CD 輸入盤

クレメンス・クラウス・コレクション 1929-1954年録音集(97CD)

基本情報

ジャンル
:
カタログNo
:
VN033
組み枚数
:
97
レーベル
:
:
International
フォーマット
:
CD
その他
:
輸入盤

商品説明


クレメンス・クラウスの芸術(97CD)

元外交官を父に持つバレエ・ダンサーと,騎手で資産家の名士とのあいだに生まれたクレメンス・クラウスは,長年に渡ってオペラ指揮者として活躍した人物ですが,コンサート指揮者としても早くから活動。1920年代にマーラー・チクルスをおこなったり,ブルックナー作品をいくつもとりあげたりしたほか,ベルクやストラヴィンスキーなど20世紀作品にも取り組むなどその姿勢は積極的かつ進歩的。
 戦時中にはオペラやコンサートの活動と並行し,放送を通じて多くの人々にシリアスな合唱曲に接してもらおうと,マタイ受難曲やオラトリオ,ミサ曲などの合唱大作シリーズを企画,また,連合軍の侵攻が本格化しても,ほかの独墺指揮者のように避難したり外国に逃げたりせず,戦火の中,最後までウィーンに留まってウィーン・フィルとの演奏会を開催,ソ連軍がウィーンの街を占領してもコンサートをおこなったほか,ユダヤ人救出で知られるアイダ&ルイース姉妹を支援するなど,その母親譲りの舞台への情熱と,父親譲りの度胸にはすごいものがあったようです。


 また,文学も大好きだったクラウスは,オペラ「カプリッチョ」の台本を書くほどの文才に恵まれていたほか,23歳のときにはライナー・マリア・リルケの詩による8つの歌曲を作曲もしていました。上の画像は,読書中のクラウス若き日の姿ですが,イギリス育ちの父の影響なのか,表紙にはディケンズの「荒涼館」の名が見えます。
 戦後はフリーの指揮者となり世界各国に客演,1955年には西ドイツ政府の後援で日本でも指揮する予定だっただけに,仕事熱心さゆえのメキシコでの早すぎる客死は本当に残念でした。

 今回登場する97枚組ボックスは,クラウスの遺した録音を大量に集めたもので,本業のオペラに加え,コンサート指揮者としての録音や,合唱大作も多数収録,中には歌曲をクラウスがピアノ伴奏したものもあったりします。
 定評あるウィーンやミュンヘン,バイロイトでの録音に加え,バンベルク交響楽団を指揮した録音にも注目で,たとえば「メタモルフォーゼン」(CD18)では,バンベルク響の弦をまるでウィーン・フィルのように響かせて,戦争による破壊への悲しみを,師シュトラウスへの思いと共に甘美に表しているかのようですし,クープランのクラヴサン曲をアレンジしたR.シュトラウスの「ディヴェルティメント」(CD18)では,のちのエンニオ・モリコーネに影響を与えたのではないかとすら思えるゴージャスな美しさにあふれる作品を究極の優雅さで演奏しています。
 また,戦後は作品によっては非常に自由な演奏を聴かせることもあったようで,ブレーメン・フィルとのライヴのブラームス交響曲第1番の大爆演(CD6)など驚かされます。
 クレメンス・クラウスに関心がある方には見逃せないセットの登場です。


【クレメンス・クラウスについて】

高度な指揮技術〜弟子にはカラヤンやスイトナーも
少年合唱団時代からマーラーはじめ多くの指揮者と仕事をしてきたクラウスは,指揮のテクニックにも長けており,29歳の時には,ウィーン音楽院が新たに指揮コースを用意して教授に迎えたほど。そこでクラウスに師事していたカラヤン[1908-1989]は,その指揮ぶりについて,「最小の身振りでオーケストラから最大の明晰さと正確さを引き出した」と称えてもいました。クラウスはウィーン音楽院とザルツブルクのモーツァルテウムで教えており,弟子にはほかに,オトマール・スイトナー[1922-2010],シルヴィオ・ヴァルヴィーゾ[1924-2006],ハインリヒ・ホルライザー[1913-2006],ヴィルヘルム・ロイブナー[1909-1971],フランツ・バウアー=トイスル[1928-2010]のほか,史上初のハイドン交響曲全集録音をおこなったエルンスト・メルツェンドルファー[1921-2009]といった指揮者もいました。
 クラウスの指揮テクニックは,当時の演奏技術では難易度の高かった20世紀作品の膨大な楽譜情報の処理にも適しており,通常よく見受けられる「声部の埋没」や,「アクセントやリズムの平坦化」といった主に指揮者の責任によるマイナス要素がほとんど無いため,R.シュトラウスのオペラなど,音符の数の多い複雑な作品にも打ってつけで,実際にシュトラウスの信頼を勝ち得て,弟子の筆頭ともいえる存在になっていました。


ウィーン風〜クラウス風
クラウスが指揮したウィーン・フィルの演奏は,よく「ウィーン風」と言われますが,その様相は,ほかの指揮者がウィーン・フィルを指揮した場合とは少々異なってもいます。スタイリッシュでありながら勢いがあり,キレ良く弾むフレーズの扱いや,ヴィブラートの効果的な使い分けといった特徴を持ち,優雅さも迫力も兼ね備えたその演奏は,本来は「クラウス風」と呼ぶべきものなのかもしれません。
 似たような呼称問題としては,オーマンディのつくりだしたフィラデルフィア管の音について「フィラデルフィア・サウンド」と呼ばれたケースがあり,オーマンディ本人は「オーマンディ・トーン」だと繰り返し主張していたという話が想い起こされます。
 クラウス自身は,自身の音へのこだわりについて,特にそうした主張はおこなっていなかったようですが,たとえば,バンベルク響を指揮したR.シュトラウス作品でも,まるでウィーン・フィルのような響きが聴かれたりもしますし,また,現在までウィーン・フィルに引き継がれるJ.シュトラウス作品の演奏スタイルにしても,クラウス以前の演奏は,クラウス以後とけっこう異なっているという事実もそうしたことの根拠になり得ます。
 クラウスには,第1次世界大戦が終わって間もない頃から30年以上に渡ってウィーンで指揮した実績がありますが,その間,ウィーン・フィルも少なからぬ変貌を遂げていました。19世紀的「ポルタメント派」と20世紀的「ヴィブラート派」の勢力争いや,ピッチの問題,さらに,オーストリア併合後,ケルバー総監督のもとウィーン国立歌劇場でおこなわれたクラウスお気に入りのオドノポゾフなどユダヤ系の人々の追放にしても,オーケストラの音を大きく変えることに繋がっており,「ウィーン風」という言葉の示す本来の意味合いも,時代によってけっこう違ってきてもいます。


クラウスとオペラ
「たとえ才能に恵まれていても,勤勉さや秩序正しさを抜きにしては群れから抜きんでることはできない」と若きハンス・ホッターを激励していたクラウスは,自身が歌劇場の総監督の地位にあっても研究熱心で,オペラの作曲を委嘱するなどレパートリー開拓にも余念がなく,新しい演目でも最初から自分で稽古をつけ,徹底的にリハーサルすることによって上演水準を維持していました。
 その要求はシビアなもので,ホッターによれば,「舞台上演が終わった後に練習をすることもあった」のだとか。
 また,「主役を客演でまかなったようなオペラを上演するわけにはいかない」と常々標榜していたというクラウスは,「ある曲を上演するにはそれにふさわしいアンサンブルを作り,交代する主役もオリジナル練習に立ち会う必要がある」とも語っており,独唱歌手にも,まず楽譜通りに正しく歌うことができ,なおかつ他の歌手とのドラマ関係も正確に演じることのできる人材を選んで鍛え上げることが多く,やがて「クラウス・アンサンブル」とも呼ばれる歌手チームをつくり,自分と一緒に劇場間を移動するといったこともおこなっていました。


クラウスのリハーサル
大勢の人間を統率し,限られた練習時間内で作品の楽譜情報を実際の音に仕上げていくという指揮者の仕事は,「作品解釈」を,「指揮技術」と「話術」を駆使して,演奏者に明確に伝えることが必要ですが,そうした要素は,数値化するなどして第三者が容易に把握したり査定できるものでもないため,指揮者によっては,助手や練習指揮者に丸投げ,あるいは練習省略ということになったりもするようです。
 クラウスの場合は,複数の練習セッションから組み上げられるオペラの場合でも,自らピアノを弾いて歌手を指導するところから始めるほどで,練習量が多くなることもあり,ときにはイヤがられたりもしていたのだとか。
 といっても,オーケストラや歌手に意思伝達する際のクラウスの態度そのものは常に紳士的で,ハンス・ホッターも「物事をうまく表現する才に恵まれていたし,また醒めた眼を持っていた」とその様子を語っており,どのような不快なことにも常に陽気な優雅さで対応し,ときには当意即妙に冗談も交えながら目的に向かってコトを運んでいったそうで,たとえばクレンペラーやクナッパーツブッシュ,ベームといったクチの悪い指揮者とは一線を画していたということでしたし,そうでなければ長いリハーサルを一定の水準に保つことはできなかったとも思われます。
 また,クラウスは基本的には主知的ともいえる客観的姿勢で楽譜の情報を重視した指揮をおこなっていましたが,演奏上のトラブルの多いオペラやコンサートの現場では,必ずしもゴリゴリの楽譜信奉者ではなく,種々の条件を勘案しながら,現場主義ともいえる解決法を常に編み出す力を持っていた,経験豊富・頭脳明晰な劇場人でもあったようです。


クラウスと中傷
ホッターはクラウスの議論についてこう述べています。
「私の知る限り,クレメンス・クラウスが自分の意見を譲るのはシュトラウスただ一人に対してのみであった。一般的に言えばこちらの言い分によほどの確証でもない限りは,クラウスは議論の相手としてはたいへん厄介な相手であった。私はクラウスがシュトラウス以外の人間の意見に屈したのを見たことが無い。」
 膨大な実務経験に基づく豊富な知識や教養を背景に,巧みに言葉を操るクラウスは,運営面などの「議論」になると,自分の考えを貫くことが当たり前な状態にもなっていたようで,相手が組織運営陣や同業者だったりした場合には,マイナス印象を与えることも少なくなかったようです。
 実際,目上にも遠慮しないクラウスの「議論」での発言は,その生まれや恵まれた容姿,財力,そして指揮者としての能力もあってか,一部の人の反感を買ったようで,「貴族的うぬぼれ」,「貴族的横柄さ」などといった「ねたみそねみ」的な中傷や作り話を生み出すことにも繋がり,敵の数も次第に増え,「権謀家」や「父親不明の私生児」といった悪口を言いふらされることにもなっていったようです。クラウスは,そうした中傷は相手にせず放置していましたが,そのことについても「貴族的無干渉」と言われたりする始末でした。


クラウスと劇場ヒエラルキー
総監督(インテンダント) → 音楽監督(音楽総監督) → 楽長(カペルマイスター)という歌劇場組織の意思決定・命令系統の流れの中に若い頃から所属してきたクラウスは,そこで数多くの揉めごとにも遭遇。音楽監督に従わざるを得ない「楽長」という身分では,環境によっては納得のゆくオペラ上演をおこなうことが難しく,また,ベルリン国立歌劇場では「音楽監督」といえども総監督との相性が悪ければ仕事を妨害されてしまうといった苦難も経験していました(ゲーリングの信頼篤いティーティエンが総監督)。
 結局のところ,歌手の人事や演出など,予算も含めて公演を自分の思い通りにつくりあげるには,「総監督」の権限を持ったうえで,「指揮者」も兼務するのが理想的であるという考えからか,フランクフルト,ウィーン,バイエルンで,歌劇場トップと指揮者を兼ねるという骨の折れる仕事を16年ものあいだ続けていましたが,これは異例のことでもあります(ほかは長い場合でもベームの12年,サヴァリッシュの12年,シャルクの11年など)。
 戦後は歌劇場に所属せず,フリーという立場で各地に客演,その都度歌手の人選などを劇場側と交渉し,効率よく大きな成果を上げるようになります。また,監督仕事に煩わされなくなったことから,オーケストラ・コンサートやレコーディングの仕事も増加して行きました。
 戦後の歌劇場では演出家の権限が強くなる一方,オーケストラ・コンサートの方は活動が世界的に盛んになり,さらにレコーディングの需要も飛躍的に伸びていったので,これが正解だったとも思われます。実際,その後,ベームも同じような道を歩んでいます。


クラウスのヨハン・シュトラウス
クラウスの指揮するシュトラウス・ファミリー作品の演奏は,緩急やダイナミクスの変化が実に面白く,また速いといっても単に速いのではなく絶妙に畳みかけたり,シャープにリズムを刻んだりと独特のドライヴ感が印象的で,ヨーゼフ・シュトラウスの「騎手(ジョッキー・ポルカ)」など素晴らしい仕上がり。一方,遅い曲の場合では,旋律素材とリズムとの繊細な噛み合わせと,決して下品にならずに豊かに美しく歌い上げる手法が見事で,ウィーン風といわれるスタイルをさらに鍛え上げたような洗練された仕上がりが特徴ともなっています。
 当セットにはオーケストラ作品をCD6枚分と,オペラ全曲録音を2種類収めています。
 オーケストラ作品については,デッカへの29曲(1950〜1953年),テレフンケンへの6曲(1940〜1941年),HMVへの10曲(1929〜1931年)というセッション録音に加え,1941年度J.シュトラウス・コンサート(ニューイヤーコンサート)からの放送録音12曲(1940年12月31日ジルヴェスターコンサートのライヴ)と,1954年度ニューイヤーコンサートのライヴ録音16曲+アンコール5回(1953年12月31日ジルヴェスターコンサートのライヴ),そして1945年度ニューイヤーコンサートの「観光列車」の放送録音(1944年12月30日プレコンサートのライヴ)を収録。ややこしいのでウィーン・フィルの「ニューイヤーコンサート」について整理します。
原型:ザルツブルク祝祭で,クラウス指揮ウィーン・フィルが5年連続(1929・1930・1931・1932・1933年)でおこなったJ.シュトラウス演奏会。当時はワルツやポルカを通常のオーケストラ・コンサートで演奏することは少なく,まとめてとりあげる演奏会は異例のことでした。
1939年大晦日,クラウス指揮ウィーン・フィルが本拠地ムジークフェラインで「J.シュトラウス・コンサート」を開催。これが第1回。
第2回からは,「大晦日に加えて元日にも演奏」するようになり現在のスタイルを確立。
以後,戦時中含めて1度も休むことなく開催。ドイツの敗戦が誰の目にも明らかだった1945年は,晦日・大晦日・元日・1月2日と,4日間演奏していました。
戦後,1946年からは「ニューイヤーコンサート」と名前を変更。
晦日(30日)には有料のプレコンサート(公開ゲネプロ)も開催,その放送録音もあったりするので(例:1944年の「観光列車」),「ニューイヤーコンサート」=「プレコンサート(晦日)+ジルヴェスターコンサート(大晦日)+ニューイヤーコンサート(元日)」の3日間の総称と捉えるべきかもしれません。


クラウスのリヒャルト・シュトラウス
クラウスは1922年ウィーン国立歌劇場の第1楽長になっていますが,そのときの上司が総監督のR.シュトラウスとシャルクで,特にシュトラウスからは自作について多くを学び,また実際の舞台運用上の問題に関して報告して楽譜の再検討にも繋げるなどしていました。
 クラウスはシュトラウスの筆頭格の愛弟子として,生涯に「ばらの騎士」約200回,「サロメ」76回,「アラベラ」65回,「ナクソス島のアリアドネ」53回,「影のない女」34回,「エレクトラ」27回,「エジプトのヘレナ」27回,「ダフネ」22回,「平和の日」21回,「ダナエの愛」18回,「インテルメッツォ」18回,そしてクラウス本人も台本を執筆した「カプリッチョ」17回という膨大な数の公演を指揮することとなります。
 オーケストラ作品の演奏の方もシュトラウス直伝の楽譜を尊重したものですが,遺された録音はウィーン・フィルのものが大半で,それらにはウィーン風なスタイルも反映されています。「英雄の生涯」での甘いボスコフスキーのヴァイオリン独奏や,「ツァラトゥストラ」での唯美的な音色美など絶品ですし,冒頭「日の出」にしても,6小節目のアクセント処理はシュトラウス自演と同じくスタイリッシュです。また,オペラ指揮者だけあって「ティル・オイレンシュピーゲル」での各楽器の表情の豊かさとドラマ進行の面白さは格別ですし,一方で「家庭交響曲」では,優しく美しい情感表現が改めて作品の魅力を見直させもします。
 クラウスがウィーン・フィルを指揮したR.シュトラウス作品の演奏は,作曲者と親しかったがゆえの楽譜尊重という基本ラインに加え,声部バランスを巧みに保って,大げさな表現や汚い音を嫌ったシュトラウスにふさわしい美しい仕上げが志向されているのがポイントです。
 このセットでは,有名な1950年代のウィーン・フィルとの一連のシュトラウス録音に加え,1929年のウィーン・フィルとの「町人貴族」,1941年のウィーン・フィルとの「ティル・オイレンシュピーゲル」,1942年のウィーン・フィルとの「サロメの踊り」,1947年のミラノ・スカラ座管弦楽団との「ティル・オイレンシュピーゲル」,ロンドン・フィル/R.シュトラウス「死と変容」も収録。
 ほかに,クラウスの重要なR.シュトラウス管弦楽曲録音として注目されるのが,バンベルク交響楽団を指揮した「メタモルフォーゼン」。バンベルク響の弦をまるでウィーン・フィルのように響かせて,戦争による破壊への悲しみを,師シュトラウスへの思いと共に甘美に表しているかのようです。同じくバンベルク響を指揮したクープランのクラヴサン曲をアレンジした「ディヴェルティメント」も見事な演奏で,のちのエンニオ・モリコーネに影響を与えたのではないかとすら思えるゴージャスな美しさにあふれる作品を究極の優雅さで演奏しています。バンベルク響とはほかに「ばらの騎士」のワルツも録音しています。
 なお,オペラ全曲録音については,「サロメ」(2種),「ばらの騎士」(2種),「アラベラ」,「カプリッチョ」,「ナクソス島のアリアドネ」,「平和の日」,「ダナエの愛」の計9種類収録されており,ほかに「カプリッチョ」抜粋,「アラベラ」抜粋,「影の無い女」抜粋,クラウスのピアノ伴奏によるウルズレアックの歌う歌曲8曲が収められています。


クラウスのワーグナー
クラウスは19歳でオペラ指揮者としてデビューしており,当初からワーグナーをとりあげていたので,そのキャリアはバイロイト登場の頃にはすでに40年に達していました。クラウスのワーグナー演奏の特徴は,楽譜を逸脱せずに高い緊張感をもって作品のドラマを構築して行くというもので,背景には,師R.シュトラウスが実際にワーグナーの参加した「パルジファル」のリハーサルを見た際に,ワーグナー本人が,指揮者ヘルマン・レーヴィ[1839-1900]のテンポの遅さに対して繰り返し怒っていたという話があったのかもしれません。
 クラウスの遺したワーグナー全曲録音で現在手に入るものは,1944年3月のバイエルン国立歌劇場の「さまよえるオランダ人」と,1953年バイロイトの「ニーベルングの指環」と「パルジファル」のみですが,どれも見事な演奏で,もったいぶったところなど皆無の生き生きとしたドラマは,聴き手に個人的な感情移入などする隙も与えずグイグイ進んで,ワーグナー本来の世界を堪能させます。モノラル録音にも関わらず情報量の多いオーケストラ・サウンドは合理的で効果的なリハーサルの証明でもありますし,数々のライトモティーフが押し寄せるその演奏スタイルは,「敬虔に」脚色された通常の「パルジファル」アプローチが,ワーグナー本人の望まなかったものであることを明らかにするかのようです。
 ちなみに合唱指揮を学んだクラウスの合唱の扱いはワーグナーでも見事なもので,1953年にバイロイトで「パルジファル」の最初の聖杯の合唱を準備中のヴィルヘルム・ピッツ[1897-1973]指揮する合唱団のリハーサル室の前を通ったとき,すぐに状況を把握し,フレーズのリズムの扱いに関する詳細な指示をおこなって問題点を即座に解決するなど,合唱の権威ピッツも真っ青の実力の持ち主でした。
 なお,「さまよえるオランダ人」(3幕版)は戦時中の録音ではありますが,マグネトフォン使用のため聴きやすい音質で,数あるこの曲の録音の中でも最も緊張感の強い演奏を楽しむことができます。当時,メイン会場のナツィオナルテアターは1943年10月に爆撃で破壊されていたので,プリンツレゲンテン劇場での収録となりますが,それがかえって良かったのかもしれません。この座席数1,000ほどの豪華な劇場はバイロイトを模して造られたもので,間接音もナツィオナルテアターに較べて豊かであり,クラウスが特に目をかけていた若きハンス・ホッターの歌唱を強烈に印象付けることにも役立っています。
 当セットでは,「ニーベルングの指環」,「パルジファル」,「さまよえるオランダ人」全曲録音のほか,ウィーン国立歌劇場で1933年に録音された「ラインの黄金」抜粋,「ワルキューレ」抜粋,「神々の黄昏」抜粋,「マイスタージンガー」抜粋,「パルジファル」抜粋も収録。さらに,1948年にキューバに滞在した際のフラグスタートの歌のほか,1949年にロンドン・フィルと録音した管弦楽曲2曲も収録しています。



【トピック一覧】
両親 詳細
父ヘクターは騎手で資産家の名士,母クレメンティーネはバレエ・ダンサーで,その後,女優を経てオペラ歌手へ。
ウィーン宮廷少年聖歌隊[1901-1905]
マーラーが称賛。
ウィーン音楽院[1907-1912]
ピアノ,合唱指揮,作曲を勉強。
ブリュン国立劇場[1912-1913] 詳細
合唱指揮者。19歳で代役として指揮者デビュー。のちのブルノ国立劇場。
リガ・ドイツ劇場[1913-1914] 詳細
第2楽長。ワーグナーゆかりの劇場。のちのラトヴィア国立歌劇場。
ニュルンベルク国立劇場[1915-1916] 詳細
第2楽長。R.シュトラウスゆかりの劇場。
R.シュトラウスの財産没収とその影響 詳細
第1次世界大戦により銀行口座の大金がイギリス政府によって没収。シュトラウスは猛烈に働く羽目に。
シュテティン市立劇場[1916-1921] 詳細
第1楽長。5年間在任。ベルリンによく通いニキシュの指揮を勉強。
グラーツ市立劇場[1921-1922] 詳細
音楽監督。任期中にウィーン国立歌劇場にデビュー。
ウィーン国立歌劇場[1922-1923] 詳細
第1楽長。総監督のR.シュトラウスとシャルクから多くのことを学習。モーツァルトのオペラではチェンバロの通奏低音も演奏。
ウィーン交響楽団[1922-1926] 詳細
客演。創設者で首席指揮者のレーヴェのもとで集中的に客演。マーラー・チクルスなど実現。
フランクフルト歌劇場[1924-1929] 詳細
音楽監督。総監督無しの音楽監督という事実上のトップという地位にあって融通が効いたせいか多くのことに挑戦。
ザルツブルク祝祭[1926] 詳細
初参加。「ナクソス島のアリアドネ」のほか,ウィーン・フィルとのコンサートでも指揮。
ウィーン・フィル[1926-1929]
客演。ザルツブルク祝祭やツアーなど指揮。
ウィーン国立歌劇場[1929-1934] 詳細
総監督。大恐慌によるオーストリア混乱期。ウィーン・フィルにも反乱分子。
実質賃金44%減少[1929-1934] 詳細
世界大恐慌の影響で経済が悪化,1934年2月にはウィーンで内戦まで勃発。
トスカニーニ人気 詳細
恐慌前に300名超えのミラノ・スカラ座引っ越し公演をおこない,恐慌後はニューヨーク・フィルとツアー展開。
ウィーン・フィル[1930-1933]
常任指揮者。ニューイヤーコンサート,ザルツブルク祝祭,定期公演など指揮。
ブルクハウザーの反乱[1933] 詳細
ファシズム組織「祖国戦線」活動家でウィーン・フィル楽員のブルクハウザーが常任指揮者制を廃止。
「アラベラ」初演トラブル[1933] 詳細
劇場側はブッシュを罷免し,シュトラウスはクラウスに指揮を要請。クラウスは自身の歌手チームによって初演をおこないます。
ハンス・ホッターとの出会い[1933] 詳細
クラウスはプラハで,あるテノール歌手のオーディションを実施。そのテノール歌手はホッターの友人でした。
「カール5世」初演中止[1934] 詳細
クラウスが委嘱したクレネクの12音オペラ「カール5世」が,大臣により公演中止。
ザルツブルク祝祭課金危機[1933-1935] 詳細
1933年,ドイツ政府によりオーストリアに入国するドイツ人旅行者に対し1,000ライヒスマルクの課金。
アイダ&ルイース姉妹がザルツブルクを訪問[1934] 詳細
ユダヤ人救出に関わる功績により表彰されるイギリスの熱烈なオペラ・マニア姉妹がクラウス夫妻のもとを訪れます。
ウィーン・フィル[1933-1934]
ニューイヤーコンサート,ザルツブルク祝祭,定期公演など指揮。
トスカニーニ招致とブルクハウザーのその後 詳細
1933年からウィーン・フィルに客演を開始,1934年には暗殺されたファシズム政権の首相のためにヴェルディのレクィエムを指揮。
ベルリン国立歌劇場[1935-1936] 詳細
音楽監督。策士として知られる総監督のティーティエンと合わず短期間で辞任。
バイエルン国立歌劇場[1937-1944] 詳細
音楽監督→総監督。声楽アンサンブルと共に着任し,運営状態の改善に尽力,劇場人員の待遇改善も実現。
オーストリア併合[1938] 詳細
ドイツが手にしたオーストリアの資産は14億ライヒスマルク,これはライヒスバンクの資産7,600万ライヒスマルクの18倍以上。
「平和の日」初演[1938] 詳細
400万人が犠牲になったとも言われる17世紀の大量殺戮宗教戦争「30年戦争」が終わりを告げた日を題材にしたオペラ。
ウィーン・フィル[1939-1945]
ニューイヤーコンサート,定期公演,ザルツブルク祝祭のほか,マタイ受難曲など宗教大作も指揮。1944年にはウィーンに転居。
ウィーン国立歌劇場合唱団・放送企画[1942] 詳細
放送を通じて多くの人々がシリアスな合唱曲に接することができるようクラウスが考えたシリーズ企画。
「カプリッチョ」初演[1942] 詳細
クラウスは,師の最後のオペラの台本に関わっていたほか,タイトルに悩んでいたシュトラウスに対し,「カプリッチョ」の名を提案。
モーツァルテウム音楽院[1940-1944]
総裁。運営のほか,指揮コースも担当。生徒にオトマール・スイトナーなど。
「ダナエの愛」公開ゲネラルプローベ[1944] 詳細
多くの聴衆が入場した本番さながらの公開ゲネプロだったため、これを実際の初演とする向きも。
裁判を経て活動再開[1947] 詳細
西側で裁判にかけられた音楽家たちの多くは,1947年4月頃には活動を再開。一方...
ウィーン国立歌劇場ロンドン公演[1947] 詳細
「フィデリオ」と「サロメ」の実演ならではの激しい演奏を聴くことができます。
キューバ客演[1948] 詳細
7か月間に及ぶラテン・アメリカ滞在の最後の1か月はハヴァナ。フラグスタート,スヴァンホルムと6回のコンサートを開催。
ウィーン国立歌劇場[1948-1953]
客演。「フィデリオ」,「サロメ」,「ばらの騎士」,「ダナエの愛」,「ローエングリン」,「火刑台上のジャンヌ・ダルク」など指揮。
ウィーン・フィル[1948-1954]
毎年のニューイヤーコンサートのほか,定期公演,スタジオ録音,各地へのツアーなど数多く指揮。
ザルツブルク復帰〜「ダナエの愛」初演[1952] 詳細
クラウスのザルツブルク祝祭復帰が遅れたのは,立ち退き訴訟で有名なプートンが原因。
バイロイト出演[1953] 詳細
「ニーベルングの指環」と「パルジファル」を指揮。高評価のため翌年以降も指揮する予定ながら急死により実現せず。
最後のニューイヤーコンサートとその後[1954] 詳細
ライヴ録音が遺されており,ポルカのアンコールなど楽しさ満点の仕上がり。クラウス急死による後任選びは難航。
ウィーン国立歌劇場総監督指名撤回 [1954]詳細
任命権者である教育文化大臣のエルンスト・コルプが,クレメンス・クラウスを指名。しかし...
デッカの計画ほか 詳細
1954年5月に録音予定の「ばらの騎士」が,クラウス急死によりクライバーに変更。翌年に予定の「影の無い女」はベームに変更。
メキシコで客死[1954] 詳細
客演。本番直後に死去。
収録情報 詳細

【年表&トピック】

1890年
銀行家一族に生まれた騎手で資産家の父ヘクター(39)と,元外交官を父に持つウィーン宮廷歌劇場バレエ・ダンサーの母クレメンティーネ(13)との出会い。

1891年
1月:父ヘクター(39)と,その妻でウィーン宮廷と関わりの深かったアンナ・フォン・ウガルテ(35)とのあいだに離婚が成立。15年間の結婚生活に終止符が打たれます。2人の間に子供はありませんでした。

1892年
1-3月:母クレメンティーネ(14)は,ウィーン宮廷歌劇場でおこなわれたJ.シュトラウスのオペラ「騎士パズマン」の初演と一連の公演に参加。
夏:母クレメンティーネ(15),妊娠。

