CD 輸入盤

エドゥアルト・ファン・ベイヌムの芸術(40CD)

基本情報

ジャンル
:
カタログNo
:
SC823
組み枚数
:
40
レーベル
:
:
Europe
フォーマット
:
CD
その他
:
輸入盤

商品説明


エドゥアルト・ファン・ベイヌムの芸術(40CD)

オランダの名指揮者エドゥアルト・ファン・ベイヌムの音源をCD40枚分集めたボックスが英スクリベンダムから登場。楽員との人間的な関係を大切にし、十分な意思の疎通を通じて見事な演奏を実現していたベイヌムは、リハーサル中の心臓発作で惜しくも58歳で亡くなってしまいますが、遺された録音はどれも傾聴に値する立派なもの。今回のセットでは、デッカ録音、フィリップス録音に加えて、ライヴ録音も数多く収録されており、音楽家ベイヌムの実像に迫ることができます。

傑出したコミュニケーション能力

6人姉弟の末っ子
ベイヌムの小学生時代の同級生によると、女子の帽子でサッカーに興じていたようなほかの粗野な男子生徒たちとベイヌムはだいぶ雰囲気が違っていたようです。ベイヌムの兄弟は、年長の4人が女、年少の2人が男という6人構成で、しかも長女とは15歳、兄とも9歳も年の離れた末っ子というのがベイヌムの置かれたポジションでした。小学校や音楽院で、クラスの女子生徒を下品に攻撃しなかったのも、クチの発達が早い女子4人が支配的という、コミュニケーション能力が発達しやすい家庭環境が影響していたとも考えられます。結婚も、伴奏を通じて知り合った4歳年長のヴァイオリニストのセファ・ヤンセン(下の写真)が相手で、生涯に渡って、威張ったり、無理に我意を通そうとしたりすることのない仲間のような関係だったということです。
 こうしたベイヌムのコミュニケーション能力の高さは、100人前後の人間を相手にするというオーケストラのリハーサルでは特に有効で、メンゲルベルクのように怒鳴ったり脅したり演説したりすることなく、楽員のメンタルを上々に保ちながら、合奏や奏法、バランスの課題を克服していくという手法で、オーケストラの水準を高度に維持することが可能でした。


多芸多才
ベイヌムはリハーサルの休憩時間に楽屋で休まないことも多く、ステージ脇で楽員たちと談笑したり、質問に答えたりと、その態度は常に快活でフレンドリーな雰囲気で一貫していたのだとか。フリートークを恐れないそうしたベイヌムのコミュニケーションへの自信の背景には、「ソロ・ピアニスト」、「伴奏ピアニスト」、「室内楽奏者」、「教会オルガニスト」、「オーケストラのヴィオラ奏者」、「聖歌隊指揮者」、「混声合唱団指揮者」、そして一時は作曲にも熱中していたという、若き日の様々な成功や失敗の積み重ねの経験があると思われます。

同じ職場の大先輩たち
コンセルトヘボウ管弦楽団の第2指揮者として7年間、首席指揮者として21年間、メンゲルベルクやモントゥー、ワルター、クレンペラー、クライバーらの仕事を間近に見ていたベイヌムは、第2指揮者の頃は他の指揮者の公演準備をすることも多かったので、何が効果的で何がダメか、どういった言葉が楽員からプラスの気持ちを奪ってしまうのかといった事柄が膨大な経験値として蓄積されており、自身の言葉が行き過ぎたと少しでも感じた場合には、率直に楽員に謝罪をして、禍根を残すことがありませんでした。加えて、モントゥー級とも称される無駄のない優れた指揮テクニックもあって、ベイヌムのリハーサルは大変効率が良かったようで、そのため20世紀作品にも積極的に取り組めましたし、作曲者本人が賛意を呈することも多かったようです。
 ちなみにベイヌムは、モントゥーの推薦で第2指揮者としてコンセルトヘボウ管弦楽団で働くことになっており、そのモントゥーとは当然ながら仲良しでしたし、リハーサルでは超ウルサ型のクレンペラー、クライバーとの関係もきわめて良好でした。クレンペラーが大やけどを負って公演を指揮できなくなった時も、ベイヌムは快く代役を引き受けています(その直後に体調を崩して約3か月の療養生活)。

自宅より別荘
ベイヌムの場合、多忙だったにも関わらず、アムステルダム中心部の自宅よりも、近郊の別荘(世界大恐慌時に購入した4万uの土地に建設)での滞在時間の方が長かったこともユニークで、自然保護地域に隣接した豊かな自然の中での狩猟や、猟犬など何頭もの犬の飼育、そして車いじり(DKW〜アウディの前身)、スコアの研究など、ベイヌムの好きなことがぎっしり詰まった場所でのさまざまな経験は、コミュニケーションに役立つ話のネタにも繋がったことと思われます。


心も心臓もデリケート

一種の性善説を前提としたようなベイヌムのメンタルは、とてつもない悪意や卑怯さの前には無力で、第2次大戦中のドイツ政府占領機関からのたび重なる指揮依頼に、辞職をかけて抵抗した際には、動悸や耳のトラブルを発症。精神的重圧により、もとからあった心臓疾患が表面化するきっかけになったということなのかもしれませんが、これにより、以後、ベイヌムは幾度も心臓の不調に見舞われることとなり、最後はリハーサルの最中に心臓発作に見舞われて絶命しています。
 もっとも、ベイヌム自身にも、「健康よりも音楽」のような楽天的な傾向があったのも事実で、指揮活動を抑えるように指示されながらも、ロンドン・フィルやロサンジェルス・フィルと、ついつい徹底的にリハーサルもコンサートもおこなってしまうという状態で、さらにコンセルトヘボウでの膨大な回数のコンサートやレコーディングもこなし、オフになると、これまた心臓に良くなさそうな(?)趣味である「狩猟」にも熱中するなど、自分の体へのいたわりは足りていなかったように思えます。


デッカ録音

ベイヌムはメンゲルベルクの時代からコンセルトヘボウ管弦楽団を指揮しており、1929年のデビューから1959年の死まで通算30年に渡ってオーケストラとの関係を築いています。そのうち3分の2にあたる21年間は首席指揮者としてオケに深く関わり、幅広いジャンルで数々優れた演奏を聴かせていました。
 ベイヌムは戦時中にも僅かにレコーディングをおこなっていましたが、本格化するのは、1946年にイギリス・デッカと契約してからのことで、コンセルトヘボウ管弦楽団をメインに、ロンドン・フィルとも録音しており、その後1953年にロンドン・フィル首席指揮者を辞任するまでデッカとの関係は続きます。
 その7年の間に生み出された録音の数々は、生々しいサウンド志向だったデッカの音の傾向もあってか、活気に満ちた演奏となっているものが多く、昔から定評のあるブラームスの交響曲第1番や、幻想交響曲、マーラー交響曲第4番、ブルックナー交響曲第7番など、当時のベイヌムの勢いのある指揮をよく伝えてくれます。


フィリップス録音

1954年からは地元フィリップス(元オランダ・デッカ)と契約し、58歳で急死するまでレコーディングを続けていました。
 その間に生み出された録音の数々は、自然な傾向のサウンド志向でありながら優れた音質で有名だったフィリップスの音の傾向もあってか、コンセルトヘボウ・サウンドの魅力をバランス良く伝えるものとなっており、ベイヌムの解釈の深化も含めて見事な仕上がりを示すものが多くなっているのが特徴。
 有名なブラームスの交響曲全集や、ブルックナーの第8番と第9番、ベートーヴェンの第2番といったレパートリーでは、推進力あるベイヌムの解釈と存在感のあるオケのサウンドが相乗効果を発揮して実に見事な仕上がり。
 古楽との相性も良く、モーツァルトに多大な影響を与えたクリスチャン・バッハのシンフォニアや、ヘンデルの水上の音楽でのメリハリの効いた爽快な美しさが実に魅力的です。その他、オーケストラの色彩美が味わい深いドビュッシーやラヴェルなど、聴きごたえある演奏を数多く収録しています。


ライヴ録音

オランダは放送も盛んだったので、遺されたベイヌム指揮コンセルトヘボウ管弦楽団のライヴ音源もけっこうあるようです。このセットには以下の音源が収録されています(作曲家名50音順)。

●アンドリーセン:交響曲第4番/1955年10月19日/CD40
●エッシャー:「悲嘆に暮れる魂に捧ぐ音楽」/1954年9月1日/CD40
●シェーンベルク:5つの管弦楽曲/1951年10月12日/CD40
●シューベルト:「ロザムンデから」/1940年7月7日/CD16
●シューベルト:交響曲第3番/1955年6月6&9日/CD14
●シュトラウス:交響詩「ドン・ファン」/1955年9月16日/CD30
●ストラヴィンスキー:組曲「火の鳥」/1948年5月13日/CD13
●チャイコフスキー:幻想序曲「ロメオとジュリエット」/1940年6月6日/CD38
●チャイコフスキー:交響曲第4番/1941年2月13日&1940年5月26日/CD38
●ドビュッシー:「映像」/1948年12月19日/CD20
●ドビュッシー:交響詩「海」/1941年1月30日/CD20
●ドビュッシー:交響組曲「春」/1942年7月8日/CD20
●トマ:「ミニヨン」序曲/1956年4月10日/CD30
●ニコライ:「ウィンザーの陽気な女房たち」序曲/1956年4月10日/CD30
●ブラームス:交響曲第1番/1951年10月25日/CD13
●ブラームス:交響曲第2番/1955年9月16日/CD18
●フランク:交響詩「プシシェ」/1941年5月15日/CD16
●ブリテン:春の交響曲/1949年7月/CD34
●ブルックナー:交響曲第5番/1959年3月12日/CD1
●ブルックナー:交響曲第8番/1955年4月21日/CD5
●ペイペル:交響曲第3番/1957年10月2日/CD4
●ベートーヴェン:「エグモント」序曲/1954年10月11日/CD32
●ベートーヴェン:交響曲第3番「英雄」/1957年5月5日/CD27
●マーラー:交響曲第6番/1955年12月7日/CD7
●モーツァルト:交響曲第40番(リハーサル)/1956年9月20日/CD30
●ラヴェル:「ダフニスとクロエ」第2組曲/1954年10月11日/CD21
●レーガー:バレエ組曲/1942年7月8日/CD40
●レスピーギ:ローマの噴水/1949年10月16日/CD38

また、大火傷を負ったクレンペラーの代役として、フィルハーモニア管弦楽団を指揮した際のライヴ録音も収録されています。
●ベートーヴェン:交響曲第2番/1958年11月10日/CD26
●ベートーヴェン:交響曲第7番/1958年11月10日/CD26

ベイヌムとブルックナー

1934年2月、国際ブルックナー協会の音楽学者ヤン=ホーフェルト・ホーフェルツが、オランダ・ブルックナー協会設立の準備のため、ベイヌムに宛てて質問状を送付。ベイヌムは、ブルックナーは最高の作曲家のひとりであり、自分はこの回答の時点で、すでに多くのブルックナー・コンサートをおこなっていること、聴衆は非常によく反応するが、マーラーやシュトラウスなどの輝かしい音楽と違って、ブルックナーはより瞑想的であり、大きなオーケストラを使用しているものの、内側からしか理解できない。ブルックナーの場合、オーケストラ作品だけでなく、ミサ曲などの宗教音楽もとりあげないと印象が不完全なものになる恐れがあり、自分はそのためにできる限り、ブルックナーの作品を多く演奏したいと考えているといったことを述べています。
 1934年といえば、国際ブルックナー協会がウィーンに拠点を移して本格的な活動を開始して5年目の年にあたります。ブルックナーの作品は、そのわかりやすさもあってドイツ、オーストリアでは早くから繰り返し演奏され、特にブルックナーは、マーラーのように1930年代にドイツ政府に禁止指定されることも無かったため人気が上昇しています。そのブルックナー作品の最初の数十年間の普及状況に大きく貢献していたのは、まだこの世に存在していなかった「原典版」ではなく、「初版」であり、その「初版」で人気が出たからこそ、研究者間での問題意識も顕在化、ビジネスとしての可能性も感じた彼らは、当時、フルトヴェングラーやクレンペラーがブルックナーをよく取り上げていたゲヴァントハウス管弦楽団のあるライプツィヒで、1927年にブルックナー協会を発足。
 ブルックナー協会はその2年後の1929年、ブルックナーの遺稿や資料が眠るウィーンに拠点を移して、正式に国際ブルックナー協会をたちあげ、オーストリア国立図書館収蔵品音楽部門責任者のロベルト・ハースと、ウィーン市立図書館収蔵品音楽部門責任者のアルフレート・オーレルと契約、ハースを責任者、オーレルを助手として、ブルックナー作品の調査・校訂・編集作業を進め、楽譜出版とそれに伴う販売・貸与売上、著作権料を収益の柱として事業を継続・拡大して行きます。
 その5年後の1934年6月、オランダ・ブルックナー協会が無事設立され、国際ブルックナー協会の音楽学者ヤン=ホーフェルト・ホーフェルツが中心となって、オランダでのブルックナー作品普及を目指して活動を開始。名誉会長として、メンゲルベルクが選出されています。
 メンゲルベルクは、1897年から1943年までの46年間に計43回のコンサートで、交響曲第1・2・3・4・6・7・8・9番とテ・デウムの指揮をおこなっており、オランダでのブルックナー作品普及に向けて大きく貢献してもいました。
 一方ベイヌムは、1920年代からブルックナー作品に取り組み、1931年、コンセルトヘボウ管弦楽団の第2指揮者としてのデビューを交響曲第8番で成功裏に飾ってからは、28年間に計148回のコンサートを指揮。交響曲第0・1・3・4・5・7・8・9番とテ・デウム、ミサ曲第2・3番を指揮。平均すると、コンセルトヘボウ管弦楽団だけでも毎年5回以上ブルックナー公演を指揮していたという計算になり、これは世界でも最高頻度の演奏回数にあたると考えられます。
 コンセルトヘボウ管弦楽団というと、作曲家本人との関係もあって、マーラーの演奏伝統がよく語られますが、ブルックナー作品演奏も負けていませんし、その伝統を築き上げ確実なものとした功績者はベイヌムということができると思います。


年表

太字がベイヌム関連です。

1900年(0歳)

●9月3日、エドゥアルト・アレクサンダー・ファン・ベイヌム・ユニア、オランダのヘルダーラント州アーネムに誕生。生家はアーネムのクラーレンダール地区スクッター通り近くに暮らすカトリックの音楽家ファミリーで、ベイヌムが小学生になると、一家は、近隣のスルート通り近くに移り、その後、スパイカー通り近くに転居。
 指揮者ベイヌムと同名の父親、エドゥアルト・アレクサンダー・ファン・ベイヌム[1863-1941]は、職業軍人の音楽家で、アーネム第8歩兵連隊の軍楽隊と、アーネム・オーケストラ協会でチューバとコントラバスを演奏したほか、後者のライブラリアンとしても活動。ときおりスパイカー通りの自宅に楽団のコントラバスを持ち帰って、家族やアーネム・オーケストラ協会の仲間たちと室内楽演奏に興じてもいました。その際、指揮者ベイヌムは、ヴァイオリンやヴィオラ、ピアノを担当し、アンサンブルに必要なスキルを高めてもいます。
 指揮者ベイヌムの祖父であるヘルマヌス・ヤン・ファン・ベイヌムも音楽家の軍人でホルン奏者。ヘルマヌスは、1865年に指揮者ベイヌムの祖母イザベラ・マリア・セックと結婚していますが、イザベラ・マリアには2人の連れ子がおり、そのうちの1人が、指揮者ベイヌムの父であるエドゥアルト・アレクサンダー。ちなみにその名前は、イザベラ・マリアの父で、1809年、フランス併合期にブルッヘ(ブリュージュ)に生まれたエドゥアルト・アレクサンダー・セックに由来するものでした。
 つまり指揮者ベイヌムの名前は、曾祖父、および父親の『エドゥアルト・アレクサンダー』が受け継がれたものであり、さらに指揮者ベイヌムの姉リークが、1918年に出産した男子も『エドゥアルト・アレクサンダー』と命名されています。指揮者ベイヌムは、18歳年少のその甥にピアノを教えており、当時は、指揮者ベイヌムの父親も存命だったので、3人のエドゥアルト・アレクサンダーが近くで密接に関わりながら暮らしていたことになります。
 兄弟は、長女リーク[1885-1931]、次女リース[1886-1965]、三女カトー[1888-1965]、四女ミーネケ[1890-1930]、長男コー[1891-1965]、そして末っ子エドゥアルト[1900-1959]の6人。

1901年(0〜1歳)

◆オランダ、義務教育導入。

1902年(1〜2歳)

◆5月31日、第2次ボーア戦争終結。1899年10月に開始された南アフリカをめぐるイギリス軍とオランダ系入植者などの戦争で、2年8か月続いた戦闘やチフスでの犠牲者総数は約8万人(現地人犠牲者は約2万人)。

1903年(2〜3歳)


1904年(3〜4歳)

◆南アフリカに隣接するナミビアで、ドイツ政府が現地人の虐殺を開始。1908年までに約8万人のナミビア人を殺害(ドイツ側の犠牲者は約1,750人)。

1905年(4〜5歳)

◆オランダ海軍、潜水艦を導入。

1906年(5〜6歳)


1907年(6〜7歳)

◆ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世がアムステルダムを訪問。ウィルヘルミナ女王に、開戦の際には、オランダの中立を尊重すると約束。

1908年(7〜8歳)

◆5月、ジャワ島の民族主義団体「ブディ・ウトモ」結成。オランダ領東インドで初めての独立運動に向けての結成で、蜂起など実際の行動は起こしませんでした。
◆オランダの鉄道、電化開始。

1909年(8〜9歳)

◆5月、オランダで標準時導入。

1910年(9〜10歳)


1911年(10〜11歳)

