CD 輸入盤

ブダペスト弦楽四重奏団ボックス〜アメリカ議会図書館ライヴ録音集(20CD)

基本情報

ジャンル
:
カタログNo
:
ARTIS027
組み枚数
:
20
レーベル
:
:
Korea
フォーマット
:
CD
その他
:
輸入盤

商品説明


ブダペスト弦楽四重奏団ボックス(20CD)
アメリカ議会図書館ライヴ録音集


ブダペスト四重奏団の名が世界的なものとなったのは、アメリカ議会図書館の専属弦楽四重奏団(カルテット・イン・レジデンス)になってからのことでした。議会図書館のあるジェファーソン・ビルの中庭に建設されたクーリッジ・オーディトリアムでおこなわれた膨大な数のコンサートは、放送される機会も非常に多く、少なからぬ録音も遺されています。
 今回登場するセットは、そのクーリッジ・オーディトリアムでライヴ録音された音源を集めたもので、彼らの名声を高めることに大いに貢献した演奏の数々を手軽に楽しむことができます。

【激動の時代ならではの変遷】
第1次世界大戦中からベトナム戦争の時代まで、半世紀に渡って活動したブダペスト弦楽四重奏団は、「ハンガリー政変」「ソ連成立」「ナチス台頭」「第2次大戦」という4つの大きな歴史的事件の影響を受け、さらにそこに、「奏法」や「言語」の相違といった事情も絡み合って、本拠地やメンバーが変遷、半世紀の在籍人数は11人に達しています。

【ハンガリー産カルテット】
「ブダペスト弦楽四重奏団」の結成は、第1次大戦中の1917年のことで、メンバーは4人ともハンガリー国立歌劇場管弦楽団の楽員でした。
 当時、戦争によって歌劇場での演奏機会が大幅に少なくなり、収入減も深刻化しつつあったため、演奏に際して場所の制約や経費が少なく、公演回数も多くこなせる「弦楽四重奏団」の活動は魅力的だったようで、翌1918年には、同じハンガリー国立歌劇場管弦楽団の楽員によって有名な「レナー四重奏団」が結成されてもいます。
 「ブダペスト弦楽四重奏団」の場合、設立者がオーケストラ楽員という対等な関係にある4人のメンバーで、かつ第1ヴァイオリン奏者が最も若かったことから、4人の関係は対等なものとなり、それが結果的にブダペスト弦楽四重奏団を近代カルテットの始祖という位置に押し上げることになります。
 それまでの弦楽四重奏団の多くは、第1ヴァイオリンがリーダーで決定権を持ち、報酬も多いというのが常識でした。特に19世紀はすごいものがあり、たとえばヨアヒム四重奏団は、ヨアヒムが公演の都度、ほかの3人のメンバーを募集して雇うというスタイルで運営されており、シュポーアのカルテットに至っては、シュポーアのみ立って演奏するということで、ほかの3人はまるで「伴奏」という扱いでした。
 ブダペスト弦楽四重奏団の場合は、対等な立場のオーケストラ楽員が、当初は「副業」として結成したため、報酬分配も当然ながら平等で、異なる意見が出た場合も、多数決できっぱり判断し、同数の場合は現状維持とするという方針を決めていました。
 こうした基本方針の存在が、アンサンブルの精度の向上や、奏法選択の合理性を生み出し、やがてメンバー交代に耐えられる実力を築き上げることにも繋がっていったようです。
 結成の年の12月と翌年の1月の実演で順調なスタートを切ったブダペスト弦楽四重奏団は、ほどなくハンガリー国立歌劇場を全員退職して、弦楽四重奏団だけで食べて行く道を選び、演奏の精度を上げるためさらに基本方針を追加。主なものをまとめると以下のようになります。

 ●報酬は平等に分配。
 ●意見の相違があった場合は、なにごとも多数決で決定。
 ●契約期間は1年とし、毎年メンバー全員の合議で更新。
 ●ソロや他のアンサンブルでの演奏、教育活動など副業の禁止。
 ●リハーサルや運営方針策定に、団員以外の人間を関わらせない。

これらの基本方針の多くは長期間に渡って遵守され、ブダペスト弦楽四重奏団の演奏水準の向上と維持に大きく貢献することとなります。ちなみに基本方針と謳われていたわけではありませんが、半世紀の間に在籍した計12人のメンバーは、全員がユダヤ系でした。もっとも、当時のヨーロッパでは優秀な弦楽器奏者の多くはユダヤ系という状態だったようなので、それも不思議なことではなかったのかもしれません。

【ハンガリー勢からロシア勢へ】
ハンガリー勢で固められていたブダペスト弦楽四重奏団に、変化のきっかけが訪れたのは結成10年目のことでした。1927年、第2ヴァイオリン奏者のポガニーが、指揮者フリッツ・ライナーからの引き抜きでシンシナティ交響楽団の第2ヴァイオリン首席奏者になるべく渡米してしまったため、急遽メンバーを探す必要に迫られた彼らは、知人を介して、ソ連を逃れてベルリンに来ていたロイスマンと契約を結びます。
 名ヴァイオリニストの一大産地でもあるオデッサから来たロイスマンは、技術的に優秀で、19世紀的な手法を好んでいた第1ヴァイオリンのハウザーと、奏法をめぐって頻繁に衝突、ときにはヴィオラのイポイーも交えた揉め事にも発展していたため、年長でおだやかなチェロのソンは耐えられず3年後の1930年にパレスチナ行きを決めて退団。
 後任として採用されたのは、ロシア帝国生まれながら17歳からドイツに移り住んでいたミッシャ・シュナイダー。これでハンガリー勢2人にロシア勢2人という状態になり、ロイスマンの旧奏法批判はさらにエスカレート、2年後の1932年には第1ヴァイオリンのハウザーが、パレスチナ音楽院創設の道を選んで退団。
 ハウザーの後任問題はロイスマンが第1ヴァイオリン奏者になることで解決し、第2ヴァイオリン奏者の後任としては、ミッシャ・シュナイダーが、弟のアレクサンダー・シュナイダーを入団させて決着。これでハンガリー勢1人にロシア勢3人という状態になり、リハーサルなどでロシア語が使用されることが多くなったこともあってか、4年後の1936年にはヴィオラのイポイーがノルウェーに移住するため退団。
 後任として、ロシア帝国オデッサ生まれでベルリン在住、ロイスマンとは少年時代から交流のあったクロイトが入団。
 結局、1927年から1936年の9年間で、メンバー全員が、ドイツに逃れてきていたロシア帝国出身者に交代して奏法の近代化を達成。彼らは全員ユダヤ人だったため、2年後の1938年には、ドイツを去ってアメリカに渡ることになりますが、すぐに実力が認められ、アメリカ議会図書館(下の画像)のカルテット・イン・レジデンスに任命、以後、放送の効果もあって、カルテットとしては異例の輝かしい成功を収めることになります。


【在籍者】
第1ヴァイオリン
1917-1932 エミール・ハウザー[1893–1978]
1932-1967 ジョセフ・ロイスマン[1900–1974]

第2ヴァイオリン
1917-1920 アルフレード・インディグ[1892–?]
1920-1927 イムレ・ポガニー[1893–1975]
1927-1932 ジョセフ・ロイスマン[1900–1974]
1932-1944 アレクサンダー・シュナイダー[1908–1993]
1944-1949 エドガー・オーテンバーグ[1900–1996]
1949-1955 ジャック・ゴロデツキー[1914–1955]
1955-1967 アレクサンダー・シュナイダー[1908–1993]

ヴィオラ
1917-1936 イシュトヴァーン・イポイー[1886–1955]
1936-1967 ボリス・クロイト[1897–1969]

チェロ
1917-1930 ハリー・ソン[1880–1942]
1930-1967 ミッシャ・シュナイダー[1904–1985]

【各世代メンバーと生国】
ブダペスト時代(1917-1921)
第1世代(1917-1920):ハウザー(洪)/インディグ(洪)/イポイー(洪)/ソン(蘭)
第2世代(1920-1927):ハウザー(洪)/ポガニー(洪)/イポイー(洪)/ソン(蘭)

