CD 輸入盤

セルジウ・チェリビダッケ〜DG&DECCAレコーディング全集(33CD)

基本情報

ジャンル
:
カタログNo
:
DG40192
組み枚数
:
33
レーベル
:
:
Korea
フォーマット
:
CD
その他
:
輸入盤

商品説明


セルジュ・チェリビダッケDG&DECCAボックス

没後20年以上を経ても根強い人気のある個性派指揮者、セルジュ・チェリビダッケのシュトゥットガルト時代の録音を中心に集めたセット。内容は、ドイツ・グラモフォンからリリースされたシュトゥットガルト放送交響楽団とスウェーデン放送交響楽団の音源30枚分に、デッカからリリースされたロンドン・フィルとの音源3枚分を収めたというもので、それぞれのディスクは、ドイツ・グラモフォン、およびデッカでの発売の際のオリジナル・デザイン仕様の美麗な紙ジャケットに収められています。


【エネルギッシュ・チェリビダッケ】
チェリビダッケといえば、晩年のスロー・テンポな演奏が有名です。中でも最晩年、1990年以降の6年間の演奏は超スローとなって、なにか特別な儀式のような性格すら帯び、熱烈な支持者以外にはなかなか親しみにくいという面もあったようです。
 このセットには、そうした晩年様式に移行する前、まだまだ元気だった頃のチェリビダッケが指揮した音源が大量に収められています。
 チェリ本来の柔軟なアゴーギクや動的なダイナミズム、繊細で思慮深い一方で、陶酔的までの情感表現にも大胆に踏み込んでいく姿は、やはり壮健な頃のチェリビダッケならではの世界といえ、ブラームスの交響曲第2番第2楽章後半の美しさなどたまりません。チェリのブラ2は、ミュンヘン・フィル(1991)、ベルリン・フィル(1949)、ミラノ・イタリア放送響(1959)の録音も遺されており、どれも解釈の基本は同じながらも、絶妙な「タメ」の効果の美しさではシュトゥットガルト盤が最高の仕上がりとなっています。


【収録内容:リハーサル】
チェリビダッケの指揮年数は半世紀に及びますが、そのうちの9割ほどの期間は、エネルギッシュなスタイルで指揮していたことになり、7か国語を操り、世界各地でおこなわれたリハーサルについても、その情熱的な内容ゆえにときには激しい衝突に至るなど多くの話題を提供してもいました。
 チェリビダッケの音楽は、細部情報に至るまで表現意志を明確にする凝った仕上げゆえに、入念なリハーサルが必須でした。このセットでは、下記の幅広い作品で、シュトゥットガルト放送響とのリハーサルの様子を聴くことができ、そのハイ・テンションぶりに驚かされます。

●ブルックナー交響曲第5番 第4楽章から (1981) [39:20]
●ブルックナー交響曲第7番 第1楽章から (1981) [27:24]
●ブルックナー交響曲第8番 第3楽章から (1976) [13:24]
●ブラームス交響曲第4番 第1楽章から (1974) [27:44]
●ドビュッシー『海』第1楽章から (1977) [47:59]
●R.シュトラウス『死と変容』から (1972) [26:26]
●レスピーギ『ローマの松』から (1972) [11:26]


【収録内容:本番】
以下、オーケストラ別、作曲家生年順に曲目を掲載。モーツァルトからショスタコーヴィチ、自作など、多彩なレパートリーを収録しています。

シュトゥットガルト放送交響楽団
●モーツァルト:交響曲第35番『ハフナー』(1976) [16:21]
●シューベルト:交響曲第5番 (1979) [28:01]
●ブルックナー:交響曲第3番 (1980) [61:14]
●ブルックナー:交響曲第5番 (1981) [83:14]
●ブルックナー:交響曲第7番 (1971) [66:12]
●ブルックナー:交響曲第8番 (1976) [83:20]
●ブルックナー:交響曲第9番 (1974) [59:18]
●ブラームス:交響曲第1番 (1976) [47:29]
●ブラームス:交響曲第2番 (1975) [41:01]
●ブラームス:交響曲第3番 (1976) [34:57]
●ブラームス:交響曲第4番 (1974) [42:47]
●ムソルグスキー:『展覧会の絵』(1976) [34:56]
●リムスキー・コルサコフ:『シェエラザード』(1982) [49:59]
●ドビュッシー:『夜想曲』(1980) [32:16]
●ドビュッシー:『海』(1977) [28:03]
●ドビュッシー:『イベリア』(1980) [26:26]
●R.シュトラウス:『英雄の生涯』(1979) [52:08]
●R.シュトラウス:『ドン・ファン』(1976) [18:21]
●R.シュトラウス:『死と変容』(1982) [27:30]
●ラヴェル:『道化師の朝の歌』(1973) [08:21]
●ラヴェル:『スペイン狂詩曲』(1976) [17:21]
●ラヴェル:『ダフニスとクロエ』第2組曲 (1974) [17:14]
●ラヴェル:組曲『クープランの墓』(1978) [19:23]
●ラヴェル:『ラ・ヴァルス』(1976) [13:00]
●レスピーギ:『ローマの松』(1976) [23:31]
●ストラヴィンスキー:『妖精の口づけ』(1976) [25:20]
●ストラヴィンスキー:『火の鳥』(1978) [23:33]
●プロコフィエフ:『スキタイ組曲』(1975) [23:01]
●プロコフィエフ:交響曲第5番 (1979) [45:15]
●プロコフィエフ:『ロメオとジュリエット』(抜粋)(1981) [20:06]
●チェリビダッケ:『秘密の小箱』(1979) [44:52]

スウェーデン放送交響楽団
●フランク:交響曲ニ短調 (1967) [42:20]
●ブルックナー:交響曲第4番『ロマンティック』(1969) [68:41]
●ドヴォルザーク:チェロ協奏曲 (1967) [45:20]
●シベリウス:交響曲第2番 (1965) [46:29]
●シベリウス:交響曲第5番 (1971) [34:41]
●R.シュトラウス:『ティル・オイレンシュピーゲル』(1971) [16:42]
●R.シュトラウス:『ドン・ファン』(1970) [18:53]
●ヒンデミット:交響曲『画家マティス』(1970) [27:24]
●ショスタコーヴィチ:交響曲第9番 (1971) [24:44]

ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団
チェリがデッカでおこなったセッション録音。モーツァルトの25番は後年とりあげていない演目です。
●モーツァルト:交響曲第25番 (1948) [21:43]
●チャイコフスキー:交響曲第5番 (1948) [50:20]
●チャイコフスキー:組曲『くるみ割り人形』(1948) [22:22]

番外:ベーム&ウィーン・フィル
チェリがデッカに録音したモーツァルト交響曲第25番のオリジナルでの発売が、ベームとの組み合わせだったため、音源重複とはなりますが、敢えてセットに収めたということでした。
●モーツァルト:交響曲第36番『リンツ』(1950) [25:25]


【名前】
チェリビダッケのもともとの姓は「CELEBIDACHI(チェレビダーキ)」でしたが、1936年にドイツに移り住んだ際に、スペルを間違えて「CELIBIDACHE(チェリビダーケ)」と登録され、以後、変更申請せずに過ごしてしまったため、「CELIBIDACHE」で定着してしまいます。
 「CELIBIDACHE」は、そのままドイツ語読みすれば「ツェリビダッヘ」ですが、読み手が、ラテン系の外国人名と判断した場合は、ドイツでも「チェリビダーケ」か、あるいは「チェリビダッケ」「チェリビダケ」などと発音されることが多いようです。
 なお、日本では、読みやすい「チェリビダッケ」ですでに普及しているので、ここでも「チェリビダッケ」と記しておきます。


【他者の影響】
ちなみにチェリビダッケは1936年にベルリン高等音楽院に入学しており、作曲家志望としてティーセンらに師事する一方で、指揮についても勉強していました。指揮科教授は、ブルーノ・ワルター[1876-1962]に引き抜かれてバイエルン国立歌劇場の楽長として活躍していたこともあるオーストリアの指揮者、ヴァルター・グマインドル[1890-1958]。
 グマインドルのもとで指揮技術を身につけたチェリビダッケでしたが、戦前・戦中のベルリンで彼を夢中にさせたのはフルトヴェングラー[1886-1954]で、かなりの頻度でその本番とリハーサルに通い詰めていたのだとか。また、同じ頃にチェリビダッケは、カール・シューリヒトのもとを訪れて教えを受けてもいました。
 フルトヴェングラーもシューリヒトも、楽譜へのアプローチはけっこう自由だったので、若きチェリビダッケに与えた影響には少なからぬものがあったとも考えられますが、チェリビダッケは1940年代には自身のスタイルをすでに確立しており、それはフルトヴェングラーともシューリヒトとも大きく異なるものだったので、少なくとも外面的な影響はあまり受けてはいないようです。


【戦時】
ルーマニア人チェリビダッケは、第2次大戦中はずっとドイツにいましたが、ルーマニア政府が不安定だったことで、その立場にも影響がありました。
 1939年9月1日、ドイツがポーランドに侵攻して第2次大戦が開戦した当時はチェリの立場は「中立国の人間」でしたが、翌1940年10月中旬には、ルーマニアが枢軸国側に加入したため、「同盟国の人間」ということになります。しかしそれから4年を経た1944年8月末には、ルーマニアは連合国に降伏、新政権がドイツに対して宣戦布告をおこなったことで、チェリの立場は「敵性外国人」へと反転しています。
 つまり戦時中のチェリの立場は、13カ月間(約2割)が「中立国の人間」、46か月間(約7割)が「同盟国の人間」、8カ月間(約1割)が「敵性外国人」ということになります。
 ゲシュタポには「敵性外国人」の逮捕・収監を担当する部署があったので、チェリにとっては最後の8か月間が危険な時期だったと思われますが、折からの昼夜を問わない連合国軍の爆撃や、5,000人以上の逮捕者が出たというヒトラー暗殺未遂事件での大捜査、そしてソ連軍の侵攻などの混乱の中、チェリは終戦まで無事に過ごすことができ、さらに「敵性外国人」だったことは、戦後、ドイツを治める外国人組織「占領軍政府」から信頼を勝ち得る際にも非常に良い条件となっていました。


【ベルリン・フィル】
チェリの戦後はベルリンで始まっています。1945年7月、最初に指揮したのはソ連軍占領政府管轄化にあったベルリン放送交響楽団で、8月には同楽団の指揮者コンクールにも優勝。
 ベルリン・フィルの方は、降伏から間もない5月26日、ソ連軍将校の斡旋で、ロシア生まれロシア育ちのドイツ人指揮者レオ・ボルヒャルトの指揮で活動を再開、6月には暫定首席指揮者に就任してもいましたが、8月23日にアメリカ兵によって射殺されてしまったため、ナチ関連疑惑の無いクリーンな指揮者を探しているという状況でした。
 そのベルリン・フィルの目に留まったのが、コンクールに優勝していたチェリビダッケで、6日後の8月29日には指揮台に登場、ドヴォルザーク『新世界より』などでデビューを飾り、10月には首席指揮者に任命。以後、1954年11月30日までに計414回の公演を指揮することになります。
 もっとも、非ナチ化裁判が終わって、フルトヴェングラーが1947年5月にベルリン・フィルに復帰すると、チェリビダッケの指揮回数は減らされ、1948年からは、クレンペラー、クライバー、ヨッフム、シェルヘン、フリッチャイ、カイルベルト、クナッパーツブッシュ、ワルターといった有名指揮者たちも続々客演、チェリビダッケも客演指揮者の一人にすぎないような状況になっていき、さらに1952年にフルトヴェングラーが終身指揮者に就任すると、チェリビダッケの指揮回数はさらに減少。
 とはいえ、聴衆や批評家からのチェリ人気にはまだ大きなものがあり、1953年にはベルリン市から「音楽芸術賞」が贈られてもいたのですが、1954年9月末にフルトヴェングラーの体調が悪化すると事態は暗転。
 10月後半、2週間に及ぶベルリン・フィルのドイツ、オランダ、ベルギー・ツアーの代役が、ウィーン国立歌劇場総監督に就任したばかりのカール・ベームに任されることになってしまったのです。さらに、11月21日と22日には、カラヤンがベルリン・フィルに客演して、ヴォーン=ウィリアムズ『タリス幻想曲』とブルックナーの交響曲第9番を取り上げて成功してもいました。
 カラヤンの3日後におこなわれたチェリの『ドイツ・レクィエム』では、リハーサルでベルリン・フィルと激突したりしていたので、11月28日に、戦後のベルリン・フィル立て直しへの大きな貢献が認められて西ドイツ政府より授与された「ドイツ連邦共和国功労大十字勲章」はチェリには嬉しい叙勲でした。
 そうした栄誉にも関わらず、1954年11月29日の指揮が最後になってしまったのは、フルトヴェングラーが翌30日に亡くなったことを受け、翌1955年2月から4月にかけて予定されていた大規模なベルリン・フィル北米ツアーの代役について、アメリカの主催者がカラヤンを指名してきたことが直接の原因です。カラヤンはこの話に、ベルリン・フィル音楽監督就任を条件に応じ、以後、1989年に亡くなるまでの34年間、1度もチェリビダッケを客演させず、ベルリン・フィル100周年記念行事にも招待しないという徹底ぶりでした。
チェリビダッケ/ベルリン・フィル
チェリビダッケ/ベルリン・レコーディングズ(AUDITE)


