基本情報
商品説明
オッテルローの芸術(24CD)
ウィレム・ファン・オッテルローは、驚異的な耳の良さと記憶力で知られたオランダの指揮者。楽譜情報の音化にかける情熱には凄いものがあり、たとえば『ラコッツィー行進曲』(CD17)だけ聴いても、その能力の高さは歴然。そのまま放置された音はひとつもなく、どのフレーズも正確なイントネーションで聴こえてくるさまは驚くばかり。ジョージ・セルも真っ青の統率力です。
オッテルローは自身が作曲家でもあったせいか、20世紀音楽、特にオランダ音楽に対する強い使命感のようなものも持っており、生涯に渡って「不人気な音楽」にこだわり続けてもいました。
そうした「自分への正直さ」は、リハーサルの厳しさにも直結し、オーケストラともしばしば衝突、さらにプライヴェートでも自分の欲望に正直すぎ、スピード狂や多趣味に加え、女性とのスキャンダルもまったく恐れずに生活するという徹底ぶりでした。
そのどこまでも「自分に正直」な人生のスタイルは、ときに軽率な行動や舌禍も招き、商業ベースにもうまく乗り切れずに終わってしまった感がありますが、Philips初期には中心的なアーティストでもあり、トータルで150万枚以上のLPセールスを記録していたということなので、遺された音源もそれなりの規模はあります。
今回登場するボックスセットは、オッテルローが1950年代と1960年代に録音した音源からのコレクションで、さまざまなレパートリーをCD24枚分楽しめる内容となっています。
耳と記憶力
ドイツの指揮者、ゲルト・アルブレヒト[1935-2014]はオッテルローについてこう語っています。
「オッテルローは非常に頭が良く、すべての指揮者の中で最高の耳をした偉大な音楽家でした。ロスバウトもブーレーズも良い耳を持っていましたが、オッテルローは彼らを凌駕していました。」
「オッテルローはオーケストラのトレーナーとして、並外れた資質を持っていました。彼のリーダーシップのもと、レジデンティ管弦楽団は、オランダで最高のオーケストラとなり、当時はコンセルトヘボウ管弦楽団よりうまかったです。」
アルブレヒトはまた、具体的なエピソードも交えてこのようなことも言っています。
「理科系が勝ったタイプは構築的に聴くことがたいへんに優れています。たとえば私はオランダのウィレム・ファン・オッテルローのもとでマスターコースに参加したことがあります。彼は学生が演奏した8つのホルンと6つのトランペットによるベルリオーズの和音を聴いてこう言うことができました。"第二ホルン、ちょっと高いよ!" そしてその指摘は正しかった! 私がベルリンで何度か体験したカラヤンはこういうことはできませんでした。彼は音色を徹底して聰く人でした。思い出すのは、彼がフルーティストのオーレル・ニコレの演奏を止めて"BからAsに移ったら急に音色が変わりますね!" と言ったことです。音色に留意するタイプはたいてい文科系タイプです。私はというと完全に文科系で音色重視のタイプです。このことを早くに知った私は、音楽の構造を聴くことにも熱心に取り組み、克服に務めました。」
自分に正直
戦争や大恐慌といった困難な時期を経験したオッテルローですが、その音楽や人生のエピソードには、悲壮感は感じられません。
ピアノとチェロのほか、ジャズが好きだったことからサックスも演奏したオッテルローは、なによりも魅力的な女性が大好きで、子煩悩で、美食家で、動物愛好家で、自動車マニアで高速運転が得意で、鉄道模型マニアで、絵画コレクターで、さらに現像もプリントもこなすアマチュア・カメラマンで...といった具合に、好きなことには、なりふり構わず取り組み、そして果敢に飛び込んでいった人物でもあります。
その70年の人生は、知り得るエピソードだけで判断しても実にユニーク。たとえばオッテルローは、鳥を異常なものとして描いたヒッチコックの『鳥』を、家族と映画館で見た際、ため息をついて途中で席をたってしまうほどの動物好きですが、一方で、オーケストラ・リハーサルでは血も涙もないきびしさで楽員に迫っていたという具合です。
スピード狂
父のオランダ車スパイカーに始まり、プジョー、シトロエン、ポンティアック、ポルシェ、メルセデス、ジャガー、ローヴァーなどと乗りまわしていたオッテルローは、運転技術も磨き抜かれており、コンサートホールに自分の運転で来るとき、途中で追い越した台数が少ないとリハーサルが不機嫌になるという冗談が語られるほどでした。
また、高速道路では時速180kmを超すスピードを出すこともあったというオッテルローは、ハーグから1,000km以上離れたウィーンにもよく自分の運転で出かけて仕事をこなしており、さらに、ツアーなどで楽員たちがバスや列車で移動するときは自分は車で高速移動して現地に先に到着して待っているということも常態化。技術・集中力だけでなく、体力にもかなり恵まれていたようです。お気に入りは青のポルシェ911(↓)でした。
鉄道模型
父親が鉄道会社に勤めていた影響もあって、オッテルローは子供の時から鉄道が好きでしたが、指揮者として成功し収入が増えると、自宅の広い屋根裏部屋で本格的に鉄道模型(メルクリンHOゲージ)をジオラマ展開。配線やレールの設置なども自分ですべておこない、5系統の列車を運用する本格的なものでした(↓)。しかし、そのスペースも、オッテルローが写真にのめりこむようになると、現像・プリント用の暗室として使われるようになってしまいます。
写真
1955年秋、南アフリカ各地に客演した際、カメラの輸入業者と知りあい、まずムーヴィー関連機器を紹介されて購入、動物好きでもあったことからさっそくクルーガー国立公園で撮影したりしますが、時間と手間がかかりすぎることもあって、スチルカメラの方に惹かれ、ハッセルブラッド、リンホフ、ライカM3などを購入し、暇を見て自然や風景、人間などを撮影するようになります。
やがて屋根裏部屋をラボとして暗室を設置(↓)、現像とプリントも自分でおこなう本格派となり、息子のクリス[1950- ]も助手として参加するなどしていました。
美術愛好家
写真で視覚芸術にはまったオッテルローは、もともと好きだった美術品にものめりこむようになり、画商のピーター・シェーン[1916-2003](↓)らと交流、オランダ黄金時代や、ハーグ派の絵画を購入したほか、さまざまな作品が入れ替わりで家に飾られるようになります。写真と同じく、これらの絵画は息子クリスに影響を与え、クリスは画家を目指して1970年からライデン大学で美術を専攻。また、7回に渡って日本に客演滞在した父の影響もあって、卒業後は京都大学大学院で日本文化を研究した後、版画に魅了され、版画家、田中良平[1933- ]に1975年から1978年まで弟子入り。やがて、版画家、美術顧問、美術史家、学芸員、美術講師として働くようになります。
女性
魅力的な女性に出会うと、自分を抑えられなくなることも多かったオッテルローは、生涯に5回結婚し、その間、妻以外の女性とも数多く交際していました。本人はそうした女性たちを「友達」と考えてオープンにしており、それが原因で、夫婦仲にはときおり亀裂が入り、離婚の原因ともなっていたようです。ちなみに最後の妻である若いドイツ人女性との出会いは日本でした。
1969年秋、オッテルローは、読売日本交響楽団に客演するために来日し、2か月以上もの間、ホテル・ニューオータニに1人で宿泊していました。仕事と余暇を楽しんでいたある日、ホテルのバーで隣に座ったパンアメリカン航空の客室乗務員がドイツ語に訳されたフランス文学を読んでいたので気になり、なぜアメリカの客室乗務員がフランス文学をドイツ語で読むのか尋ねたところ、その客室乗務員がカローラ・ルーデヴィヒ(↓)というサンフランシスコに暮らすドイツ人で、もともとフランス文学が好きで、それを得意なドイツ語で読んでいたことが判明。アンカレッジと東京を結ぶシャトル便の客室乗務員であるカローラは、常宿がニューオータニということで再び会うことになり、自分より25歳も若い彼女に惚れてしまったオッテルローは、東京での最後の公演日、ニューオータニから厚生年金会館まで彼女とリムジンに同乗、チャイコフスキーの交響曲第4番を熱烈に鳴り響かせるというなんとも壮大な求愛によって、カローラの心を射止めています。
たび重なる離婚と、多くの子供がいたおかげで、慰謝料・養育費は多額で、さらに金のかかる趣味が多かったことから、オッテルローは報酬にもこだわらざるをえず、役職オケでの出演回数の調整や、客演オケでの交渉などなかなか大変だったようです。もっとも、13人の婚外子まで養育していたフルトヴェングラーに較べればだいぶマシとは考えられますが。
20世紀音楽
自身が作曲家(↓)でもあったオッテルローは、コンサート・レパートリーに同時代音楽やオランダの音楽は欠かせないという考えで、たとえばレジデンティ管弦楽団の演奏会プログラムにおけるオランダ音楽占有率は約15%、20世紀音楽というくくりで見るとその占有率は約20%となっていました。オランダ音楽に熱心に取り組んでいたコンセルトヘボウ管弦楽団でさえ占有率が約7%だったことを考えると異常とも思える数字ですが、オッテルローは、通常作品に現代作品を挟み込むサンドイッチ方式によって、こうした方針を生涯貫いていました。
結果的に商業レーベルからは敬遠される事態を招いたりもしていましたが、海外でも、機会があればオランダ作品を紹介しようとしていたその姿勢は立派でした。
リハーサル
オーケストラのチェロ奏者からスタートし、チェロ奏者兼指揮者という特殊な立場で何年も指揮していたオッテルローは、指揮する際、同僚たちの一部から指揮者として尊重されずに妨害を受けて苦労した経験から、正指揮者となってからは、職務に遅滞や混乱の起きないよう、楽員と距離を置くようにしていました。
相手が手兵のオーケストラであっても客演オーケストラであっても、その技術に徹底するリハーサルは一貫しており、楽器ごとにグループ分けしてイントネーションとリズム、音程を追求し、そのえうで全体のバランスを調整する方法で、きちんと演奏できない楽員に対しては対応もきびしく、かなりの確率でリハーサルは快適なものとなっていませんでした。
オーケストラに公的資金の入るオランダでは、楽員の入れ替えは簡単にはいかず、オッテルローは、ジョージ・セルが大幅に楽員を入れ替えてクリーヴランド管弦楽団のレヴェルを一気に引き上げたことを非常に羨んでもいました。
【年表】
1880〜90年代
●オランダ中部ユトレヒト生まれのオッテルローの父、ウィリアム・フレデリク・ファン・オッテルロー[1869-1936]は、オランダ人入植者たちの暮らすトランスファール共和国(現南アフリカ北東部)で、オランダとドイツの投資家によって設立された「ネーデルラント・南アフリカ鉄道会社」(↓)に職を得て、18歳からカッフェル村の駅長を務めていました。1日1本しか列車の来ない駅での駅長勤務でしたが、イギリスとの政情不安もあり帰国。ホラント鉄道(現オランダ国鉄)の職員となります。
1906年
●11月6日、趣味でピアノを弾くオッテルローの父と、オランダ中部アペルドールン生まれのアンナ・カタリナ・エンデレ[1879-1963](↓)が結婚。アンナは宮廷音楽家・教会音楽家・音楽教師の家系で、声楽・ピアノを学んでいました。
1907年(0歳)
●12月27日、ヤン・ウィリアム・ファン・オッテルロー(ウィレム・ファン・オッテルロー)、オランダのウィンタースウェイクで誕生。
ウィンタースウェイクはオランダ東部、ドイツに隣接した国境の町で、オッテルローは同地で11年間を過ごしています。小学校ではオッテルローだけが革靴、ほかの生徒は全員木靴でした。
1914年(7歳)
◆第1次世界大戦勃発。オランダは中立を宣言。
1915年(8歳)
●オッテルロー、母からのピアノ・レッスンが本格化。
1918年(11歳)
●9月13日、アムステルダム近郊のウェースプで鉄道事故発生(↓)。死者41人、負傷者42人という、鉄道王国オランダでも有数の悲惨な事故でした。オッテルローの父も乗車しており、足に大怪我を負い、生涯、杖が手放せない体になってしまいます。
●オッテルロー家、転居。父の部長昇進に伴う転勤により、ユトレヒト中心部のスコールプレインへ。
◆11月、ドイツ皇帝、ヴィルヘルム2世、オランダへ亡命。
1922年(15歳)
●ユトレヒト市立管弦楽団
オッテルロー、ユトレヒトの文化施設「ティフォリ」のホールで開催されるユトレヒト市立管弦楽団のコンサートに頻繁に通うようになります。きっかけはこの年に首席指揮者に就任したエフェルト・コルネリス[1884-1931](↓)でした。コルネリスは1909年にメンゲルベルクに認められてコンセルトヘボウ管弦楽団の第2指揮者として契約、10年間在籍していましたが、最後は同楽団の内紛に巻き込まれ、メンゲルベルクからも敵対されて解雇。メンゲルベルクはほどなく戦勝国アメリカのニューヨーク・フィル音楽監督も兼務するようになり、戦勝国フランスのモントゥーをコンセルトヘボウ管弦楽団の共同指揮者として迎えるなど、レパートリーだけでなく人事面でも戦勝あやかり路線が敷かれて行きます。
コルネリスは、コンセルトヘボウ管弦楽団解雇後しばらくは室内楽や合唱指揮などをこなし、1922年にユトレヒト市立管弦楽団の首席指揮者に就任。マタイ受難曲やメサイアを含むバロック作品から、ミヨー、オネゲルら現代作品まで、編成も内容も様々なコンサートを数多く開催、オッテルローも大いに刺激を受けることになります。
ちなみにコルネリス着任直前のユトレヒト市立管弦楽団は、ドイツ系レパートリーを推す首席指揮者、ヤン・ファン・ヒルセ[1881-1944]とフランス系レパートリーを推す運営陣が対立して内紛状態が続き、最終的にヒルセが解雇されていました。
オランダは第1次大戦のときに中立の立場でしたが、現実には英仏とドイツの板挟みとなり、両陣営から脅されるなどして理不尽な判断を強いられ、貿易も破綻寸前に追い込まれるなど苦しい展開が続いていました。そうした混乱が政治や経済だけでなくオーケストラにまで影響を及ぼしていたのかもしれません。
なお、ユトレヒト市立管弦楽団は、1946年からユトレヒト交響楽団と改名、1985年からはアムステルダム・フィル他と合併してネーデルラント・フィルとなり、本拠地もアムステルダムに移しています。
その他、オッテルロー少年時代のティフォリ体験では、ラフマニノフのピアノ協奏曲第2番を作曲者とメンゲルベルク指揮コンセルトヘボウ管弦楽団の共演で聴いたことが感銘深かったということです。
こうしたユトレヒトの音楽環境の中で、オッテルローは、ハイドン、モーツァルト、ベルリオース、ラヴェル、ドビュッシーなどの音楽を好むようになる一方、マーラーについては、初めて聴いたヒルセ指揮による交響曲第7番の演奏がひどかったのか苦手になってしまいます。
●オッテルロー、ピアノからチェロに転向。ユトレヒト市立管弦楽団の若いチェロ奏者、ルートヴィヒ・ヴェルナーの教えを受けます。
1923年(16歳)
●オッテルロー、友人たちと室内アンサンブルを結成。軽音楽も演奏するアンサンブルで、夏にはハーグ近郊のノールトウェイク海岸のホテルや別荘で演奏。収益は結核撲滅教会に寄付していました。
1924年(17歳)
●オッテルロー、弦楽四重奏曲を作曲。
●オッテルロー、友人たちと結成していた室内アンサンブルを「アストラ・ミュージカルズ」という名前に変更。
●冬、オッテルロー家、ザイストからハイス・テル・ハイデに転居。どちらもユトレヒトに隣接する町です。
1925年(18歳)
●オッテルロー、友人たちと弦楽四重奏団を結成。
●9月25日、オッテルローらの弦楽四重奏団、チャリティー・コンサートでデビュー。
1926年(19歳)
●オッテルロー、夏に自動車運転免許を取得。父親名義のオランダのスパイカー製の自動車(↓)で、スピードを出すことに熱中するようになります。
●オッテルロー、ユトレヒト大学に入学。父の勧めで医学部を選択。
●10月、オッテルロー、友人らとジャズや軽音楽、ダンス・ミュージック、クラシックのアレンジ物などを演奏するアンサンブル「タワー・タウン・バンド」(↓)結成。オッテルローはアルト・サックスを担当、音楽監督も務めます。
1927年(20歳)
●オッテルロー、友人たちと弦楽四重奏団を結成しハイドン作品を演奏。
●1927年7月、オッテルロー、兵役。衛生兵として5カ月間の訓練。分割兵役の第1回。
1928年(21歳)
●春、オッテルロー、母方の親戚で、アムステルダム音楽院の院長でもあるセム・ドレスデン[1881-1957]から、チェロ演奏などで才能を認められ、プロの音楽家になることが十分に可能であると評価されます。
●秋、オッテルロー、アムステルダム音楽院に入学。最初の数か月はハイス・テル・ハイデからアムステルダム音楽院まで約40キロの道のりを通学することとなりますが、やがてタワー・タウン・バンドでの活動が減少し、さらに両親がザイスト近くに引っ越すことををきっかけに、オッテルローも転居を考えるようになります。
1929年(22歳)
●冬、オッテルロー、アムステルダムに転居。
