Beatles
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Beatles (ビートルズ) プロフィール

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Beatles

「20世紀における最も偉大な(影響力を誇った)音楽家は?」―という問いにビートルズの名を挙げる人は少なくないだろう。実際、ロック史上というよりも、20世紀の音楽史における最も重要な存在とさえ言える彼ら。しかし、このように巨大な存在として彼らが語られる際に隠れてしまう、”等身大のビートルズ”にこそロック〜ポピュラー・ミュージック・ファンは愛着を感じるものだし、その目撃者(たとえリアル・タイムでなくとも20世紀を生きた者として)である僕達はそれを21世紀に伝えていかなくてはならない、と思う。例えば、当初彼らが単なるアイドル・グループの一つと目されていて次第に自らのクリエイティヴィティとのギャップに苦しんだという事実は消されてはならない。”単なるロック・ファン”の筆者が書く本稿が”等身大のビートルズ”への入り口になれたら良いと思います。

‘50年代後半にイギリスで起きたスキッフル・ブーム(ロニー・ドネガン「ロック・アラウンド・ザ・ライン」のヒットが火種)の中、'56年頃、学友とクォーリーメンというスキッフル・バンドを始めたジョン・レノン ('40年10月9日生)はリヴァプール近郊でポール・マッカートニー (’42年6月18日生)と出会う。負けず嫌いのジョンは自分が最もヒップで全ての面でNO.1というそぶりで振舞っていたが、ポールが自分より巧くギターが弾け、多くのコードを知っていたことから、悩んだ末ポールをバンドに加えることにした。更に'57年、ポールの紹介で ジョージ・ハリスン が加入。ビートルズの原型が出来る。ジョンが通った美術学校の学友、スチュアート・サトクリフ(ハンサムでジョンのちょっとしたライバル的存在、映画バックビートは彼の悲劇的な運命を描いた)をベースに迎えるなどして、バンド名を”ジョニー&ザ・ムーンドッグス”、”シルヴァー・ビートルズ”、”ビートルズ”と改名しながら活動。この頃ドラマーとして ピート・ベストも加入する。 '60年にビートルズはドイツ、 ハンブルグのクラブに出演するが、ジョージが若過ぎたためトラブルとなり強制送還され、他のメンバーも帰国する。'61年1月には初めて地元リヴァプールのキャバーン・クラブに出演し、4月には再びハンブルグへ公演に出る。その時トニー・シェリダンのバックとして吹き込んだのが "マイ・ボニー" など。それと前後してサトクリフが脱退(彼は約1年後に脳出血で死亡した)、ポールがギターをベースに持ち替え、ジョン、ポール、ジョージ、ピートという4人組となる。リヴァプールでレコード店をやっていたブライアン・エプスタインは、 "マイ・ボニー" を買いにきた客にビートルズの存在を教えられ、キャバーンで演奏中の彼らを見、マネージャーになる契約を交わす。こうしてエプスタインをマネージャーにしたビートルズは'62年1月1日、デッカ・レコードのオーディションを受けるが不合格。パイ、EMI系のHMVと断られ続けたが、遂にEMI傘下のパーロフォンに居たジョージ・マーティン (バックグラウンドはクラシックだが、ココではコメディのレコード等を制作)の興味を惹き、契約にこぎつける。ここで諸々の事情からピート・ベストがクビを言い渡され、代わりにビートルズとはハンブルグ時代から知り合いのリンゴ・スター (’40年7月7日生、ロリー・ストーム&ザ・ハリケーンズに在籍)が迎えられた。ここでお馴染みのファブ・フォー誕生だ。デビュー曲の候補は幾つか挙がったが、彼らのオリジナル曲を”弱い”と判断したジョージ・マーティンに対してオリジナル曲を希望するメンバーが"ラヴ・ミー・ドゥ"を改善して持ってきた為、決定。

