CD 輸入盤

イゴール・マルケヴィチの芸術(21CD)

基本情報

ジャンル
:
カタログNo
:
SC832
組み枚数
:
21
レーベル
:
:
Europe
フォーマット
:
CD
その他
:
輸入盤

商品説明


マルケヴィチ・ステレオ録音コレクション(21CD)

個性派指揮者、イゴール・マルケヴィチが遺したステレオ録音からのコレクションがイギリスのスクリベンダム・レーベルより登場。日本とも縁の深かったマルケヴィチは、ロシア帝国キエフの生まれで名前もウクライナ風ですが、育ちはスイスのフランス語圏ということで母語はフランス語です。ということで、ここではイゴール・マルケヴィチと表記しておきます。
 今回のセットの音源は、すべてステレオ録音ということで、手っ取り早くマルケヴィチの音楽を理解するのに便利な内容となっています。


 収録情報

CD 1
●ベートーヴェン:交響曲第1番ハ長調 Op.21
●ベートーヴェン:交響曲第5番ハ短調 Op.67
●ベートーヴェン:交響曲第8番ヘ長調 Op.93

コンセール・ラムルー管弦楽団
録音:1960年10月(第1番),1959年10月(第5&8番)

CD 2
●ベートーヴェン:交響曲第9番ニ短調 Op.125「合唱」
ヒルデ・ギューデン(ソプラノ)
アーフェ・ヘイニス(アルト)
フリッツ・ウール(テノール)
ハインツ・レーフュス(バリトン)
カールスルーエ・オラトリオ合唱団
コンセール・ラムルー管弦楽団
録音:1961年1月

CD 3
●ベートーヴェン:「レオノーレ」序曲第3番 Op.72a
●ベートーヴェン:「命名祝日」序曲 Op.115
●ベートーヴェン:「コリオラン」序曲 Op.62
●ベートーヴェン:「フィデリオ」序曲 Op.72b
●ベートーヴェン:「エグモント」序曲 Op.84
●ベートーヴェン:「献堂式」序曲 Op.124

コンセール・ラムルー管弦楽団
録音:1958年11月

●L.モーツァルト:「おもちゃの交響曲」
モスクワ音楽児童アンサンブル
録音:1964年

CD 4-5
●ベルリオーズ:劇的物語「ファウストの劫罰」 Op.24
リシャール・ヴェロー
ミシェル・ルー
コンスエロ・ルビオ
ピエール・モレ
エリーザベト・ブラスール合唱団
フランス国立放送少年合唱団
コンセール・ラムルー管弦楽団
録音:1959年5月

●ワーグナー:「ローエングリン」第1幕への前奏曲
●ワーグナー:「ローエングリン」第3幕への前奏曲
●ワーグナー:「タンホイザー」序曲

コンセール・ラムルー管弦楽団
録音:1958年6月,11月

CD 6
●ベルリオーズ:「幻想交響曲」 Op.14a
コンセール・ラムルー管弦楽団
録音:1961年1月

●オベール:歌劇「ポルティチの物言わぬ娘」序曲
コンセール・ラムルー管弦楽団
録音:1961年

CD 7
●ビゼー:「カルメン」第1組曲、第2組曲
●ビゼー:「アルルの女」第1組曲、第2組曲

コンセール・ラムルー管弦楽団
録音:1959年12月

●ビゼー:小組曲「子供の遊び」
ソ連国立交響楽団
録音:1964年

CD 8
●ブラームス:交響曲第4番ホ短調 Op.98
コンセール・ラムルー管弦楽団
録音:1958年11月20-24日

●コダーイ:「ハンガリー詩篇」 Op.13 [ハンガリー語]
ロベルト・イロスファルヴィ(テノール)
ソ連国立アカデミー合唱団
ソ連国立交響楽団
録音:1963年

●グルック:シンフォニア ト長調
コンセール・ラムルー管弦楽団
録音:1958年6月7日

CD 9
●ケルビーニ:レクイエム ニ短調
チェコ・フィルハーモニー合唱団
チェコ・フィルハーモニー管弦楽団
録音:1962年12月

●ケルビーニ:歌劇「アナクレオン」序曲
コンセール・ラムルー管弦楽団
録音:不明

●ファリャ:「スペインの庭の夜」
クララ・ハスキル(ピアノ)
コンセール・ラムルー管弦楽団
録音:1960年10月

CD 10
●ドビュシー:「海」〜管弦楽のための3つの交響的素描
●ドビュシー:「神聖な舞曲と世俗的な舞曲」
●ルーセル:「バッカスとアリアーヌ」組曲 Op.43

コンセール・ラムルー管弦楽団
録音:1959年5月2&3日(海),1959年3月2日(2つの舞曲),1958年12月(ルーセル)

CD 11
●ハイドン:交響曲第103番変ホ長調「太鼓連打」
●ハイドン:交響曲第104番ニ長調「ロンドン」

コンセール・ラムルー管弦楽団
録音:1959年12月

●ブラームス:「アルト・ラプソディー」Op.53
●ブラームス:「悲劇的序曲」Op.81

イリーナ・アルヒーポワ(アルト)
ソ連国立アカデミー合唱団
ソ連国立交響楽団
録音:1963年

CD 12
●グリンカ:歌劇「ルスランとリュドミラ」序曲
●ボロディン:交響詩「中央アジアの草原にて」
●リャードフ:交響的絵画「ヨハネ黙示録から」
●リムスキー=コルサコフ:歌劇「五月の夜」序曲
●リムスキー=コルサコフ:組曲「金鶏」(4つの音楽的絵画)

コンセール・ラムルー管弦楽団
録音:1959年12月,1958年6月

●リムスキー=コルサコフ:「ロシアの復活祭」序曲, Op.36
アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団
録音:1964年9月

CD 13
●リムスキー=コルサコフ:交響組曲「シェエラザード」 Op.35
●リムスキー=コルサコフ:「スペイン奇想曲」Op.34

エリック・グリューエンバーグ(ヴァイオリン)
ロンドン交響楽団
録音:1962年10月10-22日

●ボロディン:歌劇「イーゴリ公」〜「だったん人の踊り」
オランダ放送合唱団
アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団
録音:1964年9月

CD 14
●ストラヴィンスキー:バレエ音楽「ミューズの神を率いるアポロ」(1947年版)
●ストラヴィンスキー:組曲第1番
●ストラヴィンスキー:組曲第2番
●ストラヴィンスキー:「ノルウェーの情景」
●ストラヴィンスキー:「サーカス・ポルカ」

ロンドン交響楽団
録音:1963年10月

●ニコライ・チェレプニン:「タチ・タチ」(ボロディン、キュイ、リャードフ、リムスキー=コルサコフ、リストの主題によるパラフレーズ)
ソ連国立交響楽団
録音:1964年

CD 15
●ストラヴィンスキー:「詩篇交響曲」[ラテン語]
ソ連国立アカデミー合唱団(男声合唱と少年合唱)
ソ連国立交響楽団
録音:1960年6月8-9日

●ストラヴィンスキー:「兵士の物語」
ジャン・コクトー(語り)
ピーター・ユスティノフ(悪魔)
ジャン=マリー・フェルテ(兵士)
アンヌ・トニエッティ(王女)
アンサンブル・ド・ソリスト
ユリス・ドゥレクリュース(クラリネット)
アンリ・エレルツ(ファゴット)
モーリス・アンドレ(トランペット)
ローラン・シュノルク(トロンボーン)
シャルル・ペシエ(パーカッション)
マヌーグ・パリキアン(ヴァイオリン)
ヨアヒム・グート(コントラバス)
録音:1962年10月4-8日

CD 16
●チャイコフスキー:交響曲第4番ホ短調 Op.36
ロンドン交響楽団
録音:1963年10月19-21日

●チャイコフスキー:「白鳥の湖」Op.20(抜粋)
ベオグラード・フィルハーモニー管弦楽団
録音:不明

CD 17
●チャイコフスキー:交響曲第6番ロ短調 Op.74「悲愴」
ロンドン交響楽団
録音:1962年1月9-12日

●チャイコフスキー:幻想曲「フランチェスカ・ダ・リミニ」Op.32
コンセール・ラムルー管弦楽団
録音:1959年12月9&5日

CD 18
●チャイコフスキー:「マンフレッド交響曲」Op.58
ロンドン交響楽団
録音:1963年10月17日-11月1日

●チャイコフスキー:大序曲「1812年」Op.49
アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団
録音:1964年9月

CD 19
●メンデルスゾーン:交響曲 第4番「イタリア」
日本フィルハーモニー交響楽団
録音:1968年

●チャイコフスキー:「くるみ割り人形」組曲
モンテ・カルロ国立歌劇場管弦楽団
録音:1972年7月

●シューベルト:「イタリア風序曲」
●シューベルト:「アルフォンソとエストレッラ」序曲

日本フィルハーモニー交響楽団
録音:1968年

CD 20
●シューベルト:序曲ホ短調
日本フィルハーモニー交響楽団
録音:1968年

●プーランク:バレエ音楽「牝鹿」
●オーリック:バレエ音楽「うるさがた」

モンテ・カルロ国立歌劇場管弦楽団
録音:1972年7月

CD 21
●サティ:「びっくり箱」(管弦楽編)
●ソーゲ:バレエ音楽「牝猫」
●ミヨー:バレエ音楽「青い列車」

モンテ・カルロ国立歌劇場管弦楽団
録音:1972年7月


 各種リンク

【商品関連】
●収録情報
●商品説明:年表シリーズ一覧

【マルケヴィチ関連】
●名前
●驚異の記憶力
●マルチリンガル
●作曲家
●狂乱のパリとノアイユ子爵夫人
●ディアギレフ
●指揮者
●パルチザン活動
●教育者
●分け隔てのない活動
●マルケヴィチの父方親族
●マルケヴィチの母方親族