【ロンドン・フィル】
フルトヴェングラーは、戦前の1937年にジョージ6世の戴冠記念行事の一環として、ロンドン・フィルに客演、ベートーヴェンの第九を指揮して成功しており、1948年3月には戦後初めてのロンドン・フィルへの客演を果たしており、デッカへのレコーディングもおこなっていました。
 そして翌月には、当時フルトヴェングラーと非常に関係の良かったチェリビダッケがロンドン・フィルに客演、しかもデッカとも契約して初のレコーディング(モーツァルトの交響曲第25番)をおこなうなど、新人指揮者としては異例の厚遇に、フルトヴェングラー効果は歴然でした。
 チェリビダッケは夏の客演時にも、デッカにチャイコフスキーの交響曲第5番をレコーディングし、さらに12月の客演の際にも同じくデッカに『くるみ割り人形』をレコーディングするなど、ロンドン・フィルおよびデッカとの関係は良好かと思われましたが、翌年以降はロンドン・フィルの運営方針が大量の公演こなす方向に変更されたことで客演機会は消失、デッカとの関係も、チェリがEMIのウォルター・レッグと録音契約を結んだことで解消されています。

【諸外国オーケストラへの客演】
1947年のフルトヴェングラーの復帰、1948年以降の著名指揮者たちの相次ぐ客演により、ベルリン・フィルとの演奏会が減少してきたチェリビダッケですが、知名度の方はすでにかなり上がってきていたので、海外からの客演要請も舞い込むようになりました。
 まずフルトヴェングラーとも縁の深かったウィーン交響楽団に1949年4月から客演するようになります。ちなみに当時のウィーン響はカラヤンのもとで大量の公演活動を展開中でした。
 ウィーン響のほかにも、フランス、イタリアからの引きがありましたが、何よりも目立ったのが、メキシコ、ハヴァナ、ヴェネズエラ、アルゼンチン、チリと続く一連の中南米のオーケストラへの客演でした。往年のドイツ・オーストリアの指揮者たちは、高い出演料が稼げる中南米公演を好んでおこなっていましたが、チェリの場合さらに徹底していた感じです。
 しかし1952年、ルーマニア人画家イオアナとアルゼンチンで出会って駆け落ち状態になると、今度は軸足をヨーロッパに戻し、イタリアを中心に指揮活動を展開、ベルリン、スペイン、ロンドン、イスラエルへの客演も交えて多くの公演を指揮、ときに南米に行ったりしながら1950年代を忙しく過ごしています。

【デンマーク王立管弦楽団】
1960年のチェリビダッケは、1〜2月にミラノ、3月にローマ、4月にトリノ、4月末から5月上旬にかけてマドリードという流れで客演し、5月30日にはデンマーク王立管弦楽団に初めて登場。モーツァルト『ジュピター』にラヴェル『クープランの墓』、チャイコフスキー交響曲第4番というプログラムで成功を収め、翌1961年4月にも招かれて3公演を指揮、さらにその年の秋には、デンマーク王立管とドイツ、スペイン・ツアーまで実施。以後、1962年11月、1963年10月、1968年10月、1970年2,12月、1971年4,7,10月、1972年4月、1975年3,10月、1976年9月、1978年9〜10月と数多く客演することになります。
 計18年間に及ぶ長い関係ですが、それはこのオーケストラの実体がデンマーク王立歌劇場管弦楽団で、シンフォニック・コンサートの際には、客演指揮者を招いてデンマーク王立管弦楽団の名前で活動するということと関係があるかもしれません。
 ちなみにチェリが客演していた時期のデンマーク王立歌劇場音楽監督は、地元指揮者のヨーン・フランセン[1918-1996]で、1946年から1980年まで34年間に渡って同劇場でオペラの指揮をしていました。

【スウェーデン放送交響楽団】
1962年10月、チェリは、スウェーデン放送交交響楽団の前身のひとつであるスウェーデン放送の「放送管弦楽団」を初めて指揮。デンマーク王立管弦楽団のもとを訪れる旅程に組み込まれた客演でしたが、結果が良かったため、翌1963年にも呼ばれ、さらに1964年には、4,5,9,10月に客演するなど、その関係はヒートアップし、1965年には、チェリビダッケの提案もあって組織を刷新、、スウェーデン放送にいくつかあったオーケストラをまとめあげて「スウェーデン放送交響楽団」として新たなスタートを切っています。
 その後もチェリビダッケは数多くの公演を指揮して、輝かしい演奏史の構築に貢献、1970年には、政府よりヴァ―サ勲章も授与されるなどその高評価には絶大なものがありました。
 しかし一方で、放送を巡るトラブルや、リハーサルでの時間超過による労組とのトラブルといったマイナス材料も蓄積されており、さらに事実上の音楽監督的な厄介な業務までおこなっていたにも関わらず、首席指揮者のポジションは、スウェーデンの地元指揮者スティグ・ヴェステルベリ[1918-1999]が1958年から1983年までの長期間保持するといった状況で、チェリは絶大な功績にも関わらず無冠の指揮者のままでした。
 こうした背景もあってか、1971年におこなわれたブラームスの『ドイツ・レクィエム』のリハーサルで楽団員、合唱団員と衝突した際、チェリはその場をあとにして、辞任することを決意、以後、2度とスウェーデン放送響を指揮することはありませんでした。
 ちなみに、最後の公演は1971年3月21日におこなわれたシベリウス5番ほかの公演です。
チェリビダッケ/スウェーデン放送交響楽団

【フランス国立放送管弦楽団】
チェリビダッケはシュトゥットガルト放送響の首席指揮者だった1973年に、500キロほど西で活躍していたフランス国立放送管弦楽団の首席客演指揮者に指名され、12月23日のデビュー公演以来良好な関係を構築、フランス国立管弦楽団と名前を変えた1975年には音楽監督にも就任していましたが、フランス政府による同楽団の組織改編のゴタゴタもあってそれから1年を経ずに辞任していました。
チェリビダッケ/フランス国立放送管弦楽団

【ロンドン交響楽団】
チェリビダッケとロンドン響の関係は1953年の客演とEMIへのセッション・レコーディングに始まり、以後、1963、1970、1978、1979、1980、1982、1984年と客演して相性の良いところを見せていました。1980年には日本ツアーも実施。
チェリビダッケ/ロンドン交響楽団

【シュトゥットガルト放送交響楽団】
チェリビダッケとシュトゥットガルト放送響の関係は、1958年9月11日に初まり、翌1959年にも呼ばれ、以後、1964、1965、1967、1968、1970年と客演が続き、1971年には首席客演指揮者に就任、以後は共演回数が飛躍的に増えます。ちなみに「首席客演指揮者」ではありましたが、音楽監督も首席指揮者も居なかったので、1983年にネヴィル・マリナーが首席指揮者に就任するまでは、チェリが事実上の首席指揮者状態でした。肩書の無かった期間も含めるとかなりの長期間の関係となります。
チェリビダッケ/シュトゥットガルト放送交響楽団

【ミュンヘン・フィル】
1979年2月14日、66歳の時にチェリは初めてミュンヘン・フィルを指揮。以後、深刻なトラブルによって辞任寸前まで追い込まれたりしながらも、亡くなるまでの17年間を過ごしています。

最晩年
チェリビダッケの到達点とされる1990年以降の6年間の演奏は、テンポも超スローとなって特別な儀式のような性格すら帯び、共感者にとってはたまらなく魅力的なものの、それほどハマっていない場合にはなかなか親しみにくいという面もあったようです。
 もっとも、最晩年といってもずっと同じような感じだったわけでは無く、チェリの健康状態によって、下記の3つの時期に分けて考えることも可能です。

●1990年〜1991年12月(2年間):ひざ以外は健康。
●1992年1月〜1994年7月(2年半):心臓発作に見舞われるものの時間と共に回復。
●1994年8月〜1996年8月(2年間):鼠径部手術以降は深刻な体調。

きっかけとなっていると考えられる健康問題と、トピックを以下にまとめておきます。

・1990:左膝悪化。以後、着座して指揮。来日(10月)。
・1991:
・1992:心臓発作(1月)。来日(10月)。
・1993:来日(4月)。
・1994:鼠径部疾患の手術(8月)。心臓ペースメーカーの植込み(9月)。来日キャンセル(10月)
・1995:大腿骨骨折(5月)。人工骨に置換する手術。
・1996:死去(8月)。
チェリビダッケ/ミュンヘン・フィル
チェリビダッケ/ザ・ミュンヘン・イヤーズ(49CD)


【年表】


1912年(0歳)
●7月11日、セルジュ・ミハイ・チェレビダーキ(以下、チェリ)、ルーマニア北東部、モルダヴィア地方の町ロマンのギリシャ正教の家庭に誕生。
 父親はギリシャ系ルーマニア人のデモステネ・チェレビダーキで、50歳まで騎兵将校、その後、ヤーシの副市長になった人物。
 母親はルーマニア人のマリア(旧姓ブラテアヌ)で、科学の博士号を持ち、ピアノも弾く女性でした。
 兄弟は姉のマグダ、妹のタニアとソニア、弟のラドゥの計5人。兄弟全員が早くからバレエのレッスンを受けていました。また、ピアノは2台ありましたが、1台はチェリ専用でした。
◆10月、第1次バルカン戦争勃発。ルーマニアは中立。

1913年(1歳)
●1月、家族と共に、ロマンの北東約50キロのところにある同じくモルダヴィア地方のヤーシに転居。ヤーシはルーマニア第2の規模の都市で、長い歴史と文化のある美しい街並みでも知られています。裕福なユダヤ人も多く暮らすこの街で育ったチェリは、ドイツ系ユダヤ人の言語であるイディッシュ語にも堪能になります。
◆6月、第2次バルカン戦争勃発。ルーマニアも参戦し、ブルガリア、オーストリアと交戦。
◆8月、ブカレスト条約により、ルーマニアはブルガリアより南ドブロジャを割譲され国土拡大。

1914年(2歳)
◆7月28日、オーストリアがセルビアに宣戦布告。第1次世界大戦勃発。

1915年(3歳)
●チェリは生まれたときから喋らない子供で、両親も原因がわからず困っていましたが、3歳になると喋りだして、通常の会話がおこなえるようになります。

1916年(4歳)
●チェリ、専用のピアノをあてがわれ、自由に弾くようになります。
◆8月27日、ルーマニア王国、第1次世界大戦に連合国側で参戦。1918年5月7日までの「ルーマニア戦線」で、ロシアと共に、ドイツ、オーストリア、ブルガリア、オスマンを相手に戦い、535,706人の死傷者を出す激戦を展開。ロシアの死傷者は約50,000、ドイツ約190,000、オーストリア約100,000、ブルガリア約30,000、オスマン約20,000という結果でした。
◆12月6日、首都ブカレスト陥落。ブカレストの戦いでは、150,000人を超えるルーマニア兵が俘虜となっています。

1917年(5歳)
◆9月、ルーマニア王国、トゥトラカンの戦いでブルガリアとドイツに惨敗。死傷者数約6,000人、俘虜約2万8000人という結果でした。

1918年(6歳)
◆12月1日、ルーマニア王国は、第1次大戦休戦協定により、戦勝国として、トランシルヴァニア、ブコヴィナ、ドブロジャ、ベッサラビアを領土として獲得、「大ルーマニア」となります。

1920年(8歳)
●チェリ、サッカーに没頭し始めます。のちに右半月板を損傷して手術を受けることとなり、サッカーの道を断念。

1921年(9歳)
●チェリ、父に連れられて聴いたレオ・シロタのショパンに衝撃を受けます。
●チェリ、住み込みのピアノ教師からピアノを教わるようになります(17歳まで)。

1922年(10歳)
●父デモステネ、ヤーシの副市長に就任。

1924年(12歳)
●イオアナ・ディミトレスク[1924-2012]誕生。将来のチェリの妻。

1930年(18歳)
●チェリ、ヤーシ大学で数学と哲学を専攻。音楽の勉強も同時進行。

1931年(19歳)
●チェリ、ヤーシ大学での勉強に疑問を感じ、音楽の勉強に専念すると宣言。息子を政治の道に進ませたかった父親と対立、チェリは実家を出てブカレストで自活する道を選びます。

1932年(20歳)
●チェリ、ブカレストに転居。ダンス・スクールのピアノ奏者となります。生活費のほか、学業継続に必要な資金も稼ぎます。テオドール・ロガルスキー[1901-1954]とテオドール・コスマ[1910-2011]に師事。