●オッテルロー、エリーザベト・テル・フーフェと交際、ほどなく両親に紹介し、のちに結婚。
●オッテルロー、マックス・オロビオ・デ・カストロ[1887-1962]にチェロと室内楽を師事。カストロはベルリン・フィル首席奏者を務めたこともある人物。
◆9月3日、アメリカ、世界恐慌前触れ。しばらく「買い」が蓄積して上昇を続けていたダウ工業株平均が最高値381.17を記録。ほどなく利益確定目的の「売り」が集中したため1か月に渡って株価が下がり続け17%下落。そこで底値と判断した投資家の「買い」が再び蓄積、下落分の半分ほどまで株価が上昇したものの、そこで利益確定の「売り」が大きく入り、再び株価は下落。
◆9月26日、イングランド銀行が5.5%から6.5%に金利を引き上げ。利益確定後に投資先を探していたアメリカの投資資金がイギリスに大きく流れ込みます(FRBは6.0%)。
◆10月24日、ウォール街株価大暴落。シカゴ市場、バッファローの市場は閉鎖。やがて損失確定組は、善後策として投資や預金などの資金を回収、結果的に、銀行や企業の相次ぐ破綻へと繋がって行きます。
1930年(23歳)
●オッテルロー、兵役審査不合格で第2回訓練を免除。これで平時の兵役期間はクリア。
●オッテルロー、弦楽のためのパッサカリアを作曲。自身の指揮によりアムステルダム音楽院のオーケストラで初演。
●10月、オッテルロー、弦楽三重奏曲を初演。チェロは自身が担当。
1931年(24歳)
●オッテルロー、オーケストラのための組曲第1番、第2番を作曲。
●10月、オッテルロー、アムステルダム音楽院の祝賀会で楽長指揮する音楽院のオーケストラとチェロ独奏で共演。その後、文科大臣などに続いて、学生代表としてスピーチ。
●11月23日、ユトレヒト市立管弦楽団首席指揮者、コルネリスが47歳で病により死去。
1932年(25歳)
●初夏、ユトレヒト市立管弦楽団首席指揮者にヘンリー・ファン・ホウドゥーフェル[1898-1977](↓)が就任(1937年まで)。メンゲルベルクの推薦でした。ホウドゥーフェルは20代なかばまでコンセルトヘボウ管弦楽団のチェロ奏者で、作曲家でもあった人物。ユトレヒトにブルックナーやシベリウス、オランダの現代作品などを積極的に導入。
●6月、オッテルロー、アムステルダム音楽院のオーケストラを指揮して自作の組曲第2番を演奏。
●オッテルロー、アムステルダム音楽院を卒業。世界恐慌の影響でオランダ経済も悪化。コンサートの入場者数も減少しており、各地のオーケストラで規模の縮小、賃金カットなどが実施、ユトレヒトでも事情は同じでしたが、オッテルローはひとまずユトレヒト市立管弦楽団のチェロ奏者として契約。秋のシーズン開始からオーケストラで演奏することになります。
●7〜10月、コンセルトヘボウ管弦楽団の作曲コンテストに応募するための作品の制作に没頭、組曲第3番を完成。締め切り日の10月1日に提出。応募者は54人でした。
●9月、ベイヌム指揮コンセルトヘボウ管弦楽団により組曲第2番が演奏。
◆9月20日、「締切大堤防」完成(↓)。長さ32.5キロ、幅90メートルの海上堤防。これにより面積約1,800㎢(琵琶湖の約2.7倍)の淡水湖アイセル湖が誕生。1975年には南西部に長さ26キロのハウトリブ堤防が完成し、仕切られた部分は面積約700㎢のマルケル湖となります。
●10月3日、オッテルロー、ユトレヒト市立管弦楽団のチェロ奏者として活動開始。最初の2週間で、ブルックナー5番、ベートーヴェン5番、ブラームス1番、R.シュトラウス『町人貴族』、そしてワーヘナールなどオランダ作品をリハーサル。
●10月、オッテルロー、改装オープンとなったティフォリの大ホールでのユトレヒト市立管弦楽団演奏会で、プロの音楽家としてのデビューを飾ります。
●10月、オッテルロー、コンセルトヘボウ管弦楽団の作曲コンテストで優勝。賞金は250ギルダーで、新人チェロ奏者としての半年分の報酬に相当する金額でした。
●12月15日、オッテルロー、コンセルトヘボウ管弦楽団を指揮して組曲第3番を初演。当初、指揮者にはベイヌムが予定されていました。しかし、少し前に急性虫垂炎で入院し、代役としてヘルマン・アーベントロートがコンセルトヘボウ管弦楽団の一連の演奏会を指揮していましたが、現代作品まではカバーできず、急遽オッテルローに依頼され自作を指揮することになったものです。当日は放送局による中継も入っていました。
1933年(26歳)
●1月、オッテルロー、ユトレヒト市立管弦楽団でも自作を指揮。首席指揮者ヘンリー・ファン・ホウドゥーフェルは、オッテルローが自分と同じくチェロ奏者で作曲家で指揮もできるという事実に注目、ユトレヒトでも自作自演させることを決定。
●3月、オッテルロー、アーネム管弦楽協会(現アーネム・フィル)からの客演要請で自作を指揮。
●3月、オッテルロー、楽団理事会に昇給を要求しますが、運営状態が悪かったため却下。
◆9月25日、締切大堤防の道路が開通。
●11月、首席指揮者ホウドゥーフェルは、自身のハーグなどへの客演が増えたことで、楽団理事会に対し、オッテルローを副指揮者にするよう提案しますが却下。
●12月4日、オッテルロー、初めて一晩の公演全部を指揮。ロッシーニやウェーバー、グノー、グリーグ、シャブリエというポピュラー・コンサートで、新聞も好意的でした。首席指揮者ホウドゥーフェルに、レジデンティ管から急な代役出演要請があったため、ホウドゥーフェルが楽団理事会に対し、自分に代わってオッテルローに指揮させるよう強弁したことで実現したものです。
1934年(27歳)
●2月、オッテルロー、2度目の指揮。生涯の得意レパートリーとなるベルリオーズの幻想交響曲をメインに、ハイドンの101番、同級生だった作曲家ヤン・フェルトホフ[1907-2006]のシンフォニエッタ。
●3月、ユトレヒト市立管弦楽団理事会は深刻な財政難であることを確認。
●4月、ユトレヒト市立管弦楽団、楽団員に給料が払えなくなります。
●4月、KRO(カトリック・ラジオ放送)がユトレヒト市立管弦楽団と年間50回の演奏契約を締結。1回500ギルダーの報酬で、年間25,000ギルダーの収入となり、自治体からの補助金の半分ほどに相当するという金額であり、定期公演収入を上回る規模でした。
●チェロ奏者兼第2指揮者
5月1日、オッテルロー、ユトレヒト市立管弦楽団のチェロ奏者兼第2指揮者に任命され、年間500ギルダーが報酬に加算されます。同日より前首席指揮者の息子で同名の弁護士エフェルト・コルネリスがユトレヒト市立管弦楽団事務局の管理者に就任。オッテルローと同世代なので仕事がしやすくなります。
オッテルローの「チェロ奏者兼第2指揮者」という立場はかなり特殊なもので、ふだんは年長の仲間である楽員に対し、指揮をするときは自分の解釈を伝えて修正指示を出さなければならないということで困難も予測されました。しかし、作曲家でもあるオッテルローは、スコアを隅々まで知り尽くしていて、必ずはっきりとした見解も持っていたため、年長の楽員からも立場を尊重されるようになります。また、仕事のほとんどはチェロ奏者だったため、客演するモントゥーやベイヌムの指揮にふれ、リハーサルの仕方も学べたのは大きな収穫だったようです。
●メンゲルベルクの指揮で『大学祝典序曲』
12月3日、メンゲルベルクがユトレヒト大学で「再現音楽」について特別教授として講義することになったことを記念した就任講義がおこなわれ、それを記念してユトレヒト市立管弦楽団で演奏会が開催。オッテルローはこのときメンゲルベルクの指揮で『大学祝典序曲』でチェロを演奏、感銘を受け、19年後の録音(CD14)にも影響があらわれています。
下の画像は公演後の様子(メンゲルベルク夫妻と家政婦、ホウドゥーフェル、オッテルローと恋人リーシェ)。
1935年(28歳)
●5月、オッテルロー、アムステルダムで開催されたオランダ・フェスティヴァルで、メンゲルベルクのコンセルトヘボウ管弦楽団首席指揮者就任40周年を祝して自作の交響曲を初演、メンゲルベルクに献呈しています。この交響曲は1933年に着想され、1934年の夏に作曲を本格的に始め、初演ぎりぎりに完成したというもので、6本のホルン、4本のトランペット、多くのパーカッションを含む大編成オーケストラのための作品となっています。
●8月1日、オッテルロー、リーシェ(エリーザベト)・テル・フーフェとアムステルダムで結婚、ヴェネツィアに新婚旅行。リーシェとはアムステルダム音楽院時代の1929年から交際していました。
1936年(29歳)
●1月、バルトークがオッテルロー指揮ユトレヒト市立管弦楽団とピアノ協奏曲第2番を演奏。気難しくマイナス発言の多いことですでに有名だったバルトークですが、ユトレヒトでの演奏は快適だったと絶賛。
●3月、シューリヒトがヴィースバーデンでオランダ音楽祭を開催。オッテルローが自作の交響曲の指揮のために招待されます。オッテルロー初の海外公演でした。
●春、オッテルローの年俸が2,000ギルダーに大幅増額。チェロ奏者としての仕事も基本的には免除されるようになり、指揮に専念できるようになります。これはKRO(カトリック・ラジオ放送)関連公演を数多く指揮した実績などを反映したもので正当なものですが、いまだにオッテルローを若い同僚とみなしていた楽員の一部はこれを不服とし、協議委員会を設けて反対、しかし理事会の決定は覆りませんでした。ちなみにコンサートマスターの年俸は1,100ギルダーで、増額前のオッテルローの約1.5倍、首席指揮者ホウドゥーフェルの年俸は6,000ギルダーとなっています。
◆3月、ドイツ、ロカルノ条約を破棄し、ラインラントに進駐。
◆6月、フランス人民戦線内閣成立。ユダヤ系のブルム首相による反ファシズム政権(1937年6月まで)。
◆7月17日、スペイン内戦勃発(1939年4月まで)。
◆7月31日、ベルリン・オリンピック開催。
●9月、オッテルロー、コンセルトヘボウ管弦楽団に招かれ客演。『ダフニスとクロエ』第2組曲、R.シュトラウス『死と変容』ほかを指揮して新聞で絶賛されるなど成功を収めます。
●9月19日、父ウィリアム、67歳で死去。
●11月、オッテルロー、ユトレヒトからアムステルダムに転居。しばらくして胃炎で倒れ、医師から6週間の休養が必要と診断されますが、回復には約2か月を要しました。オッテルローの代わりは、当初、首席指揮者のホウドゥーフェルが務めていましたが、2週間後にはホウドゥーフェルも倒れ、オーケストラは危機に直面、管理者のコルネリスは、ベイヌムやフリプセに代役を依頼します。
1937年(30歳)
●1月、首席指揮者ホウドゥーフェルが復帰するものの、ほどなくして再び倒れてしまいます。
●1月末、オッテルロー、ユトレヒト市立管弦楽団の指揮に復帰。
●2月、ユトレヒト市立管弦楽団の60人の楽員が、首席指揮者に対する不信を表明、理事会はこれを反乱と見做して全員を解任するもののすぐに取り消し。オッテルローは楽員の気持ちに理解を示す一方、ホウドゥーフェルには恩義を感じてもいたので板挟みになります。
●3月、首席指揮者ホウドゥーフェルの病気休暇が3か月延長。新聞では後継者についての憶測が始まり、ベイヌムの名前も挙がっていました。
●3月、KRO(カトリック・ラジオ放送)がユトレヒト市立管弦楽団との契約を延長しないことを決定。オーケストラの演奏技術が下がってきていることと、レパートリーが少ないことが挙げられていましたが、理由としては不自然なため、オッテルローはKRO本拠地のヒルフェルスムに出向いて交渉。しかし、ユトレヒト市立管弦楽団のことを物乞い扱いされるなど酷い扱いを受けることになってしまいます。
当時のオランダは、極右政治家の首相により、多党連立の政権運営がなされており、世界恐慌後も金本位制を継続して1936年に廃止したばかり。1936年の財政赤字は7,500万ギルダーに達しており、公務員の減俸、教育・公共事業・社会インフラ費用の大幅な削減が検討されている状況でした。そうした中、通貨切り下げを唱えるカトリック系財務大臣が辞職に追い込まれ、さらに内閣からはカトリック系議員がいなくなるなど、KRO(カトリック・ラジオ放送)にとっては困難な状況となっており、ユトレヒト市立管弦楽団との契約終了のきっかけもその辺りではないかとも考えられます。
●3月14日、オッテルロー、首席指揮者ホウドゥーフェルが得意としていたブルックナー3番を指揮。以後、演奏会形式のオペラ上演で『魔弾の射手』をとりあげるなど、守備範囲を拡大して行きます。
●5月2日、オッテルロー、ヒルフェルスムのスタジオで、レジデンティ管を初めて指揮、続いて2日間、ハーグでブルックナー3番の公演を2回指揮。
●5月、オッテルロー、友人の作曲家・チェロ奏者・指揮者のベルトゥス・ファン・リール[1906-1972]から、ユトレヒト学生演奏協会の運営を引き継ぎ、学生オーケストラを指揮。モーツァルトとアンドリーセンのプログラム。
●5月、メンゲルベルクがユトレヒト市立管弦楽団に客演、ドイツ・レクィエムを指揮。終演後のステージでスピーチをおこない、演奏陣のほか、客席にいたオッテルローのことも称えました。
●6月下旬、首席指揮者ホウドゥーフェルが辞任。その後はルドルフ・シュタイナー[1861-1925]の研究など、人智学の分野で活躍することとなります。
●7月初め、ユトレヒト市立管弦楽団理事会は、首席指揮者の後任を探すため、アムステルダムを訪れ、ベイヌムに交渉するものの断られてしまいます。
●7月中旬、ユトレヒト市立管弦楽団理事会は、カール・シューリヒト[1880-1967]がオッテルローと共同体制で「常任指揮者」を務めることを発表。オッテルローはこの決定により、5月1日付で「常任指揮者」に就任したということになって、年俸3,000ギルダーが遡及適用されることとなりました。シューリヒトの方は、正式な契約が未確定の段階でのスタートでした。
●8月、オッテルロー、ザルツブルク音楽祭を訪れ、トスカニーニのヴェルディのレクィエムを聴いて感銘を受けます。
●オッテルローはシューリヒトより27歳年下でしたが、シューリヒトはオッテルローに対等な立場で接してくれたため、バッハからベートーヴェン、ブルックナー、ブラームス、ベルリオーズ、ラヴェル、ルーセル、現代音楽に至るまでさまざまなプログラムをとりあげることができました。
1938年(31歳)
●シューリヒトと共同で首席指揮者
1月、ユトレヒト市立管弦楽団理事会は、シューリヒトと年間15公演の指揮で年報5,000ギルダーという契約を正式に締結。期間は3年間。ちなみに当時のシューリヒトは、1911年に就任したヴィースバーデン市音楽総監督に在任中(1944年まで)で、1930年からはレジデンティ管によるスヘーフェニンゲンでの夏の音楽祭も主催(1939年まで)していたほか、ドイツ政府に追放されたクレンペラーの後任として1933年から1935年まで音楽監督を務めたベルリンのフィルハーモニー合唱団への客演数も多く、1934年からはウィーン・フィルにもたびたび客演しているという状態でした。また、ハーグがオランダ王室のお膝元で議会など政治の中心ということもあって、シューリヒトのハーグでの活動が評価されていたことに加え、ユトレヒトでの常任指揮者就任も重なって、この年、ウィルヘルミナ女王よりオラニエ=ナッサウ勲章を授与されています。
同月、オッテルローの年俸が3,500ギルダーに増額。楽団の運営する74回の公演のうち、47回をオッテルローが指揮、15回をシューリヒトが指揮、ほか12回が客演という見通しで、すでに国際的な有名人だったシューリヒトと、まだ駆け出しだったオッテルローの1回当たりの報酬格差は5倍近いものとなりました。
●3月、オッテルロー、ユトレヒトで、巨大編成作品、ベルリオーズのレクィエムを演奏。オッテルローは合唱団の追加募集から関わり、公演も成功。ベルリオーズはオッテルローの看板レパートリーとなって行きます。また、ユトレヒト・トーンクンスト合唱団の指揮者となったオッテルローは、ヴェルディのレクィエムとディーペンブロックのテ・デウムの公演も計画。
●3月、オッテルロー、コンセルトヘボウ管弦楽団に客演。単独での公演は初めてで、シューベルトの『グレート』とワーヘナールの作品などを指揮。
●3月30日、オッテルロー、最初の妻リーシェと離婚。原因は1936年に入団した女性ヴァイオリニストとの浮気とも言われています。
●オッテルロー、ユトレヒト近郊のビルトーフェンに転居。
●5月、ユトレヒト市立管弦楽団の財務状態が悪化。
●オッテルロー、ユトレヒト市立管弦楽団と大規模なバザーなどでも演奏して、楽団収入を増やすことに貢献。
◆11月9日、「水晶の夜」事件発生。ドイツ各地でユダヤ人への一連の弾圧行為へと発展。
1939年(32歳)
●春、オッテルローの年俸が5,000ギルダーに大幅アップ。ユトレヒト市立管弦楽団理事会がオッテルローの貢献を認めての昇給ですが、楽団の不測の事態に備える基金のための天引きも19%にまで増やされ、実質的な年収は約4,000ギルダーとなります。昇給の背景には、楽団の運営する公演以外、たとえば他の団体が主催するユトレヒト市立管弦楽団の公演などでも指揮をしてもらいたいという目的があり、そのためにはほかのオーケストラへの客演を抑えて欲しいという意図があったのではないかと考えられます。