【年表】
1912191319141915191619171918191919201921192219231924192519261927192819291930193119321933193419351936193719381939194019411942194319441945194619471948194919501951195219531954195519561957195819591960196119621963196419651966196719681969197019711972197319741975197619771978197919801981198219831984


 名前

マルケヴィチはロシア帝国キエフ生まれのフランス語圏育ちということで、イーゴリ、イーゴル、イゴール、マルケヴィッチ、マルケヴィチ、マルケーヴィチなど様々な表記をされてきました。
 マルケヴィチの父ボリスはフランス語話者のウクライナ人、母ゾーヤはフランス語話者のウクライナ人ということで、ウクライナ在住時は、息子をウクライナ語で「イーホル」と呼び、その後、フランス語圏社会で生活するようになってからは「イゴール」と呼んでいたと考えられるため、ここでは「イゴール」としておきます。
 ちなみにマルケヴィチより30歳年長で、時には「2人のイゴール」とも呼ばれたストラヴィンスキーは、20代の終わりまではロシア帝国サンクトペテルブルク在住だったのでロシア語で「イーゴリ」、その後の約60年間は「イゴール」でした。同じロシア帝国生まれでもキエフとサンクトペテルブルクでは言語が違うため、「イーホル」、「イーゴリ」という違いが生じていますが、2人ともロシア帝国を後にしてからの生活がはるかに長かったので、どちらも「イゴール」ということで問題ないかと思います。
 また、姓のフランス語読みはマルケヴィチとマルケーヴィチの中間くらいなので、ここではマルケヴィチとしておきます。

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 驚異の記憶力

幼い頃から駒と盤を使わないでチェスを指すなど優秀な記憶力の持ち主だったマルケヴィチは、実演では譜面台を置かなかったことでも知られており、複雑な現代作品でも晩年に至るまで暗譜で指揮。
 また、暗譜が完了すると、指揮の準備を姿見の前でおこない、楽員目線での視覚効果を確認したうえで指揮の動作を記憶してもいました。
 そして、首席指揮者や音楽監督を務めたオーケストラとの仕事では、楽員全員の名前も記憶。リハーサルに際し、個人名で呼びかけるなどして楽員の士気を高め、さらにオーケストラのすべての楽器の演奏法を、マニアックなレベルまで把握し記憶することで、楽員とのコミュニケーションに役立てていた模様。
 このあたり、自分は、楽器ではなく楽器を演奏する人間を指揮しており、それぞれの楽員がベストの状態で演奏できるようにするのが自分の務めだと語っていたマルケヴィチならではの配慮です。
 つまり覚えていたのは楽譜だけではないということで、さらにその暗譜にしても、細部まで書き出せるほどのレベルだったといいますから恐れ入ります。マルケヴィチの息子で指揮者のオレグ・カエターニは、父からの指導について、暗譜した作品を紙に書き出すという厳しいトレーニングも課せられ、父は特別だったとも述べていました。

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 マルチリンガル

ウクライナ人を両親に、キエフの高級ホテルで生まれ、2歳でパリに、4歳でスイスに移り住んだマルケヴィチは、フランス語、ウクライナ語、ロシア語、ドイツ語を早くから駆使して新進作曲家として過ごし、指揮者に転向してからは、そこにイタリア語、英語、スペイン語も加わって、計7か国語を操る指揮者として、世界各国のオーケストラを指揮することになります。
 ちなみにロシア語については、母ゾーヤがマルケヴィチが幼い頃からロシア文学を教えていたことで身についており、後年のソ連公演や長期のマスタークラスなどで非常に役立っています。
 下の画像は、母ゾーヤの肖像画の前に座るマルケヴィチ。肖像画の画家は、シュルレアリストのパヴェル・チェリチェフ[1898-1957]。チェリチェフはバレエ・リュスでも仕事をしており、マルケヴィチの知人でもありました。マルケヴィチと目鼻立ちが良く似たゾーヤの顔が個性的な美しさで描かれています。

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 作曲家

コルトーに見出され、ナディア・ブーランジェが惚れこんで指導、ヴィットリオ・リエティが管弦楽法を教え、そしてディアギレフによって開花したマルケヴィチの作曲家としての資質は素晴らしく、バルトークも絶賛、有名な「2台のピアノと打楽器のためのソナタ」にその影響があらわれてもいます。
 ディアギレフの死で実現しなかったマルケヴィチ17歳の年のバレエ「裸の王様」では、「偶然性」の手法もアイデアとして出すなど才人ぶりを発揮、3年後、20歳の年に作曲した代表作「イカロスの飛行」では四分音を効果的に使用してもいました。
 指揮者に転向してからは、自作を指揮しなかったマルケヴィチが、1978年にブリュッセルの王立フィルハーモニック協会の招きにより、ベルギーで「イカロス」と「失楽園」を指揮して成功。自作を指揮するのは35年ぶりのことで、この成功により、再びマルケヴィチの作品が注目を集めるようになり、その後の3年間だけで、15か国で100回以上もマルケヴィチの作品が取り上げられています。この成功はロンドンのブージー・アンド・ホークス社との新たな包括的契約にも繋がっていました。

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 狂乱のパリとノアイユ子爵夫人

マルケヴィチは、少年から青年に成長する時代、1920年代から1930年代にかけて、芸術的かつ文化的に最先端だった「狂乱のパリ」で活躍、第1次大戦で勝った国の資産家や貴族たちが面白がって熱心に支援したシュルレアリスム運動に参加、多くの芸術家や貴族らと交流。
 1932年に作曲した「ギャロップ」の初演は、南仏イエールのノアイユ子爵夫妻邸で実施。約2千uの広大な邸宅には、多くの芸術家や文化人、パトロンなどが集まり、音楽、映画、文学、美術などさまざまなジャンルの情報交換や演奏会、上映会、資金援助の話し合いなどがおこなわれていました。若きマルケヴィチは、ここで、のちに結婚するトパツィア・カエターニの母であるコーラ[1896-1974]の知己を得ています。また、邸宅の主であるマリー=ロール・ドゥ・ノアイユ[1902-1970]がマルケヴィチの演奏する姿に惹かれ、それが翌年から5年間に及ぶ交際のきっかけともなっていました。
 1933年8月にはマリー=ロール・ドゥ・ノアイユ子爵夫人がレマン湖畔に到着。マルケヴィチには手紙でスイス訪問のことを伝えてあり、最初は大きなホテルに多くの召使と共に滞在しましたが、やがてマルケヴィチと親しくなると、ヴォー州の標高約1,200メートルの山村ヴィラール=シュル=オロンに家を借りて2人で暮らすことになります。マルケヴィチより10歳年長のマリー=ロールは銀行家の娘で、唯一の相続者として巨額の資産を保有。マルキ・ド・サド[1740-1814]の子孫でもあるマリー=ロールは芸術に詳しく、画家バルテュスや写真家マン・レイのモデルになったり、ピカソやコクトー、ブニュエル、ミロらを支援したりと、大パトロンぶりを発揮してもいました。彼女は恋多き女性としても知られており、翌1934年には同じヴィラール=シュル=オロンにジャン・コクトーと滞在したりもしていましたが、そうした気楽な関係が若きマルケヴィチにもちょうど良かったのか、1938年まで5年間に渡って関係が継続していました。

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 ディアギレフ

1928年8月、マルケヴィチは、バレエ・リュスの関係者で、ディアギレフの秘書を名乗るアレクサンドリーナ・トゥルセヴィチの知己を得、彼女の為にピアノで自作を演奏。アレクサンドリーナは、マルケヴィチに対し、ディアギレフのために曲を書くことを提案。
 11月にはマルケヴィチは「シンフォニエッタ」の作曲を開始。12月には、アレクサンドリーナから招待されて、バレエ・リュスのオペラ座公演を鑑賞。終演後、アレクサンドリーナの紹介でディアギレフに会います。
 1929年2月、「シンフォニエッタ」完成。20分ほどの管弦楽曲で、感銘を受けたディアギレフからピアノ協奏曲の作曲を委嘱されます。
7月、マルケヴィチ、ロンドンで自作のピアノ協奏曲を初演。22分ほどの曲。指揮はロジェ・デゾルミエール。マルケヴィチは16歳と11カ月でした。
7〜8月、マルケヴィチ、ディアギレフと旅行。ディアギレフは糖尿病が重症化しており、看護師を伴っての11日間の旅行でしたが、砂糖の代わりにサッカリンを使用していたほかは、食事は通常と同じだったとか。
7月27日、バーゼルでディアギレフと合流。
7月28日、バーデン・バーデンでヒンデミットの「了解についてのバーデン教育劇」初演を鑑賞。
7月30日、ディアギレフに連れられてミュンヘンでR.シュトラウスと会食。夜にはR.シュトラウス指揮で「魔笛」を鑑賞。
7月31日、「トリスタンとイゾルデ」を鑑賞。幕間にプリンツレゲンテン劇場近くの庭園で過ごしていた時、ディアギレフは涙を浮かべながら、「トリスタン」の何もかもが美しすぎると、自分の若い頃の経験談と共にマルケヴィチに話します。
8月2日、「コジ・ファン・トゥッテ」を鑑賞。
8月4日、「マイスタージンガー」を鑑賞。
8月6日、ザルツブルク音楽祭でフランツ・シャルク指揮する「ドン・ジョヴァンニ」を鑑賞。ミュンヘンからザルツブルクに向かう列車の中で、ディアギレフは、マルケヴィチに作曲依頼した新作「王様の衣装(裸の王様)」について、日程が折り合えば指揮するという返事が書かれたオットー・クレンペラーからの手紙を見せます。
8月7日、マルケヴィチとディアギレフは列車に乗り、インスブルックでディアギレフがヴェネツィアに行きの列車に乗り換えるため下車。プラットフォームからマルケヴィチを見送るディアギレフの顔には涙が浮かび、十字を切って祝福していました。そしてマルケヴィチはスイスに帰還し、ディアギレフはヴェネツィアに到着。
8月19日、ディアギレフ、糖尿病によりヴェネツィアで死去。ほどなくバレエ・リュスは解散。予定されていた新作バレエ「裸の王様」の話も立ち消えに。