1933年(21歳)
◆1月30日、ナチ政権成立。ドイツのヒンデンブルク大統領がヒトラーを首相に任命。「ドイツ国(Deutsches Reich)」の体制は、14年間続いた「ヴァイマル共和政」(通称:ヴァイマル共和国)から「国家社会主義ドイツ労働者党独裁体制」(通称:ナチス・ドイツ)に移行(1945年まで)。
◆3月、ゲッベルスが大臣に就任。ドイツの国民啓蒙・宣伝省大臣として、プロパガンダのほか、新聞・雑誌・放送・音楽・映画・演劇・文学・絵画・観光・旅行などの「管理・検閲」を実施。当初の予算は1400万ライヒスマルクでしたが、1944年には13倍以上の1億8700万ライヒスマルクにまで規模を拡大、下部組織に「帝国文化院」も設置して各分野への統制をおこなっていました。
◆4月7日、ドイツ政府により「職業官吏再建法」が施行。公務員から非アーリア人を追放する法律で、ドイツの全公務員、および新政権により新たに「国有化」された企業・団体の職員が対象。
●チェリ、兵役。当時のルーマニアは第1次世界大戦終戦によって領土が拡大し「大ルーマニア」となっていた時期。戦時ではなかったので、訓練のための兵役でしたが、将校の身分が与えられて戦時には優遇されるため、参加者は多かったようです。

1934年(22歳)
●チェリ、兵役。退役時には騎兵隊士官になっていました。


1935年(23歳)
●チェリ、パリに転居。ジャズ・バンドなどで働いて生活。ある日ラジオから聞こえてきた音楽、ハインツ・ティーセン[1887-1971]の弦楽四重奏曲に感銘を受け、自分で室内楽曲を作曲してティーセン宛に楽譜を送付。ティーセンからベルリンに来るよう電報が届きます。
◆3月、ドイツ、徴兵制復活(再軍備宣言)。
◆4月、ストレーザ戦線。フランス、イタリア、イギリスによりロカルノ条約再確認。
◆5月、仏ソ相互援助条約締結。ドイツ再軍備に対抗する軍事同盟。
◆6月、英独海軍協定締結。イギリスがドイツに接近、ストレーザ戦線の連携は崩壊。

1936年(24歳)
●チェリ、パリからベルリンに転居。当時のチェリは、母国語のルーマニア語に加え、生後半年から19歳まで過ごしたヤーシの町で一般的だったというイディッシュ語、ルーマニアの裕福な家庭で人気のあったフランス語の3言語をすでに操っていましたが、イディッシュ語がドイツ語の方言のような存在であることと、チェリの猛勉強もあって早期にドイツ語も修得、ベルリンでの生活にもほどなく馴染むことができたのだとか。ちなみにルーマニア語話者から見た場合のイタリア語は、理解が比較的容易ということで、戦後はイタリア語も習得して、指揮のほかマスタークラスも受け持つなどイタリアでも大活躍。さらに英語もこなしてロンドン交響楽団とも良い関係を築いていたほか、スペイン語もできたので、スペインと中南米各地のオーケストラによく客演していました。
 ちまりチェリは、その後のキャリアも含めると、ルーマニア語、ドイツ語、イディッシュ語、フランス語、イタリア語、スペイン語、英語の7か国語を駆使して仕事をしていたことになります。

◆3月、ドイツ、ロカルノ条約を破棄し、ラインラントに進駐。
◆6月、フランス人民戦線内閣成立。ユダヤ系のブルム首相による反ファシズム政権(1937年6月まで)。
◆7月17日、スペイン内戦勃発(1939年4月まで)。
◆7月31日、ベルリン・オリンピック開催。
●チェリ、フリードリヒ・ヴィルヘルム大学(現ベルリン・フンボルト大学)で、エドゥアルト・シュプランガー[1882-1963](哲学)、ニコライ・ハルトマン[1882-1950](哲学)らに師事。
●チェリ、ベルリン高等音楽院(現ベルリン芸術大学教授)で、ハインツ・ティーセン(作曲)、フーゴー・ディストラー[1908-1942](対位法)、クルト・トーマス[1904-1973](理論)、フリッツ・シュタイン[1879-1961](理論)、アルノルト・シェリング[1877-1941](音楽学)、ゲオルク・シューネマン[1884-1945](音楽学)らに師事。
●チェリ、フルトヴェングラーの大ファンになり、コンサートのほか、リハーサルにも顔を出して勉強するようになります。

1937年(25歳)
◆5月、パリ万博。

1938年(26歳)
●チェリ、ベルリン高等音楽院(現ベルリン芸術大学教授)で、ヴァルター・グマインドル[1890-1958]に指揮法を師事。
◆11月9日、「水晶の夜」事件発生。ドイツ各地でユダヤ人への一連の弾圧行為へと発展。

1939年(27歳)
◆9月1日、ドイツがポーランドに侵攻。第2次世界大戦開戦。
◆9月3日、イギリスとフランスがドイツに宣戦布告。
◆9月17日、ソ連がポーランドに侵攻。
●チェリ、ドイツ人仏教僧、マルティン・シュタインケ[1882-1966]と知り合って大きな影響を受け、以後、シュタインケが亡くなるまで交流することとなります。


1940年(28歳)
◆4月9日、午前4時、ドイツ軍が不可侵条約を破ってデンマークに侵攻。国王は午前6時に降伏を決定。占領統治は3年後の1943年8月に開始されます。
◆5月11日、チャーチルがイギリスの首相に就任。市街地空爆など民間人攻撃を推進し、最終的にドイツの民間人約41万人を殺害、500万人分以上の住居を破壊しています。
◆5月11〜12日、イギリス空軍、ドイツ西部のメンヒェングラートバッハ空爆。独英間で最初の空爆はイギリス側が実施。
◆6月、フランス、ドイツと46日間戦ったのち休戦協定を締結。大枠で見るとフランス北部がドイツの占領統治、南部が「ヴィシー政権」による統治で、例外が長年の係争地であるエルザス=ロートリンゲン(アルザス=ロレーヌ)地方となります。
 同地方はドイツに割譲という形になったため、1938年に併合したオーストリアと同様、ドイツ政府による統治とし、他のドイツ・オーストリア地域と同じく「大管区」に組み込まれ、徴兵なども実施されることとなります(エルザス=ロートリンゲン地域からの徴兵数は約10万人)。
◆8月25日〜9月4日、イギリス空軍、ベルリン空爆。
◆9月7日、ドイツ空軍、ロンドン空爆(死者約300人)。
◆10月12日、ドイツ軍、ブカレスト進駐。ルーマニアは三国同盟に加入し、中立国から枢軸国に立場が変わります。これによりチェリの立場も同盟国人ということになります。
◆11月14日、ドイツ空軍、コヴェントリー空爆(死者568人)。
●チェリ、ミケランジェリのピアノ演奏を聴いて衝撃を受け、自らのピアニストとしての活動を停止します。
●チェリ、下宿先が市電運転手の家だったことから、国鉄・市電の関係者の合唱団の指揮を時々おこなうようになります。

1941年(29歳)
◆3月27日、ドイツ国防会議により法令布告。闇取引および買い溜めに関する取り締まりを強化。最高刑は死刑。
◆3月29日、ドイツ財務省が法人税増税について発表。前年度利益が3万マルクを超えた場合、利益の25〜30%を徴税。
◆6月、独ソ戦開戦。ドイツ、ルーマニア、スロヴァキア、ハンガリーがソ連に宣戦布告。
●チェリ、指揮者としての本格的な活動を開始。アマチュア・アンサンブル「ベルリン楽友協会管弦楽団」と指揮者契約し、7回以上の公演を指揮しています。また、ベルリン高等音楽院の学生アンサンブルも何度も指揮しています。


1942年(30歳)
◆イギリス空軍、リューベック空爆(死者約320人)。
◆5月30〜31日、イギリス空軍、ケルン空爆(死者約480人)。
◆6月1日、ドイツ空軍、カンタベリー空爆。

1943年(31歳)
◆5月16〜17日、イギリス空軍、ドイツのダムを空爆する洪水作戦を展開(死者約1,300人)。
◆7月27〜28日、連合国軍、ハンブルク空爆(死者約41,000人)。
◆8月、連合国軍、ベルリン空爆開始。翌年3月までの民間人死者約9,400人。
●11月、ドイツ・ルーマニア音楽祭でディヌ・リパッティの作品を指揮。

1944年(32歳)
●1月、ベルリン・フィルの本拠地フィルハーモニーが連合国軍の爆撃で破壊。
◆4月、連合国軍、ベルギーとフランスへの交通機関空爆開始。11月までに民間人など死者約15,000人。
◆6月13日、ドイツ軍、V1ミサイル運用開始。
◆8月23日、ルーマニア国王ミハイ1世が、国家指導者アントネスクを解任・逮捕・拘束し、枢軸国側で第2次大戦に参戦していた政権が崩壊。王党派、自由主義者、共産主義者の連合による「ルーマニア国家民主連合」政権が誕生。
◆8月24日、ルーマニア新政権、連合国に対して降伏。
◆8月25日、ルーマニア新政権、枢軸国ドイツに対して宣戦布告。これにより、チェリの立場は「同盟国人」から「敵性外国人」へと反転してしまいます。脱出の機会も失ってしまったチェリを、約8か月間、市電運転手トビアン夫妻が支援。
◆9月1日、ゲッベルスにより、全ドイツの劇場(歌劇場)閉鎖令が布告。これは7月20日に発生したヒトラー暗殺未遂事件とクーデーターを収拾させたゲッベルスが、国家総力戦総監に任命され、国家総力戦の一環として劇場を閉鎖することを策定したもので、立案は7月末におこなわれ、一部の劇場では早期の運用がおこなわれていました。
●秋、チェリ、ベルリン高等音楽院の学生オーケストラを指揮してブランデンブルク協奏曲を演奏。
◆9月11〜12日、連合国軍、ダルムシュタット空爆(死者約12,300人)。
◆9月12日、ルーマニア新政権、モスクワで、アメリカ・イギリス・ソ連間の休戦協定調印。
◆9月25日、総統命令により、民兵組織「国民突撃隊」の編成が開始。対象者は16歳から60歳の一般市民。約600万人の組織を目指したものの、兵器や軍服の極端な不足や、様々な理由による拒否などにより計画にはまったく満たない状態で、戦果の方も限定的でした。


1945年(33歳)
◆2月12日、連合国軍、スヴィーネミュンデ空爆(死者約23,000人)。
◆2月13〜14日、連合国軍、ドレスデン空爆(死者3万人から15万人)。
◆2月23〜24日、連合国軍、プフォルツハイム空爆(死者2万人以上)。
◆4月16日、赤軍のジューコフ元帥によりベルリン砲撃開始。ベルリンの戦いは3週間続き、ドイツ側死者約32万人、ソ連側死者約8万人という激戦となります。
◆4月30日、ヒトラー自殺。ヒトラーはデーニッツ元帥を後継に指名していたため。同日、臨時政府「フレンスブルク政府」が発足。デーニッツが大統領に就任して降伏のための準備を進めます。また、1月からデーニッツの指示で実施中の海軍による市民と兵士の搬送作戦も5月中旬まで継続され約200万人を救出。
◆5月8日、ルーマニア王国はソ連に占領されて王制廃止。
◆5月9日、ドイツ降伏。2週間後、デーニッツ逮捕により臨時政府解散。
●5月、レオ・ボルヒャルト[1899-1945]がベルリン・フィル暫定首席指揮者に就任。
●7月、チェリ、ベルリン放送響。これが戦後最初の指揮仕事でした。
●8月、ベルリン放送交響楽団の首席指揮者探しのために、ソ連占領軍政府が指揮者コンクールを開催。チェリビダッケは師のハインツ・ティーセンの勧めで参加し、ブラームス交響曲第1番とストラヴィンスキー『火の鳥』を指揮して12人以上の参加者の中から優勝。首席指揮者として契約。
 なお、このベルリン放送交響楽団(Rundfunk-Sinfonieorchester Berlin)は1923年に設立された東側所属の団体で、西側所属のベルリン放送交響楽団は、1946年にアメリカ占領軍政府によって設立されたRIAS交響楽団が、占領統治の終了した1956年にベルリン放送交響楽団(Radio-Symphonie-Orchester Berlin)と改名して誕生しています。
●8月11日、チェリ、ベルリン室内管弦楽団。
●8月23日、レオ・ボルヒャルト、アメリカ兵により射殺。
●8月23日、ロベルト・ヘーガー[1886-1978]がベルリン・フィルを指揮して、ボルヒャルト追悼のためにベートーヴェン『英雄』の葬送行進曲を演奏。しかしナチ党員だったため、アメリカ占領軍政府はヘーガーのその後の指揮を認めませんでした。
●8月29日、チェリ、ベルリン・フィルを初めて指揮。曲目は、ロッシーニ『セビリヤの理髪師』序曲、ヴェーバー:ファゴット協奏曲、ドヴォルザーク『新世界より』というものでした。ベルリン放送響コンクール優勝でチェリのことを知ったベルリン・フィルからの招聘でした。
●8〜12月、チェリ、ベルリン・フィル。
●10月、ベルリン・フィルはチェリを首席指揮者に任命。以後、1954年11月30日までに計414回の公演を指揮することになります。