ベルリン時代(1921-1938)
第2世代(1920-1927):ハウザー(洪)/ポガニー(洪)/イポイー(洪)/ソン(蘭)
第3世代(1927-1930):ハウザー(洪)/ロイスマン(露)/イポイー(洪)/ソン(蘭)
第4世代(1930-1932):ハウザー(洪)/ロイスマン(露)/イポイー(洪)/シュナイダー(露)
第5世代(1932-1936):ロイスマン(露)/シュナイダー(露)/イポイー(洪)/シュナイダー(露)
第6世代(1936-1944):ロイスマン(露)/シュナイダー(露)/クロイト(露)/シュナイダー(露)

アメリカ時代(1938-1967)
第6世代(1936-1944):ロイスマン(露)/シュナイダー(露)/クロイト(露)/シュナイダー(露)
第7世代(1944-1949):ロイスマン(露)/オーテンバーグ(露)/クロイト(露)/シュナイダー(露)
第8世代(1949-1955):ロイスマン(露)/ゴロデツキー(露)/クロイト(露)/シュナイダー(露)
第9世代(1955-1967):ロイスマン(露)/シュナイダー(露)/クロイト(露)/シュナイダー(露)


【年表】

1880年
●9月28日、ハリー・ソン[1880–1942]、ロッテルダムで誕生。
 チェロ奏者(初代)、在籍期間:13年(1917-1930)

ハリー・ソン(ヘンリー・モーゼス・ソン)は、生地でチェロを勉強したのち、ポッパーに師事するために17歳でブダペストに行き、ブダペスト音楽院で学んでいます。ハンガリー国立歌劇場管弦楽団で演奏したのち、37歳でブダペスト弦楽四重奏団の初代チェロ奏者として契約。13年間に渡ってブダペスト弦楽四重奏団の成功を支えますが、1930年、ロイスマンとハウザー&イポイー間の不和や、押し寄せる世界恐慌の波とナチの台頭を嫌い、当時、イギリス委任統治領として盛んに入植がおこなわれていたパレスチナに移住。海外も含めた演奏活動を展開。1932年には第1ヴァイオリンのハウザーもパレスチナに移住し、翌1933年にはパレスチナ音楽院を設立していました。
 元同僚とパレスチナで平和に過ごしていたソンですが、1939年、第2次大戦開戦の少し前にオランダに帰国。翌1940年にはオランダはドイツに占領され、不便な生活を強いられるようになり、翌1941年に強制収容所併設の大企業の工場が完成するようになると、ほどなく夫婦揃ってゲシュタポに連行、アウシュヴィッツの第三強制収容所モノヴィッツに送られて、IGファルベン社(現BASF)の合成ゴム工場で強制労働、過酷な環境下で1942年10月1日に死去しています。

1886年
●5月16日、イシュトヴァーン・イポイー[1886–1955]、オーストリア=ハンガリー帝国のウィヴィデクで誕生。
 ヴィオラ奏者(初代)、在籍期間:19年(1917-1936)

ブダペスト音楽院でフバイに、ベルリンでアンリ・マルトー[1874-1934]に師事したヴィオラ奏者で音楽学者。ブダペスト弦楽四重奏団では、入団15年目の1932年に、最後のハンガリー・メンバーとなり、年齢の大きく離れたほかの3人の会話がロシア語でおこなわれる環境下でうつ病気味となってしまい、4年目の1936年に退団。すぐにノルウェーに移住し、やがて帰化。しかし1940年にドイツ軍が侵攻し占領下に置かれると逮捕されて、刑務所に収容、強制収容所送りを待つ身となりますが、スウェーデン赤十字社副総裁ベルナドッテ伯の介入により釈放、スウェーデンに逃れて、戦後、ノルウェーに帰国し、ヒンダル四重奏団の指導に当たるなどし、1955年に亡くなるまでノルウェーで暮らします。ちなみに命の恩人のベルナドッテ伯は、1948年に第一次中東戦争の和平のためにエルサレムに滞在中、ユダヤ人過激派に射殺されています。53歳でした。

1892年
●9月18日、アルフレード・インディグ[1892–?]、オーストリア=ハンガリー帝国のブラショヴに誕生。
 第2ヴァイオリン奏者(初代)、在籍期間:3年(1917-1920)

結成3年目の1920年、インディグはアムステルダム・コンセルトヘボウ管弦退団のコンサートマスターに就任するために退団。翌年にはオランダ人女性と結婚し、翌1923年にはColumbiaでソリストとして小品集を何枚か制作。翌1924年にはコンセルトヘボウ管弦楽団のメンバーとしてバイロイト音楽祭でも演奏していました。その後、1931年にはベルリン・フィルのコンサートマスターとなりますが、ナチ政権が成立するとパリに行き、1934年、同地で弦楽四重奏団を設立。戦後はオランダに戻って1951年までアムステルダムで暮らし、その後、再びパリに移り住み、以後の消息は分かっていません。

1893年
●5月17日、エミール・ハウザー[1893–1978]、ブダペストで誕生。
 第1ヴァイオリン奏者(初代)、在籍期間:15年(1917-1932)

ブダペスト音楽院でフバイなどに師事し、プラハでも勉強したハウザーは、第1次大戦前にレブナー四重奏団の第2ヴァイオリン奏者、フランクフルトのホッホ音楽院での職、ウィーン演奏協会管弦楽団(のちのウィーン響)の第2コンサートマスター、さらにアドルフ・ブッシュが率いていたウィーン演奏協会四重奏団の第2ヴァイオリン奏者を歴任。1916年には徴兵され、カルテットを辞めてブダペストに戻り、陸軍の音楽部門に配属。しかし実力が認められてハンガリー国立歌劇場への入団が許可され、ほどなくブダペスト弦楽四重奏団設立に関わることになります。しかし、ハウザーは1927年に入団したロイスマンと意見が合わず、さらに基本方針に違反してソロ活動もおこなっていたため第1ヴァイオリン奏者を退任。
 恐慌とナチの台頭もあり、先にチェロのソンが移り住んでいたパレスチナに1932年に移住。現地でカルテットを結成しますが、翌年にはパレスチナ音楽院を設立し、やがてフーベルマンを助けてパレスチナ交響楽団の設立にも尽力。1940年になると渡米し、ジュリアード音楽院などで教えますが、パーキンソン病を発症し1960年にイスラエルに帰国。18年間をエルサレムで過ごして亡くなっています。
●7月14日、イムレ・ポガニー[1893–1975]、ブダペストで誕生。
 第2ヴァイオリン奏者(2代目)、在籍期間:7年(1920-1927)

ブダペスト音楽院でフバイなどに師事。ハンガリー国立歌劇場管弦楽団で演奏していましたが、1920年にインディグの後任としてブダペスト弦楽四重奏団に入団。しかし7年目の1927年、知人でもあったフリッツ・ライナーから、シンシナティ交響楽団の第2ヴァイオリン首席奏者として招かれたため退団。急な退団だったため、カルテットに大きな混乱をもたらすことになります。お騒がせな転職をしたポガニーではありましたが、2年目にはシンシナティ交響楽団を辞めて、トスカニーニ率いるニューヨーク・フィルの第2ヴァイオリン奏者として契約。ニューヨーク・フィルは快適だったようで、以後29年間、引退するまで第2ヴァイオリン奏者として務め上げています。

1897年
●6月23日、ボリス・クロイト[1897–1969]、オデッサで誕生。
 ヴィオラ奏者(2代目)、在籍期間:31年(1936-1967)

10歳からベルリンで勉強し、そのままずっとベルリンを拠点に暮らしていたクロイトは、1927年に、ベルリンのグァルネリ四重奏団[1925-1934]にヴィオラ奏者として参加し、1934年に解散するまでの7年間在籍していました。このグァルネリ四重奏団での経験を懐かしんだクロイトは、1964年、アメリカで新たに結成された若者のカルテットに同じグァルネリ四重奏団と命名しています。
 クロイトがブダペスト弦楽四重奏団に入団したのは、グァルネリ四重奏団解散の2年後のことで、以後、解散するまでの30年以上をヴィオラの名技で支えて行きます。

1900年
●6月17日、エドガー・オーテンバーグ[1900–1996]、オデッサで誕生。
 第2ヴァイオリン奏者(4代目)、在籍期間:5年(1944-1949)

