「シェッファー四重奏団」の芸術(15CD)
室内楽マニアにはよく知られる「シェッファー四重奏団」は、クルト・シェッファーにより結成されたドイツの弦楽四重奏団。シェッファーはギュンター・ヴァントの友人で、ヴァントのもとでモーツァルテウム管弦楽団やギュルツェニヒ管弦楽団のコンサートマスターを務めた人物でもあり、その縁から、ヴァントと関係の深かったフランスの会員制通販レーベル「クラブ・フランセ・デュ・ディスク」でレコーディングを実施、ベートーヴェンの弦楽四重奏曲全曲やモーツァルト、シューベルトなどの見事なアルバムを制作していました。
「クラブ・フランセ」でのレコーディングに携わっていたのは初代メンバーで、上の画像、左から、クルト・シェッファー(第1ヴァイオリン)、フランツヨーゼフ・マイヤー(第2ヴァイオリン)、フランツ・バイヤー(ヴィオラ)、クルト・ヘルツブルッフ(チェロ)の4名となっています。
今回登場するセットは、その「クラブ・フランセ」録音を集めたものですが、ARS NOVAからはすでに、
パスカル四重奏団、
シュナイダー四重奏団、
ハリウッド弦楽四重奏団、
ブダペスト弦楽四重奏団、
伝説のフランス弦楽四重奏団、
グリラー弦楽四重奏団というマニアックなカルテット・ボックスがリリース済みで内容も良かっただけに、今回のセットにも期待が持てるところです。
クラブ・フランセ
フランスのレーベル「ル・クラブ・フランセ・デュ・ディスク」は、フランスの会員制通販出版社「ル・クラブ・フランセ・デュ・リーヴル」が1953年に興したレコード部門。
第2次大戦後、国土が戦場となって荒廃していたヨーロッパ諸国では、書店や出版社も大きな打撃を受けており、そうした状況の中、会員制で在庫リスクが少なく、販売諸経費の抑制も容易な書籍通販事業者の勢力が拡大。「ル・クラブ・フランセ・デュ・リーヴル」はそうした事業者の中で最も成功したものでした。
同社は、1930年代なかばにドイツからパリに移住してきたユダヤ系ドイツ人のパウル・シュタイン(1943年にジャン=ポール・ロピタールと改名)によって1946年にパリで創業。順調に会員数を伸ばした同社は、1953年、まだ高価ながらも世に広まりつつあったLPレコードの分野にも進出。クラシックとジャズを中心に制作をおこない、豊富な会員を対象とした予約システムを背景に、たとえばヴァントの『英雄』は3か月ほどで1万6千枚以上を売り上げるなど、新参ながら販売力のあるレーベルとして、音楽好きへの知名度も向上して行きます。
しかし、1968年にロピタール社長は、百科事典の仕事に経営資源を集中するため、レコード部門の活動停止を決定、ほどなくクラブ・フランセのプロデューサーも務めていたフィリップ・トーマスの経営するレコード会社「ミュジディスク」に全音源が売却されることとなり、ヴァントとの関係も終了。
「シェッファー四重奏団」のクラブ・フランセへのレコーディングは、1956年から1959年にかけて、パリのスコラ・カントルムでおこなわれていました。
「シェッファー四重奏団」
1945年に、シェッファー、マイヤー、バイヤー、ヘルツブルッフのメンバー構成で「ギュルツェニヒ四重奏団」の名前で活動を開始したシェッファー率いるカルテットは、1948年に「シェッファー四重奏団」と改名。
初代メンバーは、それぞれのちに有名になる実力派揃いで、全員が「コレギウム・アウレウム」や「カペラ・コロニエンシス」といった黎明期の古楽系団体でも活動しており、16〜18世紀の作品を集めた「初期弦楽四重奏曲集」という3枚組LPを制作してもいました(米VOXレーベル)。
しかし1960年には、シェッファー以外は「フィルハーモニア・フンガリカ」の面々と交代し、どちらかというと20世紀作品にシフトした活動傾向になるので、1960年以降は、名前は同じでも別団体と考えた方が良さそうです。
今回登場するセットは、すべて「クラブ・フランセ」の音源で、「録音メンバー=初代メンバー」ということなので、以下に初代メンバーについて簡単にまとめておきます。
●第1ヴァイオリン:クルト・シェッファー
