィ序曲、ガランタ舞曲、ハイドン第86番、シマノフスキー第4番、フランク:交響曲、ブラームス第3番、他。
●3月、NYP。ミヨー:プロヴァンス組曲、ベートーヴェン第3番、他。
●4月、NYP。マーラー第6番、ベートーヴェン第9番、ショスタコーヴィチ第10番、ルーセル第3番、プロコフィエフ第5番、シューマン第2番、他。


●4〜5月、NYP。北米ツアー。
●6月、NYP。プロメテウスの創造物序曲、ベートーヴェン第3番、シューマン第2番、他。


●9〜10月、NYP。イギリス、オーストリア、ドイツ、フランス、ベルギー、スイス、イタリア、ギリシャ・ツアー。
●10月、NYP。神々の黄昏第3幕全曲、他。
●11月、NYP。ツァラトゥストラ、ウェーバー第1番、他。
●12月、NYP。ショスタコーヴィチ第10番、ウェーバー第1番、他。


●11〜12月、MET。トスカ、仮面舞踏会。


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 1956年(59〜60歳)

●1〜5月、MET。トスカ、仮面舞踏会、ボリス・ゴドゥノフ、マノン・レスコー。


●1月、NYP。ハーリ・ヤーノシュ、リエンツィ序曲、レ・プレリュード、キージェ中尉、サン=サーンス:ファエトン、他。
●2月、NYP。太鼓連打、アルプス交響曲、ルスランとリュドミラ序曲、バーバー:メデアの瞑想と復讐の踊り、ショーソン:交響曲、ショスタコーヴィチ:祝典序曲 他。
●3月、NYP。メンデルスゾーン:ルイ・ブラース序曲、メンデルスゾーン、ベートーヴェン:ヴァイオリン協奏曲協奏曲。
●4月、NYP。マーラー第3番、ブラームス第2番、シューマン第1番、道化師の朝の歌、他。


●5月、MET。トスカ、ボリス・ゴドゥノフ。北米ツアー。
●7月、VPO。モーツァルト:ドン・ジョヴァンニ。ザルツブルク音楽祭。


●8月、VPO。ベルリオーズ:レクイエム。ザルツブルク音楽祭。


●8月、VPO。モーツァルト:皇帝ティトの慈悲序曲、R.シュトラウス:アルプス交響曲、他。ザルツブルク音楽祭。


●9月、VPO。モーツァルト:皇帝ティトの慈悲序曲、シェーンベルク:ペレアスとメリザンド、R.シュトラウス:アルプス交響曲。グラーツ歌劇場公演。


●9月、VPO。シェーンベルク:ペレアスとメリザンド、R.シュトラウス:アルプス交響曲。ヴェネツィア公演。


●9月、VPO。シェーンベルク:ペレアスとメリザンド、R.シュトラウス:アルプス交響曲。


●10月、NYP。法悦の詩、魔法使いの弟子、ドン・ファン、カプリコーン協奏曲、アルチェステ序曲、ベートーヴェン第5番、ブラームス第4番、、他。
●11月、NYP。死と変容、スペインの庭の夜、プロコフィエフ第5番、シューマン第1番、、他。


●バーンスタインがニューヨーク・フィル共同首席指揮者に就任。


●11〜12月、MET。トスカ、エルナーニ、カルメン、蝶々夫人。


●12月、MET。エルナーニ。フィラデルフィア公演。
●12月、NYP。セミラーミデ序曲、死と変容、プロコフィエフ第5番、他。


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 1957年(60〜61歳)

●1〜5月、MET。カルメン、エルナーニ、蝶々夫人、トスカ、ワルキューレ。


●1月、NYP。マイエロヴィッツ:交響曲「エステル記のミドラシュ」、ザンドナイ:ロメオとジュリエット、他。
●2月、NYP。幻想交響曲、ベアトリスとベネディクト序曲、M.グールド:ジキルとハイド変奏曲、クビーク:交響曲第3番、シューベルト第5番、他。


●2月、MET。カルメン、ワルキューレ。フィラデルフィア公演。
●3月、NYP。家庭交響曲、幻想交響曲、ベートーヴェン第5番、シュラー:劇的序曲、他。
●4月、NYP。プロコフィエフ第5番、ブラームス第2番、ベートーヴェン第5番、シューベルト第5番、スカルコッタス:ギリシャの踊り、他。


●4月、NYP。北米ツアー。
●4〜5月、MET。カルメン、蝶々夫人、トスカ。北米ツアー。
●5月、NYP。イタリア奇想曲、コダーイ:ハンガリー詩篇、フォス:詩篇、ウォルトン:ベルシャザールの饗宴、ダラピッコラ:タルティーニアーナ、メンデルスゾーン第3番、他。