’62年10月4日"ラヴ・ミー・ドゥ/PSアイ・ラヴ・ユー"でデビュー、全英17位とまずまずの結果だった。続く第2弾"プリーズ・プリーズ・ミー"が全英最高位2位。"フロム・ミー・トゥ・ユー"、"シー・ラヴズ・ユー"、"抱きしめたい"と出す曲が連続して1位となり、リヴァプールのヒーロー、ビートルズはイギリス中のアイドルとなった(若い女子を中心とする“ビートルマニア”現象が起こる)。こうしたイギリスでのブームがアメリカに飛び火したのは’64年初めのこと。最初はビートルズのレコード発売に難色を示したアメリカのEMI系キャピトル・レコードだったが、’63年暮れに"抱きしめたい"を発売、アッという間に大ヒット、7週連続1位を記録。そしてUS初上陸〜’64年2月7日、NYケネディ空港に降り立ったビートルズは多くのファンに囲まれ歓迎を受けた。その凄まじい一大旋風は留まる事を知らず、の感で、4月4日付ビルボード誌チャートでは"キャント・バイ・ミー・ラヴ"、"ツイスト&シャウト"、"シー・ラヴズ・ユー"、"抱きしめたい"、"プリーズ・プリーズ・ミー"の5曲が1〜5位を独占! 100位中14曲がビートルズ・ナンバーという快記録を打ち立てた。またこの時期、’64年 『ビートルズがやって来るヤァ!ヤァ!ヤァ!』’65年 『HELP! 4人はアイドル』と2本の劇場映画も製作している。今でこそアルバム毎に語られるビートルズだが、当時は勿論ヒット・シングル主体、アイドル的活動が主体でその合間に何とかアルバム制作の時間を取っていたというのが、ホントのところ(手を抜いている、という意味じゃなく短期間に全力で取り組んでいたということは言うまでもないでしょう。逆にあれだけの短期間に作られた作品群の完成度たるやスゴイ!’63年プリーズ・プリーズ・ミーからウィズ・ザ・ビートルズ〜ヤァ!ヤァ!ヤァ!フォー・セールを経て、’65年HELP! 4人はアイドル期まで。それぞれ良さが違うが、この中では全曲オリジナルで占められた〜ヤァ!ヤァ!ヤァ!が曲作りの成熟度やアルバム全体の完成度、今の感覚で言って初期の集大成的作品といえるのでは?

’65年6月外貨獲得の功績として英国女王からMBE勲章を受賞(後年ジョンはコレを送り返して育ての親ミミ叔母さんに怒られる)、8月からの全米ツアーではNYシェア・スタジアム公演で5万6千人という当時の動員記録を作る。しかしそうした膨れ上がった人気も彼らにとってはアダとなり始めていた。当時のショボいPA機材によるサウンドはマニアの歓声に掻き消され、演奏は二の次。そんな状況に飽き飽きしたビートルズは’66年8月29日サンフランシスコ公演を最後にライヴ活動を停止。スタジオ・ワークやアーティスティックな活動へシフトする。前後して発表された作品ラバーソウルはトータル・アルバムの最も早い例として評価され(ショックを受けたブライアン・ウィルソンビーチ・ボーイズ>はペット・サウンズ制作に向かった)、その内省的ともいえる音の感触はそれまでの彼らのイメージ”陽気なファブ・フォー”といったものからかけ離れており、ビートルズが次のステージへ向かったことを匂わせた。続くリヴォルヴァーと最強の両A面シングル"ストロベリーフィールズ・フォーエヴァー/ペニーレイン"ではより過激な実験ポップに挑戦(この時期の音にインスパイアされるアーティストは今も後を絶たない)、そして一般にロック史に残る名作の誉れ高いアルバムサージェント・ペパーズ〜の発表に至る。また所謂”サマー・オブ・ラヴ”、”ヒッピー・ムーブメント”を象徴するように、全世界同時衛星中継番組"アワ・ワールド"でビートルズは"愛こそはすべて"のレコーディング風景を披露した。こうした活動やTV映画マジカル・ミステリー・ツアー(失敗作と酷評されるが)の制作,そのサントラマジカル・ミステリー・ツアーの発表といった”サイケ期”の彼らの充実した活動ぶりは、実りの無いライヴ活動からの撤退によるスタジオ・ワークへの没頭〜溢れ出る創造性の発現、プロデューサー、 ジョージ・マーティンやエンジニアのサポートとLSD等ドラッグの常用などが可能にしたといえるものだった。