1893年(0歳)
聖金曜日にあたる3月31日,ウィーンのヴェルヴェデーレ宮殿のすぐ近くでクレメンス・クラウス誕生。カトリックの家系。
資産家の父ヘクター(41)と結婚を前提に交際していた母クレメンティーネ(15)による出産。しかし母は舞台への情熱を抑えられず,産後すぐに演劇の勉強に打ち込むようになったため,クレメンスは母の両親のもとで育てられます。
母クレメンティーネの父親であるマクシミリアン・クラウス[1838-1908]は,パリ駐在のオーストリア大使,リヒャルト・クレメンス・フォン・メッテルニヒ[1829-1895]の私設秘書も務めた元外交官でした。ちなみにリヒャルト・クレメンス・フォン・メッテルニヒは,オーストリア帝国宰相として有名なクレメンス・フォン・メッテルニヒ[1773-1859]の息子でもあります。
クレメンス・クラウスは,実父ヘクターが資産家で,大叔母ガブリエレ・クラウスが有名歌手,母の姉が宮廷歌劇場のバレエダンサー,そして母が女優・歌手だったこともあり,幼い頃から宮廷歌劇場のボックス席に出入りするなど劇場三昧な環境で成長。
相続問題もあってか,クレメンス・クラウスはのちに父方の籍に入ったため,本名はクレメンス・バルタッツィで,彼の2人の息子の本名もオクタヴィアン・バルタッツィとオリヴァー・ヘクター・バルタッツィ,孫娘もクラウディア=ガブリエレ・バルタッツィとなっています。


【両親】

母親
クレメンティーネ・クラウス[1877-1938]は,6歳でウィーンの宮廷バレエ学校に入学,11歳で実習生としてウィーン宮廷歌劇場(現ウィーン国立歌劇場)のバレエ団に所属,13歳から群舞の一員として舞台で踊ったのち,ソロ・ダンサーに昇格。1892年1月にはヨハン・シュトラウスのオペラ「騎士パズマン」初演で踊り,以後3月までの計8回の上演すべてに出演,1年後,15歳のときには,結婚を前提に付き合っていたヘクター・バルタッツィとのあいだにできたクレメンスを出産。
 しかしまだ15歳のクレメンティーネは,舞台出演に夢中で,出産後も母として子育てをするつもりはなかったようで,両親にクレメンスを預けると再び舞台に復帰するべく活動を開始。
 といっても,出産を機に太ってしまったことからバレエは辞め,女優になる道を選択,ウィーンのブルク劇場で活躍していたベルンハルト・バウマイスター[1827-1917]に師事,出産から9か月後の1894年1月5日,16歳でピルゼン,オルミュッツ,トロッパウの劇場で活動を始め,ほどなくベルリンのレッシング劇場の舞台にも出演します。
 その後,叔母の影響もあってオペラに熱中したクレメンティーネは,ウィーン音楽院で歌手の訓練を受け,ケルンやエッセン,ブラティスラヴァの劇場に出演,30歳のときにはグラーツの劇場でブリュンヒルデ役などワーグナー作品も歌い,31歳から36歳まではウィーンのフォルクスオーパーに所属していました。
 1914年,37歳のとき,2歳年下のオペラ歌手オタカー・クメル[1879-1957]と結婚,クメルの地元プラハに移って声楽教師として暮らし,オーストリア=ハンガリー帝国の解体,チェコスロヴァキア共和国誕生を経て,オーストリア併合の翌月,60歳で亡くなっています。
 オペラ歌手としては,アイーダ役,ノルマ役,ブリュンヒルデ役,シバの女王役などを得意としていました。なお,彼女の叔母は,19世紀後半の有名歌手ガブリエレ・クラウス[1840-1906]です。


父親
向こう見ずな競馬の騎手として知られたヘクター・バルタッツィ[1851-1916]は,オスマン帝国の首都コンスタンティノープル(現イスタンブール)のギリシャ系銀行家一族のもとに誕生。一族はほどなくウィーンに移りますが,ヘクターは母がイギリス系だったこともあり,10代なかばで渡英,やがてイングランド最古の名門校「ラグビー・スクール」に進学,コスモポリタンとしての教育を受けて馬術も習得。親の遺産の相続が決まるとイギリスからウィーンへと移っています。バルタッツィ家の男兄弟は,長男アレクサンダー[1850-1914],次男ヘクター,三男で議員のアリスティーデ[1853-1914],四男で軍人のハインリヒ[1858-1929]の全員が競馬に関わっており,有力馬の馬主のほか,競走馬を育成する広大な荘園の経営,ジョッキー・クラブの運営,そして騎手としての活動などにより,ウィーン社交界の花形ともなっていました。
 早くから競馬の騎手としてヨーロッパ各地で活躍,1881年から1886年にかけてはオーストリア・チャンピオンの栄誉に5回も浴するなどして有名な存在だったヘクターは,1874年,23歳でウィーンのジョッキー・クラブの創立者に兄弟で名を連ね,1879年には南モラヴィアのイェヴィショヴィツェに城を建てるなど(下の画像),資産家の名士としても知られています。
 ヘクターは1875年,伯爵令嬢のアンナ・フォン・ウガルテ[1855-1901]と結婚していますが15年間子供に恵まれず,資産家ならではの相続問題にも直面していました。しかし,若く健康なバレエ・ダンサーのクレメンティーネと知り合ったのを機に,1891年1月12日にアンナと離婚してクレメンティーネと交際,2年後の1893年3月31日,クレメンス・クラウスが誕生するに至ります。
 当初は周囲に対して結婚すると語っていたヘクターですが,年齢が26歳も違っていることと,クレメンティーネが舞台活動に熱中していたことからなかなか結婚には至らず,結局,クレメンスを自分の籍に入れることで相続問題を解決しています(もしかしたら最初からそれが狙いだったのかもしれませんが)。
 ヘクターはしばらくはウィーンのジョッキー・クラブを拠点に芸術家たちと交流する生活を送り,クラウスの成長も見守りますが,やがて競馬への情熱が再燃,フランスに移り住んで騎手として本格的に活動を再開,ときには肋骨を7本骨折するほどの勇猛果敢なスタイルで人気を博し,競馬関連会社も興して利益を上げていました。
 第1次世界大戦が始まると,オーストリア人のヘクターは敵国人ということでボルドー,ビアリッツを経て,中立国スペインのバルセロナに逃れ,友人のオーストリア大使のところにゲストとして滞在,やがて船でウィーンに向かう途中,フランス海軍に拿捕されてしまいますが,ヘクターは60歳を過ぎていたことから釈放されウィーンに無事戻ることができます。そして翌々年の正月,住居のあったジョッキー・クラブの建物の中の読書室で眠るように死去。64歳でした。クラウスはそのとき22歳で,シュテティン市立劇場で第1楽長を務めていました。
 ちなみに,ヘクターの姪,マリー・フォン・ヴェッツェラ[1871〜1889]は,オーストリア=ハンガリー帝国の皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の息子,ルドルフ皇太子[1858-1889]との謎の多い心中事件「マイヤーリング事件」で知られる人物。この心中については,映画「うたかたの恋」や,ミュージカル「ルドルフ」などでも描かれています。(一覧に戻る)


1901年(8歳)
ウィーンの宮廷少年聖歌隊(現ウィーン少年合唱団)に所属。当時のウィーン宮廷歌劇場の総監督はマーラーで,クラウス少年の美しいソプラノの声が,マーラーから褒められたこともあったといいます。また,「魔笛」の夜の女王のアリアを2曲とも歌えたということで,10歳の時にはシュテファン大聖堂でその美声を披露してもいました。

1905年(12歳)
2月:声変わりにより宮廷少年聖歌隊を去ります。

1906年(13歳)
大叔母のガブリエレ・クラウス,63歳でパリで死去。幼少期にクラウスをウィーン宮廷歌劇場のボックス席によく連れて行ってくれたパリ・オペラ座の歌手でした。

1907年(14歳)
クラウスは父ヘクターから銀行家になることを勧められていましたが,音楽家になる道を選択。
ウィーン音楽院(現ウィーン国立音楽大学)に入学。ピアノ,合唱指揮,作曲,理論を,フーゴー・ラインホルト[1854-1935 ピアニスト・作曲家],ヨーゼフ・ザフィーア[ピアニスト],ヘルマン・グレーデナー[1844-1929 作曲家],リヒャルト・ホイベルガー[1850-1914 作曲家・指揮者]らに師事。当時のウィーン音楽院は,「ウィーン楽友協会音楽院」という名前で,場所もウィーン楽友協会の中でした。ウィーン音楽院となってウィーン・コンツェルトハウスに移転するのは1915年のことです。


1912年(19歳)
ウィーン音楽院を首席で卒業。
9月:オーストリア,ブリュン国立劇場(現ブルノ国立歌劇場)の合唱指揮者として契約。翌年まで在任。ブリュンはウィーンの北北東約110キロ。



【ブリュン国立劇場】

現在チェコ共和国の第2の都市であるブルノは,当時は「オーストリア=ハンガリー帝国」に所属する都市「ブリュン」で,ドイツ語話者が多く,オペラや演劇でもドイツ語作品が多数上演されていました。
 ブリュン国立劇場は,1884年にプラハ国立劇場をモデルに組織されたもので,1882年暮れに完成した座席数約1,200の美しいマヘン劇場や,モーツァルトが訪れたこともあるレドゥータ劇場などで,ドイツ語オペラや演劇を舞台にかけています。
 その後,第1次世界大戦が終わると「オーストリア=ハンガリー帝国」も解体となり,チェコスロヴァキアの都市ブルノへと名が変わります。しかし,同地にはドイツ語話者が多かったので,劇場の方針も1922年の組織改編後もそれほど変わりませんでした。やがて第2次世界大戦でドイツに占領されると劇場は閉鎖,戦争が終わると,今度はエドヴァルド・ベネシュ大統領の布告によって,ドイツ系住民の市民権を剥奪し財産を略奪したうえで国外追放することとなり,ブルノからドイツ語話者はいなくなったことから,再スタートしたブルノ国立劇場も,チェコ語での上演が主体となっていきます。
 19歳のクレメンス・クラウスは,ウィーン音楽院で合唱指揮を学んでいたことから,まずこのブリュン国立劇場の合唱指揮者として契約,プロの音楽家となり,劇場でさまざまなことを実地で学ぶうちにオペラ指揮者としての能力を身につけ,翌年1月にはロルツィングの「ロシア皇帝と船大工」で指揮者デビュー,以後,40年に渡って活躍することとなります。(一覧に戻る)


1913年(20歳)
1月13日,ブリュン劇場で急病の指揮者に代わってロルツィングの「ロシア皇帝と船大工」を指揮してデビュー,19歳の天才少年指揮者として話題になります。
9月:ロシア,リガ・ドイツ劇場(現ラトヴィア国立歌劇場)の第2楽長として契約。翌年まで在任。リガはウィーンの北東約1,100キロ。

【リガ・ドイツ劇場】

中世のドイツ騎士団などの東方植民により都市化したリガには,「バルト・ドイツ人」が多く暮らし,長く続いたロシア帝国によるラトヴィア支配の中にあっても,中世からのドイツ文化を維持・発展させていました。
 オペラハウスの「ドイツ劇場」もそうしたドイツ文化の中でつくられたもので,黎明期の1837年から1839年にかけては,ワーグナーが音楽監督を務めており,1863年に現在と同じ形の劇場が完成すると規模も拡大,ブルーノ・ワルター(1898-1900在任)や,フリッツ・ブッシュ(1909-1911在任)が楽長を務め,オットー・クレンペラーや,エーリヒ・クライバー,ヘルマン・アーベントロートが客演する劇場に発展します。
 その後,第1次世界大戦が終わると,ラトヴィアはロシア帝国から独立,民族意識も高まる中,「リガ・ドイツ劇場」も「ラトヴィア国立歌劇場」と名を変え,さまざまな言語のオペラを上演するようになり,現在に至っています。(一覧に戻る)


リガ・ドイツ/ロルツィング「ウンディーネ」,トゥイレ「愛の舞踊」など指揮。

1915年(22歳)
9月:ドイツ,ニュルンベルク国立劇場の第2楽長として契約。翌年まで在任。ニュルンベルクはウィーンの北西約410キロ。

【ニュルンベルク国立劇場】

17世紀なかばの創設という古い歴史を持ち,演劇やオペラなどさまざまな舞台作品に対応してきた劇場。音楽専門ということではないこともあってか,オーケストラはその都度調達というシステムを採用しており,演奏技術面でも問題があったようです。
 クラウス着任の4年前には,「ばらの騎士」の大成功で各地で指揮をしていたR.シュトラウスが同劇場を訪れ,オーケストラの水準の低さを嘆き,ニュルンベルク市長に対して助成金システムを使った専属オーケストラの設置を提案。
 それが功を奏したのかは不明ですが,財政問題により総監督で俳優のリヒャルト・バルダー[1867-1917]が辞任すると,歌手のアロイス・ペナリーニ[1870-1927]が総監督に就任し,より音楽に配慮したディレクションがおこなわれるようになります。
 とはいえ状況は大きくは好転しなかったようで,クラウスは翌年には,ニュルンベルクの北東約500キロのシュテティンに移ります。(一覧に戻る)


【R.シュトラウスの財産没収とその影響】

1911年にニュルンベルク市長に対して,財政面での提案をおこなったR.シュトラウスでしたが,その3年後の1914年の8月には第1次世界大戦でドイツとイギリスが交戦状態となり,ほどなく「ばらの騎士」の巨額印税などが含まれる自身のロンドンの銀行口座がイギリス政府によって凍結,大金を没収されてしまうことになります。
 直前の1914年6月には,ロンドンでコンサートも開催し,さらにオックスフォード大学からは名誉博士号を送られていたばかりなので,政治音痴な面もあるシュトラウスは大いに油断していたようです。ともかく,あっけなく大金を盗まれ,ガルミッシュの山荘以外の財産をほとんど失ってしまったシュトラウスは,戦争が終わると,まとまった固定収入の入るウィーン国立歌劇場の総監督に就任,フランツ・シャルクとの2人監督体制だったこともあり,副収入も得られる客演活動や,ウィーン・フィルとのツアーのほか,それまで小規模なフェスティヴァルに過ぎなかった「ザルツブルク祝祭」にオペラとシンフォニー・コンサートを導入し,「音楽祭」として規模の大幅拡大を図るなど,猛烈に働いて自身の財政再建に務めます。
 この2人監督体制のもたらした余裕が,結果的に多くのアイデアを生み出し,戦後の不況と過度なインフレにも関わらず,ウィーン国立歌劇場とウィーン・フィルの業績が順調だったことに繋がったのだとも考えられます(収益が楽員の福祉目的の基金に充てられる「ウィーン・フィルハーモニー舞踏会」もこの時期に開始されて現在に至っています)。
 また,クラウスも,このシュトラウス/シャルク体制下のウィーン国立歌劇場に招かれることで,大きなチャンスを獲得していたので,R.シュトラウスの財産没収事件は,少なくともウィーン国立歌劇場とウィーン・フィル,ザルツブルク祝祭,そしてクレメンス・クラウスにとっては良い出来事だったのかもしれません。それにしてもシュトラウスのパワー,おそるべしです。(一覧に戻る)


ニュルンベルク国立/「ラ・ボエーム」,「ローエングリン」,「カルメン」,「リゴレット」,「トラヴィアータ」,マルシュナー「ユダヤの女」,ゴルトマルク「炉端のコオロギ」など指揮。

1916年(23歳)
1月:父ヘクター,ジョッキー・クラブ読書室で64歳で死去。
9月:ドイツ,シュテティン市立劇場の第1楽長として契約。1921年まで5年間在任。シュテティンはウィーンの北約600キロ。


【シュテティン市立劇場】

現在はポーランド共和国の国境の都市である「シュチェチン」は,当時はドイツの港町「シュテティン」でした。人口20数万人規模のこの街にあったシュテティン市立劇場は,座席数1,000ほどの劇場。大きな川もある美しい街並みのシュテティンは,船と鉄道の行き交う交通の要衝でもありました。
 シュテティンとベルリンは,鉄道の「ベルリン=シュテティン線」で結ばれ,第1次世界大戦の頃には電化もされていたので,約130キロほどの距離は近いともいえ,クラウスは楽長在任中に何度もアルトゥール・ニキシュ[1855-1922]指揮するベルリン・フィルを聴きにベルリンを訪れ,大きな影響を受けています。
 戦火からも遠かったシュテティンでの快適な環境のもと,第1楽長として5年間を過ごすことになるクラウスは,同地でレパートリーを増やす一方,歌手のマルガレーテ・アブラハム[1889-1963]と結婚もし,やがて次の任地,グラーツに向かうこととなります。
 ちなみにシュテティンは,第2次世界大戦では連合軍の空爆により徹底的に破壊され,市立劇場も無くなってしまいます。また,同地に数多く住んでいたドイツ人は,戦後,ポーランド政府により財産略奪のうえ全員追放となっていました。(一覧に戻る)


9月:シュテティン市立/「ウィンザーの陽気な女房たち」,「ミニョン」
10月:シュテティン市立/「フィガロの結婚」
11月:シュテティン市立/「タンホイザー」
12月:シュテティン市立/「パルジファル」

1917年(24歳)
1月:シュテティン市立/「低地」
2月:シュテティン市立/バイス「シェーナウの仕立て屋」,「フィデリオ」
3月:シュテティン市立/「後宮からの誘拐」,「ニュルンベルクのマイスタージンガー」
3月:シュテティン市立/シリングス「モナ・リザ」
9月:シュテティン市立/マルシュナー「ハンス・ハイリング」
10月:シュテティン市立/「魔笛」
11月:シュテティン市立/「ラインの黄金」
12月:シュテティン市立/ゴルトマルク「シバの女王」,ファル「イスタンブールのバラ」,フロトウ「マルタ」


1918年(25歳)
1月:シュテティン市立/「ワルキューレ」,アダン「ロンジュモーの郵便馬車」
2月:シュテティン市立/ビットナー「地獄の金」,ボイエルデュー「ひっくり返った車」,「ジークフリート」
3月:シュテティン市立/「神々の黄昏」
5月:シュテティン市立/「ジプシー男爵」,「乞食学生」
6月:シュテティン市立/「ウィーン気質」
8月:シュテティン市立/「オペラ舞踏会」,「インディゴと40人の盗賊(千夜一夜物語)」
11月:シュテティン市立/「アイーダ」,「ドン・ジョヴァンニ」,ダルベール「オリヴェーラの牡牛」

1919年(26歳)
1月:シュテティン市立/「フラ・ディアヴォロ」
3月:シュテティン市立/「トリスタンとイゾルデ」
4月:シュテティン市立/「ばらの騎士」,「トロヴァトーレ」
11月:シュテティン市立/「蝶々夫人」,オッフェンバック「トレドの金細工職人」
12月:シュテティン市立/「オベロン」

1920年(27歳)
1月:オーストリアでハイパーインフレ発生。
2月:シュテティン市立/「サロメ」
3月:シュテティン市立/「ヘンゼルとグレーテル」
8月:シュテティン市立/「ホフマン物語」,「異国からの帰郷」
11月:シュテティン市立/プッチーニ「トスカ」


1921年(28歳)
シュテティンで歌手のマルガレーテ・アブラハム[1889-1963]と結婚。
1月:シュテティン市立/シュレーカー「宝探し」
9月:オーストリア,グラーツ市立劇場の音楽監督に就任。翌年まで在任。グラーツはウィーンの南西約150キロ。

【グラーツ市立劇場】

世界遺産に指定されるほどの美麗な街並みのグラーツの当時の人口は20万人ほどで,200万人を超えていたウィーンの10分の1ほどですが,オーストリアでは第2の規模の都市でした。1899年に開場した豪華なグラーツ市立劇場は,座席数1,400ほどの劇場で,常設のオーケストラは,シンフォニー・コンサート開催時には「グラーツ・フィルハーモニー」として演奏しています。
 当初,1921年からのグラーツ市立劇場の音楽監督には,この劇場では1917年から指揮している地元のカール・ベーム[1894-1981]が着任予定でしたが,ベームのことを知った指揮者のカール・ムック[1859-1940]が,バイエルン国立歌劇場の指揮者を探していた音楽監督のブルーノ・ワルター[1876-1962]に紹介したことで,ベームは第4楽長としてバイエルン国立歌劇場と契約したため,クラウスがグラーツの音楽監督に就任することになりました。ちなみに当時のグラーツ市立劇場の総監督は,シュテティン生まれのユリウス・グレーフェンベルク[1863-1927]でした。(一覧に戻る)


7月:グラーツ市立/「魔弾の射手」,ビゼー「ジャミレー」
9月:グラーツ市立/「サロメ」,「フィガロの結婚」
10月:イギリス政府がオーストリアに対して25万ポンドの借款を実施。これはオーストリアがデフォルトに陥ると東欧圏への影響も大きく,ソ連の動向も懸念され,結果的にイギリス経済に悪影響が出ることから実施されたものです。この金額では不足のため,翌年には債権国4か国で融資のほか,戦時融資国でもあったアメリカは賠償請求を棚上げしていました。
11月:グラーツ市立/「ナクソス島のアリアドネ」
12月:グラーツ市立/「スザンナの秘密」


1922年(29歳)
3月:グラーツ市立/シュレーカー「宝探し」
3月:ウィーン国立/「ばらの騎士」
5月:ウィーン国立/「後宮からの誘拐」
6月:グラーツ市立/「エレクトラ」
8月:オーストリアのハイパーインフレ収束。
9月:ウィーン国立歌劇場の第1楽長として契約。1924年まで2年間在任。


【ウィーン国立歌劇場】

クラウスは,グラーツ市立劇場の任期中にウィーン国立歌劇場に「ばらの騎士」でデビューしています。これはウィーン国立歌劇場の総監督フランツ・シャルク[1863-1931]が,グラーツ市立劇場で1890年から1895年までの5年間楽長を務めていたことと関係があるのかもしれませんが,ともかくクラウスは,いよいよ地元のウィーン国立歌劇場に第1楽長として迎えられることとなります。
 当時のウィーン国立歌劇場は,総監督がR.シュトラウス[1864-1949]とフランツ・シャルクという2名体制でした。
 シャルクは,1900年にウィーン国立歌劇場の第1楽長となり,その後,1918年11月15日から1929年にかけて11年間総監督を務めるなど通算約30年もウィーン国立歌劇場と共にあった人物で,バロックから20世紀作品まで膨大な数の作品を的確に仕上げる高度な能力には定評があり,メトロポリタン歌劇場や,コヴェントガーデン王立歌劇場,ベルリン国立歌劇場,プラハ・ドイツ劇場などでも実績がありました。
 R.シュトラウスは,シャルクの総監督昇格の翌年に着任,1924年に退任するまでの5年間にわたって,共同運営体制を敷いています(ウィーン国立歌劇場総監督の平均任期は4年半ほど)。
 クラウスは約30歳年上のこの2人の音楽家から大きな影響を受けたと語っており,それまでの10年間,5つの劇場で培った音楽的スキルと実務的ノウハウをこの2年間でさらに強化しています。
 ちなみにこの時期,ウィーン音楽院ではクラウスの高度な指揮技術に注目して,新たに指揮コースを設置,教授に任命していました。(一覧に戻る)


9月:ウィーン国立/「さまよえるオランダ人」,「アイーダ」,「トスカ」,「カルメン」
10月:英米仏伊4か国が、オーストリアに対し計6億5千万クローネ(560万ポンド)の短期融資。
10月:VSO/ハイドン:交響曲第104番,R.シュトラウス「ティル・オイレンシュピーゲルの愉快な悪戯」,「英雄の生涯」
10月:ウィーン国立/「アイーダ」,「トスカ」,「売られた花嫁」,「カルメン」,「さまよえるオランダ人」,「ばらの騎士」
11月:ウィーン国立/「アイーダ」,「トロヴァトーレ」,「サロメ」,「ドン・パスクワーレ」,マイヤーベーア「預言者」
12月:ウィーン国立/「フィガロの結婚」,「ドン・パスクワーレ」
12月:ウィーン・コンツェルトハウスで歌曲と室内楽の夕べ。ピアノを演奏。
12月:グラーツ市立/「セヴィリアの理髪師」
12月:VSO/ヘンデル:オルガン協奏曲 HWV292,ドヴォルザーク:ヴァイオリン協奏曲,ベートーヴェン:交響曲第5番。ウィーン交響楽団に始めて客演,ムジークフェラインで2公演。
ウィーン音楽院指揮科教授。ウィーン音楽院は,1915年にウィーン楽友協会から,ウィーン・コンツェルトハウス(下記画像)に移転しています。



【ウィーン交響楽団】

オペラ指揮者として約10年の経験を積み,ついにウィーン国立歌劇場の第1楽長となったクラウスは,ウィーン音楽院で指揮を教えるようにもなり,さらにウィーン音楽院院長のフェルディナント・レーヴェ[1865-1925]が創設したウィーン交響楽団に客演して,コンサート指揮者としての活動を本格化します。
 クラウスが集中的に客演した時期は,レーヴェが音楽監督を務めた時代と,レーヴェ没後の空白期の計4年間。シャルクの友人でもあるレーヴェはウィーン音楽院の院長なので,クラウスと同じ職場という縁があっての数多くの客演とも考えられますが,ともかくクラウスはここで,当時まだ珍しかったマーラー・チクルスをおこなってブルノ・ワルター[1876-1962]やオスカー・フリート[1871-1941]に迫る数の作品(第1・2・3・4・5・6・7・10番と「大地の歌」)を紹介したり,ブルックナーの交響曲第3・5・8番をとりあげたりしたほか,20世紀作品も数多く紹介しています。
 特に目立つのは,マーラーの第10番のアダージョとスケルツォをとりあげたことです。この作品は,アルマが娘の夫であるエルンスト・クレネクに補筆を依頼したもので,1924年10月に校正協力者でもあるシャルクが初演,11月にメンゲルベルクがオランダ初演,12月にクレンペラーがベルリン初演していたもので,クラウスの取り組みは,マーラー関係者並みに力の入ったものということになります。ちなみに第8番については,同じ時期にヴェーベルンがウィーン響と2回演奏していたので取り上げられず,また,第9番は,クラウスが急病のためキャンセルとなっていました。
 こうしてウィーンのムジークフェラインザールに鳴り響いたマーラーやブルックナー,R.シュトラウスなどの音楽は,ウィーン国立歌劇場での多彩なオペラ上演とあわせて,若きクラウスがすでに卓越した実力の持ち主であることを世に印象付けたものと思われますが,マーラーやブルックナーについては,広く受け入れられるには時期が早すぎたかもしれません。
 なお,ウィーン交響楽団の名称は,1900年の設立当初はウィーン演奏協会管弦楽団でしたが,1919年にウィーン・トーンキュンストラー管弦楽団と合併すると,今とはドイツ語名の違うウィーン交響楽団(Wiener Sinfonie-Orchester)の名称で主に活動するようになり,1933年に現在のドイツ語名のウィーン交響楽団(Wiener Symphoniker)と改めています。
 また,現在「トーンキュンストラー管弦楽団」と呼ばれているオーケストラは,1946年に,ニーダーエスターライヒ州によって設立されたもので,当初の名称は「ニーダーエスターライヒ州交響楽団」でしたが,2002年に「ニーダーエスターライヒ・トーンキュンストラー管弦楽団」と改称しています。ということで,かつて存在した「ウィーン・トーンキュンストラー管弦楽団」とは別な団体です。(一覧に戻る)


1923年(30歳)
ドイツのルール工業地帯をフランスが占領。労働者ストライキなどによりハイパーインフレ発生。
最初の妻マルガレーテとのあいだに,長男オクタヴィアン・バルタッツィ[1923-2004 弁護士]が誕生。
1月:ウィーン国立/「フィガロの結婚」,ボイエルデュー「パリのジャン」
1月:グラーツ市立/「パリのジャン」
2月:ウィーン国立/「パリのジャン」
3月:ウィーン国立/「アイーダ」,「さまよえるオランダ人」,「ドン・パスクワーレ」
4月:VSO/ベートーヴェン「レオノーレ」序曲第3番,ブルックナー:交響曲第8番
4月:ウィーン国立/「ばらの騎士」,「フィデリオ」,「ファルスタッフ」
5月:VSO/ベートーヴェン「エグモント」序曲,ベートーヴェン:交響曲第9番,モーツァルト:交響曲第40番,マルクス「秋の交響曲」
5月:ウィーン国立/「ナクソス島のアリアドネ」,「ばらの騎士」,「ドン・パスクワーレ」
6月:ウィーン国立/「ばらの騎士」,「サロメ」,「後宮からの誘拐」
9月:VSO/マーラー「大地の歌」
9月:ウィーン国立/「ナクソス島のアリアドネ」,「カルメン」,「さまよえるオランダ人」,「ばらの騎士」
10月:VSO/ベートーヴェン:交響曲第番3番,R.シュトラウス「ツァラトゥストラはかく語りき」,「家庭交響曲」,ヴェーバー「トゥーランドット」序曲,ダンブロージオ:ヴァイオリン協奏曲
10月:ウィーン国立/「カルメン」,「サロメ」
11月:ウィーン国立/「ナクソス島のアリアドネ」,「ばらの騎士」,「サロメ」,「後宮からの誘拐」
12月:VSO/ハイドン:交響曲第97番,ヨーゼフ・マルクス「秋の交響曲」
12月:ウィーン国立/「さまよえるオランダ人」,「ドン・パスクワーレ」,コルネリウス「バグダッドの理髪師」
ウィーン音楽院指揮科教授。