●ベイヌム家、アーネムのスパイカー通り215番地に転居。コンサートホール近くの立地。

1912年(11〜12歳)


1913年(12〜13歳)

◆オランダ軍に航空部設立。

1914年(13〜14歳)

◆8月、第1次世界大戦勃発。オランダは中立を宣言するものの、僅か24時間で約20万人の追加兵力を確保するなど総動員体制に突入し、約367,000人の軍隊を編成。結局ドイツの侵攻は無かったものの兵力維持や新兵器調達、要塞建設のコストは莫大で、しかもドイツと英仏の板挟みとなることで、両陣営から脅されるなどして理不尽な判断を強いられることも多く、貿易も破綻寸前に追い込まれるなど苦しい展開が続くことになります。
◆8月、中立国ベルギーがドイツに侵攻され、約100万人のベルギー国民がオランダに避難を開始。人口約650万人のオランダに、人口約740万人のベルギーから約100万人が避難したということで、オランダは一時大変な事態となりますが、約90万人は年内にベルギーに帰還し、オランダに引き続き滞在したベルギー人は約10万人。うち自活できない約2万人に対しては、オランダ政府が避難所を設置して受け入れ、終戦までの滞在を許可。ちなみにベルギーから国外への避難民総数は約150万人で、海を超えてイギリスに避難した人数も約25万という膨大なものでした。
 一方、中立国ベルギーを占領し、国民を労働力として使いたかったドイツ政府は、以後、ベルギー人が国外避難できないよう、ベルギー国境に高電圧の金網フェンスを設置するなどしています。


●11月、ベイヌム、コンセルトヘボウ管弦楽団のアーネム公演『聖チェチーリア・コンサート』を母と鑑賞。特にチャイコフスキーの交響曲に圧倒されたベイヌムは、母に対し、自分がいつかこのオーケストラの前に立っている姿を見ることになると語ったと伝えられています。この話はベイヌム存命中の1956年に出版された伝記本に書かれているものなので、ベイヌム公認ということなのかもしれませんが、コンセルトヘボウ管弦楽団の記録には、当時のアーネムでの演奏にチャイコフスキーの交響曲は無かったということなので、曲目に関しては、ベイヌムの記憶違い、もしくはプログラム変更などによる楽団側の記録違いの可能性もあります。


1915年(14〜15歳)


1916年(15〜16歳) アーネム・オーケストラ協会ヴィオラ奏者

●ベイヌム、「アーネム・オーケストラ協会」でヴィオラ奏者として1年ほど演奏。このオーケストラは1949年に「ヘルダース管弦楽団」と改名し、レコーディングと海外公演の際には、「アーネム・フィルハーモニー管弦楽団」という名前を使用していました。また、2020年6月からは、新型コロナ官製不況の影響か、隣のオーフェルアイセル州の「オーステン管弦楽団」と合併し、「ヘルダーラント&オーフェルアイセル管弦楽団」という新団体となっています。
●セファ・ヤンセン、コンセルトヘボウ管弦楽団のコンサートでソロを演奏。

1917年(16〜17歳)

●セファ・ヤンセン、アムステルダムス音楽院を卒業。夏のコンセルトヘボウ管弦楽団のコンサートでメンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲を演奏。

1918年(17〜18歳)

●ベイヌムの姉リーク・フレマンが、エドゥアルト・アレクサンダーを出産。曾祖父、父親、弟と同じ名前を付けたことになります。姉リーク夫妻、おそるべしです。
◆オランダ議会で社会民主労働者党が22議席を獲得。20世紀初頭の3倍規模にまで躍進し、第1党のカトリック党に次ぐ存在に。カトリック党は、反革命党、キリスト教史党と連立政権を組み、与党比率50%をなんとか確保。
●9月、ベイヌム、兵役年齢に到達。すでにドイツの敗戦は決定的だったため、オランダで徴兵はおこなわれておらず、ベイヌムが兵役に就くのは6年後の1924年3月から12月までの9カ月間でした。といっても平時の兵役ということで、入営するわけではなく、ときおり訓練に参加すればよいというもので、普通にコンサート出演などもおこなっていました。
◆10月、スペインかぜの流行がオランダで本格化。スペインかぜはもともとアメリカで大流行した超強力インフルエンザで、米軍の欧州派遣、特に末期の「西部戦線」を通じてベルギーやフランスに勢力を急拡大し、パンデミックを引き起こしています。オランダでも7月に陸軍基地で100名を超える集団感染が確認され徐々に範囲を拡大、気温が低下する10月以降は致死率が大幅に上がり、1920年に収束するまでの死者の数は6万人(超過死亡推計)を超える悲惨なものとなっています(当時のオランダの人口は約670万人)。


◆11月10日、ドイツ皇帝、ヴィルヘルム2世[1859-1941]、オランダへ亡命。連合国側はオランダ政府に、戦争犯罪人としてヴィルヘルム2世の引き渡しを要求しますが、オランダ政府とウィルヘルミナ女王[1880-1962]は、避難者保護権を根拠として要求を拒否。ヴィルヘルム2世夫人のアウグステ[1858-1921]も入国させてユトレヒト州のドールン村に住まわせ余生を過ごさせています。ちなみにウィルヘルミナ女王の母エンマ[1858-1934]はドイツ貴族でした。

1919年(18〜19歳) アムステルダムス音楽院在学

●ベイヌム、アムステルダムス音楽院(現アムステルダム音楽院)を受験。課題のベートーヴェンのピアノ協奏曲第1番では不本意な演奏だったものの、1884年のアムステルダムス音楽院創設にも関わっていたジャン=バプティスト・デ・パウ[1852-1924]に注目され、デ・パウはベイヌムに即興演奏をするよう要求、子供の頃から即興に慣れていたベイヌムは、見事な演奏を聴かせ、無事に合格点を獲得。
●ベイヌム、アムステルダムス音楽院に入学。ピアノをジャン=バプティスト・デ・パウ、理論とソルフェージュをベルナルト・ズヴェーアス[1854-1924]、作曲をセム・ドレスデン[1881-1957]に師事。ドレスデンの課題では、交響曲、ミサ曲、合唱曲、歌曲を作曲していました。
●ベイヌム、アムステルダムのホーヴァート・フリンク通りに転居。少ない奨学金と兄のコーからの援助での生活がスタートしますが、生活は貧しく、ベイヌムの健康状態も悪化。
◆オランダで選挙権が急拡大。女性に選挙権が与えられ、25歳以上の男女が対象となることで、有権者人口が一気に2倍に拡大。
◆11月、ハーグで音楽放送を実施。オランダ初の放送で、6年後には公共放送が開始されます。

1920年(19〜20歳) アムステルダムス音楽院在学

●ベイヌム、デ・パウ教授の紹介で、広告代理店ディレクターのコートマン夫妻の家で暮らすことになります。コートマンは宿泊部屋のほか楽器も用意し、ベイヌムはしばしばコートマン夫妻やその友人たちの為に演奏を披露し、称えられるという生活で、時にはコートマン家の車も運転させてもらうなど恵まれた環境で過ごしていました。
●ベイヌムの未来の妻、セファ・ヤンセン、コンセルトヘボウ管弦楽団の首席第2ヴァイオリン奏者として入団(1922年まで)。

1921年(20〜21歳) アムステルダムス音楽院在学、聖ニコラス教会聖歌隊指揮者

●ベイヌム、アムステルダムの運河に面した大きなカトリック教会、聖ニコラス教会の指揮者、オルガニストとして契約。ベイヌムは兄コーの合唱リハーサルに何度か同席し、代行したこともあったので、合唱指揮にはある程度の知識があり、また、ピアノの師デ・パウ教授がオルガニストでもあったということで、オルガン演奏もなんとかこなせたため、グレゴリオ聖歌の指揮経験が無かったにも関わらず、教区司祭は学生ベイヌムを雇うことに決定。3年間の任期中には、パレストリーナのマルチェルス・ミサ、ハイドン、モーツァルトのミサ、ペロージや現代オランダ作曲家の作品、そして自作のミサも披露。


●セファ・ヤンセン、カール・ムック指揮コンセルトヘボウ管弦楽団の定期コンサートで、チャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲を演奏して成功。
●11月、セファ・ヤンセン、ウィレムメンゲルベルク指揮コンセルトヘボウ管弦楽団のコンサートで、サンサーンスのヴァイオリン協奏曲第3番を演奏。

1922年(21〜22歳) アムステルダムス音楽院在学、聖ニコラス教会聖歌隊指揮者

●ベイヌム、甥のエドゥアルト・アレクサンダーへのピアノ指導を開始。甥が8歳になる1926年まで教えますが、ベイヌムの仕事が忙しくなったため、甥への音楽教育は、アーネム・オーケストラ協会のマリアン・デ・レーウが引き継いでいます。

1923年(22〜23歳) アムステルダムス音楽院在学、聖ニコラス教会聖歌隊指揮者、スヒーダム・トーンクンスト合唱団指揮者

●ベイヌム、ピアノの試験に輝かしい成績で合格し、アムステルダムス音楽院を卒業。
●夏、ベイヌム、新設されるスヒーダム・トーンクンスト女声合唱団の指揮者として契約。スヒーダムの『ムシス・サクルム』で年に数回の公演をおこなう団体で、ベイヌムは立ち上げにあたり毎週のようにアムステルダムからスヒーダムまで通います。スヒーダムでは、ときおりアマチュア・オーケストラの指揮もおこなっていました。


●11月、ベイヌム、アーネムのマチネ・コンサートでベートーヴェンの『皇帝』、夜のフォルクスコンサートでモーツァルトのピアノ協奏曲第21番K467を演奏。

1924年(23〜24歳) アムステルダム聖ニコラス教会聖歌隊指揮者、スヒーダム・トーンクンスト女声合唱団指揮者

●1月、ベイヌム、スヒーダム音楽学校創立50周年記念行事の一環として、スヒーダム・トーンクンスト女声合唱団の演奏会を指揮。
●3月25日、ベイヌム、12月23日までの9カ月間、兵役に就きます。といっても平時の兵役ということで、入営するわけではなく、ときおり訓練に参加すればよいというもので、コンサート出演なども十分に可能でした。
●ベイヌム、コンセルトヘボウ管弦楽団の元ヴァイオリニスト、セファ・ヤンセン(ヨゼファ・アントニア・アンナ・マリア・ヤンセン)[1896-1986]のヴァイオリン・リサイタルに伴奏ピアニストとして出演。曲目はフランクのヴァイオリン・ソナタとベートーヴェンのクロイツェル・ソナタ。リハーサルはセファの自宅でおこなわれ、若きベイヌムは、フランクのソナタでセファに対してさらなる自由と音楽の呼吸を促すなど、セファにとって刺激的な共演となり、やがて2人はプライヴェートでも付き合うようになって3年後に結婚。幼少期からヴァイオリンとピアノを学んでいたセファは、アムステルダムス音楽院では、ヴァイオリンのほか、副科でピアノを選択、ベイヌムと同じくデ・パウ教授に師事してもいました。
●モントゥー、コンセルトヘボウ管弦楽団の共同首席指揮者に就任。1922年からニューヨーク・フィル音楽監督を兼務して多忙だったメンゲルベルクによる任命。モントゥーとメンゲルベルクは対照的な芸風ながらお互いを尊重、指揮者としての立場もあくまで平等という形での運営でした。
 ボストン響の欠員問題を解決して演奏水準を大幅に引き上げながらも、私生活の問題によって経営陣からなかば追い出された形のモントゥーにとって、ヨーロッパ有数のオーケストラとの契約は大きな喜びとなりました。
 アムステルダムでの10年間は非常に充実したもので、コンセルトヘボウ管弦楽団と毎年50〜60公演を演奏したほか、1931年には若きベイヌムを第2指揮者に推薦して育成、さらに同地で『ペレアスとメリザンド』『ホフマン物語』『カルメン』『オーリードのイフィジェニー』『ファルスタッフ』などのオペラも上演。しかも『ファルスタッフ』については、主催者が当初トスカニーニを招いたものの、トスカニーニが、モントゥーこそが『ファルスタッフ』にとって最高の指揮者であると称えて指揮の依頼を辞退したというエピソードまでありました。
●ベイヌム、若手チェリスト、レーウェン・ボーンカンプ[1906-2000]の伴奏でオランダ全土をツアー。後年、ボーンカンプとはコンセルトヘボウ管弦楽団のコンサートでも共演。
●ベイヌム、兄のヴァイオリニスト、コーとの共演でオーステルベークでリサイタル。
●12月7日、ベイヌム、アーネムのコンサートでモーツァルトのピアノ協奏曲第21番K467を演奏。

1925年(24〜25歳) ズートフェン・トーンクンスト合唱団指揮者、スヒーダム・トーンクンスト女声合唱団指揮者

●1月、ベイヌム、スヒーダムのコンサートに出演し、ピアニストとしてソロ作品を弾いたほか、室内楽曲の伴奏も担当。
●5月、ベイヌム、ズートフェン・トーンクンスト合唱団との最初のコンサート。共演はアーネム・オーケストラ協会で、会場はズートフェンの聖ワルプルヒス教会。プログラムはペルゴレージのスターバト・マーテルとベートーヴェンのハ長調ミサでした。


●5月、ベイヌム、スヒーダム・トーンクンスト女声合唱団での指揮報酬が2倍の1日200ギルダーにアップ。これまで報酬の70%が往復の交通費に消えていたので、これは朗報でした。
●夏、ベイヌム、ズートフェン・トーンクンスト合唱団の指揮者に任命。
◆オランダで公共放送開始(ラジオ)。

1926年(25〜26歳) ズートフェン・トーンクンスト合唱団指揮者、スヒーダム・トーンクンスト女声合唱団指揮者

●4月、ベイヌム、スヒーダム・トーンクンスト女声合唱団とペルゴレージの『スターバト・マーテル』を演奏。独唱はディ・モーラフとライデルという有名どころが呼ばれ、部分的にソロを合唱に置き換えるという編曲版が使用され、成功を収めています。
●4月、ベイヌム、ズートフェン・トーンクンスト合唱団、アーネム・オーケストラ協会とベルリオーズ『キリストの幼時』、サン=サーンス『ノアの洪水』を演奏。
●5月、ベイヌム、アーネム・オーケストラ協会を指揮してズートフェンでコンサートを開催。ベイヌム初のオーケストラ・コンサートでした。曲目はブラームス交響曲第2番、モーツァルトのパリ交響曲、そして弾き振りでモーツァルトのピアノ協奏曲第21番K.467というもので、批評は好意的でした。
●11月、ベイヌム、アムステルダムのコンセルトヘボウ小ホールでセファ・ヤンセンと共演し、クロイツェル・ソナタやドビュッシーのソナタを演奏。このコンサートは、『芸術協会』が社会主義的施策として取り組んでいた『すべてのために』と題された低料金シリーズでもありました。
 第1次大戦中、オランダは中立国ながらも周辺国の影響で食糧や燃料など物資の不足に苦しみ、都市部では暴動も発生。戦後のアムステルダムでは社会民主党が台頭し、社会主義的な支援策の一環として実現した企画のひとつで、低料金のコンサートが数多く開催されることで、聴衆の数が増え、若手の演奏家にも多くのチャンスが巡ってくるというメリットがありました。

●11月、ベイヌム、ディ・モーラフとズートフェンでコンサート開催。ソプラノ・リサイタルとピアノ・リサイタルを組み合わせた形の公演でした。
◆オランダのラジオ受信世帯数約24,000。

1927年(26〜27歳) ハールレム交響楽団指揮者、スヒーダム・トーンクンスト女声合唱団指揮者

●2月、ベイヌム、アルト歌手のメータ・ライデルのリサイタルで伴奏。コンセルトヘボウ小ホールでのマーラーからファリャまで幅広い作品のリサイタル。ライデルはマーラー本人やメンゲルベルクとの共演で知られた当時の有名歌手。
●3月、ベイヌム、ズートフェン・トーンクンスト合唱団とバッハの『クリスマス・オラトリオ』を演奏。
●4月、ベイヌム、スヒーダム・トーンクンスト女声合唱団とベートーヴェンのハ長調ミサを演奏。男声合唱追加、ハーグ・レジデンティ管の出演、4人の独唱者の手配など手間がかかり、さらに土壇場で、組み合わせ曲目が合唱幻想曲からベートーヴェンのコリオランとヴァイオリン協奏曲に変更という展開。しかしソロは婚約者のセファ・ヤンセンが演奏するということで、ベイヌムにとっては特別な公演となり、新聞もヴァイオリン協奏曲を絶賛していました。
●5月、ベイヌム、ハールレム交響楽団指揮者に任命。
●7月6日、ベイヌム、ヴァイオリニストのヨゼファ・アントニア・アンナ・マリア・ヤンセンとアムステルダムのロザリオ教会で結婚。ヨゼファ(愛称:セファ)との間には、のちに2人の息子が誕生。


●10月、ベイヌム、ハールレム交響楽団(ハールレム・オーケストラ協会)の指揮者として活動開始。アムステルダム近郊の都市ハールレムの実際の発音はハーレムに近いですが、ここでは一般的な表記としておきます。
 ハールレム交響楽団の固定団員数は44名と少なめで、本拠のホールも小さめですが音響には恵まれていたようです。最初の公演曲目は、ベルリオーズ『ローマの謝肉祭』、ラヴェル『亡き王女のためのパヴァーヌ』、ショーソン『ヴィヴィアーヌ』、ブラームス交響曲第2番というもので、批評は好意的でした。
 演奏水準は回を追うごとに良くなり、聴衆も増え、やがてメンゲルベルク&コンセルトヘボウ管弦楽団によるハールレム・コンサートと比較する者も現れ、その解毒作用とも言うべき、楽譜に誠実な姿を示すベイヌムの音楽づくりが高い評価を得ることに繋がって行きます。


