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今日よりもマシな明日 文学芸能論

矢野利裕

Product Details

Genre
ISBN/Catalogue Number
ISBN 13 : 9784065268735
ISBN 10 : 4065268737
Format
Books
Publisher
Release Date
February/2022
Japan
Co-Writer, Translator, Featured Individuals/organizations
:

Content Description

「群像」誌上に発表し、話題となった傑作文芸批評をまとめた試みの作家論集。
序論 町田康論 いとうせいこう論 西加奈子論 ほか小山田圭吾、みうらじゅんにも言及。
「自分ならざる者を精一杯に生きる」
 
“今日よりも少しはマシな明日を迎えるために”
――《芸能》の核心は、この「ウソ/本当」の二分法を貫く、一生懸命で心を込めたいとなみに宿っている。このような意味において、小説もまた《芸能》のいち形態である、と言える。小説もまた、音楽や映画や漫画といった他の表現と同様、ここにはない喜びを、悲しみを、憎しみを、愛しさを現前化しようとする。
 小説とは、わたしたちが生きる日常とはまったく異なる出来事が上演される場所だ。作中人物たちはゆたかな世界を演出すべく、小説の舞台を動きまわり、読者の気を引こうとする。そして、彼らの行動を追い、彼らに感情移入さえする読者は、ほんのつかのま、読書行為を通じて、普段の自分とは違う何者かになる。もしかしたら、読むまえと読んだあととでは、世界が一変しているかもしれない。すぐれた《芸能》とはおうおうにして、そういうものだ。
 大事なことは、《芸能》の世界が少なからず、現実の世界なり社会なりと異なっている、ということだ。逆に言えば、現実の社会を追認するような《芸能》は物足りない。退屈な社会を生きるわたしたちが、ほんのひとときでも、《芸能》に触れて日常から抜け出す。その逸脱による解放的な喜びこそ、明日以降を生きるための活力となるのだ。
 いち生活者の僕は、だからこそ、小説を読む。だからこそ、音楽を聴く。明日以降の生活を少しでもマシなものにするために。――(本書序論より抜粋)

【著者紹介】
矢野利裕 : 1983年東京都生まれ。批評家、DJ、教育者でもある。2014年「自分ならざる者を精一杯に生きる―町田康論」で第57回群像新人文学賞評論部門優秀作受賞(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)

(「BOOK」データベースより)

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Book Meter Reviews

こちらは読書メーターで書かれたレビューとなります。

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  • さとみん

    実は純粋な批評と、批評のための批評の違いを上手く見分けられない。だから単なる肌感覚なのだが、最初の町田康論は後者に近いように思えた。続く、いとうせいこう論の切実さと西加奈子論の祈りのようなものは前者だと思える。ただ問題は取り上げられた作品を私がどれも読んでいないこと。そんな中途半端な読者だが、小説でもエッセイでもない文章が読みたくなって手にとった本作は、“言葉”という道具の使い方に試行錯誤している様子に好感が持てた。

  • スプリント

    小山田圭吾の一連の騒動について触れている。 賛否は多そう。

  • よっちん

    研究室

  • sucksuckhello

    自己を肯定したり敵を貶めたりするだけのインスタントで剥き身の言葉が飛び交う現代で、わざわざ小説なんか読んだり批評なんか読んだりしておもしろいと思わされてしまったからには、黙ってないで自分の言葉を知らない誰かに届けなければならない気がした。危険だけど人間であるからには使わざるを得ない言葉について考えるにあたり、この本に取り上げられている町田康、いとうせいこう、西加奈子、毛色は方が異なるが小山田圭吾とそれを取り巻く状況も、この言葉について考える良い機会だし、矢野利裕がこの本でやり方を教えてくれている。

  • お会計

    矢野が探ろうとする「「(知識人やアウトサイダーではない)人並みに社会の規範を受け入れると同時に、人並みにその社会の規範に窮屈さを感じている程度の人間」としての立場を引き受ける、退屈な生活者の批評」。このスタンスに共感したし、自分がやりたいのもそれだと感じた。その方法として矢野は文学を《芸能》と捉える。要はそれって「言葉を自由に扱うことができない者、あるいは言葉に操られてしまう者によって語られる文学」ってことなのかなと思ってる。理性ではなく身体感覚に拠る言葉(とその文学)を「文学芸能」と呼ぶんじゃないのか。

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