◆8月、ウィルヘルミナ女王は中立を宣言。28日にはオランダ政府が国家総動員法を制定し徴兵制も施行。政府はすでに10億ギルダーを超える予算で武器を発注していましたが、多くはドイツ企業への注文だったため、オランダ政府にはドイツと戦う意思が無かったことが窺えます。
◆9月1日、ドイツがポーランドに侵攻。第2次世界大戦開戦。
●9月、ユトレヒト市立管弦楽団のシーズン開始は特別公演。前半がシューリヒト指揮でベートーヴェン7番、後半がオッテルローの指揮でブラームス4番という変則豪華プログラム。
●9月、ユトレヒト市立管弦楽団でも徴兵がおこなわれるようになり、弁護士で楽団事務局管理者のコルネリスのほか、楽員3人が兵役に就くことになります。オッテルローの考えは、徴兵された楽員の代わりは臨時奏者で補い、楽員の兵役の終了を待ってオーケストラに復帰させるというものでした。
●ドイツがポーランドに侵攻してからのオランダは、それまでの親ドイツ的な風潮が無くなりつつあり、ユトレヒト市立管弦楽団理事会のシューリヒトへの関心も冷めていきました。
1940年(33歳)
●オッテルロー、バレエ・ダンサーのアネッテ・ヤコバ・アドリアーナ・ヘウカース[1912-1995]と同棲開始。アネッテは夫と前年末から別居中でしたが、離婚手続きはまだでした。
◆4月9日、午前4時、ドイツ軍が不可侵条約を破ってデンマークに侵攻。国王は午前6時に降伏を決定。占領統治は3年後の1943年8月に開始されます。
●5月、シューリヒト、ユトレヒト市立管弦楽団を指揮してベートーヴェンの第九とワーグナーを演奏。
●5月8日、オッテルロー、ナイメーヘンでオランダ現代作曲家のコンサートを指揮。
◆5月10日、ドイツ軍がオランダに侵攻。13日、ウィルヘルミナ女王ファミリーと多数の政府要職者はイギリスの軍艦で逃亡、14日夜には、ドイツ空軍によりロッテルダムが空爆され民間人の犠牲者が650人から900人出たため、全権委任されていたオランダ軍総司令官ウィンケルマンは降伏。
ロンドンに避難して安全な身となったウィルヘルミナ女王は、ユリアナ王女たちをさらに安全なカナダに避難させる一方、BBCのオランダ向けプロパガンダ放送(15分枠)に5年間で34回出演し、降伏・占領・武装解除されたオランダ国民に対して、ドイツ軍への「抵抗」を呼びかけます。オランダの成人男性は前年夏から施行された総動員令により、多くがオランダ軍兵士となっており、降伏後は約27万人が俘虜として収容されていたので、女王の放送は、「徴兵対象外の民間人」に対する「ドイツ軍への抵抗」の呼びかけということになり、結果として、「抵抗」した民間人約4万1千人がドイツ軍に処刑され、約30万人が強制労働のためにドイツに移送されるという悲惨な事態を招いてもいます。イギリス側はこのプロパガンダ放送を高く評価し、女王にガーター勲章を授与していました。
◆5月、ドイツによるオランダ占領統治開始。オーストリア・ナチスの党員からオーストリア内務大臣となっていたザイス=インクヴァルト[1892-1946]が国家弁務官に就任。ハーグにドイツ政府占領機関を設置、要職者はほぼ全員オーストリア人という構成。ちなみに当時、オーストリア・ナチスは、オーストリア人の10%が党員ということで、ドイツの入党率7%を大幅に上回っていました(もっとも、ドイツではナチ人気の過熱により1933年4月から1939年5月までの6年間、入党を制限していたという事情もあり、その後は850万人まで伸び、13%を超える入党率に達しています)。
多民族対応に慣れていたオーストリア人と、地元オランダのファシズム政党「オランダ国家社会主義運動(NSB)」の党員により、ハーグの官僚たちの率いる行政機構をそのまま生かす形で占領統治を実施。NSBの党員数は1940年のうちに31,430人から約5万人にまで急増しています。
なお、「国家社会主義オランダ労働者党(NSNAP,オランダ・ナチス)」はドイツ当局から選ばれず、1941年12月、NSBを除く他の全政党と同じく解党処置となっていました。
当時のオランダの人口は約890万人でしたが、占領軍政府に抵抗した約30万人を強制労働のためにドイツに移送したほか、レジスタンス活動家やかくまった人々も見せしめのため処罰するなどした結果、約4万1,000人のオランダ人が処刑。さらに、オランダ在住ユダヤ人約14万人のうち逃げ遅れた約11万人の財産を没収した上で強制収容所に送致。終戦時にオランダにいたユダヤ人は約1,000人でした。
●占領軍政府は、オランダ国民の抵抗を抑えるため、「ベルベットグローブ」と名付けられた懐柔方針を決定。
●6月3日、占領軍による活動禁止措置が解除され、オッテルローがユトレヒト市立管弦楽団とコンサートを開催。
●6月末、楽団理事会は、文部科学省から「連絡委員会」への参加を要請されます。「連絡委員会」は、同省事務次官ヘリット・アブラハム・ファン・プーリェ[1884-1976]によって新たに設置された諮問機関でした。
●8月、「連絡委員会」が初めて開催。ユトレヒト市立管弦楽団の財政状態についても話し合われ、今後は占領軍政府による支援が増額される可能性が示されます。
●9月、文部科学省事務次官プーリェが逮捕され、間もなく文部科学省も解散。新たに設立された広報芸術省は、文化や芸術の保護を謳う一方、プロパガンダも目的としていました。広報芸術省の音楽部門は、著名な音楽評論家であったヤン・ホーファーツが率いることとなります。
●10月30日、長女マリアンネが誕生。
◆12月19日、占領軍政府により、オランダ国民にラジオの登録と、ラジオ聴取許可証の申請が義務付けられます。
1941年(34歳)
●2月、広報芸術省のホーファーツは、8つのオーケストラに対して調査票を送付。各楽団の芸術面と経営面のリーダーが回答。ユトレヒト市立管弦楽団では、オッテルローが賃金や楽員の解雇手続きなど一般的な希望を書きましたが、管理者コルネリスは、音楽家組合の設立や調停、音楽家の社会的な役割などについて書いたことで注目され、4月に広報芸術省(プロパガンダも担当)に移って働くこととなり、のちに後悔することとなります。
●3月、オッテルロー、オペラに初挑戦。新たに建設されたばかりのユトレヒト市立劇場で、モーツァルト『後宮からの誘拐』を指揮。オーケストラはユトレヒト市立管弦楽団。
●4月、オッテルロー、楽団運営公演75のうち67公演を指揮した前年実績から、年俸4,050ギルダーでは少ないと申し立て、6,000ギルダーを提案。シューリヒトの前年実績はわずか4公演でした。
●4月22日、オッテルロー、アネッテと結婚。ハーグ近郊に転居。
●オッテルロー、1941年前半にレジデンティ管に4回客演。
●5月、政府はオーケストラに対して、ユダヤ系楽員の名簿を提出するよう要求。ユトレヒト市立管弦楽団では5名が該当していました。
●5月28日、ユダヤ人楽員の参加した最後のコンサートを開催。楽団事務局は彼らの退職にあたって1年分の報酬を渡しますが、彼らはオランダに留まり、終戦まで生き延びた楽員は1人でした。
◆6月、独ソ戦開戦。ドイツ、ルーマニア、スロヴァキア、ハンガリーがソ連に宣戦布告。
●6月、オッテルロー、ネーデルラント・オペラの招きで『フィガロの結婚』を指揮。アムステルダム市立劇場で、オーケストラはコンセルトヘボウ管弦楽団。
●オッテルロー、コンセルトヘボウ管弦楽団に実力を認められ、まとまった客演要請を3,000ギルダーで契約。
●7月、オッテルローの昇給提案が認められ、提案より多い6,500ギルダーに決定。
●9月1日、オッテルロー、ユトレヒト市立管弦楽団、フーゴー・ゴドロン[1900-1971]のピアノ協奏曲第2番をライヴ録音。これがオッテルローの最初の録音。
●9月、オッテルローの浮気が発覚。
●10月、広報芸術省は、政府がオーケストラを支援することを発表。第1級がコンセルトヘボウ管弦楽団とレジデンティ管、第2級がユトレヒト市立管弦楽団とロッテルダム・フィル、第3級がその他のオーケストラという等級区分でした。
◆12月8日、オランダ領東インド政府が日本に対して宣戦布告、ロンドンのオランダ亡命政府が追認。
●12月11日、息子のウィレム・ロジェ誕生(1988年1月29日、癌のため46歳で死去)。
1942年(35歳)
●オッテルロー夫妻、別居。妻のアネッテは娘マリアンネと生まれて間もない息子ロジェを連れてアムステルダムに転居。
◆3月10日、オランダ領東インド軍、日本軍に対して降伏。
1943年(36歳)
◆2月、スターリングラードの戦いでドイツ初の大敗。死傷者約30万人、俘虜約10万人、計約40万人の成人男性の損失。
◆4月、占領軍政府は、18歳から35歳までのすべてのオランダ人男性がドイツで雇用される計画について発表。
●4月15日、オッテルロー夫妻、離婚。
●5月、親衛隊将軍でオランダ警察の指導者でもあったオーストリア人、ハンス・ラウター[1895-1949]により、オランダ国民のラジオ保有が禁じられます。登録台数は100万台を超えていましたが、2か月半後には73万5千台が集められています。ラウターは戦後、オランダ政府により銃殺。
●6月、オランダの8つのオーケストラでは、計140人以上が対象となるため、広報芸術省は、2つのオーケストラを解散して人員を残りの6つのオーケストラに割り振る計画を立案。
◆7月、ユダヤ人追放が本格化。
●夏、オッテルロー、作曲に時間を割き、『クラリネットと弦楽オーケストラのためのプレリュード、ダンスとエピローグ』を作曲。
●8月、オッテルロー、RRG(ドイツ帝国放送)と契約。RRGはオランダのヒルフェルスムを拠点に「ヨーロッパ放送」を開始。オッテルローは、かつてKRO(カトリック・ラジオ放送)でよく使用していたヒルヴェルスムのスタジオで、ユトレヒト市立管弦楽団を母体につくりあげた合同オーケストラ「ヨーロッパ放送管弦楽団」を指揮。オッテルローは常任指揮者で、全体の半分ほどを指揮、残りの半分はドイツからの客演でまかなわれ、レオ・ボルヒャルト[1899-1945]、フリッツ・レーマン[1904-1956]、ハンス・ヴァイスバッハ[1885-1961]なども含まれていました。なお、ヨーロッパ放送には、最新の録音技術、マグネトフォンも使用されていました。
●8月、オッテルロー、アネッテと離婚。
◆10月3日、インドネシア人により民族軍設立の建白書が日本軍政当局に提出され承認、ジャワ郷土防衛義勇軍が編成。独立戦争準備。
1944年(37歳)
●1月、オッテルロー、コンセルトヘボウ管弦楽団に10回客演。
●2月、オッテルロー、コンセルトヘボウ管弦楽団への6回の客演を1,000ギルダーで契約。また、占領の混乱で1943年度のユトレヒト市立管弦楽団の報酬を受け取っていなかったため、広報芸術省に請求しますが、年間60回の契約でありながら36回の出演だったため、2,300ギルダー減額されて4,200ギルダーの報酬となりました。
●2月、広報芸術省は、オッテルローとユトレヒト市立管弦楽団のために、オランダ音楽のレコード(78回転SP盤)を50枚分以上をオランダ・デッカがレコーディングする計画を立案。しかし2月9日にディーペンブロック『鳥たち』序曲で録音がスタートするものの、原材料不足でディスクの生産はおこなえませんでした。
●3月、オッテルロー、レジデンティ管に数回客演。
●4月28日、オッテルローとアネッテ(↓)、再び結婚。
◆6月6日、連合国軍により「ノルマンディー上陸作戦」実施。
●夏、オッテルロー、『ブラス・アンサンブル、ハープ、チェレスタとパーカッションのためのセレナーデ』を作曲。
◆9月、連合国軍により「マーケット・ガーデン作戦」実施。約30,000人の空挺兵を降下させた史上最大の空挺作戦。連合国軍敗退とはなったものの、これによりオランダ各所の橋を確保し、のちの作戦に繋げることに成功。
◆10月、「スヘルデの戦い」。オランダ南西部とベルギー北部で、6万人の連合国軍と9万人のドイツ軍が戦闘しドイツ軍が敗北。連合国軍死傷者12,873名に対し、ドイツ軍死傷者10,000〜12,000名で、俘虜が41,043名。
◆10月、ユトレヒト中心部がイギリス空軍のタイフーン型戦闘爆撃機(↓)により空襲。鉄道や駅舎のほか、病院も爆撃します。
◆10月、連合国軍の堤防破壊により、大規模な洪水が発生したため、17歳から50歳までのオランダ人男性が集められ、堤防工事(↓)にあたります。
◆冬、オランダ西部地区への石炭、ガス、電気の供給ルートが「連合国軍」によって遮断され、ドイツも水上輸送での食料供給を断ったため、オランダ国民の半数にあたる約450万人に影響。飢餓と寒さなどが原因で、南西部地区中心に約2万2千人のオランダ人が絶命。街路樹も切り倒されて暖房に使用されます(↓)。
●冬、オッテルローは時折、ユトレヒト市立管弦楽団の楽員と共に、ピーテルス教会で室内楽コンサートを開催。オッテルローはピアノを担当。また、自宅では20人ほどの若者に非公式に音楽を教えてもいました。
1945年(38歳)
●1月、連合国軍の攻撃を避け、食糧と暖房のあるオランダ東部のフローニンゲンに本拠地を移した広報芸術省は活動を再開、さっそくホーファーツは、室内楽だけでユトレヒト市立管弦楽団の演奏活動がおこなわれていないことを非難し、処罰目的で補助金を凍結すると脅します。
●1月、同じく連合国軍の攻撃を避け、食糧と暖房のあるオランダ東部のデーフェンテルに引っ越す財務省から、ホーファーツの脅しの直前にユトレヒト市立管弦楽団に25,500ギルダーが到着。
●1月、ユトレヒト市長がユトレヒト市立管弦楽団のコンサートをおこなうよう指示しますが、ティフォリのホールは公演がおこなえる状況になく、オッテルローと事務局のモレナールは、占領が長くは続かないとみて待つことにします。
●2月、市からの補助金がオーケストラに到着。これにより2月末までの賃金は確保されましたが、3月はその半分となり、4月の支払いはありませんでした。また、この2月から政府の補助金は止められています。
●4月12日、次男ウィレム誕生。
◆5月5日、オランダ国内のドイツ軍、投降。8日にはドイツ降伏。
●5月、オッテルロー、戦時中の行動が問題視されます。
●6月、オランダ軍当局がユトレヒト市立管弦楽団の演奏について許可を保留。
●7月、ユトレヒト市立管弦楽団の楽員の報酬が70%引き下げ。
●7月、「音楽名誉評議会」で、ユトレヒト市立管弦楽団の占領下での行動について審議。楽員のほとんどがドイツの放送局が運営する「ヨーロッパ放送」に出演していたものの問題視はされず、演奏活動が許可されます。
●8月、「音楽名誉評議会」で、オッテルローの占領下での行動について審議され、ドイツの放送局が運営する「ヨーロッパ放送」に出演していたことが問題視。オランダでの演奏活動が1年間禁止となります(有給で在籍扱い)。
「音楽名誉評議会」では、ベイヌム、フリプセなど多くの音楽家が裁かれ、35人が処罰を受けていますが、多くは「中央名誉評議会」に上訴して減刑されており、たとえばコンセルトヘボウ管弦楽団首席指揮者のウィレム・メンゲルベルクの禁止期間は無期限から6年間に短縮、その再従弟(はとこ)でアムステルダム・コンセルトヘボウ(ホール)の総監督ルドルフ・メンゲルベルクは無罪になるなどしていましたが、オッテルローは判決をそのまま受け入れています。
なお、ウィレム・メンゲルベルクの重すぎる刑については、戦前の国民人気投票でメンゲルベルクが女王を抜いて1位になったことが遠因となっているかもしれません。女王はドイツ軍の侵攻と共にイギリスに逃亡し、その後の5年間でBBCの15分枠プロパガンダ放送に34回ほど出演、番組中でドイツ占領下のオランダで活動するメンゲルベルクのことを名指しで「裏切り者」と批判してもいました。
なお、オッテルローが契約していたドイツの放送局の運営する「ヨーロッパ放送」では、ドイツの指揮者レオ・ボルヒャルトも働いていましたが、アメリカ占領軍政府は特に問題視せず、5月26日には早くもベルリン・フィルに登場。アメリカ兵に誤って射殺されるまでの3か月間に22回ベルリン・フィルを指揮しています(後任はルーマニアが枢軸国側から連合国側に鞍替えしたことで運を掴んだチェリビダッケ)。
◆8月17日、オランダとオランダ領東インド諸島との間にインドネシア独立戦争が勃発。4年4か月後の1949年12月17日に終戦、同月、インドネシア連邦共和国成立。太平洋戦争は3年8か月だったので、それより8か月も長い戦争ということになり、インドネシアは通算8年間も戦争状態に置かれていたことになります。
●カトリックに改宗
12月24日、オッテルロー夫妻、支援者の影響もあって教会で洗礼を受け、カトリックに改宗。