銀行の取締役の息子として生まれたエレアザール・オルテンベルクは、オデッサ音楽院で学び、1921年に金メダルを得て卒業、同音楽院で教職に就きます。しかしソ連の圧政に耐えられなくなり、1924年、ロシア語しか話せない身でありながら単身ベルリンに出て、なんとか音楽院に入り、名前をエレアザールからエドガーに変更して生活を開始、やがて市長の承認を得て「ベルリン弦楽四重奏団」を結成、ナチが政権を奪取する1933年までヨーロッパ各地をまわって活動します。
 1933年7月にはパリに移り住み、カルテットを結成し第1ヴァイオリン奏者として演奏。その3年後の1936年にオデッサ時代の仲間でもあるロイスマンが訪ねてきて、ヴィオラのイポイーの後任を務めるよう交渉。有名団体の誘いということで、オルテンベルクはヴィオラ奏者への転向を承諾。しかし彼の妻タマーラは激高して猛反対したため、話は流れてしまいます。
 オルテンベルクは、翌1937年にフランスに帰化。そのため、1939年に徴兵されてしまいますが、彼はロシア語とドイツ語ができたため、情報部門に配属されますが、やがて病気になり1940年4月に除隊。ドイツがパリに迫っていたため、オルテンベルク夫妻は急いで脱出、パリ入城の12時間前にパリを出て徒歩でマルセイユに向かい、その後、なんとかポルトガルを経てニューヨークにたどり着くことができます。
 アメリカでは当初苦労したものの友人のヴラディーミル・ゴルシュマンの助力を得て、セントルイス交響楽団や放送局の楽団で演奏することができるようになります。
 そして1943年12月、退団したがっていたアレクサンダー・シュナイダーの後任として、ブダペスト弦楽四重奏団のオーディションを受け、無事契約の運びとなり、1944年3月にデビューします。
 しかしブダペスト弦楽四重奏団の演奏スケジュールは、オーテンバーグには過酷過ぎたようで、次第に演奏水準が低下、ほかのメンバーの不満も募るようになり、やがて1949年の3月で契約を打ち切ることになります。
●7月25日、ジョセフ・ロイスマン[1900–1974]、オデッサで誕生。
 第1ヴァイオリン奏者(2代目)、第2ヴァイオリン奏者(3代目)、在籍期間:35年(1932-1967)

 生地でピョートル・ストリアルスキー[1871-1944]の運営する小さな音楽学校で6歳からヴァイオリンを勉強(ストリアルスキーはオデッサ音楽院でミルシテイン、オイストラフらを育成)。その後、ロイスマン少年は、ベルリンのシュテルン音楽院で教えるようになったオデッサのヴァイオリニスト、アレクサンダー・フィーデマン[1878-1940]の教えを受けるため、ベルリンに母と共に転居。シュテルン音楽院には3歳年上のヴィオラのクロイトもいました。第1次大戦が始まるとロイスマン母子はオデッサに戻り、オデッサ音楽院でフィーデマンの弟子のナウム・ブリンダー[1889-1965]に師事。卒業後はオデッサ歌劇場のコンサートマスターに就任。
 しかし1922年にソ連が成立すると、革命の波はオデッサにも押し寄せ、ロイスマンは農場や工場での演奏を強要されるようになったため、1923年にプラハに移住。チェコ・フィルやカフェで演奏して生計をたてますが、1925年には、シュテルン音楽院時代の友人でもあるクロイトを頼ってベルリンに移り住みます。
 同地でクロイトはウーファ映画スタジオの80人編成の楽団で演奏しており、ロイスマンもそこで働くようになります。当時のウーファ映画館のオーケストラは、サイレント映画の伴奏と、合間の短いクラシック・コンサートの組み合わせによって客入りが良かったため、楽員収入もベルリン・フィルを上回っていました。
 そして1927年の春、ブダペスト弦楽四重奏団の第2ヴァイオリン奏者ポガニーが退団したことで、知人を介してロイスマンに後任の話があり、オーディションを受けてすぐに合格。しかしすでに一定の収入を得ていたロイスマンにはまだ迷いがあり、妻の強い薦めを受けて入団を決定しています。
 ロイスマンはカルテットにとって最初の非ハンガリー系の演奏家であり、また、すでにカルテットを辞めた人間が2人出ていたことから、契約の方法も慎重なものに変わり、彼の25%の取り分はまず銀行に貯め、シーズン途中でやめた場合は支払いは無し、シーズンが無事に終わった段階で支払われるという方法に変更しています。
 また、同じユダヤ系とはいえ、「ロシア語がメインでドイツ語がサブ」というロイスマンは、他のメンバーの「マジャール語がメインでドイツ語がサブ」という状況とは異なっており、ドイツ語での意思疎通はそれほど問題は無かったものの、たとえばハンガリー・メンバー同士ではマジャール語で喋ったりするという状況は、ロイスマンにはなかなかつらいものがあったようです。
 さらに困ったのはロイスマンの奏法の考え方・技術と、ハンガリー・チームのそれがけっこう異なっていたことです。第1ヴァイオリンのハウザーとヴィオラのイポイーは古いタイプで、スピッカートが苦手なため、該当箇所は非常に短く鋭い動きで弾いており、ドイツの批評では「シュピッツェンカルテット(鋭い四重奏団)」と揶揄されてしまうことも多々ありました。
 こうした風評を嘆き、さらにスピッカートができる自分が、妙な弾き方を練習しなければならないことを不満に思ったロイスマンは、年齢差を気にせずハウザーとイポイーを批判するようになり、結果、それをきっかけにチェロで最年長のソンが退団してパレスチナ行き、2年後にはハウザーも退団してパレスチナ行き、6年後にはイポイーも退団してノルウェー行きという流れになり、1936年以降はオール・ロシア人で固められることになります。

1904年
●2月5日、ミッシャ・シュナイダー[1904–1985]、ヴィルナ(ヴィリニュス)で誕生。
 チェロ奏者(2代目)、在籍期間:37年(1930-1967)

生地で学んだのち、16歳でライプツィヒ音楽院に入学、ユリウス・クレンゲルに師事。卒業後、ロッテ・ニチュケと結婚。ロッテは金髪碧眼のプロテスタント。ミッシャ・シュナイダーは金髪フェチで、その後の2度の結婚相手も金髪でした。その後、フランクフルトのホッホ音楽院で勉強し、さらパリでも勉強した後、フランクフルトでプリスカ四重奏団に参加。しかし、不倫問題などで夫人が乗り込んでくるなど荒れるメンバー関係に嫌気がさして退団。その後、プリスカ四重奏団時代にケルンで知り合ったライフェンベルクから、ブダペスト弦楽四重奏団がチェロ奏者を探しているという情報を得て入団。
 最初の仕事は、1930年6月29日のバタヴィア(現ジャカルタ)公演を皮切りにおこなわれた約2か月間のインドネシア公演で、蚊や高温多湿による体調や楽器の不調、ハウザーとロイスマンのもめごとなど、新人ミッシャ・シュナイダーには気の重い出来事が続きました。
 そしてこの頃から、技術不足を特殊な奏法でカバーするハウザー&イポイーのハンガリー組と、現代的で自然な奏法を推進するロイスマン&シュナイダーのロシア組とで対立することが多くなり、やがて2人は退団することになります。、
1908年
●10月21日、アレクサンダー・シュナイダー[1908–1993]、ヴィルナ(ヴィリニュス)で誕生。
 第2ヴァイオリン奏者(4代目&7代目)、在籍期間:24年(1932-1944、1955-1967)