 ステージ正面に据え付けられているオルガンは、ベイヌムの師デ・パウ教授がブリュッセルからアムステルダムに移送してまで愛奏していた楽器と同じタイプのもので、オルガンにも造詣の深かったベイヌムにとっては、これも良い条件でした。ベイヌムはほどなくこのホールでサン=サーンスの交響曲第3番『オルガン付き』を披露することを決定。
 また、在任中には得意のピアノの弾き振りでベートーヴェンの『皇帝』、モーツァルトのピアノ協奏曲第21番、フランクの交響的変奏曲などを取り上げたほか、バッハのブランデンブルク協奏曲では、チェンバロを弾いてもいました。
 1929年以降は、ベイヌムと親しかったボーンカンプなどコンセルトヘボウ管の首席奏者たちもハールレムにソリストとして訪れるようになり、曲目の幅も広がります。
 フランスの管弦楽曲やオランダの同時代作品に積極的に取り組んでいたベイヌムは、一方で、バッハやテレマン、コレッリ、ヴィヴァルディなどバロック音楽にも関心を示してプログラムに掲載。また、ハイドン交響曲第45・88・92・94・96・97・100番、チェロ協奏曲、序曲、モーツァルト交響曲第33・40・41番、序曲、協奏曲、セレナーデ、シューベルト『未完成』、『グレート』、序曲、ドイツ舞曲、シューマン交響曲第4番、ブラームス交響曲第1・2・4番、チャイコフスキー交響曲第5・6番、弦セレ、ロメジュリ、ワーグナーの序曲、ブルックナー交響曲第3番、マーラー交響曲第1番、歌曲といったあたりも取り上げていました。
 ハールレムでベイヌムが特に注力した作曲家として、ベートーヴェンが挙げられます。オケのサイズがちょうど良かったこともあり、交響曲全曲を複数回(第9のみ1回)、ヴァイオリン協奏曲を5回取り上げたほか、ピアノ協奏曲や序曲も何曲も紹介。


●12月、ベイヌム、ハンガリーの名手ソルタン・セーケイとハールレムでグラズノフのヴァイオリン協奏曲、ラヴェル『ツィガーヌ』を演奏。組み合わせは『イスの王様』序曲、『牧神』、『魔法使いの弟子』。

1928年(27〜28歳) ハールレム交響楽団指揮者、スヒーダム・トーンクンスト女声合唱団指揮者

●3月、ベイヌム、ハンガリーの名手エデ・ザトゥレツキー[1903-1959]のヴァイオリン・リサイタルで伴奏を担当。ザトゥレツキーとベイヌムは意気投合し、ハールレムのオーケストラに3年連続で来演していました。
◆夏、アムステルダム・オリンピック開催。カトリック系政党、プロテスタント系政党、反革命党や、マルクス主義者の猛反対により、社会民主党や自由主義者の賛成にも関わらず1925年5月の議会投票では政府からの補助金法案が否決。そのため民間の様々な資金で運営されますが、結果は立派な黒字運営。女性選手が初めて正式に参加したほか、なぜかアメリカ選手団が将軍のマッカーサーに率いられるなど話題も多かった大会。


●7月9日、長男エドゥアルト・アントニウス・ファン・ベイヌム誕生。のちにオルガニストになります。
●11月、ベイヌム、セファ・ヤンセンと、フランク、クロイツェル・ソナタなどをスヒーダムで演奏。

1929年(28〜29歳) ハールレム交響楽団指揮者、スヒーダム・トーンクンスト女声合唱団指揮者

●2月、ベイヌム、ハールレム交響楽団。マーラー交響曲第1番、ほか。
●6月30日、ベイヌム、コンセルトヘボウ管弦楽団にデビュー。曲目は、ハイドン『オックスフォード』、リムスキー=コルサコフ:ピアノ協奏曲(メータ・ハーヘンドールン)、サン=サーンス交響曲第3番『オルガン付き』。嵐のような拍手に加え、批評も絶賛という大成功でした。


●夏、ベイヌム、スヒーダム・トーンクンスト女声合唱団の指揮者を辞任することを理事会に手紙で通知。
◆9月3日、アメリカ、世界恐慌前触れ。しばらく「買い」が蓄積して上昇を続けていたダウ工業株平均が最高値381.17を記録。ほどなく利益確定目的の「売り」が集中したため1か月に渡って株価が下がり続け17%下落。そこで底値と判断した投資家の「買い」が再び蓄積、下落分の半分ほどまで株価が上昇したものの、そこで利益確定の「売り」が大きく入り、再び株価は下落。
◆9月26日、イングランド銀行が5.5%から6.5%に金利を引き上げ。利益確定後に投資先を探していたアメリカの投資資金がイギリスに大きく流れ込みます(FRBは6.0%)。
◆10月24日、ウォール街株価大暴落。シカゴ市場、バッファローの市場は閉鎖。やがて損失確定組は、善後策として投資や預貯金などの資金を回収、結果的に、銀行や企業の相次ぐ破綻へと繋がって行きます。
●10月28日、次男バート誕生。母の指導を受け、のちにヴァイオリニストになります。

1930年(29〜30歳) ハールレム交響楽団指揮者

●7月10日、ベイヌム、コンセルトヘボウ管弦楽団と2度目のコンサート。曲目は、ヴェーバー『魔弾の射手』序曲、ヘンリエッテ・ボスマンス:ピアノとオーケストラのためのコンチェルティーノ(ピアノは作曲者)、ドビュッシー『海』、ブラームス:交響曲第4番。批評は絶賛でした。
●10月、ベイヌム、コンセルトヘボウ管弦楽団に2度目登場。ドビュッシー『海』、ブラームス交響曲第4番、ほか。
●ベイヌムの姉ミーネケ[1890-1930]、死去。
◆オランダのラジオ受信世帯数約429,000。
◆オランダの失業者数約10万人。

1931年(30〜31歳) ハールレム交響楽団指揮者、コンセルトヘボウ管弦楽団第2指揮者

●2月、コンセルトヘボウ管弦楽団の理事会が、第2指揮者にベイヌムを任命することを協議。世界大恐慌の影響で危機に瀕していたパリ交響楽団のことで多忙だった共同首席指揮者モントゥーもベイヌムを推薦。
●ベイヌム、ハールレム交響楽団の告別公演企画としてベートーヴェン・チクルスを展開。交響曲全曲や協奏曲、序曲、室内楽を含む大規模な企画でした。
●7月、ベイヌム、コンセルトヘボウ管弦楽団第2指揮者コルネリス・ドッパー[1870-1939]の告別公演に、フランクの交響的変奏曲の独奏者として出演。
●8月、コンセルトヘボウ管弦楽団の1931-1932シーズン開始。メンゲルベルク73回、モントゥー42回、ベイヌム21回など、全156公演。
●9月6日、ベイヌム、コンセルトヘボウ管弦楽団の第2指揮者として最初のコンサート。曲目は、ベートーヴェン交響曲第8番、ブルックナー交響曲第8番。
●9月13日、ベイヌム、コンセルトヘボウ管弦楽団。ベルリオーズ『幻想交響曲』ほか。
●9月20日、ベイヌム、コンセルトヘボウ管弦楽団。ハイドン97番、R.シュトラウス:ブルレスケ、ほか。
●9月27日、ベイヌム、コンセルトヘボウ管弦楽団。『グラン・パルティータ』、『三角帽子』、『ドン・ファン』、『マイスタージンガー』前奏曲、ほか。
●10月11日、ベイヌム、コンセルトヘボウ管弦楽団。フランク:交響曲ニ短調、ビゼー『子供の遊び』、ほか。
●11月22日、ベイヌム、コンセルトヘボウ管弦楽団。ハイドン104番、ほか。
●11月23日、ユトレヒト市立管弦楽団首席指揮者、エフェルト・コルネリスが47歳で病により死去。
●12月1、2日、ベイヌム、ユトレヒト市立管弦楽団に客演し、コルネリスを追悼。ベイヌムより16歳年長のコルネリスは、ベイヌムと同じくコンセルトヘボウ管弦楽団第2指揮者でもあった人物で、ベイヌムはコルネリスの葬儀にも出席し、以後、次の首席指揮者であるヘンリー・ファン・ホウドゥーフェル[1898-1977]が安定する1932年12月までは、ユトレヒト市立管弦楽団の本拠地「ティフォリ」の指揮台に頻繁に立っており、以後も客演は続くことになります。
 ベイヌムが取り上げた曲目は多彩で、モソロフ『鉄工場』、マーラーの交響曲第1番、第3番、ベートーヴェン交響曲第9番、ブルックナー交響曲第3番、第8番、シューベルト交響曲第5番、『未完成』、ムソルグスキー『禿山の一夜』、ドビュッシー『牧神の午後への前奏曲』、J.シュトラウス:ワルツ集、R.シュトラウス『ドン・ファン』、コレッリ『クリスマス協奏曲』、ベルリオーズ『ローマの謝肉祭』、ラフマニノフ:ピアノ協奏曲第2番、リスト:ピアノ協奏曲第1番、モーツァルト:ピアノ協奏曲第26番などのほか、ディーペンブロックなどオランダ作曲家の音楽といった感じでした。
 亡くなったエフェルト・コルネリス[1884-1931]は、1909年にメンゲルベルクに認められてコンセルトヘボウ管弦楽団の第2指揮者として契約、10年間在籍していましたが、最後は同楽団の内紛に巻き込まれ、メンゲルベルクからも敵対されて解雇。メンゲルベルクはほどなく戦勝国アメリカのニューヨーク・フィル音楽監督も兼務するようになり、戦勝国フランスのモントゥーをコンセルトヘボウ管弦楽団の共同指揮者として迎えるなど、レパートリーだけでなく人事面でも戦勝あやかり路線が敷かれて行きます。
 コルネリスは、コンセルトヘボウ管弦楽団を解雇された後、しばらくは室内楽や合唱指揮などをこなし、3年後の1922年にユトレヒト市立管弦楽団の首席指揮者に就任。マタイ受難曲やメサイアを含むバロック作品から、ミヨー、オネゲルらの現代作品まで、編成も内容も様々なコンサートを数多く開催していました。
 ちなみにコルネリス着任直前のユトレヒト市立管弦楽団は、ドイツ系レパートリーを推す首席指揮者、ヤン・ファン・ヒルセ[1881-1944]とフランス系レパートリーを推す運営陣が対立して内紛状態が続き、最終的にヒルセが解雇されていました。
 オランダは第1次大戦のときに中立の立場でしたが、現実には英仏とドイツの板挟みとなり、両陣営から脅されるなどして理不尽な判断を強いられ、貿易も破綻寸前に追い込まれるなど苦しい展開が続いており、そうした混乱が政治や経済だけでなくオーケストラにまで影響を及ぼしていたのかもしれません。
 なお、ユトレヒト市立管弦楽団は、1946年から「ユトレヒト交響楽団」と改名、1985年からはアムステルダム・フィル他と合併して「ネーデルラント・フィル」となり、本拠地もアムステルダムに移しています。


●12月上旬、ベイヌム、ユトレヒト市立管弦楽団に客演。オーケストラの楽器配置をコンセルトヘボウ管弦楽団と同じタイプに変更。
●ベイヌムの姉リーク[1885-1931]、死去。
◆オランダのラジオ受信世帯数約524,000。

1932年(31〜32歳) コンセルトヘボウ管弦楽団第2指揮者

●1月、ベイヌム、「コンセルトヘボウ六重奏団」にピアニストとして参加。
●2月、ベイヌム、ロベール・カサドシュ、ユトレヒト市立管弦楽団。リスト:ピアノ協奏曲第1番、モーツァルト:ピアノ協奏曲第26番、ほか。
●5月、コンセルトヘボウ管弦楽団の理事会は、ベイヌムがユトレヒト市立管弦楽団の9月から12月にかけての公演を20数回指揮することを許可。
●6月、ベイヌム、ユトレヒト市立管弦楽団。マーラー交響曲第1番、第3番、ベートーヴェン交響曲第9番ほか。
●7月、ベイヌム、コンセルトヘボウ管弦楽団。マーラー交響曲第1番、ほか。
●9月、ベイヌム、コンセルトヘボウ管弦楽団。のちに有名な指揮者になるオッテルローの作曲した組曲第2番ほかを演奏。
●8月、コンセルトヘボウ管弦楽団の1932-1933シーズン開始。メンゲルベルク55回、ベイヌム34回、モントゥー31回、クライバー9回、ワルター5回、アーベントロート3回など、全158公演。
◆9月20日、「締切大堤防」完成(↓)。長さ32.5キロ、幅90メートルの海上堤防。これにより面積約1,800㎢(琵琶湖の約2.7倍)の淡水湖エイセル湖が誕生。1975年には南西部に長さ26キロのハウトリブ堤防が完成し、仕切られた部分は面積約700㎢のマルケル湖となります。


●9〜12月、ベイヌム、ユトレヒト市立管弦楽団公演を20数回指揮。以後もユトレヒト市立管弦楽団への客演は続くことになります。
●12月、メンゲルベルクの健康状態が悪化。1934年春までの1年数か月に渡って体調不良に陥ることが多くなり、コンサートやリハーサルのキャンセルが増加。
●12月中旬、ベイヌム、急性虫垂炎で入院。12月に予定されていたコンセルトヘボウ管弦楽団とのコンサートは、ヘルマン・アーベントロートが代役を務め、また、その中のオッテルローの組曲第2番については急遽本人が指揮することになりました。
◆オランダのラジオ受信世帯数約560,000。
◆オランダの失業者数約30万人。

1933年(32〜33歳) コンセルトヘボウ管弦楽団第2指揮者、「コンセルトヘボウNV」暫定芸術監督

●1月、ベイヌム、コンセルトヘボウ管弦楽団公演を18回指揮。
●3月、「「コンセルトヘボウNV」(コンセルトヘボウ大ホールや小ホールを運営する公開型有限責任会社)」の理事会で、芸術監督ルドルフ・メンゲルベルク[1892-1959]は、コンセルトヘボウ管弦楽団におけるウィレム・メンゲルベルクの穴をカバーするために、元音楽監督のピエール・モントゥーなど4人の指揮者を1週間ずつ客演させるプランを提案。
●ベイヌム、アムステルダム近郊の景勝地、ハルデレン村のベルフスハムに約4万平方メートルの土地を購入。敷地の一部が自然保護対象だったため、建築許可の取得は手間取りましたが、バルネフェルト自治体から、控えめな森の家という条件でなんとか許可が下ります。そしてベイヌムはオーストリア製のかやぶき屋根住宅を購入して建設、青銅器時代の古墳があり、最大250sほどにもなるアカシカや30sほどのノロジカが棲む森に囲まれた家で、生涯の多くの時間を過ごすことになります。
 大規模な不動産購入の背景には、当時のオランダが置かれていた経済状況があるとも考えられます。世界大恐慌の影響はオランダにも波及しており、株価が39か月に渡って続落、低下率も約80%に達しており、不動産価格への影響も大きかったからです。また、オーストリアも銀行がいくつも破綻し、住宅価格が下落していたという事情もありました。
 ベイヌム亡きあとは息子世帯が半世紀以上も住み続けた優良物件でもあり、チャンスに強いベイヌムの賢さや、目利きぶりも証明される不動産購入案件であったと考えられます。


●8月、コンセルトヘボウ管弦楽団の1933-1934シーズン開始。ベイヌム52回、モントゥー24回、メンゲルベルク12回、ワルター12回、ブッシュ6回、クレメンス・クラウス4回、シューリヒト4回、クライバー4回、アーベントロート2回など、全145公演。
●10月中旬、「コンセルトヘボウNV」芸術監督、ルドルフ・メンゲルベルク[1892-1959]が胃の出血で入院。
 ベイヌムは、ルドルフ・メンゲルベルクの代理として、「コンセルトヘボウNV」の理事会から「暫定芸術監督」に任命され、11月の終わりまで毎週理事会に出席。
●12月、ルドルフ・メンゲルベルクが職場に復帰。ベイヌムは「「コンセルトヘボウNV」 暫定芸術監督」から解放。
◆オランダのラジオ受信世帯数約648,000。

1934年(33〜34歳) コンセルトヘボウ管弦楽団第2指揮者

●2月、オランダ・ブルックナー協会設立の準備のため、国際ブルックナー協会の音楽学者ヤン=ホーフェルト・ホーフェルツが、ベイヌムに宛てて質問状を送付。ベイヌムは、ブルックナーは最高の作曲家のひとりであり、自分はこの回答の時点で、すでに多くのブルックナー・コンサートをおこなっていること、聴衆は非常によく反応するが、マーラーやシュトラウスなどの輝かしい音楽と違って、ブルックナーはより瞑想的であり、大きなオーケストラを使用しているものの、内側からしか理解できない。ブルックナーの場合、オーケストラ作品だけでなく、ミサ曲などの宗教音楽もとりあげないと印象が不完全なものになる恐れがあり、自分はそのためにできる限り、ブルックナーの作品を多く演奏したいと考えているといったことを述べています。
●3月、モントゥー、コンセルトヘボウ管弦楽団共同首席指揮者を辞任することを発表。8日に任期中の最後のコンサートを指揮。
 背景には、パリ交響楽団の指揮の多さと、パリで設立した指揮の学校「エコール・モントゥー」での仕事で忙しかったことに加え、アメリカでの仕事の増加が決定的な要因となりました。同年、クレンペラーの招きでロサンジェルス・フィルに5週間に渡って客演したモントゥーは、その後、サンフランシスコ交響楽団の立て直しについて打診され、悩んだ末に承諾。1936年から音楽監督に就任することを決めています。
 もっとも、その後もモントゥーとコンセルトヘボウ管弦楽団の関係は良好で、辞任後の客演回数は計97回に及んでいました。


