Blankey Jet City

Blankey Jet City プロフィール

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ブランキー・ジェット・シティ、2000年、解散。このニュースがメディアで発表された日、好き・嫌いにかかわらず、日本中のロック・ファンは一瞬時が止まってしまったのではないか。目が点になった人、耳を疑った人・・・。今や日本にだって数多くのロック・アーティストが存在する。種種雑多なロックが24時間、365日、鳴り続ける中で、圧倒的に個性を放つアーティストとなると限られる。「ブランキー」と聞けばその音楽が誰でも頭の中で鳴るだろう。ブランキーは確実に圧倒的だった。それを否定する人はいないだろう。10年ものキャリアのうちにはいろいろなサウンド的な試みもあったが、「鋭く、時にやわらかに胸に突き刺さるコトバと音」は、一曲の例外もなくブランキーの寡占状態。終始一貫して、唯一無二だった。この偉大なバンドの歴史を振り返る。

2000年の今、ある意味また何度目かのバンド・ブームの最中である。約10年前にもバンド・ブームと呼ばれる時代があった。80年代後半の「ホコ天」バンドの台頭、そしてそれを受けた形で89年に始まった「いかすバンド天国」というテレビ番組から生まれたいわゆる「イカ天」バンドの台頭。たま(こちらも先日解散を宣言)、フライング・キッズジッタリン・ジンBEGINなどなど多くのアマチュア・バンドがこの番組をきっかけにメジャーに飛び出していった。その中にブランキーもいたのである。一発屋として散っていったバンドも(敢えて名前は挙げません)数知れず、深夜にお気楽にバラエティー感覚で眺めていた視聴者にとって、当然、ブランキーの出現は他とは一線を画した緊張感のあるバンドとして強烈に映った。

結成は90年2月。名古屋育ちの3人…浅井健一(Vo.G)、照井利幸(B)、中村達也(Ds)が東京で始めた。ベンジー(浅井)が高校の時ロメオズというパンク・バンドを組み、その後照井と知り合い「やっぱサイコビリーのバンドやりたい!」とスキャッツというサイコビリー・バンドにシフト。ベンジー&照井利幸はここからバンド生活を共にする。上京して、以前一度一緒にライヴをやったこともあった中村達也を口説き?、ブランキー・ジェット・シティーは始動した。都内のライヴハウスで活動しながら、前述の「イカ天」に出場し、第6代目グランドイカ天キングとなる。既にスターリンスタークラブをはじめとして、知る人ぞ知る的な存在になってしまったかも知れないザ・原爆オナニーズ(通称原オナ)マスターベーション(通称マスベ)といったパンク・バンドのキレ者ドラマーとして活躍していた中村達也が「イカ天」に出ている!というのはそれだけでもかなりの衝撃!(だったのは一部のパンク好きだけですか??)

91年、記念すべき1stアルバムRed Guitar And The Truthとシングル不良少年のうたを東芝EMIからリリース。一枚目からなんとプロデューサーはジェレミー・グリーン。ピストルズクラッシュをも手掛けたエンジニアである。勿論レコーディングもロンドンで。アルバムがオリコン初登場8位、というセールス面でもセンセーショナルだったが、その内容も濃かった。この痛さはなんなんだ!とアルバムを聴いても、ライヴを観ても感じた。胸が締め付けられるようで苦しい。青春真っ只中でこのアルバムに出会ってしまった人は、それはもう心中かっ攫われるに決まっている。リリース後に夏までかけて回った全国ツアーは、焦燥にかられた輩でどこもいっぱいだった。その後間もなく2ndアルバムの制作に取り掛かる。ここからプロデューサー土屋昌巳との付き合いが始まる。後になってから彼らが語った事によると名曲揃いの1stの出来には100%満足はしていなかったようだ。ジェレミー・グリーンに上手く日本語の機微が伝わらなかった事や、初めてのレコーディングということで不慣れなため思うようには作れなかった事などを理由に。