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 指揮者

マルケヴィチの指揮者としての活動が本格化するのは第2次大戦中のイタリアでのことでした。1944年には実力が認められて「フィレンツェ五月音楽祭管弦楽団」の音楽監督に就任。「フィレンツェ五月音楽祭管弦楽団」という名前は、当初は「フィレンツェ市立劇場管弦楽団」が「フィレンツェ五月音楽祭」に参加するときのものでしたが、ほどなく年間を通じてその名を用いるようになります。
 マルケヴィチの指揮者としての本格的な勉強は、1933年にピエール・モントゥー[1875-1964]から受けた技術的な指導が最初でした。


 そして翌1934年から1936年にかけて何度かヘルマン・シェルヘン[1891-1966]のもとで、解釈などに関する教えを受け、さらにシェルヘンの代役を務めたりもして経験を重ねて行きます。

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 パルチザン活動

第2次大戦中はマルケヴィチは主にイタリアに居ましたが、多くのイタリア人音楽家がファシズムに賛同する中、当時無国籍だったマルケヴィチは、1943年10月に指揮活動を停止して、トスカーナ国家解放委員会に所属し、フィレンツェ北部、アペニン山脈でパルチザン活動に参加。
 11月には、トスカーナ国家解放委員会の多くのメンバーがマリオ・カリタ少佐率いるフィレンツェの「RSS(特別支援部門)」の部隊により逮捕されますが、マルケヴィチや、パルチザン闘士アレッサンドロ・シニガリア[1902-1944]は難を逃れます。シニガリアはユダヤ系黒人の共産主義活動家で、パルチザンの重要人物。
 冬のあいだ、マルケヴィチは、アレッサンドロ・シニガリアを自宅に匿いますが、直後の1944年2月13日、カリタ少佐率いるRSSの部隊によりシニガリアは殺害されています。

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 教育者

1950年の夏、ザルツブルク・モーツァルテウムで開催予定だったフルトヴェングラーの解釈講座が中止になり、そのチケット購入者を対象に、代わりにおこなわれた指揮講座をマルケヴィチが担当。これが最初の教育活動でした。フルトヴェングラーが「解釈」を教える講座ということで休暇をとり、出席していたサヴァリッシュは、すでにアウクスブルク市立歌劇場の第1指揮者を務めていたプロの指揮者でもあったため、「解釈」の講習が、「指揮法」の講習になってしまったことが不満で、個別指導にも素直に従わなかったりしたため、マルケヴィチは、サヴァリッシュを助手として起用することで問題を解決しています。
 講座は好評で、1956年まで毎年開催されたほか、最初不満だったサヴァリッシュも翌年も助手を務めるなどマルケヴィチに賛同、生涯を通じた交流を持つようになります。
 また、この講習会の成功を機に、マルケヴィチは世界各地でマスタークラスを開催するようになります。

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 分け隔てのない活動

シュルレアリスム運動からパルチザン活動まで、若くして多くのことを経験していたマルケヴィチは、何ごとにも動じず、常に紳士的で分け隔ての無い態度ゆえ、日本や中南米といった地理的遠隔地だけでなく、ソ連、ユーゴスラヴィア、ポーランド、チェコスロヴァキア、ハンガリーなど、政治的遠隔地ともいえる共産圏の国々にも繰り返し客演。
 しかし、共産圏での活動は、基本的に利益が少なくリスクが大きいため、経済的・政治的側面の両方で大手音楽マネジメントから忌避される要因ともなり、商業的に華やかな成功からは遠ざかってしまいます。
 とはいえ結果的に、自分の価値観で仕事を選ぶことができたのは寧ろ朗報だったのかもしれません。マルケヴィチがどんなオーケストラとも一定の成果を上げることができたのは、数をこなす仕事からは距離を置き、常に誠実に公演に取り組んでいたからだと考えられるので。


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 マルケヴィチの父方親族

父ボリス・ニコライエヴィチ・マルケヴィチ[1874-1923]はロシア帝国ウクライナの大地主。ボリスは、ラウル・プーニョ[1852-1914]とオイゲン・ダルベール[1864-1932]に師事したピアニストでもありましたが、20代で結核に罹患したためピアニストとしての活動を断念。結核に有効な最初の治療薬が見つかるのが約40年後の1943年ということで、当時はまだ高地転地療養しか手段がなく、ボリスも標高約1,560メートルのダヴォスのサナトリウムで長期に渡って療養。のちにトーマス・マンの「魔の山」で有名になるダヴォスでの治療が効果があったのか、ボリスは健康を回復し、その後、ゾーヤと結婚、長男イゴールにも恵まれ、2年後の1914年にはピアニストとしての活動を再開するため、一家でパリに移り住んでいます。
 しかし当時のパリの大気汚染は肺の弱い人間には過酷だったようで、結核が再発してしまったため、2年後の1916年には標高約1,260メートルのスイスのレザンで高地転地療養し、ある程度回復した後、レマン湖畔のラ・トゥール=ド=ペに居を構えることとなります。もっとも、パリでの肺のダメージは深刻なものだったようで、その後も完治することはなく、7年後には48歳と4か月の若さで亡くなってしまいます。ちなみに、ボリスの執筆したピアノ教則本は、アルフレッド・コルトー[1877-1962]にも影響を与えたほどの内容だったそうで、そのコルトーは、マルケヴィチが世に出るきっかけを与えてくれてもいました。
 祖父、A.N.マルケヴィチ[1830-1907]は、弁護士として活動し、その後、サンクトペテルブルク地方裁判所の所長を務め、慈善家としても知られていました。彼は優れたチェリストでもあり、チャリティコンサートなどでも演奏。
 曾祖父、N.A.マルケヴィチ[1804-1860]は、ウクライナの歴史家・民族学者で、5巻から成る大部な著作「小ロシア(ウクライナ)の歴史」で有名。プーシキンやシェフチェンコなど、当時の著名な文化人と親しかった彼は、アマチュア音楽家で、グリンカの友人でもありました。

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 マルケヴィチの母方親族

母ゾーヤ・イヴァノヴナ・マルケヴィチ(旧姓:ポヒトノワ)[1888-1972]は、画家のイワン・ポヒトノフ[1850-1923]と、のちに医学博士となるワルシャワ生まれのフェミニズム活動家マチルダ・コンスタンティノヴナ(旧姓:ヴルフェルト)[1857-1926]の三女として、1888年3月14日にフランス南西部のポーで誕生。
 イワンの父は貴族の称号を授与されたウクライナの大地主で退役軍人、イワンの母は18世紀にウクライナに移住してきたセルビア人の子孫。
 マチルダの父はフィンランド大公国のスウェーデン系軍人で、マチルダの母はロシア帝国の治めるワルシャワに生まれたフィンランド系ポーランド人。
 ゾーヤが生まれた3年後、同棲12年目、結婚9年目にあたる1891年に、イワンは家族と別居、翌1892年に妻の妹エフゲニアと恋仲になり、イワンが1923年に亡くなるまで31年間に渡って暮らしますが、妻マチルダは最後まで離婚に応じませんでした。


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 年表
 1912年(0歳)

●7月27日、イゴール・ボリゾヴィチ・マルケヴィチ誕生。場所はロシア帝国キエフのニコラエフスカヤ通りにあるコンチネンタル・ホテル。キエフで最も豪華なホテルのひとつで、19世紀末の建設。その後、マルケヴィチの伯父が所有していたものの、1941年にソ連の鉱山労働者らによって破壊。1955年には再建され、コンサート・ホールも併設して、キエフ音楽院へと姿を変えています。


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 1913年(0〜1歳)

●マルケヴィチ家、キエフに居住。
◆キエフでバスの運行が開始。
●11月、キエフ音楽院創設。
●のちにマルケヴィチの義父となるニジンスキー[1890-1950]、バレエ・リュスの南米公演に向かう船内で、一座のダンサーであったロモラ・デ・プルスキー[1891-1978]と親しくなり、ツアー中のブエノスアイレスで結婚。ニジンスキーはロシア語とポーランド語の話者、オーストリア=ハンガリー帝国の裕福な貴族の娘であるロモラはハンガリー語、ドイツ語、フランス語、英語の話者ということで、当初は意思の疎通に問題がありましたが、翌年からロモラがロシア語を本格的に勉強することで解決。なお、船旅が苦手でツアーに同行しなかったディアギレフは恋人ニジンスキーを許さず、2人とも解雇しています(ニジンスキーはのちに復職)。

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 1914年(1〜2歳)

●マルケヴィチ家、キエフに居住。
●マルケヴィチ家、パリのラ・フォンテーヌ通り19番地に転居。父ボリスの健康面への配慮と、ピアニストとしての活動に専念することが目的。ボリスの所有していたウクライナの広大な地所は兄のニコライに譲渡し、毎月送金を受ける生活に切り替えます。
◆7月、第1次大戦勃発。
◆7月、ロシア帝国、総動員令。
◆8月、フランス、総動員令。
◆8月、スイス連邦政府、中立を宣言。

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 1915年(2〜3歳)

●マルケヴィチ家、パリに居住。
●冬、マルケヴィチ家、スイスのローザンヌに転居。父ボリスの結核が悪化したことによる転地療養が目的。

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 1916年(3〜4歳)