1946年(34歳)
◆1月、占領軍政府による非ナチ化裁判が開始(1949年まで)。10万人以上のドイツ人が裁判にかけられ、音楽界でもナチ関連疑惑のあった人物が続々と法廷に送られることになったため、連合国軍側の作成したブラックリストに載っていなかった(=知名度が高くない)音楽家たちや、外国人、ユダヤ人たちには大きなチャンスが訪れることになります。
 なお、この各国占領軍政府によって実施された非ナチ化裁判については、アメリカが熱心で、ソ連やイギリス、フランスの占領軍政府ではあまりおこなっていないなど、国によって温度差が大きかったのですが、その後のアメリカ人やユダヤ人音楽家のドイツでの躍進ぶりを考えると、最初からそれが目的だったとも考えられます。
 実際、外国人が入り込めないような公的機関などについては、アメリカによる非ナチ化の追求はほとんどおこなわれなかったようで、裁きようがないために処罰を免れた約800万人以上の元ナチ党員や、党友が普通に生活、占領統治下ながら、行政機構も戦時中からほぼそのまま継続していたため、役人はほとんどが元ナチ党員で、たとえば性的マイノリティの作曲家・指揮者のヘンツェが、西側にも関わらず自殺未遂寸前まで追い込まれたりもしていました。1957年の調査でも、西ドイツ司法省上級職員の元ナチ党員率が約77%、裁判長で約70%となっています。
 ちなみに、ソ連はまず占領地行政の抜本的な変更を最優先し、行政機関の主要な役職は共産主義者に総入れ替えしていました。


●1〜4月、チェリ、ベルリン・フィル。
●5〜7月、チェリ、ベルリン・フィル。ベルリン公演、ドイツ・ツアー。
●8〜9月、チェリ、ベルリン・フィル。
●10〜11月、チェリ、ベルリン・フィル。ベルリン公演、ドイツ・ツアー。
●12月、チェリ、ベルリン・フィル。12月21日、チェリ&ベルリン・フィル、ショスタコーヴィチ7番をドイツ初演。
●チェリ、ベルリン国際音楽院での講義を開始。
●チェリ、フルトヴェングラーの非ナチ化に協力。想定問答までおこないます。

1947年(35歳)
●1〜4月、チェリ、ベルリン・フィル。
●3月、フルトヴェングラーにとって不利な証拠が新たに出てきたということで、審理のやり直しも検討されます。
●4月末、フルトヴェングラーの非ナチ化審理をアメリカ占領軍司令部が承認。判決は「無罪」ではなく「同調者」ですが、これでようやく占領軍地区であるドイツ、オーストリアで制限なく指揮ができるようになります。
●5月、フルトヴェングラーがベルリン・フィルに復帰。しばらくはチェリビダッケと共に戦後の大変な時期を乗り切ります。
●5〜6月、チェリ、ベルリン・フィル。ドイツ・ツアー。
●7〜8月、チェリ、ベルリン・フィル。
●9〜10月、チェリ、ベルリン・フィル。ドイツ・ツアー。
●11〜12月、チェリ、ベルリン・フィル。


1948年(36歳)
●1〜3月、チェリ、ベルリン・フィル。
●4月8,9日、チェリ、ロンドン・フィル。ロンドン・デビュー。
●5月、チェリ、ベルリン・フィル。ドイツ・ツアー。
●6月、チェリ、ベルリン・フィル。
●6〜7月、チェリ、ロンドン・フィル。
●8〜10月、チェリ、ベルリン・フィル。
◆8月30日、共産主義国家となったルーマニアで、国家保安局(セクリターテ)が設立。秘密警察任務にあたり、海外在住の著名なルーマニア人も監視対象にするということで、チェリビダッケにもコード・ネーム「コルブ」が付され、行動・言動・通信などが監視されることとなります。


●11月、チェリ、ベルリン・フィル。英国ツアー、チェリ10回、フルトヴェングラー4回という配分。
●12月、チェリ、ロンドン・フィル。
●チェリ、有名プロデューサー、ウォルター・レッグと会合、EMIとのレコーディング契約に署名。

1949年(37歳)
●1〜4月、チェリ、ベルリン・フィル。
●4月、チェリ、ウィーン響。
●5月、チェリ、ベルリン・フィル。
●9〜10月、チェリ、ベルリン・フィル。
●11〜12月、チェリ、ウィーン響。
●12月、チェリ、ベルリン・フィル。ベルリン公演とドイツ・ツアー。
●チェリ、ウィーン響のほか、フランス、イタリア、中南米のオーケストラにも客演。


1950年(38歳)
●1〜4月、チェリ、ベルリン・フィル。
●5月、チェリ、メキシコ響。
●6月、チェリ、ハヴァナ響。
●6〜7月、チェリ、ヴェネズエラ響。
●9月、チェリ、ベルリン・フィル。
●10月、チェリ、アルゼンチン国立響。
●12月、チェリ、ベルリン・フィル。
●イオアナ・ディミトレスク(のちのチェリの妻)、前年にパリで出会ったルーマニア人男性と共にブエノスアイレスに移り住み、同地で結婚。

1951年(39歳)
●1〜4月、チェリ、ベルリン・フィル。
●5月、チェリ、メキシコ・シティーで喉の手術。
●6月、チェリ、チリ響。
●9月、チェリ、ハンブルク北西ドイツ交響楽団。
●9〜10月、チェリ、ベルリン・フィル。
●12月、チェリ、ベネズエラ交響楽団。

1952年(40歳)
●1〜2月、チェリ、ベネズエラ交響楽団。
●4〜5月、チェリ、アルゼンチン国立響。客演大成功。客席にはイオアナ・ディミトレスクがおり、ブラームスの4番でチェリに夢中になった彼女は、夫を棄ててチェリに同行、駆け落ち状態となります。


●6月、チェリ、トリノ・イタリア放送響。
●8月、チェリ、チリ響。
●10月、チェリ、ベルリン・フィル。
●10月、チェリ、ウィーン響。
●12月、チェリ、スペイン国立菅。
●12月19日、チェリ、トリノでフルトヴェングラーと最後の会合。
●フルトヴェングラー、ベルリン・フィル終身指揮者に就任。
●チェリ、映画『音楽大使』に出演。『エグモント』序曲を指揮。
●チェリ、イタリア、シチリア島沖のエオリア諸島、リーパリ島に広大な土地に7つのアパートメントから成る別荘を取得。20年ほど利用することになります。

1953年(41歳)
●1月、チェリ、ボローニャ・テアトロ・コムナーレ響。
●2月、チェリ、フィレンツェ・テアトロ・コムナーレ管。
●3月、チェリ、ロンドン響。
●3月、チェリ、イダ・ヘンデル、ロンドン響とブラームスを録音。


●5〜6月、チェリ、ベルリン・フィル。
●7〜8月、チェリ、チリ響。
●9月、チェリ、ベルリン音楽芸術賞を受賞。
●10〜11月、チェリ、ベルリン・フィル。

1954年(42歳)
●1月、チェリ、トリノ・イタリア放送響。
●1月、チェリ、ローマ・イタリア放送響。
●1月、チェリ、ボローニャ・テアトロ・コムナーレ響。
●3〜4月、チェリ、イスラエル・フィル。
●5月、チェリ、トリノ・イタリア放送響。
●9〜10月、チェリ、ミラノ・スカラ座管。
●9月11〜13日、クナッパーツブッシュ、ベルリン・フィルとブルックナー3番ほかを演奏。
●10月16〜30日、ベーム、ベルリン・フィルのドイツ、オランダ、ベルギー・ツアーを指揮。
●11月7・8・11日、ロスバウト、ベルリン・フィルとマーラー1番、ヘンツェ3番ほかを演奏。
●11月21・22日、カラヤン、ベルリン・フィルとヴォーン=ウィリアムズ『タリス幻想曲』とブルックナー9番を演奏。
●11月25・26日、チェリ、ベルリン・フィル、聖ヘトヴィヒ大聖堂合唱団、グリュンマー、フィッシャー=ディースカウと『ドイツ・レクィエム』。リハーサルではベルリン・フィルと衝突。
●11月28日、チェリ、「ドイツ連邦共和国功労大十字勲章」叙勲。戦後のベルリン・フィル立て直しへの大きな貢献が認められたものでした。
●11月28・29日、チェリ、ベルリン・フィル、ティーセン『ヴィジョンズ』、ラヴェル『道化師の朝の歌』、バルトーク『管弦楽のための協奏曲』を演奏。翌月のトラブルにより、以後、38年間、ベルリン・フィルの指揮台から遠ざかることになります。
●11月30日、フルトヴェングラー死去。
●12月、翌年2月27日〜4月1日に予定されていた大規模なベルリン・フィル北米ツアーの指揮者死去による代役について、アメリカの主催者がカラヤンを指名。結果的に音楽監督の座もカラヤンが獲得することとなります。チェリビダッケがカラヤンについて、コカ・コーラ云々と語るのはこのことが原因とも考えられます。
●12月13日、カラヤン、ベルリン・フィル首席指揮者に就任。
●12月、チェリ、イスラエル・フィル


1955年(43歳)
●1月、チェリ、イスラエル・フィル。
●2月、チェリ、トリノ・イタリア放送響。
●5月、チェリ、ボローニャ・テアトロ・コムナーレ響。
●10月、チェリ、ミラノ・スカラ座管。
●チェリ、ドイツ批評家賞受賞。

1956年(44歳)
●2月、チェリ、トリノ・イタリア放送響。
●2月、チェリ、ボローニャ・テアトロ・コムナーレ響。
●7月、チェリ、ベネズエラ響。
●9月、チェリ、ミラノ・スカラ座管。
●12月、チェリ、イスラエル・フィル。

1957年(45歳)
●1月、チェリ、イスラエル・フィル。
●2月、チェリ、ナポリ・アレッサンドロ・スカルラッティ管。
●3月、チェリ、トリノ・イタリア放送響。
●5月、チェリ、ボローニャ・テアトロ・コムナーレ響。
●6月、チェリ、アルゼンチン国立響。
●10月7日、チェリ、ベルリン放送響(西)。ベルリン芸術週間最終公演として企画されたハインツ・ティーセン70歳記念祝賀演奏会で、ティーセン作品とベートーヴェン7番を指揮して大成功を収めます。
●10〜11月、チェリ、ケルン放送響とドイツ・ツアー。チャイコフスキー6番などで大成功。一方、ドイツ・レクィエムのゲネプロではハンス・ホッターと口論になり、見学者が帰らされる騒動に。
●12月、チェリ、ナポリ・アレッサンドロ・スカルラッティ管。


1958年(46歳)
●2月、チェリ、イスラエル・フィル。
●3月、チェリ、トリノ・イタリア放送響。
●3月、チェリ、ミラノ・イタリア放送響。
●3月、チェリ、ローマ・イタリア放送響。
●5月、チェリ、ボローニャ・テアトロ・コムナーレ響。
●9月、チェリ、シュトゥットガルト放送響。9月11日、初めて客演。
●9〜10月、チェリ、ケルン放送響とイタリア・ツアー。

1959年(47歳)
●1月、チェリ、ナポリ・アレッサンドロ・スカルラッティ管。
●1月、チェリ、トリノ・イタリア放送響。
●1月、チェリ、ミラノ・イタリア放送響。
●3月、チェリ、ミラノ・イタリア放送響。
●3月、チェリ、スペイン国立管。
●4〜5月、チェリ、ボローニャ・テアトロ・コムナーレ響。
●9月、チェリ、シュトゥットガルト放送響。
●9〜10月、チェリ、ミラノ・スカラ座管。
●12月、チェリ、ナポリ・アレッサンドロ・スカルラッティ管。

1960年(48歳)
●1〜2月、チェリ、ミラノ・イタリア放送響。
●3月、チェリ、ローマ・イタリア放送響。
●4月、チェリ、トリノ・イタリア放送響。
●4〜5月、チェリ、スペイン国立管。
●5月、チェリ、デンマーク王立管。初めての客演。
●6月、チェリ、ミラノ・スカラ座管。
●10月、チェリ、ミラノ・スカラ座管。
●チェリ、シエナのキジアーナ音楽院でマスタークラス。


1961年(49歳)
●1月、チェリ、スペイン国立管。
●3月、チェリ、イスラエル・フィル。
●4月、チェリ、デンマーク王立管。
●4〜5月、チェリ、ボローニャ・テアトロ・コムナーレ響。
●9月、チェリ、トリノ・イタリア放送響。
●9〜10月、チェリ、ミラノ・スカラ座管。
●10月、チェリ、ナポリ・イタリア放送響。
●10〜11月、チェリ、デンマーク王立管とドイツ、スペイン・ツアー。
●11月、チェリ、ローマ・イタリア放送響。
●チェリ、シエナのキジアーナ音楽院でマスタークラス。

1962年(50歳)
●1月、チェリ、トリノ・イタリア放送響。
●1〜2月、チェリ、イスラエル・フィル。
●3月、チェリ、ミラノ・イタリア放送響。
●4〜5月、チェリ、スペイン国立管。
●9〜10月、チェリ、ミラノ・スカラ座管。
●10月、チェリ、スウェーデン放送管弦楽団を初めて指揮。同楽団は1965年には組織を刷新して名称をスウェーデン放送交響楽団に変更、新たなスタートを切っており、初代音楽監督としてチェリが就任していますが、その関係は1962年にすでに始まっていました。
●11月、チェリ、デンマーク王立管。
●12月、チェリ、カラカス響。
●12月、チェリ、ベネズエラ響。
●チェリ、ローマ・イタリア放送響。
●チェリ、ナポリ・イタリア放送響。
●チェリ、シエナのキジアーナ音楽院でマスタークラス。