2ndアルバムBang!は全曲アナログ録音という趣向の面でも大きな注目を集め、やはりオリコン初登場7位という快挙を成し遂げる。もはや彼らに「イカ天キング」の肩書きなど微塵も必要なかった。92年の1月にBang!を世に送り出した後、デビュー後3度目の全国ツアーに出る。その中の渋谷公会堂でのライヴが、4月、初のライヴ・ビデオDog Foodとして発売された。続いて9月にリリースされた3rdアルバムLiveは、5月1日に同じく渋谷公会堂で行われたライヴを収録したもの。アンコールこそ入っていないものの、ノーカット。本編ラストで演奏されている「Baby Baby」は、ずっと後の話になるが解散ライヴとなった2000年の横浜アリーナ2daysでも、両日アンコールのラストの曲として演奏されている曲である。現在音源としてはこの「Live」もしくはLast Danceでしか聴くことが出来ない。

同じ年、92年の11月、ブランキーの歴史において風化させる事の出来ないひとつの出来事があった。シングル悪いひとたちにまつわる一件である。ブランキー・ファンにとって今や欠くことの出来ないこの曲だが、当時歌詞の一部に問題があるということでメジャーからはそのままで出すことが出来ず、ならばと所属事務所からインディーズという形でリリース。作り手として、もとのままを聴いてもらいたいという強い意志の現れである。インディーズ・チャートを堂々1位で飾った事は言うまでもない。

翌年2月、最高傑作とも言われる3rdアルバムC.B.Jimをリリース。ピリピリと張り詰めた緊張感に包まれ、よりスピードを増したパンキッシュなサウンドが並んでいる。ブランキーに紙一重の危うさを求めるならこのアルバムだろう。詞の面でも第三者としての語り口ではなく、ベンジーの内面を深くえぐったような作品が増えている。ここまでがブランキーの一つの時代だったかも知れない。12月にリリースされたミニ・アルバムMetal Moonではアコースティックな側面が強調された印象のせいか、賛否の分かれる問題作となった。続く5thアルバム幸せの鐘が鳴り響き 僕はただ悲しいふりをするは女装のジャケットにビックリすると同時に、サウンド面でもタワー・オブ・パワーのホーン・セクションやリトル・フィートのキーボーディスト、ビル・ペインらを迎え、それまでとは明らかに異なる幅の広さを見せ、ファンを驚かせた。これら2作がブランキーのターニング・ポイントとなっていることは明らかである。

94年6月、クラブチッタ川崎にてちょっと変わったライヴが行われた。ステージが特別に円形に組まれているのである。これはビデオ・シューティングの為に行われたライヴで、この日の模様は、全国ライヴハウス・ツアーの模様や貴重なオフ・ショットなども加え、ビデオMonkeystripとして9月に発売され、オリコンでも初登場3位と人気を博した。選曲もナイス!なので観る価値あり。
12月には初の武道館ライヴを敢行!1万人のブランキー・ファンは湧きに湧いた。全21曲(アンコールは異例の2回!)という充実したライヴに立ち会った人はラッキー。

95年3月、初のベスト・アルバムThe Sixをリリース。ベストとは言っても、ただ代表曲をオリジナルのテイクのまま集めた類いとは違う。このアルバムに収録すべく、94年の秋に渡英して「Rude Boy」(不良少年のうた)をレコーディング、他にも「ガードレールに座りながら」「胸がこわれそう」「僕の心を取り戻すために」の全4曲が新しいバージョンで収録されているのだ。更に更に、あの「悪いひとたち」が完全バージョンで収録。曲数も14曲と、さすがブランキー、ファンへの配慮は満点。ちなみに渡英の際、レコーディングの後にライヴも行っている。この95年、6月から7thアルバム制作の為に再び渡英。そこでまたUK LIVE TOURとしてロンドンの近郊を6ヶ所回っている。評判は上々だったらしい。8月、日本に戻り、代々木公園野外ステージにてフリー・ライヴを敢行。つまりタダ。「Are You Happy?」と題されたこのライヴは13000人もの動員を記録。日本のロック史上に名を残す素晴らしいライヴとなった。この日の模様は12月に2本組のビデオAre You Happy?としてリリースされた。それに先駆けて11月、7thアルバムSkunkをリリース。プロデューサー土屋昌巳との最後のアルバムとなった。