●マルケヴィチ家、ローザンヌに居住。
◆スイス連邦参事会、ドイツ、オーストリア=ハンガリー、フランス、イギリス、ベルギーの戦傷病者受け入れを開始。終戦までに約6万8000人を受け入れて治療しています。
◆2月、レーニンがほかのロシア人革命家らと共にチューリヒに転居。翌1917年4月まで滞在し、宣伝活動も実施。
●5月、マルケヴィチの妹、ニーナ、ローザンヌで誕生。
●マルケヴィチ家、父ボリスの結核の療養のため、ヴォー州シャモセール山岳地帯中腹の標高約1,260メートルに位置するレザンの療養所の山小屋に滞在。1914年には近くのシャトー=デーでストラヴィンスキーの妻、エカテリーナが同じく結核の療養をしていました。
●マルケヴィチ家、ボリスの健康状態が改善したため、レマン湖畔、ヴヴェイの隣のラ・トゥール=ド=ペに転居。かつてロシア人が建てたダーチャ(ロシア式別荘)風の大きな古い住居「ヴィラ・マリア」を借り、修復しながら生活。
 戦争の為、ウクライナの親族からの送金が減少したため、父ボリスはピアノの個人レッスンを始めたほか、周囲の森林から木材を切り出し薪割をして販売、母ゾーヤは、養鶏場を設立する一方、レースの装飾品やボンボンなどをつくって販売し、翻訳も請け負います。
 ときおり来訪するウクライナの親族たちは、彼らのそうした行動を、大地主の一族であるマルケヴィチの家系にふさわしくないと批判しますが、父ボリスと母ゾーヤはそのままヴヴェイの商人らとの取引を継続。
 ちなみに、トゥール=ド=ペには、1913年までフランスの作曲家、アンリ・デュパルクが暮らしており、アンセルメが助手を務めるため隣のヴヴェイから頻繁に訪れてもいました。

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 1917年(4〜5歳)

●マルケヴィチ家、ラ・トゥール=ド=ペに居住。
◆3月、ペトログラードの国際婦人デー女性デモをきっかけとして3月革命(ユリウス暦では2月革命)勃発。ロシア臨時政府樹立。


◆7月、ペトログラードで7月蜂起。50万人のデモがロシア臨時政府により鎮圧。
◆11月、ペトログラードで11月革命(ユリウス暦では10月革命)勃発。レーニンが最高指導者を務めるボリシェヴィキ政権樹立。第1次世界大戦と並行して「ロシア内戦(第1期)」が勃発。
◆11月、ボリシェヴィキ政府により、ウクライナなど、ロシアのすべての土地は人民の所有(=政府所有)とする法が制定。教会の土地・財産も没収。
◆12月、ロシア国内の全銀行の国有化。
●マルケヴィチ家、ロシア帝国の崩壊により、無国籍状態に。

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 1918年(5〜6歳)

●マルケヴィチ家、ラ・トゥール=ド=ペに居住。
◆7月、スイスに超強力インフルエンザ(スペイン風邪とも)が到達。3月にアメリカで大流行が始まってから4か月が経過し、フランスに到着したアメリカ兵からフランス兵に感染、そしてフランス・ドイツ戦線と接するスイス北西部国境に配属されたスイス兵や外国人兵の4〜8割にも感染。
 軍は対応策として、訓練施設などを閉鎖、多くの将兵を自宅に帰還させてしまったため、被害が一気に全国に拡大。
 8月中旬に第1波はいったん収束するものの、9月に再び感染が拡大し(第2波)、10月にピークを迎え、11月末に収束、翌12月中旬に始まった第3波が翌年3月に収束するまでの8か月ほどで、スイスの総人口約380万人のうちの半数以上が感染し、2万5千人以上が死亡。スイス赤十字が派遣し献身的に治療にあたった看護士(看護婦)たちの1割近くが命を落としています。


◆9月、超強力インフルエンザ第1波収束。
◆10月、超強力インフルエンザ第2波感染爆発。
◆11月、ドイツ、オーストリア降伏、連合国との休戦協定を締結。第1次大戦が事実上終結。
◆11月、11日から14日までの4日間、全国で約25万人の労働者がゼネストに参加。ほどなく、治安部隊が動員されて、ゼネスト終了。
◆11月末、超強力インフルエンザ第2波収束。
●11月30日、スイス・ロマンド管弦楽団。最初のコンサートをジュネーヴのヴィクトリア・ホールで開催。指揮は創設者のエルネスト・アンセルメ。

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 1919年(6〜7歳)

●マルケヴィチ家、ラ・トゥール=ド=ペに居住。
◆1月、超強力インフルエンザ第3波感染拡大。
◆3月末、超強力インフルエンザ第3波ほぼ収束。

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 1920年(7〜8歳)

●マルケヴィチ家、ラ・トゥール=ド=ペに居住。
●マルケヴィチ、父ボリスからチェスを指導され、ほどなく、庭仕事の時などに駒の位置を見ないでプレイすることを要求されるようになります。
◆5月、スイス連邦、国民投票の末、国際連盟加盟を決定。
◆11月、国際連盟第1回総会がジュネーヴで開催。

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 1921年(8〜9歳)

●マルケヴィチ家、ラ・トゥール=ド=ペに居住。
●1月、マルケヴィチ、クララ・ハスキル[1895-1960]がアンセルメ指揮スイス・ロマンド管弦楽団と共演したスイス国内ツアーの演奏会でシューマンのピアノ協奏曲を鑑賞。ハスキルとは後に親しくなり数多く共演しています。


●マルケヴィチ、父ボリスとその弟子のパストゥール夫人からピアノのレッスンを受けるようになります。
●12月15日、レーニンの布告により、ソ連国外在住のロシア人約80万人の国籍が剥奪。マルケヴィチ家も対象でした。

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 1922年(9〜10歳)

●マルケヴィチ家、ラ・トゥール=ド=ペに居住。
◆ローザンヌ放送、開業。
◆7月、国際連盟は、加盟国政府に対して、無国籍となったロシア人に身分証明書となる「ナンセン・パスポート」を発行するよう奨励することを決議。マルケヴィチ家も対象でした。

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 1923年(10〜11歳)

●マルケヴィチ家、ラ・トゥール=ド=ペに居住。
●3月、レーニン、3度目の脳卒中発作。廃人同然の状態となり、翌年1月に死去。
●3月16日、マルケヴィチの弟、ディミトリー誕生。のちにチェロ奏者、バロック・チェロ奏者、音楽学者として活動。2002年1月29日に死去。
●3月23日、父ボリス、結核のため、レザンの療養所で死去。
◆5月、ソ連の外交官で文芸評論家のヴァツラフ・ヴォロフスキーが、モーリス・コンラーディにより暗殺(同席していたヴォロフスキーの同僚2人も負傷)。コンラーディはサンクトペテルブルク生まれのスイス人で、ロシア内戦では白軍に参加。家族の多くを赤軍に殺害されたため、ソ連政府関係者から無差別に選んで復讐を実行。すぐに逮捕されますが、ヴォー州裁判所で無罪になったことで、ソ連政府はスイスとの国交を断絶し、1946年まで23年間もその状態が継続。また、当初はソ連国内在住のスイス人が弾圧されますが、民間人については、一般人は往来自由としており、たとえばスイス人指揮者アンセルメは、国交断絶期間中に5度もソ連を訪れており、うち2度は大粛清の時期に当たっていたものの特に問題はありませんでした。
●マルケヴィチ家、家賃を節約するため、当時人口約3千人のラ・トゥール=ド=ペから、隣のヴヴェイ(人口約1万3千人)に転居。町なかの質素なアパートで新たな生活を開始。マルケヴィチは体が弱く、小学校には通っていなかったため、日中はピアノの練習、夜はロシア文学を原書で読むということが多かったようです。ちなみにラ・トゥール=ド=ペの反対側のとなりはクララン、そのとなりはモントルーとなっています。
●マルケヴィチ、ポール・ロヨネ[1889-1988]にピアノを師事。ロヨネは、ドビュッシーやフォーレ、イベールらと親しく、ヨーロッパ中で演奏しており、また、ソロだけでなくリュシアン・カペーの共演者としても高名だった人物。レッスンはヴヴェイから17kmほど離れたローザンヌでおこなわれたため、父の弟子だった家庭教師のパストゥール夫人が、その都度マルケヴィチに同行していました。


●マルケヴィチ、ヴヴェイ中学校に入学。マルケヴィチは、ラテン語とフランス語の教師で、ヴァイオリンも弾くエマヌエル・ブエンゾ[1893-1971]と親しくなり、ときおりブエンゾ宅を訪れて蓄音機でベートーヴェンの弦楽四重奏曲などを鑑賞。ブエンゾはのちに作家、文芸評論家、音楽学者としても知られるようになる人物で著書も多数。
●12月23日、母ゾーヤの父(マルケヴィチの祖父)で、画家のイワン・ポヒトノフ[1850-1923]、ベルギーのブリュッセルで死去。リエージュ近郊のブレスーの墓地に埋葬。

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 1924年(11〜12歳)

●マルケヴィチ家、ヴヴェイに居住。
●マルケヴィチ、ヴヴェイ中学校に在学。
●マルケヴィチ、エミール・ロベール・ブランシェ[1877-1943]にピアノを師事。若い頃にベルリンのブゾーニのもとで働きながらピアニストとして演奏会も開いていたブランシェは、1904年に故郷のローザンヌに戻ってローザンヌ音楽院の教授となり、1917年まで教えていますが、その間、1905年から1908年までの3年間は院長も務めたという人物。その後、ブランシェは、スイスの4千メートル超えの山すべてを登頂して登山家としての名声を高めたほか、本を書いたり、個人的なピアノのレッスンもおこなっていました。


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 1925年(12〜13歳)