オランダは宗主国スペインからカトリックを強要されたことに反発して1581年に独立したプロテスタントの国で、王室も代々基本的にプロテスタントでした。しかしそのオランダも、プロテスタントが優勢なドイツに占領されてからはカトリックへの改宗者が増え、現代では数の上でもカトリックがプロテスタントの約4倍と優勢になっています。とはいえ絶対数で見れば、人口約400万人の1879年では「カトリック&プロテスタント以外」は約1%(約4万人)だったのに対し、人口約1,700万人の現代では、「カトリック&プロテスタント以外」は実に70%(約1,200万人)を超える数字になり、教会も年々取り壊しが増え、カトリック小教区も大幅に縮減となり、集会所によってはカトリックとプロテスタント兼用となるなど、その姿はかつてとは全く異なるものになっています。
オッテルローと宗教の関わりは、プロテスタントに始まって、苦難の時にカトリックに改宗してのめりこみ、やがて宗教と離れた生活を送るようになるというもので、オランダ全体の流れと似ているのかもしれません。
●オッテルロー、交響曲第2番の作曲を開始。
1946年(39歳)
●オッテルロー、交響曲第2番の作曲を継続しますが、終楽章で行き詰って未完で中止。その後、オッテルローの娘マリアンネと結婚した作曲家で指揮者のオットー・ケッティング[1935-2012]が2011年に補筆完成し2013年に初演しています。
●オッテルロー、ユトレヒト交響楽団(ユトレヒト市立管弦楽団から改名)のリハーサルに時折顔を出すようになります。オーケストラは終戦後、楽団のヴァイオリン奏者でユトレヒト音楽院教授、音楽院のオーケストラも指揮していたヘンク・スプルート[1906-1998]が指揮しており、リハーサルに顔を出すオッテルローと良い関係を築いていました。
●5月8日、オッテルロー、首席指揮者に復帰。モーツァルトの交響曲第35番、ピアノ協奏曲第20番、自作のパッサカリアに、エルガーのエニグマ変奏曲というプログラム。スプルートは第2指揮者となり、オッテルローと2人体制で指揮を継続。
●夏、オッテルロー、レジデンティ管を指揮してスヘーフェニンゲンのクアハウスでブルックナーの7番を演奏。
◆ブラック・チューリップ作戦
9月11日、オランダ政府、ドイツへの報復として、ブラック・チューリップ作戦開始(1948年まで)。オランダ在住の民間ドイツ人約2万5千人を対象として、財産を没収、マリエンボッシュほか複数の強制収容所(↓)への送致を始め、3,691人を国外追放した段階で、アメリカやイギリス政府のほか、オランダのキリスト教系政党の議員や、ユトレヒト大司教の反対などにより作戦は中止。しかし、ドイツ人追放計画そのものは1950年まで着実に継続。なお、ドイツ国籍の有無で判定されたため、ドイツから逃れてきていたユダヤ人も迫害対象となっていました。
●10月、オッテルロー、ユトレヒト交響楽団とブルックナー没後50周年を記念した公演で交響曲第4番を演奏。
●10月、オッテルロー、前年に設立されたオランダ放送フィルに客演。ロシア・プログラムで成功し、シーズン中に再び招待されることとなり、生涯に渡って良好な関係が続くことになります。
●10月、オッテルロー、設立間もないネーデルラント・オペラに客演。かつてのアムステルダム市立劇場の後継組織のような存在で、オッテルローは再び『後宮からの誘拐』でデビューし、1948年までに50を超える上演で指揮します。
●11月、オッテルロー、レジデンティ管とオランダ・デッカにオペラ・アリアをレコーディング。
●11月25日、オッテルロー、胃潰瘍の手術。ベイヌムから激励。
●12月、オッテルロー、ロッテルダム・フィルに客演。得意の『幻想交響曲』のほかに、ワーグナーを演奏しようとしたところ拒否されます。
●12月、オッテルロー、コンセルトヘボウ管弦楽団、フローニンゲン管弦楽団に客演。
1947年(40歳)
●1月、オッテルロー、ネーデルラント・オペラに客演。
●1月、オッテルロー、コンセルトヘボウ管弦楽団に客演。ブルックナー4番、ハフナー、ダフニスなど7公演を指揮。
●9月、ユトレヒト交響楽団の固定メンバーが77人に増加。
●9月、オッテルロー、ネーデルラント・オペラで『ホフマン物語』。アムステルダム、、ユトレヒト、ハーグ、ロッテルダムで上演し、ヒルフェルスムではBBC用に録音もおこない、さらに12月にはブリュッセルでも上演。
●9〜10月、オッテルロー、『ホフマン物語』の歌手たちとアリア集などをオランダ・デッカに録音。
●11月、オッテルロー、サバタの代役でヴェルディのレクィエムを指揮。
●オッテルロー、マーラーの4番、『大地の歌』を指揮。前者はギューデン、後者はフェリアーが歌っていました。
●オッテルローのアムステルダムでの仕事の増加と共に客演指揮者も増やし、クレンペラーなどがユトレヒト交響楽団に登場。
●オッテルロー、ナールデン大教会でバッハのマタイ受難曲を指揮。
1948年(41歳)
●オッテルロー、ユトレヒトのブール教会でバッハのマタイ受難曲を指揮。
●3月、オッテルロー、ネーデルラント・オペラで『ファウスト』。
●4月、オッテルロー、デンマーク放送交響楽団に客演。
●10月、オッテルロー、フィルハーモニア管弦楽団に客演。モーツァルト35番にディーペンブロック『鳥たち』序曲、ギーゼキングとのシューマンとブラームスのピアノ協奏曲。
●10月、オッテルローとレジデンティ管によるレコーディング・セッションが妨害されて中断。楽団理事会が、管弦楽曲の録音は首席指揮者のフリーツ・スフールマン[1897-1972]以外は認められないと発表、制作のオランダ・デッカは、スフールマンの指揮は拒否し、曲目をアリア集に変更することで対応。この事件がきっかけで以前からスフールマンの能力に疑問を持っていた人々が不満を表明するようになります。
1949年(42歳)
●1月、レジデンティ管理事会の意見が分かれるようになります。
●2月、スフールマンが体調を崩し、スフールマンの妻と代理人が楽団理事会との話し合いを継続。
●3月上旬、スフールマン側から南アフリカ行きを選択したという発言があり、退任が決定。
●3月9日、理事会は新たな首席指揮者を決めるため、楽員も交えた委員会を設置。
●3月13日、理事会は全会一致で、ノミネートのトップにオッテルローを選出。ほどなくオッテルローに決定。年間報酬は計1万5千ギルダーで、指揮回数は40回という条件で、客演アーティストや、プログラミングも完全にコントロールし、第2指揮者の人選も自らおこなうというものでした。
●4月1日、オッテルロー、レジデンティ管音楽監督に就任。
●4月2日、オッテルロー、ユトレヒト交響楽団に首席指揮者の辞任届け。
●5月、オッテルロー、オランダ放送フィル、ジネット・ヌヴーとベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲で共演。
●5月、オッテルロー、ユトレヒト交響楽団とスイス・ツアー。
●6月13日、オッテルロー、ユトレヒト交響楽団と本拠地での告別コンサート。曲目はベートーヴェンの第9。
●6月30日、オッテルロー、ユトレヒト交響楽団、オランダ・フェスティヴァル出演。オランダ音楽プログラム。会場はスヘーフェニンゲンの豪華なクアハウス(↓)。
●夏、オッテルロー家、ハーグ郊外のワッセナールに転居。
●レジデンティ管弦楽団の改革
オッテルロー、レジデンティ管の改革に乗り出します。
・聴衆の増加 → 低迷していたチケットの販売量を向上させて、ホールの席がなるべく埋まるようにするため、チケットの値下げを実施。結果、利益増額とはならなかったものの、売上高が伸び、また、ホールの席が埋まることで、聴衆と演奏者の双方にとってプラスの心理効果がもたらされました。
・オランダ現代作品を積極的に紹介 → 演奏会プログラム活性化のため、各公演になるべくオランダ現代作品を組み込む方針を策定。
・初演を増やすため作曲委嘱 → 自治体からの支援を受けたワーヘナール財団を活用、まず予算3,000ギルダーで委嘱交渉を開始。
・オーケストラの演奏レヴェル向上 → オッテルローが得意とする効率的かつ徹底したリハーサルをおこなうことで、すぐに効果が表れます。前任者スフールマンとの指揮者としての技術力の差を知らしめることにもなりました。
●9月、オッテルロー、レジデンティ管と、ハーグの巨大スポーツ施設「ホウトゥルスターレン」で8,000人を集めるコンサートを開催。チャイコフスキー4番で大成功を収めます。
●9月、オッテルロー、レジデンティ管とブルックナー7番を演奏。8回のリハーサルで完璧に仕上げ、短期間でオーケストラの演奏レヴェルが大幅に向上したことで各新聞に驚きと称賛の記事が掲載されます。
●10月、オッテルロー、レジデンティ管と『英雄の生涯』を演奏。9月8日に亡くなったR.シュトラウスに捧げたコンサートで、15回のリハーサルを実施して高度な演奏を実現していました。
●11月、オッテルロー、オーケストラには各種の実務を取り仕切る監督が必要であると理事会に説明。旧知の間柄で、アムステルダムやワーグナー協会にもパイプのあるコルネリスを推薦。
●12月1日、コルネリス、監督に就任。しかし管理者ズイレンや、アムステルダムのルドルフ・メンゲルベルクは彼を敵視して嫌がらせを始めたため、コルネリスは苦労を強いられることになります。やがてズイレンは理事会からの要求で退任。
◆12月27日、インドネシア独立戦争終結。
●オッテルロー、オランダ・ブルックナー協会からメダルを授与されます。
1950年(43歳)
●5月、オッテルロー、2人の優秀な若手ヴァイオリニスト、ヘルマン・クレバース[1923-2018]とテオ・オロフ[1924-2012]に、レジデンティ管弦楽団コンサートマスター就任を打診。交渉の末、承諾を取り付け秋のシーズン開始からの契約が決定。
●5月、オッテルローとコルネリス、オランダ・デッカとレコーディングについて会談。
●6月、オッテルロー、レジデンティ管と初のオーケストラ大作録音。前年9月に大成功を収めたチャイコフスキー4番を、1日5時間のセッションを3回おこなってテープに録音。報酬はオーケストラが10,000ギルダー、オッテルローが2,500ギルダーでした。
●6〜7月、オッテルロー、レジデンティ管弦楽団、オランダ・フェスティヴァル出演。7月12日はバーンスタインとの共演で、バーンスタインがオッテルローのシンフォニエッタを指揮、オッテルローがバーンスタインの不安の時代を指揮(バーンスタインがピアノ)、休憩後にオッテルローがチャイコフスキー4番を指揮。
また、7月15日のエルガーのエニグマ変奏曲の見事な演奏は、会場にいたイギリス人、ジョン・ホプキンスの心を捉え、15年後に彼がオーストラリアの放送局ABCの音楽監督を務めているときにメルボルン交響楽団の指揮者を探す役目を任された際、オッテルローのことを思い浮かべるきっかけとなりました。
●オッテルロー、レジデンティ管と、「ホウトゥルスターレン」で8,000人を集めるコンサートを開催。ベートーヴェン9番を演奏。
●Philipsレーベル設立
9月28日、電気機器メーカーのPhilips社音楽部門が、Philipsレーベル設立を発表。本拠地ユトレヒト州バールンにあるホーヘ・ブールシェ城でおこなわれていた会議の席上で告知されたもので、参加者には、この年の6月にオランダ・デッカが録音していたオッテルロー、レジデンティ管のチャイコフスキー4番のPhilipsロゴのLPレコードが配られています。
これは1942年にPhilips社が買収して傘下に収めていたオランダ・デッカ(1936年に英デッカから独立)を利用する形で、レーベルがスタートすることを意味してもいましたが、Philipsレーベルとして初めて録音され(3か月後の12月)、翌年春に発売されたレコードもオッテルロー、レジデンティ管のハイドン『オックスフォード』&グリーグ『ペール・ギュント』というLPだったので、当時のオッテルローの注目度の高さが窺えます。
ちなみにPhilips初期にオッテルローが制作したLPはトータル150万枚というすごい売上を記録していました。
●10月、オッテルロー、リヴァプール・フィルを指揮。同団首席指揮者のヒューゴ・リグノルド[1905-1976]との交換客演でした。
1951年(44歳)
●コンセルトヘボウ大ホールと楽団の運営の癒着が表面化
●1月、パウル・ファン・ケンペン[1893-1955]がコンセルトヘボウ管弦楽団を指揮してヴェルディのレクィエムを指揮する演奏会で事件が発生。これはコンセルトヘボウ管弦楽団の楽員出身のケンペンが、1916年にドイツに移って1932年にドイツ国籍を取得し、戦争中も国防軍の慰問コンサートで指揮するなどしていたことから、演奏会初日に、聴衆の一部が騒ぎを起こして演奏を妨害、2日目には楽員と合唱団のうちの62人が演奏を拒否したというものです。当時のオランダでは数か月前まで「ドイツ人追放計画」が実行されており、ドイツ国籍のオランダ在住者に対する風当たりが強かったので、聴衆と音楽家双方の拒否反応も仕方ない面もあったのかもしれません。
楽員の解雇問題にまで発展したこの事件がきっかけで、本来はまったく別であるはずの、コンセルトヘボウ大ホールの運営と、コンセルトヘボウ管弦楽団の運営が、長年の親族運営(ウィレム・メンゲルベルクのオケ運営と再従弟(はとこ)のルドルフ・メンゲルベルクのホール運営)によって癒着が伝統になっていたことが問題視されるようになり、完全に分割、以後はコンセルトヘボウ管弦楽団の運営陣がホールの運営に介入することはできなくなります。
これにより、コンセルトヘボウ管弦楽団が毎年ハーグでの演奏会シリーズをおこなっている一方で、レジデンティ管のコンセルトヘボウ大ホールでの演奏は拒否させていたことも問題になり、1952年のシーズンからようやくレジデンティ管弦楽団のコンセルトヘボウ大ホールでのシリーズが開始されることになります。
●7月、オッテルロー、レジデンティ管弦楽団、オランダ・フェスティヴァル出演。10日がラヴェル・プログラム、14日がレクィエムなどモーツァルト・プログラム。
◆7月26日、オランダ政府によるドイツとドイツ人への敵対行動終結。
●10月、オッテルロー、フィルハーモニア管弦楽団に客演。5月に開場したばかりのロイヤル・フェスティヴァル・ホールで、ベートーヴェン7番、アンドリーセン:リチェルカーレ、ラフマニノフのピアノ協奏曲第2番(カッチェン)を指揮。
●11月、オッテルロー、スペイン国立管弦楽団を指揮。同団首席指揮者のアタウルフォ・アルヘンタ[1913-1958]との交換客演でした。
●Philipsの経営戦略がワールドワイド化
Philipsレーベルの経営戦略がワールドワイド化し、米Columbia(CBS)と販売提携することが決定。英Columbia(EMI)が、米Columbia(CBS)との契約の更新・延長をおこなわなかったため、ヨーロッパでの販売ルートを確保したかった米Columbia(CBS)が、新興レーベルのPhilipsと契約したというものです。
これにより、まず米Columbia(CBS)の主要音源(ワルター、ミトロプーロス、セル、オーマンディ等)をPhilipsでも生産、PHILIPSロゴでヨーロッパ各国に流通させるようになり、また、オッテルローとレジデンティ管弦楽団の音源が各国で発売されることも多くなったため、オーケストラの正式名称「Residentie Orkest(レジデンティ管弦楽団)」ではわかりにくいということで、以下の名称が使用されることが多くなります。
・オランダ語:Residentie Orkest den Haag、Haag Filharmoniske Orkester
・英語:The Hague Philharmonic、The Residency-Orchestra(the hague)
・ドイツ語:Das Philharmonische Orchester Den Haag、Das Residenz-Orchester Den Haag
・フランス語:Orchestre de la Résidence de La Haye
・イタリア語:Filarmonica Dell'Aja、Orchestra della Residenza dell'Aia,
・スペイン語:Orquesta de la Residencia de la Haya
1952年(45歳)
●2月27日、次女ガブリエル誕生。
●5月3,4日、オッテルロー、レジデンティ管弦楽団、ベートーヴェン9番をPhilipsに録音。コンセルトヘボウ大ホールでのセッションで、旅費を節約するためアムステルダム・トーンクンスト合唱団を起用しています。
●6月、オッテルロー、レジデンティ管弦楽団、オランダ・フェスティヴァル出演。ストラヴィンスキー『春の祭典』、ブラームス:ピアノ協奏曲第1番(フライシャー)、モーツァルト『グラン・パルティータ』など3公演。
●6月24日、オッテルロー、オランダ放送フィル、オランダ・フェスティヴァル出演。ベルリオーズ『トロイ人』第2部「カルタゴのトロイ人」。