’68年ビートルズのレコード・レーベル、アップル・ミュージック設立。インドの導師マハリシ・マヘシ・ヨギのメディテーションに参加する為、メンバーはドノヴァン、マイク・ラブ(ビーチ・ボーイズ)、ミア・ファーローらと渡印するが失望し、ジョンはその想いを"セクシー・サディ"の中で書いている(通称ホワイト・アルバムに収録)。メンバーの個別活動が活発化。ジョージはサントラ不思議の壁を、ジョンは恋人の前衛アーティスト、 オノ・ヨーコトゥー・ヴァージンズを発表する。アップルの経営悪化もあり、この時点でグループはもはやバラバラだった。またこの時期マネージャーのブライアン・エプスタインが自宅で変死を遂げ、メンバーを悲しませると同時に彼らの活動にも暗雲が垂れ込める(ジョージ・マーティンはこの頃から彼らの関係が軋み始めた、と回想している)。事実上の最後のセッションを行い、後期の名作アルバムアビーロードを仕上げる。それ以前に録ってあった音源は フィル・スペクターの元に渡り、アルバムレット・イット・ビーとなり発表される。この作品を最後に’70年解散。デビューから7年ほどを怒涛の活動で走り抜けた。

解散後、4人はソロ・アーティストとして活躍。またベスト2枚組1962〜19661967〜1970やハリウッド・ボール・ライヴの発表、つい最近ではBBCライヴ やアンソロジー1、 アンソロジー2 、 アンソロジー3と続いた”アンソロジー・プロジェクト”―そしてそのプロジェクト中の目玉――”ビートルズの新曲!”と騒がれた "フリー・アズ・ア・バード" 、  "リアル・ラヴ" 。このプロジェクトは一応の完結を見せたかと思わせたが、2003年にDVDという最新のフォーマットによって最高の画質&音質で蘇ることになった。アンソロジーDVDボックスの登場である。しかも未発表映像をプラスした完全版となっている。

また1999年には、CD時代になってからはビートルズの各曲におけるヴァージョンが完全に統一管理されてきたという経緯を覆す出来事ジョージ・マーティン以外の手によるリミックスという手法――がイエロー・サブマリン〜ソングトラックの発表によって実現した...などなど、解散後もビートルズ関連の音源は新たにリリースされるたびに、世界的な規模で大きな話題をさらっている。

音を一通り聴いた人は彼らのパーソナリティーが知りたくなる筈だし、またそれを知った人は彼らの音を振り返ってみたくなる筈。入り口は広く、自分の年代によって聞こえ方も変わってくるサウンド(ビートルズに限った話じゃないけど)。もし興味を持った人が居たら今からでも遅くありません、というかむしろこれからビートルズの遺した多数の作品に触れることが出来るというのは筆者にはとても羨ましく思えるのです。ぜひ、どうぞ。

Beatles?
古今東西ビートルズにオマージュを捧げるバンドは数多く存在しますが、ビートルズ本人達も公認のパロディ・バンドといえばラトルズモンティ・パイソン絡みのニール・イネス(ボンゾ・ドッグ・ドゥー・ダー・バンド、ワールド、グリムスなどで活動したミュージシャン。ソロ作もあるが現在廃盤)がジョン役を務めました。ラトルズのCDRutlesの深い愛情に裏打ちされた曲の完成度は驚愕モノ。ニール・イネスは声までジョンのクセに似せてて、思わず笑ってしまう。彼らは突然’90年代にアルバムAlchaeologyで復活。ビートルズ・ネタに加えオアシス・ネタまで織り込む周到ぶりにはニヤリ。ラトルズを聴いてしまうと楽曲的にはチョット物足りないかもしれないけど、トッド・ラングレン率いるユートピアDeface The Musicもなかなか。中期ビートルズに代表されるサイケ・サウンドを聴かせたXTCの変名バンド、デュークス・オブ〜や、 サージェント・ペパーズ〜全曲をロカビリー〜スイング調でカヴァーしたビッグ・ダディなんてのも居た。2002年にはパンクでビートルズ・ナンバーをカヴァーするパンクルズも話題になった。ジャケ/タイトルのパロディ〜オマージュはフランク・ザッパのマザーズのアルバムが強烈ですが、その他沢山在りすぎて書ききれません。

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