●マルケヴィチ家、ヴヴェイに居住。
●マルケヴィチ、ヴヴェイ中学校に在学。
●マルケヴィチ、母ゾーヤの友人の結婚式のためにピアノ組曲「結婚」を10日間で作曲。
●師ブランシェ、マルケヴィチのピアノ組曲「結婚」に感銘を受け、ローザンヌを訪れていた知人のアルフレッド・コルトー[1877-1962]に紹介。マルケヴィチは、コルトーの前で「結婚」を演奏。コルトーはマルケヴィチの作曲能力に注目し、さっそく母ゾーヤに電話して、自分の学校で教育をすること、学費は働き始めてから返済すればよいという特別なローンを適用するので心配ないことを伝え、マルケヴィチがエコール・ノルマル音楽院で学ぶことへの同意を取りつけています。また、組曲「結婚」を、親しい出版社であるエディション・モーリス・セナールに推薦。ちなみに、コルトーは、父ボリス・マルケヴィチの著したピアノ教則本を高く評価し、自身の著書にもその考えを取り込むなどしていました。


●マルケヴィチの祖父で画家のイワン・ポヒトノフ[1850-1923]の最初の大規模な回顧展が、ベルギーのリエージュで開催。約100点が展示されています。

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 1926年(13〜14歳)

●マルケヴィチ家、ヴヴェイに居住。
●マルケヴィチ家、スイス国籍を取得。
●マルケヴィチ、ヴヴェイ中学校に在学。
◆フランス政府、フラン下落に歯止めをかける名目で関税引き上げを開始し、1926年中に全品目について関税を30%引き上げ。ちなみにフランの購買力は、たび重なる切り下げで1922年から1926年にかけて57%下落していました。1915年から1920年までの戦中戦後の下落率が30%だったことを考えるとすごいペースです。
●6月27日、母ゾーヤの母(マルケヴィチの祖母)、マチルデ・コンスタンティノヴナ・ポヒトノワ[1857-1926]、パリで死去。スウェーデン系フィンランド人軍人とポーランド人のあいだに誕生した医学博士、フェミニズム活動家でした。
●秋、マルケヴィチ家、パリのバティニョール広場に面したアパートに転居。
●秋、マルケヴィチ、パリのエコール・ノルマル音楽院に入学。作曲と和声、対位法をナディア・ブーランジェ[1887-1979]に、ピアノをコルトーの教室で学びます(実際の指導のほとんどは助手のカストラー夫人)。ピアノはついでで、作曲がメインという内容で、ブーランジェによるシュッツやバッハ作品の解体と分析、そして再構築という授業に感銘を受けます。ヴァージル・トムスン[1896-1989]も在籍していた作曲科クラスの生徒数は20人ほどですが、半ズボンを履いた子供はマルケヴィチだけでした。ブーランジェはのちにマルケヴィチの息子オレグの名付け親になるなど、長く親しく交流。また、彼女の晩年の回想では、サタンのような指導をおこなわなかった唯一の存在がマルケヴィチだったのだとか。


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 1927年(14〜15歳)

●マルケヴィチ家、パリに居住。
●マルケヴィチ作曲、ピアノ組曲「結婚」、セナールより出版。

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 1928年(15〜16歳)

●マルケヴィチ家、パリに居住。
●マルケヴィチ、パリのエコール・ノルマル音楽院を卒業。
●マルケヴィチ家、ヴヴェイに転居。
◆6月、レイモン・ポアンカレ首相兼財務大臣が、フランを約5分の1(!)に切り下げ。国内債務の大幅な削減と輸出条件の向上による経済再建策。
●8月、マルケヴィチ、バレエ・リュスの関係者で、ディアギレフの秘書を名乗るアレクサンドリーナ・トゥルセヴィチの知己を得、彼女の為にピアノで自作を演奏。アレクサンドリーナは、マルケヴィチに対し、ディアギレフのために曲を欠くことを提案します。
●11月、マルケヴィチ、「シンフォニエッタ」の作曲を開始。翌年2月に完成。
●12月、マルケヴィチ、アレクサンドリーナから招待されて、バレエ・リュスのオペラ座公演を鑑賞。終演後、アレクサンドリーナの紹介でディアギレフに会います。

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 1929年(16〜17歳)

●マルケヴィチ家、ヴヴェイに居住。
●マルケヴィチ、母ゾーヤの反ユダヤ主義発言に衝撃を受けます。
●マルケヴィチ、「シンフォニエッタ」完成。20分ほどの管弦楽曲。作曲開始は前年11月。
●マルケヴィチ、「シンフォニエッタ」を聴いて感銘を受けたディアギレフからピアノ協奏曲の作曲を委嘱されます。
●7月、マルケヴィチ、ロンドンで自作のピアノ協奏曲を初演。22分ほどの曲。指揮はロジェ・デゾルミエール。マルケヴィチは16歳と11カ月でした。
●7〜8月、マルケヴィチ、ディアギレフと旅行。
●8月19日、ディアギレフ、糖尿病によりヴェネツィアで死去。
●バレエ・リュス解散。予定されていた新作バレエ「王様の衣装(裸の王様)」の話も立ち消え。フーガとコントラストを成す偶然性のアイデアも盛り込んだコンセプトはディアギレフも気に入り、マルケヴィチは作曲を進めていましたが、上演見込みが無くなったため、一部の素材を「カンタータ」に使用することにします。なお、偶然性の音楽がジョン・ケージによって書かれるのは1950年代なかばのことだったので、マルケヴィチ少年の発想は、四半世紀も先行していたことになります。

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 1930年(17〜18歳)

●マルケヴィチ家、ヴヴェイに居住。
●マルケヴィチ、合奏協奏曲を作曲。18分ほどの管弦楽曲。
●6月、マルケヴィチ作曲「カンタータ」初演。テキストはジャン・コクトー、指揮はロジェ・デゾルミエール。26分ほどの声楽曲。
●7月上旬、17歳のマルケヴィチ、ルイス・ブニュエル[1900-1983]監督の映画「黄金時代」の「知識人向け試写」に招待されます。「黄金時代」は、シャルル・ノアイユ子爵が100万フランを出資したシュルレアリスム映画で、11月末の一般公開以降は賛否両論。数十人の極右活動家が館内で暴れ、悪臭を放つ煙玉をスクリーンに向けて投げ込んだり、観客を追い払ったりしたほか、ロビーに展示されていたダリやエルンスト、ミロ、タンギー、マン・レイらの作品も切り裂くなどしたため、警察により、上映用フィルムが押収されています。
●母ゾーヤ、シュルレアリスト画家のパヴェル・チェリチェフ[1898-1957]によって肖像画を描かれます。チェリチェフはバレエ・リュスでも仕事をしており、マルケヴィチの知人でもありました。マルケヴィチと目鼻立ちが良く似たゾーヤの顔が個性的な美しさで描かれています。
◆「世界大恐慌」の影響が顕在化。金本位制のアメリカとフランスでの失策や、関税施策、金利施策の失敗が原因ともいわれる「世界大恐慌」には、1930年時点でのアメリカの金準備の世界シェア約38%、フランスの約20%という、2国だけで世界の6割近いシェアのもたらした国際的な資金の極端な移動も背景にありました。といっても、その5年前の1925年時点ではアメリカの金準備シェアは約44%で、5年間で6%減少という流れなのに対し、フランスは1925年には約8%だったので、実に2.5倍に膨らんでいたことになります。これによりパリではいくつもの銀行が倒産し、投資家や資産家たち、さまざまな産業も影響を受けるようになります。

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 1931年(18〜19歳)

●マルケヴィチ家、ヴヴェイに居住。
●マルケヴィチ、「レビュス」を作曲。26分ほどの管弦楽曲。
●マルケヴィチ、「パルティータ」を作曲。18分ほどの管弦楽曲。
●12月、マルケヴィチの参加する現代音楽を中心としたコンサート・シリーズ「セレナーデ」の最初の演奏会がパリのサル・プレイエルで開催。「セレナーデ」は、1921年にカーサ・フエルテ侯爵と結婚したヴァイオリニストのイヴォンヌ・ジロー[1895-1984]により、ノアイユ子爵夫妻とポリニャック公爵夫妻らの支援を得て設立したシリーズ。マルケヴィチのほか、オーリック、デゾルミエール、ミヨー、ナボコフ、プーランク、リエティ、ソーゲなども委員として参加。

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 1932年(19〜20歳)

●マルケヴィチ家、ヴヴェイに居住。
●マルケヴィチ、「シネマ=序曲」を作曲。8分ほどの管弦楽曲。
●マルケヴィチ、「イカロスの飛行」を作曲。26分ほどの管弦楽曲。
●マルケヴィチ、「ギャロップ」を作曲。初演は南仏イエールのノアイユ子爵夫妻邸で実施。

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 1933年(20〜21歳)

●マルケヴィチ家、ヴヴェイに居住。
●マルケヴィチ、「詩篇」を作曲。24分ほどの声楽曲。
●マルケヴィチ、「讃歌」を作曲。30分ほどの声楽曲。
●2月、マルケヴィチ、メンゲルベルクからコンセルトヘボウ管弦楽団で「レビュス」を指揮するよう依頼され、モントゥーから指揮の手ほどきを受けています。
●3月2、4、5日、マルケヴィチ、コンセルトヘボウ管弦楽団。自作「レビュス」で指揮者デビュー。首席指揮者ピエール・モントゥー[1875-1964]指揮する定期公演への特別参加。モントゥーがボロディン交響曲第2番、シューベルト(カサド):チェロ協奏曲(アルペジョーネ・ソナタ)、ロッシーニ「アルジェのイタリア女」序曲を指揮。
●3月、マルケヴィチ、友人のキーラ・ニジンスキーに言われて、ニジンスキーが入院中の病院を訪ねるものの、ニジンスキーの妻ロモラが誰とも会えないようにしていたため、2度訪問するものの無駄足となっています。
●8月、マリー=ロール・ドゥ・ノアイユ、レマン湖畔に到着。マルケヴィチと山荘に滞在。
●11月30日、12月3日、マルケヴィチ、コンセルトヘボウ管弦楽団。自作「詩篇」を指揮。エドゥアルト・ファン・ベイヌム[1900-1959]指揮する定期公演への特別参加。ベイヌムがモーツァルト交響曲第33番、リュリ作品集、オネゲル「夏の牧歌」を指揮、ヘルマン・ヨハネス・デン・ヘルトフ[1872-1952]が自作「ファウスト」を指揮。マルケヴィチが最後。