1924年(31歳)
1月:VSO/レーガー「ロマンティック組曲」,ブルックナー:交響曲第3番
1月:ウィーン国立/「ナクソス島のアリアドネ」,「カルメン」
2月:VSO/シューベルト「アルフォンソとエストレリャ」序曲,マーラー:交響曲第7番
2月:ウィーン国立/「アイーダ」,フランツ・シュミット「フレディグンディス」,キーンツル「福音の人」
3月:VSO/シューベルト:交響曲第9番「グレート」,シュレーカー:オスカー・ワイルドのおとぎ噺による舞踏音楽「皇女の誕生日」,ラヴェル「ラ・ヴァルス」
3月:ウィーン国立/「アフリカの女」,「カルメン」
4月:VSO/ベートーヴェン:交響曲第2番,R.シュトラウス「アルプス交響曲」
4月:ウィーン国立/「アフリカの女」,「カルメン」
5月:ウィーン国立/「カルメン」,「ばらの騎士」,「フィデリオ」
6月:ウィーン国立/「アイーダ」,「ばらの騎士」,「低地」,「ユダヤの女」
9月:ドイツ,フランクフルト歌劇場音楽監督に就任。1929年まで5年間在任。フランクフルトはウィーンの西北西約600キロ。


【フランクフルト歌劇場&ムゼウム管弦楽団】

18世紀終わりに設立という長い歴史を持つフランクフルト歌劇場。1880年には,座席数約2,000のオペラハウスを建設し,ドイツ有数の都市として発展するフランクフルトにふさわしい立派な歌劇場として存在感を示すようになります。
 専属オーケストラは,シンフォニー・コンサートをおこなう際には,「フランクフルト・ムゼウム管弦楽団」として活動。「英雄の生涯」や「ツァラトゥストラ」などの初演をR.シュトラウス自身の指揮でおこなった実績もあります。
 前任のルートヴィヒ・ロッテンベルク[1864-1932]は,ウィーン音楽院出身のユダヤ系オーストリア人で,若い頃にはクラウスの最初の職場でもあったブリュン国立劇場で指揮をしてもいました。ロッテンベルクはフランクフルト歌劇場で音楽監督を31年間も務めあげ,その間,4人の総監督と仕事をこなし,シュレーカーの作品や,R.シュトラウスの「エレクトラ」の普及に尽力したほか,ブゾーニ,ヤナーチェク,バルトーク,ドビュッシー,ヒンデミットなども積極的にとりあげていました。ちなみに娘のゲルトゥルーデ[1900-1967]は,ヒンデミットと1924年に結婚しています。
 クラウスにとってこの劇場での1924年から1929年にかけての5年間は,総監督無しの音楽監督という事実上のトップという地位にあって融通が効いたせいか,いろいろと重要な出来事が続きました。

・1924〜1926年,ウィーン交響楽団とマーラー・チクルスを開催。
・1926年,ソプラノ歌手のヴィオリカ・ウルズレアックがフランクフルト歌劇場に移籍。共演を通じて親しくなり,のちに結婚,持ち前の歌唱力に加えてクラウスの適切な助言もあり,R.シュトラウスの最高のお気に入り歌手となります。
・1926年,ザルツブルク祝祭に初めて出演し,オペラやオーケストラ・コンサートを指揮。
・1929年,ウィーン・フィルと2度目のザルツブルク祝祭でJ.シュトラウス・コンサートを開いて成功を収め,以後,1933年まで毎年開催,のちのニューイヤー・コンサートに繋がる実績を築き上げます。
・1926年,ザルツブルク祝祭の直後にバイエルン国立歌劇場に客演してワーグナー「ニーベルングの指環」を指揮。クナッパーツブッシュが月の前半,後半がクラウスという,1か月に「指環」を2回というバイロイト級のスケジュールでした。
・1927年,レニングード・フィル,バルセロナ交響楽団,ブエノス・アイレスのテアトロ・コロン劇場に客演。
・1929年,フィラデルフィア管弦楽団とニューヨーク・フィルに客演。

こうした一連の出来事が,クラウスが自身のフランクフルト歌劇場とムゼウム管弦楽団の両方を適切に運営しながらおこなわれていたということに驚かされますが,それも世界的な景気の好転があればこそなのかもしれません。ともかく,この時期のクラウスの仕事の質と量の充実ぶりにはかなりのものがあります。(一覧に戻る)


9月:ムゼウム管/ブルックナー:交響曲第3番ほか
10月:VSO/ワーグナー「パルジファル」前奏曲,ベートーヴェン:交響曲第9番
10月:ムゼウム管/マーラー「大地の歌」,シェーンベルク「浄夜」,ラヴェル「クープランの墓」,ベルリオーズ「夏の夜」,ヒンデミット:室内音楽第2番(初演),ハイドン:交響曲第97番
11月:VSO/レズニチェク「シャミッソーの悲劇的な物語による主題と変奏」,ブルックナー:交響曲第8番
11月:ムゼウム管/ベートーヴェン:交響曲第7番,ストラヴィンスキー「花火」,チャイコフスキー:ヴァイオリン協奏曲,モーツァルト:アダージョとフーガ,「エクスルターテ・ユビラーテ」,R.シュトラウス:管弦楽伴奏歌曲集,「家庭交響曲」
11月:フランクフルト/ブチャロフ「サカーラ」初演
12月:VSO/コルンゴルト:シンフォニエッタ,ハイドン:交響曲第88番,ベートーヴェン「レオノーレ」序曲第3番
12月:ムゼウム管/レスピーギ「ローマの泉」,ドビュッシー「映像」,ファリャ「スペインの庭の夜」,カゼッラ:ソナティナ,シューマン:交響曲第1番
12月:オーストリアで通貨改革決定。クローネからシリングに移行(10,000:1)。翌年3月の実施に向け物価が下落。
ウィーン音楽院指揮科教授。


1925年(32歳)
1月:VSO/スクリャービン「プロメテウス」,マーラー「大地の歌」
1月:ウィーン国立/「ナクソス島のアリアドネ」
1月:ムゼウム管/ブルックナー:交響曲第5番,ベートーヴェン:ピアノ協奏曲第3番,レーガー「バレエ組曲」,ブラームス:ヴァイオリン協奏曲,シューベルト:交響曲第8番「未完成」,R.シュトラウス「ドン・ファン」
1月:フランクフルト/「影の無い女」
2月:VSO/マーラー:交響曲第2番,ドヴォルザーク:交響曲第8番,ベートーヴェン:ピアノ協奏曲第5番
2月:ムゼウム管/ベートーヴェン:交響曲第9番,バッハ:カンタータ第56番
3〜12月:フランクフルト/「ニーベルングの指環」
3月:VSO/レスピーギ:リュートのための古風な舞曲とアリア組曲第1番,R.シュトラウス「ドン・キホーテ」,ベートーヴェン:交響曲第7番
3月:フーゴー・コルベルクのヴァイオリン・リサイタルでピアノ伴奏をクラウスが担当。
3月:ムゼウム管/ドビュッシー「夜想曲」,レーガー「ベックリン組曲」,ベートーヴェン:交響曲第1番
4月:VSO/ヴェーバー「アブ・ハッサン」序曲,シューマン:チェロ協奏曲,ブルックナー:交響曲第5番
4月:フランクフルト/「ジャンニ・スキッキ」
4月:ムゼウム管/ブラームス:交響曲第3番,モーツァルト:ピアノ協奏曲第21番,ベートーヴェン「レオノーレ」序曲第3番,ドヴォルザーク:ヴァイオリン協奏曲,アレクサンダー・リッパイ:管弦楽のための変奏曲とフーガ,スメタナ「売られた花嫁」序曲
5月:VSO/ボーンケ:管弦楽のための主題と変奏,ベートーヴェン:ピアノ協奏曲第5番,ドヴォルザーク:交響曲第8番
5月:ムゼウム管/ブラームス:交響曲第4番,ベートーヴェン:交響曲第5番,バッハ(シェーンベルク編):コラール前奏曲「来たれ,創り主,聖霊なる神よ」,「装いせよ,おおわが魂よ」,ブラウンフェルス「ドン・ファン」,ヨーゼフ・マルクス「秋の交響曲」
8月:フランクフルト/「インテルメッツォ」
9月:ムゼウム管/ベートーヴェン:交響曲第6番,R.シュトラウス「ツァラトゥストラ」
10月:VSO/マーラー:交響曲第1番,第4番,R.シュトラウス「ティル・オイレンシュピーゲルの愉快な悪戯」,ゴルトマルク:ヴァイオリン協奏曲,チャイコフスキー:交響曲第5番
10月:フランクフルト/「ヴェネツィアの一夜」
10月:ムゼウム管/マーラー:交響曲第3番
11月:フランクフルト/「オテロ」
11月:VSO/ベートーヴェン「コリオラン」序曲,マーラー:交響曲第2番
11月:ムゼウム管/マーラー:交響曲第3番
12月:VSO/マーラー:交響曲第3番


1926年(33歳)
1月:VSO/メンデルスゾーン「フィンガルの洞窟」,マーラー:交響曲第5番
2月:VSO/カニッツ:ソプラノと管弦楽のための4つの歌,マーラー:交響曲第6番
2月:フランクフルト/ゼクレス「10回のキス」初演
3月:VSO/モーツァルト「フィガロの結婚」序曲,マルクス:田園風4度によるコンチェルティーノ,牧歌,マーラー:交響曲第7番
5月:VSO/マーラー:交響曲第10番〜アダージョとスケルツォ,マーラー「亡き子を偲ぶ歌」,マルクス:交響的夜想曲
8月:オーストリア,ザルツブルク祝祭にウィーン・フィルと初登場。ハイドン:交響曲第88番,モーツァルト:セレナータ・ノットゥルナ,ベートーヴェン:交響曲第7番,R.シュトラウス「家庭交響曲」ほか。ちなみにこの年のほかのオーケストラ・コンサートは,シャルクのブルックナー交響曲第8番,ワルターのマーラー交響曲第4番ほかとなっていました。
8月:VPO/ザルツブルク祝祭/「ナクソス島のアリアドネ」(クラウス2回,シュトラウス1回)

【ザルツブルク祝祭】

モーツァルトの生地で夏に開かれるこのフェスティヴァルは,1920年に開始され,現在では世界有数の規模に発展していますが,もともとは「モーツァルト音楽祭」を前身とする小規模なものでした。
 最初の年は広場での演劇「イェーダーマン」のみで,翌1921年に小規模な演奏会とバレエが開始,そして3年目の1922年に,R.シュトラウス/シャルク体制のウィーン国立歌劇場がオペラ上演とシンフォニー・コンサートを開始しますが,まだ知名度が低かったため成功とはならず,翌1923年は演劇のみ上演,さらに1924年には資金難となりフェスティヴァルが休止,1925年にようやく体制を整えて,「オペラ」,「バレエ」,「演劇」,「管弦楽演奏会」,「室内楽演奏会」の4本立てで再開,指揮者はムック,シャルク,ワルターでした。この1925年にザルツブルク宮廷の旧厩舎を改築した祝祭劇場(現モーツァルト劇場)がオープン。これで大ホールが,市立劇場(現ザルツブルク州立劇場),モーツァルテウム大ホールに加えて3つとなっています。
 クラウスが登場するのはその翌年の1926年からで,この1926年にはさらに,馬術学校を改築した「フェルゼンライトシューレ」が大ホールとして追加。指揮者としては,クラウスのほかに,R.シュトラウス,シャルク,ワルターが参加していました。
 以後,クラウスは,世界恐慌&オーストリアの政情不安期と重なるウィーン国立歌劇場総監督時代の1929年,1930年,1931年,1932年,1933年,1934年と出演したほか,戦時中のバイエルン国立歌劇場総監督時代の1939年,1941年,1942年,1943年,そして戦後の1952年,1953年に出演。その間,1941年には芸術監督にも就任していました。
 なお,1920年代の訪問者は,オーストリアが約35%,海外が約65%で,うちドイツが約45%なので,非ドイツ語圏が約20%という状況でしたが,世界恐慌によってオーストリアが大きな打撃を受けると,1932年には海外比率が約80%にまで高まることになります。(一覧に戻る)


8月:バイエルン国立/「ニーベルングの指環」
11月:VSO/ハイドン:交響曲第31番「ホルン信号」,R.シュトラウス「ドン・ファン」,カゼッラ:ピアノと管弦楽のためのパルティータ
11月:フランクフルト/ダルベール「ゴーレム」初演
12月:VSO/ベルリオーズ「ベンヴェヌート・チェッリーニ」序曲,マルクス「春の音楽」,ベートーヴェン:ピアノ協奏曲第4番
12月:フランクフルト/クレナウ「悪口学校」初演
最初の妻マルガレーテ・アブラハム[1889-1963]とのあいだに,次男オリヴァー・ヘクター・バルタッツィ[1926-2001 俳優・作家]が誕生。

1927年(34歳)
4月:フランクフルト/「トゥーランドット」
6月:フランクフルト/「ファウスト博士」
6月:VPO/フランクフルト公演
7〜8月:アルゼンチン,ブエノス・アイレスのテアトロ・コロンに客演。下の画像は当時のドイツ南米航路の豪華客船。片道3週間の旅でした。


7月:ウィーンで暴動発生。左翼勢が民衆デモを巻き込んで警察署や裁判所を襲撃して戦闘状態となり,89人が殺害(デモ参加者85名,警官4名)されたのち収束。


11月:フランクフルト/「運命の力」
ウィーン・フィル/フランクフルト公演/ブルックナー:交響曲第3番,シューベルト:交響曲第9番「グレート」,J.シュトラウス「美しく青きドナウ」
レニングード・フィルに客演。

1928年(35歳)
3月:フランクフルト/「コジ・ファン・トゥッテ」
5月:フランクフルト/ヒンデミット「カルディヤック」

1929年(36歳)
クラウスはR.シュトラウスに,モーツァルト「イドメネオ」の編曲を依頼。ドイツ語版で,シュトラウスの自作要素も時折聴かれる仕上がりに。
3月:フィラデルフィア管弦楽団に客演
4月:ニューヨーク・フィル/ブラームス:交響曲第1番,ワーグナー「さまよえるオランダ人」序曲,ラヴェル「スペイン狂詩曲」,R.シュトラウス「サロメの踊り」,チャイコフスキー:交響曲第5番,ワーグナー「森のささやき」,「日の出とジークフリートのラインへの旅」,「マイスタージンガー」前奏曲,ハイドン:交響曲第97番,ブラームス:ハンガリー舞曲第10・3・1番,R.シュトラウス「英雄の生涯」,「火の欠乏」〜「愛の情景」,「ドン・ファン」
6月:フランクフルト/「西部の娘」
6月:ウィーン国立/「ばらの騎士」
6月:VPO/ブラームス:ハンガリー舞曲第1&3番(CD5)
7月:VPO/ブルックナー第4番〜第3楽章(CD8)
8月:VPO/ザルツブルク祝祭/J.シュトラウス・コンサートで成功。以後,1933年まで毎年開催し,のちのニューイヤー・コンサートに繋がって行きます。
8月:VPO/ザルツブルク祝祭/R.シュトラウス「ドン・ファン」,「サロメの踊り」,「英雄の生涯」
8月:VPO/ザルツブルク祝祭/「ばらの騎士」
9月:ウィーン国立歌劇場総監督就任。1934年まで5年間在任。


【ウィーン国立歌劇場】

R.シュトラウスの支援もあり,1929年9月1日,クラウスはシャルクの後任としてウィーン国立歌劇場の総監督に5年契約で就任。予算や演目編成,人事などの監督業もこなしながらの指揮生活で非常に多忙でしたが,見かけ上はあくまでも陽気で優雅,青い裏地のシルクの騎兵風ケープを羽織り,車は超高級車のイスパノ・スイザ,タバコは若い頃から嗜んでいたハヴァナの葉巻やパイプという貴族趣味なものでした。
 以前,ウィーン国立歌劇場の第1楽長を務めていた1922年から24年は,第1次世界大戦後の敗戦による不況とハイパーインフレもなんとか収束の見通しがつきかけていた時期で,景気はいまひとつでしたが,その後,通貨改革を経てオーストリア経済は回復,しばらくは好景気といわれる状況が続いていたので,クラウスも希望に満ちての総監督就任でした。


 しかし,就任直後にニューヨークで株価が大暴落,翌年には徐々にオーストリア経済にも恐慌の影響が出始め,さらに3年半後にはオーストリア・ファシズム政権が成立,ファシズム政権vs社会主義者vsオーストリア・ナチというみつどもえの衝突が頻発し,やがて内戦まで勃発するという混乱の中,首相が暗殺されるなど政治も末期症状を呈し,当然ながらチケットも売れず,楽員の中からファシズム勢力を利用した反乱も発生するなど,まだ若いクラウスにとっては余りにも過酷な状況が続いていました。
 しかしクラウスはこうした状況でもまったくめげずに,徹底したリハーサルを毎回おこなって上演水準をウィーン国立歌劇場始まって以来最高といわれるレヴェルにまで引き上げ,ベルクの「ヴォツェック」や,R.シュトラウスの「影のない女」,「エジプトのヘレナ」,「ばらの騎士」,「エレクトラ」といった演奏困難,あるいはリハーサルや演奏が重労働の作品も積極的にとりあげ,それまでの常識的水準をはるかに超える仕上げっぷりで各方面から高い評価を得ていました。
 しかしそのレパートリー選択には,当時の社会背景では行き過ぎた面もあったようで,たとえば1934年に初演しようとしたクレネクの12音オペラ「カール5世」は,直前になってドイツでのクレネク作品上演禁止措置を受けて,クルト・シュシュニック[1897-1977]法務大臣兼教育文化大臣が公演中止を決定し,また,ウィーン交響楽団やムゼウム管弦楽団と演奏して好評だった20世紀作品をプログラムに載せてみますが,すでに深刻な不況下でチケット売上はなかなか改善しませんでした。
 とはいうものの,ウィーン国立歌劇場本体の業績は世界恐慌下ということを考えると十分な水準であり,5年の契約期間終了時には1年間の延長要請もありましたが,オーストリア・ファシズム勢力となった楽員の増加や,以前断っていたベルリン国立歌劇場から再度オファーがあったこともあり,延長3か月半にあたる1934年12月15日にウィーン国立歌劇場総監督を辞任し,自ら育成した歌手アンサンブルを引き連れてベルリン国立歌劇場に移ることになります。(一覧に戻る)


【実質賃金44%減少】

クラウス着任の翌月にニューヨークで株価が大暴落,経済的な影響が次第に世界に波及するようになり,たとえばまだ金本位制だったフランスでは影響も直撃で,モントゥー率いる民営オケのパリ交響楽団も悲惨な状況に置かれていました。
 クラウスの任期は1929年から1934年まででしたが,その間のオーストリアの実質賃金は44%も減少,失業率も1928年の8.3%に対し,1934年は38.5%と凄まじい景気の悪化ぶりで,政治・社会も大幅に混乱して行きます。
 もっとも,ウィーンについては,1918年からオーストリア社会民主党が与党として行政をつかさどっており,州と同格だったこともあって奢侈税導入などの税制やインフラ運営も国とは別で,実際に失業率もウィーンだけは低い水準になっていました。しかしそれでも影響は避けられず,1931年5月には,フランスがオーストリアから資本を引き揚げたこともあってロスチャイルド(ロートシルト)家創業のウィーンの大銀行「クレディート・アンシュタルト」が倒産し,取引先のドレスデン銀行なども破綻するなど経済の悪化は避けられなくなります。
 そうした状況の中,1932年5月には,キリスト教社会党党首のエンゲルベルト・ドルフース[1892-1934]がオーストリア首相となって教権ファシズム化を進めてウィーンも統治するようになり,オーストリア社会民主党,オーストリア・ナチス(ナチ党オーストリア支部)と対立,政情が不安定になって行きます。・
 1934年2月にはウィーンで内戦が勃発。オーストリア・ファシズム政権と,オーストリア社会民主党の支援する戦闘員が衝突し,4日間で2,000人前後の死傷者が出て戒厳令も布告。
 5か月後の7月には,オーストリア・ファシズム政権のドルフース首相が,敵対するオーストリア・ナチスのメンバーにより殺害。オーストリア・ナチスは,クーデターにより政権奪取を果たすべくオーストリア各地で暴動を引き起こすものの,隣国イタリアのムッソリーニ率いるイタリア・ファシズム政権が国境線まで軍隊を進めたためオーストリア・ファシズム政権はなんとか事態を鎮圧。以後,1936年に政権がドイツに屈服するまで,オーストリア・ナチスは地下活動を展開。
 当時のオーストリアは,ドルフース首相のオーストリア・ファシズム政権と支持者たち(護国団など),オーストリア社会民主党の支援する全国で8万人規模とも言われる活動員とその支持者たち(共和国保護同盟など),オーストリア・ナチ党員とその支持者たちという三者によるみつどもえの闘争という状態で,国中で小競り合いが多発していました。
 加えて欧州では,恐慌等の影響からドイツ,イタリア,スペイン,ポルトガル,ルーマニア,ギリシャ,ハンガリー,ポーランドが独裁政権で大多数がファシズム支配となっており,こうした社会状況を背景に,もともと政治色の強いウィーン国立歌劇場(とウィーン・フィル)内部でもトラブルが発生,さらにオーストリア・ファシズム政権による経済統制も本格化するなど,状況は悪化の一途をたどっていきます。(一覧に戻る)


【トスカニーニ人気】

若いクラウスにとってもうひとつ不運だったのは,着任直前の1929年5月に,第1次世界大戦でオーストリアを打ち負かした戦勝国イタリアの御大トスカニーニ[1867-1957]が,300名超えのミラノ・スカラ座を率いて特別列車でウィーンとベルリンに乗り込んで引っ越し公演をおこない,「ファルスタッフ」と「ランメルモールのルチア」などで大成功を収めたことでした。当時の欧州では,外国語作品は内容が即座に理解できるよう翻訳上演が基本だったこともあり,ウィーンではイタリア語の響きが新鮮だったことと,トスカニーニのシンプルでパワフルでよく歌うスタイルが,好景気の中,大きな成功をもたらしたのです。
 さらにトスカニーニは,株価大暴落から7か月後の翌年5月には,外需を求めるニューヨーク・フィルを率いてヨーロッパ・ツアーを展開,再びウィーンを訪れ,まだ経済がそれほど悪化していなかったヨーロッパで,大きな興行収益をあげてアメリカに持ち帰ってもいました。
 ちなみにクラウスも,ウィーン国立歌劇場総監督着任の少し前には,第1次世界大戦による巨大な利益で一気に経済大国となり好景気に沸いていたアメリカを訪れ,フィラデルフィア管弦楽団と,ニューヨーク・フィルに客演していたので,まさに好景気と恐慌が隣り合う時期だったといえるかもしれません。(一覧に戻る)


9月:ウィーン国立/「ばらの騎士」
9〜10月:VPO/ベートーヴェン:交響曲第2番(CD4)
10月:VPO/R.シュトラウス「町人貴族」(CD13)
11月:ウィーン国立/「コジ・ファン・トゥッテ」
12月:ウィーン国立/「コジ・ファン・トゥッテ」,「ばらの騎士」
VSO/ハイドン:交響曲第31番(CD1)
ウィーン・フィル/ハイドン:交響曲第88番(CD3)

1930年(37歳)
ウィーン・フィルハーモニー常任指揮者に就任。
ウィーン・フィル/シェーンベルク「浄夜」
1月:ウィーン国立/ヴェルディ「シモン・ボッカネグラ」,モーツァルト「コジ・ファン・トゥッテ」
1〜3月:VPO/ブラームス:交響曲第3番(CD6)
2月:ウィーン国立/「シモン・ボッカネグラ」,「コジ・ファン・トゥッテ」,「ばらの騎士」
3月:ウィーン国立/「ヴォツェック」,「シモン・ボッカネグラ」,「ばらの騎士」
4月:ウィーン国立/「ヴォツェック」,「ばらの騎士」
4月:ウィーン・フィルとパリ公演
5月:ウィーン国立/「ヴォツェック」,「コジ・ファン・トゥッテ」
6月:ウィーン国立/「ヴォツェック」,「シモン・ボッカネグラ」,「ばらの騎士」
8月:VPO/ザルツブルク祝祭/「フィガロの結婚」,「ばらの騎士」
8月:VPO/ザルツブルク祝祭/J.シュトラウス・コンサート
9月:ウィーン国立/「ヴォツェック」,「シモン・ボッカネグラ」,「コジ・ファン・トゥッテ」
10月:ウィーン国立/「ヴォツェック」,,「コジ・ファン・トゥッテ」,「ばらの騎士」ワインベルガー「笛吹きシュワンダ」
11月:ウィーン国立/「シモン・ボッカネグラ」,「笛吹きシュワンダ」
12月:VPO/チェコ・ツアー
12月:ウィーン国立/「ばらの騎士」,コルンゴルト「ヴィオランタ」


1931年(38歳)
1月:ウィーン国立/「ヴォツェック」,「シモン・ボッカネグラ」,「笛吹きシュワンダ」
2月:ウィーン国立/「ヴォツェック」,「ばらの騎士」,「影のない女」
3月:ウィーン国立/「ヴィオランタ」,「シモン・ボッカネグラ」,「ばらの騎士」,「影のない女」
4月:ウィーン国立/「ヴィオランタ」,「影のない女」
5月:ウィーン国立/「ヴォツェック」,「ばらの騎士」,「影のない女」,「ジークフリート」
6月:ウィーン国立/「ヴォツェック」,「ヴィオランタ」,「ジークフリート」,「ばらの騎士」,「影のない女」,ヴェレス「バッカスの信女」
8月:VPO/ザルツブルク祝祭/「フィガロの結婚」,「コジ・ファン・トゥッテ」,「ばらの騎士」,「フィデリオ」
8月:VPO/ザルツブルク祝祭/J.シュトラウス・コンサート
8月:VPO/ザルツブルク祝祭/ハイドン:交響曲第88番,シュミット「軽騎兵の歌による変奏曲」,R.シュトラウス「町人貴族」
9月:フランツ・シャルク死去。死の床でシャルクはクラウスに「私のウィーン・フィルの楽員たちをよろしく頼むよ」と語り,その言葉は,フランツ・シャルク記念メダルにも刻まれています。
9月:ウィーン国立/「コジ・ファン・トゥッテ」,「ジークフリート」,「ばらの騎士」,「笛吹きシュワンダ」,「フィデリオ」
10月:ウィーン国立/「ばらの騎士」,「バッカスの信女」,「フィデリオ」
11月:ウィーン国立/「ばらの騎士」,「シモン・ボッカネグラ」,「笛吹きシュワンダ」
12月:ウィーン国立/「スペードの女王」
ヨーゼフ・クリップス[1902-1974]をウィーン国立歌劇場に客演指揮者として招聘。

1932年(39歳)
1月:ウィーン国立/「ばらの騎士」,「ジークフリート」,「スペードの女王」
2月:ウィーン国立/「コジ・ファン・トゥッテ」,「ばらの騎士」,「スペードの女王」
2月:VPO/ストラヴィンスキー,シュミット,ベートーヴェン
3月:VPO/ハイドン生誕200周年記念コンサート。「テ・デウム」ほか
3月:ウィーン国立/「エレクトラ」,「ジークフリート」,「スペードの女王」
4月:ウィーン国立/「ばらの騎士」,「スペードの女王」,「フィデリオ」
5月:キリスト教社会党党首でオーストリア首相のドルフースにより,カトリックを国教とするオーストリア・ファシズム体制開始。国内で勢力を伸ばしてきたオーストリア・ナチスや社民党率いる社会主義者勢力に対抗する手段でもありました。
5月:ウィーン国立/「ドン・カルロ」,「エレクトラ」
6月:ウィーン国立/「ヴォツェック」,「バッカスの信女」,「ドン・カルロ」,「ジークフリート」,「スペードの女王」,「影のない女」
8月:VPO/ザルツブルク祝祭/「フィガロの結婚」,「コジ・ファン・トゥッテ」,「影のない女」,「ばらの騎士」
8月:VPO/ザルツブルク祝祭/J.シュトラウス・コンサート
8月:VPO/ザルツブルク祝祭/バッハ:ロ短調ミサ
9月:ウィーン国立/「ばらの騎士」,「ジークフリート」,「ドン・カルロ」,「スペードの女王」,「フィデリオ」
10月:ウィーン国立/「ヴォツェック」,「ばらの騎士」,「エレクトラ」,「スペードの女王」,「フィデリオ」
11月:ウィーン国立/「ヴォツェック」,「コジ・ファン・トゥッテ」,「ばらの騎士」,「ドン・カルロ」,ヘーガー「名無しの乞食」
12月:VPO/ヴェルディ:レクィエム
12月:ウィーン国立/「コジ・ファン・トゥッテ」,「ばらの騎士」,「ドン・カルロ」,「スペードの女王」,クリツカ「城のスパイ」