1963年(51歳)
●1月、チェリ、ベネズエラ響。
●3月、チェリ、スペイン国立管。
●3月、チェリ、ロンドン響。
●5月、チェリ、ボローニャ・テアトロ・コムナーレ響。
●6月、チェリ、スイス・イタリア語放送管弦楽団。
●10月、チェリ、デンマーク王立管。
●10月、チェリ、スウェーデン放送響。
●11〜12月、チェリ、イスラエル・フィル。


1964年(52歳)
●2月、チェリ、シチリア響。
●4月、チェリ、ヴェネツィア・フェニーチェ座管。
●4月、チェリ、スペイン国立管。
●4〜5月、チェリ、スウェーデン放送響。
●5月、チェリ、ボローニャ・テアトロ・コムナーレ響。
●10月、チェリ、ミラノ・スカラ座管。
●9月、チェリ、スウェーデン放送響。
●10月、チェリ、シュトゥットガルト放送響。
●11月、チェリ、スウェーデン放送響。
●12月、チェリ、イスラエル・フィル。

1965年(53歳)
●1月、チェリ、イスラエル・フィル。
●3〜4月、チェリ、スウェーデン放送響。
●5月、チェリ、チェコ・フィル。プラハの春音楽祭に出演。
●5月、チェリ、画家のイオアナ・ディミトレスク[1924-2012]と結婚。13年前のブエノス・アイレスからずっと一緒でした。
●6月、チェリ、シュトゥットガルト放送響。
◆8月22日、チャウシェスク政権によりルーマニアの国名が「ルーマニア社会主義共和国」
●8〜9月、チェリ、スペイン国立管弦楽団に客演。
●10月、チェリ、ミラノ・スカラ座管。
●10月、チェリ、ヴェネツィア・フェニーチェ座管。
●10月、チェリ、イスラエル・フィル。
●11月、チェリ、スウェーデン放送響。


1966年(54歳)
●1月、チェリ、シュターツカペレ・ベルリンと、東ベルリン、ライプツィヒ、ドレスデン・ツアー。
●2月、チェリ、トリノ・イタリア放送響。
●2月、チェリ、ミラノ・イタリア放送響。
●3月、チェリ、スウェーデン放送響。
●4月、チェリ、スウェーデン放送響。
●5〜6月、チェリ、ボローニャ・テアトロ・コムナーレ響。
●6月、チェリ、スウェーデン放送響。
●9月、チェリ、スウェーデン放送響。
●10月、チェリ、ボローニャ・テアトロ・コムナーレ響、ミケランジェリと初共演。
●11月、チェリ、スウェーデン放送響。
●12月、チェリ、シュターツカペレ・ベルリン。

1967年(55歳)
●1月、チェリ、シュターツカペレ・ベルリン。
●1月、チェリ、ナポリ・アレッサンドロ・スカルラッティ管。
●2月、チェリ、ミラノ・イタリア放送響。
●2月、チェリ、ミラノ・イタリア放送響。
●3月、チェリ、スウェーデン放送響。
●チェリ、スウェーデン放送響とデンマーク、ドイツ・ツアー。
●チェリ、シュトゥットガルト放送響。
●6〜7月、チェリ、スウェーデン放送響。
●8月、チェリ、ナポリ・アレッサンドロ・スカルラッティ管。
●8月、チェリ、シチリア響。
●9月、チェリ、スウェーデン放送響。
●秋、チェリ、ミラノ・スカラ座管。
●11〜12月、チェリ、スウェーデン放送響。

1968年(56歳)
●2月、チェリ、シュトゥットガルト放送響。
●3月、チェリ、スウェーデン放送響とスイス、スペイン・ツアー。
●4月、チェリ、ナポリ・イタリア放送響。
●4月、チェリ、ミラノ・イタリア放送響。
●4月、チェリ、トリノ・イタリア放送響。
●5月、チェリ、ローマ・イタリア放送響。
●5月、チェリ、ボローニャ・テアトロ・コムナーレ響。
●6月19日、息子セルジュ・イオアン・チェレビダーキ誕生。母になったイオアナ・チェレビダーキは、育児のため15年間、絵画制作を中断します。
●6月、チェリ、スウェーデン放送響。
●9月、チェリ、スウェーデン放送響。
●10月、チェリ、デンマーク王立管。
●11月、チェリ、スウェーデン放送響。

1969年(57歳)
●チェリ、スウェーデン放送響と西ドイツ、フィンランド、オーストリア・ツアー。
●1月、チェリ、スウェーデン放送響。
●3月、チェリ、スウェーデン放送響と西ドイツ・ツアー。
●4月、チェリ、ミラノ・イタリア放送響。
●4月、チェリ、ローマ・イタリア放送響。
●5月、チェリ、トリノ・イタリア放送響。
●5月、チェリ、スウェーデン放送響とフィンランド・ツアー。
●9月、チェリ、スウェーデン放送響とベルリン芸術祭、西ドイツ、オーストリア・ツアー。
●10月、チェリ、トリノ・イタリア放送響。
●10月、チェリ、ミラノ・スカラ座管。
●10〜11月、チェリ、バンベルク響。初めて客演。
●11月、チェリ、スウェーデン放送響。
●12月、チェリ、イスラエル・フィル。

1970年(58歳)
●1月、チェリ、パリ管。
●2月、チェリ、デンマーク王立管。
●3月、チェリ、スウェーデン放送響。
●4月、チェリ、トリノ・イタリア放送響。
●4月、チェリ、ミラノ・イタリア放送響。
●5月、チェリ、スウェーデン放送響。
●6月、チェリ、スウェーデン放送響と西ドイツ、オーストリア、ルーマニア・ツアー。
●10月、チェリ、ボローニャ・テアトロ・コムナーレ響。
●11月、チェリ、スペイン放送響。
●9〜10月、チェリ、スウェーデン放送響。
●11月、チェリ、スウェーデン放送響とオランダ、西ドイツ・ツアー。
●12月、チェリ、デンマーク王立管。
●チェリ、ケルン放送響。
●チェリ、シュトゥットガルト放送響。
●チェリ、ロンドン響。
●チェリ、チェコ・フィル。
●チェリ、デンマークでレオニー・ソニング音楽賞受賞。
●チェリ、スウェーデンでヴァ―サ勲章叙勲。

1971年(59歳)
●3月、チェリ、スウェーデン放送響。3月21日が最後の公演。
●4月、チェリ、デンマーク王立管。
●4月、チェリ、ボローニャ・テアトロ・コムナーレ響。
●6月、チェリ、シュトゥットガルト放送響。
●7月、チェリ、デンマーク王立管。
●9月、チェリ、ボローニャ・テアトロ・コムナーレ響。
●10月、チェリ、デンマーク王立管。
●11月、チェリ、バルセロナ交響楽団。

1972年(60歳)
●4月、チェリ、デンマーク王立管。
●5月、チェリ、シュトゥットガルト放送響。
●5月、チェリ、ボローニャ・テアトロ・コムナーレ響。
●10月、チェリ、ボローニャ・テアトロ・コムナーレ響。
●11月、チェリ、シュトゥットガルト放送響とドイツ・ツアー。
●12月、チェリ、スペイン国立管弦楽団。

1973年(61歳)
●5月、チェリ、スロヴァキア・フィル。
●5月、チェリ、ボローニャ・テアトロ・コムナーレ響。
●11月、チェリ、シュトゥットガルト放送響。本拠地公演のほかドイツ・ツアー。
●12月、チェリ、シュトゥットガルト放送響。
●12月、チェリ、フランス国立放送管。12月23日が同楽団へのデビュー公演。

1974年(62歳)
●1月、チェリ、フランス国立放送管。
●2月、チェリ、フランス国立放送管。
●3月、チェリ、シュトゥットガルト放送響。本拠地公演のほかドイツ・ツアー。
●4月、チェリ、シュトゥットガルト放送響。
●5〜6月、チェリ、フランス国立放送管。
●8月、チェリ、スイス祝祭管弦楽団。
●8〜10月、チェリ、フランス国立放送管。
●11月、チェリ、シュトゥットガルト放送響。
●12月、チェリ、シュトゥットガルト放送響。本拠地公演のほかドイツ・ツアー。

1975年(63歳)
●1月、チェリ、パリ管。
●3月、チェリ、デンマーク王立管。
●3月、チェリ、シュトゥットガルト放送響。
●4月、チェリ、シュトゥットガルト放送響。本拠地公演のほかドイツ・ツアー。
●6月、チェリ、トリノ・イタリア放送響。
●10月、スイス・イタリア語放送管。
●10月、チェリ、デンマーク王立管。
●11月、チェリ、シュトゥットガルト放送響。
●12月、チェリ、シュトゥットガルト放送響。本拠地公演のほかドイツ・ツアー。

1976年(64歳)
●3月、チェリ、シュトゥットガルト放送響。本拠地公演のほかヨーロッパ・ツアー。
●4月、チェリ、シュトゥットガルト放送響。
●6月、チェリ、シュトゥットガルト放送響。本拠地公演のほかスペイン・ツアー。
●9月、チェリ、デンマーク王立管。
●10月21日、チェリ、シュトゥットガルト放送響、マンハイム、ブラームス交響曲第1番。
●10〜12月、チェリ、シュトゥットガルト放送響。本拠地公演のほかヨーロッパ・ツアー。

1977年(65歳)
●1〜2月、チェリ、シュトゥットガルト放送響。
●10月、チェリ、読売日本交響楽団。
●11月、チェリ、シュトゥットガルト放送響。
●チェリ、ラインラント=プファルツ州のトリーアで指揮者講習。
●チェリ、ラインラント=プファルツ・フィルハーモニー。

1978年(66歳)
●1月、チェリ、ジョルジュ・エネスク・フィル。
●3月、チェリ、読売日本交響楽団。
●4月、チェリ、ロンドン響。
●9〜10月、チェリ、デンマーク王立管。
●10月、チェリ、シュトゥットガルト放送響。
●11〜12月、チェリ、スペイン国立管弦楽団。
●チェリ、ラインラント=プファルツ州のトリーアで指揮者講習。
●チェリ、ラインラント=プファルツ・フィルハーモニー。
●チェリ、マインツ、ヨハネス・グーテンベルク大学名誉教授。

1979年(67歳)
●2月14日、チェリ、ミュンヘン・フィルとの最初のコンサート。
●3〜4月、チェリ、スペイン国立管弦楽団。
●6月、チェリ、ミュンヘン市の音楽総監督に就任し、ミュンヘン・フィル首席指揮者となります。バイエルン芸術アカデミー会員にも選出。1公演の報酬は15,000マルク。
●6月、チェリ、ミュンヘン・フィル。
●9月、チェリ、ロンドン響。
●10月、チェリ、ミュンヘン・フィル。
●10月、チェリ、シュトゥットガルト放送響。
●11月、チェリ、シュトゥットガルト放送響とドイツ・ツアー。
●11〜12月、チェリ、スペイン国立管弦楽団。

1980年(68歳)
●1月、チェリ、ミュンヘン・フィル。
●2月、チェリ、シュトゥットガルト放送響。
●4月、チェリ、ロンドン響と日本ツアー。
●5〜6月、チェリ、ミュンヘン・フィルと指揮者講習会を開催。以後、毎年のように開催。
●10月、チェリ、ミュンヘン・フィル。
●10月、ミュンヘン・フィルハーモニー合唱団の指揮者、ハンス・ルドルフ・ツェーベライ[1931-2007]が辞任。チェリは合唱のリハーサルまでおこなうため、チェリの指揮する公演に関しては、合唱指揮者の仕事が下稽古のみとなることに不満を持っての辞任でした。
●11月、チェリ、シュトゥットガルト放送響。

1981年(69歳)
●1月、チェリ、ミュンヘン・フィル。
●2月、チェリ、シュトゥットガルト放送響。
●3月、チェリ、ミュンヘン・フィル。
●5月、チェリ、シュトゥットガルト放送響。
●6〜7月、チェリ、ミュンヘン・フィル。
●10月、チェリ、ミュンヘン・フィル。ベルリン芸術週間にも出演。
●11月、チェリ、ミュンヘン・フィル。

1982年(70歳)
●1〜2月、チェリ、ミュンヘン・フィル。
●2〜3月、チェリ、シュトゥットガルト放送響。
●4月、チェリ、ロンドン響。
●7月、チェリ、ミュンヘン・フィル。
●10月、チェリ、ミュンヘン・フィル。ベルリン芸術祭にも参加。
●11月、チェリ、シュトゥットガルト放送響。

1983年(71歳)
●1〜3月、チェリ、ミュンヘン・フィル。
●6月、チェリ、シュトゥットガルト放送響。最後の客演。
●6〜7月、チェリ、ミュンヘン・フィル。
●9月、チェリ、ミュンヘン・フィル。ベルリン芸術週間にも出演。
●10月、チェリ、ミュンヘン・フィルとドイツ、フランス、イタリア、スペインのツアー。
●11〜12月、チェリ、ミュンヘン・フィル。