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 1934年(21〜22歳)

●マルケヴィチ家、ラ・トゥール=ド=ペに居住。
●マルケヴィチ、ときおり、指揮をヘルマン・シェルヘンに師事(1936年まで)。シェルヘンはマルケヴィチの作品を高く評価していました。
●4月、マルケヴィチ、フィレンツェで開催された国際現代音楽協会フェスティヴァルで自作を指揮。
●マルケヴィチ、著書「Rimsky-Korsakov」をフランスで出版。

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 1935年(22〜23歳)

●マルケヴィチ家、ラ・トゥール=ド=ペに居住。
●マルケヴィチ、「失楽園」作曲。ミルトンの詩に基づく独唱・合唱・管弦楽のための作品。着手は前年。
●12月、マルケヴィチ、BBC交響楽団。クイーンズ・ホール。シェルヘンの代役として自作の「失楽園」を指揮。

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 1936年(23〜24歳)

●マルケヴィチ、「死者への讃歌」を作曲。
●マルケヴィチ、「愛の歌」を作曲。
◆2月、仏ソ相互援助条約を締結。ヒトラーはロカルノ条約違反と批判し、自衛のためという理由で、翌月、国境沿いの非武装地帯に軍を進めます。
◆3月、ドイツ、ラインラントへ進駐。
●4月、マルケヴィチ、ニジンスキーの娘、キーラ[1913-1998]と結婚。ブダペストのマーチャーシュ聖堂(聖母マリア聖堂)で挙式。マルケヴィチとキーラは長く同棲していましたが、高名な女優でハンガリー貴族の祖母エミーリア・マールクシュ[1860-1949]から結婚するように強く要請されて実施。母ロモラやエルンスト・フォン・ドホナーニ、タマーラ・カルサヴィナも式に出席。


●マルケヴィチ夫妻、スイスのコルシエに転居。コルシエは、ジュネーヴ近くでフランス国境に隣接したレマン湖畔の小さな町。
◆9月、フランス政府、フランを約28%切り下げ。金兌換停止、および金(ゴールド)の輸出も停止。

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 1937年(24〜25歳)

●マルケヴィチ夫妻、コルシエに居住。
●マルケヴィチ、「新しい時代」を作曲。30分ほどの管弦楽曲。
●マルケヴィチ、「ある男の彫刻」を作曲。55分ほどの管弦楽曲。
●2月20日、息子ヴァーツラフ誕生。妻キーラの父ヴァーツラフ・ニジンスキーと同じ名前。


●9月、マルケヴィチ、ヴェネツィア・ビエンナーレで「イカロスの飛翔」を指揮。客席にいたストラヴィンスキーが絶賛します。ちなみにそれまでストラヴィンスキーは、マルケヴィチがマスコミで第2のイゴールと呼ばれるのを快く思っていませんでした。
●10月、妻キーラの妹タマーラ・ニジンスキーほか、妻の親族がマルケヴィチ家に来訪。

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 1938年(25〜26歳)

●マルケヴィチ夫妻、コルシエに居住。
●マルケヴィチ、「新しい時代」作曲。30分ほどの管弦楽曲。
●アンセルメ、マルケヴィチの「新しい時代」をロンドン・フェスティヴァルで初演。
●6月、マルケヴィチ、ソプラノと12の楽器のための「音楽の往来」の作曲を開始。2部構成の予定でしたが、翌1939年にかけて第1部のみ作曲。ストラヴィンスキーの「兵士の物語」で知られるスイスの作家シャルル=フェルディナン・ラミュ[1878-1947]のテキストを使用。ラミュはアンセルメの親友でもありました。1982年に「人間の大きさ」として初演。52分ほどの作品。

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 1939年(26〜27歳)

●マルケヴィチ、妻キーラと離婚。2歳の息子ヴァーツラフの親権はマルケヴィチが得ますが、養育はロンドンの知人の家族に任せています。ヴァーツラフはのちに画家になります。
●1月、マルケヴィチ、アンセルメからの招待で、スイス・ロマンド管弦楽団で「新しい時代」を指揮。
●2月23日、マルケヴィチ、コンセルトヘボウ管弦楽団。定期公演で指揮。R=コルサコフ「5月の夜」序曲、自作「新しい時代」、ムソルグスキー(ラヴェル)「展覧会の絵」ほかを指揮。
◆9月3日、フランスがドイツに対して宣戦布告。大規模な徴兵も実施。
●9〜12月、マルケヴィチ、「人間の尺度」の作曲を半分までおこないます。

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 1940年(27〜28歳)

●マルケヴィチ、「詩人ステファン」を作曲。15分ほどのピアノ曲。前年に着手していた作品。
●マルケヴィチ、スイスの居住法の規定によりスイス国籍を喪失。ソ連からも1921年に国籍を剥奪されていたので無国籍状態となり、難民用のナンセン・パスポートを使用するようになります。
●マルケヴィチ、フィレンツェのアパートに転居。
●春、マルケヴィチ、「偉大なるロレンツォ」作曲。メディチ家全盛期の当主で詩人のロレンツォ・デ・メディチ[1449-1492]の詩文によるソプラノとオーケストラのためのシンフォニア・コンチェルタンテ。
◆6月、ムッソリーニ、フランス、イギリスに宣戦布告。

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 1941年(28〜29歳)

●1月、マルケヴィチ、フィレンツェ五月音楽祭管弦楽団。フィレンツェ市立劇場。「偉大なるロレンツォ」初演。ソプラノ独唱はマリア・フィオレンツァ。
●マルケヴィチ夫妻、フィレンツェ近郊、標高約240メートルのセッティニャーノに転居。美術史家で評論家、画商のバーナード・ベレンソン[1865-1959]の所有する邸宅の別棟「ヴィリノ(ヴィルニュスのイタリア語)」に居住。ベレンソンはリトアニアのヴィルニュス生まれのユダヤ人で、10歳でボストンに家族で移民し、その後、ベルンハルド・ヴァルヴロイェンスキから改名。マルケヴィチは、母方の祖父が画家イワン・ポヒトノフ[1850-1923]ということもあって美術にも詳しく、また、ベレンソンは大の音楽愛好家でもありました。なお、この邸宅では10年前の1931年に若きラルフ・カークパトリック[1911-1984]がチェンバロ・リサイタルを開いてもいました。ちなみにカークパトリックは、後年、ベレンソンの影響で美術品のコレクターになり、亡くなった際にはイェ―ル大学にそれらを寄贈してもいました。


●10月、マルケヴィチ、「ヘンデルの主題による変奏曲とフーガ、アンヴォワ」を作曲。20分ほどのピアノ曲。

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 1942年(29〜30歳)

●4月、マルケヴィチ、重病を患い、フィレンツェ近郊、標高約300メートルのフィエーゾレで療養。

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 1943年(30〜31歳)

●マルケヴィチ、フィレンツェ在住。
●マルケヴィチ、健康を回復し、指揮活動を再開。
●マルケヴィチ、「イカロスの飛行」を大幅に改訂。四分音を排除するなど、演奏しやすいようオーケストレーションを簡易化。タイトルもシンプルに「イカロス」と変更。
●3月、マルケヴィチ、フィレンツェ五月音楽祭管弦楽団。客演。「ウィリアム・テル」序曲、「詩篇交響曲」、「幻想交響曲」。


◆9月25日、連合国軍によりフィレンツェ爆撃。イギリス空軍のウェリントン爆撃機が日中に36機飛来し、主に住宅地を爆撃して215人の一般市民を殺害。以後、翌年8月まで爆撃が繰り返されます。
●10月、マルケヴィチ、パルチザン活動の為、指揮活動を停止。
●10月、マルケヴィチ、トスカーナ国家解放委員会のメンバーとなり、フィレンツェ北部、アペニン山脈でパルチザン活動に参加。
●11月、トスカーナ国家解放委員会の多くのメンバーがマリオ・カリタ少佐率いるフィレンツェの「RSS(特別支援部門)」の部隊により逮捕。マルケヴィチや、パルチザン闘士アレッサンドロ・シニガリア[1902-1944]は難を逃れます。
●冬、マルケヴィチ、アレッサンドロ・シニガリアを自宅に匿います。シニガリアはユダヤ系黒人の共産主義活動家で、パルチザンの重要人物でした。

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 1944年(31〜32歳)

●2月、アレッサンドロ・シニガリア、カリタ少佐率いるRSSの部隊により殺害。
●マルケヴィチ、フィレンツェ五月音楽祭管弦楽団。音楽監督就任。当初はフィレンツェ市立劇場管弦楽団がフィレンツェ五月音楽祭に参加するときの名称でしたが、ほどなく年間を通じてその名を用いるようになります。なお、春から夏にかけて開催されるオペラ・フェスティヴァル「フィレンツェ五月音楽祭」の方は、当時マリオ・ロッシ[1902-1992]が音楽監督を務めていました。


●5月1日、フィレンツェ・テアトロ・コムナーレ(市立劇場)、連合軍の爆撃により破壊。
◆8〜9月、フィレンツェの戦い。共産主義者で構成されたパルチザン部隊「ガリバルディ旅団」と連合軍が、ドイツ軍及びドイツ側についたイタリア人と戦闘。9月1日にフィレンツェを解放。
●マルケヴィチ、J.シュトラウスの主題による「美しく青きドナウ」作曲。
●マルケヴィチ、重病を患い療養。