96年、メンバーはそれぞれソロ・ワークをスタートさせる。ベンジー=Sherbet、照井=Joe Brownn、中村=Love Shop Losalios での活動。

97年、レコード会社移籍後初のリリースを5月28日マキシガソリンの揺れかたで飾る。おぉっ!帰ってきた!という嬉しいナンバーだった。畳み掛けるように6月、初のセルフ・プロデュース・アルバムとなる8枚目Love Flash Feverをリリース。スケールも大きく、どっしりと腰を落ち着けたような仕上がり。

98年1月、10枚目のシングル赤いタンバリンをリリース。オリコン初登場11位という大ヒット。後のライヴでも定番となる。同日、東芝EMI時代のベスト国境線上の蟻もリリース。未発表曲2曲も含む、初期〜中期のブランキーが詰まっている。
6月、10thアルバムロメオの心臓リリース。セルフ・プロデュースも2回目ということで彼らの当時やりたかった事が存分に発揮できた感のある快作。新しい試みとしてループを取り入れたりする一方、歌詞の面ではより深く、ひとつひとつ選び抜かれたコトバで、独特のベンジーワールドが堪能できる。並んだ曲のタイトルを見るだけでもその雰囲気が伝わってくるのでは?奥の深いコクのあるアルバム。11月には初のクリップ集となるBabyface Presidentが発売され、これもオリコンビデオチャート1位を飾る。

99年に入り、メンバーは再びソロ・ワークにシフト。ベンジーのSherbetはSherbetsとビミョーに改名しレコーディング、中村はスカパラの青木氏急逝のため、ヘルパーとしてスカパラのツアーに回る。7月、SherbetsのアルバムSiberiaリリース。10月、照井のプロジェクト、Jim SpiderのアルバムWith A Ghostリリース、11月、中村のプロジェクト、Losaliosのアルバム世界地図は血の跡リリース、どれも高い評価を受ける。

そして2000年、4月、ブランキーはマキシSea Side Jet Cityで再びお目見え。ガツンとヤラれた人は多いはず。そして待ちに待った11thアルバムHarlem Jetsが5月10日にリリースとなった。なったのだが…。この日、悲しい広告が新聞に、あった。冒頭にも書いた「BJC解散」の文字である。この最後となったオリジナル・アルバムがとてつもなく素晴らしいものであり、「ブランキーは初期は好きだったけど…」とか言っている人にも絶対満足してもらえると確信していた矢先である。一瞬、時が止まった。7月、最後の横浜アリーナ・ライヴ2daysが8日、9日に行われた。オーディエンスは涙・涙のラストだった。その後、事実上のラスト・アクトとなったフジ・ロック・フェスティバルでのショウ。ブランキー・ファンを自認する人以外の多くのオーディエンスにも、「かっこいい!」と言わせてしまう程の気概を見せてくれた。でも、もう彼らのナマの演奏を体験する事は出来なくなった。9月、最後の横浜アリーナでのライヴがLast Danceという2枚組のアルバムになって送り出された。行けなかった人も、行けた人にも、嬉しいプレゼント。10月25日には白盤黒盤というベストアルバムが東芝EMI、ポリドールからそれぞれリリースされる。どの曲がベストかなんて、選ぶのも大変だろう。「Harlem Jets」のレビューにも書いたが、ブランキーは、昨今のスポーツ化しつつあるロックとは全く異質の存在だ。「聴ける」ロックなのだ。向き合えば必ず何かが胸に突き刺さってくる。深く、深く、突き刺さってくる。こんなイカしたバンド、そうそういないよね?

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