生地とフランクフルト、ベルリンで勉強し、フランクフルト・ムゼウム管弦楽団のコンサートマスターとなり、その後、ハンブルクのオーケストラの副指揮者となったものの、ユダヤ系だったためナチの台頭により解雇。
 ちょうど同じころの1932年に、兄のミッシャ・シュナイダー[1904-1985]が在籍していたブダペスト弦楽四重奏団のヴァイオリニストが欠員になったため、同四重奏団に入団、以後、第2ヴァイオリン奏者として12年間に渡って演奏します。しかし、やりたいことやアイデアがあふれていたシュナイダーは、やがてカルテット以外のことにも大きな関心を抱くようになり、別な道に進むことを決意。
 1944年にブダペスト弦楽四重奏団を退団したシュナイダーのもとには、メトロポリタン歌劇場からの指揮者契約要請や、プロアルテ四重奏団、パガニーニ四重奏団からのリーダー就任要請などもありましたが、シュナイダーはこれらを断っています。
 1945年、ピアノのエーリッヒ・イトル・カーン、チェロのベナー・ハイフェッツと「アルベネリ・トリオ」を結成、ピアノ三重奏の室内楽作品を数多く演奏(ちなみにグループ名の「ALBENERI」は、アレクサンダー・シュナイダーの「AL」、ベナー・ハイフェッツの「BEN」、エーリッヒ・イトル・カーンの「ERI」を組み合わせた造語)。
 続いて、チェンバロのラルフ・カークパトリックと組んで独奏ヴァイオリニストとしてツアーをおこなったほか、米コロンビアにモーツァルトのレコーディングも実施。
 1947年には、フランスとスペインの国境近く、ピレネー山脈ふもとのプラドに隠遁していたカザルスのもとを訪れて交流。音楽祭の提案のほか、バッハ解釈に関する教えも受けていました。
 続いて、ダンバートン・オークス室内管弦楽団を指揮してヴィヴァルディとモーツァルトなどを演奏し、ハイドン・ソサエティ・レコーズに録音。共演はカークパトリックやグリーンハウス。
 さらに、ニューヨーク・ピアノ四重奏団に参加、ミエチスワフ・ホルショフスキのピアノとフランク・ミラーのチェロ、ミルトン・カティムズのヴィオラとの共演でピアノ四重奏レパートリーを演奏。
 1949年、たび重なるカザルスとの交流からバッハ解釈に自信を持ったシュナイダーは、大作「無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータ」をマーキュリー・レーベルに全曲録音。
 1950年、ホルショフスキと共にプラド音楽祭を開催して成功を収めて定着、以後、翌1951年に近郊で追加開催されたペルピニャン音楽祭や、プエルト・リコでのカザルス音楽祭、マールボロ音楽祭へと繋げて行きます。
 また、1950年にはプラド音楽祭で交流のあった若手演奏家たちと「シュナイダー四重奏団」を結成。チェロについては、1953年にフォーリーが退団、後任のダニエル・サイデンバーグ[1906-1997]もすぐに辞めてしまったため、ハイドン作品にも精通していたヘルマン・ブッシュに交代しています。
 1955年、第1ヴァイオリンのロイスマンの強い希望により、シュナイダーは第2ヴァイオリン奏者としてブダペスト弦楽四重奏団に再び入団。チェロのミッシャ・シュナイダーの背中の手術の失敗を機に解散するまでの12年間を過ごします。第1次と合わせると24年間の在籍期間でした。
 その間、1957年には、演奏会と教育を兼ねたプログラム「シュナイダー・コンサート」を立ち上げ、亡くなるまで毎年開催。  退団後は、指揮者としてコンサートやレコーディングをおこなう機会が増え、イギリス室内管弦楽団やコロンビア交響楽団、マールボロ音楽祭管弦楽団などと数多く共演。
 教育の機会も増え、ニューヨーク州立大学、カリフォルニア大学、シカゴ大学、ミシガン大学、ワシントン大学などで教鞭をとっていました。
  1969年には、若手演奏家たちを集めて「ニューヨーク弦楽オーケストラ」を創設。これも演奏会のほかにセミナーも開催するシステムで、毎年開催して膨大な数の若手演奏家を育てています。
  1972年、若手演奏家たちを集めて「ブランデンブルク・アンサンブル」を創設。客演アーティストにも配慮して、亡くなるまで定期的に演奏会を開催。 1993年2月4日、ニューヨークの自宅で心不全で死去。
1914年
●9月7日、ジャック・ゴロデツキー[1914–1955]、オデッサで誕生。
 第2ヴァイオリン奏者(6代目)、在籍期間:6年(1949-1955)

ジャック・ゴロデツキーはオデッサの生まれですが、生まれて間もなくアメリカに移民したため、ロシア語をほとんど話すことができないアメリカ人でした。音楽の勉強もアメリカでおこないましたが、技術的にも申しぶんなく、ロイスマンもクロイトもシュナイダーも諸手を挙げての歓迎ぶりでした。
 しかし批評家は彼の若い年齢に注目して攻撃をすることも多く、また、大ベテランのロイスマンと自分のヴァイオリンの違いを過剰に意識した結果なのか、次第にゴロデツキーはうつ病に苦しむようになり、やがてメンバーに自殺をほのめかすようになり、1954年2月にはカルテットを辞めたいと言うようにもなっていました。
 そして1955年11月3日、ワシントンのホテルで睡眠薬を多量に服用して自殺してしまいます。

1914年
◆6月28日、サラエヴォ事件発生。フランツ・フェルディナント大公と妻のゾフィーが、ボスニア系セルビア人プリンツィプらにより殺害。
◆7月28日、オーストリア=ハンガリーはセルビアに宣戦布告。第1次世界大戦開戦。オーストリア=ハンガリーの軍事予算は少なく、ドイツの4分の1、フランスの3分の1という金額で、人口に比して兵員数も少なく、火器類も旧式、野砲や重砲も限られ、ドイツの支援を受けなければ戦闘をおこなえない状態でした。
◆8月1日、ドイツがロシアに宣戦布告。
◆8月3日、ドイツがフランスに宣戦布告。
◆8月4日、イギリスがドイツに宣戦布告。

1915年
◆5月23日、イタリアがオーストリア=ハンガリーに宣戦布告。
◆10月、オーストリア=ハンガリー軍がセルビア全土を占領。

1916年
◆6〜9月、第1次世界大戦最大規模の戦いとなったガリツィアでの戦闘で、ドイツ&オーストリア=ハンガリー軍が、ブルシロフ将軍率いるロシア軍に惨敗。死傷者数約200万人。
◆8月、イタリア、ドイツに宣戦布告。
◆8月、ルーマニアが、オーストリア=ハンガリーとドイツに対して宣戦布告。間もなくおこなわれた「トランシルヴァニアの戦い」では、44万人のルーマニア軍が、わずか7万人のドイツ&オーストリア=ハンガリー軍に負けまくり、25万人の犠牲を出して敗退、領土も大きく失うものの、ドイツの敗戦が決定的になると、今度は降伏宣言を撤回し、オーストリア=ハンガリーとドイツに2度目の宣戦布告、まさかの戦勝国となり、領土を大幅に増やすという離れわざを決めていました。ルーマニア政府の決断と行動の素早さは、人口約750万の国が約70万の人命を失い、約12万の戦傷者を抱えたことを考えると、国民の犠牲により国益の増大を狙うという戦争本来の目的に即したものといえると思います。
 一方、オーストリア=ハンガリーは約157万の人命を失い、約362万人の戦傷者を抱え、巨額の賠償も抱え帝国も崩壊することとなります。
◆12月、ブカレスト陥落。

1917年
●第1次大戦のさなか、ハンガリー国立歌劇場(下の画像)のオーケストラのメンバー4人によって「ブダペスト弦楽四重奏団」結成。
●12月、ブダペスト弦楽四重奏団、デビュー。場所に選ばれたのは恩師フバイが名誉教授を務める大学のある古都コロジュバール(独語名:クラウゼンブルク、のちのクルジュ=ナポカ)でした。



1918年
●1月、ブダペスト弦楽四重奏団、ブダペスト・デビュー。会場はウラニア劇場。この公演の成功により、ブダペスト弦楽四重奏団の活動範囲はオランダ、ドイツへと一気に拡大していきます。
◆10月、ブダペストで暴動発生。オーストリア=ハンガリー帝国崩壊により、350年以上に及んだハプスブルク家によるハンガリー統治も終わりをつげ、「アスター革命」へ発展。
◆11月、「ドイツ国(Deutsches Reich)」で「ドイツ革命」勃発。皇帝ヴィルヘルム2世がオランダに亡命し、47年間に及んだ「帝政」(通称:ドイツ帝国)が崩壊し、「ヴァイマル共和政」(通称:ヴァイマル共和国)に移行。
◆11月、オーストリアはイタリアに降伏、パドヴァ近くのヴィラ・ジュスティで休戦協定を結び、ほどなくドイツも降伏、コンピエーニュの森の列車で連合国との休戦協定を締結。
◆11月、「ハンガリー人民共和国」誕生。大統領はミハーイ・カーロイ[1875-1955 下の写真の左の人物]。約3カ月の短命国家。