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 1945年(32〜33歳)

●マルケヴィチ、重病を患い療養。

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 1946年(33〜34歳)

●マルケヴィチ、フィレンツェ五月音楽祭管弦楽団。音楽監督退任。
●マルケヴィチ、スイス滞在中に「Made in Italy」を執筆。
●8月、マルケヴィチ、著書「Made in Italy」証言 1940-1945(フランス語)をスイスで出版。
●9月、マルケヴィチ、ヴェネツィアでソ連との文化交流協会の主宰する演奏会を指揮。

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 1947年(34〜35歳)

●7月23日、マルケヴィチ、トパツィア・カエターニ[1921-1990]とスイスのヴヴェイで結婚。

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 1948年(35〜36歳)

●マルケヴィチ、トパツィア・カエターニ[1921-1990]と結婚。トパツィアはイタリア貴族の一人娘。教皇ボニファティウス8世が先祖という家系。
●マルケヴィチ、イタリア国籍を取得。
●マルケヴィチ夫妻、スイスのローザンヌに転居。

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 1949年(36〜37歳)

●2月、マルケヴィチ、コンセルトヘボウ管弦楽団。定期公演で指揮。シューベルト:交響曲第4番、バルトーク:ピアノ協奏曲第3番(パウル・バウムガルトナー)、ムソルグスキー(ラヴェル)「展覧会の絵」を指揮。
●マルケヴィチ、バッハ「音楽の捧げもの」の編曲に着手。

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 1950年(37〜38歳)

●マルケヴィチ、バッハ「音楽の捧げもの」の編曲を完成。
●4月8日、元義父のニジンスキー、ロンドンで死去。
●マルケヴィチ、ストラスブール・バッハ・フェスティヴァルに出演。バッハ「音楽の捧げもの」の編曲を指揮。3群の合奏と1つの四重奏のための編曲。
●マルケヴィチ、ザルツブルク・モーツァルテウムの指揮講座で指導。フルトヴェングラーの解釈講座が中止になり、そのチケット購入者を対象に、代わりにおこなわれたものでした。フルトヴェングラーが「解釈」を教える講座ということで休暇をとり、出席していたサヴァリッシュは、すでにアウクスブルク市立歌劇場の第1指揮者を務めていたプロの指揮者でもあったため、「解釈」の講習が、「指揮法」の講習になってしまったことが不満で、個別指導にも素直に従わなかったりしたため、マルケヴィチは、サヴァリッシュを助手として起用することで問題を解決しています。
●マルケヴィチの娘、アレグラ誕生。

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 1951年(38〜39歳)

●3〜4月、マルケヴィチ、ウィーン国立歌劇場。プロコフィエフ「3つのオレンジへの恋」。


●マルケヴィチ、ザルツブルク・モーツァルテウムの指揮講座で指導。前年に続き、サヴァリッシュを助手として起用。
●マルケヴィチの娘、ナターリア誕生。

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 1952年(39〜40歳)

●マルケヴィチ、ザルツブルク・モーツァルテウムの指揮講座で指導。
●4月、マルケヴィチ、ウィーン・フィル。ムジークフェライン。放送演奏会。フランク:交響的変奏曲、「春の祭典」


●8月、マルケヴィチ、ウィーン・フィル。ザルツブルク音楽祭。シューベルト交響曲第3番、「春の祭典」、他


●マルケヴィチ、ストックホルム・フィル。首席指揮者就任。


●マルケヴィチ夫妻、ロンドンに転居。

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 1953年(40〜41歳)

●8月、マルケヴィチ、ルツェルン音楽祭に出演し、スイス祝祭管弦楽団を指揮。ミルシテインと共演。


●8月、マルケヴィチ、ザルツブルク・モーツァルテウムの指揮講座で指導。
●8月、マルケヴィチ、ウィーン・フィル。ザルツブルク音楽祭。「古典交響曲」、「魔法使いの弟子」、「パーセルの主題による変奏曲とフーガ」、チャイコフスキー交響曲第4番


●マルケヴィチ、ストックホルム・フィル。首席指揮者在任。


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 1954年(41〜42歳)

●マルケヴィチ、ザルツブルク・モーツァルテウムの指揮講座で指導。
●マルケヴィチ、ストックホルム・フィル。首席指揮者在任。


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 1955年(42〜43歳)

●1月、マルケヴィチ、フランス国立放送管弦楽団。客演。ベートーヴェン交響曲第8番、サティ「パラード」、ショスタコーヴィチ交響曲第1番、ヴェルディ「運命の力」序曲
●3月、マルケヴィチ、ボストン交響楽団。客演。アメリカ・デビュー。


●マルケヴィチ、ストックホルム・フィル。首席指揮者退任。


●6月、マルケヴィチ、フランス国立放送管弦楽団。客演。シューベルト交響曲第4番、モーツァルト「ジュノーム」(ハスキル)、オネゲル交響曲第5番、ワーグナー「タンホイザー」序曲
●マルケヴィチ、ザルツブルク・モーツァルテウムの指揮講座で指導。
●8月、マルケヴィチ、バイロイト音楽祭「タンホイザー」をキャンセル。代役はクリュイタンス。

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 1956年(43〜44歳)

●マルケヴィチ、ザルツブルク・モーツァルテウムの指揮講座で指導。
●マルケヴィチ、モントリオール交響楽団。音楽監督就任。
●夏、マルケヴィチ、シカゴ響。ラヴィニア音楽祭。パヴィリオン(約3,400席)。


●マルケヴィチの息子、オレグ誕生。

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 1957年(44〜45歳)

●マルケヴィチ、モントリオール交響楽団。音楽監督在任。
●2月、マルケヴィチ、ボストン響。客演。


●マルケヴィチ、サンフランシスコ響。客演。
●6月、マルケヴィチ、ニューヨーク・フィル。客演。チャイコフスキー「くるみ割り人形」組曲、ピアノ協奏曲第1番(ブライロフスキー)、交響曲第4番、ロッシーニ「ウィリアム・テル」序曲、ファリャ「三角帽子」から、他
●夏、マルケヴィチ、シカゴ響。ラヴィニア音楽祭。


●マルケヴィチ、コンセール・ラムルー管弦楽団。首席指揮者就任。
●マルケヴィチ、ハヴァナ・フィル。常任指揮者就任。
●マルケヴィチ、メキシコ・シティ音楽院の指揮クラスで指導。

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 1958年(45〜46歳)

●マルケヴィチ、モントリオール交響楽団。音楽監督在任。
●マルケヴィチ、コンセール・ラムルー管弦楽団。首席指揮者在任。
●マルケヴィチ、ハヴァナ・フィル。常任指揮者退任。
●4月、バーンスタインがニューヨーク・フィル演奏会で、マルケヴィチの「イカロス」(改訂した方)を指揮。
●夏、マルケヴィチ、シカゴ響。ラヴィニア音楽祭。


●マルケヴィチ、メキシコ・シティ音楽院の指揮クラスで指導。
●9月、マルケヴィチ、フランス国立放送管弦楽団。モントルー音楽祭。ウェーバー「魔弾の射手」序曲、ブラームス:P協第1番(アラウ)、チャイコフスキー「悲愴」、ファリャ「三角帽子」から

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 1959年(46〜47歳)

●マルケヴィチ、モントリオール交響楽団。音楽監督在任。
●マルケヴィチ、コンセール・ラムルー管弦楽団。首席指揮者在任。
●マルケヴィチに関する著作「音符」がフランスで出版。音楽学者クロード・ロスタンによるインタビュー集。
◆2月、キューバ革命によりフィデル・カストロが首相に就任。
●5月、マルケヴィチ、フランス国立放送管弦楽団。客演。ヴェルディ「レクイエム」

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 1960年(47〜48歳)

●マルケヴィチ、モントリオール交響楽団。音楽監督退任。
●マルケヴィチ、コンセール・ラムルー管弦楽団。首席指揮者在任。
●マルケヴィチの息子、ティムール誕生。1962年に死去。
◆キューバ政府、ソ連と国交を樹立。
◆キューバ政府、国内のアメリカ企業を接収して国有化。
●9月、マルケヴィチ、日本フィルハーモニー交響楽団。客演。
●11月、マルケヴィチ、ソ連客演ツアー。


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 1961年(48〜49歳)

●マルケヴィチ、コンセール・ラムルー管弦楽団。首席指揮者辞任。
◆1月、アメリカ政府、キューバとの国交を断絶。
◆4月、アメリカ政府(CIA)が亡命キューバ人部隊を組織、プラヤ・ヒロン湾に軍事侵攻するもののキューバ軍により4日で制圧(第1次キューバ危機)。
●マルケヴィチ、ソ連客演ツアー。


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 1962年(49〜50歳)

●マルケヴィチ、聴覚障害に悩まされるようになります。
◆10月、第2次キューバ危機。

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 1963年(50〜51歳)

●5月、マルケヴィチ、ソ連客演ツアー。
●マルケヴィチ、モスクワ音楽院の指揮クラスで4か月間に渡って指導。


●マルケヴィチ、母方の曾祖父で画家のイワン・ポヒトノフの作品約240点を集めた大規模な回顧展をモスクワのトレチャコフ美術館で開催。大きな成功を収めます。


●10月11日、ジャン・コクトー、パリ近郊のミリ=ラ=フォレで死去。

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 1964年(51〜52歳)

●マルケヴィチ、ソ連客演ツアー。


●9月、マルケヴィチ、コンセルトヘボウ管弦楽団。ブリテン「青少年のための管弦楽入門」、フランク:交響的変奏曲(テオ・ブルインス)、ベルリオース「幻想交響曲」を指揮。

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 1965年(52〜53歳)