1984年(72歳)
●1〜2月、チェリ、ミュンヘン・フィル。
●2月27日、チェリ、フィラデルフィア、カーティス音楽院学生オーケストラを指導し、カーネギーホールで公演。
●チェリ、痛風が悪化し、公演多数キャンセル。ミュンヘン市と争いになり、市側は翌年秋の北米ツアーにマゼールを高額なギャラで起用するなどして対立は深刻化。
●11月、チェリ、病状回復し、ロンドン響に客演。
●11月19日、チェリとミュンヘン市との争いの調停役として、市長のゲオルク・クローナヴィッターが登場しますが不首尾に終わり、チェリはミュンヘン・フィルに別れを告げます。

1985年(73歳)
●1月17日、バイエルン芸術アカデミー会長や作曲家、演奏家などの尽力により、チェリとミュンヘン市とのあいだに和解成立。翌月より復帰が決定。
●2月23日、チェリ、ミュンヘン・フィルの指揮台に復帰。
●3〜6月、チェリ、ミュンヘン・フィル。
●9〜10月、チェリ、ミュンヘン・フィル。本拠地公演のほか、チェコ、東ドイツ・ツアー。
●10月17日〜11月1日、ミュンヘン・フィル、マゼールと北米ツアー。係争中に結ばれた契約によるものでした。
●11月、ミュンヘン、ガスタイク・フィルハーモニー、オープン。記念公演など開催。
●12月、チェリ、ミュンヘン・フィルとフランス・ツアー。


1986年(74歳)
●1月、チェリ、ミュンヘン・フィル。
●2月、チェリ、ミュンヘン・フィル。本拠地公演のほか、ザルツブルク、ワルシャワ公演。
●3〜4月、チェリ、ミュンヘン・フィル。
●6月、チェリ、ミュンヘン・フィル。
●9月、チェリ、ミュンヘン・フィル。本拠地公演のほか、ベルリン芸術週間にも出演。
●10月、チェリ、ミュンヘン・フィル。本拠地公演のほか、日本ツアー。
●12月、チェリ、ミュンヘン・フィル。

1987年(75歳)
●1月、チェリ、ミュンヘン・フィル。本拠地公演のほか、ドイツ・ツアー。
●2月、チェリ、ミュンヘン・フィル。本拠地公演のほか、スペイン、イタリア・ツアー。
●3〜6月、チェリ、ミュンヘン・フィル。本拠地公演のほか、フィレンツェ公演など。
●7月21日、チェリ、ミュンヘン市名誉金メダル授与。
●8月、チェリ、シュレスヴィヒ・ホルシュタイン音楽祭でインターナショナル・ユース・オーケストラを指揮。ツアーも。
●9月、チェリ、ミュンヘン・フィル。本拠地公演のほか、イタリア、オーストリア、ドイツ・ツアー。聖フローリアン教会でブルックナー8番。
●10月、チェリ、ミュンヘン・フィル。本拠地公演のほか、ベルリン、ライプツィヒ・ツアー。
●11月、チェリ、ミュンヘン・フィル。本拠地公演のほか、スイス・ツアー。

1988年(76歳)
●1月、チェリ、ミュンヘン・フィル。本拠地のほかパリでも演奏。
●2〜3月、チェリ、ミュンヘン・フィル。
●4月、チェリ、ミュンヘン・フィルとドイツ、オーストリア・ツアー。
●8月、チェリ、シュレスヴィヒ・ホルシュタイン音楽祭でインターナショナル・ユース・オーケストラを指揮。ツアーも。
●9月、チェリ、ミュンヘン・フィル。ベルリン芸術週間にも出演。
●10月、チェリ、ミュンヘン・フィルとドイツ・ツアー。
●10月、チェリ、ミュンヘン・フィルとモスクワ公演。ヘルムート・コール首相のロシア訪問に随行したものでした。
●11月、チェリ、ミュンヘン・フィルとイスラエル・ツアー。
●12月、チェリ、ミュンヘン・フィル。

1989年(77歳)
●1月、チェリ、ミュンヘン・フィル。本拠地のほかザルツブルクでも演奏。
●3月、チェリ、ミュンヘン・フィル。
●4月、チェリ、ミュンヘン・フィルとアメリカ・ツアー。
●5〜6月、チェリ、ミュンヘン・フィル。
●9月、チェリ、ミュンヘン・フィル。聖フローリアン教会でブルックナー7番。
●10月、チェリ、ミュンヘン・フィルとフランス、スペイン・ツアー。
●11月、チェリ、ミュンヘン・フィル。


1990年(78歳)
●1・2月、チェリ、ミュンヘン・フィル、プロコ5番、ショスタコ9番、ブラームス『二重協奏曲』、モーツァルト『協奏交響曲』ほか。
●2月14〜16日、チェリ、ミュンヘン・フィル、ルーマニア・ツアー。チャウシェスク政権崩壊を受け、ドイツ外務省の費用での公演。ミュンヘン市民の寄付による支援物資と共に、首都ブカレストほかを訪れます。
●3月、チェリ、ミュンヘン・フィル、シューベルト『グレート』、ブルックナー:ミサ曲第3番、ベートーヴェン:P協3番、モーツァルト:P協22番。
●4月、チェリ、ミュンヘン・フィル、シューマン第2番、モーツァルト:Vn協1番。
●5〜6月、チェリ、ミュンヘン・フィル、プラハ/ライプツィヒ/東ベルリン/ウィーン・ツアー。『運命の力』序曲、『ドン・ファン』、ブラームス1番。
●9月、チェリ、ミュンヘン・フィル、『どろぼうカササギ』序曲、『ドン・ファン』、ブラームス4番、ブルックナー4番、ブルックナー8番。聖フローリアン教会でブルックナー:ミサ曲第3番。
◆10月3日、東西ドイツ統一。
●10月4〜24日、チェリ&ミュンヘン・フィル、日本ツアー。ブラームス4番、ブルックナー4番、ブルックナー7番、ブルックナー8番ほか。
●11月9日、ヴァイツゼッカー大統領がチェリビダッケに対して、日本公演の大成功を祝福したのち、ベルリン・フィルの春の慈善公演の指揮を打診。例年、バーンスタイン[1918-1990]が指揮していたものの、10月14日にバーンスタインが亡くなったため、1992年の公演について出演要請をおこなったものでした。
●11月22日、チェリビダッケ、大統領からの出演要請に対し快諾。
●11月、チェリ、ミュンヘン・フィル、バッハ:ロ短調ミサ、ベートーヴェン4番、ブラームス:P協2番。チェリ初のロ短調ミサということで、リハーサルは12回も実施。

1991年(79歳)
●1〜3月、チェリ、ミュンヘン・フィル。
●4月、チェリ、ミュンヘン・フィルとドイツ・ツアー。
●5月、チェリ、ミュンヘン・フィル。
●6〜7月、チェリ、ミュンヘン・フィルとオランダ、イタリア、ドイツ・ツアー。
●9月、チェリ、ミュンヘン・フィル。聖フローリアン教会でブルックナー3番。
●10月、チェリ、ミュンヘン・フィルとパリ、ルーアン、マドリード、キエフ・ツアー。ウクライナ独立から間もないキエフでは、支援物資も提供。
●11月、チェリ、ミュンヘン・フィル。
◆12月25日、ソ連崩壊。ゴルバチョフ大統領の辞任により。
●チェリ、ミュンヘン音楽大学の名誉教授に任命。

1992年(80歳)
●1月、チェリ、ミュンヘン・フィル。
●1月、チェリ、心臓発作を起こし、1月下旬から3月終わり近くまでのほとんどの公演をキャンセル。復帰後最初の指揮がベルリン・フィルとの38年ぶりの共演でしたが、これはまだ本当に回復したわけではないにも関わらず、大統領から依頼された重要公演ということで無理して出演したようで、その後さらに2週間近く経過したのち、ミュンヘン・フィルの指揮台に復帰しています。
●3月31日〜4月1日、チェリ、ヴァイツゼッカー大統領の要請で、38年ぶりにベルリン・フィルを指揮してブルックナーの第7番を演奏。
●4月、チェリ、ミュンヘン・フィル。
●5月、チェリ、ミュンヘン・フィルと南米ツアー。セヴィリア万博でも演奏。
●6月、チェリ、ミュンヘン・フィル。ケルン公演も実施。
●6月、チェリ、ドイツ連邦共和国功労十字大勲章授与。
●7月11日、チェリ、ミュンヘン市の名誉市民となり、パスポートの国籍欄も「ドイツ」となりました。それまでは、戦後、連合国占領時代に発行されたベルリン市の身分証明書とパスポートを使用していたため、国籍欄は「ベルリン市民」でした。
●9月、チェリ、ミュンヘン・フィル。ベルリン芸術週間にも出演。
●10月、チェリ、ミュンヘン・フィルとアジア、日本ツアー。
●11月、チェリ、ミュンヘン・フィル。
●チェリ、ルーマニア・アカデミーの名誉会員に選出。
●チェリ、ヤーシ芸術大学より名誉博士号授与。

1993年(81歳)
●1〜3月、チェリ、ミュンヘン・フィル。
●3月、チェリ、ミュンヘン・フィルとスペイン・ツアー。
●4月、チェリ、ミュンヘン・フィルと日本ツアー。
●6月、チェリ、ミュンヘン・フィルとドイツ・ツアー。
●7月、チェリ、ミュンヘン・フィルとスペイン・ツアー。
●9月、チェリ、ミュンヘン・フィル。
●10月、チェリ、ミュンヘン・フィルとアルゼンチン、ブラジル、スペイン・ツアー。
●11月、チェリ、ミュンヘン・フィル。
●チェリ、バイエルン・マクシミリアン科学芸術勲章。
●チェリ、ミュンヘンで「音楽の現象論」に関する講演。

1994年(82歳)
●2〜3月、チェリ、ミュンヘン・フィル。
●4月、チェリ、ミュンヘン・フィルとオーストリア、スペイン・ツアー。
●5月、チェリ、ミュンヘン・フィル。ミュンヘン公演とドイツ・ツアー。
●6月、チェリ、ミュンヘン・フィル。
●8月、チェリ、鼠径部疾患の手術。
●9月、チェリ、ミュンヘン・フィル。
●9月、チェリ、発作。舞台上から救急病院に搬送。心臓ペースメーカーを植込まれます。
●10月、チェリ、ミュンヘン・フィル。日本ツアー、キャンセル。
●11月、チェリ、ミュンヘン・フィル。
●1公演報酬45,000マルク。

1995年(83歳)
●1月、チェリ、ミュンヘン・フィル、モーツァルト:レクィエム演奏。
●1〜2月、チェリ、ミュンヘン・フィル、スペイン・ツアー。
●3〜4月、チェリ、ミュンヘン・フィル。
●5月、チェリ、フランス政府より芸術文化勲章を授与。
●5月、チェリ、フィレンツェのホテルで転倒して大腿骨を骨折。人工骨に置換する手術。
●6月12日、親しかったピアニスト、アルトゥーロ・ベネデッティ・ミケランジェリ[1920-1995]、スイスのルガーノで死去。
●9月、チェリ、ミュンヘン・フィル。ブルックナー9番で復帰。数は大幅に減らすものの、以後も指揮・教育は継続。
●チェリ、フランス政府よりレジオンドヌール勲章叙勲。

1996年(84歳)
●1月、チェリ、ミュンヘン・フィル。
●4月、チェリ、ミュンヘン・フィル。
●6月、チェリ、ミュンヘン・フィル。最後のコンサートは6月4日のベートーヴェン2番ほか。
●8月14日、チェリ、パリ近郊のヌーヴィユにある別荘で死去。
●8月16日、チェリ、墓地に埋葬。


【収録情報】

CD 01
●ブラームス:交響曲第1番ハ短調, Op.68 [47:29]
1.Un poco sostenuto - Allegro - Meno allegro [13:17]
2.Andante sostenuto [10:01]
3.Un poco allegretto e grazioso [05:39]
4.Adagio - Piu andante - Allegro non troppo, ma con brio - Piu allegro [18:32]

シュトゥットガルト放送交響楽団
セルジュ・チェリビダッケ(指揮)

録音時期:1976年10月21日
録音場所:マンハイム、モーツァルトザール
録音方式:ステレオ

CD 02
●ブラームス:交響曲第2番ニ長調, Op.73 [41:01]
1.Allegro non troppo [14:45]
2.Adagio non troppo - L'istesso tempo, ma grazioso [11:15]
3.Allegretto grazioso (Quasi Andantino) - Presto ma non assai - Tempo I [05:19]
4.Allegro con spirito [09:42]

シュトゥットガルト放送交響楽団
セルジュ・チェリビダッケ(指揮)

録音時期:1975年4月11日
録音場所:シュトゥットガルト、リーダーハレ
録音方式:ステレオ

●ブラームス:交響曲第3番ヘ長調, Op.90 [34:57]
5.Allegro con brio [09:13]
6.Andante [10:14]
7.Poco Allegretto [06:10]
8.Allegro [09:20]

シュトゥットガルト放送交響楽団
セルジュ・チェリビダッケ(指揮)

録音時期:1976年11月19日
録音場所:シュトゥットガルト、リーダーハレ
録音方式:ステレオ

CD 03
●ブラームス:交響曲第4番ホ短調, Op.98 [42:47]
1.Allegro non troppo [12:56]
2.Andante moderato [12:59]
3.Allegro giocoso - Poco meno presto - Tempo I [06:23]
4.Allegro energico e passionato - Più allegro [10:29]