●6月、オランダ・ブルックナー協会設立。国際ブルックナー協会の音楽学者ヤン=ホーフェルト・ホーフェルツが中心となって、オランダでのブルックナー作品普及を目指して活動。名誉会長として、メンゲルベルクが選出されています。
 メンゲルベルクは、1897年から1943年までの46年間に、43回のコンサートで、交響曲第1・2・3・4・6・7・8・9番とテ・デウムの指揮を手掛けており、オランダでのブルックナー作品普及に向けて大きく貢献してもいました。
 一方ベイヌムは、1920年代からブルックナー作品に取り組み、1931年にコンセルトヘボウ管弦楽団の第2指揮者としてデビューした際に交響曲第8番で成功を収めてからは、28年間に計148回のコンサートで、交響曲第0・1・3・4・5・7・8・9番とテ・デウム、ミサ曲第2・3番を指揮。コンセルトヘボウ管弦楽団と年間平均5回以上ブルックナー公演をおこなっていたという計算になり、これは世界でも最高頻度の演奏回数にあたると考えられます。
●7月1日、ベイヌム、コンセルトヘボウ管弦楽団。ブルックナーのミサ曲第3番と交響曲第7番を演奏。設立間もないブルックナー協会を祝すかのような曲目選択です。
●8月、コンセルトヘボウ管弦楽団の1934-1935シーズン開始。メンゲルベルク58回、ワルター32回、ベイヌム25回など、全137公演。
●9月上旬、ベイヌム、国際ブルックナー協会第4回ブルックナー・フェスティヴァルで交響曲第0番と第1番、ミサ曲第2番を聴くため。オランダ、ベルギーと接するドイツの国境の町、アーヘンの大聖堂を訪問。フェスティヴァルの音楽監督はペーター・ラーベ[1872-1945]で、オーケストラはアーヘン市立管弦楽団(現アーヘン交響楽団)。交響曲第1番リンツ版初演と、第5番、第9番、ミサ曲第2番については、ラーベ自身が指揮。
 交響曲第0番については、フランツ・モイスル[1869-1946]が指揮。モイスルはブルックナー協会事務局長も務めた人物で、フェスティヴァルでの2台ピアノを用いた交響曲第0番のレクチャーでも講師を担当。


●9月30日、ベイヌム、コンセルトヘボウ管弦楽団。ブルックナーの交響曲第0番をオランダ初演。当時珍しい曲目で、準備にあたっては、アーヘンにも同行していたオランダ・ブルックナー協会のメンバーも協力しています。
●ベイヌム、グリフォン種の子犬を狩猟仲間から入手。親犬は狩猟犬としての訓練を受けていました。ベイヌムは子犬にボブと名付け、朝の新聞運びなどから訓練を開始。
◆オランダのラジオ受信世帯数約909,000。

1935年(34〜35歳) コンセルトヘボウ管弦楽団第2指揮者、ハールレム・ローマ・カトリック・オラトリオ協会指揮者

●ベイヌム、ハールレム・ローマ・カトリック・オラトリオ協会の指揮者として契約。
●ベイヌム、亡くなった友人から譲渡された二連式ショットガンをめぐって許可を申請。自身のライフルは友人に譲渡。
●6月、ベイヌム、コンセルトヘボウ管弦楽団。『春の祭典』でスタンディング・オベーションの大成功。
●8月、コンセルトヘボウ管弦楽団の1935-1936シーズン開始。メンゲルベルク57回、ベイヌム28回、ワルター24回など、全128公演。
●12月、ベイヌム、コンセルトヘボウ・セクステットと『動物の謝肉祭』を演奏。サン=サーンス生誕100周年記念メダルを授与されます。
●ベイヌム、メンゲルベルク指揮するバッハの2台、4台のためのピアノ協奏曲にソリストとして出演し、リハーサルも担当。
◆オランダのラジオ受信世帯数約947,000。
◆オランダの失業者数約50万人。失業率15.5%。

1936年(35〜36歳) コンセルトヘボウ管弦楽団第2指揮者、ハールレム・ローマ・カトリック・オラトリオ協会指揮者

◆3月、ドイツ、ロカルノ条約を破棄し、ラインラントに進駐。
◆6月、フランス人民戦線内閣成立。ユダヤ系のブルム首相による反ファシズム政権(1937年6月まで)。
●7月、ベイヌム、レニングラード・フィルのバクーでの長期公演に客演、『幻想交響曲』、『海』など5つのコンサートで指揮をします。客演指揮者陣にはパウル・クレツキ[1900-1973]と、クルト・ザンデルリング[1912-2011]の姿も。油田と工業で豊かだったバクーは、アゼルバイジャン・ソビエト社会主義共和国の首都でした。
 バクーでの公演を終えると、ベイヌムは4日間かけて列車でレニングラードに向かい、78人編成の放送オーケストラで、『シェエラザード』など4回の公演を指揮。
 このベイヌム初のソ連ツアーは大成功に終わり、すぐに3か月後のモスクワとレニングラードへの客演と、翌年2月から3月にかけてのソ連ツアーも計画されます。


◆7月17日、スペイン内戦勃発(1939年4月まで)。
◆7月31日、ベルリン・オリンピック開催。
●8月、コンセルトヘボウ管弦楽団の1936-1937シーズン開始。メンゲルベルク61回、ベイヌム33回、ワルター25回など、全141公演。
●10月、ベイヌム、モスクワとレニングラードへの客演予定が、ビザの取得に時間がかかり過ぎてキャンセルに。翌年2〜3月の公演もキャンセルとなってしまいます。
●11月、ベイヌム、アーヘン市立管弦楽団に客演。フランクの交響曲とバディングスの交響曲第2番ほかを指揮。
●11月、ベイヌム、ブダペストに客演。
●11〜12月、ベイヌム、急病のオッテルローに代わり、ユトレヒト市立管弦楽団を指揮。
◆オランダのラジオ受信世帯数約989,000。

1937年(36〜37歳) コンセルトヘボウ管弦楽団第2指揮者、ハールレム・ローマ・カトリック・オラトリオ協会指揮者

●2月、ベイヌム、自分の指揮実績に鑑み、首席指揮者に昇格してくれるよう「コンセルトヘボウNV」の理事会に要請。対応した議長、ヘンリー・ピエール・ハイネケン[1886-1971 ハイネケン醸造所2代目社長]は、首席指揮者や第2指揮者という名前にこだわる必要は無く「コンセルトヘボウ管弦楽団の指揮者」で十分であるとして、まともに取り合いませんでした。
 当時のベイヌムはすでに国際的な知名度も得ていましたが、コンセルトヘボウ管弦楽団でのメンゲルベルク、ワルターとの報酬格差は相変わらず6倍もあり、さらにメンゲルベルクの公演の下準備までさせられたりするなどひどい状況にありました。
●3月、KRO(カトリック・ラジオ放送)がユトレヒト市立管弦楽団との契約を延長しないことを決定。  当時のオランダは、極右政治家の首相により、多党連立の政権運営がなされており、世界恐慌後も金本位制を継続して1936年に廃止したばかり。1936年の財政赤字は7,500万ギルダーに達しており、公務員の減俸、教育・公共事業・社会インフラ費用の大幅な削減が検討されている状況でした。そうした中、通貨切り下げを唱えるカトリック系財務大臣が辞職に追い込まれ、さらに内閣からはカトリック系議員がいなくなるなど、KRO(カトリック・ラジオ放送)にとっては困難な状況となっており、ユトレヒト市立管弦楽団との契約終了のきっかけもその辺りではないかとも考えられます。

●7月初め、ベイヌムのもとをユトレヒト市立管弦楽団理事会のメンバーが訪問。ユトレヒト市立管弦楽団の首席指揮者就任について交渉されるものの、ベイヌムは辞退しています。これにより首席指揮者はオッテルローとシューリヒトの共同体制に決定。
●8月、コンセルトヘボウ管弦楽団の1937-1938シーズン開始。メンゲルベルク73回、ベイヌム36回、ワルター10回など、全144公演。
●10月、ベイヌム、ワルシャワに客演。エミール・フォン・ザウアーと共演。
●12月、ベイヌム、ハーグ・レジデンティ管弦楽団に招かれて客演。ハーグ・レジデンティ管弦楽団は、首席指揮者を探していました。
◆オランダのラジオ受信世帯数約1,072,000。

1938年(37〜38歳) コンセルトヘボウ管弦楽団首席指揮者、ハールレム・ローマ・カトリック・オラトリオ協会指揮者

●1月9日、コンセルトヘボウ管弦楽団理事会は緊急会議を開催、ベイヌムがハーグ・レジデンティ管弦楽団の首席指揮者に就任するのを阻止するために、コンセルトヘボウ管弦楽団の首席指揮者に昇格することを決定。
●1月10日、ベイヌム、コンセルトヘボウ管弦楽団首席指揮者に任命。急遽決定したことで、メンゲルベルク、ワルターに伝えられていなかったため、2人とも不満を表明していました。
 メンゲルベルクはもともと芸風が違いすぎることから、公演準備は別な人間の方が良いと考えていたので、特にその面での問題はありませんでしたが、それとは別件で、メンゲルベルクの指揮回数を減らして客演指揮者を増やすという決定には納得がいかなかったようです。
 ワルターの方は、理事会の決定が理解不能とし、自分の公演数を減らしたいようなことを言っていましたが、実際にはナチの勢力拡大もあって前年からすでに公演数を減らしていたので、単に自分に相談も無く若手を首席にしたことが面白くなかったというだけのことかもしれません。
 ちなみにピエール・モントゥーはベイヌムの昇格を祝福していました。
◆3月、ドイツがオーストリアを併合(アンシュルス)。
●7〜8月、ベイヌム、オランダ国境から近いベルギーの海岸沿い避暑地で休暇取得。休暇期間中、オーステンデのホールや、クノッケのカジノにたまに出演しています。
 これらの場所には、年度により、クリュイタンスやカバスタ、ワインガルトナー、ヒンデミット、ハスキル、リンパニー、イトゥルビ、ミルシテイン、ルービンシュタイン、シゲティ、ティボー、コルトーらも出演していました。
 ベイヌムは、7月にオーステンデで、リカルド・オドノポゾフや、メトロポリタン・オペラの歌手の伴奏をしたほか、8月にはエリカ・モリーニの伴奏もしています。
●8月、コンセルトヘボウ管弦楽団の1938-1939シーズン開始。メンゲルベルク68回、ベイヌム35回、ワルター13回など、全145公演。
◆11月9日、「水晶の夜」事件発生。ドイツ各地でユダヤ人への一連の弾圧行為へと発展。
●11月17日、ベイヌム、ケルン帝国放送管弦楽団、アーヘン大聖堂聖歌隊。オブレヒトからバディングスまでのオランダ音楽プログラム。
●11月19日、ベイヌム、アーヘン市立管弦楽団。ブルックナー交響曲第3番、ラヴェル:スペイン狂詩曲ほか。
◆12月15日、オランダ政府、国境を閉鎖。難民受け入れを拒否。
◆オランダのラジオ受信世帯数約1,109,000。

1939年(38〜39歳) コンセルトヘボウ管弦楽団首席指揮者、ハールレム・ローマ・カトリック・オラトリオ協会指揮者

●ベイヌム家、アムステルダム近郊のラーレン村に転居。自然保護区に接する場所で、セファは長男の健康問題(自閉症)と向き合うことになりますが、1942年には諦めることになります。
●ベイヌム夫妻、ラーレン乗馬学校で馬術を習得。
●ベイヌム、ヤーピーという名の馬を借り、2人の息子が馬に乗れるよう練習させます。
●8月、ベイヌム、前年に続き、オランダ国境から近いベルギーの海岸沿い避暑地で休暇取得。休暇中、オーステンデでフィルクシュニーの伴奏などを実施。
●8月、コンセルトヘボウ管弦楽団の1939-1940シーズン開始。ベイヌム56回、メンゲルベルク35回、シューリヒト10回など、全141公演。
◆8月、ウィルヘルミナ女王は中立を宣言。28日にはオランダ政府が国家総動員法を制定し徴兵制も施行。オランダ政府はすでに10億ギルダーを超える予算で武器を発注していましたが、多くはドイツ企業への注文だったため、オランダ政府にはドイツと戦う意思が無かったことが窺えます。
◆9月1日、ドイツがポーランドに侵攻。第2次世界大戦開戦。
◆9月3日、イギリスとフランスがドイツに宣戦布告。
◆9月17日、ソ連がポーランドに侵攻。
●9月、ベイヌム、徴兵。アムステルダム近郊ブッスムのコロネル・パルムカゼルネ訓練場に配属。ほどなく「締切大堤防」によって造られた淡水のエイセル湖に面した第4補給所の補給大隊の軍曹に任命。降伏する翌年5月15日までは軍務につくことになりますが、「コンセルトヘボウNV」は必要に応じて軍に圧力をかけ、9月1回、10月3回、11月2回、12月12回、1940年1月8回、2月13回、3月5回、4月0回、5月3回と本番をこなしているので、リハーサルを考慮するとこの2倍から3倍の日数はコンサートに費やしていたものと考えられます。つまり兵役期間のうち半分ほどはコンサート活動に費やしていたという計算になります。
◆オランダのラジオ受信世帯数約1,438,000。

1940年(39〜40歳) コンセルトヘボウ管弦楽団首席指揮者、ハールレム・ローマ・カトリック・オラトリオ協会指揮者

●3月7日、ベイヌム、コンセルトヘボウ管弦楽団。ブルックナー交響曲第7番、ブラームス:ハイドン変奏曲、ほか。ブルックナーのアダージョは3月3日に亡くなったドイツ人指揮者カール・ムック[1859-1940]にの記憶に捧げられています。
◆4月9日、午前4時、ドイツ軍が不可侵条約を破ってデンマークに侵攻。国王は午前6時に降伏を決定。占領統治は3年後の1943年8月に開始されます。
◆5月10日、ドイツ軍がオランダに侵攻。13日、ウィルヘルミナ女王ファミリーと首相など多数の政府要職者はイギリスの軍艦でイギリスに逃亡、翌14日の夜には、ドイツ空軍によりロッテルダムが空爆され民間人の犠牲者が650人から900人出たため、全権委任されていたオランダ軍総司令官ウィンケルマンは降伏。
 ロンドンに逃げて安全な身となったウィルヘルミナ女王は、ユリアナ王女たちを、イギリスよりもさらに安全なカナダに避難させる一方、BBCのオランダ向けプロパガンダ放送(15分枠)に、5年間で34回、年間平均にして約7回ほど出演し、「降伏・占領・武装解除」されたオランダ国民に対して、ドイツ軍への「抵抗」を呼びかけます。もっとも、1943年からはオランダ国民のラジオ保有が禁じられてはいましたが。


◆5月、ドイツによるオランダ占領統治開始。オーストリア・ナチスの穏健派党員からオーストリア首相にまで出世していたザイス=インクヴァルト[1892-1946]が、国家弁務官に就任。ハーグ(オランダ語ではデン・ハーフ)にドイツ政府占領機関を設置、要職者はほぼ全員オーストリア人という構成。ちなみに当時、オーストリア・ナチスは、オーストリア人の10%が党員ということで、ドイツの入党率7%を大幅に上回っていました(もっとも、ドイツではナチ人気の過熱により1933年4月から1939年5月までの6年間、入党を制限していたという事情もあり、その後は850万人まで伸び、13%を超える入党率に達しています)。
 オーストリア=ハンガリー帝国以来、多民族対応に慣れていたオーストリア人と、地元オランダのファシズム政党「オランダ国家社会主義運動(NSB)」の党員により、ハーグのオランダ人官僚たちの率いる全国の行政機構をそのまま生かす形で占領統治を実施。「オランダ国家社会主義運動(NSB)」の党員数は1940年のうちに31,430人から約5万人にまで急増しています。
 なお、「国家社会主義オランダ労働者党(NSNAP,オランダ・ナチス)」はドイツ当局から認められず、1941年12月、NSBを除く他の全政党と同じく解党処置となっていました。
◆ドイツ政府占領行政機関は、オランダ国民の抵抗を抑えるため、「ベルベットグローブ」と名付けられた懐柔方針を決定。
●5〜6月、ベイヌム、コンセルトヘボウ管弦楽団。チャイコフスキー生誕100周年記念コンサートを3回開催。後期3大交響曲と管弦楽曲、ピアノ協奏曲第1番ほか、という曲目構成。独ソ戦開始の1941年6月まではロシアものの演奏も公式に可能でした。
◆6月3日、オランダでの活動禁止措置が、ドイツ政府占領行政機関によって解除され、各地でコンサートなどのイベントが再開。
●6月6日、ベイヌム、コンセルトヘボウ管弦楽団。チャイコフスキー:幻想序曲「ロメオとジュリエット」(CD38)
◆6月22日、フランス、ドイツと46日間戦ったのち休戦協定を締結。大枠で見るとフランス北部がドイツの占領統治、南部が「ヴィシー政権」による統治で、例外が長年の係争地であるエルザス=ロートリンゲン(アルザス=ロレーヌ)地方となります。
同地方はドイツに割譲という形になったため、1938年に併合したオーストリアと同様、ドイツ政府による統治とし、他のドイツ・オーストリア地域と同じく「大管区」に組み込まれ、徴兵なども実施されることとなります(エルザス=ロートリンゲン地域からの徴兵数は約10万人)。
●6月27日、ベイヌム、コンセルトヘボウ管弦楽団。ドイツ軍の爆撃によりホールが破壊され、多くの楽器とライブラリーを失ったロッテルダム・フィルを支援するためのコンサートを開催。曲目はベイヌムとマリヌス・フリプセがピアノを弾くバッハの2台のピアノのための協奏曲、バッハのカンタータ第169番『神にのみわが心献げん』、カンタータ第50番『いまや、われらの神の救いと力と』、そしてベートーヴェンの交響曲第3番『英雄』。
●7月7日、ベイヌム、コンセルトヘボウ管弦楽団。シューベルト:「ロザムンデから」(CD16)
●7月、メンゲルベルクのインタビュー記事が、発行部数170万とも言われたナチ党の新聞「フェルキッシャー・ベオバハター」に掲載され、そのオランダ語翻訳が「デ・テレフラーフ」に載ったことで物議を醸すことになります。内容は、オランダ降伏時にドイツで療養中だったメンゲルベルクが、シャンパンでオランダの降伏を祝ったというようなかなり不自然なものでしたが、これが占領下のオランダに一気に広まり、メンゲルベルクの人気はガタ落ちとなってしまいます。ほどなくメンゲルベルクは、記事が虚偽であるとして、「デ・テレフラーフ」紙にインタビュー記事を掲載しますが、すでに悪評は広く行き渡っており、以前のような人気の回復は望めない状況でした。また、メンゲルベルクは、その後も、ドイツ政府高官の前で演奏したり、行政機関に協力するなどし、挙句にスイスに旅行してそのまま帰らないなど、イメージの悪化は避けられませんでした。
●8月、コンセルトヘボウ管弦楽団の1940-1941シーズン開始。ベイヌム68回、メンゲルベルク34回など、全154公演。
◆9月、文部科学省事務次官プーリェが逮捕され、間もなく文部科学省も解散。新たに設立された広報芸術省は、文化や芸術の保護を謳う一方、プロパガンダも目的としていました。広報芸術省の音楽部門は、著名な音楽評論家であったヤン・ホーファーツが率いることとなります。
◆11月、オランダの公務員職からユダヤ人が解雇。
◆11月、ドイツ政府占領行政機関により、オランダ政府の「教育芸術科学省」に代わって、「教育科学文化保護省」と、「公共情報芸術局」が設立。「公共情報芸術局」は、ゲッベルスの「国民啓蒙・宣伝省」に近いイメージで、放送や出版、文化、芸術の運営・管理を所管。「オランダ国家社会主義運動(NSB)」の哲学者、トビー・フーデワーヘン(1895-1980 ゴーデワーゲンとも)が事務局長を務め、音楽部門の責任者は、オランダ・ブルックナー協会のホーフェルツが任されています。国家弁務官でオーストリア人のザイス=インクヴァルトは、オペラや演劇の組織的な運営を目指し、コンサート・オーケストラに対しても、オペラやバレエ公演への参加を要請、オランダの劇場での上演水準の向上を図っていました。
●11月21・23・26・27日、12月2・3日、ベイヌム、コンセルトヘボウ管弦楽団。アムステルダム市立劇場で、ベートーヴェンのオペラ『フィデリオ』を6回上演。「公共情報芸術局」の要請に従ったものです。
◆12月19日、ドイツ政府占領行政機関により、オランダ国民にラジオの登録と、ラジオ聴取許可証の申請が義務付けられます。