演奏歴:「ケルン帝国放送室内管弦楽団」首席奏者、「モーツァルテウム管弦楽団」首席奏者、「モーツァルテウム四重奏団」、「シェッファー三重奏団」、「旧シェッファー四重奏団」、「バート・ライヘンハル・フィル」首席奏者兼指揮者、「ギュルツェニヒ管弦楽団」首席奏者、「ギュルツェニヒ四重奏団」、「シェッファー四重奏団」、「カペラ・コロニエンシス」、等。
教職歴:デュッセルドルフ・ロベルト・シューマン音楽院。
●第2ヴァイオリン:フランツヨーゼフ・マイヤー
演奏歴:「ギュルツェニヒ四重奏団」、「北西ドイツ放送コレギウム・ムジクム、「シェッファー四重奏団」、「コレギウム・アウレウム」首席奏者→「コレギウム・アウレウム四重奏団」、等。
教職歴:デュッセルドルフ・ロベルト・シューマン音楽院、ケルン音楽院。
●ヴィオラ:フランツ・バイヤー
演奏歴:「ギュルツェニヒ四重奏団」、「シェッファー四重奏団」、「シュトループ四重奏団」、「シュトゥットガルト室内管弦楽団」首席奏者、「カペラ・コロニエンシス」、「コレギウム・アウレウム」、等。
教職歴:デトモルト北西ドイツ音楽アカデミー、デュッセルドルフ・ロベルト・シューマン音楽院、ケルン音楽院。
研究歴:モーツァルト:レクィエム、大ミサの「バイヤー版」作成。その他、20人以上の作曲家による150を超える作品の修復作業を実施したほか、ハイドンの3つのヴァイオリン協奏曲のカデンツァを作曲。
●チェロ:クルト・ヘルツブルッフ
演奏歴:「ギュルツェニヒ四重奏団」、「シェッファー四重奏団」、「コレギウム・アウレウム」、等。
教職歴:デュッセルドルフ・ロベルト・シューマン音楽院、ケルン音楽院。
クルト・シェッファー(第1ヴァイオリン)
1913年5月27日、ドイツ帝国のエルバーフェルト(現ヴッパータール)に誕生。父はフランツ・シェッファー、母はジービラ(旧姓:ハイトビューヘル)。兄弟は全部で7人。
クルトは幼い頃からヴァイオリンを学び、ギムナジウムでは1歳年長のギュンター・ヴァント[1912-2002]が16歳の時に結成したプライヴェートなオーケストラのコンサートマスターを務めてもいました。
その後、シェッファーはケルン音楽院に進み、ヨアヒム門下のヘルマン・ツィッツマンに師事。在学中からツィッツマンの授業を助手として支援するなど、早くから指導者・教育者としての能力も発揮。
卒業後、ケルン帝国放送室内管弦楽団のコンサートマスターに就任。
その後まもなく、シェッファーはザルツブルクのモーツァルテウムから招かれてザルツブルクに転居、モーツァルテウムで教えるかたわら、モーツァルテウム管弦楽団のコンサートマスターに就任。
1930年代から1941年にかけてモーツァルテウム四重奏団の一員としても活動し、1941年から1944年にかけては「シェッファー四重奏団」を名乗って第1ヴァイオリン奏者を務めていました(下の画像は1930年代)。
さらにシェッファーは、弦楽三重奏のための「シェッファー三重奏団」を結成するなどして、戦時中と終戦直後もオーストリアに滞在。
その間、1945年1月にはギュンター・ヴァントが指揮者としてザルツブルクに到着。ヴァントはケルン歌劇場が1944年5月に連合国軍の爆撃で破壊された翌月、同年9月から1947年7月にかけての3年間、ザルツブルク州立劇場のカペルマイスターとして働く契約を結んでいましたが、1944年9月の「劇場閉鎖令」により契約は白紙となっていました。
しかしドイツの自宅に無職で留まっていても、徴兵されて敗北確実な前線に送られる可能性が高いため、ヴァントは家族と共に、徴兵の郵便が届かないよう各地を転々とする道を選択。そしてザルツブルク到着後、行政官からのオーケストラ演奏会の再開という思わぬ指示により、モーツァルテウム管弦楽団を再組織、そこで旧友のシェッファーとめぐり会って再び仕事をすることになります。
終戦直後、ヴァントらとアメリカ軍の慰問部隊の仕事を手伝って信用を得たシェッファーは、アメリカ占領軍政府の管轄地域である南ドイツの保養地、バート・ライヘンハルで、ごく短期間ながら、バート・ライヘンハル・フィルハーモニーの指揮者兼コンサートマスターを任されることになります。
ほどなく、ヴァントがケルン市の音楽総監督に就任したことに伴い、シェッファーはヴァントの要請で、ケルン・ギュルツェニヒ管弦楽団のコンサートマスターに就任。瓦礫のケルンで演奏活動を続ける中、ケルン近郊、デュッセルドルフのロベルト・シューマン音楽院で教えるようにもなります。