1933年(40歳)
ウィーン・フィル/常任指揮者制を廃止。

【ブルクハウザーの反乱】

クラウスはウィーン国立歌劇場総監督就任の翌年,1930年には,ウィーン・フィルの常任指揮者にも就任していましたが,当時のウィーン・フィルは社会情勢と同じく混乱期を迎えています。
 1932年にオーストリア・ファシズム政権が国政をつかさどるようになると,国営組織である国立歌劇場とウィーン・フィルにも影響が及び,政権からさまざまな圧力がかかるようにもなります。そうした状況下で,暴動などもお手の物のファシズム組織「祖国戦線」に所属し目立った政治的活動をおこなっていたファゴット奏者フーゴー・ブルクハウザー[1896-1982]がウィーン・フィルでも暗躍。
 イタリア人の母とズデーテン・ドイツ人の父のあいだに生まれ,イタリア語も喋るブルクハウザーは,オーストリア・ファシズム政権に太い人脈があり,トスカニーニやワインガルトナー,R.シュトラウス,フルトヴェングラー,ワルター,クレンペラーらを敬う一方,ムッソリーニのサインを誇りとするなど,権威を尊ぶきわめて政治的な人物。
 ブルクハウザーはさっそく,クラウスを辞めさせてブルーノ・ワルターを総監督にするようファシズム仲間のシュシュニック大臣に要請していますが,それは通りませんでした。
 しかし,当時のウィーン・フィルには演奏困難な「春の祭典」(特にファゴット!)やベルクの「ヴォツェック」など,20世紀作品をとりあげたりすることと,リハーサルが多すぎてきついこと,しかもそれらのチケット売上があまり振るわないことなどを理由に,ブルクハウザーはさまざまな手段を用いてクラウスを追い出しにかかることになり,ウィーン・フィル団長のアレクサンダー・ヴンデラー[1877-1955 オーボエ],コンサートマスターのフランツ・マイレッカー[1879-1950]らも攻撃して役職から追い出し,自分がウィーン・フィルの団長に就任すると,立場とイタリア語を活用して,当時大人気だったトスカニーニをウィーン・フィルに客演させることに腐心するようになります。
 そのためには常任指揮者制度は邪魔になるということで,ブルクハウザーは楽団員たちに働きかけ,1933年の年次総会で常任指揮者制の廃止を決議,以後はその都度,楽団員投票によって共演指揮者を選ぶことにしますが,実際の運用では,ブルクハウザーがひとりですべて決めてから楽団員に事後承諾を得るというとんでもない方法となってしまいました。
 ちなみにブルクハウザーは1922年からウィーン音楽院で教えていてクラウスとは同僚だったこともあり,仕事量が多く,演奏が難しい上にチケットが売れにくい曲も取り上げるクラウスのことを良く思っていなかった可能性は十分にあります。ブルクハウザーにはブルクハウザーなりの事情があった模様です。
 ともかくブルクハウザーの大胆な行動によって,ウィーン・フィルがその後,ギャラの安い「定期公演枠」にさまざまな指揮者を登場させることが可能になったのは,経営的にも聴衆にとっても良いことであったことは確かです。ちなみにクレンペラーはウィーン・フィル側からの度重なる出演交渉にも関わらず,ギャラが安いという理由で定期公演には一切出演しなかったようです。(一覧に戻る)


1月:VPO/ベートーヴェン:ヴァイオリン協奏曲,三重協奏曲,ロマンス/ソリストのブロニスワフ・フーベルマン[1882-1947]は1936年にパレスチナ管弦楽団を創設した人物。ピアニストのジークフリート・シュルツ[1897-1989]は1000人以上のユダヤ人を救出したことでも有名。
1月:ウィーン国立/「ばらの騎士」,「城のスパイ」,「スペードの女王」
2月:ウィーン国立/「ラインの黄金」(抜粋/CD94),「パルジファル」,「ばらの騎士」,ヴェルディ「ドン・カルロ」,R.シュトラウス「エレクトラ」
3月:ウィーン国立/「神々の黄昏」(抜粋/CD94),「ジークフリート」,「ばらの騎士」,「スペードの女王」,「フィデリオ」
4月:ウィーン国立/「パルジファル」(抜粋/CD95),「マクベス」,「ドン・カルロ」,「スペードの女王」
5月:VPO/イタリア・ツアー
5月:ウィーン国立/「エレクトラ」,「マクベス」
6月:ウィーン国立/「ワルキューレ」(抜粋/CD94),「ばらの騎士」,「影のない女」,「ドン・カルロ」
7月:ザクセン国立/「アラベラ」初演含め6回上演。

【「アラベラ」初演トラブル】

R.シュトラウスが第2の「ばらの騎士」ともいうべきポジションを狙って書いた優雅な内容のオペラ「アラベラ」は,初演を巡るいざこざでも知られています。ウィーンが舞台となっている「アラベラ」ですが,初演は,ドレスデンのザクセン国立劇場でおこなわれる契約でした。
 これはザクセン国立劇場が,エルンスト・フォン・シューフ[1846-1914]の指揮で「火の危機」,「サロメ」,「エレクトラ」,「ばらの騎士」の4作品,フリッツ・ブッシュ[1890-1951]の指揮で「インテルメッツォ」,「エジプトのヘレナ」の2作品と,すでに6つのシュトラウス作品を初演していたという実績に鑑みたものでした。
 しかし,指揮者のブッシュに対し,1933年3月7日,「リゴレット」上演の際に騒動が起き,ナチ党員で楽長のクルト・シュトリーグラー[1886-1958]と交代,劇場側から罷免処分が下されており,7月の「アラベラ」も指揮することができなくなります。当時,ブッシュはベルリンなどへの客演が増えてきており,ドレスデンを留守にしがちだったことを理由に,劇場内の歌手や楽員,職員の署名まで集めたうえでおこなわれた措置でもありました。
 背景には,ブッシュの弟でヴァイオリニストのアドルフの妻がユダヤ系で,同じくユダヤ系のルドルフ・ゼルキンとは公私に渡る家族同様の関係もあったということで(のちにアドルフの娘と結婚),反ユダヤ主義者から嫌がらせを受けていたことや,10年を超える任期のあいだ,契約更新の際にブッシュの報酬と休暇が共に増やされ,深刻な不況のもとで文化予算削減に動いていたナチ党議員たちとそうした金銭を巡って対立していたこともあったようです。
 シュトラウスもこの罷免劇には怒ったようでしたが,初演は指揮者との個人契約ではなく劇場組織と契約しておこなうものなので,シュトラウスは劇場側に対して,自作上演の実績が最大のクレメンス・クラウスの指揮で初演をおこなうように要請し,さらにクラウスは自身が総監督を務めるウィーン国立歌劇場の歌手チームを連れて行くことを条件として提示,7月に初演を含めて6公演がおこなわれることとなります。
 しかしブッシュは,自分が指揮できなくなった以上,初演は,同じドイツのバイエルン国立歌劇場で,クナッパーツブッシュ[1888-1965]がおこなうべきだとR.シュトラウスに進言した旨をクナッパーツブッシュ本人に手紙で知らせ,その妙な話を鵜呑みにしたクナッパーツブッシュは,ドレスデンでの初演が中止となって,バイエルン国立歌劇場に初演話が舞い込んでくると思い込んでしまったため,「アラベラ」が予定通りドレスデンで上演という情報を知ると激怒,シュトラウスに対して絶縁状のような手紙を書いてしまいます。
 一方,ブッシュの方は罷免直後,ベルリンで何度かゲーリングと会合を持ち,さらにゲッベルスの部下のハンス・ヒンケルに直接交渉して,ドイツ政府の組織したオペラ団体のナチ・プロパガンダ・ツアーに同行する許可を得ます。年末まで続いたこのラテンアメリカ・ツアーの後は,ゲーリングの後ろ盾でベルリンで活躍できることを期待していたものの,フルトヴェングラーとの契約は結局変更できず,フルトヴェングラー退任を前提にゲーリングが特別に用意した「枢密顧問官」という高報酬な「称号」が単にフルトヴェングラーの数多い役職に追加されただけという形になり,仕方なくブッシュは,1934年にイギリスの夏の個人運営音楽祭「グラインドボーン・フェスティヴァル」の監督に就任しますが,夏季限定で報酬も限られていたため,秋になるとアルゼンチンに渡り,テアトロ・コロンの音楽監督に就任,1936年にはアルゼンチン国籍も取得。以後,ブッシュは南北アメリカとイギリス,北欧で指揮活動を展開することになります。
 なお,これらの出来事の少し前,「アラベラの」台本を書きあげたホフマンスタール[1874-1929]は,1929年7月13日に息子が拳銃自殺してしまい,2日後におこなわれた息子の葬儀に出席のため着替えている最中に脳梗塞で倒れ,直後に55歳で亡くなっています。(一覧に戻る)


8月:VPO/ザルツブルク祝祭/「フィガロの結婚」,「コジ・ファン・トゥッテ」,「影のない女」,「エジプトのヘレナ」,「ばらの騎士」
8月:VPO/ザルツブルク祝祭/J.シュトラウス・コンサート,ムソルグスキー「展覧会の絵」,ドビュッシー:狂詩曲,ラヴェル「ボレロ」,フランク:交響的変奏曲,サン=サーンス:ピアノ協奏曲第4番
9月:ウィーン国立/「パルジファル」,「エジプトのヘレナ」,「影のない女」,「ドン・カルロ」,「マクベス」,「スペードの女王」,「フィデリオ」
10月:ウィーン国立/「アラベラ」,「ばらの騎士」,「シモン・ボッカネグラ」
10月:ウィーン国立/「アラべラ」(抜粋/CD57)
11月:ウィーン国立/「アラベラ」,「エジプトのヘレナ」,「スペードの女王」
12月:ウィーン国立/「アラベラ」,「エレクトラ」,「影のない女」
12月:ウィーン国立/「ドン・カルロ」
ヨーゼフ・クリップスをウィーン国立歌劇場の楽長に任命。
レハールにオペレッタの作曲を委嘱。翌年「ジュディッタ」が完成し,ウィーン国立歌劇場で作曲者指揮により初演。レハール最後のオペレッタとなります。
プラハでのオーディションにハンス・ホッターが飛び入り。

【ハンス・ホッターとの出会い】

クラウスはプラハで,あるテノール歌手のオーディションを実施。そのテノール歌手はハンス・ホッター[1909-2003]の友人で,ピアノも弾けるホッターは友人に頼んでピアノ伴奏者として会場に入ることを計画。オーディションが終わると,友人の機転により,クラウスがホッターの歌を聴いてくれることとなり,さらにクラウスが急遽ピアノ伴奏までおこなう展開となって,ホッターは「ラインの黄金」の「夕陽は落ちて」と,「タンホイザー」の「夕星の歌」を披露,クラウスは高く評価するものの,ホッターがまだ24歳と若いため,ウィーン国立歌劇場では脇役扱いとなってしまい,また,脇役としては背が高すぎるといった理由を述べて,もう少し待つように告げます。クラウスは当時,ウルズレアック宛の手紙で「自分が未来のヴォータンを聴いたことは間違いない。」とも書いていました。
 1937年,ベルリン国立歌劇場の次にバイエルン国立歌劇場行きが決まったクラウスは,ホッターにバイエルン行きを打診,ハンブルク国立歌劇場の契約を更新したばかりだったホッターは,劇場と交渉して年間20公演のバイエルンへの出演許可を得て,さっそく1937年4月に「ジークフリート」のさすらい人役でデビューし,直後には「サロメ」のヨハナーン役でも成功を収めています。
 以後,ホッターはクラウス&バイエルンの妥協のないチームでのオペラ制作と,ヨッフム[1902-1987]&ハンブルクの仲良し的な雰囲気(ホッターの言葉)でのオペラ制作という対照的な環境で仕事を継続,1940年以降はベルリンやウィーンでも活躍するようになります。
 なお,ワーグナー歌唱で名声が高まっていたホッターのもとには,ヴィニフレート・ワーグナー[1897-1980]のもとで政治的な劇場に変質していた当時のバイロイトからも出演要請がありましたが,クラウスがバイエルンとの契約を理由に拒否したためにホッターは事なきを得ていました。ヴィニフレートが,拒否はホッターの意思ではなく,クラウスがバイロイトの総監督ティーティエンを嫌っていたからだと勘違いしてくれたおかげでもあります。
 また,ホッターは,戦後,イギリス軍政府からハンブルクに呼ばれた際に,ハンブルク国立歌劇場で働いていたフェルディナント・ライトナー[1912-1996]のピアノ伴奏で歌ったことがあり,その能力を高く評価したホッターは,ライトナーがバイエルン国立歌劇場の指揮者になれるよう手配,「オペラ監督」にも推挙していました。(一覧に戻る)


1934年(41歳)
リカルド・オドノポソフ[1914-2004]をウィーン国立歌劇場管弦楽団&ウィーン・フィルのコンサートマスターとして採用(ユダヤ系のため1938年に解雇)。
1月:ウィーン国立/「アラベラ」,「ジークフリート」
2月:ウィーン国立/「アラベラ」,「影のない女」,ヴォルフ=フェラーリ「4人の田舎者」
2月:オーストリア内戦が勃発。オーストリア・ファシズム政権の軍や警察,護国団と,オーストリア社会民主党の支援する共和国保護同盟の戦闘員たちが衝突し,4日間で2,000人前後の死傷者が出て戒厳令も布告。これによりオーストリア社会民主党は解散させられ,ウィーンの市政もオーストリア・ファシズム政権の手に委ねられます。
3月:ウィーン国立/「パルジファル」,「アラベラ」,「エジプトのヘレナ」,「ドン・カルロ」,「4人の田舎者」
4月:ウィーン国立/「ばらの騎士」,「ドン・カルロ」,「エレクトラ」,「フィデリオ」,「4人の田舎者」
5月:ウィーン国立/「アラベラ」
5月:コヴェントガーデン/「アラベラ」。これが同歌劇場デビュー。
6月:ウィーン国立/「アラベラ」,「ばらの騎士」,「エジプトのヘレナ」,「エレクトラ」,「影のない女」,「スペードの女王」,「フィデリオ」,「4人の田舎者」
6月:ウィーン国立/クレネク「カール5世」初演中止。

【「カール5世」初演中止】

1930年にクラウスが委嘱したクレネクの12音オペラ「カール5世」の初演に向け,リハーサルを進めていたところ,ドイツでのクレネク作品上演禁止措置を受けて,クルト・シュシュニック[1897-1977]法務大臣兼教育文化大臣が公演中止を決定(ウルズレアックは1926年にクレネクのオペラ「独裁者」初演にも参加)。
 ウィーン・フィル団員で政治活動家のブルクハウザーと親しいシュシュニック大臣は,2月のオーストリア内戦に関わった社会主義者を処刑した人物でもあり,7月のオーストリア・ナチスによるドルフース暗殺後は後任として首相に就任,社会主義者への弾圧も継続,9月までに13,338人を政治犯として逮捕,オーストリア・ファシズム政権を維持しますが,1936年には,頼みのイタリア・ファシズム政権がエチオピア占領によって孤立してしまったためドイツに譲歩,政権にオーストリア・ナチスを受け入れ,1938年にオーストリアが併合されるとドイツ政府により逮捕・拘束されています。
 クレネクは,1900年ウィーン生まれの作曲家。フランツ・シュレーカーに師事し,ドイツの歌劇場で指揮者としても活躍。作曲家としてもすでに3つの交響曲を書き上げていた時期である1922年,マーラーの次女,アンナ・マーラーと出会い,1年ほどではありますが,結婚生活を送っていました。それが縁でマーラーの交響曲第10番の一部を補筆したことでも知られています。クレネクはジャズを導入したオペラ「ジョニーは演奏する」によって一躍有名になり,ウィーン国立歌劇場でも大ヒットとなっていましたが,これはナチの基準では「頽廃音楽」に該当したため弾圧を受けることになり,オーストリア人のクレネクは,ドルフース率いるファシズム組織「祖国戦線」に加入し,ファシズム政権の熱心な支持者となるものの,ドイツに併合されてしまったため,アメリカに向かうことになります。
 なお,「カール5世」の初演は,4年後の1938年6月22日に,クレンペラーの弟子だったカール・ランクル[1898-1968]によってプラハでおこなわれています。(一覧に戻る)


7月:アルゼンチン,ブエノス・アイレスのテアトロ・コロンに客演。長さ約237メートル,巡航速度約100キロの超大型飛行船「グラーフ・ツェッペリン」での豪華な旅で,道中はピアニストのヴィルヘルム・ケンプと一緒でした。


7月:ドルフース首相が,オーストリア・ナチスのメンバーにより殺害。オーストリア・ナチスは,クーデターにより政権奪取を果たすべくオーストリア各地で暴動を引き起こすものの,隣国イタリアのムッソリーニ率いるファシスト党政権が国境線まで軍を進めたため,オーストリア・ファシズム政権はなんとか事態を鎮圧。
8月:ウィーン国立歌劇場合唱団/ザルツブルク祝祭/R.シュトラウス:声楽曲コンサート
8月:VPO/ザルツブルク祝祭/「フィガロの結婚」,「コジ・ファン・トゥッテ」,「エレクトラ」,「エジプトのヘレナ」,「ばらの騎士」,「フィデリオ」

【ザルツブルク祝祭課金危機】

そうした中でもザルツブルク祝祭の売上は比較的好調だったのですが,1933年,ドイツ政府によりオーストリアに入国するドイツ人旅行者に対し1,000ライヒスマルクの課金がなされると,前年15,681人だったドイツ人聴衆は94%も減少,わずか874人となってしまい,同フェスティヴァルの訪問者の中に占めるドイツ人の割合が約半数と最も多かったため,クラウスはここでも苦境に立たされることになります。ドイツのこの措置は1933年,1934年,1935年のザルツブルク祝祭を直撃します(1936年にはシュシュニック首相が,政権にオーストリア・ナチスを受け入れたためドイツは課金を停止)。
 ザルツブルク祝祭が1933年に受けた損失は大きく,翌1934年からはそれまでの「オペラ=ドイツ語」という方針を改めて,ブルーノ・ワルターが「ドン・ジョヴァンニ」をイタリア語で上演して非ドイツ語圏にもアピール,さらにオーストリア・ファシズム政権が財政援助を強化した結果,トスカニーニも招致できるようになります。
 しかしオーストリア・ナチスによるフェスティヴァル妨害行為は激しさを増す一方で,オーストリア・ファシズム政権のドルフース首相は,ユダヤ人アーティストには兵士の護衛を付けるなど安全保障宣言をおこないますが,自身はその直後にオーストリア・ナチスによって暗殺されてしまいます。(一覧に戻る)


8月:アイダ&ルイース・クック姉妹がザルツブルクを訪問。


【アイダ&ルイース姉妹】

多数のユダヤ人救出に関わる功績により1965年にイスラエル政府から表彰されることになるアイダ・クック[1904-1986 画像左]とルイース・クック[1901-1991 画像右]は,イギリスの熱烈なオペラ愛好家姉妹でした。
 1934年5月,コヴェントガーデンの「アラベラ」を観て,クラウスに惚れ込んだ姉妹は,3か月後,ドルフース首相暗殺直後の不穏な空気をものともせずにザルツブルクを訪れて再びクラウス指揮ウルズレアック主演のオペラを鑑賞し,サインを求めて楽屋を訪れます。
 その強烈なマニアぶりから姉妹はすぐに2人と親しくなってゲネプロにも招かれるようになりますが,フェスティヴァルの終わりに,ウルズレアックは姉妹の腕を掴んで友人の音楽学者ミーティア・マイヤー=リスマンを紹介し,ロンドンまで同行してくれるよう懇願。渡英後,マイヤー=リスマンからドイツにおけるユダヤ人たちの境遇を長時間かけて詳しく知らされた姉妹は強い衝撃を受け,自分たちに何かできることはないかと考えるようになり,やがて具体的な行動を起こします。
 妹のアイダは最初公務員でしたが,文才に恵まれ,1936年に「ミルズ&ブーン(ハーレクイン・ロマンスの前身)」から最初の小説を出版して作家に転向,メアリー・バーチェルとして多くの作品を書いており(生涯では112編),公務員でタイピストのルイースより収入に恵まれていたこともあって,資金の乏しいユダヤ人への援助金などは妹が中心になって準備,姉のルイースはドイツでの活動を円滑にするためにドイツ語を学び始めます。
 イギリス政府のユダヤ人受け入れにはある程度の財務保証や,非常に煩雑な書類手続きなどが条件となっていましたが,姉妹はまずマイヤー=リスマンの娘エルゼ[1914-1990 オックスフォード大で活躍]やクラウス夫妻から依頼された音楽家の関連書類を準備し,フランクフルトの女性エージェントと接触,何度かユダヤ人の渡英のサポートをするうちにユダヤ人コミュニティのあいだで評判となり,イギリスの難民本部には何百通もの手紙が「アイダ&ルイース」宛に届いたといいます。姉妹は仕事や救援活動,オペラの合間を縫って,イギリス各地の教会などでユダヤ人たちのために講演をおこなって人々の協力を仰ぎ,活動資金を集めてもいました。
 ドイツのユダヤ人は財産を持ち出すことができなかったため,姉妹は彼らに財産を宝飾品や毛皮,高級腕時計に換えてもらい,ドイツを訪れた姉妹がそれらを身につけて出国,イギリスで彼らに渡すという方法を考案。姉妹は安物のカーディガンなどを着て,宝石や毛皮がニセモノにしか見えないように装い,また,英国ブランドのタグを毛皮の服に縫い付けるといった細工も施し,1937年から1939年の開戦直前まで,オペラ観劇のふりをして29回もイギリスとドイツを往復することになります。人数ははっきりしていませんがその多くは家族だったのでかなりの数になると考えられます。
 また,受け入れ先の無い人の当座の住居も兼ねて,アイダは借金までしてロンドン中心部,ウェストミンスター近くのピムリコ地区,テムズ川沿いの豪華な新築巨大物件ドルフィン・スクエア(下の画像左側)に広いアパートを購入するなど,その献身には驚くべきものがありました。
 命の危険も顧みず,頻繁に英独を往復する姉妹はやがてナチスの役人から怪しまれるようになり,不快な目にも遭いますが,クラウスは,実際に観劇していなければわからないようなオペラの詳細な情報を伝えて,姉妹の活動に役立てたほか,財政面での拠り所ともなり,また,姉妹が見たがったオペラには自由に入場させてもいました。彼らの交流はクラウスが亡くなるまで20年に渡って続きますが,生涯独身で一緒に暮らし,オペラに入れあげていた姉妹には,クラウスは理想の人だったのかもしれません。(一覧に戻る)


【トスカニーニ招致とブルクハウザーのその後】

トスカニーニはイタリア語を話すブルクハウザーを気に入り,1933年からウィーン・フィルに客演を開始,1934年にはザルツブルク祝祭にも出演するようになり,暗殺されたオーストリア・ファシズム政権の政治家で,ムッソリーニとも通じていたドルフース首相を追悼するヴェルディのレクィエムも指揮,必ずしも反ファシズムの立場で一貫していたわけではないことを示してもいましたし,トスカニーニとフルトヴェングラーのファシズムをめぐる確執も,本当の原因は女性関係のもつれであることをうかがわせるような若者のように感情むき出しの手紙も遺されたりしています。また,ザルツブルクでは気に入った別荘を見つけると利用者を立ち退かせるよう命じるなど,自身の看板でもある超絶パワハラ・リハーサル以上に強烈なファシストぶり(?)で周囲を驚かせていました。老年になってもなにごともパワフルだったトスカニーニ,おそるべしです。
 ちなみに当時の緊迫した政治情勢もあってか,ウィーン・フィルも1枚岩というわけではなく,1936年7月にシュシュニック首相がドイツに屈服,オーストリア・ナチスが政権入りし,オーストリア・ファシズム政権が弱体化すると,今度はナチ党員になる楽員が続出,全体の約半数が入党するという状況になってしまいます。やがて1938年3月,シュシュニック首相が辞任に追い込まれ,後任のアルトゥール・ザイス=インクヴァルト[1892-1946]がドイツに対してオーストリアへの進駐を要請,ブルクハウザーはユダヤ系の妻マルガレーテ・ヴァルマン[1901/04-1992 ウィーン国立歌劇場バレエ団の団長]とは直前に離婚を済ませていたものの,「祖国戦線」の活動家であったために併合後は辞任せざるをえなくなり,翌年には,ハンガリーを経て,銀行口座のあるフランスに向かいます。しかし,併合によりドイツ人となったブルクハウザーは,戦争間近のフランスの銀行口座から現金を引き出すことが出来なかったため,トスカニーニの妻のカルラ[1877-1951]に現金を融通してもらってニューヨークに渡航,そこでトスカニーニの推薦を得て,偶然求人中だったカナダのトロント交響楽団に首席奏者の職を得て3シーズン過ごしたのち,ニューヨークに戻って1943年からメトロポリタン歌劇場管弦楽団の2番奏者となり1965年まで在籍していました。(一覧に戻る)


秋,ウィーン・フィル/ヴェネツィア公演
9月:ウィーン国立/「アラベラ」,「コジ・ファン・トゥッテ」,「ジークフリート」,「ドン・カルロ」,「フィデリオ」
10月:ウィーン国立/「コジ・ファン・トゥッテ」,「ばらの騎士」,「影のない女」,「ドン・カルロ」,「エレクトラ」,「4人の田舎者」
11月:ウィーン国立/「ファルスタッフ」,「アラベラ」,「4人の田舎者」
12月:エーリヒ・クライバーがベルリン国立歌劇場音楽監督辞任をプロイセン州政府に申し入れます。直前にはフルトヴェングラーがヒンデミット事件の引責でベルリン国立歌劇場音楽総監督を辞していました。
12月:プロイセン州政府から,クラウスにベルリン国立歌劇場音楽監督就任要請。
12月11日:ウィーン国立歌劇場でヴェルディ「ファルスタッフ」上演の際に政治団体活動家らによる暴動が起き,警官隊が介入。「ファルスタッフ」は,楽員で活動家のブルクハウザーとトラブルになっていた演目でもあります。
12月15日:クラウスはウィーン国立劇場音楽監督を辞任。


1935年(42歳)
1月:エーリヒ・クライバーが,ベルリン国立歌劇場で「タンホイザー」を指揮(1月1日と3日)。その後,家族に反ユダヤ政策が適用されないようにするためドイツを出国。
1月:クラウスはベルリン国立歌劇場音楽監督に就任。上の画像はブランデンブルク門の前で撮影されたもので,11年後の1946年には,食糧難のためこの辺り一帯は野菜畑になっています。

【ベルリン国立歌劇場】

音楽総監督フルトヴェングラー,音楽監督クライバーの後任となったクラウスは,1月15日に「ニュルンベルクのマイスタージンガー」で登場し,26日からは「ニーベルングの指環」を披露。
 契約期間は10年で,ヴィオリカ・ウルズレアック,ヨゼフ・フォン・マノヴァルダ,フランツ・フェルカー,エーリヒ・ツィマーマン,アデーレ・カーン等,ウィーン国立歌劇場の信頼する歌手たちと共に移籍していましたが,総監督のハインツ・ティーティエン(ティーチエン)[1881-1967]の組織運営と演出に関する考え方は,クラウスとは大きく異なっていたようで,仕事は妨害され,バイエルン行きのオファーもあったことから,クラウスは翌1936年には辞任しています。
 ジブラルタル海峡に面した風光明媚な海辺の町,モロッコのタンジェ出身のティーティエンは,早くから政府高官との関係を大切にしたほか,ヴィニフレート・ワーグナーとも親密で,1933年から1944年にかけてバイロイトが非常に政治的だった時代に全舞台(!)を演出(指揮はフルトヴェングラー,エルメンドルフ,アーベントロート,シュトラウス,サバタ等)したほか,ときおり指揮をしていたことでも知られている人物。策士としても恐れられており,ナチの機関紙でクレンペラー率いるクロールオペラを攻撃したほか,カラヤン[1908-1989]や,フリッチャイ[1914-1963]ともトラブルを起こしていた人物です。
 なお,エーリヒ・クライバーが前年12月にベルリン国立歌劇場音楽監督辞任をプロイセン州政府に申し入れたことについて,ヒンデミット事件で引責辞任することになったベルリン国立歌劇場音楽総監督(1933年10月就任,この場合ほとんど名誉職のようなものでした)のフルトヴェングラーに合わせたものとも言われていますが,実際には,クライバーの妻ルースがユダヤ系アメリカ人で,息子カール(のちのカルロス)と娘ヴェロニカもユダヤ系となるため,外来ユダヤ人の国籍剥奪や職業官吏再建法,就学制限,学者追放といった反ユダヤ政策の連続的な制定・運用を受けての行動と考えられます。すでに前年3月にはドイツ国内に強制収容所が建設され,収容者も2か月で2万5千人に達していたことから,辞任せざるを得ない状況になっていました(ちなみにフルトヴェングラーは3か月後には指揮活動を再開しています)。(一覧に戻る)


1月:ベルリン国立/「ニュルンベルクのマイスタージンガー」,「ニーベルングの指環」
5月:フランクフルト/エック「魔法のヴァイオリン」
6月:シュトゥットガルト帝国放送管と放送録音/「ナクソス島のアリアドネ」(CD50-51)
12月:ベルリン国立/「ばらの騎士」

1936年(43歳)
1月:ベルリン国立/「ばらの騎士」
3月:ベルリン国立/「ばらの騎士」
ベルリン国立歌劇場音楽監督辞任。
5月:バイエルン国立/「ニュルンベルクのマイスタージンガー」

1937年(44歳)
1月:バイエルン国立/「アイーダ」
3月:シュトゥットガルト帝国放送管/「皇帝ティトゥスの慈悲」
4月:バイエルン国立/「ジークフリート」
4月:バイエルン国立/「サロメ」
9月:バイエルン国立歌劇場音楽監督就任。総監督はオスカー・ヴァレック[1890-1976]。