1919年
◆2月、ハンガリー人民共和国に不満を持つ共産主義者ベーラ・クン[1886-1939 下の写真の左の人物]率いるハンガリー共産党や、労働者、ユダヤ人などの共産主義者による暴動が発生、ロシア革命に呼応した「ハンガリー革命」へ発展。
◆3月、「ハンガリー評議会共和国」が誕生。約4.5カ月の短命国家。
◆4月、ハンガリー・ルーマニア戦争勃発。
◆6月、ホルティ将軍が国民軍を率いて蜂起。
◆8月、ルーマニア軍がブダペストを占領。「ハンガリー共和国臨時政府」誕生。



1920年
◆3月、ルーマニア軍が大量の略奪品と共にブダペストから撤収。
◆3月、「ハンガリー王国」誕生。王位は空位。国家元首として、国民議会が帝国海軍総司令官だったミクローシュ・ホルティ[1868-1957 下の写真の左の人物]を選出、24年7カ月に及ぶ緩やかな独裁政権を維持。1944年10月にはハンガリーはナチ政権の支配下となり、ドイツ敗戦の1945年5月まで、「矢十字党」が傀儡ファシズム政権を運営、ホロコーストにも積極的に加担します。
◆「オーストリア=ハンガリー帝国」が消失し、「ハンガリー王国」が誕生したことで、それまでの親ユダヤ的な政策方針が廃止、さっそく反ユダヤ法が整備され始めてさまざまな規制をおこなうようになります。
●ブダペスト弦楽四重奏団、第2ヴァイオリン奏者のインディグが、コンセルトヘボウ管弦楽団コンサートマスターに就任するために退団。後任はハンガリー国立歌劇場管弦楽団員で、カルテットのメンバー全員と面識のあったイムレ・ポガニー。



1921年
●ブダペスト弦楽四重奏団、ベルリン・デビュー。この頃までにブダペスト弦楽四重奏団は、フランス、イタリア、スペイン、ドイツなどヨーロッパ各国で演奏し、年間公演数も125回に達するなど、すでに国際的な名声を確立していました。ちなみに名前の方はハンガリー語と英語、ドイツ語では、「ブダペスト弦楽四重奏団」と「弦楽」が入っていましたが、フランス語、イタリア語、スペイン語では「ブダペスト四重奏団」と「弦楽」抜きになることが多かったようです。

1922年

1923年
◆ドイツのルール工業地帯をフランスが占領。労働者ストライキなどによりハイパーインフレ発生。これによりドイツ政府は、ドイツ国民からの負債を解消することに成功。
1924年
●10月、資産家のエリザベス・スプラーグ・クーリッジ夫人[1864-1953]が、アメリカ議会図書館の中庭に、舞台幅約9メートル、客席数511の室内楽コンサート・ホール「クーリッジ・オーディトリアム」の建設を提案。6万ドルの提供を申し出ます。エリザベスの父は食品卸で財を成した人物で、ピアニストでもあった彼女はその巨額の遺産を相続。室内楽音楽祭を支援し、多くの作曲家に作品を委嘱するなど室内楽の発展に貢献。

1925年
●1月、クーリッジ夫人の提案が議会を通りクーリッジ大統領(エリザベスとは無関係)も署名、「クーリッジ・オーディトリアム」の建設が決定。実際の建設費は6万ドルを超えましたが、差額も夫人が支払いました。
●3月、クーリッジ夫人は、ホールの運営にあたる議会図書館音楽課を支援するため、信託基金を設立することを提案していましたが、政府機関内の信託基金設立という前例の無い案件ながら大統領は署名。夫人は40万ドルを譲渡し、利息が運営費や作曲委嘱料に充てられるようになり、多くの作品が誕生することになります。
●5月、ブダペスト弦楽四重奏団、イギリス・ツアーで大成功。
●5月、ブダペスト弦楽四重奏団、HMVと契約。
●10月、クーリッジ・オーディトリアムがオープン。以後、議会図書館でのコンサートが数多く開催されることになり、1938年にはブダペスト弦楽四重奏団も登場します。

1926年

1927年
●ボリス・クロイト、グァルネリ・カルテット[1925-1934]にヴィオラ奏者として参加。1934年に解散するまでの7年間在籍します。
●春、第2ヴァイオリン奏者のポガニーが退団。後任はオデッサ歌劇場管弦楽団コンサートマスター出身で、当時はベルリンのウーファ映画スタジオの80人編成の楽団で働いていたロイスマン。
●9月17日、ブダペスト弦楽四重奏団、ノルウェーのオスロでベートーヴェンのラズモフスキー・セットを演奏。ロイスマン初参加。
●11月、ブダペスト弦楽四重奏団、ベルリンでシューベルト・プログラム。
1928年

1929年

1930年
●6〜8月、ブダペスト弦楽四重奏団、インドネシア・ツアー。問題の多発したツアーでした。

1931年
●1〜2月、ブダペスト弦楽四重奏団、アメリカ・ツアー。マネジメントの問題などにより、ほとんど収入の得られない苦いツアーとなりました。

1932年
●5月、第1ヴァイオリンのエミール・ハウザー、ブダペスト弦楽四重奏団を退団。後任はロイスマンで、第2ヴァイオリンの後任はアレクサンダーシュナイダー。

1933年
●2月、ブダペスト弦楽四重奏団、アメリカ・ツアー。成功を収めます。
●4月、ブダペスト弦楽四重奏団、ドイツを去り、パリでベートーヴェン全曲演奏会を開催し成功。この頃には副業禁止の基本方針は緩和されるようになります。

1934年
●資産家のガートルード・クラーク・ウィットール夫人[1867-1965]がワシントンに転居。カーペット製造で巨大な財を成した夫マシュー・ジョン・ウィットール[1843-1922]の遺産を受け継いだ彼女は、アメリカ議会図書館に対し、所有する5本のストラディヴァリを用いた室内楽コンサートを開催するにあたり資金援助をおこなうことを提案。
●秋、ブダペスト弦楽四重奏団、インドネシア・ツアー。成功を収めます。

1935年
●春から夏、ブダペスト弦楽四重奏団、3カ月かけてアメリカ・ツアー。
●秋、ブダペスト弦楽四重奏団、インドネシア・ツアー。
●秋から翌年にかけて、ブダペスト弦楽四重奏団、オーストラリア・ツアー。オーストラリア放送の公演による7か月間に及ぶツアーでした。
●ガートルード・クラーク・ウィットール夫人が、アメリカ議会図書館に、ストラディヴァリ(ヴァイオリン×2、ヴィオラ×1、チェロ×1)を寄贈。

1936年
●ヴィオラのイポイーがブダペスト弦楽四重奏団を退団。
●ロイスマンは後任として、オデッサ時代の知り合いでもあるエドガル・オルテンベルク(英読名エドガー・オーテンバーグ)に入団交渉。パリでカルテットを結成し第1ヴァイオリン奏者を務めていたオルテンベルクですが、有名団体の誘いということでヴィオラ奏者への転向を承諾。しかし彼の妻は激高して猛反対したため、話は流れてしまいます。
●5月、ロイスマンは、ヴィオラの後任探しで、少年時代にシュテルン音楽院で学んだ仲でもあるボリス・クロイトとパリで交渉。承諾を得て翌月に契約。
●8月、ブダペスト弦楽四重奏団、ノルウェー・ツアー。
●ガートルード・クラーク・ウィットール夫人が、アメリカ議会図書館に「ガートルード・クラーク・ウィットール財団」を設立。

1937年
●ガートルード・クラーク・ウィットール夫人が、アメリカ議会図書館に、ストラディヴァリ(ヴァイオリン×1)を寄贈。

1938年
●ガートルード・クラーク・ウィットール夫人が、アメリカ議会図書館に楽器や楽譜・資料などを収容する目的で「ウィットール・パヴィリオン」を建設。1941年には、ヨーロッパの作曲家による18〜20世紀のオリジナル写本のコレクションを開始し、バッハ、ベートーヴェン、ベルク、ブラームス、ハイドン、フェリックス&ファニー・メンデルスゾーン、マイヤーベーア、モーツァルト、パガニーニ、レーガー、クララ・シューマン、シェーンベルク、シューベルト、ワーグナー、ウェーバーの重要な原稿のスケッチとスコア、手紙などを蒐集。ブラームスに関する資料の規模はウィーン以外では最大のものとなっていました。
●3月、ブダペスト弦楽四重奏団、船でニューヨークに到着。演奏旅行目的での渡米でしたが、入国管理局職員から不審に思われてエリス島に送られることになります。エージェントのアニー・フリードバーグは有力者の力を借りるべく奔走し、ニューヨーク市長フィオレロ・ラガーディア[1882-1947]の助けを得ることができ、無事入国となりました。
●12月、ブダペスト弦楽四重奏団、アメリカ議会図書館で3回のコンサートを開催して大成功。公演の様子は放送され、ブダペスト弦楽四重奏団の知名度は一気に上がっていきます。