●2月、スペイン放送交響楽団設立。楽員平均年齢28歳。作曲家で指揮者のホセ・マリア・フランコ・ボルドンス[1894-1971]と、作曲家のクリストバル・アルフテル[1930- ]らによってトレーニングされます。1973年にラジオとテレビが統合してRTVEになると、オーケストラの呼称もRTVE交響楽団に変更。
●3〜5月、マルケヴィチ、日本フィルハーモニー交響楽団。客演。
●5月27日、マルケヴィチ、スペイン放送交響楽団。初代音楽監督に就任。マドリードのサルスエラ劇場で開催された最初の演奏会(プロコフィエフ、ワーグナー、ファリャ、ベートーヴェン)を指揮。放送オーケストラで演奏回数が多かったため、音楽監督は複数体制となり、コンクールで優勝したアントニオ・ロス=マルバ[1937- ]が年内に就任。
●マルケヴィチ、マドリード王立音楽院の指揮クラスで指導。
●6月8日、マルケヴィチ、スペイン放送交響楽団。バルセロナのリセウ大劇場での演奏会(ロッシーニ、ワーグナー、ファリャ、ブラームス)を指揮。

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 1966年(53〜54歳)

●マルケヴィチ、スペイン放送交響楽団。音楽監督在任。共同音楽監督のアントニオ・ロス=マルバが辞任したため、ミトロプーロス国際指揮者コンクール優勝者のエンリケ・ガルシア・アセンシオ[1937- ]に引き継がれます。
●マルケヴィチ、マドリード王立音楽院の指揮クラスで指導。

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 1967年(54〜55歳)

●マルケヴィチ、スペイン放送交響楽団。音楽監督在任。共同音楽監督はエンリケ・ガルシア・アセンシオ。
●マルケヴィチ、モンテカルロ国立歌劇場管弦楽団(現モンテカルロ・フィル)。音楽監督就任。
●7月、マルケヴィチ、フランス国立放送管弦楽団。客演。マーラー第1番、他。
●マルケヴィチ、マドリード王立音楽院の指揮クラスで指導。

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 1968年(55〜56歳)

●マルケヴィチ、スペイン放送交響楽団。音楽監督在任。エンリケ・ガルシア・アセンシオのほか、オドン・アロンソ[1925-2011]も音楽監督に加わります。アロンソはこの年にスペイン放送交響楽団に統合されたマドリード・フィルの首席指揮者でした。
●マルケヴィチ、モンテカルロ国立歌劇場管弦楽団。音楽監督在任。
●2〜3月、マルケヴィチ、日本フィルハーモニー交響楽団。客演。名誉指揮者の称号を授与されます。
●マルケヴィチ、マドリード王立音楽院の指揮クラスで指導。

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 1969年(56〜57歳)

●マルケヴィチ、スペイン放送交響楽団。音楽監督在任。共同音楽監督はエンリケ・ガルシア・アセンシオとオドン・アロンソ。
●マルケヴィチ、モンテカルロ国立歌劇場管弦楽団。音楽監督在任。
●マルケヴィチ、マドリード王立音楽院の指揮クラスで指導。
●マルケヴィチ、モンテカルロ音楽院の指揮クラスで指導。

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 1970年(57〜58歳)

●マルケヴィチ、スペイン放送交響楽団。音楽監督在任。共同音楽監督はエンリケ・ガルシア・アセンシオとオドン・アロンソ。
●マルケヴィチ、モンテカルロ国立歌劇場管弦楽団。音楽監督在任。
●マルケヴィチ、ブリュッセルで自作コンサート。
●5〜6月、マルケヴィチ、日本フィルハーモニー交響楽団。客演。

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 1971年(58〜59歳)

●マルケヴィチ、スペイン放送交響楽団。音楽監督在任。共同音楽監督はエンリケ・ガルシア・アセンシオとオドン・アロンソ。
●マルケヴィチ、モンテカルロ国立歌劇場管弦楽団。音楽監督在任。

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 1972年(59〜60歳)

●母ゾーヤ・イヴァノヴナ・マルケヴィチ[1888-1972]、死去。
●マルケヴィチ、スペイン放送交響楽団。音楽監督退任。共同音楽監督はエンリケ・ガルシア・アセンシオとオドン・アロンソ。
●マルケヴィチ、モンテカルロ国立歌劇場管弦楽団。音楽監督在任。

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 1973年(60〜61歳)

●マルケヴィチ、モンテカルロ国立歌劇場管弦楽団。音楽監督退任。
●マルケヴィチ、ローマ聖チェチリア音楽院管弦楽団。音楽監督就任。

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 1974年(61〜62歳)

●マルケヴィチ、ローマ聖チェチリア音楽院管弦楽団。音楽監督在任。

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 1975年(62〜63歳)

●マルケヴィチ、ローマ聖チェチリア音楽院管弦楽団。音楽監督を健康上の問題で辞任。
●マルケヴィチ、ワイマールのフランツ・リスト音楽院でマスタークラスを開講。ワイマールの千周年記念行事のひとつで、18カ国から50人以上が参加。
●マルケヴィチ、健康上の問題で指揮活動を停止。

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 1976年(63〜64歳)

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 1977年(64〜65歳)

●12月、マルケヴィチ、自伝「Être et avoir été」の執筆を母語のフランス語で開始。初稿は1年半後の1979年5月に完成。

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 1978年(65〜66歳)

●マルケヴィチ、ブリュッセルの王立フィルハーモニック協会の招きにより、ベルギーで「イカロス」と「失楽園」を指揮して成功。
●6月8日、元義母のロモラ・ニジンスキー、パリで死去。マルケヴィチはロモラから遺言執行者に指名されていました。

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 1979年(66〜67歳)

●マルケヴィチ、指揮活動を再開。
●1月、マルケヴィチ、エルサレム放送管弦楽団(現エルサレム交響楽団)。客演。「エグモント」序曲、ベートーヴェン交響曲第8番、第5番。
●5月、マルケヴィチ、自伝「Être et avoir été」の初稿完成。
●7〜8月、マルケヴィチ、タングルウッド音楽祭。出演。
●9月、マルケヴィチ、自伝「Être et avoir été」の最終稿執筆開始。4か月後に完成。

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 1980年(67〜68歳)

●1月、マルケヴィチ、自伝「Être et avoir été」の最終稿校了。
●マルケヴィチ、自伝「Être et avoir été」をフランスで出版。
●マルケヴィチ、自作曲の改訂作業をいくつか実施。
●10〜11月、マルケヴィチ、日本フィルハーモニー交響楽団。客演。

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 1981年(68〜69歳)

●3月、マルケヴィチ、シュターツカペレ・ドレスデン。客演。ボレロ、他

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 1982年(69〜70歳)

●マルケヴィチ、フランス国籍を取得。
●11月、マルケヴィチ、エルサレム放送管弦楽団。客演。同オーケストラの禁止対象からR.シュトラウスの作品を外すよう進言。これはR.シュトラウスが実際にユダヤ人音楽家に協力的だったことなどを説明して委員会を説得したもので、オーケストラはこれを受け入れ、以後、演奏会と放送の両方でR.シュトラウス作品が頻繁に演奏されるようになります。また、ワーグナー作品については、禁止措置は解除されていません。

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 1983年(70〜71歳)

●1月、マルケヴィチ、NHK交響楽団、東京都交響楽団。客演。
●マルケヴィチ、ソ連客演ツアー。生地キエフでの公演が生涯最後の演奏会。


●マルケヴィチの著書「ベートーヴェンの交響曲研究」、ペータース社から出版。
●3月7日、マルケヴィチ、南フランスのアンティーブで、心臓発作により急死。

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 1984年

●3月、マルケヴィチの息子で指揮者のオレグ・カエターニ、スペイン放送交響楽団に客演し、父の作品のコンサートを指揮。コンサートの途中、スペイン放送交響楽団の代表より、フアン・カルロス国王からマルケヴィチに宛てられた「市民功労勲勲章」を受け取ります。


●マルケヴィチの著書「Le testament d'Icare」がフランスで出版。

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商品説明:年表シリーズ

指揮者
アルヘンタ
アンセルメ
オッテルロー
ガウク
カラヤン
クイケン
クーセヴィツキー
クチャル
クナッパーツブッシュ&ウィーン・フィル
クナッパーツブッシュ&ベルリン・フィル
クナッパーツブッシュ&ミュンヘン・フィル
クナッパーツブッシュ&国立歌劇場管
クナッパーツブッシュ&レジェンダリー・オーケストラ
クラウス
クレツキ
クレンペラー
ゴロワノフ
サヴァリッシュ
シューリヒト
スラトキン(父)
ターリヒ
チェリビダッケ
トスカニーニ
ドラゴン
ドラティ
バルビローリ
バーンスタイン
パレー
フェネル
フルトヴェングラー
ベイヌム
マルケヴィチ
メルツェンドルファー
モントゥー
ライトナー
ラインスドルフ
レーグナー
ロスバウト

鍵盤楽器
ヴァレンティ
ヴェデルニコフ
カークパトリック
カサドシュ
グリンベルク
シュナーベル
ソフロニツキー
タマルキナ
タリアフェロ
ティッサン=ヴァランタン
デムス
ナイ
ニコラーエワ
ネイガウス父子
ノヴァエス
ハスキル
フェインベルク
ユージナ
ランドフスカ
ロン

弦楽器
カサド
コーガン
シュタルケル
スポールディング
バルヒェット
フランチェスカッティ
ヤニグロ
リッチ
レビン

室内アンサンブル
グリラー弦楽四重奏団
シェッファー四重奏団
シュナイダー四重奏団
パスカル弦楽四重奏団
パスキエ・トリオ
ハリウッド弦楽四重奏団
バルヒェット四重奏団
ブダペスト弦楽四重奏団
伝説のフランスの弦楽四重奏団
レナー弦楽四重奏団

作曲家
アンダーソン
ベートーヴェン
ヘンツェ
坂本龍一

シリーズ
テスタメント国内盤

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