戦時中のザルツブルクですでにモーツァルテウム版の「シェッファー四重奏団」として活動していたシェッファーは、戦後まもなくケルンで新たに弦楽四重奏団を結成。名前はなぜか「ギュルツェニヒ四重奏団」。メンバーは、クルト・シェッファー(第1ヴァイオリン)、フランツヨーゼフ・マイヤー(第2ヴァイオリン)、フランツ・バイヤー(ヴィオラ)、クルト・ヘルツブルッフ(チェロ)の4名だったので、要するに後年の「シェッファー四重奏団」と同じです。この名前とメンバーで、1947年にフランツ・バイヤーがシュトゥットガルト室内管弦楽団の首席ヴィオラ奏者に任命されるまで活動。
1948年、バイヤーの後任としてケルン放送交響楽団員のパウル・シュレーアが入団し、名前も「シェッファー四重奏団」に変更しています。つまり本来であれば「シェッファー四重奏団」の初代メンバーはこの時点でのものということになりますが、戦後まもなくの「ギュルツェニヒ四重奏団」とその後の「シェッファー四重奏団」の活動実態が同じであることから、ここではシェッファー、マイヤー、バイヤー、ヘルツブルッフの4人を初代メンバーとしておきます。
1953年、フランツ・バイヤーがパウル・シュレーアと交代して復帰。バイヤーは、シュトゥットガルト室内管からデトモルトの「シュトループ四重奏団」に移籍していましたが、2年ほどで退団し、古巣に帰還という流れです。もっともその間に、「シェッファー四重奏団」のメンバーは、デュッセルドルフのロベルト・シューマン音楽院での教職収入も得られるようになり、本拠地もケルンから近郊のデュッセルドルフに移していました。
こうして1953年、「シェッファー四重奏団」は初代メンバーでの安定を獲得、演奏会と教職の日々を過ごすことになりますが、3年後の1956年からは、ヴァントゆかりの「クラブ・フランセ」で一連のレコーディングも開始。1959年までに多くのアルバムを制作することになります。
そうした活動のほかに、シェッファーはケルンの古楽系オーケストラ「カペラ・コロニエンシス」でも演奏し、海外ツアーにも参加していました。
しかし、「クラブ・フランセ」のベートーヴェンの弦楽四重奏曲全集の録音が1959年5月に終了してしばらくすると、マイヤーとヘルツブルッフがケルン音楽院に転職し、バイヤーも退団(その後1962年に「シュトループ四重奏団」に復帰)という流れとなり、初代「シェッファー四重奏団」は休止状態となります。
1960年、シェッファーは、ドイツに引っ越してきた「フィルハーモニア・フンガリカ」の楽員たちと共に、「シェッファー四重奏団」の活動を再開。メンバーは、マリア・サバドシュ=ラーツ(第2ヴァイオリン)、ジェイムズ・パタキ(ヴィオラ)、ゾルタン・ラーツ(チェロ)で、3人ともハンガリー人。1956年のハンガリー動乱を逃れてきた音楽家によってウィーンで結成された「フィルハーモニア・フンガリカ」は、1960年に西ドイツのヴェストファーレン州にある小都市マールに受け入れられ、冷戦対策費でもある補助金を支給されて活動を開始していました
新生「シェッファー四重奏団」は、演奏会や放送出演のほか、僅かながらレコーディングもおこない、同時代の作曲家に作品を委嘱したりして活動。
その後、1964年にパタキが退団したため、ヴィオラはドイツ人のフランツ・ピルに交代。ピルは「ヴィオレッタ・ダモーレ」のLPを制作していた人物で、この時期のメンバーによってヒンデミットの弦楽四重奏曲第2番のレコーディングなどもおこなわれています。
1970年代、シェッファーはロベルト・シューマン音楽院の教授を辞し、やがてカルテットも解散となっています。
解散後のシェッファーは、若い頃から手掛けていた絵画や彫刻、詩作の道に本格的に転向。絵画や彫刻の多くは各地の展覧会で展示され、詩作の出版もおこなうなど旺盛な活動を展開しますが、1988年8月26日、デュッセルドルフで75歳で死去、市内のゲレスハイマー森林墓地に埋葬されています。
フランツヨーゼフ・マイヤー(第2ヴァイオリン)
1925年4月27日、南ドイツのメミンゲンに誕生。幼い頃から、ピアノ、ヴァイオリン、ヴィオラを弾いていました。