1939年
●2〜5月、ブダペスト弦楽四重奏団、ヨーロッパ・ツアーで大成功。パリ、アムステルダム、ブリュッセル、ノルウェー、イギリスを周り34公演おこないます。
●6〜8月、ブダペスト弦楽四重奏団、カリフォルニアのミルズ・カレッジで教えながら休暇を取得。
●9月、ドイツがポーランドに侵攻したことを受け、イギリスのエージェントから、予定されていた公演契約が戦争によりすべて破棄されることが通達されます。フランス、オランダ、ベルギーで予定されていた公演についても同様の扱いになることが予測されたため、ブダペスト弦楽四重奏団は当面、アメリカ国内だけの演奏活動が続くことを覚悟、そして先に申し入れのあったアメリカ議会図書館のカルテット・イン・レジデンスというポジションを受け入れることを決定。

1940年
●5月、ブダペスト弦楽四重奏団、アメリカ議会図書館のカルテット・イン・レジデンスとしての契約に署名。
◆9月、1940年の選抜訓練徴兵法、ルーズヴェルト大統領(民主党)が署名して成立。18〜65歳の全男性に徴兵登録を要求、18〜45歳の全男性に徴兵登録を義務付け。兵役期間は18か月。第二次世界大戦では1,011万人が徴兵。

1941年
●アレクサンダーシュナイダー、兵役検査で失格。少年時代の破傷風の治療が原因でした。
●8月17日、ブダペスト弦楽四重奏団、ラヴィニア・フェスティヴァルで大成功。室内楽で2,853名を集める人気でした。 ◆12月、アメリカ、第2次世界大戦に参戦。

1942年
●10月1日、初代チェロ奏者ハリー・ソン[1880-1942]、死去。
●ブダペスト弦楽四重奏団、戦時ということで、アメリカ国歌『星条旗』をコンサートの冒頭で演奏できるよう作曲家のロイ・ハリスに弦楽四重奏用編曲を依頼しますが、実際に演奏すると、カンザス出身の保守的な批評家、グレン・ディラード・ガン[1874-1963]から攻撃を受けますが、アメリカ人のハリスの編曲である旨を伝えると攻撃は収まりました。

1943年
●冬、ブダペスト弦楽四重奏団、全米22都市を回るツアーを実施。各地で絶賛されますが、中でもヘラルド=トリビューン紙のヴァージル・トムソンによる「アンサンブルは最近ではダイナミックレンジを拡大し、サウンドの完璧さを失うことなくソノリティの魅力を増した」と絶賛していました。

1944年
●3月9日、第5代第2ヴァイオリン奏者エドガー・オーテンバーグ、初登場。
●11月、シュナイダー兄弟の母と姉妹、アウシュヴィッツで虐殺。

1945年
●8月、第2次世界大戦終戦。犠牲者合計約6,000万人。

1946年
●ブダペスト弦楽四重奏団の戦時中の印税収入は、Columbiaが56,670ドル、RCA Victorが16,500ドル。戦時でも大人気でした。

1947年
●ロイスマン、自動車事故で鎖骨を骨折。

1948年

1949年

1950年
●ブダペスト弦楽四重奏団、スイス、イタリア、フランス、オランダ、スコットランド、ロンドンを中心にツアー開催。ドイツからも招かれますが、元メンバーや家族をドイツ人に殺されていたため拒否。

1951年
●8月、ブダペスト弦楽四重奏団、シカゴのラヴィニア・フェスティヴァルで演奏。

1952年
●9月、ブダペスト弦楽四重奏団、NHKの招聘で来日。札幌から福岡まで縦断する全国ツアーでしたが、12日、岡山公演の後にメンバーと一緒に散歩していたロイスマンが、道路わきの深さ3メートル近い側溝(用水路)に転落して左手首の骨にヒビが入り、演奏不能になったため、以降の公演は中止。ロイスマンは14日朝に東京に戻って聖路加国際病院に入院、24日にはアメリカに帰国しています。
 転落現場は街灯のほとんどない道路で、対向車のライトに目が眩み、防護柵も何もないところだったため転落してしまったという惨事です。岡山県の用水路は総延長約4,000キロと日本最大の規模ですが、防護柵設置率が非常に低いため、半世紀以上経過した現在でも用水路に転落する事故が後を絶たず、年間10人以上が命を落とすことも珍しくないのだとか。
 ロイスマンはリハビリを経て4カ月ほどで現場復帰していますが、ブダペスト弦楽四重奏団としては、シーズンの半分を犠牲にするわけにもいかないため、その間、プログラム変更して、ホルショフスキーやバルサムらを招いてピアノ四重奏曲、ピアノ三重奏曲を演奏したり、弦楽三重奏曲などをとりあげたりしてピンチをしのいでいました。
 ちなみにガジェット好きのクロイトは、ニューヨーク・タイムズで絶賛されていたニコンを買って帰っています。

1953年
●1月、ブダペスト弦楽四重奏団、ポートランドでベートーヴェン・シリーズ。ロイスマンの復帰公演でした。
●7月、朝鮮戦争休戦。犠牲者合計約250万人。

1954年
●1〜3月、ブダペスト弦楽四重奏団、来日。1952年の負傷キャンセルの埋め合わせのためか、大規模なツアーとなりました。

1955年
●1月2日、ヴィオラ奏者(初代)、イシュトヴァーン・イポイー[1886–1955]、ノルウェーのベルゲンで死去。在籍期間:19年(1917-1936)
●夏、アレクサンダーシュナイダーがマールボロ音楽祭を初めて訪問。翌年から出演することが決定(1991年まで)。
●ブダペスト弦楽四重奏団、バッファロー大学のカルテット・イン・レジデンスに任命。1966年まで務めます。
●11月3日、第2ヴァイオリン奏者(6代目)、ジャック・ゴロデツキー[1914–1955]、うつ病のため、ワシントンのホテルで睡眠薬自殺。在籍期間:6年(1949-1955)

1956年
●ブダペスト弦楽四重奏団、1956年のシーズンは99公演実施。

1957年

1958年

1959年
●ブダペスト弦楽四重奏団、1956年のシーズンは86公演実施。

1960年
●クリスマス休暇中、ロイスマン、軽度の心臓発作を引き起こします。ロイスマンの父は心臓発作で亡くなっており、ロイスマン自身も長年、高血圧に悩まされていました。この頃から、ツアーにはロイスマン夫人も同行するようになりますが、それはロイスマンの経済的な負担が他のメンバーの2倍ということでもありました。

1961年
●ウィットール夫人[1867-1965]、ブダペスト弦楽四重奏団のレジデント契約を解消し、後任をジュリアード弦楽四重奏団にすることを決定。当時彼女は94歳でした。
1962年
●3月29〜30日、ブダペスト弦楽四重奏団、アメリカ議会図書館カルテット・イン・レジデンスとしての最後のコンサート。1938年に初めてクーリッジ・オーディトリアムで演奏してからほぼ四半世紀が経過、ブダペスト弦楽四重奏団の同ホールでの演奏回数は465回に達していました。
●秋、ブダペスト弦楽四重奏団、ヨーロッパ・ツアー。
●ロイスマン、ヨーロッパ・ツアー中に背中を痛め、動くことも困難になります。ツアーは残りのメンバーによってプログラムをピアノ四重奏曲などに変更して継続。

1963年
●春、ブダペスト弦楽四重奏団、ヨーロッパ・ツアー。ロイスマンが復帰します。
●8月、ブダペスト弦楽四重奏団、マールボロ音楽祭に参加。

1964年
●ブダペスト弦楽四重奏団、1964年のシーズンは65の公演予定のうち59公演を実施。
●4月、ミッシャ・シュナイダー、バッファローでチェロ・リサイタル。
●11月、ミッシャ・シュナイダー、クーリッジ・オーディトリアムでチェロ・リサイタル。
●12月、ブダペスト弦楽四重奏団、Columbiaにレコーディング。