【バイエルン国立歌劇場】

クナッパーツブッシュの後任として音楽監督に就任。クナッパーツブッシュが着任した1922年は,ドイツが第1次世界大戦敗戦の不況から抜け出しつつあった時期で,以後,作曲家でもあるクレメンス・フォン・フランケンシュタイン[1875-1942]総監督のもと,1930年頃までは好景気ということもあってチケット売上も上々でした。
 しかし,1932年頃からは不況の影響で運営予算も縮小されチケット売上も低迷,1934年秋にはナチ党員で演劇畑のオスカー・ヴァレックが総監督となっていますが,クナッパーツブッシュとはあまり相性が良くなく,さらに景気が回復してきた1935年になってもチケット売上が振るわなかったことが政府から問題視されるようになります。
 また,クナッパーツブッシュは練習嫌いということもあり,前任のブルーノ・ワルター時代[1913-1922]に較べて仕事の負荷が軽減されるようになったことを歓迎する楽員や歌手が多くいる一方,技術水準の低下を不安視する楽員や歌手も少なからずおり,また,日頃の言動など,その他,諸々あってクナッパーツブッシュは政府により解任,バイエルン州での指揮活動も禁じられてしまいます(その後,クナッパーツブッシュは政府への嘆願を何度も繰り返し,最終的にはウィーン国立歌劇場を中心にプロパガンダなどでベルリン・フィルも指揮できるようになります)。
 クラウスも総監督のヴァレックとはうまくいきませんでしたが,クラウスみずから予算をめぐって政府と交渉した結果,景気回復局面ということもあって運営資金が大幅に増額となり,チケット業績もさっそく上がりつつあったことから,翌1938年春にはヴァレックは退任させられ,クラウスは音楽監督から総監督に昇格,実務のスピードアップを果たしています。
 その後も一貫してクラウスはきびしいリハーサルによって上演水準を引き上げ,師R.シュトラウスが以前から掲げている,「歌詞をすべて聴き取ることができるオペラ上演」という目標に向かって努力を続けます。
 この目標は,根っからの劇場人で,自身で歌手アンサンブルを育成し,共に劇場間を移動するクラウスにとっては,ごく自然に受け入れられるものでもあったようで,戦後になって自身のアンサンブルが使えなくなっても,その方針に変更はなく,歌詞が聴こえるオーケストラの音量コントロールや,歌詞が聴こえやすいテンポ,つまり楽譜を尊重する態度を基本としていました。これは当時の多くの指揮者たちが,オペラの場合でも,オケの音量アップなどを狙って安易に楽員増員をおこなったりしていたのとは対照的な真面目な方針でした。
 こうした努力が実を結んで上演水準は大きく向上,売上も上昇したことから,クラウスは政府と交渉してバイエルン国立歌劇場の賃金水準をウィーン国立歌劇場,ベルリン国立歌劇場と同等にまで引き上げさせてもいます。
 しかし,1943年10月,座席数2,000のナツィオナルテアターが連合軍の爆撃で破壊され,さらに座席数1,000のプリンツレゲンテン劇場の舞台装置や衣装も被害を受けると,バイエルン国立歌劇場でのオペラ上演は不可能となり,1944年になると故郷ウィーンに移り住んでいます。(一覧に戻る)


9月:ベルリン国立歌劇場パリ公演/「ばらの騎士」,「ナクソス島のアリアドネ」
12月:バイエルン国立/「ドン・カルロ」


1938年(45歳)
バイエルン国立歌劇場の総監督に就任。
1月:シュトゥットガルト帝国放送管/「外套」,「修道女アンジェリカ」
3月:シュトゥットガルト帝国放送管/「外套」(CD45)
3月:バイエルン国立/プフィッツナー「パレストリーナ」
3月:ドイツがオーストリアを併合(アンシュルス)。

【オーストリア併合】

当時のドイツは,失業率が劇的に改善し,国民の貯蓄額も急伸,公債も大規模に運営されて景気も過熱気味となる一方,アメリカなどへの莫大な負債も抱える債務国でもありました。オーストリア併合の理由も,国境線拡大に加え,オーストリアの保有していた金資産や外貨,鉱物資源,そして何よりもユダヤ人の財産などが目当てだったとされています。実際,ドイツが手にしたオーストリアの金・外貨・財産は14億ライヒスマルクに達し,これはドイツのライヒスバンクの資産7,600万ライヒスマルクの実に18倍以上という凄いものでした。
 しかし,景気回復の途上だった人口約650万人のオーストリアの一般市民の生活水準はまだ満足な状態には無く,約60万人も失業者がおり,自国経済の改善に期待する市民の思いは,併合に関して4月10日に行われた国民投票の結果にも反映,賛成99.75%という数字にも表れていました。
 併合後は,1925年にクローネから変更されたばかりのオーストリア通貨シリングを廃止してライヒスマルクを導入。ライヒスバンクは当初,オーストリア経済の実態に即して「2シリング=1ライヒスマルク」という交換レートを想定していたものの,市民感情にも配慮し,「1.5シリング=1ライヒスマルク」という交換レートを設定して,民間組織の国有化など経済再建を進めます。
 併合は自主運営組織であるウィーン・フィルも直撃。自主的な団体運営を認めなかった政府の方針により,ウィーン・フィルが国有化されるというプランも示されたため,楽団側は,フルトヴェングラーを通じ,宣伝省音楽局長で指揮者のハインツ・ドレーヴェス[1903-1980]の助力を仰ぎ,「ウィーン・フィルハーモニー公認協会」とすることで難を逃れます。
 また,併合に伴う反ユダヤ法の制定は,大恐慌の深刻な不況以後,トスカニーニやワルターのおかげで黒字だったウィーン・フィルの財政も直撃,国際的な人気指揮者の客演が見込めなくなることで経営危機が想定されたため,フルトヴェングラーとベルリン公演などをおこなって政府に存在感をアピール。プロパガンダ・ツアーなどにも協力して楽団を維持します。
 一方,ウィーン・フィル楽員の所属する母体組織,ウィーン国立歌劇場では,1934年までクラウスのもとで楽長を務めていた指揮者,カール・アルヴィン[1891-1945]と,ヨーゼフ・クリップス[1902-1974]がユダヤ系のため解雇。大物ブルーノ・ワルター[1876-1962]も財産を没収されて国を離れることとなり,また,ウィーン・フィルをはじめとするウィーン国立歌劇場のユダヤ系楽員や歌手,職員の多くも解雇され,専業監督のエルヴィン・ケルバー[1891-1943]総監督のもと,当面,クナッパーツブッシュのほかはほぼ無名の指揮者たちという布陣で,オペラ上演を継続することになります。
 クラウスはこうした状況を鑑み,歌手やプロダクションをバイエルン国立歌劇場とやりくりできるよう,ウィーン国立歌劇場の総監督の兼務を申し出るものの,ウィーンを重視していなかった政府により却下されてしまいます。
 運営予算がドイツで最大級の規模だったバイエルン国立歌劇場の総監督であるクラウスは責任も大きく,シーズン中の客演はあまり自由にはならず,翌1939年から,オフ・シーズンに開催されるザルツブルク祝祭に復帰,大晦日にはウィーン・フィルとJ.シュトラウス・コンサートを開催するなどして,故郷ウィーンとの関係を徐々に復活させていきます。
 ちなみにカール・アルヴィンは,クレンペラーと1912年に不倫スキャンダルを起こしたことでも知られるソプラノ歌手のエリーザベト・シューマン[1888-1952]と1919年から1933年まで結婚しており,シカゴ・リリック・オペラを経て,1941年にメキシコ国立歌劇場の指揮者となり,1945年に高地メキシコシティで54歳で死去しています(9年後にはクラウスも)。
 クリップスは,ユーゴスラヴィアに逃れ,ベオグラードでオペラやオーケストラに関わる生活を送り,戦後すぐにウィーンに戻ってウィーン国立歌劇場の再建に尽力し,クラウスの復帰までニューイヤーコンサートも指揮していました。ちなみにクリップスは,併合の少し前,1920年代なかばには,時間の許す限りヴィースバーデン歌劇場を訪れてクレンペラー指揮で上演されるオペラに接して勉強していたのだとか。(一覧に戻る)


4月:母クレメンティーネ,プラハで60歳で死去。
7月:バイエルン国立/R.シュトラウス「平和の日」初演

【「平和の日」初演】

1938年7月24日,クラウス指揮によりバイエルン国立歌劇場で初演。400万人が犠牲になったとも言われる17世紀ドイツを主舞台とした大量殺戮宗教戦争(カトリックvsプロテスタント),「30年戦争」が,ヴェストファーレン条約によってようやく終わりを告げた日を題材にしたオペラ。
 シュトラウスはこの作品を,親交のあったユダヤ系作家シュテファン・ツヴァイクと書き始めますが,ツヴァイクが亡命したためヨーゼフ・グレゴールが引き継いで完成させ,皮肉にも第2次世界大戦開戦の少し前に初演。一幕形式で,演奏時間80分前後のコンパクトなオペラですが,3管編成の大規模なオーケストラを駆使した音楽は迫力があり,特に「フィデリオ」を思わせる後半部分は魅力的な音楽となっています。
 クラウスが遺した録音は,初演の11か月後,1939年6月10日にウィーン国立歌劇場でおこなわれたオーストリア初演時のもので(CD48-49),豪華歌手陣による華やかな上演は全ドイツの新聞でも取り上げられました。なお,9月1日にドイツ軍がポーランドに侵攻して第2次世界大戦が始まると,「平和の日」は上演禁止作品とされてしまいます。


10月:バイエルン国立/「エフゲニー・オネーギン」

1939年(46歳)
2月:バイエルン国立/オルフ「月」初演,ムソルグスキー「ソロチンスクの市」


3月:ベルリン国立/「ダフネ」
6月:VPO/「平和の日」(CD48-49)
8月:VPO/ザルツブルク祝祭/「ドン・ジョヴァンニ」
8月:VPO/ザルツブルク祝祭/J.シュトラウス・コンサート
8月:ウィーン国立歌劇場合唱団/ザルツブルク祝祭/R.シュトラウス:声楽曲コンサート
12月31日:ウィーン・フィル/J.シュトラウス・コンサート。第2回からは1月1日にも演奏し,戦後はニューイヤーコンサートという名前になります。

1940年(47歳)
4月:ザルツブルク・モーツァルテウム音楽院総裁就任(1944年まで)。指揮コースも受け持ち,オトマール・スイトナー[1922-2010]のほか,史上初のハイドン交響曲全集録音で有名なエルンスト・メルツェンドルファー[1921-2009]らを教えていました。
7月:ベルリン国立/ローマ公演/R.シュトラウス「ナクソス島のアリアドネ」
9月:バイエルン国立/ヴェルディ「シモン・ボッカネグラ」,「運命の力」
11月:イギリス空軍がミュンヘンを初めて爆撃。


11月:VPO/ベートーヴェン:ミサ・ソレムニス(CD34-35)
12月:バイエルン国立/「ラ・ボエーム」(CD43-44)
12月:VPO/J.シュトラウス・コンサート(ニューイヤーと同内容)

1941年(48歳)
1月:VPO/J.シュトラウス・コンサート(ニューイヤーコンサート)
1月:VPO/J.シュトラウスU「エジプト行進曲」,「南国のバラ」(CD28)
1月:VPO/R.シュトラウス「ティル・オイレンシュピーゲルの愉快な悪戯」(CD11)
3月:VPO/J.シュトラウスU「こうもり」序曲(CD23),ファリャ「三角帽子」第2組曲(CD19)
4月:バイエルン国立/R.シュトラウス「ヨゼフ伝説」
8月:VPO/ザルツブルク祝祭/R.シュトラウス「町人貴族」,「ブルレスケ」,「さすらい人の嵐の歌」,「ティル・オイレンシュピーゲルの愉快な悪戯」,ハイドン:交響曲第88番,モーツァルト:フルート協奏曲第2番,シューベルト:交響曲第8番「未完成」,ベートーヴェン「レオノーレ」序曲第3番
10月:ウィーン国立/「ファルスタッフ」
11月:ウィーン国立/「ファルスタッフ」
11月:バイエルン国立歌劇場歌手陣/ウィーン国立歌劇場公演/「コジ・ファン・トゥッテ」
12月:VPO/J.シュトラウス・コンサート(ニューイヤーと同内容)


1942年(49歳)
1月:VPO/J.シュトラウス・コンサート(ニューイヤーコンサート)
1月:ウィーン国立/「ファルスタッフ」
6月:バイエルン国立/「ばらの騎士」(CD54-56)
6月:VPO/ハイドン「四季」(CD38-39)

【ウィーン国立歌劇場合唱団・放送録音シリーズ】

戦争による演奏会の大幅な減少を,「文化的喪失」として憂いたクラウスは,多くの人々が放送を通じて,シリアスな合唱曲に接することができるよう,ウィーン国立歌劇場合唱団演奏協会と,合唱付きの大作を中心に放送をおこなうシリーズを企画。
 ハイドンのオラトリオ「四季」(CD38-39),「天地創造」(CD36-37),シューベルトのミサ曲第6番(CD40),ブルックナーのテ・デウム,ベートーヴェンのミサ曲ハ長調,バッハのカンタータ第68番「かくも神は世を愛したまえり」,バッハのモテット「主をたたえよ,すべての異教徒よ」,バッハのマタイ受難曲(抜粋/CD49),プフィッツナーのカンタータ「ドイツ精神について」(CD96-97)などを,ウィーン・フィルと共に演奏しています。もともと合唱音楽に造詣の深いクラウスならではのシリーズ企画です。(一覧に戻る)


8月:VPO/ザルツブルク祝祭/「アラべラ」(CD52-53)
8月:VPO/ザルツブルク祝祭/「フィガロの結婚」(CD29-31)
8月:VPO/ザルツブルク祝祭/パレストリーナ「甘い眠り」(CD5),レスピーギ「ローマの松」(CD10),J.シュトラウス・コンサート,ほか
10月:バイエルン国立/R.シュトラウス「カプリッチョ」初演
11月:バイエルン国立/「カプリッチョ」放送録音(抜粋/CD66)

【「カプリッチョ」初演】

クラウスは,1940年から1941年にかけて師R.シュトラウスの最後のオペラ「カプリッチョ」の台本に関わっていました。サリエリとデ・カスティのオペラ「まずは音楽,おつぎが言葉」を参考にしたこのオペラのアイデアは,シュテファン・ツヴァイク[1881-1942]によって示されたものでしたが,ツヴァイクはユダヤ系だったため亡命,「平和の日」,「ダフネ」,「ダナエの愛」で共に仕事をしたヨーゼフ・グレゴール[1888-1960]が台本作成にあたりますが,シュトラウスを満足させるものにはならなかったため,シュトラウスの語る「悟性の劇場,聡明さ,無駄のない機知」といった意に沿う形でクラウスが執筆して台本を完成,シュトラウスはそこにずいぶん美しい音楽を書きました。
 「カプリッチョ」は,内容のわかりやすさと親しみやすい旋律美により,戦時中で新作不足ということもあってか,初演は大成功で,ミュンヘンの後は,ブレスラウ,ハノーファー,デュッセルドルフ,ダルムシュタット,ヴィースバーデン,ドレスデンなどでも上演,ウィーン国立歌劇場でも,1944年にR.シュトラウスの80歳の誕生日記念公演として弟子のベームによってとりあげられてもいます。
 初演の2週間後にはクラウス指揮バイエルン国立歌劇場管弦楽団と初演歌手たちによって放送録音がおこなわれており,50分ほどの抜粋録音が遺されていますが(CD66),オリヴィエ役のハンス・ホッターの調子が途中から悪化したようで,第2場の三重唱(トラック2)のみ採用し,第4場の独唱(トラック3)と第6場の三重唱(トラック4)では,代役のカール・クローネンベルク[1900-1974]の歌が収録されています。
 なお,タイトルに悩んでいたR.シュトラウスに対し,「カプリッチョ」の名を提案したのはクラウスでした。
 ちなみに台本中のロンサールのソネットは,指揮者でウィーン音楽院教授のハンス・スワロフスキー[1899-1975]のドイツ語翻訳によるものです。スワロフスキーはユダヤ系でしたが,R.シュトラウスの庇護によりドイツで活動。なお,語学に秀でたスワロフスキーは,イタリア・オペラやフランス・オペラのテキストのドイツ語化もおこない,クラウスと共にウィーン国立歌劇場やバイエルン国立歌劇場に「ヴェルディ・ルネッサンス」や「プッチーニ・ルネッサンス」をもたらしてもいました。(一覧に戻る)


12月:VPO/バッハ:カンタータ第68番「かくも神は世を愛したまえり」,バッハ:モテット「主をたたえよ,すべての異教徒よ」,ベートーヴェン:ミサ曲ハ長調
12月:VPO/J.シュトラウス・コンサート(ニューイヤーと同内容)
ウィーン・フィル/R.シュトラウス:サロメ〜7つのヴェールの踊り(CD16)
ベルリン・フィルとスペイン,ポルトガル,フランスを回るツアー

1943年(50歳)
1月:VPO/J.シュトラウス・コンサート(ニューイヤーコンサート)
1月:VPO/R.シュトラウス「ディヴェルティメント」,ケルビーニ「アリ・ババ」序曲,フランク「呪われた狩人」,エネスコ:ルーマニア狂詩曲第1番
1月:バイエルン国立/「トリスタンとイゾルデ」
3月:VPO/ハイドン「天地創造」(CD36-37)
8月:VPO/ザルツブルク祝祭/R.シュトラウス「アラベラ」,モーツァルト「魔笛」
8月:VPO/ザルツブルク祝祭/ハイドン:交響曲第103番,モーツァルト:ヴァイオリン協奏曲第5番,ベートーヴェン:交響曲第5番,J.シュトラウス・コンサート
10月:バイエルン国立歌劇場のナツィオナルテアターがイギリス空軍の爆撃で破壊。


12月:VPO/J.シュトラウス・コンサート(ニューイヤーと同内容)

1944年(51歳)
1月:VPO/J.シュトラウス・コンサート(ニューイヤーコンサート)
3月:バイエルン国立歌劇場(プリンツレゲンテン劇場)/「さまよえるオランダ人」(CD75-76)
3月:ウィーン国立/「カプリッチョ」
4月:ウィーン近郊に,アメリカ軍が空爆を開始(ナポリから飛来)。当時ウィーンには約800門の高射砲が設置されており,アメリカ軍爆撃機の損害も大きかったため,本格的な破壊には時間を要しました。


4月:VPO/バッハ「マタイ受難曲」(抜粋/CD49)
4月:VPO/モーツァルト:ヴァイオリン協奏曲第4番(CD20)
4月:VPO/ハイドン:交響曲第100番,カール・プロハスカ「砲兵隊」,ベートーヴェン:交響曲第5番
4月:ウィーン国立/「カプリッチョ」
6月:ウィーン国立/「カプリッチョ」
7月:ミュンヘンをアメリカ空軍が大規模に爆撃。


8月:VPO/ザルツブルク祝祭/R.シュトラウス「ダナエの愛」公開ゲネプロ。

【「ダナエの愛」公開ゲネラルプローベ】

1944年8月16日の「ダナエの愛」公開ゲネラルプローベをもって,この年のフェスティヴァルは打ち切り。これは7月20日に発生したヒトラー暗殺未遂事件とクーデーターを収拾させた宣伝大臣ゲッベルスが,「国家総力戦総監」に任命され,国家総力戦の一環として全ドイツの劇場(歌劇場)を閉鎖することを策定したためです。立案は7月末,実際の布告日は9月1日でしたが,常設劇場ではないザルツブルクでは早めの運用となったようです。
 この「ダナエの愛」の上演は,多くの聴衆が入場した本番と同じ形での公開ゲネプロだったため、これが事実上の初演ともいえますが,正式な初演は1952年のザルツブルク祝祭での上演とするのが一般的です。下の画像は公開ゲネプロのカーテンコールの際のもので,左から演出のルドルフ・ハルトマン,リヒャルト・シュトラウス,ダナエ役のウルズレアック,装置・美術のエミール・プレトリウス,クレメンス・クラウス,ユピテル役のホッター,ミダス王役タウプマン。


11月:VPO/A.ウール:クラリネットと管弦楽のための交響協奏曲(CD22)
ウィーン・フィル/シューベルト:ミサ曲第6番(CD40)
12月:VPO/J.シュトラウス・コンサート(ニューイヤーと同内容)

1945年(52歳)
1月:VPO/J.シュトラウス・コンサート(ニューイヤーコンサート)
1月:VPO/プフィッツナー:カンタータ「ドイツ精神について」(CD96-97)
3月:ウィーン国立歌劇場がアメリカ軍の爆撃により破壊。すでに1944年7月から使用していませんでしたが、戦後は1945年5月1日に上演が再開したため,1955年11月の劇場再建まではアン・デア・ウィーン劇場とフォルクスオーパーを使用することになります。


3月:VPO/ラヴェル「ダフニスとクロエ」第2組曲,「道化師の朝の歌」(CD9)
3月:VPO/レスピーギ「ローマの泉」,マンチネッリ「ヴェネツィアの情景」から(CD10)
3月:VPO/ドビュッシー:クラリネットと管弦楽のための第1狂詩曲(CD22)
4月:VPO/ブラームス:ドイツ・レクィエム
4月13日:東部国境から進攻してきたソ連軍によってウィーンが陥落。下の右画像のソ連軍戦車は,アメリカから4,000輌を超える数が供与されていたM4A2シャーマン戦車。左画像は,終戦直前まで戦っていた武装親衛隊とティーガーI型戦車。どちらも楽友協会のすぐ近くの光景です。


4月27日にはオーストリア暫定政府が誕生しますが,この政府はソ連の傀儡政権と見なされて,米英仏は承認を拒否,1945年6月9日から1955年5月15日までの10年間,ソ連と米英仏の4か国による分割統治がおこなわれることとなります。
4月27日:ウィーン・フィル/シューベルト:交響曲第8番「未完成」,ベートーヴェン「レオノーレ」序曲第3番,チャイコフスキー:交響曲第5番。
このコンサートはソ連の文化行政担当からの要請により,連続的に開催された数多い公演の最初のものでした。
ソ連のオーストリア支援は他国を圧し,1945年の食糧支援が132,600トンと米英仏の合計と同等だったほか,電気やガス,住宅設備などの重要な生活インフラの整備に加え,文化の復興も支援,ウィーン国立歌劇場の公演をアン・デア・ウィーン劇場で早期に再開できるようにもしていました。こうした経緯もあってか,ウィーン市の議会は1945年から現在に至るまで70年以上に渡って社民党(旧称:社会党)が政権を担っています。
6月:VPO/シューベルト:交響曲第9番「グレート」,ドビュッシー:サラバンドと舞曲,ラボー「夜の行列」,デュカス「魔法使いの弟子」
7月31日:アメリカ軍,イギリス軍,フランス軍がウィーン入り。ウィーンでの4分割統治がおこなわれることとなります。
9月:ナチ協力容疑で連合軍より演奏活動停止命令。
9月:ザルツブルク近くの別荘に移り住みます。

1946年(53歳)
別荘でプライヴェートに声楽のコーチをおこなうなどします。


1947年(54歳)
4月:「無罪」判決により活動再開。

【裁判を経て活動再開】

非ナチ化/5つのカテゴリー
第1級「重罪」(投獄,重労働,死刑等)
第2級「有罪」(最高10年の懲役,賠償,復興作業等。各種制限)
第3級「微罪」(保護観察2〜3年。各種制限,罰金)
第4級「同調者」(雇用・権利・移動等の制限,罰金)
第5級「無罪」

非党員の場合
西側連合軍政府により非ナチ化裁判にかけられた非党員の音楽家たちは,要職経験の有無や,報酬額といった受益度の高さが重要な選択基準になっていたようで,当時すでに有名だった人から選ばれています。なので,当時知名度や報酬額が低めだったロスバウト[1895-1962],カイルベルト[1980-1968],ツィリヒ[1905-1963],C.レオンハルト[1886-1969]や,特別許可で活動していたユダヤ系のスワロフスキー[1899-1975]とトレプトウ[1907-1981]などは,プロパガンダ公演をおこなったりしていても起訴対象にはならなかったほか,1919年以降に生まれた者も除外されていました。
 そうした事情もあってか,非党員に関しては,起訴されてもほとんどの場合は「無罪」で,活動禁止期間も1947年3月頃には終了しており,クラウスのほか,フルトヴェングラー[1886-1954],クナッパーツブッシュ[1888-1965],ヨッフム[1902-1987],バックハウス[1884-1969],ケンプ[1895-1991],ギーゼキング[1895-1956],クーレンカンプ[1898-1948],R.クラウス[1902-1978]などみな同じような状況です。
 しかしベーム[1894-1981]の場合は若干こじれたようで,不利な証拠が多かったのか最初の審理では拒否されてしまい,困ったベームはザルツブルク祝祭理事長のプートンに助力を仰ぎます。プートンは,部下で同フェスティヴァル芸術監督のヒルベルト(のちのウィーン国立歌劇場総監督)と,イギリス軍政府関係者など有力者の力を借りてベームの「無罪」を獲得。ヒルベルトは1938年の併合の際,政治犯としてダッハウ強制収容所に送られていたことから,非ナチ化裁判の審査も担当しており,結果的にベームも上記の音楽家たちと同じ時期に活動を再開。8月には裁判での酌量事由にもなったザルツブルクでの「アラベラ」出演契約も無事に履行。法律に強かったベームならではの危機回避力です。
 作曲家プフィッツナー[1869-1949]は,ユダヤ人攻撃論「音楽的不能の新美学。腐敗の徴候」という本まで出版する反ユダヤ主義者で,ナチ誕生以前の1910年代からクレンペラーを悩ませたりしており,戦後は第1級戦犯として起訴されるものの,賛同者クナッパーツブッシュなどの証言もあって1948年には「無罪」となっていましたが,翌1949年には亡くなっています。
 R.シュトラウスの場合は,帝国音楽院総裁という政府高官だったことで,まず「有罪」となって財産が没収され,その後,1948年6月に「無罪」になっています。シュトラウスは第1次世界大戦開戦時にも財産を失っていたので,2度目の没収でした。
 ティーティエン[1881-1967]は,クラウスやカラヤンと揉めたほか,ナチの機関誌でクレンペラーを攻撃したり,ナチ時代のバイロイトを全力で支えるなど(フルトヴェングラーやアーベントロート,エルメンドルフらと共に),「策士」として十分に恐れられていたにも関わらず,非ナチ化裁判に際しては,なぜか審査が有利になるような証言が寄せられて「無罪」となり,通常のケースより1年4か月ほど長めの禁止期間ではありましたが,1948年8月には活動を再開していました。

ナチ党員の場合
音楽家の場合,党員といっても,仕事のため(就職・待遇),あるいは軍事関連動員の優遇措置といった理由での入党がほとんどだったようで,オーケストラや合唱団にも膨大な数の党員がおり,エリー・ナイ(微罪)やヴィニフレート・ワーグナー(微罪)のような思想的・政治的理由からの入党は稀でした。
 そのため,カラヤン[1908-1989],L.・ルートヴィヒ[1908-1979],マウエルスベルガー[1899-1971],エルメンドルフ[1891-1962],G.L.ヨッフム[1909-1970],ヘーガー[1886-1978],ベンダ[1888-1972],ヘルシャー[1907-1996],シュヴァルツコップ[1915-2006],ボッケルマン[1892-1958],フォルトナー[1907-1987],リーガー[1910-1978],ヴェス[1914-1987],ダマー[1894-1977],ヴァイスバッハ[1885-1961],シュラー[1894-1966],グラインドル[1912-1993],F.レーマン[1904-1956],シュナイダーハン[1915-2002]といった人々も,非党員と似たような時期に「無罪」とされていましたが,ヴィーラント・ワーグナー[1917-1966]の場合は,「同調者」に分類され,1948年11月に活動を再開。
 また,熱心なナチ党員で,子供のころから反ユダヤ主義者だったエリー・ナイ[1882-1968]の場合は「微罪」で禁止期間が長く,活動再開は1952年のことでした(エリー・ナイは,戦時中のベーム指揮ウィーン・フィルとの「皇帝」や,活動再開後のコンヴィチュニー指揮ゲヴァントハウス管とのブラームス第2番でも有名)。
 その他,ブルックナー指揮者としても有名なカバスタ[1896-1946]も熱心な党員で,ナチ機関紙でもユダヤ人攻撃論を展開,結果,「有罪」となりミュンヘン市から解雇,演奏活動禁止に加えて肉体労働以外禁止という処分が下され,ほどなく梗塞の発作を起こして数か月入院,病床でクナッパーツブッシュに手紙を書いて仲裁を依頼するもののうまくいかず絶望し,睡眠薬を用いて49歳で自殺,妻も後を追っています。
 ブルックナー校訂で有名な音楽学者のハース[1886-1960]もナチ党員で,反ユダヤ主義者で反コスモポリタンという信条も表明しており,戦後は国際ブルックナー協会から追放され,年齢もあってオーストリア国立図書館に復職することはできませんでした。
 フルトヴェングラーと親しかった合唱指揮者のキッテル[1870-1948]もナチ党員でしたが,高齢のためそのまま引退(キッテル指揮ベルリン・フィルのマタイ受難曲は,戦時中にドイツ海軍の潜水艦で原盤が日本に輸送され,SP盤18枚組ボックス17,000セットの大量オーダーという記録を樹立)。
 ウィーン国立歌劇場の楽長としてワーグナー作品などを数多く指揮していた過激な反ユダヤ主義者,レオポルト・ライヒヴァイン[1878-1945]は,ソ連軍がウィーンを解放する5日前に将来を悲観して服毒自殺。

ソ連軍占領地域の場合
ベルリン東部,ドレスデン,ライプツィヒ,ヴァイマール,ハレ,ポツダムなどドイツ東部を統治していたソ連軍占領政府の方針では,ドイツ政府や軍の要職にあった者のみ裁き,音楽家の場合は基本的に,プロパガンダなどをおこなっていても活動禁止期間は無く,コンヴィチュニー[1901-1962]や,アーベントロート[1883-1956],ボンガルツ[1894-1978],シュトラウベ[1873-1950],コッホ[1908-1975],レムニッツ[1897-1994]といったナチ党員の場合でもそれは同じでした。
 終戦時の所属がドイツ東部の劇場や楽団だった場合は審査が無く,さらにソ連軍が,兵士による破壊や犯罪をしばらく容認していたこともあって復興が大幅に遅れ(映画「ベルリン陥落1945」に当時の様子が生々しく描かれています) ,ほどなく西側に移るローター[1885-1972]や,戻らなかったシューリヒト[1880-1967]のようなケースも多かったようです。
 ソ連はまず占領地行政の抜本的な変更を最優先し,行政機関の主要な役職は共産主義者に総入れ替えしていましたが,対照的に西側占領地域では,裁きようがないために処罰を免れた約800万人以上の元ナチ党員や,党友が普通に生活,占領統治下ながら,行政機構も戦時中からそのまま継続していたため役人はほとんどが元ナチ党員で,たとえば性的マイノリティの作曲家・指揮者のヘンツェが,西側にも関わらず自殺未遂寸前まで追い込まれたりしていました。ちなみに1957年の調査でも,西ドイツ司法省上級職員の元ナチ党員率が約77%,裁判長で約70%となっています。