1938年にアウクスブルク音楽院に入学し、その後、ミュンヘン・アカデミーに入学。
1940年にはフランクフルト音楽院に入学して、ヴィルヘルム・イッセルマンにヴァイオリンを師事。1944年に卒業すると同校で働きます。
戦後、フランクフルト音楽院校長でバッハ指揮者のクルト・トーマス[1904-1973]がナチ党員だったことで僅かな活動禁止期間がありました。
1945年、シェッファーの誘いで、「ギュルツェニヒ四重奏団」に第2ヴァイオリン奏者として参加(1948年に「シェッファー四重奏団」に改名)。
カルテット活動と並行して、1946年にはケルン音楽院でフィリップ・ヤルナッハに作曲と理論を師事して1948年まで在学。
卒業後の1948年、ケルンで古楽アンサンブル「北西ドイツ放送コレギウム・ムジクム」を共同で設立。
1949年、ケルン近郊のデュッセルドルフにあるロベルト・シューマン音楽院で教えるようになり、1959年まで在職。
1959年、ベートーヴェンの弦楽四重奏曲全集の録音を完成させて「シェッファー四重奏団」が活動休止状態になると、マイヤーはケルン音楽院に就職し、ヴァイオリン教師として働くようになります。
1963年、マイヤーは、前年にハルモニア・ムンディ・レーベルの出資によって創設された古楽器アンサンブル「コレギウム・アウレウム」のコンサートマスターに就任。指揮者無しの団体なので、マイヤーが事実上の指揮者のような存在。後年、「コレギウム・アウレウム」では弦楽四重奏団も編成するようになり、マイヤーは第1ヴァイオリンを担当。
1964年、マイヤーはケルン音楽院のヴァイオリン科教授に昇進。同時に古楽研究のためのスタジオも設立。
1992年、マイヤーはケルン音楽院を67歳で退職。33年間に及ぶ同音楽院での活動の影響力は大きく、ケルンがドイツの古楽器演奏ムーヴメントの一大拠点となり、ラインハルト・ゲーベル(ムジカ・アンティクァ・ケルン)や、ヴェルナー・エールハルト(コンチェルト・ケルン)、マンフレート・クレーマー(ル・コンセール・ド・ナシオン)といった有名演奏家を数多く輩出することにもなりました。
2014年10月16日、マイヤーはケルン近郊のベルギッシュ・グラートバッハで死去。同地のレフラート墓地に埋葬。89歳でした。
フランツ・バイヤー(ヴィオラ)
1922年2月26日、南ドイツの山あいの町ヴァインガルテンに誕生。父はオットー・バイヤー、母はアンナ(旧姓ギュンター)。兄弟は全部で3人でした。父は北ドイツの音楽家の家庭の出身ですが、兵役で軍楽隊のオーボエ奏者として駐留したのがきっかけでヴァインガルテンに居住、南ドイツのシェルクリンゲン出身の最初の妻シュムカーと結婚、死別後、同じくシェルクリンゲン出身のアンナと再婚して生まれたのがフランツでした。
1927年、バイヤーは5歳からヴァイオリンを習い始め、南ドイツのトロシンゲン音楽アカデミーを卒業。
戦時中は兵役で出征し、1944年にフランス東部での戦闘で俘虜となり、俘虜収容所では赤十字からの楽器提供を受け、室内オーケストラを組織。楽譜は無かったので、バイヤーは記憶でバッハ、ベートーヴェン、モーツァルトの主要曲を書き起こして演奏のために供します。
戦後まもなく、バイヤーはヴィオラに転向することを決め、トレーニングを積んだのち、シェッファーの誘いで「ギュルツェニヒ四重奏団」にヴィオラ奏者として参加。
しかし2年後の1947年には、創設されたばかりの「シュトゥットガルト室内管弦楽団」の楽員として契約するため退団。この楽団は、戦後俘虜となっていたカール・ミュンヒンガーが、1945年の秋に釈放されて創設した団体でした。バイヤーはしばらくシュトゥットガルト室内管弦楽団の首席ヴィオラ奏者として活動します。
しかしその後、ドイツで最も有名な「シュトループ四重奏団」が、第2ヴァイオリン奏者とヴィオラ奏者を探しているという情報を得ると、バイヤーはシュトゥットガルト室内管弦楽団を退団してデトモルトに移っています。
1951年、29歳のバイヤーは、マックス・シュトループ[1900-1966]率いる結成22年目の「シュトループ四重奏団」のヴィオラ奏者になり、カルテットのもうひとつの仕事でもあったデトモルトの北西ドイツ音楽アカデミーでの教職も獲得。