1965年
●1月、ブダペスト弦楽四重奏団、Columbiaに最後のレコーディング。
●4月、ボリス・クロイト、バッファローでヴィオラ・リサイタル。
●5月、ミッシャ・シュナイダー、バッファローでチェロ・リサイタル。
●ミッシャ・シュナイダーとクロイトは、グァルネリ四重奏団のチャイコフスキー『フィレンツェの思い出』のRca Victorの録音に参加。
●ミッシャ・シュナイダー、背骨の手術のためバッファローで入院。以後、チェロの演奏は不可能となり、ほどなく愛器ゴフリラーも売却。しかしカーティス音楽院とカリフォルニア芸術学校での教職は続けました。

1966年
●3月、ボリス・クロイト、クーリッジ・オーディトリアムでヴィオラ・リサイタル。
●ブダペスト弦楽四重奏団、バッファロー大学のカルテット・イン・レジデンスを退任。11年間の任期でした。

1967年
●2月、ボリス・クロイト、マレー・ペライア、ハロルド・ライトとVOXに録音。モーツァルト、ブルッフ、ブラームス。クーリッジ・オーディトリアム。
●2月、ブダペスト弦楽四重奏団、最後のコンサート。チェロは代役のレスリー・パーナス[1931- ]。
1968年
●ボリス・クロイト、アレクサンダーシュナイダー、ホルショフスキのトリオでバッファローで演奏。
●ボリス・クロイト、ルース&ジェイミー・ラレードのトリオでバッファローで演奏。
●ボリス・クロイト、胃癌の手術。

1969年
●11月15日、ヴィオラ奏者(2代目)、ボリス・クロイト[1897–1969]、ニューヨークで死去。在籍期間:31年(1936-1967)

1974年
●10月9日、第1ヴァイオリン奏者(2代目)、第2ヴァイオリン奏者(3代目)、ジョセフ・ロイスマン[1900–1974]、ワシントンで心臓発作のため死去。在籍期間:35年(1932-1967)

1975年
◆4月30日、サイゴン陥落により、ベトナム戦争が終結。犠牲者合計約800万人。
●8月25日、第2ヴァイオリン奏者(2代目)、イムレ・ポガニー[1893–1975]、マイアミで死去。在籍期間:7年(1920-1927)

1978年
●1月27日、第1ヴァイオリン奏者(初代)、エミール・ハウザー[1893–1978]、エルサレムで死去。在籍期間:15年(1917-1932)

1985年
●10月3日、チェロ奏者(2代目)、ミッシャ・シュナイダー[1904–1985]、バッファローで死去。在籍期間:37年(1930-1967)

1993年
●2月2日、第2ヴァイオリン奏者(4代目&7代目)、アレクサンダー・シュナイダー[1908–1993]、ニューヨークで心不全のため死去。在籍期間:24年(1932-1944、1955-1967)

1996年
●5月16日、第2ヴァイオリン奏者(4代目)、エドガー・オーテンバーグ[1900–1996]、フィラデルフィアで死去。在籍期間:5年(1944-1949)


【収録情報】

Disc1
●ベートーヴェン:弦楽四重奏曲第1番 Op.18-1
ブダペスト弦楽四重奏団(ロイスマン、オーテンバーグ、クロイト、シュナイダー)
録音:1944年3月23日、クーリッジ・オーディトリアム

●ベートーヴェン:弦楽四重奏曲第2番 Op.18-2
ブダペスト弦楽四重奏団(ロイスマン、オーテンバーグ、クロイト、シュナイダー)
録音:1944年4月13日、クーリッジ・オーディトリアム

●ベートーヴェン:弦楽四重奏曲第3番 Op.18-3
ブダペスト弦楽四重奏団(ロイスマン、オーテンバーグ、クロイト、シュナイダー)
録音:1944年3月9日、クーリッジ・オーディトリアム

Disc2
●ベートーヴェン:弦楽四重奏曲第4番 Op.18-4
ブダペスト弦楽四重奏団(ロイスマン、シュナイダー、クロイト、シュナイダー)
録音:1962年3月30日、クーリッジ・オーディトリアム

●ベートーヴェン:弦楽四重奏曲第5番 Op.18-5
ブダペスト弦楽四重奏団(ロイスマン、シュナイダー、クロイト、シュナイダー)
録音:1943年11月1日、クーリッジ・オーディトリアム

●ベートーヴェン:弦楽四重奏曲第6番 Op.18-6
ブダペスト弦楽四重奏団(ロイスマン、シュナイダー、クロイト、シュナイダー)
録音:1960年11月11日、クーリッジ・オーディトリアム

Disc3
●ベートーヴェン:弦楽四重奏曲第7番 Op.59-1『ラスモフスキー第1番』
ブダペスト弦楽四重奏団(ロイスマン、シュナイダー、クロイト、シュナイダー)
録音:1941年10月26日、クーリッジ・オーディトリアム

●ベートーヴェン:弦楽四重奏曲第8番 Op.59-2『ラスモフスキー第2番』
ブダペスト弦楽四重奏団(ロイスマン、シュナイダー、クロイト、シュナイダー)
録音:1960年4月1日、クーリッジ・オーディトリアム

Disc4
●ベートーヴェン:弦楽四重奏曲第9番 Op.59-3『ラスモフスキー第3番』
ブダペスト弦楽四重奏団(ロイスマン、オーテンバーグ、クロイト、シュナイダー)
録音:1946年3月6,7日、クーリッジ・オーディトリアム

●ベートーヴェン:弦楽四重奏曲第10番 Op.74『ハープ』
ブダペスト弦楽四重奏団(ロイスマン、シュナイダー、クロイト、シュナイダー)
録音:1941年9月7日、クーリッジ・オーディトリアム

Disc5
●ベートーヴェン:弦楽四重奏曲第11番 Op.95『セリオーソ』
ブダペスト弦楽四重奏団(ロイスマン、シュナイダー、クロイト、シュナイダー)
録音:1940年3月3日、クーリッジ・オーディトリアム

●ベートーヴェン:弦楽四重奏曲第12番 Op.127
ブダペスト弦楽四重奏団(ロイスマン、シュナイダー、クロイト、シュナイダー)
録音:1941年3月15日、クーリッジ・オーディトリアム

Disc6
●ベートーヴェン:弦楽四重奏曲第13番 Op.130
ブダペスト弦楽四重奏団(ロイスマン、シュナイダー、クロイト、シュナイダー)
録音:1960年4月7日、クーリッジ・オーディトリアム

●ベートーヴェン:弦楽四重奏曲第14番 Op.131
ブダペスト弦楽四重奏団(ロイスマン、シュナイダー、クロイト、シュナイダー)
録音:1943年5月7日

Disc7、クーリッジ・オーディトリアム
●ベートーヴェン:弦楽四重奏曲第15番 Op.132
ブダペスト弦楽四重奏団(ロイスマン、オーテンバーグ、クロイト、シュナイダー)
録音:1945年12月20日、クーリッジ・オーディトリアム

●ベートーヴェン:弦楽四重奏曲第16番 Op.135
ブダペスト弦楽四重奏団(ロイスマン、シュナイダー、クロイト、シュナイダー)
録音:1943年3月16日、クーリッジ・オーディトリアム

Disc8
●ベートーヴェン:大フーガ Op.133
ブダペスト弦楽四重奏団(ロイスマン、シュナイダー、クロイト、シュナイダー)
録音:1960年4月7日、クーリッジ・オーディトリアム

●ベートーヴェン:ピアノと管楽器のための五重奏曲 Op.16(ピアノ四重奏版)
ミエチスワフ・ホルショフスキ(P)
ブダペスト弦楽四重奏団員(ロイスマン、クロイト、シュナイダー)
録音:1955年4月7日、クーリッジ・オーディトリアム

Disc9
●ハイドン:弦楽四重奏曲第53(67)番 Op.64-5 Hob.III:63『ひばり』
ブダペスト弦楽四重奏団(ロイスマン、シュナイダー、クロイト、シュナイダー)
録音:1940年8月3日、クーリッジ・オーディトリアム

●ハイドン:弦楽四重奏曲第64(79)番 Op.76-5 Hob.III:79
ブダペスト弦楽四重奏団(ロイスマン、シュナイダー、クロイト、シュナイダー)
録音:1941年3月29日、クーリッジ・オーディトリアム