シュトゥットガルト放送交響楽団
セルジュ・チェリビダッケ(指揮)

録音時期:1974年3月23日
録音場所:ヴィースバーデン、クアハウス、フリードリヒ=フォン=ティールシュ=ザール
録音方式:ステレオ

CD 04
●ブラームス:交響曲第4番ホ短調, Op.98 (リハーサル)[27:44]
1.Allegro non troppo [27:44]

シュトゥットガルト放送交響楽団
セルジュ・チェリビダッケ(指揮)

録音時期:1974年11月
録音場所:シュトゥットガルト、SDR、フンクシュトゥディオ
録音方式:ステレオ

CD 05
●ブルックナー:交響曲第3番ニ短調(ノヴァーク版)[61:14]
1.Merl langsam.Misterioso [23:40]
2.Adagio, bewegt, quasi Andante [17:12]
3.Ziemlich schnell [06:56]
4.Allegro [13:26]

シュトゥットガルト放送交響楽団
セルジュ・チェリビダッケ(指揮)

録音時期:1980年11月24日
録音場所:シュトゥットガルト、リーダーハレ
録音方式:ステレオ

CD 06
●ブルックナー:交響曲第4番変ホ長調『ロマンティック』(ノヴァーク版)[68:41]
1.Bewegt, nicht zu schnell [19:05]
2.Andante quasi Allegretto [16:05]
3.Scherzo.Bewegt - Trio.Nicht zu schnell.Keinesfalls schleppend [09:48]
4.Finale.Bewegt, doch nicht zu schnell [23:43]

スウェーデン放送交響楽団
セルジュ・チェリビダッケ(指揮)

Recorded: 24 September 1969, Berlin

CD 07
●ブルックナー:交響曲第5番変ロ長調 (ハース版)[83:14]
1.Introduction.Adagio - Allegro [21:45]
2.Adagio.Sehr langsam [23:09]
3.Scherzo.Molto vivace (Schnell) - Trio im gleichen Tempo [13:35]
CD 08
1.Finale.Adagio - Allegro moderato [24:45]

シュトゥットガルト放送交響楽団
セルジュ・チェリビダッケ(指揮)

録音時期:1981年11月25,26日
録音場所:シュトゥットガルト、リーダーハレ
録音方式:ステレオ

●モーツァルト:交響曲第35番ニ長調, K.385『ハフナー』[16:21]
2.Allegro con spirito [05:12]
3.Andante [04:44]
4.Menuetto - Trio [02:46]
5.Finale.Presto [03:39]

シュトゥットガルト放送交響楽団
セルジュ・チェリビダッケ(指揮)

録音時期:1976年6月24日
録音場所:シュトゥットガルト、リーダーハレ
録音方式:ステレオ

CD 09
●ブルックナー:交響曲第7番ホ長調 (ハース版)[66:12]
1.Allegro moderato [21:05]
2.Adagio.Sehr feierlich und sehr langsam [23:48]
3.Scherzo.Sehr schnell - Trio.Etwas langsamer [09:45]
4.Finale.Bewegt, doch nicht schnell [11:34]

シュトゥットガルト放送交響楽団
セルジュ・チェリビダッケ(指揮)

録音時期:1971年6月8日
録音場所:シュトゥットガルト、リーダーハレ
録音方式:ステレオ

CD 10
●ブルックナー:交響曲第8番ハ短調 (ノヴァーク版) [83:20]
1.Allegro moderato [16:16]
2.Scherzo.Allegro moderato - Trio.Langsam [13:52]
3.Adagio.Feierlich langsam, doch night schleppend [27:08]
CD 11
1.Finale.Feierlich, nicht schnell [26:04]

シュトゥットガルト放送交響楽団
セルジュ・チェリビダッケ(指揮)

録音時期:1976年11月23日
録音場所:シュトゥットガルト、リーダーハレ
録音方式:ステレオ

●シューベルト:交響曲第5番変ロ長調, D.485 [28:01]
2.Allegro [04:46]
3.Andante con moto [12:24]
4.Menuetto.Allegro molto - Trio [05:04]
5.Allegro vivace [05:47]

シュトゥットガルト放送交響楽団
セルジュ・チェリビダッケ(指揮)

録音時期:1979年10月31日
録音場所:シュトゥットガルト、リーダーハレ
録音方式:ステレオ

CD 12
●ブルックナー:交響曲第9番ニ短調 (ノヴァーク版)[59:18]
1.Feierlich.Misterioso [24:24]
2.Scherzo.Bewegt, lebhaft - Trio.Schnell [11:11]
3.Adagio.Langsam, feierlich [23:43]

シュトゥットガルト放送交響楽団
セルジュ・チェリビダッケ(指揮)

録音時期:1974年4月5日
録音場所:シュトゥットガルト、リーダーハレ
録音方式:ステレオ

CD 13
●ブルックナー:交響曲第5番変ロ長調 (リハーサル)[39:20]
1. 4.Finale: b.29 - b.66 (Fugato) - Rehearsal [22:05]
2. 4.Finale: b.67 - b.109 (2nd Subject) - Rehearsal [17:15]

シュトゥットガルト放送交響楽団
セルジュ・チェリビダッケ(指揮)

録音時期:1981年11月
録音場所:シュトゥットガルト、リーダーハレ
録音方式:ステレオ

CD 14
●ブルックナー:交響曲第7番ホ長調 (リハーサル) [27:24]
1.Symphony No.7 in E major - 1.Allegro moderato [05'40]
2.Symphony No.7 in E major - 1.Allegro moderato [21'44]

シュトゥットガルト放送交響楽団
セルジュ・チェリビダッケ(指揮)

録音時期:1981年11月
録音場所:シュトゥットガルト、リーダーハレ
録音方式:ステレオ

●ブルックナー:交響曲第8番ハ短調 (リハーサル) [13:24]
3.Symphony No.8 in C minor - 3.Adagio [13:24]

シュトゥットガルト放送交響楽団
セルジュ・チェリビダッケ(指揮)

録音時期:1976年11月
録音場所:シュトゥットガルト、リーダーハレ
録音方式:ステレオ

CD 15
●ドビュッシー:『夜想曲』[32:16]
1.Nuages, Modéré [11:01]
2.Fêtes.Animé et très rythmé [07:20]
3.Sirènes.Modérément animé [13:55]

南ドイツ放送合唱団 (track 3)
シュトゥットガルト放送交響楽団
セルジュ・チェリビダッケ(指揮)

録音時期:1980年11月15日
録音場所:シュトゥットガルト、SDR、フンクシュトゥディオ
録音方式:ステレオ

●ドビュッシー:『海』[28:03]
4.De l’aube à midi sur la mer.Très lent [11:13]
5.Jeux de vagues.Allegro (dans un rythme très souple) [07:30]
6.Dialogue du vent et de la mer.Animé et tumultueux [09:20]

シュトゥットガルト放送交響楽団
セルジュ・チェリビダッケ(指揮)

録音時期:1977年2月11日
録音場所:シュトゥットガルト、リーダーハレ
録音方式:ステレオ

CD 16
●ドビュッシー:『イベリア』(管弦楽のための映像 No.2)[26:26]
1.Par les rues et par les chemins.Assez animé [08:28]
2.Les parfums de la nuit.Lent et rêveur [12:53]
3.Le matin d'un jour de fête.Dans un rythme de Marche [05:05]

シュトゥットガルト放送交響楽団
セルジュ・チェリビダッケ(指揮)

録音時期:1980年2月29日
録音場所:シュトゥットガルト、リーダーハレ
録音方式:ステレオ

●ラヴェル:『道化師の朝の歌』[08:21]
4.Assez vif [08:21]

シュトゥットガルト放送交響楽団
セルジュ・チェリビダッケ(指揮)

録音時期:1973年12月
録音場所:ニュルンベルク、BRシュトゥディオ
録音方式:ステレオ

●ラヴェル:『スペイン狂詩曲』[17:21]
5.Prélude à la nuit.Très modéré [05:37]
6.Malagueña.Assez vif [02:12]
7.Habanera.Assez lent et d’un rythme las [02:54]
8.Feria.Assez animé [06:38]

シュトゥットガルト放送交響楽団
セルジュ・チェリビダッケ(指揮)

録音時期:1976年6月22日
録音場所:シュトゥットガルト、リーダーハレ
録音方式:ステレオ

CD 17
●ラヴェル:『ダフニスとクロエ』第2組曲 [17:14]
1.Lever du jour [06:22]
2.Pantomime [06:16]
3.Danse générale [04:36]

シュトゥットガルト放送交響楽団
セルジュ・チェリビダッケ(指揮)

録音時期:1974年3月8日
録音場所:シュトゥットガルト、リーダーハレ
録音方式:ステレオ

●ラヴェル:組曲『クープランの墓』[19:23]
4.Prélude.Vif [04:08]
5.Forlane.Allegretto [07:08]
6.Menuet.Allegro moderato [04:29]
7.Rigaudon.Assez vif [03:39]

オーボエ: ラヨシュ・レンチェシュ
シュトゥットガルト放送交響楽団
セルジュ・チェリビダッケ(指揮)

録音時期:1978年10月26日
録音場所:テュービンゲン大学
録音方式:ステレオ

●ラヴェル:『ラ・ヴァルス』[13:00]
8.Poème chorégraphique pour orchestre [13:00]

シュトゥットガルト放送交響楽団
セルジュ・チェリビダッケ(指揮)

録音時期:1976年11月
録音場所:シュトゥットガルト、リーダーハレ
録音方式:ステレオ

CD 18
●ドビュッシー:『海』第1楽章『海上の夜明けから真昼まで』(リハーサル) [47:59]
1.“Die schwerste Partitur, die er geschrieben hat” [22:32]
2.“Bitte? Alle: Baß, Klarinette, Fagott und die Harfen” [25:27]

シュトゥットガルト放送交響楽団
セルジュ・チェリビダッケ(指揮)

録音時期:1977年1月
録音場所:シュトゥットガルト、SDR、フンクシュトゥディオ
録音方式:ステレオ

CD 19
●ドヴォルザーク:チェロ協奏曲ロ短調 Op.104 [45:20]
1.Allegro [16:41]
2.Adagio, ma non troppo [14:19]
3.Finale.Allegro moderato [14:20]

ジャクリーヌ・デュ・プレ(チェロ)
スウェーデン放送交響楽団
セルジュ・チェリビダッケ(指揮)

録音時期:1967年11月26日
録音場所:ストックホルム、コンサート・ホール
録音方式:ステレオ

CD 20
●フランク:交響曲ニ短調 [42:20]
1.Lento – Allegro non troppo [19:23]
2.Allegretto [11:28]
3.Allegro non troppo [11:29]

スウェーデン放送交響楽団
セルジュ・チェリビダッケ(指揮)

録音時期:1967年12月
録音場所:エシルストゥーナ、コンサート・ホール
録音方式:ステレオ

●ヒンデミット:交響曲『画家マティス』[27:24]
4.Engelkonzert [08:29]
5.Grablegung [05:15]
6.Versuchung des heiligen Antonius [13:40]

スウェーデン放送交響楽団
セルジュ・チェリビダッケ(指揮)

録音時期:1970年11月
録音場所:ハンブルク、ムジークハレ
録音方式:ステレオ

CD 21
●シベリウス:交響曲第2番ニ長調 Op.43 [46:29]
1.Allegretto [10:16]
2.Tempo Andante, ma rubato [16:03]
3.Vivacissimo - Lento e suave - Largamente [05:49]
4.Finale.Allegro moderato [14:21]

スウェーデン放送交響楽団
セルジュ・チェリビダッケ(指揮)

録音時期:1965年11月
録音場所:ストックホルム、コンサート・ホール
録音方式:ステレオ

●シベリウス:交響曲第5番変ホ長調 Op.82 [34:41]
5.Tempo molto moderato – Largamente – Allegro moderato – Presto [15:27]
6.F Andante mosso, quasi allegretto [09:21]
7.Allegro molto – Misterioso – Un pochettino largamente – Largamente assai [09:53]

スウェーデン放送交響楽団
セルジュ・チェリビダッケ(指揮)

録音時期:1971年3月
録音場所:ストックホルム、コンサート・ホール
録音方式:ステレオ

CD 22
●R.シュトラウス:交響詩『ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら』Op.28 [16:42]
1.nach alter Schelmenweise – in Rondeauform

スウェーデン放送交響楽団
セルジュ・チェリビダッケ(指揮)

録音時期:1971年3月
録音場所:ストックホルム、コンサート・ホール
録音方式:ステレオ

●R.シュトラウス:交響詩『ドン・ファン』Op.20 [18:53]
2.Tone-poem after Nikolaus Lenau

アルヴェ・テレフセン(ヴァイオリン)
スウェーデン放送交響楽団
セルジュ・チェリビダッケ(指揮)

録音時期:1970年11月
録音場所:ニュルンベルク、マイスタージンガーハレ
録音方式:ステレオ

●ショスタコーヴィチ:交響曲第9番変ホ長調 Op.70 [24:44]
3.Allegro [04:16]
4.Moderato [06:57]
5.Presto [03:05]
6.Largo [03:31]
7.Allegretto [06:55]

スウェーデン放送交響楽団
セルジュ・チェリビダッケ(指揮)