前任のヘルマン・ヒルシュフェルダーは、シュトゥットガルト室内管弦楽団コンサートマスターが率いるバルヒェット四重奏団に入団するために辞めていたので、地理的に見ればデトモルトとシュトゥットガルト間での人材交換がおこなわれたということになります。
「シュトループ四重奏団」は、翌1952年3月26日にはボンのベートーヴェン没後125周年記念のフェスティヴァルで演奏し、ローマ教皇のほか、アデナウアー首相、ホイス大統領という反ナチ闘志のVIPとも交流、戦時中のプロパガンダ問題で何かと批判もされていたカルテットの戦後に華を添えています(もっとも翌日にはアデナウアー首相はイスラエルのユダヤ人テロリストに小包爆弾を送りつけられ、警官1人が殺害されるという事件もありましたが)。
翌1953年には、何か問題でも発生したのか、マックス・シュトループ[1900-1966]は、第2ヴァイオリン奏者、ヴィオラ奏者、チェロ奏者を全員交代させ、第2ヴァイオリンとチェロは女性奏者、ヴィオラはベルリン・フィルの首席奏者というメンバー構成としています。
1953年、「シュトループ四重奏団」を退団したバイヤーは、「シェッファー四重奏団」に復帰し、デュッセルドルフ・ロベルト・シューマン音楽院に就職。以後、家庭では3人の子供も授かるなど公私ともに生活が充実。
1956年には「クラブ・フランセ」にレコーディングも開始。パリのスコラ・カントルムまで赴いて、モーツァルト、シューベルト、シューマン、ベートーヴェンのレコーディングをおこない、米VOXには「初期弦楽四重奏曲」のレコーディングをおこなうなど、「シェッファー四重奏団」は順調そのものに見えました。
しかし、1959年にベートーヴェンの弦楽四重奏曲全集のレコーディングを完了したあたりから活動が休止状態となり、第2ヴァイオリン奏者のフランツヨーゼフ・マイヤーとチェロのクルト・ヘルツブルッフはケルン音楽院に転職。
バイヤーはしばらくデュッセルドルフに留まってロベルト・シューマン音楽院での教職を継続しますが、1962年、「シュトループ四重奏団」のヴィオラ奏者で元ベルリン・フィル首席奏者のヴァルター・ミュラーが退団すると、後任としてベテラン奏者になったバイヤーが復帰。
一方で、バイヤーは同じ1962年からミュンヘン音楽大学の教授となってヴィオラと室内楽も教えるようになり、1995年まで33年間に渡って在任。また、並行して「コレギウム・アウレウム」と「カペラ・コロニエンシス」でも活動していました。
その間、バイヤーは音楽学者としても仕事をし、1971年には、モーツァルトのレクィエムの新たなヴァージョンを発表。ジュスマイヤー版以降、最も成功した校訂譜と高く評価され、当時、バイヤー自身が参加していた「コレギウム・アウレウム」のほか、アーノンクール、ベルニウス、マリナー、クイケン、コルボ、バーンスタインなど幅広い層から選ばれています。
1983年、バイヤーはレーゲンスブルク市とヴァインガルテン市から「文化賞」を授与。
1986〜1987年、バイヤーはメロス四重奏団によるモーツァルトの弦楽五重奏曲全集の録音に参加。
2002年、バイヤーは、ミュンヘン市より「ミュンヘン・ロイヒテット賞」銀メダルを授与。
2003年、バイヤーはドイツ政府より「ドイツ連邦共和国功労勲章」ファースト・クラスを授与。
2018年6月29日、バイヤー、ミュンヘンで心不全のため死去。96歳でした。
クルト・ヘルツブルッフ(チェロ)
1945年にシェッファーの誘いで「ギュルツェニヒ四重奏団」にチェロ奏者として参加。以後、「シェッファー四重奏団」への改名を経て通算15年ほど活動。
その間、1949年にヴァイオリニストのギュンター・ケーアらとダルムシュタットに出演するなどしていました。
その後、「シェッファー四重奏団」の活動と並行してデュッセルドルフのロベルト・シューマン音楽院でチェロを教えるようになります。
やがて1956年には「クラブ・フランセ」でのレコーディングも開始。1959年5月のベートーヴェンの弦楽四重奏曲全集完成まで多くのアルバムを制作。
ほどなくヘルツブルッフは、ケルン音楽院でチェロを教えるようになり、やがて教授となって長期にわたり多くのチェロ奏者を育てることになります。また、教職の傍ら、「コレギウム・アウレウム」にも参加するなどしていました。