●10月、オッテルロー、レジデンティ管弦楽団、コンセルトヘボウ大ホールでの演奏会シリーズを開始。話題になった事件の後ということで演奏会は大きな注目を集め、得意の『幻想交響曲』では熱狂的な反応を引き起こしていました。この一連の公演で、レジデンティ管弦楽団の実力が短期間で急成長したことが知られるようになり、オッテルローの能力も広く称賛されるようになります。レジデンティ管弦楽団の翌年のシリーズにはエーリヒ・クライバーも客演し、かつて自分が指揮したときに較べて、驚異的なレベルアップが果たされていることに驚き、オッテルローを祝福してもいました。
1953年(46歳)
●Philipsレーベルと米Columbia(CBS)の販売提携が進む一方で、英Columbia(EMI)は、ヨーロッパ制作音源のアメリカでの販路を強化するため、新たにAngel Recordsを設立(アメリカ制作のEMI系クラシック音源は、2年後に買収のCapitol Recordsで販売)。これに対し、米Columbia(CBS)は、Philips制作ヨーロッパ音源を販売するEpic Recordsを設立し、オッテルローやケンペンなどのアルバムがEpicロゴで登場(↓)することになります(のちにEpicはCBS系自社音源も投入)。
◆1月31日〜2月1日、「北海大洪水」(↓)発生。犠牲者はオランダ1,836人、イギリス326人、ベルギー28人、海上361人。オランダ南西部のデルタ地帯は、戦時中に「連合国軍」によって破壊された堤防の修復が遅れており、多くの犠牲を出す原因のひとつともなっていました。オランダ全土の農地面積の9%が冠水し、家畜3万頭が死亡、建物約47,300棟が損壊(約10,000棟が全壊)し、被災者は10万人とも推計されています。
しかしこの未曽有の災害は、大きな復興計画(デルタ計画)を生み出し、前年比60%増という巨額の投資と、雇用の創出、消費の拡大により、この年のGDPの伸び率は8.4%というオランダ史上例のない数字となり、以後のオランダ経済の活性化に繋がることとなります。
●2月、オッテルロー、洪水被害者支援コンサートを指揮。レジデンティ管弦楽団のほか、デンマーク国立管弦楽団でも指揮。
●オーストリア通貨切り下げによるウィーン響録音活発化
2月、オッテルロー、ウィーン交響楽団とレコーディング。ベートーヴェン6番とピアノ協奏曲第3番(フロート)。これはPhilipsの提案によるもので、当時のオーストリアの経済事情をチャンスと捉えたものでした。
戦後のオーストリアでは、ブレトンウッズ固定相場制下の通貨改革で通貨のシリングが約53%切り下げとなっていました。これは占領国で基軸通貨の国のアメリカ人にとっては大変有利な条件で、さまざまなアメリカ産業や投資マネーがオーストリアに進出、クラシック音楽業界でも、Westminster、Vox、Concert Hall Societyなどといったレーベルがウィーンの音楽家を起用して積極的な活動を展開していました。
オランダの場合は、ブレトンウッズ体制参加や戦後の混乱、ポンド切り下げなどの影響で、ギルダーが12%ほど切り下がってはいましたが、それでもオーストリア・シリングの約53%切り下げに較べれば大幅に有利で、演奏報酬、ホール使用料などが節約できることから利益を生み出しやすくなっており、設立間もないPhilipsレーベルの積極姿勢もしばらく続くこととなります。
もっとも、オッテルローにとってのメインはやはりレジデンティ管弦楽団で、Philipsと契約後の最初の数年間での作成枚数は40枚を超え、オーケストラの総収入の10%に達するという好調ぶりでした。
●4月、オッテルロー、レジデンティ管弦楽団、パリ公演。
●6〜7月、オッテルロー、レジデンティ管弦楽団、オランダ・フェスティヴァル出演。ハイドン88番、バーディングス3番、ファリャ『恋は魔術師』など3公演。
●9月、オッテルロー、コンセルトヘボウ管弦楽団に5年ぶりに客演。
●9月30日〜10月2日、オッテルロー、コンセール・ラムルー管弦楽団とベルリオーズ・アルバム2枚をPhilipsで制作。
●10月、オッテルロー、ミラノ・スカラ座管弦楽団に客演。
1954年(47歳)
◆1月、オーストリア西部フォアアールベルク州のスキー場付近で巨大な雪崩が複数回発生し、125人が死亡。歴史上最大の雪崩事故といわれています(↓)。
●3月、オッテルロー、ウィーン交響楽団とPhilipsにレコーディング。ブルックナー7番、ベートーヴェン:ピアノ協奏曲第4番(フロート)、チャイコフスキ『眠れる森の美女』組曲、パガニーニ:ヴァイオリン協奏曲第1番(クレバース)。
●3月25日、オッテルロー、ウィーン交響楽団と雪崩被害者のためのチャリティーコンサートを実施。曲目はレコーディング中でもあったブルックナーの交響曲第7番。
終演後のレセプションで、オーストリア外交官カール・ヴィルトマンとその娘ズザンネ(↓)に紹介され、オッテルローは彼女に一目惚れしてしまいます。20歳年下のズザンネはオペレッタ指揮者ハンス・ハーゲン[1915-1979]と結婚しており、すでに子供も2人いましたが、夫婦仲は良くなかったということで、2人は強く共感しあい、半年後に結婚しています。
●4月、オッテルロー、レジデンティ管弦楽団、サン=サーンス『オルガン付き』、ラヴェル『高雅で感傷的なワルツ』、ファリャ『三角帽子』ほかをPhilipsに録音。
●4月、オッテルロー、デンマークの「ダネブロー勲章」を授与。デンマーク国王フレゼリク9世のためにハーグの大教会で指揮。フレゼリク9世は指揮者としての活動もする国王でした。
●4月、オッテルロー、レジオン・ドヌール勲章授与。ルネ・コティ大統領のためにハーグの大教会で指揮。
●オッテルロー、多忙なスケジュールにも関わらずズザンネへの電話は欠かさず、土曜日の夜はウィーンに出かけ、日曜日の夜にはハーグに戻り、月曜の朝のリハーサルに臨むという生活を続けていました。しかしハーグでの家庭環境は当然ながら緊迫したものとなっていたので、見かねたコンサートマスターのヘルマン・クレバース(↓)は、しばらく自宅にオッテルローを住まわせることにします。
●5月、オッテルロー、オランダ放送フィルと『フィガロの結婚』。
●5月、ズザンネ、ハンス・ハーゲンと離婚。
●5月末、オッテルロー、ウィーンに数日間滞在したのち、ズザンネと10日間のイタリア旅行。6月9日にハーグに戻り、オランダ・フェスティヴァルの準備。
●6月、オッテルロー、クレバースの家を出て、ヒルフェルスムのホテル・ヘイデパークに移ります。
●6月16日、オッテルロー、レジデンティ管弦楽団、オランダ・フェスティヴァル出演。ワーヘナール『シラノ・ド・ベルジュラック』序曲、フランク『プシシェ』、ショパン:ピアノ協奏曲第1番(ルービンシュタイン)。ちなみにこの年のオランダ・フェスティヴァルでレジデンティ管弦楽団は、クレンペラーとマーラー4番、ブルックナー4番、ジュリーニとブラームス4番と、4番づくしのプログラムを演奏しており、オッテルローの指揮した『プシシェ』もフランクの4番目の交響詩でした。
●7月、オッテルロー、オランダ放送の主宰するマスタークラスの指揮者コースで、フェルディナント・ライトナー[1912-1996]と共に講師を担当。参加者にはハイティンクもいました。
●8月、オッテルロー、アルゼンチン国立交響楽団に客演。幻想交響曲やチャイコフスキー4番、ブルックナー7番など得意レパートリーを指揮。聴衆の反応は熱狂的で、チャイコフスキー4番が終わると興奮した人々が何十人もステージに上がってきてオッテルローに握手を求めるという異常事態にオッテルローも感激。また、地元の名士でアマチュア・ヴァイオリニストでもあるローゼンタールの屋敷に招かれたオッテルローは、そこで、13歳のアルゲリッチ、11歳のバレンボイムの弾くピアノで歓迎され、のちにはアルゼンチンの音楽批評家協会から1954年度の最高の外国人指揮者と称えられてもいました。
●9月20日、オッテルロー、アネッテと2度目の離婚。アネッテと4人の子供たちはアムステルダムに転居。通算3度目の離婚。
●9月30日、オッテルロー、ズザンネ・マリア・アンナ・ヴィルトマンとウィーンで結婚。通算4度目の離婚。
●10月中旬、ズザンネは子供2人を連れてハーグ郊外のワッセナールに転居します。
●11月20日、オッテルロー、ユリアナ女王(↓)よりオラニエ=ナッサウ勲章を授与。ハーグの市長からは特別賞銀メダルを授与されます。
●12月、オッテルロー、ハーグ・トーンクンスト合唱団の音楽監督を多忙を理由に辞任。ちなみに前年の逃避行のお相手はこの合唱団の歌手でした。
1955年(48歳)
●2月、オッテルロー、レジデンティ管弦楽団、各種協奏曲をPhilipsにレコーディング。
●3〜4月、オッテルロー、ウィーン交響楽団、モーツァルト36、38番、ピアノ協奏曲12、12番をPhilipsにレコーディング。
●4月、オッテルロー、レジデンティ管弦楽団、モーツァルト29、34番をPhilipsにレコーディング。
●5〜6月、オッテルロー、アルゼンチン国立交響楽団に客演。
●7月、オッテルロー、レジデンティ管弦楽団、オランダ・フェスティヴァル出演。ブルックナー9番、モーツァルト『魔笛』序曲、フランク『プシシェ』、バーディングス:2台のヴァイオリンと管弦楽のための協奏曲(クレバース、オロフ)。
●8月9日、アンドレア誕生。
●9〜10月、オッテルロー、南アフリカに客演。プレトリア、ケープタウン、ヨハネスブルクをまわり、ブルックナー4番、ディーペンブロック『エレクトラ』、ベートーヴェン7番、シューベルト5番などを指揮。
●11月、オッテルロー、ブリュッセル、パリ、トゥールーズに客演。
●11月、オッテルロー、レジデンティ管弦楽団、バーディングス3番と2台のヴァイオリンと管弦楽のための協奏曲をPhilipsにレコーディング。
●12月、オッテルロー、ワシントン・ナショナル交響楽団に客演。
1956年(49歳)
●1月、オッテルロー、パリのコンセール・コロンヌ管弦楽団に客演。
●1月、オッテルロー、レジデンティ管弦楽団、ブラームス:ピアノ協奏曲第2番(ウニンスキー)、ベートーヴェン『献堂式』序曲をPhilipsにレコーディング。
●2月、オッテルロー、ウィーン響、ベートーヴェン:ピアノ協奏曲第1番、第2番(フロート)をPhilipsにレコーディング。
●3月、オッテルロー、レジデンティ管弦楽団、レーガー『ロマンティック組曲』、リスト『ハンガリア』、ヴェーバー2番、ベートーヴェン『レオノーレ』序曲第3番をPhilipsにレコーディング。
◆4月、オランダの家庭への電力供給が110ボルトから、効率の良い220ボルトに変更。作業はハーグから開始されます。
●5月、オッテルロー、レジデンティ管弦楽団、マーラー4番、リスト『タッソー』ほかをPhilipsにレコーディング。
●5月、オッテルロー、レジデンティ管弦楽団、2週間に及ぶイタリア南北縦断ツアーを初めて敢行。陸路では楽員たちは列車、オッテルローは愛車の青いポンティアック(↓)での移動でしたが、事務局がイタリアの鉄道のおおらかな運行状況を甘く見ていたおかげで楽員たちのスケジュールは困難なものとなり、シチリア島からの移動は特に時間がかかって、バーリへの到着は、実に数時間遅れとなってしまいます。しかし聴衆が驚異的な忍耐で待っていてくれたおかげで公演はなんとか実施され、深夜1時半までかけて懸命に演奏し、期待に応えて無事終了。ちなみに高速運転で知られたオッテルローは、ポンティアックに妻ズザンネと事務局のシトロエンを載せてとばしまくり、どの公演地にも楽員たちよりかなり早く到着して準備していました。楽員たちはそのスピードに驚き、「運を天に任せてオッテルローとドライヴしよう!」というスローガンを考えたとか。
●6月、オッテルロー、レジデンティ管弦楽団、オランダ・フェスティヴァル出演。ブルックナー5番、ディーペンブロック『鳥たち』序曲、ベートーヴェン:ピアノ協奏曲第1番(アラウ)。
●11月、オッテルロー、ハレ管弦楽団に客演。バルビローリとの交換客演で、『ドン・ジョヴァンニ』序曲、ブラームス3番などを指揮。
1957年(50歳)
●2月、オッテルロー、オランダ放送フィル、レーガー:ヒラー変奏曲で注目されます。これはレジデンティ管と演奏して高評価だったものを改めて放送でも取り組んでみたものですが、カイルベルトのLPと較べても、フーガの扱いや細かい部分の表現、正確なダイナミクスなどで優っているという批評も登場。複雑な作品を得意とするオッテルローが真価を発揮する作品でした。
●3月、オッテルロー、レジデンティ管弦楽団、レーガー:モーツァルトの主題による変奏曲とフーガ、ムソルグスキー『展覧会の絵』をPhilipsにレコーディング。
◆3月25日: 欧州経済共同体(EEC)設立
●6月、オッテルロー、レジデンティ管弦楽団、オランダ・フェスティヴァル出演。ペイペル2番、レーガー『ヒラー変奏曲』、ベートーヴェン:ピアノ協奏曲第4番(カーゾン)。
●9月、コンサートマスターのテオ・オロフ宛にクレンペラーから電話。フィルハーモニア管弦楽団コンサートマスターのパリキアンが辞任するので、後任をオロフにお願いしたいという申し出でしたが、オロフは事務局と協議の上、断ります。シーズンの終わりには、もう一人のコンサートマスター、クレバースのもとに、コンセルトヘボウ管弦楽団からコンサートマスターが亡くなったため、後任になって欲しいと連絡があり5年契約を示されますが、クレバースもこれを拒否。双頭体制が続くことになります。
1958年(51歳)
●2月、オッテルロー、ウィーン響、ベートーヴェン5番、ムソルグスキー『禿山の一夜』、ボロディン『だったん人の踊り』をフィリップスにレコーディング。
●5月、オッテルロー、レジデンティ管、イタリア・ツアー。北部の都市、トリノ、モデナ、ミラノ、ペルージャ、ラクイラを周ります。
●7月、オッテルロー、レジデンティ管弦楽団、オランダ・フェスティヴァル出演。ブルックナー3番、ベートーヴェン『レオノーレ』序曲第2番、他。
●9月、オッテルロー、ウィーン響、ミシェル・オークレール、ブラームス:ヴァイオリン協奏曲をフィリップスにレコーディング。
●10月14日、オッテルロー、クレバース、オロフのジュビリー・コンサート。11人のオランダ人作曲家による『ティル・オイレンシュピーゲル変奏曲』、オッテルロー『イントラーダ』ほかをレジデンティ管弦楽団と演奏。会場は豪華なクアハウスで、文部科学大臣からの祝いの言葉があったほか、フィリップスからは指揮者生活25周年記念品として黄金の指揮棒を贈呈されています。碑文は「1933-1958 Aan Willem van Otterloo, Baarn 14 oktober 1958」でした。
なお、オッテルローは大臣の祝辞への返礼演説で、補助金制度で異例の厚遇を受けているコンセルトヘボウ管弦楽団のことを批判してしまい、同楽団関係者の顰蹙を買います。しかし、オッテルローはその後も活動を続け、ドイツ占領時代につくられ、その後さらに不公平になっていった補助金カテゴリー・システムの見直しの訴えを継続。4年後、オランダ国内のすべてのオーケストラで、同一賃金体系が適用され、コンセルトヘボウ管弦楽団とレジデンティ管弦楽団のみ、そこにそれぞれ20%、10%の金額が加算されるという形で決着します。
●12月、オッテルロー、レジデンティ管、ウニンスキー、ショパン:ピアノ協奏曲第2番をフィリップスにレコーディング。
●オッテルロー、オスロ・フィルに客演。
1959年(52歳)
●2月、オッテルロー、コンセルトヘボウ管に客演。ベイヌム体調不良のため。
●4月13日、ベイヌム、ブラームス1番のリハーサル中に倒れて死去。
●5月、コンセルトヘボウ管弦楽団首席指揮者の後任探しが始まりますが、中心となる役員2人、マリウス・フロトゥイス[1914-2001]とベルネット・ケンペルス[1897-1974]が、ともに占領中に収容所に入れられていたことから、占領中に活動していた世代の指揮者が彼らによって選ばれるとは考えにくい状況であり、「オランダ人」で「若手」のハイティンクが即座に選ばれています。オケの楽員だったハイティンクは1955年のマスタークラス受講後にオランダ放送フィルの第2指揮者になり、直後にケンペンが急死、約1年後の1957年1月に首席指揮者就任、そして1959年のベイヌムの急死でコンセルトヘボウ管の首席指揮者というスピード出世でした。
ちなみにコンセルトヘボウ管弦楽団は、戦後、メンゲルベルクのきついリハーサルから解放され、ベイヌムのもとで14年間も普通の練習量で過ごしていたことから、ジョージ・セルのような練習のきびしい指揮者が大の苦手となっており、ベイヌムの死の数か月前にもセルと衝突していました。楽員がセルに付けたあだ名には、「Szell」と「straf(懲罰)」を接続した「Szellstraf(セルストラーフ)」というものがありますが、同じ発音のオランダ語には「投獄」を意味する「Celstraf(セルストラーフ)」という単語もあるので、ダジャレにもなっているという念の入りようです。オッテルローもセルと同じく練習のきつい「懲罰」系指揮者なので、楽員に快く受け入れられる可能性は低いものの、コンセルトヘボウ管の楽員に決定権は無いので、やはり占領下で活動していたことが問題だったと思われます。