1941年(40〜41歳) コンセルトヘボウ管弦楽団首席指揮者

●1月30日、ベイヌム、コンセルトヘボウ管弦楽団。ドビュッシー:交響詩「海」(CD20)
●ベイヌム、ナチス・オランダ文化協会の会長であるスナイデル教授から、新たに設立されるオランダ文化審議会への参加を要請されるものの拒否。これにより、ドイツ政府占領行政機関からのベイヌム優遇の可能性は低くなりました。
●2月13日&5月26日、ベイヌム、コンセルトヘボウ管弦楽団。チャイコフスキー:交響曲第4番(CD38)
◆2月、アムステルダムのユダヤ人居住区で、「オランダ国家社会主義運動(NSB)」の構成員たちが「水晶の夜」の真似ごとをしようとした際、1人の構成員がユダヤ人たちから暴行を受けて殺害。これを機に、ドイツ政府占領行政機関はオランダで初めてのユダヤ人強制連行に踏み切り、約400人を国外に移送しています。
◆2月、アムステルダムに、ユダヤ人の運営する「ユダヤ人評議会」が設置。ドイツ政府占領行政機関によるユダヤ人政策の一環でした。
●3月1・2・8・9・11・19・24日、ベイヌム、コンセルトヘボウ管弦楽団。アムステルダム市立劇場で、『アルルの女』劇音楽を7回上演。「公共情報芸術局」の要請に従ったものです。
●4月、「教育科学文化保護省」の主導で、文化人の活動を支援する制度「ギルド(オランダ語ではヒルデ)」が発足。音楽家も対象で、調査会議にはベイヌムも参加。
●5月、ドイツ政府占領行政機関は、オランダの全オーケストラに対して、ユダヤ系楽員の解雇を要求。解雇されたユダヤ系の楽員は、新たにつくられたユダヤ人専門のオーケストラ「ファン・レール財団交響楽団(別名ユダヤ人交響楽団)」で演奏することが決定しており、楽団側が解雇に応じない場合は、楽団への補助金削減の可能性があることが示唆されます。
 なにしろ、各オーケストラへの補助金は、ドイツ占領下で大幅に増額されていたので、楽団運営理事会としても、条件をのむよりほかありませんでした。
●5月15日、ベイヌム、コンセルトヘボウ管弦楽団。フランク:交響詩「プシシェ」(CD16)
●5月23日、メンゲルベルク、ザイス=インクヴァルト国家弁務官に直談判し、コンセルトヘボウ管弦楽団に、16人のユダヤ人楽員をしばらく残してくれるよう交渉。しかしザイス=インクヴァルトはそれは無理だとし、13人は翌月まで延長、3人は11月いっぱいまで延長ということで話が付きます。戦後、ほとんどのユダヤ系楽員は戻ってきますが、しばらくはコンセルトヘボウ管弦楽団にとって大変な状況が続きます。
●6月12日、ベイヌム、ドレスデン・フィル。ドレスデン国立歌劇場で、ブルックナー交響曲第7番、モーツァルト交響曲第33番ほかを演奏。しかし、以後はドイツからの客演要請は断っています。
◆6月22日、独ソ戦開戦。ドイツ、ルーマニア、スロヴァキア、ハンガリーがソ連に対して宣戦布告。
●8月、コンセルトヘボウ管弦楽団の1941-1942シーズン開始。ベイヌム46回、メンゲルベルク23回、オッテルロー20回など、全145公演。
●8月20日、ベイヌムの父、死去。
●10月29日、ベイヌム、コンセルトヘボウ管弦楽団理事会宛てに辞任を示唆した手紙を送付。すでにオペラやバレエへの協力は不可能な状況にあり、改善が認められない場合は辞任させてほしいという内容でした。理事会はドイツ政府占領行政機関と交渉し、コンサートに専念できるよう事態を収拾したため、ベイヌムは続投することになります。
●11月16日、ユダヤ人専門オーケストラが最初のコンサートを開催。楽員のうち13人はコンセルトヘボウ管弦楽団の元メンバーでした。
◆12月8日、オランダ領東インド政府が日本に対して宣戦布告、ロンドンのオランダ亡命政府が追認。

1942年(41〜42歳) コンセルトヘボウ管弦楽団首席指揮者

◆3月10日、オランダ領東インド軍、日本軍に対して降伏。
●7月8日、ベイヌム、コンセルトヘボウ管弦楽団。ドビュッシー:交響組曲「春」(CD20)、レーガー:バレエ組曲(CD40)
◆7月、オランダのユダヤ人たちのドイツへの移送が開始。「労働奉仕」という名目で、対象者はユダヤ人の運営する「ユダヤ人評議会」が決定。1944年9月までの約2年間に、オランダ在住ユダヤ人約14万人の4分の3にあたる約10万7千人が国外に移送。移送を免れた約3万3千人は、ユダヤ人評議会の関係者や、亡命できた者、隠れ続けることができた者などで、これに収容所からオランダに戻った約5千2百人を加えると、オランダに残ったユダヤ人は約27%。同じくドイツに占領されていたベルギーの約60%、ノルウェーの約60%、フランスの約75%、デンマークの約98%と較べてかなり低い数字となっており、ドイツ政府占領行政機関とオランダの行政機構の協力体制が緊密であったことが窺えます。
●コンセルトヘボウ管弦楽団のユダヤ人楽員が解雇。
●8月、コンセルトヘボウ管弦楽団の1942-1943シーズン開始。ベイヌム41回、メンゲルベルク25回、ヨッフム12回、オッテルロー9回など、全117公演。
●長男エドゥアルト、治療を受けられるブラバントの寄宿学校に入学。
●ベイヌム家、アムステルダムのヘリット・ファン・デア・フェーン通りに転居。

1943年(42〜43歳) コンセルトヘボウ管弦楽団首席指揮者

◆2月、スターリングラードの戦いでドイツ初の大敗。死傷者約30万人、俘虜約10万人、計約40万人の成人男性の損失。
◆4月、ドイツ政府占領行政機関は、18歳から35歳までのすべてのオランダ人男性がドイツで雇用される計画について発表。ベイヌムと息子2人の年齢は対象外でした。
◆5月、親衛隊将軍でオランダ警察の指導者でもあったオーストリア人、ハンス・ラウター[1895-1949]により、オランダ国民のラジオ保有が禁じられます。登録台数は100万台を超えていましたが、2か月半後には73万5千台が集められています。ラウターは戦後、オランダ政府により銃殺。
●8月、コンセルトヘボウ管弦楽団の1943-1944シーズン開始。ベイヌム27回、クツィエ27回、ヨッフム17回、メンゲルベルク16回、オッテルロー14回など、全131公演。
●12月、ベイヌム、「コンセルトヘボウNV」理事会に対し、「オランダ国家社会主義運動(NSB)」のメンバーがドイツの東部戦線に出征することを祝うコンサートで、自分が指揮をしなければならない場合は、首席指揮者の職務を辞退させてほしいと通告。理事会は表向き、これを受け入れ、ベイヌムは不本意なコンサートでの指揮を免れますが、心身へのダメージは大きかったようで、以後、体調面に影響が出ることになります。
●12月26日、ベイヌム、コンサートの後に動悸を感じたため、故郷アーネムの12歳年長の姉カトーのもとにしばらく身を寄せて静養することになります。

1944年(43〜44歳) コンセルトヘボウ管弦楽団首席指揮者

●3月、ベイヌム、コンセルトヘボウ管弦楽団。フランク交響曲ニ短調ほか。心臓の動悸も回復し、3か月ぶりの復帰でしたが、今度は耳の状態が悪化。
●3月、ベイヌム、アムステルダムのウィルヘルミナ・ハストハウス病院に約3か月入院して、耳の治療をおこないます。
◆6月6日、連合国軍により「ノルマンディー上陸作戦」実施。
●7月、ベイヌム、コンセルトヘボウ管弦楽団。ベルリオーズ『幻想交響曲』、ベートーヴェン『英雄』、ドビュッシー『海』などで復帰。
●8月、コンセルトヘボウ管弦楽団の1944-1945シーズン開始。ベイヌム28回、クツィエ6回の全34公演。メンゲルベルクはオランダに戻ってきませんでした。
◆9月5日、ロンドンに亡命中のウィルヘルミナ女王はオランダのレジスタンス活動を合法化する法令に署名。これによりレジスタンス活動家は軍人扱いとなり、各地に指揮官と指揮系統が置かれ、連合国軍への協力もおこなうことになり、オランダ国民の犠牲も増えて行きます。
◆9月17〜25日、連合国軍により「マーケット・ガーデン作戦」実施。約30,000人の空挺兵を降下させた史上最大の空挺作戦。連合国軍敗退とはなったものの、これによりオランダ各所の橋を確保し、のちの作戦に繋げることに成功。
◆10月、「スヘルデの戦い」。オランダ南西部とベルギー北部で、6万人の連合国軍と9万人のドイツ軍が戦闘しドイツ軍が敗北。イギリス軍による絨毯爆撃と艦砲射撃により堤防やオランダの多くの都市が破壊。連合国軍死傷者12,873名に対し、ドイツ軍死傷者10,000〜12,000名で、俘虜が41,043名。
◆10月、連合国軍の堤防破壊により、大規模な洪水が発生したため、17歳から50歳までのオランダ人男性が集められ、堤防工事(↓)にあたります。


◆冬、連合国軍は、オランダ西部地区への石炭、ガス、電気の供給ルートを遮断。この連合国軍の作戦は、オランダ国民の半数にあたる約450万人に影響し、飢餓と寒さなどが原因で、南西部地区中心に約2万2千人のオランダ人が絶命。街路樹も切り倒されて暖房に使用されます(↓)。


●12月26日、ベイヌム、コンセルトヘボウ管弦楽団。マチネ・コンサートで、コレッリ:クリスマス協奏曲、ベートーヴェン『田園』など演奏。以後の戦時中の演奏会は中止となります。

1945年(44〜45歳) コンセルトヘボウ管弦楽団首席指揮者

◆4月30日、ヒトラー自殺。ヒトラーはデーニッツ元帥を後継に指名していたため。同日、ドイツの臨時政府「フレンスブルク政府」が発足。デーニッツが大統領に就任して降伏のための準備を進めます。また、1月からデーニッツの指示で実施中の海軍によるドイツ国民と兵士の搬送作戦も5月中旬まで継続され約200万人を救出。
◆5月5日、オランダのドイツ軍が降伏。
●5月5日、「コンセルトヘボウNV」、ドイツ人楽員、および「オランダ国家社会主義運動(NSB)」のメンバーと協力者の楽員を即時解雇。第1ヴァイオリン、ヴィオラ、コントラバス、フルート、クラリネット、ホルン2人、トランペットの8名で、1941年のユダヤ人奏者16人解雇に続く大きな打撃となり、ユダヤ人奏者は戻りつつあるものの、1945年夏の時点でも欠員16名という状況でした。
◆5月8日、ドイツ降伏。2週間後、デーニッツ逮捕により臨時政府「フレンスブルク政府」解散。
●6月中旬、オランダで、国民の占領時の行動を裁くための「中央名誉評議会」が設立。音楽、演劇、文学、建築、視覚芸術といったさまざまな部門では個別に評議会を開いて、関係者の調査・浄化を開始。
 「音楽名誉評議会」では、多くの音楽家が裁かれ、35人が処罰を受けていますが、多くは「中央名誉評議会」に上訴して減刑されており、たとえばウィレム・メンゲルベルクの禁止期間は、「無期限」から「6年間」に短縮、そのハトコで「コンセルトヘボウNV」(ホール組織)の総監督ルドルフ・メンゲルベルクは「無罪」になるなどしていました。
 ベイヌムは、ドレスデン・フィルへの客演や、プロパガンダ映画の伴奏など僅かな協力事例はあったあったものの、「ナチス・オランダ文化協会」の設立した「オランダ文化審議会」への参加要請を拒んだり、「オランダ国家社会主義運動(NSB)」絡みの仕事を拒否して体調まで崩すといった状況だったため「無罪」。
 ちなみに、指揮者のオッテルローは、ドイツの放送局が運営する「ヨーロッパ放送」に出演していたことが問題視され、オランダでの演奏活動が1年間禁止という判決(有給で在籍扱い)。しかし、オッテルローは上訴せず判決をそのまま受け入れています(「ヨーロッパ放送」の活動は、アメリカ占領軍政府の場合は問題視せず)。
 コンセルトヘボウ管弦楽団の第2指揮者だったヤン・クツィエ[1911-2006]の場合は事情は複雑でした。オランダ生まれながら父親がドイツ系で、2歳からドイツで育ったクツィエは、最初に無罪判決を受けたものの、友人に「オランダ国家社会主義運動(NSB)」の人間がいたなどという理由で「指揮活動禁止10年間」に変更されてしまい、そのため「中央名誉評議会」に上訴し、長時間かけて「指揮活動禁止1年間」に短縮。結審した段階ですでに1年が経過していたものの、同様のケースの他の対象者と違って、クツィエには活動許可が下りず、コンセルトヘボウ管弦楽団に復帰したのは1947年3月のことでした。しかしすでにクツィエの居場所は無く、4回指揮したのち、オッテルロー率いるハーグ・レジデンティ管弦楽団に移り、ハーグ王立音楽院で教職を兼務。1950年になると、コンセルトヘボウ管弦楽団の指揮者仲間で、同じドイツ語話者として親しかったオイゲン・ヨッフムの誘いで、新設されたバイエルン放送交響楽団の指揮者となり、1966年からはミュンヘン音楽院の指揮科教授を務めながら作曲活動にも力を入れ、1994年にドイツ政府から叙勲、2006年にミュンヘンで死去しています。
●7月1日、ベイヌム、戦後初めてコンセルトヘボウ管弦楽団を指揮。
●8月、コンセルトヘボウ管弦楽団の1945-1946シーズン開始。ベイヌム99回、ヨルダンス16回、レイボールド7回、ミュンシュ6回など、全153公演。
◆8月17日、オランダとオランダ領東インド諸島との間にインドネシア独立戦争が勃発。4年4か月後の1949年12月17日に終戦、同月、インドネシア連邦共和国成立。太平洋戦争は3年8か月だったので、それより8か月も長い戦争ということになり、インドネシアは通算8年間も戦争状態に置かれていたことになります。
●12月、ハイン・ヨルダンス[1914-2003]がコンセルトヘボウ管弦楽団の指揮台に登場。ヨルダンスはアムステルダム音楽院で学んだ後、ザルツブルクでクレメンス・クラウスに師事。ヨルダンスは指揮のほか、ヴァイオリン、ピアノ、ヴィオラ、クラリネットもこなした人物で、最初、マーストリヒト市立管弦楽団(現リンブルフ交響楽団)のヴァイオリン奏者として働いたのち、同オーケストラの第2指揮者となり、アーネム・オーケストラ協会の第2指揮者も兼務、その縁でベイヌムの知己を得、助手としてコンセルトヘボウ管弦楽団で指揮の機会を与えられ、クツィエが退任した1948年には正式に第2指揮者に就任。しかし翌1949年には、オランダ南部、アイントホーフェン(エイントホーフェン)のブラバント管弦楽団の首席指揮者に就任したため、1950年にはコンセルトヘボウ管弦楽団第2指揮者を辞任。ブラバント管弦楽団では30年近く首席指揮者を務め、20人未満だった楽員を70人以上に増やすなど、実績を上げてもいました。また、コンセルトヘボウ管弦楽団との関係は継続し、客演指揮者として何度も登場しています。