【年表】
1913年
●5月27日、クルト・シェッファー、ドイツ帝国のエルバーフェルト(現ヴッパータール)に誕生。
1914年
1915年
1916年
1917年
1918年
1919年
1920年
1921年
1922年
●2月26日、フランツ・バイヤー、ドイツ南部のヴァインガルテンに誕生。
1923年
1924年
1925年
●4月27日、フランツヨーゼフ・マイヤー、ドイツ南部のメミンゲンに誕生。
1926年
1927年
●フランツ・バイヤー、5歳でヴァイオリンを習い始め、のちに南ドイツのトロシンゲン音楽アカデミーを卒業。
1928年
1929年
1930年
1931年
1932年
1933年
1934年
1935年
1936年
1937年
1938年
●フランツヨーゼフ・マイヤー、アウクスブルク音楽院に入学。その後、ミュンヘン・アカデミーに入学。
1939年
1940年
●フランツヨーゼフ・マイヤー、フランクフルト音楽院に入学して、ヴィルヘルム・イッセルマンにヴァイオリンを師事。1944年に卒業すると同校に勤務。
1941年
●クルト・シェッファー、モーツァルテウムで「シェッファー四重奏団」を結成。メンバーはクルト・シェッファー(第1ヴァイオリン)、ハインツ・ベルント(第2ヴァイオリン)、マルティン・ボッホマン(チェロ)ほか。1944年まで活動。
1942年
1943年
1944年
●フランツ・バイヤー、フランス東部での戦闘で俘虜となり、俘虜収容所では赤十字からの楽器提供を受け、室内オーケストラを組織。
1945年
●クルト・シェッファー、アメリカ占領軍政府管轄地域の南ドイツの保養地、バート・ライヘンハルで、バート・ライヘンハル・フィルハーモニーの指揮者兼コンサートマスターとして活動。
●フランツ・バイヤー、トレーニングののち、ヴィオラに転向。
●クルト・シェッファー、「ギュルツェニヒ四重奏団」を結成。メンバーはクルト・シェッファー(第1ヴァイオリン)、フランツヨーゼフ・マイヤー(第2ヴァイオリン)、フランツ・バイヤー(ヴィオラ)、クルト・ヘルツブルッフ(チェロ)。同名の団体が過去にも現在にもありますが、当時は無かったようです。
1946年
●フランツヨーゼフ・マイヤー、ケルン音楽院でフィリップ・ヤルナッハに作曲と理論を師事。
1947年
●フランツ・バイヤー、「ギュルツェニヒ四重奏団」を退団し、「シュトゥットガルト室内管弦楽団」に入団。首席ヴィオラ奏者に任命。
1948年
◆6月21日、西側占領地域で通貨がドイツ・マルクに統一。ソ連側が6月24日に東ドイツ・マルクを発行すると予告していたため、急遽実施された経済政策。
◆6月24日、ソ連占領地域で東ドイツ・マルク発行。西側の不意打ちに対する報復措置としてソ連側が西ベルリンを翌年5月12日まで経済封鎖。西側は物資輸送を飛行機でおこなわざるをえなくなり、流通コストの上昇は深刻なものとなります。
●フランツヨーゼフ・マイヤー、古楽アンサンブル「北西ドイツ放送コレギウム・ムジクム」を共同で設立。
●「ギュルツェニヒ四重奏団」から「シェッファー四重奏団」に改名。メンバーはクルト・シェッファー(第1ヴァイオリン)、フランツヨーゼフ・マイヤー(第2ヴァイオリン)、クルト・ヘルツブルッフ(チェロ)、そしてバイヤーの後任のパウル・シュレーア(ヴィオラ)。シュレーアはケルン放送交響楽団の楽員。
1949年
◆5月23日、ドイツ連邦共和国(西ドイツ)誕生。
◆9月、マルク切り下げ問題についてフランス、アメリカ、ドイツで協議。
◆9月18日、イギリス政府、ポンドを対ドルで約30.5%切り下げ。アメリカの原料輸入の大幅削減で生じた過度のポンド売りにより、外国為替市場が閉鎖に追い込まれたことが原因。これにより多くの国が自国通貨の切り下げに踏み切ります。
◆9月20日、フランス政府、フランス・フランを対ドルで約20.5%切り下げ。
◆9月21日、西ドイツ政府誕生。約25%のドイツ・マルク切り下げをおこなおうとしますが、フランス政府が反対し、ルール地方の石炭問題を交換条件に約20%の切り下げ幅で折り合いを付けます。