●8月、VPO。シュラー:金管と打楽器のための交響曲、M.グールド:ジキルとハイド変奏曲、R.マン:管弦楽のための幻想曲、バーバー:メディアの瞑想と復讐の踊り、W.シューマン:サーカス序曲。ザルツブルク音楽祭。


●8月、VPO。R.シュトラウス:エレクトラ。ザルツブルク音楽祭。


●8月、VPO。シューマン第1番、R.シュトラウス:家庭交響曲、他。ザルツブルク音楽祭。


●9月、VPO。シューマン第1番、バーバー:メディアの瞑想と復讐の踊り、他。ルツェルン音楽祭。


●9月、VPO。メンデルスゾーン第5番、マーラー第6番。


●10〜12月、MET。エフゲニー・オネーギン、トスカ


●10月、NYP。スラヴ行進曲、ヴィヴァルディ:ドレスデンのオーケストラのために、シベリウス:メリザンドの死、チャイコフスキー第6番、ヴォーン・ウィリアムズ第4番、プロコフィエフ:ロメオとジュリエット、カバレフスキー第4番、他。
●11月、NYP。禿山の一夜、プロコフィエフ:ロメオとジュリエット組曲、カバレフスキー:交響曲第4番、他。
●12月、NYP。禿山の一夜、カバレフスキー第4番、他。


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 1958年(61〜62歳)

●1〜5月、MET。ヴァネッサ、ジャンニ・スキッキ、サロメ、蝶々夫人、トスカ、エフゲニー・オネーギン。


●2月、NYP。タリス幻想曲、魔笛序曲、大学祝典序曲、R.シュトラウス:ブルレスケ、ブラームス第3番、ブリッツスタイン:リア王のための習作、他。
●3月、NYP。浄夜、魔弾の射手序曲、サロメの踊り、三角帽子、レオノーレ第2番、シェーンベルク:ピアノ協奏曲(グールド)、シチリアーノス:交響曲第1番、マーラー第10番アダージョ、他。
●3月、NYP。R.シュトラウス:エレクトラ。
●3月、NYP[ヤング・ピープルズ・コンサート]。禿山の一夜、大学祝典序曲、ベートーヴェン第2番。


●5〜6月、NYP。南米ツアー。浄夜、大学祝典序曲、運命の力序曲、魔弾の射手序曲、ドン・ファン、ベートーヴェン第2番、ターナー:エンカウンター、プロコフィエフ第5番、ベートーヴェン第2番、ブラームス第3番、バーバー: メディアの瞑想と復讐の踊り、グアルニエリ:プロローグとフーガ、ヒナステラ:クレオールのファウストのための序曲、他。
●ミトロプーロス、ニューヨーク・フィル首席指揮者を退任。バーンスタインが音楽監督に昇格したため。


●8月、コンセルトヘボウ管。バッハ:ピアノ協奏曲第1番(グールド)、ブラームス第3番、ツァラトゥストラ。ザルツブルク音楽祭。


●8月、VPO。バーバー:ヴァネッサ。ザルツブルク音楽祭。


●8月、VPO。大学祝典序曲、ベートーヴェン第2番、他。ザルツブルク音楽祭。


●9月、VPO。レオノーレ第2番、ベートーヴェン第2番、バッハ:幻想曲とフーガ(ミトロプーロス編)、ドン・ファン、浄夜、死と変容、家庭交響曲、ブラームス第3番、第2番、大学祝典序曲。アテネ公演。


●9月、VPO。クープラン/ミヨー編:スルタン組曲〜序曲とアレグロ、シェーンベルク:浄夜、シュミット:交響曲第2番。


●9月、VPO。クープラン/ミヨー編:スルタン組曲〜序曲とアレグロ、シェーンベルク:浄夜、シュミット:交響曲第2番。リンツ公演。


●10〜12月、MET。トスカ、ボリス・ゴドゥノフ、エフゲニー・オネーギン、カヴァレリア、道化師。


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 1959年(62〜63歳)

●1月、MET。トスカ、ヴァネッサ。


●ミトロプーロス、ドイツで2度目の心臓発作で苦しみます。
●8月、VPO。シュミット:7つの封印を有する書。ザルツブルク音楽祭。


●10〜12月、MET。トスカ、蝶々夫人、カヴァレリア、道化師。


●12月、NYP。マーラー第5番、ベートーヴェン:大フーガ、他。


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 1960年(63〜64歳)

●1〜3月、MET。蝶々夫人、カヴァレリア、道化師、トスカ、シモン・ボッカネグラ。


●1月、NYP。マーラー第9番、第10番アダージョ、第1番、ウェーベルン:パッサカリア、リスト:メフィスト・ワルツ、シュラー:スペクトラ、他。


●8月、MET。シモン・ボッカネグラ。クリーヴランド、パブリック・オーディトリアム。
●8月、BPO。メンデルスゾーン第3番、シェーンベルク:変奏曲、ドビュッシー:海。ザルツブルク音楽祭。