1946年(45〜46歳) コンセルトヘボウ管弦楽団首席指揮者

●1月、ベイヌム、ロンドン・フィル演奏会に急遽出演。ベイヌムは、コンセルトヘボウ管弦楽団が3月に予定しているツアーの準備のため、弁護士のエフェルト・コルネリス(指揮者エフェルト・コルネリスの息子)と共にロンドンを訪問。滞在中、打ち合わせ相手のロンドン・フィル関係者から、チャイコフスキー演奏会を指揮する予定だったアルバート・コーツ[1882-1953]がキャンセルとなり、急遽ベイヌムに出演を依頼したいという申し出があり、曲目の『ハムレット』、ピアノ協奏曲第2番、交響曲第4番に不安が無かったベイヌムはこれを承諾。演奏会用衣装が無かったので、そのままの茶色いスーツで出演し、コンサートを成功裏に終わらせています。楽団側は喜び、3月26日にベートーヴェンとブラームスで客演してくれるよう要請し、ベイヌムは快く応じています。
 イギリス人は犬や乗馬、狩猟好きが多く、ベイヌムの嗜好との相性も良好でした。1940年代後半には、ロンドンのデューク・ストリートでプードルの子犬を買い、コンサートマスターのデイヴィッド・ワイズにちなんでデイヴィッド(ダーフィト)と名付けています。


●3月、ベイヌム、コンセルトヘボウ管弦楽団。ベルギー、イギリスにツアー。
●3月、ベイヌム、ロンドン・フィル。客演。
●4月、ベイヌム、コンセルトヘボウ管弦楽団。デンマーク、スウェーデン、ノルウェーにツアー。
●8月、コンセルトヘボウ管弦楽団の1946-1947シーズン開始。ベイヌム75回、ヨルダンス25回、ミュンシュ8回、オッテルロー7回、ビーチャム6回、ワルター5回、サバタ4回など、全149公演。
●11月、ベイヌム、コンセルトヘボウ管弦楽団。パリでブルックナー交響曲第7番の第1楽章を演奏。
●ベイヌム、パレスチナ交響楽団から客演要請がありますが都合がつかず辞退。パレスチナ交響楽団は2年後の1948年のイスラエル建国と共にイスラエル・フィルに名を変更。

1947年(46〜47歳) コンセルトヘボウ管弦楽団首席指揮者

●2月、ベイヌム、コンセルトヘボウ管弦楽団。イギリスにツアー。
●3月、ベイヌム、コンセルトヘボウ管弦楽団。マタイ受難曲。
●8月、ベイヌム、破壊されていたベルギーの海岸避暑地オーステンデとクノッケの施設が復活したため、再び戦前のように契約。
●8月、コンセルトヘボウ管弦楽団の1947-1948シーズン開始。ベイヌム65回、ヨルダンス23回、クレンペラー17回、モントゥー10回、オッテルロー9回、ワルター9回など、全152公演。
●9月、ベイヌム、コンセルトヘボウ管弦楽団のコンサートでハンガリーの名手エデ・ザトゥレツキー[1903-1959]と17年ぶりに共演。ハチャトゥリアンのヴァイオリン協奏曲を演奏。
◆9月11日、オランダ政府、ドイツへの報復として、ブラック・チューリップ作戦開始(1948年まで)。オランダ在住の民間ドイツ人約2万5千人を対象として、財産を没収、マリエンボッシュほか複数の強制収容所(↓)への送致を始め、3,691人を国外追放した段階で、アメリカやイギリス政府のほか、オランダのキリスト教系政党の議員や、ユトレヒト大司教の反対などにより作戦は中止。しかし、ドイツ人追放計画そのものは1950年まで着実に継続。なお、ドイツ国籍の有無のみで判定されたため、ドイツから逃れてきていたユダヤ人も迫害対象となっていました。


●11月、ベイヌム、ブダペスト・メトロポリタン管弦楽団への客演コンサートで再びザトゥレツキーと共演。ベイヌムはザトゥレツキーをコンセルトヘボウ管弦楽団のコンサートマスターに誘いますが、すでにブダペスト音楽院院長という要職にあったザトゥレツキーは断っています。

1948年(47〜48歳) コンセルトヘボウ管弦楽団首席指揮者

●3月、ベイヌム、ロンドン・フィルからの再三の要請を受け、首席指揮者に就任することを承諾。
 ロンドン・フィルは1932年10月、大富豪サミュエル・コートールド[1876-1947]が資金を提供し、さらにコートールドが後援する指揮者マルコム・サージェント[1895-1967]の協力を得て、ビーチャムの名前で創設したオーケストラ。楽員は、1931年にメンゲルベルクが退任して混乱していたロンドン交響楽団から優秀な奏者17人を引き抜いたほか、同じく1931年に解散していたロイヤル・フィルハーモニック協会管弦楽団(ロイヤル・フィルとは別団体)の楽員を中心に、固定給契約という支払い条件で、計106人の楽員を短期間で集めることに成功。これは世界恐慌のもたらした景気低迷により、場合によっては「リハーサル無し」など、契約期間が短縮し報酬低下傾向にあった当時のイギリスのオーケストラ奏者の流動的な個別契約環境が背景にあったからと考えられます。ビーチャムはさらに、オケの演奏機会を増やして収益力を向上させるため、オペラの仕事もロンドン・フィルに任せるよう、コヴェントガーデン・オペラの首脳陣に交渉。それまでコヴェントガーデン・オペラで演奏していた音楽家たちとの契約を打ち切らせ、ロンドン・フィルと契約させています。しかし戦争が始まると、楽団の支援者は手を引くようになったため、運営組織は清算。ビーチャムも医師から長期静養を勧められていたので、国外に長期間滞在することを決意しますが、楽団の存続の危機でもあったため、各方面から資金を集めて渡し、自主運営組織として活動できるよう道筋を付けています、その後、ビーチャムは静養を兼ねてオーストラリアで過ごしたのち、アメリカで本格的な客演活動を展開。ドイツの敗戦が決定的になった1944年にビーチャムはイギリスに帰還し、ロンドン・フィルの指揮もおこなっていますが、戦時下で自主運営となり、さらにドイツ軍の爆撃で多くの楽器も失われるなど苦難の道を歩んでた楽員たちは、ビーチャムに支配されることを好まず決別。ビーチャムは1946年にロイヤル・フィルをつくって対抗します。
 ロンドン・フィルは戦前、ビーチャムに支配され、戦時中と戦後間もない時期は、多くの指揮者が入れ代わり立ち代わり指揮台に上がってなんとかしのいでいたため、ベイヌムは、ロンドン・フィルが自分たちで選んだ初の首席指揮者ということになります。
 1946年1月の出会いは偶然に近いものでしたが、相性は最初から非常に良好で、楽団理事会は、共に安定を目指すことができる首席指揮者としてベイヌムを選んだものと思われます。


●5月13日、ベイヌム、コンセルトヘボウ管弦楽団。ストラヴィンスキー:組曲「火の鳥」(CD13)
●8月、コンセルトヘボウ管弦楽団の1948-1949シーズン開始。ベイヌム62回、ヨルダンス26回、クライバー20回、クレンペラー11回、ボールト4回、ドブローウェン4回、ミュンシュ3回、ヒンデミット3回、クーベリック3回など、全152公演。
●ベイヌム、デ・ライプ村での狩猟許可申請にコンセルトヘボウ従業員のディスク・ニベリングの協力を得ます。
●11月、ベイヌム、団体での狩猟に参加。


●12月19日、ベイヌム、コンセルトヘボウ管弦楽団。ドビュッシー:「映像」(CD20)
◆オランダのラジオ受信世帯数約2,563,000。

1949年(48〜49歳) コンセルトヘボウ管弦楽団首席指揮者、ロンドン・フィル首席指揮者

●1月1日、ベイヌム、ロンドン・フィル首席指揮者に就任。1年のうち5カ月間、ロンドン・フィルのためにロンドンに滞在することを約束。その間、アムステルダムに戻るのはマタイ受難曲の演奏のときのみ。


●1〜5月、ベイヌム、ロンドン・フィル。『大地の歌』、『ミサ・ソレムニス』、『春の交響曲』、『どこまでも馬鹿な男』、『牧神の午後への前奏曲』、『ハフナー交響曲』、『水上の音楽』、ほか。ベルギーとオランダへのツアーも実施。
●7月、ベイヌム、コンセルトヘボウ管弦楽団。ブリテン:春の交響曲(CD34)
●8月、コンセルトヘボウ管弦楽団の1949-1950シーズン開始。ベイヌム53回、クーベリック39回、ヨルダンス24回、クライバー18回など、全150公演。
●「コンセルトヘボウNV」、ベイヌムがシーズンの半分近くをロンドンで過ごすことになるため、ラファエル・クーベリックをレギュラーの指揮者として契約。ベイヌム53回に対してクーベリック39回という出演回数を確保。
●10月16日、ベイヌム、コンセルトヘボウ管弦楽団。レスピーギ:ローマの噴水(CD38)
●11月、ベイヌム、オランダ・ブルックナー協会の名誉会員に選出。
◆12月27日、インドネシア独立戦争終結。

1950年(49〜50歳) コンセルトヘボウ管弦楽団首席指揮者、ロンドン・フィル首席指揮者

●3〜4月、ベイヌム、コンセルトヘボウ管弦楽団。マタイ受難曲3公演。
●5月、ベイヌム、ロンドン・フィル。ベルギー、オランダにツアー。このシーズンのベイヌムのロンドン・フィルとの公演数は64回。
●6月、ベイヌム、コンセルトヘボウ管弦楽団。オランダ・フェスティヴァル3公演。
●6月、ベイヌム、狭心症の発作。まず6週間は安静にする必要があるという診断。ダイエットが求められ、喫煙が禁じられます。しかし、回復状況は思わしくなく、ベイヌムが指揮台に復帰できたのは1年1か月後のことでした。
 その間、ロンドン・フィルはもともと客演体制が長かったので大きな問題は無かったものの、コンセルトヘボウ管弦楽団の方はかなりの回数がほかの指揮者に割り振られることになります。
 もともと、ベイヌムのロンドン・フィル兼務対策で、前年にレギュラー契約して出演回数を大幅に増やしていたクーベリックは、このシーズンにはシカゴ交響楽団の音楽監督として多忙で出演回数は12回となってしまったため、クレンペラーがシーズン中37回のコンサートを担当。クレンペラーはブダペスト歌劇場音楽監督を7月に辞任し、オーストラリア客演ツアーとロサンジェルス・フィルへの客演を終えたのち、12月から集中的に客演。ほかに、常連のモントゥーも19回出演。新たな展開としては、戦勝国フランスからパリ・オペラ・コミーク座音楽監督のジャン・フルネが呼ばれることになり14回出演。フルネはこれでオランダ楽壇との関係を強化、オランダ放送フィルにも数多く出演。


●8月、ベイヌム、国際ブルックナー協会より名誉勲章を授与。
●8月、コンセルトヘボウ管弦楽団の1950-1951シーズン開始。クレンペラー37回、ヨルダンス26回、モントゥー19回、フルネ14回、クーベリック12回、ドブローウェン4回、クリップス4回、フリプセ4回、ベイヌム1回など、全134公演。
●9月28日、Philipsレーベル設立。電気機器メーカーのPhilips社音楽部門が、Philipsレーベル設立を発表。本拠地ユトレヒト州バールンにあるホーヘ・ブールシェ城でおこなわれていた会議の席上で告知されたもので、参加者には、この年の6月にオランダ・デッカが録音していたオッテルロー、レジデンティ管のチャイコフスキー4番のPhilipsロゴのLPレコードが配られています。
 これは1942年にPhilips社が買収して傘下に収めていたオランダ・デッカ(1936年に英デッカから独立)を利用する形で、レーベルがスタートすることを意味してもいました。ちなみにレーベル設立から57年後の2007年にはPhilipsはデッカの傘下となっており、2009年にはPhilipsロゴの使用も停止されています。

1951年(50〜51歳) コンセルトヘボウ管弦楽団首席指揮者、ロンドン・フィル首席指揮者

●1月27〜28日、ケンペン指揮コンセルトヘボウ管弦楽団によるヴェルディのレクィエムのコンサートで騒動発生。これは療養中のベイヌムに代わって指揮するはずだったクーベリックがキャンセルしたことで、「コンセルトヘボウNV」総監督のルドルフ・メンゲルベルクが、パウル・ファン・ケンペン[1893-1955]を起用したことが原因でした。
 ケンペンがワケあり指揮者だったことで、1月9日以降、共産主義系の新聞などが騒ぎ立て、市議会や下院でも議論されるなど大ごとに発展し、27日の公演当日は警察がホール周辺を警備したほか、ホール内にも警察官を配備。演奏中に運動家らが爆竹を鳴らし、絶叫したりしたうえにナチスの「ホルスト・ヴェッセルの歌」を歌うなどして公演を妨害したことで、警察は彼らを連れ出しますが、その後も絶叫は続き、催涙弾まで使われるという状況でした。
 翌日の公演では、楽団員と合唱団のうち62人が演奏を拒否し、これに憤慨した「コンセルトヘボウNV」副議長のスホウェンブルフは彼らに解雇を通告。
 通告を受けた楽員と合唱団員には不安な日々が訪れ、一部の楽員は転職活動も始めていました。しかし州政府と自治体は、「コンセルトヘボウNV」理事会と、その言いなりになっていたコンセルトヘボウ管弦楽団理事会の両者に圧力をかけ、2週間後に「コンセルトヘボウNV」は大量解雇通告を撤回しています。
 騒動の原因となったパウル・ファン・ケンペンは、オランダ生まれでコンセルトヘボウ管弦楽団の楽員出身、1916年にドイツに移って1932年にドイツ国籍を取得した人物で、ナチ党員ではありませんが、戦争中もドイツ国防軍の慰問コンサートで指揮するなどしていたという背景から、新聞などが騒ぎ立てていたものです。当時のオランダでは、数か月前まで「ドイツ人追放計画」が実行されており、「ドイツ国籍」のオランダ在住者に対する風当たりが強かったので、聴衆と音楽家双方の拒否反応も仕方ない面もあったのかもしれません。


●2月、「コンセルトヘボウNV」のホール組織運営と、コンセルトヘボウ管弦楽団の運営が分離。楽員の解雇問題にまで発展したケンペン事件がきっかけとなり、本来はまったく別なものであるはずの、「コンセルトヘボウNV」によるホール組織の運営と、「コンセルトヘボウ管弦楽団理事会」の運営が見直されます。
 これは、長年に渡って維持されてきたウィレム・メンゲルベルクを中心としたオーケストラ運営と、彼の再従弟(はとこ)であるルドルフ・メンゲルベルクによるホール運営という一種の親族運営によって癒着が常態化していたことが問題視されるようになったもので、以後は完全に分割されることになります。
●3月、ベイヌム、南フランスで療養。4月にルドルフ・メンゲルベルクに対して、回復しつつあることを手紙で報告。
●7月15日、ベイヌム、コンセルトヘボウ管弦楽団。『エグモント』、モーツァルト40番、『シェエラザード』でほぼ1年ぶりに活動再開。新組織となった「コンセルトヘボウNV」からの手紙による解雇通告といった脅しを経ての復帰でした。
◆7月26日、オランダ政府によるドイツとドイツ人への敵対行動終結。
●8月、コンセルトヘボウ管弦楽団の1951-1952シーズン開始。ベイヌム53回、クーベリック24回、クリップス8回、ヨルダンス8回、フリッチャイ7回、フルネ5回、ドラティ5回、ホーレンシュタイン4回など、全123公演。
●10月12日、ベイヌム、コンセルトヘボウ管弦楽団。シェーンベルク:5つの管弦楽曲(CD40)
●10月25日、ベイヌム、コンセルトヘボウ管弦楽団。ブラームス:交響曲第1番(CD13)
●Philipsの経営戦略がワールドワイド化。Philipsと米Columbia(CBS)と販売提携することが決定。英Columbia(EMI)が、米Columbia(CBS)との契約の更新・延長をおこなわなかったため、ヨーロッパでの販売ルートを確保したかった米Columbia(CBS)が、新興レーベルのPhilipsと契約したというものです。
 これにより、まず米Columbia(CBS)の主要音源(ワルター、ミトロプーロス、セル、オーマンディ等)をPhilipsでも生産、Philipsロゴでヨーロッパ各国に流通させるようになり、また、Philipsの音源が各国で発売されることも多くなります。

1952年(51〜52歳) コンセルトヘボウ管弦楽団首席指揮者

●8月、コンセルトヘボウ管弦楽団の1952-1953シーズン開始。ベイヌム66回、クーベリック24回、クリップス15回、モントゥー12回、クレツキ5回、フリッチャイ4回、オーマンディ4回など、全147公演。

1953年(52〜53歳) コンセルトヘボウ管弦楽団首席指揮者

◆1月31日〜2月1日、「北海大洪水」(↓)発生。犠牲者はオランダ1,836人、イギリス326人、ベルギー28人、海上361人。オランダ南西部のデルタ地帯は、戦時中に「連合国軍」によって破壊された堤防の修復が遅れており、多くの犠牲を出す原因のひとつともなっていました。オランダ全土の農地面積の9%が冠水し、家畜3万頭が死亡、建物約47,300棟が損壊(約10,000棟が全壊)し、被災者は10万人とも推計されています。
 しかしこの未曽有の災害は、大きな復興計画(デルタ計画)を生み出し、前年比60%増という巨額の投資と、雇用の創出、消費の拡大により、この年のGDPの伸び率は8.4%というオランダ史上例のない数字となり、以後のオランダ経済の活性化に繋がることとなります。