オランダの場合(占領)
メンゲルベルク[1871-1951]は,ナチへの協力により戦犯扱いとなって禁止期間も長く,1952年に活動再開が決まっていたものの,1951年に死去。
 ケンペン[1893-1955]は,1933年にドイツ国籍を取得しており,戦前・戦時中とドイツで活躍したため,戦後,オランダ復帰に時間がかかり,1949年にオランダ放送フィルの常任指揮者に就任。しかし1951年にベイヌムの代役で古巣のコンセルトヘボウ管弦楽団を指揮した際には聴衆の抗議暴動が発生,2日目の公演では楽員62名が演奏拒否するなどしていました。
 また,オランダ放送フィルの常任指揮者をケンペンと共同で務めていたオッテルロー[1907-1978]も,1年間の演奏禁止処分を受けていました。

デンマークの場合(占領)
ロスヴェンゲ[1897-1972]は,ベルリン国立歌劇場でテノールとして活躍していたデンマーク人のナチ党員でしたが,ベルリン陥落の際,避難せずにベルリン近郊に住んでいたためソ連兵が邸宅を占拠,兵士のために大量に歌うもののクラスノゴルスク収容所に送られ,数か月過ごしたのち釈放,まだ危険だったベルリンを避けて祖国デンマークに向かいますが入国拒否。元化学者のロスヴェンゲはスペインで化学関連の仕事に従事したのち,1948年にウィーン国立歌劇場で歌うようになり,再び輝かしいキャリアを築き上げるものの,カラヤンが原語主義を持ち込むと,デンマーク人でドイツ語によるイタリア・オペラ歌唱で人気を博していたロスヴェンゲはウィーン国立歌劇場を去ることとなります。

フランスの場合(占領)
コルトー[1877-1962]は,ナチの傀儡政権であるヴィシー政権で働いていたことで,禁止期間そのものは1946年までと短かったものの,フランス国内での公開演奏は許されませんでした。
 フルニエ[1906-1986]は,占領下でパリ音楽院教授を務めていたことなどから,3年間の演奏禁止処分となります。
 一方,指揮者で作曲家のラボー[1873-1949]は,パリ音楽院院長時代に職員と学生のユダヤ人リストを作成してヴィシー政府に提出するなどしていましたが,戦後,特に問題視されることはありませんでした。

チェコスロヴァキアの場合(解体)
ドイツによりチェコスロヴァキアは解体され,ボヘミア・モラヴィア保護領となります。
 ターリヒ[1883-1961]は,保護領時代の言動が災いして戦犯容疑をかけられ,戦後,チェコスロヴァキア共和国政府により逮捕,釈放後もすぐには指揮台に立てず,復帰は1946年9月でした。
 プシホダ[1900-1960]は,保護領時代にドイツでも活動していたことなどから,戦後,チェコスロヴァキアでの演奏を禁止され,やがてトルコ国籍を取得,1956年にはプラハで12年ぶりに演奏し,1960年にウィーンで死去。遺骨が故郷に戻されるのは没後56年を経てのことでした。

ハンガリーの場合(ドイツ同盟国)
ホルティのもとでなんとかバランスを保っていたハンガリーも,1944年10月にはドイツの支援を得た民族主義ファシズム政党,矢十字党政権へと移行,過激な反ユダヤ政策により短期間に大量の虐殺をおこないます(映画「ウォーキング・ウィズ・エネミー/ナチスになりすました男」には矢十字党やホルティが描かれています)。
 エルンスト・フォン・ドホナーニ[1877-1960]は,第1次大戦前にベルリンで活躍したことなどからドイツとの関係もありましたが,弟子のほとんどはユダヤ人で,矢十字党政権下でもユダヤ人楽員を守るなどしていました。しかしブダペストがソ連軍に包囲されると,ドホナーニはナチの武装親衛隊に護衛されてオーストリアに出国し,その後,アルゼンチン,メキシコを経てアメリカに亡命。このことにより,実質的にソ連の支配下にあったハンガリー政府の見解は「戦犯」となりますが,米軍の審査では無罪でした。

ユーゴスラヴィアの場合(分裂)
ユーゴスラヴィアの場合は状況が複雑でした。第1次世界大戦の敗戦でオーストリア=ハンガリー帝国が崩壊すると,ユーゴスラヴィア王国が建国されるものの,クロアチア人の不満は大きく,国内に「クロアチア自治州」が誕生し事実上分裂,第2次世界大戦でドイツとイタリアがユーゴスラヴィア王国に侵攻すると,クロアチア人たちは人口700万人ほどの「クロアチア独立国」の建国を宣言,ドイツと似た独裁政権による統治と国籍法(人種法)の運用をおこない,ドイツの敗戦と共に,国土はユーゴスラヴィアとボスニア・ヘルツェゴヴィナに分割されています。
 マタチッチ[1899-1985]は,オーストリア=ハンガリー帝国のスシャクに生まれた軍人・貴族の家系のクロアチア人で,戦時中は「クロアチア独立国」の一員でした。クロアチア軍の大佐として音楽分野を統括したマタチッチは,指揮者としてオペラや演奏会で活躍しますが,戦後,ユーゴスラヴィア政府に,ナチ協力の嫌疑で逮捕・投獄されてしまいます。しかし1948年,妻の父親が所長を務めるスコピエの刑務所に送られると恩赦となり,1954年には国外での活動も許されるようになります。

ルーマニアの場合(ドイツ同盟国→降伏→ドイツに宣戦布告)
ルーマニア王国は,第2次世界大戦が始まるとソ連とハンガリーに進駐されて領土を減らし,国民の不満により王制からファシズム体制に移行,枢軸国側として1941年6月に第2次世界大戦に参戦します。しかしドイツの敗色が濃くなるとソ連軍がルーマニアに再度侵攻,前国王の息子ミハイ1世はクーデターを起こして政権を奪取し,連合国側に降伏,1944年8月には寝返ってドイツに宣戦布告,国内展開中のドイツ軍を壊滅させたのち戦線を拡大。戦後はソ連の圧力で領土を減らし,1947年12月に王制を廃止,ルーマニア人民共和国となります。
 ジョルジェスク[1887-1964]は,1920年からブカレスト・フィル首席指揮者を務めていましたが,途中に枢軸国側だった時期があったため,1944年の政変に際してナチへの協力を疑われて解任,9年後の1953年に容疑が晴れて首席指揮者に復帰しています。

イタリアの場合(ドイツ同盟国→降伏→ドイツに宣戦布告)
イタリアの場合は状況が特殊でした。ファシズム体制のイタリア王国は,1940年6月に枢軸国側として参戦,1943年7月にはムッソリーニを逮捕してファシズム政権を解体。9月に連合軍に対して降伏すると,イタリアは寝返ってドイツに宣戦布告,これを受けてイタリア各地に展開していたドイツ軍はイタリア軍の武装解除を進め,幽閉されていたムッソリーニも特殊部隊が救出。ほどなく北部のローマ,ミラノ,ヴェローナ,ブレーシャなどから成るドイツの傀儡ファシズム国家「イタリア社会共和国」を建国,既存の「イタリア王国」と対立し,1945年5月のドイツの降伏に至るまで,「イタリア社会共和国+ドイツ軍(ファシズム側)」vs「イタリア王国+連合軍(反ファシズム側)」という形で戦うことになります。
 ジュリーニ[1914-2005]は,1941年からイタリア陸軍中尉として従軍,ユーゴスラヴィアに赴いて,ドイツ軍,クロアチア軍などと一緒に,チトー率いるパルチザンを攻撃する作戦に参加していました(映画「ネレトバの戦い」は一連の掃討作戦の一部を描いたもの)。
 やがてイタリアが分裂すると,ローマは「イタリア社会共和国」の都市ということで,ジュリーニの所属していた部隊はドイツ側戦力となり,イタリア人司令官から,ドイツ軍と共に「アメリカ第5軍」を攻撃するよう命令されます。しかし,ユーゴスラヴィアでの凄惨な戦いなどで戦争に嫌気がさしていたジュリーニは脱走し,軍はジュリーニの顔写真と名前入りのポスターをローマの各所に掲示して指名手配。ジュリーニの危機を救ったのは,妻のローマの叔父で,自宅の地下室やトンネルに,2人の友人とユダヤ人の家族と共に9か月間潜伏して逃げ切ります(映画「無防備都市」は当時のローマが舞台で脱走兵も登場)。
 そして1944年6月には連合軍によりローマが解放されたため,ジュリーニはアウグステオ管弦楽団(ローマ聖チェチーリア音楽院管弦楽団)を指揮した解放記念公演でブラームスの交響曲第4番などにより指揮者デビュー。その後,ドイツの敗戦と共に「イタリア社会共和国」が解体され,ローマやミラノも含む全土が「イタリア王国」に戻り,植民地もすべて失った1946年6月には「イタリア共和国」に移行,ジュリーニの戦時の行動も問題視されることはありませんでした。
 サバタ[1892-1967]は,オーストリア=ハンガリー帝国生まれのユダヤ系イタリア人で,なぜかナチ時代のバイロイトほか,戦時のドイツで活躍していましたが,イタリアでもドイツでも,サバタに対する戦後の禁止条項はなく,渡米の際にファシスト体制時代の嫌疑でマッカラン法に抵触し,エリス島に一時抑留されたくらいでした。(一覧に戻る)


5月:VPO/モーツァルト:交響曲第41番「ジュピター」(CD2),ワーグナー「タンホイザー」序曲とヴェヌスベルクの音楽,サン=サーンス:ピアノ協奏曲第2番(ファルナディ),R.シュトラウス「ティル・オイレンシュピーゲル」,「ツァラトゥストラ」,ヴォルフ「イタリア風セレナーデ」,ベートーヴェン:交響曲第5番
5月:VSO/マルクス「秋の交響曲」,「幸せな夜」
5月:VPO/ベートーヴェン:交響曲第9番
6月:VSO/ハイドン「天地創造」
6月:ウィーン国立/「サロメ」
7月:ミラノ・スカラ座管/R.シュトラウス「ティル・オイレンシュピーゲルの愉快な悪戯」(CD16)
8月:VSO/ブレゲンツ音楽祭/「タンホイザー」序曲とバッカナーレ,R.シュトラウス「死と変容」,ベートーヴェン:交響曲第7番,シューベルト:交響曲第8番「未完成」,R.シュトラウス「ドン・ファン」,ムソルグスキー「展覧気の絵」
9月:ウィーン国立/ロンドン公演/「フィデリオ」(CD32-33),「サロメ」(CD69-70)


【ウィーン国立歌劇場ロンドン公演】

ロンドンの「アングロ=オーストリア音楽協会」の招聘によって実現したウィーン国立歌劇場引っ越し公演。会場はコヴェントガーデン王立歌劇場で,演目は,クラウス指揮する「フィデリオ」,「サロメ」と,クリップス指揮する「フィガロの結婚」,「コジ・ファン・トゥッテ」,「ドン・ジョヴァンニ」(すべてドイツ語版)。クラウスとクリップスの指揮する慈善コンサートには,イギリス国籍を取得していた元オーストリアのテノール,リヒャルト・タウバー[1891-1948]が参加し,片方の肺だけで生涯最後となる歌唱を聴かせていました(タウバーは,クラウスがレハールに委嘱した「ジュディッタ」を,不況下にも関わらず大ヒットさせた名歌手で,この3か月後に死去)。
 当セットでは「フィデリオ」(CD32-33)と「サロメ」(CD69-70)を聴くことができますが,貧しい音質ながらも,実演でのクラウスの激しさ,ドラマ構築の密度の高さがよく伝わってきます。歌手も非常に豪華で,特にシュトラウスのお気に入りだったマリア・チェボターリ[1910-1949]のサロメ役は素晴らしく,聴かせどころのフィナーレでは絶唱というにふさわしい凄い歌を聴かせてくれます(この半年後,チェボターリは俳優の夫を48歳で心臓発作で失い,その1年後には自身が舞台で倒れて末期癌と診断され2か月後に39歳で死去。ウィーンでの葬儀には何千人もの市民が出席し,2人の遺児はクリフォード・カーゾンが養子として引き取っています)。
 「アングロ=オーストリア音楽協会」は,オーストリアから亡命してきたユダヤ系アーティストらの生活のために演奏会を開催することなどを目的として,彼らとイギリスの支援者たちによって1942年に結成されたものですが,1946年になると,ソ連によるオーストリアの共産化を阻止すべく活動していた政府系団体「アングロ=オーストリア民主化協会」と一緒になったため,資金にも余裕が生まれ,こうした引っ越し公演もおこなえるようになりました。
 ちなみにこの協会は,1948年と1949年にフルトヴェングラー,ワルターとウィーン・フィルを招いていたほか,1952年にはクラウスの指揮でウィーン・フィルを再度招聘してもいます。協会のもともとの性格上,戦時中に反ユダヤ主義的な行動をおこなっていた指揮者が呼ばれることはありませんでした。
 また,このロンドン公演の直前,9月中旬には,イギリス北部,エディンバラ音楽祭のルドルフ・ビングからの招聘で,ブルーノ・ワルターの指揮でウィーン・フィルが4公演をおこなっており,そちらでも成功を収めています。(一覧に戻る)


11月:ウィーン国立/「ボリス・ゴドゥノフ」,「サロメ」
12月:VPO/シューベルト「ロザムンデ」序曲,ウール:ソナタ・グラツィオーザ,ムソルグスキー「展覧会の絵」,デュカス「魔法使いの弟子」
12月:ロンドン・フィル/ブラームス:アルト・ラプソディ(CD37),R.シュトラウス「死と変容」(CD14)
12月:ウィーン国立/「ボリス・ゴドゥノフ」
12月:VPO/ジルヴェスターコンサート,プレコンサート(ニューイヤーと同内容)


1948年(55歳)
1月:VPO/ニューイヤーコンサート
1月:ウィーン国立/「サロメ」,「フィデリオ」,「ファルスタッフ」
ウィーン・フィル/ロンドン公演。アングロ=オーストリア音楽協会主催。ブラームス:交響曲第1番,ベートーヴェン:交響曲第1番,R.シュトラウス「ドン・ファン」,「ダナエの愛」断章
5月:アルゼンチンを訪れ,以後,12月までの7か月ほどラテン・アメリカに滞在。まずブエノス・アイレスのテアトロ・コロンでオネゲルの「火刑台上のジャンヌ・ダルク」ほかオペラをいくつか上演したほか,コンサートでも指揮。


10〜11月:ハヴァナ・フィルに客演。ワーグナー・コンサート等(CD11)

【キューバ客演】

7か月間のラテン・アメリカ滞在の締めくくりはキューバ。当時のキューバはアメリカと近かった時代。首都ハヴァナの人口はすでに100万人を超えており,欧州文化の移入によるコンチネンタルな文化が栄えていたリゾート地でもありました。
 クラウスはハヴァナに約1か月間滞在して入念にリハーサルをおこない,6回のコンサートを開催。プログラムは,キルステン・フラグスタート,セット・スヴァンホルムとのワーグナー・コンサートのほか,ベートーヴェン「運命」,「コリオラン」,「レオノーレ」序曲第3番,ピアノ協奏曲第4番,メンデルスゾーン「真夏の夜の夢」序曲,デュカス「魔法使いの弟子」,チャイコフスキー:交響曲第5番,R.シュトラウス「ティル・オイレンシュピーゲル」,「サロメの踊り」などと,ヴィオリカ・ウルズレアックとの「サロメ」のフィナーレというものです。
 ちなみにハヴァナ・フィルにはエーリヒ・クライバーやカラヤン,ビーチャム,ドラティ,ストラヴィンスキーなども客演していました。(一覧に戻る)


12月:VPO/ジルヴェスターコンサート,プレコンサート(ニューイヤーと同内容)

1949年(56歳)
1月:VPO/ニューイヤーコンサート
ローマに転居。同地を拠点に,ミラノやウィーン,ロンドン,ノルウェーのベルゲンなどを訪れる生活を1年以上送ったのち,チロルに移ります。
1月:ロンドン・フィル/ワーグナー「トリスタンとイゾルデ」前奏曲,「パルジファル」〜聖金曜日の音楽(CD96)
1月:ロンドン響/ブラ―ムス:ハンガリー舞曲第1&3番(CD7),ドヴォルザーク:スラヴ舞曲第3,5&8番(CD7)
6月:VSO/ドビュッシー「放蕩息子」,シューベルト:ミサ曲第6番
6月:ウィーン国立/「サロメ」,「フィデリオ」,「ファルスタッフ」
9月:VSO/ブルックナー:ミサ曲第3番,テ・デウムほか
9月:VPO/R.シュトラウス追悼演奏会/「死と変容」,「ツァラトゥストラ」,ヨーゼフ・グレゴールの講演
11月:ウィーン国立/「フィデリオ」,「ファルスタッフ」
11月:ロンドン・フィル/「パルジファル」〜聖金曜日の音楽,「トリスタンとイゾルデ」前奏曲(CD91)
12月:VPO/ウェーバー「ペーター・シュモル」,「トゥーランドット」,「アブ・ハッサン」序曲,R.シュトラウス:ソナティネ,「ツァラトゥストラ」,ラヴェル「ボレロ」,ヴォルフ「クリスマス・イヴ」,レーガー「隠者」,R.シュトラウス「愛」,ヴェルディ「聖歌四篇」
11〜12月:ウィーン音楽院で指揮コース。
12月:VPO/ジルヴェスターコンサート,プレコンサート(ニューイヤーと同内容)

1950年(57歳)
1月:VPO/ニューイヤーコンサート
2月:ウィーン・フィルとエジプト・ツアー
3月:VPO/シューベルト「未完成」,ウール:4つのカプリース,R.シュトラウス「ドン・ファン」,ベートーヴェン「合唱幻想曲」,シューマン:8つの女声合唱曲(プフィッツナー編曲),ブラームス「悲歌」,「愛の歌のワルツ」,デュカス「魔法使いの弟子」,レズニチェク「ドンナ・ディアナ」序曲
ローマからオーストリア,チロル地方のエールヴァルトに転居。R.シュトラウスが40年以上暮らしていたバイエルンのガルミッシュ=パルテンキルヒェンとは国境を挟んで隣接する山村。クラウスは亡くなるまでここを拠点としていました。
3〜5月:ウィーン音楽院で指揮コース。
4月:VPO/ベートーヴェン「オリーヴ山上のキリスト」,バッハ:マニフィカト
4月:ウィーン国立/「フィデリオ」,「ファルスタッフ」
5月:ウィーン国立/オネゲル「火刑台上のジャンヌ・ダルク」
6月:VPO/R.シュトラウス「ドン・ファン」(CD12),「ティル・オイレンシュピーゲルの愉快な悪戯」(CD12),「ツァラトゥストラはかく語りき」(CD15)
6月:ウィーン国立/「火刑台上のジャンヌ・ダルク」,「フィデリオ」,「ファルスタッフ」
8月:VPO/エネスコ:ルーマニア狂詩曲第1番(CD19)
9月:ウィーン国立/「火刑台上のジャンヌ・ダルク」
9月:VPO/「こうもり」全曲(CD71-72)
11月:VSO/モーツァルト:大ミサ
11月:ウィーン国立/「サロメ」,「火刑台上のジャンヌ・ダルク」,「フィデリオ」
12月:VPO/シューベルト:交響曲第3番,レスピーギ「ローマの噴水」,R.シュトラウス「家庭交響曲」,ベートーヴェン:交響曲第5番
12月:VPO/ジルヴェスターコンサート,プレコンサート(ニューイヤーと同内容)
VSO/モーツァルト:ハフナー・セレナーデ(CD3),ベートーヴェン:合唱幻想曲(CD33),メンデルスゾーン:真夏の夜の夢(CD7),シューベルト:水上の精霊の歌(CD8),ベートーヴェン:皇帝ヨーゼフ2世の死を悼むカンタータ(CD34-35)
ウィーン・フィル/フランス,ドイツ,イギリス,スイス・ツアー

1951年(58歳)
1月:VPO/ニューイヤーコンサート
1月:ウィーン国立/「ファルスタッフ」,「フィデリオ」
2月:ウィーン国立/「ばらの騎士」,「ファルスタッフ」
3月:VPO/ハイドン:交響曲第99番,ヴォルフ「イタリア風セレナーデ」,ドヴォルザーク:交響曲第8番,スメタナ「売られた花嫁」序曲
3月:VSO/シューベルト:交響曲第9番(CD8)
4月:ウィーン国立/「サロメ」
4月:VPO/レーガー「古風な様式の組曲」,ラヴェル「スペイン狂詩曲」,R.シュトラウス「4つの最後の歌」(ウルズレアック),「ティル・オイレンシュピーゲル」,ブリテン:セレナーデ,「春の交響曲」
4月:VPO/J.シュトラウスU:「ジプシー男爵」(CD73-74)
5月:VPO/ベートーヴェン:ピアノ協奏曲第4番(CD21),ウェーバー「オベロン」序曲,シューベルト「未完成」,ラヴェル「スペイン狂詩曲」,デュカス「魔法使いの弟子」
6月:ウィーン国立/「カプリッチョ」,「ばらの騎士」
6月:コヴェントガーデン/「トリスタンとイゾルデ」。フラグスタート,スヴァンホルムとの共演
9月:VPO/R.シュトラウス:家庭交響曲(CD14)
バンバルク響/シューベルト:未完成(CD5)
9月:ウィーン国立/「カプリッチョ」,「ばらの騎士」,「ファルスタッフ」,「フィデリオ」,「ファルスタッフ」
10月:ウィーン国立/「ナクソス島のアリアドネ」,「さまよえるオランダ人」,「ファルスタッフ」
11月:VPO/モーツァルト:交響曲第41番,ドビュッシー「古代のエピグラフ」,ファリャ「はかなき人生」間奏曲,R.シュトラウス「英雄の生涯」
11月:ウィーン国立/「ローエングリン」,「ナクソス島のアリアドネ」,「火刑台上のジャンヌ・ダルク」,「フィデリオ」,「ファルスタッフ」
12月:ウィーン国立/「ローエングリン」
12月:バイエルン放送響/「ラ・ボエーム」(CD41-42)
12月:VPO/ジルヴェスターコンサート,プレコンサート(ニューイヤーと同内容)


1952年(59歳)
1月:VPO/ニューイヤーコンサート
1月:VPO/シューベルト:交響曲第2番,ザルムホーファー:交響曲ハ長調,ウェーバー「舞踏への勧誘」
1月:ウィーン国立/「ローエングリン」,「ナクソス島のアリアドネ」,「ばらの騎士」
2月:ウィーン国立/「ローエングリン」
2月:スイス・ロマンド管/ベートーヴェン「レオノーレ」序曲第3番,モーツァルト:交響曲第41番,R.シュトラウス「英雄の生涯」
3月:ウィーン国立/「ばらの騎士」,「フィデリオ」,「ファルスタッフ」
3月:VPO/ストラヴィンスキー「プルチネッラ」組曲(CD19),ベートーヴェン:交響曲第6番(CD4),「レオノーレ」序曲第3番,「エグモント」序曲,エネスコ:ルーマニア狂詩曲第1番,レスピーギ「ローマの松」,ブラームス:セレナーデ第1番
3月:ブレーメン・フィル/ブラームス:交響曲第1番(CD6),モーツァルト:交響曲第41番「ジュピター」(CD5)
4月:ウィーン国立/「ローエングリン」,「火刑台上のジャンヌ・ダルク」
4月:コヴェントガーデン/「フィデリオ」
5月:VPO/ベートーヴェン:ピアノ協奏曲第2番(CD22)
6月:ウィーン国立/「ローエングリン」,「ナクソス島のアリアドネ」,「カプリッチョ」,「フィデリオ」,「ファルスタッフ」
6月:ウィーン国立/「ナクソス島のアリアドネ」,「ばらの騎士」
7月:バイエルン放送響/ハイドン:交響曲第93番(CD1)
8月:VPO/ザルツブルク祝祭/モーツァルト:交響曲第30番,第41番,R.シュトラウス「愛に寄せる讃歌」,「4つの最後の歌」,「ドン・ファン」,ハイドン:交響曲第88番,ベートーヴェン:交響曲第7番,ラヴェル「スペイン狂詩曲」,R.シュトラウス「ティル・オイレンシュピーゲルの愉快な悪戯」
8月:VPO/ザルツブルク祝祭/「ダナエの愛」(CD58-60)

【ザルツブルク復帰〜「ダナエの愛」公式初演】

R.シュトラウスがヨーゼフ・グレゴールの台本で1940年に作曲し,1944年のザルツブルク祝祭で作曲者立ち会いのもと,ゲネプロまでおこなったものの,連合軍のフランスでの進軍,ソ連の東欧での進軍により,政府から総力戦のため上演中止の命令がくだり,上演の機会が待たれていたものです。
 ダナエ役のアンネリース・クッパーは,当時オペラに宗教音楽に大活躍したソプラノで,このギリシャ神話題材のオペラでも絶世の美女役を魅力的な声で歌い上げています。
 ちなみにクラウスは,フルトヴェングラー,クナッパーツブッシュ,エルメンドルフ,ベーム,ヨッフム,カラヤンらと同じく西側の非ナチ化裁判で無罪となっていたので,1947年4月には活動を再開していました。
 しかし,ザルツブルク祝祭に復帰できたのはその5年後で,それにはフェスティヴァル理事長のプートンが関わっていました。
 ザルツブルク祝祭の理事長職は,規模の小さかった1922年と1923年にはR.シュトラウスが務めていましたが,実績が振るわなかったため,後任は音楽に無関係な人物が望ましいということで,1926年からは元軍人のハインリヒ・プートン[1872-1961]が着任,亡くなるまで計28年間に渡って独占的に理事長を務めた人物として知られることとなります。プートンは1938年にドイツに併合された際に理事長を解任され,1945年に復職していますが,その間,1941年から1944年にかけて芸術監督を命じられていたクラウスを赦すことができず,戦後,1952年までクラウスをザルツブルク祝祭に出演させませんでした。
 また,プートンは,非ナチ化裁判で窮地に立たされていたカール・ベームを救うべく,友人で非ナチ化審査にもあたっていたエゴン・ヒルベルト(のちのウィーン国立歌劇場総監督)や,イギリス軍関係者らと共に,無罪判決獲得に尽力していますが,これはプートンが,1947年のザルツブルク祝祭で,「アラベラ」を指揮するようベームとすでに契約してしまっていたためです。
 ちなみにプートンは,1948年11月に自身の住居として使用していたミラベル宮殿(!)から退去するようザルツブルク市から命じられ,別な物件が用意されたにも拘らずそれを頑固に拒否,ザルツブルク市から立ち退き訴訟まで起こされていたという猛者でもあります。プートンおそるべしです。(一覧に戻る)


8月:ウルズレアックによるR.シュトラウス歌曲集をピアノ伴奏(CD57)
9月:ウィーン国立/「ローエングリン」,「火刑台上のジャンヌ・ダルク」,「ダナエの愛」
9月:VPO/R.シュトラウス「英雄の生涯」(CD15),組曲「町人貴族」(CD13),ハイドン:交響曲第100番,ドビュッシー「子供の領分」,R.シュトラウス「ドン・ファン」
9月:VPO/ウェーバー「オベロン」序曲,ハイドン:交響曲第93番,組曲「町人貴族」,ラヴェル「ボレロ」
10月:ウィーン国立/「ダナエの愛」
11月:VPO/ロンドン公演。アングロ=オーストリア音楽協会主催。ベートーヴェン・コンサート(交響曲第7番,第6番,「エグモント」,「レオノーレ」第3番)と,J.シュトラウス・コンサート開催。
12月:VPO/ジルヴェスターコンサート,プレコンサート(ニューイヤーと同内容)

1953年(60歳)
1月:VPO/ニューイヤーコンサート
1月:VPO/デュカス「魔法使いの弟子」(CD19),ブラームス:ピアノ協奏曲第2番(バックハウス)(CD20),マルクス:古風な様式によるパルティータ
1月:バイエルン放送響/R.シュトラウス「カプリッチョ」全曲(CD64-65)〜間奏曲(CD55)
1月:バンベルク響/「ばらの騎士」〜ワルツ集(CD57),デュカス:魔法使いの弟子(CD18)
3月:ウィーン国立/「フィデリオ」,「ファルスタッフ」,「ダナエの愛」
4月:ウィーン国立/「ダナエの愛」
5月:ウィーン国立/「ダナエの愛」
6月:バイエルン放送響/ハイドン:交響曲第88番(CD1),R.シュトラウス:家庭交響曲(CD12),ラヴェル:スペイン狂詩曲(CD19)
6月:VPO/R.シュトラウス「ドン・キホーテ」(CD16),ベートーヴェン:ピアノ協奏曲第5番(CD21)
6月:ウィーン国立/「ナクソス島のアリアドネ」
7月:コヴェントガーデン/「ニュルンベルクのマイスタージンガー」
7月:VPO/「ばらの騎士」(CD61-63)
8月:VPO/ザルツブルク祝祭/「ばらの騎士」
8月:バイロイト祝祭管/「ニーベルングの指輪」(CD77-89),「パルジファル」(CD95-93)