●6月、オッテルロー、レジデンティ管弦楽団、ノルウェー・ツアー。
●6月、オッテルロー、レジデンティ管、『カルメン』組曲、『アルルの女』組曲をドイツ・グラモフォンにレコーディング。
●6月、オッテルロー、レジデンティ管、シューベルト8番、ベートーヴェン8番をフィリップスにレコーディング。
●6月、オッテルロー、レジデンティ管弦楽団、オランダ・フェスティヴァル出演。ハイドン101番、ヤナーチェク:シンフォニエッタ、他。
●7月、オッテルロー、レジデンティ管、『幻想交響曲』をフィリップスにレコーディング。1955年にショパンコンクールで優勝したハラシェヴィチとのラフマニノフのピアノ協奏曲第2番も録音予定でしたが、ピアニストがまともに弾けなかったため中止となっています。
●7月、オッテルロー、レジデンティ管、アスケナーゼ、ショパン:ピアノ協奏曲第1番、『クラコヴィアク』をドイツ・グラモフォンにレコーディング。
●8月、オッテルロー、レジデンティ管、オルテル:交響曲第2番をフィリップスにレコーディング。
●オッテルロー、オスロ・フィルに客演。
1960年(53歳)
●オッテルロー、国際マーラー協会会長で、音楽学者、楽譜校訂者のエルヴィン・ラッツ[1898-1973]により国際マーラー協会名誉会員に選出。
●オッテルロー、レジデンティ管、にイタリア・ツアー。ミラノ、トリエステ、フィレンツェを周ります。
●オッテルロー、オスロ・フィルに客演。
●オッテルロー、コンセルトヘボウ管弦楽団に客演。
●5月、オッテルロー、レジデンティ管、デル・プエヨ、チャイコフスキー:ピアノ協奏曲第1番の録音に取り組むもののピアニストの調子が悪く中止。
●5月、オッテルロー、レジデンティ管、シューベルト5番、『ロザムンデ』から、マイヤーベーア『戴冠式行進曲』、プロコフィエフ『3つのオレンジへの恋』行進曲、ベルリオーズ『ラコッツィー行進曲』、ベートーヴェン『トルコ行進曲』をフィリップスにレコーディング。
●6〜7月、オッテルロー、ネーデルラント・オペラ、オランダ・フェスティヴァル。バーディングスのオペラ『マルティン・コルダ』を初演(↓)。強制収容所や難民を題材とし、電子音なども用いて描いたオペラ。1960年は世界難民年ということもあって、公演は5回おこなわれ、この種の現代作品としては大きな注目を集めています。
●6月、オッテルロー、レジデンティ管弦楽団、下旬にポルトガル・ツアー。ベートーヴェン9番、幻想交響曲、ほか。
●7月、オッテルロー、レジデンティ管弦楽団、オランダ・フェスティヴァル出演。ベートーヴェン1番、ショパン:ピアノ協奏曲第1番(マガロフ)、ペイペル3番、ラヴェル『スペイン狂詩曲』。
●7月、オッテルロー、レジデンティ管、シベリウス『フィンランディア』、『悲しきワルツ』、グリーグ『ノルウェー舞曲』、ヤルネフェルト』子守歌』をフィリップスにレコーディング。
●7月、オッテルロー、レジデンティ管、イギリス・ツアー。ブルックナー5番、バーディングス:二重協奏曲、幻想交響曲、ほか。
●ヨッフムによるクレバース引き抜き
秋、ヘルマン・クレバース、コンセルトヘボウ管弦楽団の新首席指揮者オイゲン・ヨッフム[1902-1987](↓)と、監督のピート・フウェケマイヤー[1915-2008]と会談し、コンサートマスターの誘いを受けます。クレバースは1950年にオッテルローに招かれてレジデンティ管に入団、1957年秋にはコンセルトヘボウ管からの誘いを断っており、1958年にはその代償としてレジデンティ管と金額面で有利な5年契約を結んでもいました。まだ3年ほど契約期間が残っており、うまく対応しないと契約不履行で提訴の可能性もありましたが、とりあえず申し出を承諾。
クレバースはその日のうちにオッテルローに報告し、不興を買いますが、オッテルローは、契約期間が半分以上残っている演奏家を引き抜こうとする先方の強引さは、一度の引き抜きで収まるはずはないと考え、クレバースを諦めるよう理事会を説得、ほかの楽員まで奪われないよう、首席クラスの奏者には、長期契約への変更でボーナス750ギルダーを追加で支払うほか、昇給も検討するなど、防御にまわることとします。
新首席指揮者のヨッフムは、戦後の非ナチ化裁判の際、行動調査が始まるという情報を得ると、すぐに南ドイツのミュンヘンから北ドイツのハンブルクに移って事なきを得ていた人物で、これは、ミュンヘンではアメリカ占領軍政府がきびしく裁いていたため有罪確率が高く、ハンブルクはイギリス占領軍政府が裁いていたため無罪確率が高いということを事前に把握して知っていたからこそ実現できたことでもあります。ハンブルクでの仕事を終えたヨッフムは、1948年からはバイエルン州文化大臣の推薦を得て、バイエルン国立歌劇場で、音楽監督のショルティの4倍の報酬で定期的に指揮するようになり、さらにバイエルン放送交響楽団創設にあたって首席指揮者に任命されると、ケッケルト四重奏団をとりこむなど優秀な人材を集めることにも尽力するというやり手でした。
コンセルトヘボウ管弦楽団との関係はドイツ占領下の1941年に始まっており、メンゲルベルクが各種報道により指揮しにくくなっていたことから、占領中はヨッフムが「第1指揮者」を務めていました。しかしなぜかそのことが問題視されることは無く、「ケンペン暴動事件」のほとぼりが冷めた1952年からはコンセルトヘボウ管への客演数も増加、ベイヌムが急死すると首席指揮者にすみやかに就任という流れとなります。
ちなみにヨッフムの実弟、ゲオルク・ルートヴィヒ・ヨッフム[1909-1970]は元ナチ党員で、戦時中は併合下リンツの音楽総監督を務め、歌劇場のほか、新設された「帝国ブルックナー管弦楽団」の指揮者を兼ねていた人物ですが、非ナチ化裁判の判決は軽く、1946年には、イギリス占領軍政府の管轄地域、デュースブルク市音楽総監督に就任していました(戦前の同職には兄の名前もありました)。
なお、クレバースの後任は、ロッテルダム・フィルのコンサートマスターで、作曲や室内オケの指揮もし、バロックにも造詣の深い多彩な人物、ウィレム・ノスケ[1918-1995]です。
●12月、オッテルロー、レジデンティ管、マーラー3番、ベルク:ヴァイオリン協奏曲(オロフ)、ほか。大成功を収め、追加公演も開催。
1961年(54歳)
●1月18日、オッテルロー、レジデンティ管弦楽団との1,000回目のコンサート。11年と8か月、140か月で達成したことになります。
◆3月、ギルダー、5%切り上げ。
●3月、オッテルロー、ローマ聖チェチーリア管弦楽団に客演。規律の欠如に最初は驚くものの何とかまとめ上げます。
●春、オッテルロー、レジデンティ管、ベートーヴェン:ミサ・ソレムニス。
●5月、オッテルロー、オランダ放送フィル首席指揮者契約に署名。
●5月、オッテルロー、レジデンティ管、アイルランド・フェスティヴァル出演。
●5月、オッテルロー、レジデンティ管、ミュンヘン、オランダ週間出演。
●6月、オッテルロー、レジデンティ管、オランダ・フェスティヴァル出演。ハイドン95番、モーツァルト:ピアノ協奏曲第19番(ヘンケマンス)、ヘンケマンス:パッサカリアとジーグ、ヤナーチェク『タラス・ブーリバ』。
●6月、オッテルロー、レジデンティ管、グリーグ、アルヴェーン、スヴェンセンをフィリップスにレコーディング。
●9月、オッテルロー、レジデンティ管、ドイツ・ツアー。
●9月、オッテルロー、レジデンティ管、ヴェルディ:レクィエム、オネゲル『火刑台上のジャンヌ・ダルク』ほか。
●11月、オッテルロー、オランダ放送フィル、土曜のマチネー・コンサート・シリーズをスタート。
●12月、オッテルロー、ウィーン響、マガロフ、ベートーヴェンピアノ協奏曲第5番をフィリップスにレコーディング。
1962年(55歳)
●Philipsは、Mercuryと販売提携。米Columbia(CBS)系のEpicに代わってPhilips音源をアメリカに供給する役目を担わせますが、のちに吸収合併。オッテルローのアルバムもMercuryロゴで登場(↓)。
●1月、オッテルロー、バンベルク交響楽団に客演。
●1月、オッテルロー、オスロ・フィルに客演。
●1月、ブーレーズ、レジデンティ管弦楽団デビュー。ブーレーズの客演は現代作品が多すぎると一部の理事から批判されますが、オッテルローは、現代作品の必要性を説き、事態をなんとか収拾します。
●3月、オッテルロー、テアトロ・コロンのオーケストラ・コンサートに客演。ブルックナー4番、ベルリオーズ『幻想交響曲』、ドビュッシー『夜想曲』、ラヴェル『ダフニスとクロエ』、ストラヴィンスキー『詩篇交響曲』等をとりあげます。また、劇場の役員の娘と親しくなり、その後も連絡を取り合う関係となります。
◆5月、オランダ、西イリアン(パプア州)の行政権をインドネシア政府に移譲。植民地支配の終焉。前年からのインドネシア・ゲリラとオランダ軍の戦闘に際し、国連が介入、国連臨時行政局が一時的に行政権を掌握していたもの。
●5月、オッテルロー、レジデンティ管、ハイドン45、55番をドイツ・グラモフォンにレコーディング。
●5月、オッテルロー、通信販売の本格化で規模を大幅に拡大していたアメリカのレーベル「コンサートホール・ソサエティ」のヨーロッパ法人と契約。まずウィーン交響楽団を指揮して、マーラー1番、ベートーヴェン7番、『シュテファン王』序曲、R=コルサコフ『シェエラザード』をレコーディング。録音会場はウィーンのレオポルトシュタットにある「ホテル・バイエリッシャー・ホーフ(バイエルン宮廷の意)」(↓)。なお、当時の契約の関係で、ウィーン交響楽団の名前が使えず、「ウィーン祝祭管弦楽団」という名前を使用していました。
●6月、オッテルロー、オランダ放送フィル、同合唱団、オランダ・フェスティヴァル出演。ディーペンブロック:交響組曲『エレクトラ』、バルトーク:ヴァイオリン協奏曲第2番(シェリング)、フランク『プシシェ』。
●夏、オッテルロー、オーストラリア・ツアー。このツアーでは妻のズザンネは娘が小さかったため同行できなくなり代わりに2番目の妻アネッテとの20歳の息子、ロジェが一緒にオーストラリア各地を周ることになります。ロジェはジャズ・ミュージシャン志望でした。
●ドイツ占領時代につくられ、その後さらに不公平になっていったオランダのオーケストラの補助金カテゴリー・システムが見直され、オランダ国内のすべてのオーケストラで、同一賃金体系が適用、コンセルトヘボウ管弦楽団とレジデンティ管弦楽団のみ、そこにそれぞれ20%、10%の金額が加算されるという形で決着。
●8月、ヘルマン・クレバース退団。
●9月1日、オッテルロー、オランダ放送フィル首席指揮者に就任。ジャン・フルネ[1913-2008]との共同体制で、オッテルローが3か月、フルネが5か月、ほかは客演という配分でした。
●オッテルロー、レジデンティ管弦楽団、マーラー2番。
1963年(56歳)
●1月、ブルーノ・マデルナ[1920-1973]、レジデンティ管に初客演。以後もブーレーズと並んでレジデンティ管に客演を繰り返し、オッテルローと共に、20世紀音楽の牙城としてのレジデンティ管の地位を高めて行きます。
●4〜5月、オッテルロー、レジデンティ管、北米ツアー(↓)。5週間で27回のコンサートを開催。すべてオッテルローの指揮でした。演奏水準は常に高く維持され、うるさ型の評論家クローディア・キャシディも、ハロルド・ショーンバーグも絶賛。シカゴではシカゴ響楽員たちとミーティングを開くなど異例の歓待も受けています。
●6月、オッテルロー、レジデンティ管、デン・ハーグ・トーンクンスト合唱団、オランダ・フェスティヴァル出演。シューベルト『未完成』、ブラームス『アルトラプソディ』、ベートーヴェン9番。
●9月17日、母アンナ死去。
●11月、オッテルロー、ユトレヒト響、自作シンフォニエッタ。
●オッテルロー、オーストラリア・ツアーで成功。
●オッテルロー、レジデンティ管首席指揮者としての年俸が75,000ギルダーに引き上げられます。これはコンセルトヘボウ管弦楽団の首席指揮者、オイゲン・ヨッフムの退任に伴い、テレビ報道などで後任がオッテルローの可能性ありと騒がれたことと、ちょうど契約更新時期を控えていたため、理事会が急遽決定したものです。
1964年(57歳)
◆オランダ北東部で1959年に発見された超巨大天然ガス田「フローニンゲン・ガス田」での生産が開始。オランダに好景気の波が押し寄せ、補助金や公務員給与など公的支出の拡大傾向が続きます。
●1月、イシュトヴァン・ケルテス、レジデンティ管に客演。
●1月、オッテルロー、コンセルトヘボウ管、フランク:交響曲、『アイオロスの人々』をフィリップスにレコーディング。
●4月、オッテルロー、レジデンティ管、ドイツ・ツアー。
●5月、オッテルロー、レオランダ放送フィル、ドイツ・ツアー。
●6月、オッテルロー、レジデンティ管、オランダ・フェスティヴァル出演。オッテルロー『イントラーダ』、オルテル2番、ディーペンブロック『テ・デウム』、マーラー3番。
●6月、オッテルロー、シカゴ響に客演。
●6月、オッテルロー、ニューヨーク・フィルから急遽客演要請を受けますが、アルゼンチンとウルグァイへの客演が決まっていたため。断ります。
●9月、オッテルロー、レジデンティ管、コンサートホール・ソサエティに1週間かけて多くの作品をレコーディング。曲目はベートーヴェン8番、9番、シューマン4番、チャイコフスキー:ピアノ協奏曲第1番、ブラームス:ピアノ協奏曲第2番、ショパン:クラコヴィアク(マガロフ)。同時期にシューリヒトもブルックナー7番をレコーディング。フィリップスでは、レジデンティ管のレコーディングはコンセルトヘボウ大ホールまで出向いておこなわれていましたが、コンサートホール・ソサエティの場合は、経費節減のため、ハーグのウィレムス教会(↓)が使用されています。
●12月18日、レジデンティ管の本拠地、芸術科学劇場が全焼(↓)。以後、1969年の新ホール完成までの23年間、スヘーフェニンゲンのクアハウスを中心にさまざまなホールで演奏することとなります。
●12月、オッテルロー、シカゴ響に客演。ブラームス1番、ほか。
1965年(58歳)
●オランダでポルシェ911発売。オッテルロー宅にはすでにポルシェがありましたが、スピード狂のオッテルローは迷わず買い替え。
●1月、オッテルロー、年末から引き続きシカゴ響に客演。マーラー4番、ほか。当時のシカゴ響では、組合問題などをめぐって理事会と楽員が対立、理事会の意を汲んだ批評家による攻撃が続いていた時期で、首席指揮者のマルティノンも徹底的に叩かれて1968年には辞任という状況。前回好評だったオッテルローも巻き込まれ、低レベルな攻撃に晒されていました。
●1月、オッテルロー、ニューヨーク・フィルに客演。帰りの飛行機でハイティンクと一緒になり歓談。
●1月、オッテルロー、オランダ放送フィル、H.アンドリーセン『クープランの主題による変奏曲』、ほか。
●2月、ブーレーズ&レジデンティ管、ヘンデル『水上の音楽』をコンサートホール・ソサエティにレコーディング。これはコンサートホール・ソサエティの担当者が、オッテルロー、レジデンティ管にステレオでの再録音を依頼したものでしたが、オッテルローの都合がつかず、ハーグにいたブーレーズが指揮をすることになったというものです。ちなみにブーレーズはこの録音でヘンデルにはまったのか、ほかの曲の録音もおこなうようになり、また『水上の音楽』についても、一部解釈を変更して1974年にニューヨーク・フィルと再録音しています。
●3〜4月、オッテルロー、レジデンティ管、北米ツアー。低地オランダから標高1,600メートルのデンバーに行ったことで、管楽器奏者は苦労します。
●4月、オッテルロー、デュッセルドルフ交響楽団に客演。シカゴと同じくマルティノンからの招待でした。
●5月、オッテルロー、レジデンティ管、フォールモーレン:チャコーナとフーガ、ほか。
●6月、オッテルロー、イタリアで休暇。
●7〜9月、オッテルロー、オーストラリア・ツアー。ベートーヴェン3番、9番、レーガーなどで成功。
●秋、オッテルロー、レジデンティ管、ハルトマン6番、ペイペル3番、ヘンツェ:ヴァイオリン協奏曲、ヴェーベルン、ほか。
●11月、オッテルロー、オランダ放送フィル、J.アンドリーセン:フルート協奏曲、ほか。
●12月、オッテルロー、レジデンティ管、マーラー『大地の歌』、ほか。公演後、高血圧症が悪化。オーストリアで家族と静養(↓)。
1966年(59歳)
●1月、オッテルロー、レジデンティ管、スメタナ『売られた花嫁』抜粋ほかをフィリップスにレコーディング。
●1月、オッテルロー、コンセルトヘボウ管、デルデン:フルート協奏曲、ほか。
●3月、オッテルロー、レジデンティ管、モンニケンダム交響的断章『労働』、ほか。
●3月、オッテルロー、レジデンティ管、ドイツ・ツアー。