●フランツヨーゼフ・マイヤー、デュッセルドルフのロベルト・シューマン音楽院で教えるようになり、1959年まで継続。
●クルト・ヘルツブルッフ、ヴァイオリニストのギュンター・ケーアらとダルムシュタットに出演。
1950年
◆5月9日、シューマン宣言。フランスの外務大臣ロベール・シューマンによる、フランスとドイツの石炭産業と鉄鋼産業を共同管理下に置き、両国間取引時の関税・補助金を撤廃するという宣言。これにより西ドイツの西側陣営入りは確定。EUの先駆けとみなすこともできます。
1951年
◆4月、パリ条約により「欧州石炭鉄鋼共同体」設立。フランス、西ドイツ、イタリア、オランダ、ベルギー、ルクセンブルクが参加。
●6月、「シェッファー四重奏団」、デュッセルドルフのクンストハレで演奏会。
●フランツ・バイヤー、「シュトゥットガルト室内管弦楽団」を退団し、結成22年目のドイツの有名カルテット「シュトループ四重奏団」に移籍、ヴィオラ奏者になります。「シュトループ四重奏団」は、ヴィオラのヘルマン・ヒルシュフェルダーがシュトゥットガルト室内管弦楽団コンサートマスターの率いるバルヒェット四重奏団に移籍するためヴィオラ奏者を探していました。
1952年
●3月、フランツ・バイヤー、「シュトループ四重奏団」の一員として、ボンのベートーヴェン・フェスティヴァルに出演。ローマ教皇、アデナウアー首相、ホイス大統領と交流。
1953年
●フランツ・バイヤー、「シュトループ四重奏団」を退団し、「シェッファー四重奏団」に復帰。マックス・シュトループがメンバー3人を交代させたためでした。
●「シェッファー四重奏団」、初代メンバーに戻り、本格的な活動を開始。
●11月、「シェッファー四重奏団」、バルトーク・プログラムを演奏。
1954年
1955年
1956年
●「シェッファー四重奏団」、モーツァルト:弦楽四重奏曲をレコーディング。
1957年
●「シェッファー四重奏団」、ベートーヴェン:弦楽四重奏曲第1〜9番、シューマン:弦楽四重奏曲第3番、モーツァルト:オーボエ五重奏曲、クラリネット五重奏曲、フルート五重奏曲、ホルン五重奏曲、シューベルト:ピアノ三重奏曲第1番をレコーディング。
1958年
●「シェッファー四重奏団」、ベートーヴェン:弦楽四重奏曲第10〜13番、シューベルト:弦楽四重奏曲第12、14番をレコーディング。
1959年
●「シェッファー四重奏団」、ベートーヴェン:弦楽四重奏曲第14〜16番、大フーガをレコーディング。
●フランツヨーゼフ・マイヤー、デュッセルドルフのロベルト・シューマン音楽院を退職。ケルン音楽院に就職し、ヴァイオリン教師として働くようになります。
●クルト・ヘルツブルッフ、デュッセルドルフのロベルト・シューマン音楽院を退職。ケルン音楽院に就職。
1960年
●「シェッファー四重奏団」の3人の後任として、マリア・サバドシュ=ラーツ(第1ヴァイオリン)、ジェイムズ・パタキ(ヴィオラ)、ゾルタン・ラーツ(チェロ)が入団。全員、フィルハーモニア・フンガリカのメンバー。
◆西ドイツのGNP世界第2位に。
1961年
1962年
●フランツ・バイヤー、「シュトループ四重奏団」に復帰(1965年の解散まで在籍)。
●フランツ・バイヤー、ミュンヘン音楽大学でヴィオラと室内楽を教え始めます。
1963年
●フランツヨーゼフ・マイヤー、古楽器アンサンブル「コレギウム・アウレウム」のコンサートマスターに就任。指揮者無しの団体なので、マイヤーが事実上の指揮者のような存在となります。
1964年
●フランツヨーゼフ・マイヤー、ケルン音楽院のヴァイオリン科教授に昇進。同時に古楽研究のためのスタジオも設立。
●ジェイムズ・パタキ(ヴィオラ)が「シェッファー四重奏団」を退団。後任はフランツ・ピル。
1965年
1966年
1967年
◆11月、イギリス政府、ポンドを対ドルで約14%切り下げ。
1968年
◆西ドイツのGNP、日本に抜かれ世界第3位に。
1969年
◆8月、フランス政府、フランス・フランを対ドルで約11%切り下げ。
◆9月、西ドイツ政府、ドイツ・マルクを対ドルで約9.3%切り上げ。
1970年
1971年