録音時期:1971年3月
録音場所:エレブルー、ヤルマル・ベリマン劇場
録音方式:ステレオ

CD 23
●ムソルグスキー:組曲『展覧会の絵』(管弦楽版編曲:ラヴェル) [34:56]
1.Promenade [02:10]
2.I.Gnomus [03:06]
3.Promenade [01:13]
4.II.The Old Castle [04:19]
5.Promenade [00:40]
6.III.The Tuileries Gardens [01:09]
7.IV.Bydlo [02:39]
8.Promenade [01:00]
9.I V.Ballet of the Chickens in Their Shells [01:12]
10.VI.Samuel Godenberg et Schmuyle [02:42]
11.VII.The Market-place at Limoges [01:22]
12.VIII.The Catacombs (Sepulchrum romanum) [02:14]
13.Cum mortuis in lingua mortua [02:22]
14.IX.The Hut on Fowl's Legs (Baba-Yaga) [03:42]
15.X.The Great Gate of Kiev [06:06]

シュトゥットガルト放送交響楽団
セルジュ・チェリビダッケ(指揮)

録音時期:1976年6月21,22日
録音場所:シュトゥットガルト、リーダーハレ
録音方式:ステレオ

●ストラヴィンスキー:『妖精の口づけ』[25:20]
16.Sinfonia [06:18]
17.Scene 2 - A Village Fête [04:04]
18.Valse [03:06]
19.Scene 3 - At the Mill [04:01]
20.Pas de deux [04:11]
21.Variation [01:22]
22.Coda [02:18]

シュトゥットガルト放送交響楽団
セルジュ・チェリビダッケ(指揮)

録音時期:1976年3月12日
録音場所:シュトゥットガルト、リーダーハレ
録音方式:ステレオ

CD 24
●リムスキー・コルサコフ:交響組曲『シェエラザード』Op.35 [49:59]
1.The Sea and Sinbad's Ship [10:53]
2.The Story of the Kalendar Prince [14:31]
3.The Young Prince and the Young Princess [11:18]
4.The Festival at Bagdad - The Sea - Shipwreck [13:17]

ハンス・カラフース(ヴァイオリン)
シュトゥットガルト放送交響楽団
セルジュ・チェリビダッケ(指揮)

録音時期:1982年2月18日
録音場所:シュトゥットガルト、SDR、フンクシュトゥディオ
録音方式:ステレオ

●ストラヴィンスキー:組曲『火の鳥』(1923年版) [23:33]
5.Introduction [04:16]
6.L'oiseau de feu et sa danse [00:16]
7.Variation de l'oiseau de feu [01:27]
8.Rondes des pincesses (Khorovode) [05:36]
9.Danse infernale du roi Kachtcheï [04:35]
10.Berceuse [03:44]
11.Finale [03:39]

ハンス・カラフース(ヴァイオリン) (track 1-4)
シュトゥットガルト放送交響楽団
セルジュ・チェリビダッケ(指揮)

録音時期:1978年10月26日
録音場所:テュービンゲン大学
録音方式:ステレオ

CD 25
●プロコフィエフ:『スキタイ組曲』Op.20 [23:01]
1.The Adoration of Veless and Ala [06:29]
2.The Enemy God and the Dance of the Spirits of Darkness [03:21]
3.Night · Nacht · La nuit [06:54]
4.The Glorious Departure of Lolly and the Sun’s Procession [06:17]

シュトゥットガルト放送交響楽団
セルジュ・チェリビダッケ(指揮)

録音時期:1975年11月27,28日
録音場所:シュトゥットガルト、リーダーハレ
録音方式:ステレオ

●プロコフィエフ:交響曲第5番変ロ長調 Op.100 [45:15]
5.Andante [12:50]
6.Allegro marcato [09:02]
7.Adagio [13:52]
8.Allegro giocoso [09:31]

シュトゥットガルト放送交響楽団
セルジュ・チェリビダッケ(指揮)

録音時期:1979年10月30日
録音場所:シュトゥットガルト、リーダーハレ
録音方式:ステレオ

CD 26
●プロコフィエフ:『ロメオとジュリエット』(抜粋)[20:06]
1."Tybalt’s death" from Suite No.1 Op.64a [05:26]
2."Juliet the young girl" from Suite No.2 Op.64b [05:23]
3."Romeo at Juliet’s tomb" from Suite No.2 Op.64b [09:17]

シュトゥットガルト放送交響楽団
セルジュ・チェリビダッケ(指揮)

録音時期:1981年2月
録音場所:シュトゥットガルト、リーダーハレ
録音方式:ステレオ

CD 27
●R.シュトラウス:交響詩『ドン・ファン』Op.20 [18:21]
1.Don Juan [18:21]

ハンス・カラフース(ヴァイオリン)
シュトゥットガルト放送交響楽団
セルジュ・チェリビダッケ(指揮)

録音時期:1976年6月22日
録音場所:シュトゥットガルト、リーダーハレ
録音方式:ステレオ

●R.シュトラウス:交響詩『死と変容』Op.24 [27:30]
2.Tod Und Verklärung [27:30]

シュトゥットガルト放送交響楽団
セルジュ・チェリビダッケ(指揮)

録音時期:1982年11月11日
録音場所:シュトゥットガルト、リーダーハレ
録音方式:ステレオ

●レスピーギ:交響詩『ローマの松』[23:31]
3.The Pines of the Villa Borghese [02:44]
4.The Pines near a Catacomb [06:52]
5.The Pines of the Janiculum [08:01]
6.The Pines of the Appian Way [05:54]

シュトゥットガルト放送交響楽団
セルジュ・チェリビダッケ(指揮)

録音時期:1976年6月20日
録音場所:シュトゥットガルト、リーダーハレ
録音方式:ステレオ

CD 28
●R.シュトラウス:交響詩『英雄の生涯』Op.40 [52:08]
1.Der Held [04:18]
2.Des Helden Widersacher [03:37]
3.Des Helden Gefährtin [15:02]
4.Des Helden Walstatt [08:33]
5.Des Helden Friedenswerke [12:00]
6.Des Helden Weltflucht und Vollendung [08:37]

アンドレアス・レーン(ヴァイオリン)
シュトゥットガルト放送交響楽団
セルジュ・チェリビダッケ(指揮)

録音時期:1979年11月8日
録音場所:シュトゥットガルト、リーダーハレ
録音方式:ステレオ

CD 29
●R.シュトラウス:交響詩『死と変容』Op.24 (リハーサル) [26:26]
1.Rehearsal [26:26]

シュトゥットガルト放送交響楽団
セルジュ・チェリビダッケ(指揮)

録音時期:1972年11月
録音場所:シュトゥットガルト、SDR、フンクシュトゥディオ
録音方式:ステレオ

●レスピーギ:交響詩『ローマの松』(リハーサル)[11:26]
2.Rehearsal [11:26]

シュトゥットガルト放送交響楽団
セルジュ・チェリビダッケ(指揮)

録音時期:1972年11月
録音場所:シュトゥットガルト、SDR、フンクシュトゥディオ
録音方式:ステレオ

CD 30
●チェリビダッケ:『秘密の小箱』[44:52]
I.子供たち、抽出しに入っておいで!
II.風さんがチューリップを歌わせている
III.アヒルのお説教
IV.謎かけ
V.年老いたモミの木さん、お空は遠すぎるね
VI.カブトムシのダンス
VII.魚は夜歌う
VIII.箒馬で疾走
IX.ぼくのハリネズミ君、どこにいるの?
X.子供のお祈り
XI.ワーオ!ハリネズミ君が二匹になって帰ってきたよ
XII.じょうろの中に雨が降る
XIII.これでおしまい

シュトゥットガルト放送交響楽団
セルジュ・チェリビダッケ(指揮)

録音時期:1979年5月9日
録音場所:シュトゥットガルト、SDR、フンクシュトゥディオ
録音方式:ステレオ

CD 31
●チャイコフスキー:交響曲第5番ホ短調 Op.64 [50:20]
1.Andante - Allegro Con anima [16:15]
2.Andante Cantabile, con alcuna licenza [15:00]
3.Valse.Allegro Moderato [06:22]
4.Finale.Andante Maestoso - Allegro Vivace [12:43]

ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団
セルジュ・チェリビダッケ(指揮)

録音時期:1948年7月5,6,9日
録音場所:ロンドン、キングズウェイ・ホール
録音方式:モノラル

CD 32
●チャイコフスキー:組曲『くるみ割り人形』Op.71a [22:22]
1.Miniature Overture [02:56]
2.March [02:26]
3.Dance of The Sugar - Plum Fairy [01:51]
4.Trepak [01:01]
5.Arabian Dance (coffee) [03:53]
6.Chinese Dance (Tea) [01:08]
7.Dance of The Reed - Pipes [02:37]
8.Waltz of The Flowers [06:30]

ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団
セルジュ・チェリビダッケ(指揮)

録音時期:1948年12月28,29日
録音場所:ロンドン、キングズウェイ・ホール
録音方式:モノラル

●モーツァルト:交響曲第25番ト短調 K.183 [21:43]
9.Allegro Con Brio [06:02]
10.Adante [07:30]
11.Menuetto e Trio [03:56]
12.Allegro [04:15]

ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団
セルジュ・チェリビダッケ(指揮)

録音時期:1948年4月
録音場所:ロンドン、キングズウェイ・ホール
録音方式:モノラル

CD 33
●モーツァルト:交響曲第25番ト短調 K.183 [21:43]
1.Allegro Con Brio [06:02]
2.Adante [07:30]
3.Menuetto e Trio [03:56]
4.Allegro [04:15]

ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団
セルジュ・チェリビダッケ(指揮)

録音時期:1948年4月
録音場所:ロンドン、キングズウェイ・ホール
録音方式:モノラル

●モーツァルト:交響曲第36番ト長調 K.425『リンツ』[25:25]
5.Adagio - Allegro Spiritoso [07:25]
6.Andante [08:27]
7.Menuetto and Trio [03:40]
8.Finale: Presto [05:53]

ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
カール・ベーム(指揮)

録音時期:1950年9月
録音場所:ウィーン、ムジークフェラインザール
録音方式:モノラル

*CD32とCD33に収録されているモーツァルト:交響曲第25番は同テイクとなります。
*モーツァルト:交響曲第25番のオリジナル・ジャケットはCD33となります。


【商品説明:年表シリーズ】
指揮
ルロイ・アンダーソン
アレクサンドル・ガウク
シギスヴァルト・クイケン
セルゲイ・クーセヴィツキー
テオドレ・クチャル
クレメンス・クラウス
パウル・クレツキ
オットー・クレンペラー
ニコライ・ゴロワノフ
ヴォルフガング・サヴァリッシュ
カール・シューリヒト
アンタル・ドラティ
レナード・バーンスタイン
ポール・パレー
フレデリック・フェネル
ヴィルヘルム・フルトヴェングラー
エルンスト・メルツェンドルファー
ピエール・モントゥー
フェルディナント・ライトナー
エーリヒ・ラインスドルフ
ハンス・ロスバウト

鍵盤楽器
ラルフ・カークパトリック
ロベール・カサドシュ
イェルク・デムス
タチアーナ・ニコラーエワ
マリア・ユージナ
ワンダ・ランドフスカ

弦楽器
ガスパール・カサド
シュナイダー四重奏団
パスカル弦楽四重奏団
ハリウッド弦楽四重奏団
ルッジェーロ・リッチ

作曲家
ハンス・ヴェルナー・ヘンツェ

ユーザーレビュー

総合評価

★
★
★
★
★

5.0

★
★
★
★
★
 
1
★
★
★
★
☆
 
0
★
★
★
☆
☆
 
0
★
★
☆
☆
☆
 
0
★
☆
☆
☆
☆
 
0
★
★
★
★
★
以前ブラームスだけ購入して、チェリビダッ...

投稿日:2019/01/05 (土)

以前ブラームスだけ購入して、チェリビダッケのブレス音と叫び声が気になって、お蔵(物置)入りしていたのだが、個人的に好きな曲が沢山入っているので思い切って購入しました。心配した音に関しては、カラヤン60年代BOXと同じく、この韓国製CDは音がいい。ブレス音もスピーカーの小音量再生なら気にならず、曲の盛り上がりに合わせて発せられる叫び声も効果的です。但し、カラヤンBOXの解説書みたいな日本語訳は付いていないし英語版すらない。チェリビダッケを初めて聴いたのが、NHK-FMの特集でのシベリウスの2番とブルックナーの8番だった。どちらもフィナーレでティンパニを異常に盛り上げて、この人は派手な演奏効果を狙う人みたいな偏見を持ったのは、某評論家に毒されていた若気の至りだろうか。シベリウスの2番は、ずっとシュトゥットガルトだと思い込んでいたけど、放送されたのはこっちだったのかな?さすがに、80年代に入ると遅めになってくるが、晩年の時間芸術みたいな音楽の座禅と違う、運動性に富んだドラマティックな演奏が聴ける貴重なセットだ。個人的には、左右に合唱を分けた効果が見事なセイレーンが好きです。(ベームのリンツは、まだヴィブラートが少な目なVPOの美音が聴ける。)

ビアだる太郎 さん | 愛知県 | 不明

2

おすすめの商品