●4〜5月、オッテルロー、レジデンティ管、ストラヴィンスキー・シリーズ、バレエ上演も交えて大成功。
●5月、オッテルロー、オランダ放送フィル、ペイペル:ピアノ協奏曲、ほか。
●5月、ハーグに近いロッテルダムに、コンサートホール「デ・ドゥーレン」が誕生。「デ・ドゥーレン」は、1934年に開場し、わずか6年後にドイツの空襲により破壊されたホールの後継施設。大ホールは2,200席で響きも豊か、本拠地を火災で失ったばかりのオッテルローとレジデンティ管の面々を羨ましがらせます。ちなみにオープニング・シリーズには、ドイツのオケ、ベルリン・フィルも招待され、幻想交響曲などをカラヤンの指揮で演奏していました。
●7月、オッテルロー、レジデンティ管弦楽団、オランダ・フェスティヴァル出演。ラヴェル『ダフニスとクロエ』全曲、ベートーヴェン『ミサ・ソレムニス』、他。
●オッテルローの公演数が増大。1966-1967シーズンのオッテルローは、パリ、ケルン、マドリード、東京への客演のほか、レジデンティ管の公演が82公演(オペラ9公演)という多忙さでした。
●10月、オッテルロー、レジデンティ管と劇場で『フィデリオ』を上演。オケの驚異的な細かさで話題となります。
●11〜12月、オッテルロー、来日。読売日本交響楽団に客演。ブルックナー、フランク、ベートーヴェン、チャイコフスキー、シューベルトなど。
●12月、オッテルロー、レジデンティ管、マーラー5番、『英雄の生涯』、ほか。
1967年(60歳)
●2〜3月、オッテルロー、レジデンティ管、スイス・ツアー。
●5月、オッテルロー、メルボルン交響楽団の首席指揮者に就任。9月までの長期滞在。
●オッテルロー、メルボルン交響楽団、北米&ハワイ・ツアー。モントリオール万博でも2度演奏。
●10月、オッテルロー、レジデンティ管、プロコフィエフ『スキタイ組曲』、ブルックナー6番、マーラー1番、ラヴェル『マ・メール・ロワ』、ほか。
●11月、オッテルロー、レジデンティ管、デ・ロース:管弦楽のためのコンポジション、ほか。
●12月、オッテルロー、オランダ放送フィルの首席指揮者としての仕事が増大。これは共同首席指揮者のジャン・フルネが自動車事故のため不在となったことによるものです。さっそく、『カルミナ・ブラーナ』で代役を務めます。
●12月、オッテルロー、オーストリアのスキー・リゾート、キッツビュールで、家族と60歳の誕生日パーティー(↓)。子供たち7人のうち6人と、長男の妻、次男の妻、およびズザンネの9人が集まって家族でお祝い。オランダでは60歳は「王冠の年(クローンヤール)」と呼ばれる特別な年齢ということで、ハイティンクや、作曲家のバーディングス、オルテル、レーサー文化大臣、作曲家でオランダ公共放送編成担当者のケルコフらの祝電も届きます。
1968年(61歳)
●1月、オッテルロー、ロチェスター・フィルとアメリカ交響楽団に客演。アメリカ交響楽団では創設者ストコフススキー自身によるリハーサルも見学。放送も入ったオッテルローによる本番では、ブルックナー3番、モーツァルト38番、フランク『プシシェ』を演奏。
●4月、オッテルロー、レジデンティ管、前年のストラヴィンスキー・シリーズに続き、ラヴェル・シリーズ、バルトーク・シリーズ開催、市立劇場で『子供と魔法』、『青ひげ公の城』も上演。
●メルボルン響首席指揮者辞任
5月21日、オッテルローは妻と共にメルボルンに到着。首席指揮者として2度目のシーズンでしたが、本拠地ハーグでの不満からこのシーズンで辞任することになります。
レジデンティ管の楽員有志37名から1967年3月と1968年2月の2度に渡って理事会宛に提出された意見書により、連絡評議会では首席指揮者の海外での「要職兼務」による長期不在がハーグでの本業を妨げているといったことが話し合われ、オッテルローがメルボルン響首席指揮者を続けることが困難になっていたことが理由です。
オッテルローは8月末までの3か月オーストラリアに滞在し、メルボルン響33公演、他のオーケストラ3公演を指揮しています。滞在中、楽団支援者の実業家ジョン・フレッチャー(ハンス・フライシャーから改名したユダヤ系ドイツ人)らと親しくなり、以後も交流を継続。
●10月、オッテルロー、オランダ放送フィル、アンドリーセン2番、バーディングス:ハープ協奏曲、ほか。
●10月、マデルナ、レジデンティ管とベルリン公演。楽員とトラブルになり、2名がステージから降ります。
●レジデンティ管、3度目の抗議
10月、レジデンティ管の楽員有志43名が、理事会に3度目の意見書を提出。連絡評議会で話し合いがもたれ、オッテルローの指揮回数が減少し、この半年間だけ見ても一度もレジデンティ管を指揮していないことにより、短期の客演だけで公演をこなすことになり、楽団の演奏水準が低下していること、主要な客演指揮者の現代音楽志向がさまざまな問題を引き起こしていることなどが指摘されます。10年前にはライバルはコンセルトヘボウ管弦楽団でしたが、今はロッテルダム・フィルがライバルという状況にまでオーケストラの水準は下がっていました。
打開策として、オッテルローの公演数の増加と、2人目の常任指揮者が就任すること、そして楽員代表者数名が理事会入りすることが要求されます。
●11月、オッテルロー、レジデンティ管、ブルックナー6番、ほか。
●11月、オッテルロー、レジデンティ管、ドイツ&スイス・ツアー。
1969年(62歳)
●1月、オッテルロー、レジデンティ管、北米ツアー。
●レジデンティ管弦楽団常任客演指揮者、岩城宏之
2月、楽員3名が参加した理事会が開かれ、常任客演指揮者として、オッテルローより25歳若い岩城宏之[1932-2006](↓)の名前が発表。レジデンティ管弦楽団の「常任客演指揮者」は、実質的に「第2首席指揮者」と同じで、過去には、カール・シューリヒト[1930-1939在任]、ジョージ・セル[1937-1939在任]といった有名人も就任していました。
岩城宏之は5月に就任し、シーズンに3か月間、レジデンティ管弦楽団を指揮することになります。
●レジデンティ管の本拠地が決定
3月14日、ハーグにオランダ議会ビル(コンフレスヘボウ)がオープンし、プリンス・ウィレム・アレクサンダー・ザールが使用できるようになります(↓)。1964年の火事から5年間、隣町のスヘーフェニンゲンのクアハウスを中心におこなってきた公演を、ようやくハーグでおこなえるようになります。座席数は2,161。ただし、本来は会議場なので、音響条件は「コンセルトヘボウ大ホール」や「デ・ドゥーレン」には遠く及ばず、音響面の改修工事が必要でした。
●4月、オッテルロー、ネーデルラント・オペラで『フィデリオ』上演。ルドルフ・ハルトマン演出、フレ・ブロウエンステインのタイトル・ロールで3公演。
●7月、オッテルロー、アルゼンチンで客演。ブエノスアイレス・フィルハーモニーなどを指揮。
●7月31日、オッテルロー、シドニーに到着。メルボルン響に客演し、ベートーヴェン3番で成功、ベルリオーズ没後100周年特集では得意レパートリーを披露し、今シーズンの目玉であるマーラーの2番も指揮。新作ではヒューズ:シンセシスなどがあり、最後、9月7日には、市庁舎でベルリオーズ『キリストの幼時』を演奏していました。
●レジデンティ管の反乱
9月4日、レジデンティ管、自分たちの発言権を強めるために「芸術委員会」を結成。音楽評論家に調査を依頼し、オッテルローを非難する報告書をまとめることで、首席指揮者の権限を大幅に弱めることを狙います。それによりレパートリーの選定に対して楽員の発言も考慮されるようになり、これまで避けられていた演目もとりあげることができるようになりました。
たとえばオッテルローはなぜかフェルミューレンの作品を無視していましたが、楽員たちは演奏したがっており、芸術委員会の会議場で、交響曲第2番のスコアを出して提案、ぞんざいな扱いを受けるものの、委員会判断で演奏されることが決定し、1970年10月に、岩城宏之の指揮でコンサートで取り上げられることになります。ちなみに岩城宏之は現代作品に強く、また、ハーグやメルボルンなど作曲委嘱の多い自治体や放送局の関連組織(楽団)で長く働いていたこともあって、生涯の初演曲数は2,000曲に及ぶといいます。
●読売日本交響楽団に客演、カローラとの出会い
9〜11月、オッテルロー、来日。読売日本交響楽団に客演。マーラー、ベートーヴェン、チャイコフスキー、ムソルグスキー、モーツァルトなど。読売日本交響楽団は、当時すでにプレートルやロヴィツキ、プリッチャード、ボドなどと共演していましたが、鋭敏な耳と高度な技術を持つオッテルローの指揮は中でも最高レベルだったと言います。
オッテルローは9月中旬から11月末までの2か月以上の間、ホテル・ニューオータニに一人で宿泊し、仕事と余暇を楽しむ中、パンアメリカン航空客室乗務員のカローラと知り合い、交際するようになります。
●12月、オッテルロー、妻ズザンネにカローラとのことを報告。15年前、ズザンネと出会った時と同じで、家族の暮らす自宅に戻れなくなったオッテルローは、今回は、クアハウスのホテルやアウト・ワッセナール城で冬から春を過ごします。
1970年(63歳)
●1月、オッテルロー、レジデンティ管、ネックハイム『ヨーロッパ』、ほか。
●2月、オッテルロー、レジデンティ管、デ・ロース:コンチェルティーノ、ほか。
●5月、オッテルロー、前住居から2キロほど離れたファン・デル・アーストラートで賃貸物件を契約。
●6月、オッテルロー、転居。
●7月13日、オッテルロー、ズザンネと離婚。通算4度目の離婚。
●7月下旬、オッテルロー、カローラとオーストラリア行き。
●8月12日、オッテルロー、カローラとメルボルンで結婚。友人で楽団支援者のフレッチャーや、メルボルン響コンサートマスターなどが同席。
●8月、オッテルロー、メルボルン響、ストラヴィンスキー:3楽章の交響曲、ベートーヴェン5番、ほか。
●オッテルロー、メルボルン響、北米ツアー。オーストラリアのオーケストラの実力認知に貢献。
●12月、オッテルロー、レジデンティ管、ヴェルディ:レクィエム。
1971年(64歳)
●3月1日、オッテルロー、シドニー交響楽団の首席指揮者に就任。
●3月、オッテルロー、レジデンティ管、バルトーク、シェーンベルク、サティ、そして恩師ドレスデンの作品を指揮。
●春、この頃からレジデンティ管の改革路線の実体が失敗に終わっていたことが問題になり始めます。路上での演奏や子供向けのプログラム、美術作品をスライド投影して演奏する企画といった目先路線が飽きられ、また、収益も悪化の一途を辿っていることが明らかにされました。
●6〜7月、オッテルロー、来日。読売日本交響楽団に客演。ベートーヴェン、R.シュトラウス、モーツァルトなど。
1972年(65歳)
●1月、オッテルロー、コンセルトヘボウ管、ムソルグスキー『展覧会の絵』、ディーペンブロック『エレクトラ』組曲、バーディングス:二重協奏曲、エッシャー:交響曲第2番、ミヨー:エクスの謝肉祭。バーディングスでは久々にクレバースとオロフのコンビが復活。
●2月、オッテルロー、オランダ室内管弦楽団、フランセ:セレナード、ほか。
●3月、オッテルロー、コンセルトヘボウ管、ベートーヴェン4番、ブラームス:ヴァイオリン協奏曲(パールマン)、ほか。
●4月、オッテルロー、オランダ放送フィル、オルテル3番、ほか。
●8月、オッテルロー、レジデンティ管、ハイドン101番、ほか。
●11〜12月、オッテルロー、来日。読売日本交響楽団に客演。ベートーヴェン、チャイコフスキー、ドビュッシーなど。
●オッテルロー、11年間継続してきたオランダ放送フィルの首席指揮者を辞任。海外の仕事が増え、規定の3か月に満たない状態となっていたことが原因。一方、共同首席指揮者のフルネは、1968年からはロッテルダム・フィル首席指揮者も兼務しながら契約条件の5か月をクリアし、その後、オランダ放送フィルの終身指揮者となっていました。
1973年(66歳)
●定年制で首席指揮者契約終了、新たに客演指揮者として契約
1月1日、オッテルロー、レジデンティ管弦楽団の首席指揮者としての契約を、定年制により終了。新たに客演指揮者としての契約が結ばれますが、1975年までの年間30公演、75,000ギルダーを保証するということで、規定通りに指揮することができれば、1公演当たり1割ほど昇給となる契約でした。
ちなみに委員会の定めた後任候補は、エド・デ・ワールト[1941- ]でした。デ・ワールトはロッテルダム・フィルの首席指揮者をジャン・フルネ[1913-2008]と共同で務めていましたが、最終的な決定権は、オランダ放送フィル首席指揮者も兼任しているフルネの方にあったので、レジデンティ管からの申し出はデ・ワールトにとって魅力的で、ロッテルダム・フィル契約更新のタイミングでもあったことから、ロッテルダムの理事会にオファーの件を報告します。しかし理事会側はこれに動揺、フルネとの契約を終了し、デ・ワールトを単独首席指揮者に昇格(昇給)することを約束したため、デ・ワールトのレジデンティ管首席指揮者就任の話は流れてしまいます。
結局、後任はフランス国立放送管弦楽団音楽監督のマルティノンに決まり、1975年から着任することが決まります。
●1月9日、オッテルロー、レジデンティ管、お別れコンサート。女王臨席でブルックナー7番。終演後、大臣、市長などのスピーチと、オッテルローの銅像の除幕式。楽団からは『春の祭典』ファクシミリ版が贈呈。
●1月10日、オッテルロー、レジデンティ管に客演、オランダ・プログラム。
●オッテルロー、シドニー交響楽団の首席指揮者に就任。
●5月、オッテルロー、シドニー響、『プシシェ』、『ダフニスとクロエ』、ほか。
●7月、オッテルロー、シドニー響、ブラームス4番、ほか。
●シドニー・オペラ・ハウス公式オープニング・シリーズ
10月23日、斬新なデザインのシドニー・オペラハウス(↓)の公式オープニング・シリーズに、オッテルロー指揮シドニー響が出演。イギリスを訪れた最初の先住民を記念した合唱曲『ジュバガリー』と、ベートーヴェンの交響曲第9番を演奏。来賓は豪華で、エリザベス女王も臨席。
◆10月、石油危機により、天然ガス価格高騰。巨大なガス田を保有していたオランダ政府は、公的支出の拡大を継続。
●11〜12月、オッテルロー、来日。読売日本交響楽団に客演。ベートーヴェン、チャイコフスキー、ハイドンなど。
1974年(67歳)
●1月、オッテルロー、レジデンティ管とドイツ・オーストリア・ツアー。ツアーは成功し、シーズン中にさらに9回レジデンティ管に客演。
●5月、オッテルロー、シドニー響、モーツァルト『グラン・パルティータ』
●8月、オッテルロー、シドニー響、『英雄の生涯』、『幻想交響曲』、『ダフニスとクロエ』、ほか。
●9〜10月、オッテルロー、シドニー響、イギリス&ヨーロッパ・ツアー(↓)。
●デュッセルドルフ市音楽総監督
11月、オッテルロー、デュッセルドルフ市の音楽総監督に就任。シドニー交響楽団首席指揮者と兼務。オッテルローは、マルティノン時代のデュッセルドルフ交響楽団に何度も客演しており、楽員との関係は良好でした。
同月、トーンハレ(↓)で、デュッセルドルフ響と、ヴェルディのレクィエムを演奏。
●12月、オッテルロー、ロッテルダム・フィルとオランダ室内管に客演。
1975年(68歳)
●1月、オッテルロー、オランダ放送フィルに客演。ベルリオーズ『夏の夜』、ほか。
●2月、オッテルロー、レジデンティ管に客演。ブルックナー3番、ほか。オッテルローの指揮報酬、1公演当たり5,000ギルダーに上昇。
●3月、オッテルロー、デュッセルドルフ響、ブルックナー:ミサ曲、ほか。
●4月、オッテルロー、シドニー響、マルタン:小協奏交響曲、ドビュッシー『神聖な舞曲と世俗的な舞曲』ほか。
●レジデンティ管首席指揮者にジャン・マルティノンが就任。
●7月、オッテルロー、シドニー響、RCAにレコーディング。ラヴェル『序奏とアレグロ』、ほか。
●7月、オッテルロー、シドニー響、マーラー2番、ほか。
●10月、オッテルロー、ボン・ベートーヴェン・ハレ管に客演。
●10月、オッテルロー、デュッセルドルフ響、ホルスト『惑星』、ブラームス:アルトラプソディ、ほか。
●11月、オッテルロー、ロッテルダム・フィルとオランダ放送室内管、レジデンティ管に客演。
●11月、オッテルロー、デュッセルドルフ響、本拠地のトーンハレが改修工事に入ったため、当面、市立劇場で公演。音響条件が良くないため選曲に配慮。モーツァルト『グラン・パルティータ』、ヴィヴァルディ:グローリア、ストラヴィンスキー『詩篇交響曲』、フランセ:デレナードなど。
●12月、オッテルロー、レジデンティ管に5回客演。マルティノンが骨癌の治療で公演を指揮できなくなったため、フォーレのレクヴエムなど、なるべくマルティノンが指揮する予定だった曲を指揮します。
1976年(69歳)
●1月、オッテルロー、ボルドー・アキテーヌ管に客演。