●ハイドン:ピアノ三重奏曲第39番 Hob.XV:25『ジプシー』
ミエチスワフ・ホルショフスキ(P)
ブダペスト弦楽四重奏団員(ロイスマン、シュナイダー)
録音:1955年4月7日、クーリッジ・オーディトリアム

●ブラームス:ピアノ五重奏曲 Op.34
ジョージ・セル(P)
ブダペスト弦楽四重奏団(ロイスマン、オーテンバーグ、クロイト、シュナイダー)
録音:1945年10月11日、クーリッジ・オーディトリアム

Disc10
●ブラームス:ピアノ四重奏曲第1番 Op.25
アルトゥール・バルサム(P)
ブダペスト弦楽四重奏団(ロイスマン、ゴロデツキー、クロイト、シュナイダー)
録音:1951年12月18日、クーリッジ・オーディトリアム

●ショスタコーヴィチ:ピアノ五重奏曲 Op.57
アルトゥール・バルサム(P)
ブダペスト弦楽四重奏団(ロイスマン、ゴロデツキー、クロイト、シュナイダー)
録音:1951年12月18日、クーリッジ・オーディトリアム

Disc11
●シューベルト:ピアノ五重奏曲 D.667『鱒』
アルトゥール・バルサム(P)
ジュリアス・レヴィーン(コントラバス)
ブダペスト弦楽四重奏団員(ロイスマン、クロイト、シュナイダー)
録音:1956年4月26日、クーリッジ・オーディトリアム

●シューベルト:ピアノ五重奏曲 D.667『鱒』
ジョージ・セル(P)
ジョルジュ・モルー(コントラバス)
ブダペスト弦楽四重奏団員(ロイスマン、クロイト、シュナイダー)
録音:1946年5月16日、クーリッジ・オーディトリアム

Disc12
●ラフマニノフ:弦楽四重奏曲第1番
ブダペスト弦楽四重奏団(ロイスマン、ゴロデツキー、クロイト、シュナイダー)
録音:1952年4月4日、クーリッジ・オーディトリアム

●ラフマニノフ:悲しみの三重奏曲第2番 Op.9
アルトゥール・バルサム(P)
ブダペスト弦楽四重奏団員(ロイスマン、シュナイダー)
録音:1952年4月4日、クーリッジ・オーディトリアム

●ラフマニノフ:弦楽四重奏曲第2番
ブダペスト弦楽四重奏団(ロイスマン、ゴロデツキー、クロイト、シュナイダー)
録音:1952年4月4日、クーリッジ・オーディトリアム

Disc13
●ベートーヴェン:ピアノ三重奏曲第11番ト長調Op.121a『仕立て屋カカドゥの主題による変奏曲とロンド』
ジョージ・セル(ピアノ)
ブダペスト弦楽四重奏団員(ロイスマン、ミッシャ・シュナイダー)
録音:1946年5月16日

●ドヴォルザーク:ピアノ五重奏曲第2番イ長調 Op. 81
ジョージ・セル(ピアノ)
ブダペスト弦楽四重奏団(ロイスマン、シュナイダー、クロイト、シュナイダー)
録音:1945年4月16日

Disc14
●シューマン:弦楽四重奏曲第1番イ短調 Op.41 No.1
ブダペスト弦楽四重奏団(ロイスマン、シュナイダー、クロイト、シュナイダー)
録音:1961年10月5日

●メンデルスゾーン:弦楽四重奏曲第3番ニ長調 Op.44 No.1
ブダペスト弦楽四重奏団(ロイスマン、ゴロデツキー、クロイト、シュナイダー)
録音:1953年11月13日

Disc15
●モーツァルト:弦楽四重奏曲第15番 KV 421
ブダペスト弦楽四重奏団(ロイスマン、シュナイダー、クロイト、シュナイダー)
録音:1943年12月20日、クーリッジ・オーディトリアム

●モーツァルト:弦楽四重奏曲第18番 KV 464
ブダペスト弦楽四重奏団(ロイスマン、シュナイダー、クロイト、シュナイダー)
録音:1943年12月18日、クーリッジ・オーディトリアム

●モーツァルト:ピアノ四重奏曲第2番 KV 493
ジョージ・セル(P)
ブダペスト弦楽四重奏団員(ロイスマン、クロイト、シュナイダー)
録音:1945年10月11〜12日、クーリッジ・オーディトリアム

Disc16
●モーツァルト:クラリネット五重奏曲 KV 581
グスターヴ・ランゲナス(クラリネット)
ブダペスト弦楽四重奏団(ロイスマン、シュナイダー、クロイト、シュナイダー)
録音:1940年9月14日、クーリッジ・オーディトリアム

●モーツァルト:ディヴェルティメント KV 563
ブダペスト弦楽四重奏団員(ロイスマン、クロイト、シュナイダー)
録音:1944年11月2日、クーリッジ・オーディトリアム

Disc17
●モーツァルト:ピアノ四重奏曲第1番 KV 478
クラウディオ・アラウ(P)
ブダペスト弦楽四重奏団員(ロイスマン、クロイト、シュナイダー)
録音:1943年5月20〜21日、クーリッジ・オーディトリアム
●モーツァルト:ピアノ四重奏曲第2番 KV 493
クリフォード・カーゾン(ピアノ)
ブダペスト弦楽四重奏団員(ロイスマン、クロイト、シュナイダー)
録音:1951年4月27日、クーリッジ・オーディトリアム

●シューマン:ピアノ五重奏曲 Op.44
クリフォード・カーゾン(ピアノ)
ブダペスト弦楽四重奏団(ロイスマン、ゴロデツキー、クロイト、シュナイダー)
録音:1951年4月27日、クーリッジ・オーディトリアム

Disc18
●シューマン:ピアノ五重奏曲 Op.44
アルトゥール・バルサム(P)
ブダペスト弦楽四重奏団(ロイスマン、ゴロデツキー、クロイト、シュナイダー)
録音:1953年12月18日、クーリッジ・オーディトリアム

●フランク:ピアノ五重奏曲 Op.14
アルトゥール・バルサム(P)
ブダペスト弦楽四重奏団(ロイスマン、ゴロデツキー、クロイト、シュナイダー)
録音:1953年12月18日、クーリッジ・オーディトリアム

Disc19
●ヘンデル:ハープ協奏曲 Op.4-6 HWV 294(ハープ&弦楽四重奏版)
マルセル・グランジャニー(ハープ)
ブダペスト弦楽四重奏団(ロイスマン、シュナイダー、クロイト、シュナイダー)
録音:1941年3月19日、クーリッジ・オーディトリアム

●メイソン:黒人の主題による弦楽四重奏曲 Op.19
ブダペスト弦楽四重奏団(ロイスマン、シュナイダー、クロイト、シュナイダー)
録音:1942年5月16日、クーリッジ・オーディトリアム

●ドビュッシー:神聖な舞曲と世俗的な舞曲(ハープ&弦楽四重奏版)
マルセル・グランジャニー(ハープ)
ブダペスト弦楽四重奏団(ロイスマン、シュナイダー、クロイト、シュナイダー)
録音:1941年3月19日、クーリッジ・オーディトリアム

●グリフィス:インドの主題による2つのスケッチ
ブダペスト弦楽四重奏団(ロイスマン、シュナイダー、クロイト、シュナイダー)
録音:1943年5月6日、クーリッジ・オーディトリアム

●ドヴォルザーク:弦楽四重奏曲 Op.96『アメリカ』〜第2楽章レント
ブダペスト弦楽四重奏団(ロイスマン、ゴロデツキー、クロイト、シュナイダー)
録音:1949年10月20日、クーリッジ・オーディトリアム

●アクスト:『ダイナ』
ブダペスト弦楽四重奏団(ロイスマン、オーテンバーグ、クロイト、シュナイダー)
録音:1948年3月12日、クーリッジ・オーディトリアム


Disc20
●フランク:ピアノ五重奏曲 Op.14
クリフォード・カーゾン(ピアノ)
ブダペスト弦楽四重奏団(ロイスマン、シュナイダー、クロイト、シュナイダー)
録音:1956年12月18日、クーリッジ・オーディトリアム

●フォーレ:ピアノ四重奏曲第1番 Op.15
ヘスス・マリア・サンロマ(ピアノ)
ブダペスト弦楽四重奏団員(ロイスマン、クロイト、シュナイダー)
録音:1957年10月31日、クーリッジ・オーディトリアム

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