【バイロイト出演】

ヴィーラント・ワーグナー[1917-1966]は20歳の時にバイロイトで「パルジファル」の舞台装置デザインを担当していますが,そのときの仕事ぶりは,一部に映画の要素を取り込むなどしていたものの基本的には写実的な要素の強いものでした。しかし戦後,1951年の再スタートに当たっては,バイロイト伝統の素朴な写実風演出を捨て去り,抽象的な形でドラマに光を当てるスタイルに変更しています(ちなみにクレンペラーは1909年にバイロイトを訪れ,カール・ムック指揮,ジークフリート・ワーグナー演出の「ローエングリン」を見て古色蒼然とした上演に愕然としていましたが,ちょうどその頃,クナッパーツブッシュはバイロイトで無給の助手を務めてもいました)。
 これは,ヴィニフレート&ティーティエンによる極度に政治的で保守的だった時代(1933〜1944年,指揮者はフルトヴェングラー,アーベントロート,エルメンドルフ等)のバイロイトとの決別も意味しており,クレンペラーが戦前にクロール・オペラでセンセーションを巻き起こした大胆で前衛的な上演に通じるものがあると思われます。
 保守的なクナッパーツブッシュにはそれが耐えられなかったようで,1951年のバイロイト以来2年近く経過した1953年4月に,ヴィーラント演出による「ニーベルングの指輪」をナポリで指揮した際にも納得ができず,5月にはヴィーラントに対してバイロイト出演のキャンセルを申し入れています。
 ヴィーラントは,学生時代を過ごしたミュンヘンで,クレメンス・クラウスの指揮するオペラにたびたび接していたことから,クラウスに連絡をとり,「ニーベルングの指環」と「パルジファル」の指揮を依頼。クラウスは,ワーグナー歴40年のベテランでもあり,独墺各地の劇場でワーグナー作品を指揮,「リエンツィ」上演の経験もあるほどでした。
 このバイロイトの直前,7月上旬にはコヴェントガーデン王立歌劇場でシェフラー,ホップ,クッシェ,シュワルツコップらのキャストで「マイスタージンガー」を4公演指揮して高い評価を獲得してもいます。
 バイロイトでも見事な指揮で期待に応え,ヴィーラントはクラウスを音楽祭の主軸にすることを決定するものの,クラウスは9か月後に急死,その計画は頓挫してしまいます。
 このバイロイトの上演では,歌手陣の年齢が若めなのも特徴で,高名な歌手たちの全盛期,あるいは若年期の素晴らしい歌唱を楽しむことが出来ます。ハンス・ホッター(44),アストリッド・ヴァルナイ(35),ヴォルフガング・ヴィントガッセン(39),ラモン・ヴィナイ(41),レジーナ・レズニック(30),ヘルマン・ウーデ(39),グスタフ・ナイトリンガー(43),ヨーゼフ・グラインドル(40),ルートヴィヒ・ヴェーバー(54),パウル・クーエン(43),ゲルハルト・シュトルツェ(26),マリア・フォン・イロスファイ(40),イーラ・マラニウク(33),リタ・シュトライヒ(32),マルタ・メードル(41),ジョージ・ロンドン(33),テオ・アダム(27)等々,錚々たる顔ぶれの歌手たちが,クラウスのつくりあげる活気ある音楽の枠組みの中で生々しくドラマティックな歌唱を聴かせています。
 なお,ヨッフムが指揮にあたった1953年の「トリスタンとイゾルデ」は,元々はカラヤンが指揮する予定でしたが,前年にリハーサルの方法を巡ってカラヤンがヴィナイと対立し,翌1953年度の出演を辞退,以後もバイロイトで指揮することはありませんでした。
 また,クラウスの急死を受けて1954年にバイロイトに復帰したクナッパーツブッシュは,まず「パルジファル」を単独で手がけ,翌1955年には,「パルジファル」単独に加え,カイルベルトと分担で「さまよえるオランダ人」,1956年には,「パルジファル」単独に,カイルベルトと分担で「指環」を指揮,翌1957年には,カイルベルトが追放(カイルベルト自身の言葉),クナッパーツブッシュ単独で「指環」と,クリュイタンスと分担で「パルジファル」,1958年にはクナッパーツブッシュ単独で「指環」と「パルジファル」を指揮といった流れとなり,演出が原因でキャンセルといった事態はまったく無くなります。ちなみに,クナッパーツブッシュの「指環」で最も完成度が高いとされるのはカイルベルトと分担だった1956年の上演でした。(一覧に戻る)


9月:バイエルン放送響/「アイーダ」(CD46-47)
9月:バイエルン国立/「アラベラ」,「ダナエの愛」,「カプリッチョ」
10月:VPO/ベートーヴェン:ピアノ協奏曲第2・5番(バックハウス),「レオノーレ」序曲第3番,ハイドン:交響曲第88番,ムソルグスキー「展覧会の絵」,ブラームス:交響曲第2番
12月:VPO/R.シュトラウス「イタリアより」(CD17),モーツァルト:ピアノ協奏曲第24番(グルダ),交響曲第39番,ベートーヴェン:交響曲第7番
ウィーン・フィル/ドイツ・スイス・ツアー
12月:VPO/ジルヴェスターコンサート,プレコンサート(ニューイヤーと同内容)

1954年(61歳)
1月:VPO/ニューイヤーコンサート

【最後のニューイヤーコンサートとその後】

1954年のニューイヤーコンサートは,12月31日分のライヴ録音が遺されており,ポルカのアンコールなど楽しさ満点。クラウスはヨーゼフ・シュトラウスも得意でしたが,ここでもその旋律美を生き生きとしかも優雅に演奏。クラウス絶好調です。しかし,4か月半後の5月16日には高地メキシコで心臓発作で亡くなってしまいます。
 クラウスの急死により,ウィーン・フィルは翌年度ニューイヤーコンサートの指揮者を決める必要がありましたが,7月中旬まではウィーン国立歌劇場の通常公演があり,7月末から8月いっぱいまではザルツブルク祝祭開催,9月にはウィーン国立歌劇場のロンドンへの引っ越し公演ということで,本格的な後任探しがおこなわれるのは10月の終わりのことでした。
 まず,楽員により第1候補と第2候補を選ぶ投票がおこなわれ,第1候補としてエーリヒ・クライバーが選出,出演を打診するものの,1954年10月に東ドイツが国家として成立し,音楽監督を務めるベルリン国立歌劇場が東ベルリンにあったことから,クライバーは11月25日に出演辞退を通告(5日後にはフルトヴェングラー死去)。
 これを受けて,第2候補から選ぶ流れになりますが,補助的な投票だったこともあってか,1位が前総監督フランツ・ザルムホーファー(37票),2位がヨーゼフ・クリップス(24票),3位がフルトヴェングラー(2票)という微妙な結果でした。
 そのため,もともと決められていた「指揮者がいない場合はコンサートマスターが指揮する」というプランに従い,オーベルマイヤー楽団長が,第1コンサートマスターのボスコフスキーが指揮すべきという案を提出,賛成32票,反対12票,マックス・シェーンヘルに1票,クリップスに1票,ザルムホーファーに1票という結果になり,ボスコフスキーが指揮をすることに。そして公演の成功により,以後,1979年までニューイヤーコンサートの顔として世界にその名を知られることになります。(一覧に戻る)


【ウィーン国立歌劇場総監督指名撤回】

ウィーン国立歌劇場は,1945年3月12日に本拠地のオペラハウスが連合軍の爆撃により破壊され,その後,アン・デア・ウィーン劇場を中心に活動をおこなっていましたが,1955年の秋には新たに再建されたオペラハウスでの上演開始が決定。
 平均任期4年半というウィーン国立歌劇場の総監督を,戦後の苦しい時期に9年間も務めたフランツ・ザルムホーファー[1900-1975 作曲家・指揮者]の後任人事をめぐり,各地での監督としての実績や指揮者としての人気などからあれこれ噂される中,任命権者である教育文化大臣のエルンスト・コルプ[1912-1978]は,クレメンス・クラウスを指名。
 しかしこの決定にカール・ベームの支援者で民間人のマンフレート・マウトナー=マルクホーフ[1903-1981]が異を唱え,総監督指名がベームでなければ,ウィーン交響楽団への支援など資金援助を打ち切ると圧力をかけたため,首相のユリウス・ラープ[1891-1964]がコルプ文化大臣の決定に反対,1月31日,総監督としてカール・ベームの名前が発表され,ベームは7か月後の9月1日に総監督に着任することになります。
 ちなみに,マンフレート・マウトナー=マルクホーフは,ビール醸造と食料品販売で成功した1841年設立の同族企業の経営者で,フンデルトヴァッサー[1928-2000]などのパトロンとしても有名。夫人のマリア[1900-1990]も,ウィーン・フィル楽員の福祉基金を目的として開催される「ウィーン・フィルハーモニー舞踏会」を支援し,舞踏会の名誉会長を1949年から31年間に渡って務めるなど,マウトナー=マルクホーフ家はウィーンの音楽界に強い発言力を持っていました。
 中でもベームは戦後の一時期,マウトナー=マルクホーフ家所有の建物で暮らすなど特別な関係にあり,さらに,のちにウィーン国立歌劇場の総監督に指名されたカラヤン[1908-1989]や,エゴン・ゼーフェルナー[1912-1997],エゴン・ヒルベルト[1899-1968](ベームの非ナチ化に貢献)たちも,マウトナー=マルクホーフ家とは早くから親しい関係を築き上げています。
 また,首相のラープは,戦後すぐに公立建造物担当の国家事務次官としてウィーン国立歌劇場再建を布告したほか,連邦商工会議所も創設した人物で財界に通じており,教育文化大臣のコルプは,当時,連邦商工会議所の弁護士でもありました。ちなみにその商工会議所は,ウィーン・フィルのツアーの補助金など,オーストリアの宣伝になるような文化活動の支援をおこなっているところでもあります。
 コルプはその後,1954年10月31日まで教育文化大臣を務めた後,ウィーン交響楽団の活躍する「ブレゲンツ音楽祭」でも知られるフォアアールベルク州の知事選に出馬,知事に選出されていました。
 なお,クラウス,ベームに加えて,次期総監督候補のひとりとも噂されていたエーリヒ・クライバーは,1951年3月に「ばらの騎士」3日間という契約でウィーン国立歌劇場に初めて客演した際,3日とも同じ楽員が演奏するように劇場側に強く要求したところ,総監督のザルムホーファーから,出番・降番は実質的に楽員が決めていることで,それを変更することはできないと回答され,上演自体は成功だったものの,以後,ウィーン国立歌劇場での公演に呼ばれることはありませんでした(ウィーン・フィルとの関係は良好)。(一覧に戻る)


1〜2月:コヴェントガーデン/「フィデリオ」
3月:VPO/「サロメ」全曲(CD67-68)
3月:VPO/ベートーヴェン「フィデリオ」序曲(CD2),「レオノーレ」序曲第2番(CD5),「レオノーレ」序曲第3番(CD22)

【デッカの計画,ほか】

クレメンス・クラウスとデッカの関係は,SP時代の1947年に始まります。LP時代を迎え,デッカはR.シュトラウスの主要作品のレコーディングを,クラウス指揮ウィーン・フィルにより継続的に実施。1950年6月に「ティル・オイレンシュピーゲルの愉快な悪戯」,「ドン・ファン」,「ツァラトゥストラ」,1951年9月に「家庭交響曲」,1952年9月に「英雄の生涯」,「町人貴族」,1953年6月に「ドン・キホーテ」,1953年12月に「イタリアより」,1954年3月にオペラ「サロメ」の全曲録音という具合に進行,十分な成果をあげていました。
 1954年5月にはオペラ「ばらの騎士」の全曲録音を予定していましたが,5月16日にクラウスが急死してしまったため,エーリヒ・クライバーが指揮を担当。翌年にはオペラ「影の無い女」の全曲録音も予定されていましたが,こちらはベームが指揮を受け持っています。
 なお,デッカはこの後の計画として,クラウスの指揮により,「ニーベルングの指環」や「アラベラ」の全曲録音もおこなう予定でした。
 また,ビーチャムが音楽を担当した映画「ホフマン物語」や「赤い靴」で知られるマイケル・パウエル&エメリック・プレスバーガーのコンビによるイギリス映画「こうもり」の音楽を担当することも決まっていました。(一覧に戻る)


4月:VPO/R.シュトラウス「ダナエの愛」断章,二重小協奏曲,「家庭交響曲」
4月:バイエルン放送響/シューベルト:ソナタ「グラン・デュオ」管弦楽版(CD9),
4月:バンベルク響/R.シュトラウス:ディヴェルティメント(CD18)
5月:メキシコ国立交響楽団に客演。公演期間中の5月16日に心臓発作で急死。

【メキシコで客死】

当時の独墺の指揮者や歌手,器楽奏者,オーケストラ,歌劇場の人々は,ラテン・アメリカまでよく客演していました。これは遠隔地のため出演料がかなり割高で,しかも移動費・宿泊費も招聘元負担という美味しい事情があってのことでしたが,クラウスも同様で,何度も訪れて気に入っていたアルゼンチン始め,キューバ,ブラジル,ヴェネズエラなどにも客演経験があったことから,メキシコでの指揮依頼にも応じることに。
 もっとも,これは西ドイツ政府の後援でメキシコシティで開催される工業見本市を彩る目的を持ったコンサートということで,いつものラテン・アメリカツアーとは少々性格が異なっていましたが,曲目は以下のようにクラウスが得意なものが並んでいます。
 最初のプログラムは,ハイドンの交響曲第88番,デュカスの交響詩「魔法使いの弟子」,ブラームスのピアノ協奏曲第2番,ベートーヴェンの「レオノーレ」序曲第3番で,5月14日(金)夜と,5月16日(日)昼に無事開催しましたが,急死のため,より大きな交響曲や交響詩をメインにしたであろう次のプログラムが演奏されることはありませんでした。
 肝心の演奏ですが,ブラームスのピアノ協奏曲第2番では,準備不足のためかピアノはミスタッチがかなり多いものの,聴かせどころはどうにかこうにかといった状態。アンヘリカ・モラレス[1910-1996]は,高名なエミール・フォン・ザウアー[1862-1942]の弟子で,年齢差48歳の夫人でもありました。
 メキシコ国立交響楽団の方は,若干不安定ではあるもののなかなか充実した演奏を聴かせ,パワフルな中にもスタイリッシュで美しい弦の響きや,濃厚なホルンの吹かせ方などさすが。標高2,250メートル,酸素濃度が平地の76%しかないメキシコ・シティでもクラウスはきちんとオーケストラにリハーサルをつけていたようで,「レオノーレ」序曲第3番では見事な演奏を聴かせています。
 16日の演奏会を無事に終えたクラウスは,その足でホテルでヨーゼフ・シゲティ[1892-1973]と翌17日のリハーサルについて打ち合わせをおこない,その数時間後,ホテルの部屋で心臓発作で亡くなってしまいます。
 クラウスの1950年からの住処,エールヴァルトが標高約1,000メートルで,高地には慣れているという油断もあったのかもしれませんが,人によっては高山病になりかねない2,250メートルという高地でのハードな仕事は,当時,ちょっと太り気味だったクラウスには大きな負担だったのかもしれません。
 クラウスはこの後,バイロイト祝祭に,ザルツブルク祝祭,コヴェントガーデン王立歌劇場への出演のほか,ラテン・アメリカやオーストラリアへのツアーもおこなうはずでした。また,1955年には日本への客演も予定されていたので,仕事熱心さゆえの早すぎる死は本当に残念でなりません。当時の日本には外貨制限もあったことから,大物の来日には外国政府の支援が不可欠という状態だったこともあり,もし急死せずに実現していれば,大物指揮者初の来日ということでもありました。(一覧に戻る)


7月12日:1950年からの住処であったチロルの山村エールヴァルトの教会墓地に埋葬されています。


【収録情報】
CD1
ハイドン:交響曲第88番
バイエルン放送交響楽団
1953年6月4日

ハイドン:交響曲第93番
バイエルン放送交響楽団
1952年7月

ハイドン:交響曲第31番「ホルン信号」
ウィーン交響楽団
1929年
CD2
モーツァルト:交響曲第41番 K.551「ジュピター」
ウィーン・フィル
1940年代

スメタナ「売られた花嫁」序曲
ウィーン・フィル
1944年11月9日

モーツァルト:交響曲第41番 K.551「ジュピター」
ウィーン・フィル
1947年5月31日

ベートーヴェン「フィデリオ」序曲 Op.72b
ウィーン・フィル
1954年5月22,23日
CD3
モーツァルト:セレナーデ K.250「ハフナー」
ウィーン交響楽団
1950年

ハイドン:交響曲第88番
ウィーン・フィル
1929年6月12〜13日,7月2日
CD4
ベートーヴェン:交響曲第2番 Op.36
ウィーン・フィル
1929年9〜10月

ベートーヴェン:交響曲第6番 Op.68「田園」
ウィーン・フィル
1952年3月29日
CD5
ベートーヴェン「レオノーレ」序曲第2番 Op.72a
ウィーン・フィル
1954年5月22,23日

ブラームス:ハンガリー舞曲第1番
ブラームス:ハンガリー舞曲第3番
ウィーン・フィル
1929年6月12日

モーツァルト:交響曲第41番 K.551「ジュピター」
ブレーメン・フィル
1952年3月13日

パレストリーナ:モテット「甘い眠り」
ウィーン国立歌劇場合唱団
1942年8月27日

シューベルト:交響曲第7(8)番 D.759「未完成」
バンベルク交響楽団
1951年4月
CD6
ブラームス:交響曲第3番 Op.90
ウィーン・フィル
1930年1&3月

ブラームス:交響曲第1番 Op.68
ブレーメン・フィル
1952年3月13日
CD7
ブラームス:大学祝典序曲 Op.80
ロンドン交響楽団
1947年10月9日

ブラームス:ハンガリー舞曲第1番
ブラームス:ハンガリー舞曲第3番
ロンドン交響楽団
1949年1月12日

ドヴォルザーク:スラヴ舞曲 Op.46-3
ドヴォルザーク:スラヴ舞曲 Op.46-5
ドヴォルザーク:スラヴ舞曲 Op.46-8
ロンドン交響楽団
1949年1月12日

メンデルスゾーン:劇音楽「真夏の夜の夢」op.61
イローナ・シュタイングルーバー
ダグマー・ヘルマン
ウィーン国立歌劇場合唱団
ウィーン交響楽団
1950年
CD8
シューベルト「水上の精霊の歌」D714
ウィーン国立歌劇場合唱団
1950年

シューベルト:交響曲第9(8)番 D944「グレート」
ウィーン交響楽団
1951年3月2日

ブルックナー:交響曲第4番「ロマンティック」〜第3楽章
ウィーン・フィル
1929年7月3日
CD9
シューベルト:ソナタ「グラン・デュオ」D.812(カール・フロッツラー編曲)
バイエルン放送交響楽団
1954年4月25日

ラヴェル「ダフニスとクロエ」第2組曲
ウィーン国立歌劇場合唱団
ウィーン・フィル
1945年3月

ラヴェル「道化師の朝の歌」
ウィーン・フィル
1945年3月
CD10
マンチネッリ:組曲「ヴェネツィアの情景」〜キオッジアへの恋人のかけおち
ウィーン・フィル
1945年3月

レスピーギ「ローマの松」
ウィーン・フィル
1942年8月27日

レスピーギ「ローマの噴水」
ウィーン・フィル
1945年3月

G.ヴェスターマン(1894-1963):ディヴェルティメント Op.16
ウィーン・フィル
1940年代
CD11
R.シュトラウス「ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら」 Op.28
ウィーン・フィル
1941年1月13日

ベートーヴェン:シェーナとアリア「ああ,不実な人よ」
ワーグナー「さまよえるオランダ人」〜「ゼンタのバラード」
ワーグナー「トリスタンとイゾルデ」〜「愛の二重唱」
ワーグナー「トリスタンとイゾルデ」〜「愛の死」
ワーグナー「ヴェーゼンドンク歌曲集」
キルステン・フラグスタート(ソプラノ)
セット・スヴァンホルム(テノール)
ハバナ・フィル
1948年10月24日
CD12
R.シュトラウス「ドン・ファン」Op.20
R.シュトラウス「ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら」op.28
ウィーン・フィル
1950年6月16日

R.シュトラウス「家庭交響曲」op.53
バイエルン放送交響楽団
1953年6月4日
CD13
R.シュトラウス:組曲「町人貴族」op.60
ウィーン・フィル
1929年10月28,29,31日

R.シュトラウス:組曲「町人貴族」op.60
ウィーン・フィル
1952年9月
CD14
R.シュトラウス「家庭交響曲」op.53
ウィーン・フィル
1951年9月

R.シュトラウス「死と変容」op.24
ロンドン・フィル
1947年12月18-20日
CD15
R.シュトラウス「ツァラトゥストラはかく語りき」op.30
ウィーン・フィル
1950年6月12,13日

R.シュトラウス「英雄の生涯」 Op.40
ヴィリー・ボスコフスキー(ソロ・ヴァイオリン)
ウィーン・フィル
1952年9月
CD16
R.シュトラウス「ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら」op.28
ミラノ・スカラ座管弦楽団
1947年7月23日

R.シュトラウス「サロメ」〜「7つのヴェールの踊り」
ウィーン・フィル
1942年

R.シュトラウス「ドン・キホーテ」op.35
ピエール・フルニエ(チェロ)
エルンスト・モラヴェク(ヴィオラ)
ウィーン・フィル
1953年6月
CD17
スーク:弦楽セレナーデ Op.6
ウィーン・フィル
1944-45年

R.シュトラウス:交響的幻想曲「イタリアから」 Op.16
ウィーン・フィル
1953年12月
CD18
R.シュトラウス「フランソワ・クープランのクラヴサン曲によるディヴェルティメント」op.86
バンベルク交響楽団
1954年4月

R.シュトラウス「メタモルフォーゼン」
バンベルク交響楽団
1953年1月

デュカス「魔法使いの弟子」
バンベルク交響楽団
1953年1月
CD19
エネスク:ルーマニア狂詩曲第1番 Op.11
ウィーン・フィル
1944年10-11月(1950年8月18日とされていたもの)

ストラヴィンスキー「プルチネッラ」組曲(1947年版)
ウィーン・フィル
1952年3月9日

ファリャ「三角帽子」第2組曲
ウィーン・フィル
1941年3月18日

デュカス「魔法使いの弟子」
ウィーン・フィル
1953年1月3日

ラヴェル{スペイン狂詩曲}
バイエルン放送交響楽団
1953年6月4日
CD20
モーツァルト:ヴァイオリン協奏曲第4番 K.218
ワルター・バリリ(ヴァイオリン)
ウィーン・フィル
1944年4月23日

ブラームス:ピアノ協奏曲第2番 Op.83
ヴィルヘルム・バックハウス(ピアノ)
ウィーン・フィル
1953年1月4日
CD21
ベートーヴェン:ピアノ協奏曲第5番 Op.73
ヴィルヘルム・バックハウス(ピアノ)
ウィーン・フィル
1953年5月

ベートーヴェン:ピアノ協奏曲第4番 Op.58
ヴィルヘルム・バックハウス(ピアノ)
ウィーン・フィル
1951年5月31日
CD22
ベートーヴェン「レオノーレ」序曲第3番 Op.72b
ウィーン・フィル
1954年5月22,23日

ベートーヴェン:ピアノ協奏曲第2番 Op.19
ヴィルヘルム・バックハウス(ピアノ)
ウィーン・フィル
1952年5月25,26日

A.ウール(1909-1992):クラリネットと管弦楽のための交響協奏曲
レオポルト・ウラッハ(クラリネット)
ウィーン・フィル
1944年11月3,4日

ドビュッシー:クラリネットと管弦楽のための第1狂詩曲
レオポルト・ウラッハ(クラリネット)
ウィーン・フィル
1945年3月


CD23
ヨーゼフ・シュトラウス:女の面目op.277
ヨーゼフ・シュトラウス:小さな水車 Op.57
ヨーゼフ・シュトラウス:短いことづて Op.240
J.シュトラウスU:ウィーン気質 Op.354
J.シュトラウスU:鍛冶屋のポルカop.269
J.シュトラウスU:ハンガリー万歳 Op.332
J.シュトラウスU「ジプシー男爵」序曲
J.シュトラウスU:ロシア行進曲 Op.426
J.シュトラウスU:iの上の点 Op.377
J.シュトラウスU:南国のバラ Op.388
ヨーゼフ・シュトラウス&J.シュトラウスU:ピチカート・ポルカ
J.シュトラウスU:常動曲 Op.257
ウィーン・フィル
1940年12月31日
CD24
J.シュトラウスU「こうもり」序曲
ウィーン・フィル
1950年9月

J.シュトラウスU「ジプシー男爵」序曲
ウィーン・フィル
1951年4月

J.シュトラウスU:芸術家の生涯 Op.316
J.シュトラウスU:春の声 Op.410
ウィーン・フィル
1950年6月22日

ヨーゼフ・シュトラウス:わが人生は愛と喜び Op.263
ヨーゼフ・シュトラウス:とんぼ Op.204
ヨーゼフ・シュトラウス:騎手 Op.278
J.シュトラウスU:クラップフェンの森で Op.336
J.シュトラウスU:ハンガリー万歳 Op.332
J.シュトラウスU:ウィーンの森の物語 Op.325
ヨーゼフ・シュトラウス&J.シュトラウスU:ピチカート・ポルカ
J.シュトラウスU:エジプト行進曲 Op.335
J.シュトラウスU:観光列車 Op.281
ウィーン・フィル
1951年9月
CD25
ヨーゼフ・シュトラウス:オーストリアの村つばめ Op.164
ヨーゼフ・シュトラウス:小さな水車 Op.57
ウィーン・フィル
1952年5月22日

ヨーゼフ・シュトラウス:憂いもなく Op.271
J.シュトラウスU:町と田舎 Op.322
J.シュトラウスU:狩り Op.373
ウィーン・フィル
1952年9月

J.シュトラウスU:朝刊 Op.279
ウィーン・フィル
1952年5月22日

ヨーゼフ・シュトラウス:鍛冶屋のポルカ Op.269
J.シュトラウスU「騎士パズマン」〜チャルダシュ Op.441
J.シュトラウスU:常動曲 Op.257
ウィーン・フィル
1952年9月

J.シュトラウスU:美しく青きドナウop.314
ヨーゼフ・シュトラウス:休暇旅行で Op.133
J.シュトラウスU:わが家で Op.361
ヨーゼフ・シュトラウス:天体の音楽 Op.235
J.シュトラウスU:アンネン・ポルカ Op.117
ヨーゼフ・シュトラウス:おしゃべりなかわいい口 Op.245
J.シュトラウスT:ラデツキー行進曲 Op.228
ウィーン・フィル
1953年12月18-19日
CD26
J.シュトラウスU:観光列車 Op.281
J.シュトラウスU「インディゴと四十人の盗賊」序曲
J.シュトラウスU:音の波形 Op.251
ウィーン・フィル
1944年12月30日

ヨーゼフ・シュトラウス:剣と竪琴 Op.71
ヨーゼフ・シュトラウス:ルドルフスハイムの人々 Op.152
ヨーゼフ・シュトラウス:とんぼ Op.204
ヨーゼフ・シュトラウス:休暇旅行で Op.133
ヨーゼフ・シュトラウス:休暇旅行で Op.133(アンコール)
J.シュトラウスU:我が家で Op.361
J.シュトラウスU:新ピッツィカート・ポルカ Op.449
J.シュトラウスU:新ピッツィカート・ポルカ Op.449(アンコール)
J.シュトラウスU:ハンガリー万歳 Op.332
J.シュトラウスU:ハンガリー万歳 Op.332(アンコール)
ウィーン・フィル
1953年12月31日
CD27
ヨーゼフ・シュトラウス:天体の音楽 Op.235
ヨーゼフ・シュトラウス:五月の喜び Op.182
ヨーゼフ・シュトラウス:おしゃべりなかわいい口 Op.245
ヨーゼフ・シュトラウス:おしゃべりなかわいい口 Op.245(アンコール)
J.シュトラウスU:クラップフェンの森で Op.336
J.シュトラウスU:春の声 Op.410
J.シュトラウスU:狩り Op.373
J.シュトラウスU:狩り Op.373(アンコール)
J.シュトラウスU:常動曲(無窮動) Op.257
J.シュトラウスU:美しく青きドナウ Op.314
J.シュトラウスT:ラデツキー行進曲 Op.228
ウィーン・フィル
1953年12月31日

J.シュトラウスU:「こうもり」序曲
ウィーン・フィル
1929年7月2日

J.シュトラウスU:「ジプシー男爵」〜入場行進曲
ウィーン・フィル
1929年10月9日

J.シュトラウスU:心うきうき Op.319
ウィーン・フィル
1929年10月9日

ツィーラー:ウィーン娘
ウィーン・フィル
1931年1月17日

J.シュトラウスU:常動曲 Op.257
J.シュトラウスU:アンネン・ポルカ Op.117
ウィーン・フィル
1929年7月2日
CD28
J.シュトラウスU:愛の歌
ウィーン・フィル
1931年1月29-30日

J.シュトラウスU:千夜一夜物語
ウィーン・フィル
1930年10月9日

J.シュトラウスU:朝刊 Op.279
ウィーン・フィル
1929年7月2日

J.シュトラウスU:春の声
ウィーン・フィル
1941年9月19日

J.シュトラウスU:美しく青きドナウop.314
ウィーン・フィル
1941年1月12日

ヨーゼフ・シュトラウス:天体の音楽 Op.235
ウィーン・フィル
1931年1月29-30日

ヨーゼフ・シュトラウス:鍛冶屋のポルカ Op.269
J.シュトラウスU:エジプト行進曲 Op.335
J.シュトラウスU:南国のバラ Op.388
ウィーン・フィル
1941年1月12日