●2月、オッテルロー、レジデンティ管に客演。マルティノンからの依頼で6公演を指揮。 ●3月1日、レジデンティ管首席指揮者ジャン・マルティノン骨癌のため死去。オッテルローがレジデンティ管に客演中の訃報だったため、4日後にラヴェル『亡き王女のためのパヴァーヌ』やマルティノンの作品で追悼コンサートを実施。後任はフェルディナント・ライトナー。
●3月、オッテルロー、デュッセルドルフ響、マーラー『大地の歌』、ヴェーベルン:パッサカリア。
●3月、オッテルロー、コンセルトヘボウ管、ブルックナー6番、ほか。
●3月、オッテルロー、シドニー港の橋が見渡せる美しい住居に転居。
●4月、オッテルロー、シドニー響、ベートーヴェン7番、ほか。
●9月、オッテルロー、オランダ放送フィル、ブルックナー5番。
●9月、オッテルロー、オランダ放送フィル、ベートーヴェン9番を映像収録。
●10月、オッテルロー、レジデンティ管に客演。
●11月、オッテルロー、デュッセルドルフ響、ブルックナー5番、テ・デウム。
1977年(70歳)
●4月、オッテルロー、シドニー響、バターリー『天国の炎』、ほか。
●5月、オッテルロー、シドニー響、シューマン・プログラム。
●7月、オッテルロー、シドニー響、マーラー3番、ベートーヴェン3番、アルフレッド・ヒル『リンソープ』、ほか。
●9月、オッテルロー、ユトレヒト響の芸術顧問に就任。3年契約。
●12月、オッテルロー、レジデンティ管に客演。8公演。
●12月27日、オッテルロー70歳の誕生日パーティーを新居で開催。新居は広かったので、アムステルダムの子供たち、ハーグの子供たちほか、計50人のゲストを招いた盛大なパーティーでした。オーストラリアのテレビ局が制作したオッテルローのドキュメンタリー・フィルム「ハイ!オットー」も到着。
1978年(71歳)
●1月、オッテルロー、ユトレヒト響と10公演。
●2月、オッテルロー、オランダ放送室内管に客演。
●3月、オッテルロー、コンセルトヘボウ管に客演。
●3月、オッテルロー、オランダ放送フィル、放送録音とアムステルダムでのコンサート開催。オッテルローがオランダ放送フィルを最初に指揮したのは1946年で、以後、1978年までに299作品を指揮しています。
●3月、オッテルロー、ユトレヒト響の首席指揮者に就任。マーラー6番を指揮。新ホールの完成は1979年1月に予定されていました。
●3月、オッテルロー、シドニーに到着。
●4〜6月、オッテルロー、シドニー響、ドレイファス交響曲第2番、ほか、全31公演を指揮。
●6月、オッテルロー、シドニー響、ベートーヴェン4番ほかをレコーディング。
●7月、オッテルロー、シドニー響、『春の祭典』ほか6公演。
●7月25日、オッテルロー、シドニー響、『春の祭典』を本拠地のシドニー・オペラハウスでレコーディング(↓)。
●オッテルロー、無念の事故死
7月27日、メルボルン。ドイツ領事のレセプションを訪れていたオッテルロー夫妻は、会場で友人の楽団支援者ジョン・フレッチャー夫妻と遭遇。フレッチャーはオッテルロー夫妻を自分の車でホテルまで送るといい、さらにフレッチャー宅で食事をとるよう薦めます。オッテルローは申し出を喜んで受け入れ、夫婦で同乗しますが、途中の交差点で、左から信号を無視した巨大な家畜運搬トラックが突然現れ、オッテルローはフレッチャーに対して止まらずに突き進むように叫ぶものの、動転したフレッチャーはブレーキをかけてしまい、結果的にトラックと接触、フレッチャーの車は雨の路上を勢いよくスピンし、シートベルトをしていなかったオッテルローは外に投げ出されて15メートル先の縁石に激突、救急車が到着して45分間に渡って蘇生を試みるものの助かりませんでした。ちなみにフレッチャー夫妻は無傷で、妻のカローラは腕を骨折という状態でした。
●8月4日、遺体はハーグで火葬。遺族と大臣、楽団関係者600人で告別式がおこなわれ、本人指揮によるブルックナー7番アダージョの録音(CD09)をBGMに使用したほか、クレバース、オロフら、ゆかりの楽員たちが演奏を捧げました。
【収録情報】
CD01
●ベルリオーズ:幻想交響曲 Op.14
●ワーグナー:ジークフリート牧歌
ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
録音:1951年6月18-25日
CD02
●ベートーヴェン:交響曲第4番変ロ長調 Op.60
レジデンティ管弦楽団
録音:1957年4月23-24日
●ベートーヴェン:交響曲第5番ハ短調 Op.67
ウィーン交響楽団
録音:1958年2月23-26日, Stereo
CD03
●ベートーヴェン:交響曲第6番ヘ長調 Op.68『田園』
ウィーン交響楽団
録音:1953年2月22-24日
●ベートーヴェン:交響曲第8番ヘ長調 Op.93
レジデンティ管弦楽団
録音:1959年6月, Stereo
CD04
●ベートーヴェン:交響曲第7番イ長調 Op.92
●ベートーヴェン:劇音楽『シュテファン王』序曲 Op.117
ウィーン交響楽団
録音:1962年5月, Stereo
●ベートーヴェン:歌劇『フィデリオ』序曲 Op.72c
レジデンティ管弦楽団
録音:1957年4月24日
●ベートーヴェン:『献堂式』序曲 Op.124
レジデンティ管弦楽団
録音:1956年1月31日
●ベートーヴェン:トルコ行進曲op. 113 (from Die Ruinen von Athen Op.113)
レジデンティ管弦楽団
録音:May 20, 1960, Stereo
CD05
●ベートーヴェン:交響曲第9番ニ短調 Op.125『合唱』
エルナ・スポーレンベルフ(ソプラノ)
マリア・フォン・イロシュヴァイ(アルト)
フランス・フローンス(テノール)
ヘルマン・シャイ(バリトン)
アムステルダム・トーンクンスト合唱団
レジデンティ管弦楽団
録音:1952年5月3-4日
CD06
●マーラー:交響曲第1番ニ長調『巨人』
ウィーン交響楽団
録音:1962年5月, Stereo
CD07
●マーラー:交響曲第4番ト長調
テレーザ・シュティヒ=ランダル(ソプラノ)
レジデンティ管弦楽団
録音:1956年5月7-9日
●マーラー:歌曲集『亡き子をしのぶ歌』
ヘルマン・シャイ(バリトン)
レジデンティ管弦楽団
録音:1951年1月24-25日
CD08
●ブルックナー:交響曲第4番変ホ長調『ロマンティック』
レジデンティ管弦楽団
録音:1953年5月6-7日
●ブルックナー:序曲ト短調
レジデンティ管弦楽団
録音:1954年10月23日
CD09
●ブルックナー:交響曲第7番ホ長調
ウィーン交響楽団
録音:1954年3月23-26日
CD10
●ハイドン:交響曲第45番嬰へ短調『告別』
レジデンティ管弦楽団
録音:1962年5月16-17日, Stereo
●ハイドン:交響曲第55番変ホ長調『校長先生』
レジデンティ管弦楽団
録音:1962年5月16日, Stereo
●ハイドン:交響曲第92番ト長調『オックスフォード』
レジデンティ管弦楽団
録音:1950年12月28-29日
CD11
●グリーグ:ペール・ギュント組曲 第1番 Op. 46
レジデンティ管弦楽団
録音:1950年12月29-30日
●グリーグ:ペール・ギュント組曲 第2番 Op. 55
レジデンティ管弦楽団
録音:1950年12月29-30日
●グリーグ:『4つのノルウェー舞曲』Op.35
レジデンティ管弦楽団
録音:1960年7月9-10日, Stereo
●グリーグ:『2つの悲しき旋律』Op. 34
レジデンティ管弦楽団
録音:1951年6月4日
●スメタナ:歌劇『売られた花嫁』組曲(序曲、ポルカ、フリアント、喜劇役者の踊り)
レジデンティ管弦楽団
録音: Stereo
CD12
●シューベルト:交響曲第5番変ロ長調 D.485
レジデンティ管弦楽団
録音:1960年5月18-19日, Stereo
●シューベルト:交響曲第8番ロ短調 D.759『未完成』
レジデンティ管弦楽団
録音:1959年6月20日, Stereo
●シューベルト:『ロザムンデ』Op.26 D.797〜間奏曲第3番
レジデンティ管弦楽団
録音:1951年1月25日
●シューベルト:『ロザムンデ』Op.26 D.797〜バレエ音楽第2番
レジデンティ管弦楽団
録音:1951年1月25日
●シューベルト:『魔法の竪琴(ロザムンデ)』序曲 D.644
レジデンティ管弦楽団
録音:1951年11月24日
CD13
●フランク:交響詩『プシュケ』
レジデンティ管弦楽団
録音:1954年10月21日
●シューマン:『マンフレッド』序曲 Op.115
レジデンティ管弦楽団
録音:1954年10月22日
CD14
●ブラームス:交響曲第1番ハ短調 Op. 68
レジデンティ管弦楽団
録音:1953年12月3-4日
●ブラームス:『悲劇的序曲』Op.81
レジデンティ管弦楽団
録音:1952年12月12日
●ブラームス:『大学祝典序曲』Op.80
レジデンティ管弦楽団
録音:1953年12月23日
CD15
●フランク:交響曲ニ短調
コンセルトヘボウ管弦楽団
録音:1964年1月7-12日, Stereo
●フランク:交響詩『アイオリスの人々』
コンセルトヘボウ管弦楽団
録音:1964年1月7-12日, Stereo
●サンサーンス:交響曲第3番ハ短調 Op.78『オルガン付』
フェイケ・アスマ(オルガン)
レジデンティ管弦楽団
録音:1954年4月2-3日
CD16
●ベートーヴェン:バレエ音楽『プロメテウスの創造物』Op.43 (全曲版)
レジデンティ管弦楽団
録音:1956年5月9,14日
CD17
●ベルリオーズ:幻想交響曲 Op.14
レジデンティ管弦楽団
録音:1959年7月10-12日, Stereo
●ベルリオーズ:『ファウストの劫罰』〜ラコッツィ行進曲
レジデンティ管弦楽団
録音:1960年5月20日, Stereo
●ビゼー:『アルルの女』組曲第1番
レジデンティ管弦楽団
録音:1959年6月13-14日, Stereo
●ビゼー:『アルルの女』組曲第2番
レジデンティ管弦楽団
録音:1959年6月13-14日, Stereo
CD18
●ラヴェル:『亡き王女のためのパヴァーヌ』
レジデンティ管弦楽団
録音:1952年1月4日
●ラヴェル:『高雅で感傷的なワルツ』
レジデンティ管弦楽団
録音:1954年4月1日
●ラヴェル:『ダフニスとクロエ』組曲第1番
レジデンティ管弦楽団
録音:1953年5月4日
●ラヴェル:『ダフニスとクロエ』組曲第2番
レジデンティ管弦楽団
録音:1953年5月5日
●ファリャ:バレエ音楽『三角帽子』から3つの舞曲
レジデンティ管弦楽団
録音:1954年4月1日
●シベリウス:交響詩『フィンランディア』Op.26
レジデンティ管弦楽団
録音:1960年6月9日, Stereo
●マイアベーア:歌劇『預言者』〜戴冠式行進曲
レジデンティ管弦楽団
録音:1960年5月20日, Stereo
●プロコフィエフ:組曲『三つのオレンジへの恋』〜行進曲 Op.33b
レジデンティ管弦楽団
録音:1960年5月20日, Stereo
CD19
●レーガー:『モーツァルトの主題による変奏曲』Op.132
レジデンティ管弦楽団
録音:1957年3月26日
●レーガー:『ロマンティック組曲』Op.125
レジデンティ管弦楽団
録音:1956年3月9日
●ワーヘナール:『じゃじゃ馬ならし』序曲 Op.25
レジデンティ管弦楽団
録音:1954年4月3日
●ワーヘナール:『シラノ・ド・ベルジュラック』序曲 Op.23
レジデンティ管弦楽団
録音:1954年4月3日
CD20
●ウェーバー:交響曲第2番ハ長調
レジデンティ管弦楽団
録音:1956年3月8-9日
●ウェーバー:『舞踏への勧誘』Op.65 J.260
レジデンティ管弦楽団
録音:1951年1月23日,10月11日
●ウェーバー:歌劇『魔弾の射手』序曲 Op.77
レジデンティ管弦楽団
録音:1951年10月11日
●H.アンドリーセン:『クーナウの主題による変奏曲とフーガ』
レジデンティ管弦楽団
録音:1952年2月26日
●H.アンドリーセン:『リチェルカーレ』
レジデンティ管弦楽団
録音:1951年6月5日
●M.グールド:『スピリチュアルズ』
レジデンティ管弦楽団
録音:1951年9月11日
CD21
●ムソルグスキー:組曲『展覧会の絵』
レジデンティ管弦楽団
録音:1957年3月27日
●ディーペンブロック(エドゥアルト・レーサー編曲):交響組曲『エレクトラ』
レジデンティ管弦楽団
録音:1953年5月8日
●レオン・オルテル:交響曲第2番『小交響曲』Op.18
レジデンティ管弦楽団
録音:1959年8月5日, Stereo
CD22
●ヘンデル:『王宮の花火の音楽』HWV 351
レジデンティ管弦楽団
録音:1957年5月4日
●ヘンデル:『水上の音楽』組曲
レジデンティ管弦楽団
録音:1957年5月1-2日
●モーツァルト:交響曲第38番ニ長調 KV 504『プラハ』
レジデンティ管弦楽団
録音:1955年4月25日
CD23
●チャイコフスキー:交響曲第4番ヘ短調 Op.36
レジデンティ管弦楽団
録音:1950年6月7-9日
●チャイコフスキー:組曲『眠れる森の美女』Op.66a
レジデンティ管弦楽団
録音:1954年3月24-26日
●ドレスデン:『舞踏の閃光』
レジデンティ管弦楽団
録音:1953年5月8日
CD24
●バーディングス:交響曲第3番
レジデンティ管弦楽団
録音:1955年11月28-30日
●リムスキー・コルサコフ:交響組曲『シェエラザード』Op.35
ローランド・フェニヴェス(ヴァイオリン)
ウィーン交響楽団
録音:1962年5月, Stereo
【商品説明:年表シリーズ】
指揮
●ガウク
●カラヤン
●クイケン
●クーセヴィツキー
●クチャル
●クラウス
●クレツキ
●クレンペラー
●ゴロワノフ
●サヴァリッシュ
●シューリヒト
●チェリビダッケ
●ドラティ
●バーンスタイン
●パレー
●フェネル
●フルトヴェングラー
●メルツェンドルファー
●モントゥー
●ライトナー
●ラインスドルフ
●ロスバウト
鍵盤楽器
●カークパトリック
●カサドシュ
●デムス
●ニコラーエワ
●ユージナ
●ランドフスカ
弦楽器
●カサド
●シュナイダー四重奏団
●パスカル弦楽四重奏団
●ハリウッド弦楽四重奏団
●ブダペスト弦楽四重奏団
●リッチ
作曲家
●アンダーソン
●ヘンツェ
ユーザーレビュー
投稿日:2021/10/24 (日)
オランダの指揮者、ウィレム・ファン・オッテルローが残した録音を集めたボックスです。 オッテルローは初期のフィリップスの看板アーティストでしたので、それなりに録音はありますが、CD自体になるとあまり復刻される事はありませんでした。 今回のボックスはフィリップスに録音した音源を中心に、コンサート・ホール・ソサエティやグラモフォン原盤の音源を復刻、この指揮者の音源をここまで集めたアルバムはかつてなく、初と思われます。 代表的な音源となった2種の幻想交響曲や、定番クラシックに混ざり、当時の作曲家の新作、しかもオランダのあまり耳にする機会がない曲が収録されているのが、このBOXの1番の売りとなっています。 永く手兵となったレジデンティ管弦楽団との録音はアンサンブルに難がある所もあるが、オーソドックスな仕上がりが多くオッテルローらしい、緻密に行き届いた音楽が聴きどころ。 また客演としていったオケでもなかなか良い演奏を残しており、先のベルリン・フィルハーモニー管弦楽団との幻想交響曲は名盤と名高いし、コンサート・ホール・ソサエティに録音したウィーン祝祭管弦楽団(ウィーン交響楽団の変名)は元のレーベルの冴えない録音が残念だが、絶頂期のオッテルローの集中力の高い演奏が聴きどころ。 録音は古いが復刻自体は悪くない。 CDはクラムシェル仕様で、厚紙にCDが入っているが、表面はどれも同じオッテルローの写真が使われておりわかりにくい上、CDのレーベル面のデザインも白一色で、かろうじて巻数などが小さく書かれている程度。 この辺りは権利切れ復刻系レーベルらしく、メジャーのBOXとは違うところ。 当然解説のライナーもなく、HMVの詳細な解説は実に素晴らしい。 尚、最後に一つだけ。 CD17のビゼーとCD24のバーディングス、実はこれ間違い。 実際にはCD17にバーディングスの交響曲第3番が、CD24にビゼーのアルルの女が収録されている。
レインボー さん | 不明 | 不明
投稿日:2021/03/01 (月)
昔懐かしさから購入。セルのような緻密さもあり、古い録音であるが聴きやすい音でした。お勧めです。
ノエル さん | 青森県 | 不明
投稿日:2021/01/31 (日)
オッテルローは50年近く前、子供の頃に聴いたコンサートホール盤のベートーヴェン交響曲第7番くらいしか知りませんでした。このボックスの数々演奏を聴くと、これはいずれも名演揃いだと改めて思いました。中でも評価が高い幻想交響曲を聴くと、その波瀾万丈の生涯と相まって感慨深いものがありました。
pocha さん | 大阪府 | 不明