●2月、ベイヌム、洪水被害者支援のためのツアーをコンセルトヘボウ管弦楽団と実施。ジュネーヴ、ベルン、バーゼル、チューリッヒ、ローザンヌ、ケルンで開催。
◆ギルダー12%切り下げ。ブレトンウッズ体制参加や、洪水被害、ポンド切り下げなどの影響。
●ベイヌム家、アムステルダムのヨハネス・フェルフルスト通りに転居。
●4月、クーベリック、シカゴ交響楽団音楽監督を辞任。最後のコンサートとして『パルジファル』演奏会形式全曲上演を実施。辞任の原因は、発行部数40万部ほどの「シカゴ・トリビューン」紙で、ダンスや演劇、ミュージカル、そしてクラシック音楽の批評もおこなっていたクローディア・キャシディによる執拗な攻撃でした。最後は彼女が攻撃しにくそうな作品を選んだということなのかもしれません。
●6月、ベイヌム、アルゼンチン、ブラジルに客演ツアー。滞在中に12歳の天才少女アルゲリッチの演奏を聴いて感銘を受けます。また、ベイヌムの一連の指揮は高く評価され、ブエノスアイレス音楽批評サークルから「1953年にブエノスアイレスで指揮した最も優れた外国人指揮者」としてのちに称賛されていました。ブエノスアイレスには、多くの有名指揮者が客演していたのでベイヌムにとって名誉なことでした。


●8月、コンセルトヘボウ管弦楽団の1953-1954シーズン開始。ベイヌム55回、クリップス22回、クーベリック21回、フリッチャイ13回、モントゥー8回、オーマンディ3回など、全138公演。
●Philipsレーベルと米Columbia(CBS)の販売提携が進む一方で、英Columbia(EMI)は、ヨーロッパ制作音源のアメリカでの販路を強化するため、新たにAngel Recordsを設立(アメリカ制作のEMI系クラシック音源は、2年後に買収のCapitol Recordsで販売)。これに対し、米Columbia(CBS)は、Philips制作ヨーロッパ音源を販売するEpic Recordsを設立し、ベイヌムのアルバムがEpicロゴで登場することにもなります(のちにEpicはCBS系自社音源も投入)。

1954年(53〜54歳) コンセルトヘボウ管弦楽団首席指揮者

●1月、ベイヌム、フィラデルフィア管弦楽団に客演。2週間滞在。ブルックナー交響曲第7番、ベルリオーズ『幻想交響曲』、『ローマの謝肉祭』、ハイドン交響曲第96番、ドビュッシー『牧神の午後への前奏曲』、アンドリーセン:リチェルカーレ
●8月、コンセルトヘボウ管弦楽団の1954-1955シーズン開始。ベイヌム69回、クーベリック41回、マルティノン10回、オーマンディ8回、スタインバーグ8回、モントゥー4回、クレンペラー3回など、全156公演。
●9月1日、ベイヌム、コンセルトヘボウ管弦楽団。エッシャー:Musique pour l'esprit en deuil(CD40)
●10月11日、ベイヌム、コンセルトヘボウ管弦楽団。ベートーヴェン:「エグモント」序曲(CD32)
●10月11日、ベイヌム、コンセルトヘボウ管弦楽団。ラヴェル:「ダフニスとクロエ」第2組曲(CD21)


●10〜12月、ベイヌム、クーベリック、コンセルトヘボウ管弦楽団、2か月近くかかる大がかりな北米ツアーを実施。オケのメンバーはオランダの最新客船「レインダム」での渡航でしたが、悪天候で遅れ、ひどい船酔いになる者もいました。


ベイヌムはスケジュールの都合で、別の船「ノールダム」に乗ったせいで難を逃れていたため、楽員たちを元気づけるために仮想までしてがんばります。
 ツアーはカナダとアメリカの42都市45公演というもので、ベイヌムが25回、クーベリックが20回という配分。全体として大きな成功を収めています。帰りはベイヌムもオーケストラと一緒でした。


1955年(54〜55歳) コンセルトヘボウ管弦楽団首席指揮者

●ルドルフ・メンゲルベルク、「コンセルトヘボウNV」総監督を辞任。
●4月21日、ベイヌム、コンセルトヘボウ管弦楽団。ブルックナー:交響曲第8番(CD5)
●ベイヌム、ベルギー政府より、レオポルド2世勲章のコマンドゥール章を授与。


●6月6&9日、ベイヌム、コンセルトヘボウ管弦楽団。シューベルト:交響曲第3番(CD14)
●6月28日〜7月9日、ベイヌム、シカゴ交響楽団。ラヴィニア音楽祭。クローディア・キャシディも絶賛。
●7月19日、ベイヌム、ロサンジェルス・フィル。ハリウッドボウルで『コリオラン』、『英雄』、ドヴォルザーク:チェロ協奏曲(ピアティゴルスキー)。『英雄』のあとには聴衆だけでなく楽員たちもベイヌムに熱烈な拍手を送っていました。
●7月21日、ベイヌム、ロサンジェルス・フィル。ハリウッドボウルで『アナクレオン』序曲、メンデルスゾーン『イタリア』、ほか。
●7月26日、ベイヌム、ロサンジェルス・フィル、ロジェ・ワーグナー合唱団。ハリウッドボウルでメンデルスゾーン『エリヤ』。元々は英語の作品なので英語版を使用。
●7月28日、ベイヌム、ロサンジェルス・フィル。ハリウッドボウルでメンデルスゾーン『フィンガルの洞窟』、ベートーヴェン:ピアノ協奏曲第4番(フィルクシュニー)、ベルリオーズ『幻想交響曲』。


●8月、コンセルトヘボウ管弦楽団の1955-1956シーズン開始。ベイヌム77回、クレンペラー18回、フリッチャイ14回、クーベリック11回、ショルティ10回など、全150公演。
 前シーズンでは双頭体制に近かったクーベリックの出演回数が、コヴェントガーデン王立歌劇場音楽監督就任(3年で辞任)により大幅に減少。クレンペラー、フリッチャイ、ショルティが活躍。
●9月16日、ベイヌム、コンセルトヘボウ管弦楽団。シュトラウス:交響詩「ドン・ファン」(CD30)、ブラームス:交響曲第2番(CD18)
●10月19日、ベイヌム、コンセルトヘボウ管弦楽団。アンドリーセン:交響曲第4番(CD40)
●12月7日、ベイヌム、コンセルトヘボウ管弦楽団。マーラー:交響曲第6番(CD7)
●12月、ベイヌム、クリーヴランド管弦楽団に客演。

1956年(55〜56歳) コンセルトヘボウ管弦楽団首席指揮者、ロサンジェルス・フィル音楽監督

●1月5〜7日、ベイヌム、サンフランシスコ交響楽団に客演。
●1月12〜22日、ベイヌム、ロサンジェルス・フィル。7公演を指揮。
●2月、ベイヌム、ロチェスター・フィルに客演。
●2月、ベイヌム、ピッツバーグ交響楽団に客演。
●2月、ベイヌム、コンセルトヘボウ管弦楽団。定期公演など7公演。モーツァルト後期3大交響曲など。
◆4月、オランダの家庭への電力供給が、従来の110ボルトから、エネルギー効率の良い220ボルトに変更。作業はハーグから開始されます。
●4月10日、ベイヌム、コンセルトヘボウ管弦楽団。トマ:「ミニヨン」序曲(CD30)、ニコライ:「ウィンザーの陽気な女房たち」序曲(CD30)
●8月、コンセルトヘボウ管弦楽団の1956-1957シーズン開始。ベイヌム75回、クレンペラー12回、ラインスドルフ11回、オーマンディ9回、クーベリック7回、ドラティ6回、ハイティンク2回、ロジンスキー2回など、全149公演。
●9月20日、ベイヌム、コンセルトヘボウ管弦楽団。モーツァルト:交響曲第40番(リハーサル)(CD30)
●12月、ベイヌム、アムステルダム大学より文学・哲学部の名誉博士号授与。
●12月、ベイヌム、ロサンジェルス・フィル音楽監督に就任。ロサンジェルス・フィルは、先々代音楽監督のクレンペラーが脳腫瘍&双極性障害トラブルで解雇されてからは、元チェロ奏者のアルフレッド・ウォーレンスタイン[1898-1983]が引き継ぎ、低迷しながらも13年間なんとかしのいでいました。
 しかし1951年にハリウッド・ボウルが財政危機に陥った際に「セイヴ・ザ・ボウル」キャンペーンでボウルを助け、事実上のオーケストラの支配者となっていたドロシー・チャンドラー[1901-1997](と理事会)は、ウォーレンスタインのもとでの業績には不満があり、有望な指揮者を探してもいました。
 そうした中、1954年の大がかりなコンセルトヘボウ管弦楽団北米ツアーで大成功を収めていたベイヌムは注目度が高く、まず1955年のハリウッド・ボウル公演に招聘し、メンデルスゾーンのオラトリオ「エリヤ」までよく売れるという大成功を収めたこともあり、チャンドラー(と理事会)にとって願ってもない逸材ということで、早々に交渉して音楽監督に任命。ベイヌムはオラトリオ協会の指揮者までやっていた多彩な経験の持ち主で、前任のトスカニーニ方式リハーサルのウォーレンスタインと異なり、楽員と円満で建設的なリハーサルを進めることができる点も魅力的で、さらに、シーズン途中の1956年12月に就任したにも関わらず、「1956-1957シーズン」中にさっそく25公演を指揮して、パワフルで効率的なところを見せてもいます。
 もっとも、ベイヌムには過去に心臓病で倒れたという健康問題もあり、あまりに仕事が忙しすぎると再発しかねない不安要因として捉えられかねないため、ロサンジェルス・フィル側にはそのことが明確に伝えられていない中での仕事という面もありました。
 そうした状況で迎えた次の「1957-1958シーズン」の公演に向け、1957年10月末にはオランダから旅立ったベイヌムですが、2か月後の12月末、リハーサル中に調子が悪くなって丸薬を飲んでいるところを、医師でもある理事に目撃されてしまい、入院して治療を受けることになってしまいます。
 しかしアメリカの新しい心臓病治療には効果があり、翌1958年1月中旬にはベイヌムは見事に回復してロサンジェルス・フィルとの活動を再開。
 それに気をよくしたのか、ベイヌムは、ヨーロッパに戻るとハード・スケジュールで働き続け、10か月後には再び体調を崩し、その5か月後には亡くなってしまいます。アメリカには戻れなかったので、ロサンジェルス・フィルでの音楽監督としての在職期間はとても短いものでした。
 後任は、1954年にハリウッド・ボウル・デビューし、以後、何度かの客演でロサンジェルス・フィルと繋がりができていたショルティで、1961年9月から音楽監督に就任することが決定。しかし、副指揮者として採用が決まっていたズービン・メータを、ドロシー・チャンドラーが気に入り、独断で「首席客演指揮者」に任命したことで、ショルティが勝手な人事について抗議する電報を打つと、チャンドラーはこれを無視。ほどなく音楽監督にショルティを就任させるという取り決めを一方的に破棄し、メータを音楽監督に据えています。
 この出来事は、副指揮者(助手)として公募に応募した無名の人物であっても、パトロン次第ではいきなり音楽監督に就任することもあり得るということを世に示し、驚きをもって世界から迎えられていました。
 ちなみに1950〜60年代のロサンジェルス・フィルは、創設から30〜40年以上が経過しており、楽員交代という新陳代謝も必要とされる時期でしたが、ロサンジェルスには、赤狩り対策でフリーランス化していたハリウッドのスタジオ音楽家が多く住んでいたことから、彼らの転職により、ロサンジェルス・フィルは、隣町のグレンデール交響楽団ともどもレヴェル・アップが図られています。グレンデール交響楽団は1955年に「音楽家連盟」に団体加入してプロ組織になっており、1964年からはロサンジェルス・フィルと同じく「ドロシー・チャンドラー・パヴィリオン」で演奏会を開催してもいました。
 なお、ショルティはこの出来事のおかげでコヴェントガーデン王立歌劇場音楽監督の仕事と、各国オーケストラへの客演指揮に集中し、そのおかげで、1969年、悪名高い多ジャンル批評家、クローディア・キャシディが引退した後のシカゴにシカゴ響音楽監督として着任、大きな成功を収めることができたようです。


1957年(56〜57歳) コンセルトヘボウ管弦楽団首席指揮者、ロサンジェルス・フィル音楽監督

●1〜2月、ベイヌム、ロサンジェルス・フィル。25公演を指揮。1月24日のコンサートは、16日に死去したトスカニーニの思い出に捧げられています。
◆3月25日: 欧州経済共同体(EEC)設立。
●3〜4月、ベイヌム、コンセルトヘボウ管弦楽団。イギリス・ツアー実施。12日間で10回のコンサート。
●5月5日、ベイヌム、コンセルトヘボウ管弦楽団。ベートーヴェン:交響曲第3番「英雄」(CD27)
●6月、ベイヌム、コンセルトヘボウ管弦楽団。スウェーデン、フィンランドにツアー実施。ヘルシンキで体に変調、医師から仕事量を減らすことを勧められます。
●7月、ベイヌム、コンセルトヘボウ管弦楽団。オランダ・フェスティヴァルでマーラー交響曲第3番を3回演奏。生涯で最初の取り組みでした。


●8月、ベイヌム、ザルツブルク音楽祭でのベルリン・フィルとの共演に際し、最初のリハーサルに臨むものの、急性循環不全のためキャンセル。ジョージ・セルが代わりに指揮。
●8月、コンセルトヘボウ管弦楽団の1957-1958シーズン開始。ベイヌム52回、クレンペラー16回、ハイティンク15回、ドラティ14回、セル10回、ジュリーニ9回、ヨッフム6回、シルヴェストリ5回、ヨルダンス4回など、全146公演。
●8月、ベイヌム、コンセルトヘボウ管弦楽団。「コンセルト・ネーデルラント」シリーズで2公演。オランダの景勝地での演奏。
●9月、ベイヌム、コンセルトヘボウ管弦楽団。イギリスのエディンバラ音楽祭に出演。3公演。
●9〜10月、ベイヌム、コンセルトヘボウ管弦楽団。オランダで定期演奏会など9公演。
●10月2日、ベイヌム、コンセルトヘボウ管弦楽団。ペイペル:交響曲第3番(CD4)。1926年に作曲された作品で、コンセルトヘボウでメンゲルベルクの共同指揮者(第1指揮者)として活躍していたモントゥーに献呈されています。
●10月28日、ベイヌム、ロサンジェルスに向けて出発。
●12月20日、コンセルトヘボウ管弦楽団のコンサートマスター、ヤン・ダーメン[1898-1957]が59歳で急死。シュターツカペレ・ドレスデンのコンサートマスターを、フリッツ・ブッシュとカール・ベームのもとで21年間務めたダーメンは、ベイヌムの要請で1948年にコンセルトヘボウ管弦楽団のコンサートマスターに就任。下の写真の右の人物がダーメン。


●12月末、ベイヌム、ロサンジェルス・フィルとのリハーサル中に丸薬を飲んでいるのを医師でもある理事に目撃され、入院して治療を受けることになります。

1958年(57〜58歳) コンセルトヘボウ管弦楽団首席指揮者、ロサンジェルス・フィル音楽監督

●1月、ロサンジェルス・フィルの公演に、ベイヌムの推薦で代役としてハイティンクが登場。
●1月中旬、ベイヌム、ロサンジェルス・フィルとの活動を再開。アメリカの新しい心臓病治療に効果がありました。


●2月中旬、ベイヌム、アムステルダムに戻り、コンセルトヘボウ管弦楽団と11公演。
●3月、ベイヌム、コンセルトヘボウ管弦楽団。定期公演など13公演。
●3月12日、ベイヌム、コンセルトヘボウ管弦楽団。ブルックナー:交響曲第5番(CD1)
●3月、イギリス女王エリザベス2世がアムステルダムを訪問。ベイヌム指揮コンセルトヘボウ管弦楽団のコンサートにも出席。また、ベイヌムに対し、ロイヤル・ヴィクトリア勲章(コマンダー)を授与。


●4月、ベイヌム、コンセルトヘボウ管弦楽団。定期公演のほか、スイス、フランスへのツアー実施。6公演。
●5月、ベイヌム、コンセルトヘボウ管弦楽団。「コンセルト・ネーデルラント」と、「オランダ王立芸術科学アカデミー150周年特別コンサート」。
●6月、ベイヌム、コンセルトヘボウ管弦楽団。定期公演など6公演。マーラー交響曲第7番やブルックナー交響曲第4番など。
●ベイヌム、国際マーラー協会のエルヴィン・ラッツ会長よりマーラー・メダル(ゴールド)を授与。ベイヌムはコンセルトヘボウ管弦楽団とマーラーの交響曲第1・2・3・4・6・7番と「大地の歌」、「亡き子を偲ぶ歌」、「さすらう若人の歌」、「子供の不思議な角笛」、「リュッケルト歌曲集」を取り上げており、特に第2番と第4番、「大地の歌」は数多く指揮していました。コンセルトヘボウ管弦楽団は、マーラー本人が何度も指揮したという決定的な歴史に加え、メンゲルベルクが500回近くマーラー作品を取り上げ、ワルター、クレンペラー、クーベリックも目玉作品としてマーラーに取り組むなど、ベイヌムの時代にはすでにマーラー・オーケストラとしての名声を確立していましたが、それでも滅多に演奏されない第7番を取り上げたことは協会にとって朗報だったのでしょう。2年後のマーラー100周年にはラッツ校訂版も出版されています。


●8月、コンセルトヘボウ管弦楽団の1958-1959シーズン開始。ベイヌム28回、セル21回、ハイティンク21回、ヨッフム20回、ベーム9回、ライトナー7回、オッテルロー3回など、全139公演。
●9〜10月、ベイヌム、コンセルトヘボウ管弦楽団。定期公演など19公演。
●11月10日、ベイヌム、クレンペラーの代役としてフィルハーモニア管弦楽団を指揮。ベートヴェン:交響曲第2、7番(CD26)
●11月、ベイヌム、医師の指示により、療養休暇を取得させられます。ベイヌム夫妻はスペインに向かい、各地を観光して過ごします。また、復帰後についても、コンセルトヘボウ管弦楽団での指揮を半分にまで減らすよう指揮計画を変更。