●8月、VPO。マーラー第8番。ザルツブルク音楽祭。


●11月2日、ミトロプーロス、ミラノ・スカラ座でのマーラー交響曲第3番第2楽章のリハーサル中に心臓発作を起こし、指揮台から転落。スカラ座の医師であるジャンカルロ・ビオンディが駆け付けますが、意識が戻ることはありませんでした。





商品説明:年表シリーズ

指揮者
アルヘンタ
アンセルメ
オッテルロー
ガウク
カラヤン
クイケン
クーセヴィツキー
クチャル
クナッパーツブッシュ&ウィーン・フィル
クナッパーツブッシュ&ベルリン・フィル
クナッパーツブッシュ&ミュンヘン・フィル
クナッパーツブッシュ&国立歌劇場管
クナッパーツブッシュ&レジェンダリー・オーケストラ
クラウス
クリップス
クレツキ
クレンペラー
ゴロワノフ
サヴァリッシュ
シューリヒト
スイトナー(ドヴォルザーク)
スイトナー(レジェンダリー)
スラトキン(父)
ターリヒ
チェリビダッケ
トスカニーニ
ドラゴン
ドラティ
バルビローリ
バーンスタイン
パレー
フェネル
フルトヴェングラー
ベイヌム
マルケヴィチ
ミトロプーロス
メルツェンドルファー
メンゲルベルク
モントゥー
ライトナー
ラインスドルフ
レーグナー(ブルックナー)
レーグナー(マーラー)
ロスバウト

鍵盤楽器
ヴァレンティ
ヴェデルニコフ
カークパトリック
カサドシュ
グリンベルク
シュナーベル
ソフロニツキー
タマルキナ
タリアフェロ
ティッサン=ヴァランタン
デムス
ナイ
ニコラーエワ
ネイガウス父子
ノヴァエス
ハスキル
フェインベルク
ユージナ
ランドフスカ
ロン

弦楽器
カサド
コーガン
シュタルケル
スポールディング
バルヒェット
フランチェスカッティ
ヤニグロ
リッチ
レビン

管楽器
デルヴォー(ダルティガロング)

声楽
ド・ビーク

室内アンサンブル
グリラー弦楽四重奏団
シェッファー四重奏団
シュナイダー四重奏団
パスカル弦楽四重奏団
パスキエ・トリオ
ハリウッド弦楽四重奏団
バルヒェット四重奏団
ブダペスト弦楽四重奏団
伝説のフランスの弦楽四重奏団
レナー弦楽四重奏団

作曲家
アンダーソン
ベートーヴェン
ヘンツェ
坂本龍一

シリーズ
テスタメント国内盤

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ソニーのミトロプーロス・コンプリートBOX...

投稿日:2022/10/13 (木)

ソニーのミトロプーロス・コンプリートBOXが出た時は本当に嬉しかったが、反面これだけではミトロプーロスの魅力の半分しか伝わらないなとも感じた。そこにスクリベンダムからニューヨーク・フィル・ライヴ集がまるで捕逸のように発売された。ソニーとのダブリは全くなくライヴのみというのもいい。ただこのライヴ集はラジオのリスナーがエアチェックしたもので、50年代の録音としてはドイツの放送録音と比べ格段に音質が落ちる。「世界の調和」なんてミトロプーロスにぴったりの曲だが、音が悪すぎ、フルトヴェングラーと並ぶくらいの名演らしい、という観測に近いものになってしまうのは残念で、はっきり言って半数は普通の鑑賞には耐えない。それでも残りで充分元が取れるのだ。最も音がいいのはCD7の「ペレアス」とヴォーン=ウィリアムズで演奏も最高。「ペレアス」は情念の灼熱地獄のような凄演、ヴォーン=ウィリアムズも激烈で圧倒される。終楽章になだれ込むところが録音者の都合でフェードアウトするのがほんとに惜しい。マーラーも幸い音は良好で大幅カットの3番を除きどれも傑出した演奏。感情の表出を最優先し、そのためには多少のアンサンブルの乱れも厭わないというミトロプーロスの芸術の真髄が聴ける。同内容の韓国レーベルのものが出ていたが、概ねスクリベンダムのほうが復刻はよい。「アルプス交響曲」など別音源かと思うくらい違う。あと、「エレクトラ」の演奏会形式上演は入れてほしかった。演奏も素晴らしく観客の熱狂も凄かったんだが、スクリベンダムはオペラに興味が薄いんだな。ヨーロッパ篇も是非期待したいところだ。

フォアグラ さん | 愛知県 | 不明

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