J.シュトラウスU:「こうもり」序曲
ウィーン・フィル
1941年3月18日
CD29-31
モーツァルト「フィガロの結婚」(ドイツ語版)全曲
アルマヴィーヴァ伯爵:ハンス・ホッター
伯爵夫人:ヘレナ・ブラウン
スザンナ:イルマ・バイルケ
フィガロ:エーリヒ・クンツ
ケルビーノ:ゲルダ・ゾンマーシュー
バルトロ:グスタフ・ナイトリンガー
ウィーン国立歌劇場合唱団
ウィーン・フィル
1942年8月,ザルツブルク
CD32-33
ベートーヴェン「フィデリオ」全曲
フロレスタン:カール・フリードリヒ
レオノーレ: ヒルデ・コネツニ
ロッコ: ルートヴィヒ・ヴェーバー(バス)
マルツェリーネ:エリーザベト・シュヴァルツコップ
ヤキーノ:ペーター・クライン
ピツァロ: パウル・シェフラー
ウィーン国立歌劇場管弦楽団&合唱団
1947年9月24日,コヴェントガーデン王立歌劇場

ベートーヴェン:合唱幻想曲 Op.80
フリードリヒ・ヴューラー ピアノ
ウィーン・アカデミー合唱団
ウィーン交響楽団
1950年
CD34-35
ベートーヴェン「ミサ・ソレムニス」Op.123
トゥルーデ・アイッペルレ(S)
ルイーゼ・ヴィラー(A)
ユリウス・パツァーク(T)
ゲオルク・ハン(Bs)
フランツ・シュッツ(Org)
ウィーン国立歌劇場合唱団
ウィーン・フィル
1940年11月5日

ベートーヴェン「皇帝ヨーゼフ2世の死を悼むカンタータ」WoO.87
イローナ・シュタイングルーバー(S)
アルフレート・ペル
アカデミー室内合唱団
ウィーン交響楽団
1950年
CD36-37
ハイドン:オラトリオ「天地創造」全曲
トゥルーデ・アイッペルレ(S)
ユリウス・パツァーク(T)
ゲオルク・ハン(Bs)
ウィーン国立歌劇場合唱団
ウィーン・フィル
1943年3月28日

ブラームス「アルト・ラプソディ」op.53
カスリーン・フェリア(A)
ロンドン・フィルハーモニー合唱団
フレデリック・ジャクソン(合唱指揮)
ロンドン・フィル
1947年12月18-20日
CD38-39
ハイドン:オラトリオ「四季」全曲
トゥルーデ・アイッペルレ(S)
ユリウス・パツァーク(T)
ゲオルク・ハン(Bs)
ウィーン国立歌劇場合唱団
ウィーン・フィル
1942年6月
CD40
シューベルト:ミサ曲第6番 D.950
トゥルーデ・アイッペルレ(S)
ルイーゼ・ヴィラー(A)
アントン・デルモータ(T)
フーゴー・マイヤー=ヴェルフィング(T)
ゲオルク・ハン(Bs)
ウィーン国立歌劇場合唱団
ウィーン・フィル
1944年12月8-9日
CD41-42
プッチーニ「ラ・ボエーム」(ドイツ語版)全曲
ミミ:トゥルーデ・アイッペルレ
ムゼッタ:ヴィルマ・リップ
ロドルフォ:カール・テルカル
マルチェロ:アルフレート・ペル
ショナール:カール・ホッペ
コルリーネ:ハンス・ヘルマン=ニッセン
パルピニョール:カール・クライレ
ブノア:ゲオルク・ヴィーター
アルチンドロ:エミール・グラーフ
バイエルン放送合唱団
バイエルン放送交響楽団
1951年12月
CD43-44
プッチーニ「ラ・ボエーム」(ドイツ語版)全曲
ミミ:トゥルーデ・アイッペルレ
ムゼッタ:ヒルデガルト・ランチャク
ロドルフォ:アルフォンス・フューゲル
マルチェロ:カール・クローネンベルク
ショナール:ゲオルク・ハン
コルリーネ:ゲオルク・ヴィーター
パルピニョール:オット・ヒラーブラント
ブノア:カール・シュミット=ヴァルター
アルチンドロ:エミール・グラーフ
バイエルン国立歌劇場管弦楽団&合唱団
1940年12月4日

ヴェルディ「ファルスタッフ」(ドイツ語版)抜粋[43:00]
ファルスタッフ:ゲオルク・ハン
フォード:カール・クローネンベルク
アリーチェ・フォード:エステル・レティ
ナンネッタ:アデーレ・カーン
フェントン:アントン・デルモータ
カイウス:ヨーゼフ・ヴィット
クイックリー夫人:メラ・ブガリノヴィチ
メグ・ページ:エレナ・ニコライディ
バルドルフォ:ウィリアム・ヴェルニック
ピストラ:マリアン・ルス
ウィーン国立歌劇場管弦楽団&合唱団
1941年10月25日,11月4日
CD45
プッチーニ「外套」(ドイツ語版)全曲
マルセル(ミケーレ):マテュー・アーラースマイヤー
ジョルジェット:ヒルデガルト・ランチャク
ヘンリ(ルイージ):ペーター・アンダース
シュトックフィッシュ(イル・ティンカ):フーベルト・ブフタ
マウルヴルフ(イル・タルパ):ゲオルク・ヴィーター
フレットヒェン(ラ・フルゴラ):エリーザベト・ヴァルデナウ
流しの歌唄い:アイナー・クリスティアンソン
シュトゥットガルト帝国放送管弦楽団&合唱団
1938年3月23日
CD46-47
ヴェルディ「アイーダ」(ドイツ語版)全曲
アイーダ:レノーラ・ラファイエット
アムネリス:ゲオルギネ・フォン・ミリンコヴィチ
ラダメス:ヨーゼフ・ゴスティッチ
アモナスロ:フェルディナント・フランツ
ランフィス:ゴットロープ・フリック
エジプト王:ワルター・ベリー
使者:カール・オステルターク
巫女:エリーザベト・リンダーマイアー
バイエルン放送交響楽団&合唱団
1953年9月
CD48-49
R.シュトラウス「平和の日」全曲
司令官:ハンス・ホッター
マリア:ヴィオリカ・ウルズレアック
曹長:ヘルベルト・アルセン
ピエモンテ人:アントン・デルモータ
敵司令官:カール・カーマン
市長:ヴィリー・フランター
ウィーン国立歌劇場管弦楽団&合唱団
1939年6月10日

J.S.バッハ「マタイ受難曲」BWV244(抜粋)[31:54]
第6曲アリア(アルト)「懺悔と後悔の思いは」
第8曲アリア(ソプラノ)「血を流されるがよい,愛する心よ」
第20曲アリア(テノール&合唱)「私はイエスのそばで目覚めていよう」
第42曲アリア(バス)「私にイエスを返してくれ」
第62曲コラール(合唱)「いつしか私がこの世に別れを告げるとき」
第63a曲レチタティーヴォ(テノール)「そのとき,神殿の垂れ幕が」
第63b曲合唱「本当にこの人は神の子だった」
第68曲合唱「私たちは涙してひざまつき」
トゥルーデ・アイッペルレ(S)
マルガレーテ・クローゼ(A)
ユリウス・パツァーク(T)
ルートヴィヒ・ウェーバー(Bs)
ウィーン国立歌劇場合唱団
ウィーン・フィル
1944年4月3日
CD50-51
R.シュトラウス「ナクソス島のアリアドネ」全曲
ツェルビネッタ:エルナ・ベルガー
アリアドネ:ヴィオリカ・ウルズレアック
バッカス:ヘルゲ・ロスヴェンゲ
ナヤーデ(水の精):ミリツィア・コリウス
ドリアーデ(木の精):ゲルトルーデ・リュンガー
エコー(やまびこ):イロンカ・ホルンドナー
ハルレキン:カール・ハンメス
スカラムッチョ:ベンノ・アルノルト
トゥルファルディン:オイゲン・フックス
ブリゲッラ:エーリヒ・ツィンマーマン
シュトゥットガルト帝国放送管弦楽団
1935年6月11日
CD52-53
R.シュトラウス「アラベラ」全曲
ヴァルトナー伯爵:テオ・ヘルマン
アデライーデ:ルイーゼ・ヴィラー
アラベラ:ヴィオリカ・ウルズレアック
ズデンカ:トゥルーデ・アイッペルレ
マンドリーカ:ハンス・ラインマール
マッテオ:ホルスト・タウプマン
エレメール伯爵:フランツ・クラールヴァイン
ドミニク伯爵:オード・リュップ
ラモラル伯爵:アルフレート・ペル
フィアカーミリ:エルゼ・ベットヒャー
女占い師:ルート・ミヒャエリス
ヴェルコ:ウィリアム・ヴェルニック
ドューラ:エマヌエル・ハラー
ヤンケル:ヴィクトル・マイヴァルト
給仕:エミール・グラーフ
ウィーン国立歌劇場合唱団
ウィーン・フィル
1942年8月9日,ザルツブルク
CD54-56
R.シュトラウス「ばらの騎士」全曲
元帥夫人:ヴィオリカ・ウルズレアック
オクタヴィアン:ゲオルギーネ・フォン・ミリンコヴィチ
オックス男爵:ルートヴィヒ・ヴェーバー
ゾフィー:アデーレ・カーン
ファニナル:ゲオルク・ハン
マリアンネ:ゲルトルート・リードナー
アンニーナ:ルイーゼ・ヴィラー
ヴァルツァッキ:ヨシー・トロヤーン=レガール
宿屋の主人:ヴァルター・カルヌート
歌手:フランツ・クラールヴァイン
公証人:テオ・ロイター
警部:ゲオルク・ヴィーター
バイエルン国立歌劇場管弦楽団&合唱団
1942年6月
CD57
R.シュトラウス:歌曲「マドリガル」Op.15/1
R.シュトラウス:歌曲「悲しみの歌から」Op.15/4
R.シュトラウス:歌曲「苦悩への賛歌」Op.15/3
R.シュトラウス:歌曲「あなたの瞳が私を見て」Op.17/1
R.シュトラウス:歌曲「お母さんの自慢の種」Op.43/2
R.シュトラウス:歌曲「盲目の嘆き」Op.56/2
R.シュトラウス:歌曲「15ペニヒで」Op.36/2
R.シュトラウス:歌曲「あなたが私のものならば」Op.26/2
ヴィオリカ・ウルズレアック(S)
クレメンス・クラウス(Pf)
1952年8月

R.シュトラウス「アラベラ」抜粋[17:24]
ヴァルトナー伯爵:リヒャルト・マイール
アデライーデ:ゲルトルーデ・リュンガー
アラベラ:ヴィオリカ・ウルズレアック
ズデンカ:マルギット・ボコル
マンドリーカ:アルフレート・ヤーガー
フィアカーミリ:アデーレ・カーン
ウィーン国立歌劇場管弦楽団&合唱団
1933年10月29日

R.シュトラウス「カプリッチョ」〜間奏曲
バイエルン放送交響楽団
1953年

R.シュトラウス「ばらの騎士」〜ワルツ
バンベルク交響楽団
1953年
CD58-60
R.シュトラウス「ダナエの愛」全曲
ユピテル:パウル・シェフラー
メルクール:ヨーゼフ・トラクセル
ポルクス:ラースロー・セメレ
ダナエ:アンネリース・クッパー
クサンテ:アニー・フェルバーマイヤー
ミダス:ヨーゼフ・ゴスティチ
ゼメレ:ドロテア・ジーベルト
オイローパ:エステル・レティ
アルクメーネ:ゲオルギーネ・フォン・ミリンコヴィチ
レダ:ジークリンデ・ワーグナー
ウィーン国立歌劇場合唱団
ウィーン・フィル
1952年8月14日,ザルツブルク
CD61-63
R.シュトラウス「ばらの騎士」全曲
元帥夫人:マリア・ライニング
オクタヴィアン:リーザ・デラ・カーザ
オックス男爵:クルト・ベーメ
ゾフィー:ヒルデ・ギューデン
歌手:カール・テルカル
ファニナル:アルフレート・ペル
アンニーナ:ジークリンデ・ワーグナー
ヴァルツァッキ:ラースロー・セメレ
公証人:オスカー・チェルヴェンカ
宿屋の主人:アウグスト・ヤレシュ
マリアンネ:ユーディト・ヘルヴィヒ
警部:フランツ・ビアバッハ
ウィーン国立歌劇場合唱団
ウィーン・フィル
1953年7月28日,ザルツブルク
CD64-65
R.シュトラウス「カプリッチョ」全曲
伯爵夫人マドレーヌ:ヴィオリカ・ウルズレアック
伯爵:カール・シュミット=ヴァルター
フラマン:ルドルフ・ショック
オリヴィエ:ハンス・ブラウン
ラ・ロシュ:ハンス・ホッター
クレロン:ヘルタ・テッパー
トープ氏:エミール・グラーフ
イタリア人女声歌手:イルゼ・ホルヴェーク
イタリア人テノール歌手:ラトコ・デロルコ
家令:ゲオルク・ヴィーター
バイエルン放送交響楽団
1953年1月
CD66
R.シュトラウス「カプリッチョ」抜粋[65:31]
伯爵夫人マドレーヌ:ヴィオリカ・ウルズレアック
フラマン:フランツ・クラールヴァイン
オリヴィエ:ハンス・ホッター(トラック2),カール・クローネンベルク(トラック3,4)
ラ・ロシュ:ゲオルク・ハン
家令:ゲオルク・ヴィーター
バイエルン国立歌劇場管弦楽団
1942年11月11,16日
CD67-68
R.シュトラウス「サロメ」全曲
サロメ:クリステル・ゴルツ
ヨハナーン:ハンス・ブラウン
ヘロデ王:ユリウス・パツァーク
ヘロディアス:マルガレータ・ケニー
ナラボート:アントン・デルモータ
ヘロディアスの小姓:エルゼ・シュアホフ
第1のユダヤ人:ルドルフ・クリスト
第2のユダヤ人:フーゴ・マイヤー=ヴェルフィング
第3のユダヤ人:クルト・プレガー
第4のユダヤ人:マレイ・ディッキー
第5のユダヤ人:フランツ・ビアバッハ
第1のナザレ人:ルートヴィヒ・ヴェーバー
第2のナザレ人:ハラルト・プレグルヘフ
第1の兵士:ヴァルター・ベリー
第2の兵士:ヘルベルト・アルセン
カパドキア人:リュボミール・パンチェフ
奴隷:ヘルマン・ガロス
ウィーン・フィル
1954年3月15-21日
CD69-70
R.シュトラウス「サロメ」全曲
サロメ:マリア・チェボターリ
ヨハナーン:マルコ・ロートミュラー
ヘロデ王:ユリウス・パツァーク
ヘロディアス:エリーザベト・ヘンゲン
ナラボート:カール・フリードリヒ
ヘロディアスの小姓:ダグマー・ヘルマン
第1のユダヤ人:ペーター・クライン
第2のユダヤ人:ウィリアム・ワーニック
第3のユダヤ人:マクシミリアン・ヴィリムスキー
第4のユダヤ人:エルヴィン・ノヴァロ
第5のユダヤ人:リュボミール・パンチェフ
第1のナザレ人:ルートヴィヒ・ヴェーバー
第2のナザレ人:ハンス・シュヴィーガー
第1の兵士:ヴィルヘルム・フェルデン
第2の兵士:ハンス・ブラウン
カパドキア人:アルフレート・ムッツァレッリ
奴隷:エーリヒ・マイクート
ウィーン国立歌劇場管弦楽団
1947年9月30日,ロンドン,コヴェントガーデン王立歌劇場

R.シュトラウス「影の無い女」抜粋[11:19]
皇帝:フランツ・フェルカー
皇后:ヴィオリカ・ウルズレアック
乳母:ゲルトルーデ・リュンガー
ウィーン国立歌劇場管弦楽団&合唱団
1933年6月1日

ヴェルディ「ドン・カルロ」抜粋[21:03]
フィリッポ:ヨーゼフ・フォン・マノヴァルダ
ポーサ:エミール・シッパー
大審問官:アルフレート・ヤーガー
エリザベッタ:ヴィオリカ・ウルズレアック
エボリ公女:ゲルトルーデ・リュンガー
ウィーン国立歌劇場管弦楽団
1933年2月25日

ヴェルディ「オテロ」抜粋[11:44]
オテロ:フランツ・フェルカー
デズデーモナ:ヴィオリカ・ウルズレアック
イアーゴ:ヨーゼフ・フォン・マノヴァルダ
ウィーン国立歌劇場管弦楽団
1933年12月15日
CD71-72
J.シュトラウスU「こうもり」全曲
アイゼンシュタイン:ユリウス・パツァーク
ロザリンデ:ヒルデ・ギューデン
ファルケ博士:アルフレート・ペル
アデーレ:ヴィルマ・リップ
オルロフスキー公爵:ジークリンデ・ワーグナー
フランク:クルト・プレガー
アルフレード:アントン・デルモータ
ブリント博士:アウグスト・ヤレシュ
ウィーン国立歌劇場合唱団
ウィーン・フィル
1950年9月16-22日
CD73-74
J.シュトラウスU「ジプシー男爵」全曲
ホモナイ伯爵:アルフレート・ペル
カルネロ伯爵:カール・デンヒ
シャンドール・バリンカイ:ユリウス・パツァーク
カールマン・ジュパン:クルト・プレガー
アルゼーナ:エミー・ローゼ
ミラベッラ:ステッフィ・レヴェレンツ
オットカール:アウグスト・ヤレシュ
ツイプラ:ロゼッテ・アンダイ
ザッフィ:ヒルデ・ツァデク
パリ:フランツ・ビアバッハ
ウィーン国立歌劇場合唱団
ウィーン・フィル
1951年4月

ワーグナー「ワルキューレ」抜粋[12:26]
ジークムント:フランツ・フェルカー
ジークリンデ:ヴィオリカ・ウルズレアック
フンディング:リヒャルト・マイール
ウィーン国立歌劇場管弦楽団
1933年3月1日,1934年11月1日

ワーグナー「神々の黄昏」抜粋[13:47]
ハーゲン:ヨーゼフ・フォン・マノヴァルダ
グンター:エミール・シッパー
第1のノルン:エニード・サーントー
第2のノルン:ロゼッテ・アンダイ
第3のノルン:ゲルトルーデ・リュンガー
ウィーン国立歌劇場管弦楽団&合唱団
1934年11月19日
CD75-76
ワーグナー「さまよえるオランダ人」全曲
オランダ人:ハンス・ホッター
ダーラント:ゲオルク・ハン
ゼンタ:ヴィオリカ・ウルズレアック
マリー:ルイーゼ・ヴィラー
カール・オスターターク
水夫:フランツ・クラールヴァイン
バイエルン国立歌劇場管弦楽団&合唱団
1944年3月
CD77-78
ワーグナー「ラインの黄金」全曲
ヴォータン:ハンス・ホッター
ドンナー:ヘルマン・ウーデ
フロー:ゲルハルト・シュトルツェ
ローゲ:エーリッヒ・ヴィッテ
フリッカ:イーラ・マラニウク
フライア:ブルニ・ファルコン
エルダ:マリア・フォン・イロスファイ
アルベリッヒ:グスタフ・ナイトリンガー
ミーメ:パウル・クーエン
ファゾルト:ルートヴィヒ・ヴェーバー
ファフナー:ヨーゼフ・グラインドル
ヴォークリンデ:エリカ・ツィンマーマン
ヴェルグンデ:ヘティ・プリュマッハー
フロースヒルデ:ギゼラ・リッツ
バイロイト祝祭管弦楽団
1953年8月8日
CD79-81
ワーグナー「ワルキューレ」全曲
ジークムント:ラモン・ヴィナイ
フンディング:ヨーゼフ・グラインドル
ヴォータン:ハンス・ホッター
ジークリンデ:レジーナ・レズニック
ブリュンヒルデ:アストリッド・ヴァルナイ
フリッカ:イーラ・マラニウク
ゲルヒルデ:ブリュンヒルト・フリーラント
オルトリンデ:ブルニ・ファルコン
ヴァルトラウテ:リーゼ・ゾレル
シュヴェルトライテ:マリア・フォン・イロスファイ
ヘルムヴィーゲ:リゼロッテ・トーマミュラー
ジークルーネ:ギゼラ・リッツ
グリムゲルデ:シビラ・プラーテ
ロスヴァイゼ:エリカ・シューベルト
バイロイト祝祭管弦楽団
1953年8月9日
CD82-85
ワーグナー「ジークフリート」全曲
ジークフリート:ヴォルフガング・ヴィントガッセン
ミーメ:パウル・クーエン
さすらい人:ハンス・ホッター
アルベリッヒ:グスタフ・ナイトリンガー
ファフナー:ヨーゼフ・グラインドル
エルダ:マリア・フォン・イロスファイ
ブリュンヒルデ:アストリッド・ヴァルナイ
森の小鳥:リタ・シュトライヒ
バイロイト祝祭管弦楽団
1953年8月10日
CD86-89
ワーグナー「神々の黄昏」全曲
ジークフリート:ヴォルフガング・ヴィントガッセン
グンター:ヘルマン・ウーデ
アルベリッヒ:グスタフ・ナイトリンガー
ハーゲン:ヨーゼフ・グラインドル
ブリュンヒルデ:アストリッド・ヴァルナイ
グートルーネ:ナタリー・ヒンシュ=グレンダール
フリッカ:イーラ・マラニウク
第1のノルン:マリア・フォン・イロスファイ
第2のノルン:イーラ・マラニウク
第3のノルン:レジーナ・レズニック
ヴォークリンデ:エリカ・ツィンマーマン
ヴェルグンデ:ヘティ・プリュマッハー
フロースヒルデ:ギゼラ・リッツ
バイロイト祝祭合唱団
ヴィルヘルム・ピッツ(合唱指揮)
バイロイト祝祭管弦楽団
1953年8月12日
CD90-93
ワーグナー「パルジファル」全曲
パルシファル:ラモン・ヴィナイ
クンドリー:マルタ・メードル
グルネマンツ:ルートヴィヒ・ヴェーバー
アンフォルタス:ジョージ・ロンドン
ティトゥレル:ヨーゼフ・グラインドル
クリングゾール:ヘルマン・ウーデ
第1の聖杯騎士:ユージン・トビン
第2の聖杯騎士:テオ・アダム
第1の小姓:ヘティ・プリマッハー
第2の小姓:ギゼラ・リッツ
第3の小姓:フーゴー・クラッツ
第4の小姓:ゲルハルト・シュトルツェ
花の乙女:リタ・シュトライヒ
花の乙女:エリカ・ツィンマーマン
花の乙女:ヘティ・プリュマッハー
花の乙女:アンナ・タッソプーロス
花の乙女:ゲルダ・ヴィスマー
花の乙女:ギゼラ・リッツ
アルト:マリア・フォン・イロスファイ
バイロイト祝祭合唱団
ヴィルヘルム・ピッツ(合唱指揮)
バイロイト祝祭管弦楽団
1953年7&8月
CD94-95
ワーグナー「ラインの黄金」抜粋[13:01]
ヴォータン:ヨーゼフ・フォン・マノヴァルダ
ドンナー:ヴィクトル・マディン
フロー:グンナル・グラールード
ローゲ:ヨーゼフ・カレンベルク
フリッカ:ベラ・パーレン
フライア:ヴィオリカ・ウルズレアック
アルベリヒ:ヘルマン・ヴィーデマン
ミーメ・エーリヒ・ツィンマーマン
ファゾルト:フランツ・マルクホフ
ヴォークリンデ:ルイーゼ・ヘレツグルーバー
ヴェルグンデ:ドラ・ヴィート
フロースヒルデ:エニード・サーントー
ウィーン国立歌劇場管弦楽団
1933年2月28日

ワーグナー「ワルキューレ」抜粋[47:01]
ジークムント:フランツ・フェルカー
フンディング:リヒャルト・マイール
ヴォータン:フリードリヒ・ショル
ジークリンデ:ヴィオリカ・ウルズレアック
ブリュンヒルデ:マリア・イェリッツァ
ヴァルトラウテ:ロゼッテ・アンダイ
ゲルヒルト:エヴァ・ハドラボヴァー
オルトリンデ:マルギット・ボコル
シュヴェルトライテ:エニード・サーントー
ヘルムヴィーゲ:ルイーゼ・ヘレツグルーバー
ジークルーネ:アエンネ・ミハルスキー
グリムゲルデ:ベラ・パーレン
ロスヴァイセ:ドラ・ヴィート
ウィーン国立歌劇場管弦楽団
1933年6月11日

ワーグナー「神々の黄昏」抜粋[31:01]
ジークフリート:ヨーゼフ・カレンベルク
グンター:エミール・シッパー
ハーゲン:ヨーゼフ・フォン・マノヴァルダ
ブリュンヒルデ:ヘニー・トゥルント
ヴァルトラウテ:ロゼッテ・アンダイ
第1のノルン:エニード・サーントー
第2のノルン:ロゼッテ・アンダイ
第3のノルン:エヴァ・ハドラボヴァー
ウィーン国立歌劇場管弦楽団
1933年3月7日

ワーグナー「ニュルンベルクのマイスタージンガー」抜粋[17:14]
ハンス・ザックス:ルドルフ・ボッケルマン
ヴァルター・フォン・シュトルツィング:ヨーゼフ・カレンベルク
エヴァ:ヴィオリカ・ウルズレアック
ベックメッサー:ヘルマン・ヴィーデマン
ポーグナー:ニコラウス・ゼック
ダーヴィト:エーリヒ・ツィンマーマン
マグダレーネ:ゲルトルーデ・リュンガー
コートナー:ヴィクトル・マディン
フォーゲルゲザング:ゲオルク・マイクル
ナハティガル:ハンス・ドゥーハン
ツォルン:アントン・アルノルト
アイスリンガー:ヘル・ヴォルケン
モーザー:リヒャルト・トメク
オルテル:アルフレート・ムッツァレッリ
シュヴァルツ:ヘルマン・ライヒ
フォルツ:カール・エットル
ウィーン国立歌劇場管弦楽団&合唱団
1933年1月20日

ワーグナー「パルジファル」抜粋[32:33]
アンフォルタス:エミール・シッパー
グルネマンツ:ヨゼフ・フォン・マノヴァルダ
パルジファル:グンナル・グラールード
クリングゾール:ヘルマン・ヴィーデマン
クンドリー:ゲルトルーデ・リュンガー
ウィーン国立歌劇場管弦楽団&合唱団
1933年4月13日
CD96-97
ワーグナー「トリスタンとイゾルデ」〜前奏曲
ロンドン・フィル
1949年1月10日

ワーグナー「パルジファル」〜聖金曜日の音楽
ロンドン・フィル
1949年1月11日

プフィッツナー:カンタータ「ドイツ精神について」op.28
トゥルーデ・アイッペルレ(S)
ルイーゼ・ヴィラー(A)
ユリウス・パツァーク(T)
ルートヴィヒ・ヴェーバー (Bs)
フランツ・シュッツ(Org)
ウィーン国立歌劇場合唱団
ウィーン・フィル
1945年1月

クレメンス・クラウス(指揮)

ユーザーレビュー

総合評価

★
★
★
★
★

5.0

★
★
★
★
★
 
2
★
★
★
★
☆
 
0
★
★
★
☆
☆
 
0
★
★
☆
☆
☆
 
0
★
☆
☆
☆
☆
 
0
★
★
★
★
★
クレメンス・クラウスは19世紀生まれのウィ...

投稿日:2023/03/03 (金)

クレメンス・クラウスは19世紀生まれのウィーン出身の指揮者で、最後のウィーンの巨匠と言われた人物である。 こんにちでも人気のある指揮者の1人であり、CDも出回っているが、意外とその録音を網羅したアルバムはない。 本CDは復刻系レーベルVeniasから出たこのCDは今まで出たCD音源のほとんどを収録している。 前半は管弦楽曲と協奏曲を、中間部はクラウスの重要なレパートリーであったヨハン・シュトラウスとその周辺の作曲家、後半は声楽曲と歌劇を収録している。 オケは長年パートナーだった、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団が大半を占めているが、ウィーン交響楽団やバンベルク交響楽団、バイエルン放送交響楽団の他、客演したブレーメン国立フィルハーモニー管弦楽団やハバナ・フィルハーモニー管弦楽団との録音もある。 演奏も名盤と言われた演奏も多く個人的にはシュトラウスのワルツが絶品でおすすめ。 また既に廃盤となって久しい音源も多数あるのが嬉しい。 とはいえSP時代に録音されたオーケストラの小品など収録されていない音源もあり、それらも全て収録して欲しかったところである。 音質は1950年代のデッカ音源等は充分な水準だが、戦前やキューバでの客演録音等はやはり良くはないので、そこは覚悟した方が良いと思う。 またVeniasレーベルの他のCDに比べて製盤が甘かったのか読み込みエラーや、音飛びがよく起きる(但し毎回ではない)ディスクがあり、ネット上で調べてみると、他の購入者も同様の症状が起きてるようなので、そこも覚悟した方が良いだろう。 しかしやはりこれだけの音源が安くで手に入るというのは魅力的。 興味があれば買ってみるのをおすすめする。

レインボー さん | 不明 | 不明

2
★
★
★
★
★
三年ほど迷ったうえで大幅安となったところ...

投稿日:2022/02/11 (金)

三年ほど迷ったうえで大幅安となったところでゲットしたら、案の定、売り切れちゃいました。ごめんなさい。古き良き時代の演奏のなかでも、比較的洗練されていたと思います。

せごびあ さん | 愛知県 | 不明

1

おすすめの商品

この商品が登録されてる公開中の欲しい物リスト