1959年(58〜59歳) コンセルトヘボウ管弦楽団首席指揮者、ロサンジェルス・フィル音楽監督

●3月上旬、ベイヌム、長期休養から復帰するため診察を受け、心臓病は軽度と診断。
●3月、ベイヌム、コンセルトヘボウ管弦楽団。定期公演など8公演を指揮。4日に医師の診断により、限定的に指揮活動を再開。
●4月11日、ベイヌム、コンセルトヘボウ管弦楽団。ハーグでの定期公演。ハイドン交響曲第101番、モーツァルト:ヴァイオリン協奏曲第3番、バディングス:アフリカの主題による交響的変容、ラヴェル『ダフニスとクロエ』第2組曲。これが最後のコンサートとなりました。
●4月13日、ベイヌム、死去。午前中、コンセルトヘボウ管弦楽団とブラームス交響曲第1番のリハーサル。第2ヴァイオリンには息子のバートもいました。リハーサルが45分ほど経過し、第2楽章のハーコン・ストテインのオーボエ・ソロのあたりで、ベイヌムは楽員に対して、自分は休憩をとるので、その間は助手が指揮を引き継ぐと伝え、指揮台の椅子から降りようとした際、床に転倒。「バートを呼んで」と言った後にそのまま亡くなってしまいます。
●4月15日、ベイヌムの葬儀。別荘のあるハルデレンに隣接するプッテンの教区教会「聖母マリア浄化」での鎮魂ミサの後、ハルデレンの小さな墓地に葬られます。プロテスタントの墓地でしたが、事前に区画がカトリックに変更されていました。


●4月18日、ベイヌム追悼のためのコンセルトヘボウ管弦楽団の記念式典での演奏を、ベルナルト・ハイティンクが指揮。バッハ『マタイ受難曲』から終曲「われらは涙を流してひざまずき」と、ブルックナー交響曲第8番第3楽章アダージョを演奏。式典には政府要職者や楽壇要職者が列席。テレビやラジオでもその模様は放送され、新聞でも一面を飾るなど、ベイヌムが国民的な名声を持った音楽家であったことを改めて印象付けました。


収録情報


CD 1
●ブルックナー:交響曲第5番変ロ長調
1959年3月12日 Netherlands Radio (ライヴ)
コンセルトヘボウ管弦楽団

CD 2
●ブルックナー :交響曲第8番ハ短調
1955年6月6-9日 Amsterdam
コンセルトヘボウ管弦楽団

CD 3
●ブルックナー:交響曲第9番ニ短調
1956年9月17-19日 Amsterdam
コンセルトヘボウ管弦楽団

CD 4
●ブルックナー:交響曲第7番ホ長調
1953年5月 Amsterdam
コンセルトヘボウ管弦楽団

●ペイペル[1894-1947]:交響曲第3番
1957年10月2日(ライヴ)
コンセルトヘボウ管弦楽団

CD 5
●ブルックナー:交響曲第8番ハ短調
1955年4月21日 (ライヴ)
コンセルトヘボウ管弦楽団

CD 6
●マーラー:「大地の歌」
1956年12月3-6日

●マーラー: 歌曲集「さすらう若人の歌」
1956年12月8-12日

ナン・メリマン(メゾ・ソフラノ)
エルンスト・ヘフリガー(テノール/大地の歌)
コンセルトヘボウ管弦楽団

CD 7
●マーラー:交響曲第6番イ短調
1955年12月7日 (ライヴ)
コンセルトヘボウ管弦楽団

CD 8
●マーラー:交響曲第4番ト長調
1952年4&5月
Margaret Ritchie (ソプラノ)

●フランク:交響詩「プシシェ」
1951年9月
コンセルトヘボウ管弦楽団

CD 9
●ブラームス:交響曲第1番ハ短調 Op.68
1958年10月6-7日

●ブラームス :交響曲第2番ニ長調 Op.73
1954 年5月17-19日[stereo]
コンセルトヘボウ管弦楽団

CD10
●ブラームス:交響曲第3番ヘ長調 Op.90
1956年9月24-25日

●ブラームス :交響曲第4番ホ短調 Op.98
1958年5月1-3日 [stereo]
コンセルトヘボウ管弦楽団

CD11
●ブラームス :交響曲第1番ハ短調 Op.68
1951年9月17日

●ブラームス :大学祝典序曲 Op.80
●ブラームス :悲劇的序曲 Op.81
1952年11月
コンセルトヘボウ管弦楽団

CD12
●ブラームス :ハイドンの主題による変奏曲 Op.56a
1949年5月16日 Kingsway Hall London
ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団

●シューベルト:交響曲第9番ハ長調 D.944
1950年?
コンセルトヘボウ管弦楽団

CD13
●ブラームス :交響曲第1番ハ短調
1951年10月25日 (ライヴ)

●ストラヴィンスキー:組曲「火の鳥」
1948年5月13日 (ライヴ)

コンセルトヘボウ管弦楽団

CD14
●シューベルト:交響曲第3番ニ長調 D.200
1955年6月6&9日 (ライヴ)

●シューベルト:交響曲第6番ハ長調 D.589
●シューベルト:交響曲第8番ロ短調 D.759 「未完成」
1957年5月22&25日

コンセルトヘボウ管弦楽団

CD15
●シューベルト:「ロザムンデ」序曲 ハ長調 op.26 D644
1952年5月

●シューベルト:交響曲第4番ハ短調 D.417「悲劇的」
1952年12月
コンセルトヘボウ管弦楽団

●メンデルゾーン:序曲「フィンガルの洞窟」
1949年2月4日 Kingsway Hall, London
ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団

●メンデルゾーン:組曲「真夏の夜の夢」から
7序曲, Op.21
8夜想曲, Op.61 No.7
9スケルツォ, Op.61 No.1
1952年5月19日 Amsterdam
コンセルトヘボウ管弦楽団

CD16
●シューベルト:ロザムンデ
Entr'acte No.3: Andantino
Ballet No.2: Andantino
1940年7月7日 (ライヴ)

●フランク :交響詩「プシシェ」(Symphonic excerpts)
Le sommeil de Psyché
Psyché enlevée par les zéphyrs
Les jardins d'Éros
Psyché et Éros
1941年5月15日 (ライヴ)
コンセルトヘボウ管弦楽団

●チャイコフスキー:幻想序曲「ロメオとジュリエット」
1950年1月 Kingsway Hall, London
ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団

●チャイコフスキー:組曲「くるみ割り人形」, Op.71a
I. Miniature Overture
II. March
III. Dance of the Sugar Plum Fairy
IV. Russian Dance
V. Arabian Dance
VI. Chinese Dance
VII. Dance of the Reed Flutes
VIII. Waltz of the Flowers
1958年4&5月Amsterdam
コンセルトヘボウ管弦楽団

CD17
●エルガー:「子供の魔法の杖」第1組曲 Op.1a&第2組曲 Op.1b
1950年2月13日 Kingsway Hall, London

●エルガー:序曲「コケイン」 Op.40
1949年5月13日 Kingsway Hall, London

ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団

CD18
●ブラームス:ハイドンの主題による変奏曲 Op.56a
1952年12月1日 Amsterdam

●ブラームス:交響曲第2番ニ長調 Op.73
1955年9月16日 Staatstheatre Stuttgart(ライヴ)

コンセルトヘボウ管弦楽団

CD19
●ドビュッシー:夜想曲
Nuages
Fêtes
Sirènes

●ドビュッシー:交響詩「海」
「海上の夜明けから真昼まで」
「波の戯れ」
「風と海の対話」

●ドビュッシー:スコットランド行進曲
●ドビュッシー:英雄的な子守歌
1957年5月27,28日 Amsterdam [stereo]

コンセルトヘボウ管弦楽団

CD20
●ドビュッシー:「映像」
I. Gigue
III. Rondes de printemps
II. Iberia: Par les rues et par les chemins
II. Iberia: Les parfums de la nuit
II. Iberia: Le matin d'un jour de fête
1948年12月19日 (ライヴ)

●ドビュッシー :交響詩「海」
「海上の夜明けから真昼まで」
「波の戯れ」
「風と海の対話」
1941年1月30日 (ライヴ)

●ドビュッシー:交響組曲「春」
I. Très modéré
II. Modéré
1942年7月8日 (ライヴ)

コンセルトヘボウ管弦楽団

CD21
●ラヴェル:「ボレロ」
1958年6月30日 [Stereo)

●ラヴェル:「ラ・ヴァルス」
1958年9月25日 [Stereo]

●ドビュッシー:「映像」
I. Gigue
III. Rondes de printemps
II. Iberia: Par les rues et par les chemins
II. Iberia: Les parfums de la nuit
II. Iberia: Le matin d'un jour de fête
1954年5月24,25日 Amsterdam

●ラヴェル:「ダフニスとクロエ」第2組曲
I. Lever du jour, II. Pantomime, III. Danse générale
1954年10月11日 U.N. Assembly Hall, New York(ライヴ)

コンセルトヘボウ管弦楽団

CD22
●バッハ:管弦楽組曲第1番ハ長調 BWV.1066
●バッハ:管弦楽組曲第2番ロ短調 BWV.1067
31 May to 2 June 1955
フーベルト・バルワーザー(フルート)

●バッハ:管弦楽組曲第3番ニ長調 BWV.1068
1956年4月3日

コンセルトヘボウ管弦楽団

CD23
●バッハ:管弦楽組曲第4番ニ長調 BWV.1069
1956年4月10日

●J.C.バッハ:シンフォニア 変ロ長調 Op.18-2
●J.C.バッハ:シンフォニア ニ長調 Op.18-4
1958年10月6-7日 [stereo]

●ベートーヴェン:交響曲第2番ニ長調 Op.36
1954年5月22日 Amsterdam

コンセルトヘボウ管弦楽団

CD24
●ベートーヴェン:バレエ音楽「プロメテウスの創造物」 Op.43
Overture: Adagio; Allegro molto con brio*
Adagio; Allegro con brio
Allegro vivace
Adagio; Andante quasi allegretto
Adagio
Andante
Andantino; Adagio; Allegro
Finale: Allegretto
1952年2月25日&3月19日*

●モーツァルト:交響曲第35番 ニ長調, K.385「ハフナー」
1952年5月1日 Kingsway Hall

ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団

CD25
●ベートーヴェン:「プロメテウスの創造物」序曲 Op.43
1946年11月29日

●ベートーヴェン:レオノーレ序曲第1番 Op.138
1949年5月3日

●ベートーヴェン:レオノーレ序曲第3番 Op.72b
1952年2月25日

●ベートーヴェン:「フィデリオ」序曲 Op.72
●ベートーヴェン:「エグモント」序曲 Op.84
●ベートーヴェン:「コリオラン」序曲 Op.62
1952年2月27-29日

●ベートーヴェン:献堂式序曲, Op.124
1950年4月11日

Kingsway Hall, London
ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団

CD26
●ベートーヴェン:交響曲第2番ニ長調 Op.36
●ベートーヴェン:交響曲第7番イ長調 Op.92
1958年11月10日 Royal Festival Hall(ライヴ)
フィルハーモニア管弦楽団

CD27
●ベートーヴェン:交響曲第3番変ホ長調 Op.55「英雄」
1957年5月5日 Bevrijdingsdag Concert (ライヴ)
コンセルトヘボウ管弦楽団

CD28
●ヘンデル :「水上の音楽」(クリュザンダー版)
1958年7月1&5 Amsterdam [stereo]
コンセルトヘボウ管弦楽団

CD29
●モーツァルト:セレナード ニ長調 K.320「ポストホルン」
1956年5月22-23日

●モーツァルト:交響曲第29番イ長調 K.201(186a)
1956年5月25日

コンセルトヘボウ管弦楽団

CD30
●モーツァルト:交響曲第40番ト短調 (リハーサル)
1956年9月20日 (ライヴ)

●トマ:「ミニョン」序曲
●ニコライ:「ウィンザーの陽気な女房たち」序曲
1956年4月10日 Amsterdam

●R.シュトラウス:交響詩「ドン・ファン」 Op.20
1955年9月16日 Staatstheatre Stuttgart(ライヴ)

コンセルトヘボウ管弦楽団

CD31
●ハイドン:交響曲第94番ト長調「驚愕」
1951年9月24日

●ハイドン:交響曲第96番ニ長調「奇跡」
1952年12月 Amsterdam

●ハイドン:交響曲第97番ハ長調
1953年5月 Amsterdam

コンセルトヘボウ管弦楽団

CD32
●ハイドン:交響曲第100番ト長調「軍隊」
1946年11月29日 London
ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団

●ベートーヴェン:「エグモント」序曲
1954年10月11日 U.N. Assembly Hall, New York(ライヴ)
コンセルトヘボウ管弦楽団

●メンデルゾーン:交響曲第4番イ長調 Op.90「イタリア」
1955年6月2-4日
コンセルトヘボウ管弦楽団

CD33
●ベルリオーズ:幻想交響曲 Op.14
1951年9月10日

●ベルリオーズ:「ファウストの劫罰」 Op.24
I. ラコッツィー行進曲
II. 妖精の踊り
III. 鬼火のメヌエット

●ベルリオーズ:序曲「ローマの謝肉祭」 Op.9
1951年9月 Amsterdam

コンセルトヘボウ管弦楽団

CD34
●ブリテン:春の交響曲, Op.44
1949年7月 (ライヴ)

●ブリテン:歌劇「ピーター・グライムズ」より4つの海の間奏曲 Op.33a
1953年9月14日

●ブリテン:「青少年のための管弦楽入門」, Op.34
1953年9月16日 Amsterdam

ヨー・フィンセント(ソプラノ)
キャスリーン・フェリアー(アルト)
ピーター・ピアーズ(テノール)
ロッテルダム少年合唱団
オランダ放送合唱団
コンセルトヘボウ管弦楽団

CD35
●ブリテン:歌劇「ピーター・グライムズ」より4つの海の間奏曲 Op.33a
1947年9月15日

●ブリテン:パッサカリア Op.33b
1947年9月16日

●シベリウス:交響詩「エン・サガ」 Op.9
●シベリウス:交響詩「タオピラ」 Op.112
1952年12月 Amsterdam

●シベリウス:悲しきワルツ, Op.44-1
●シベリウス:交響詩「フィンランディア」 Op.26
1957年6月7-8日 Amsterdam

コンセルトヘボウ管弦楽団

CD36
●バルトーク:管弦楽のための協奏曲
1948年9月10-22日 Amsterdam
コンセルトヘボウ管弦楽団

●バルトーク:弦楽器と打楽器とチェレスタのための音楽 SZ.106
1955年10月13-14日 Amsterdam
コンセルトヘボウ管弦楽団

●アーノルド:「ベッカス・ザ・ダンディプラット」序曲 Op.5(1943)
1947年12月16日 Kingsway Hall, London
ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団

CD37
●ストラヴィンスキー:組曲「火の鳥」
1956年4月6日

●ストラヴィンスキー:春の祭典
第1部: 大地の礼賛
第2部: 生贄の儀式
1946年9月11日

●ストラヴィンスキー:交響詩「ナイチンゲール の歌」
1956年5月22日

コンセルトヘボウ管弦楽団

CD38
●レスピーギ:ローマの噴水
1949年10月16日 (ライヴ)

●チャイコフスキー:幻想序曲「ロメオとジュリエット」
1940年6月6日 (ライヴ)

●チャイコフスキー:交響曲第4番 へ短調
1941年2月13日&1940年5月26日 (ライヴ)

コンセルトヘボウ管弦楽団

CD39
●ボロディン:だったん人の踊り
1950年4月11日 Kingsway Hall, London
ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団、合唱団

●リムスキー・コルサコフ:組曲「シェエラザード」 Op.35
1956年4月3-12日 Amsterdam
ヤン・ダーメン(ヴァイオリン)
コンセルトヘボウ管弦楽団

●コダーイ:組曲「ハーリ・ヤーノシュ」
1956年4月11-12日 Amsterdam
コンセルトヘボウ管弦楽団

CD40
●レーガー:バレエ組曲 Op.130
1942年7月8日 (ライヴ)

●シェーンベルク:5つの管弦楽曲 Op.16
1951年10月12日 (ライヴ)

●エッシャー:「悲嘆に暮れる魂に捧ぐ音楽」
1954年9月1日 (ライヴ)

●アンドリーセン:交響曲第4番
1955年10月19日 (ライヴ)

コンセルトヘボウ管弦楽団




商品説明:年表シリーズ

指揮者
アルヘンタ
オッテルロー
ガウク
カラヤン
クイケン
クーセヴィツキー
クチャル
クラウス
クレツキ
クレンペラー
ゴロワノフ
サヴァリッシュ
シューリヒト
スラトキン(父)
ターリヒ
チェリビダッケ
ドラゴン
ドラティ
バルビローリ
バーンスタイン
パレー
フェネル
フルトヴェングラー
ベイヌム
メルツェンドルファー
モントゥー
ライトナー
ラインスドルフ
ロスバウト

鍵盤楽器
ヴァレンティ
ヴェデルニコフ
カークパトリック
カサドシュ
グリンベルク
シュナーベル
ソフロニツキー
タマルキナ
タリアフェロ
ティッサン=ヴァランタン
デムス
ナイ
ニコラーエワ
ノヴァエス
ハスキル
ユージナ
ランドフスカ
ロン

弦楽器
カサド
コーガン
シュタルケル
バルヒェット
フランチェスカッティ
ヤニグロ
リッチ

弦楽四重奏団
グリラー弦楽四重奏団
シェッファー四重奏団
シュナイダー四重奏団
パスカル弦楽四重奏団
ハリウッド弦楽四重奏団
バルヒェット四重奏団
ブダペスト弦楽四重奏団
伝説のフランスの弦楽四重奏団

作曲家
アンダーソン
ベートーヴェン
ヘンツェ
坂本龍一

シリーズ
テスタメント国内盤

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