●フランツ・バイヤー、モーツァルトのレクィエムの新たなヴァージョンを発表。ジュスマイヤー版以降、最も成功した校訂譜といわれ、当時演奏にも参加していた「コレギウム・アウレウム」のほか、アーノンクール、ベルニウス、マリナー、クイケン、コルボ、バーンスタインなど幅広い層から選ばれています。
1972年
1973年
1974年
1975年
1976年
1977年
1978年
1979年
1980年
1981年
1982年
1983年
●フランツ・バイヤー、レーベンスブルクとヴァインガルテンから文化賞を受賞。
1984年
1985年
1986年
●フランツ・バイヤー、メロス四重奏団によるモーツァルトの弦楽五重奏曲全集の録音に参加。
1987年
●フランツ・バイヤー、メロス四重奏団によるモーツァルトの弦楽五重奏曲全集の録音に参加。
1988年
●8月26日、クルト・シェッファー、デュッセルドルフで死去。
1989年
1990年
◆10月3日、ドイツ再統一。ドイツ連邦共和国にドイツ民主共和国の領土を編入。
1991年
1992年
●フランツヨーゼフ・マイヤー、ケルン音楽大学を67歳で退職。33年間に及ぶ活動の影響力は大きく、ケルンがドイツの古楽器演奏の一大拠点となりました。
1993年
1994年
1995年
●フランツ・バイヤー、ミュンヘン音楽大学教授を退任。
1996年
1997年
1998年
1999年
2000年
2001年
2002年
2003年
2004年
2005年
2006年
2007年
2008年
2009年
2010年
2011年
2012年
2013年
2014年
●10月16日、フランツヨーゼフ・マイヤー、ケルン近郊のベルギッシュ・グラートバッハで死去。
2015年
2016年
2017年
2018年
●6月29日、フランツ・バイヤー死去。
【収録情報】
CD01
ベートーヴェン
弦楽四重奏曲第1番 ヘ長調 Op. 18-1
1 I. Allegro con brio
2 II. Adagio affetuso ed appassionato
3 III. Scherzo. Allegro molto
4 IV. Allegro
弦楽四重奏曲第2番 ト長調 Op. 18-2
5 I. Allegro
6 II. Adagio cantabile - Allegro - Tempo I
7 III. Scherzo. Allegro
8 IV. Allegro molto quasi Presto
Le Club Français de Disque CFD200/1
録音:1957年5-6月
CD02
ベートーヴェン
弦楽四重奏曲第3番 ニ長調 Op. 18-3
1 I. Allegro
2 II. Andante con moto
3 III. Allegro
4 IV. Presto
弦楽四重奏曲第4番 ハ短調 Op. 18-4
5 I. Allegro ma non tanto
6 II. Andante scherzoso, quasi Allegretto
7 III. Menuetto. Allegretto
8 IV. Allegro – Prestissimo
Le Club Français de Disque CFD200/1
録音:1957年5-6月
CD03
ベートーヴェン
弦楽四重奏曲第5番 イ長調 Op. 18-5
1 I. Allegro
2 II. Menuetto
3 III. Andante cantabile con variazioni
4 IV. Allegro
弦楽四重奏曲第6番 変ロ長調 Op. 18-6
5 I. Allegro con brio
6 II. Adagio, ma non troppo
7 III. Scherzo. Allegro
8 IV. La Malinconia. Adagio - Allegretto quasi Allegro
Le Club Français du Disque CFD202
録音:1957年6月
CD04
ベートーヴェン
弦楽四重奏曲第7番 ヘ長調 Op. 59-1「ラズモフスキー」
1 I. Allegro
2 II. Allegretto vivace e sempre scherzando
3 III. Adagio molto e mesto - attacca
4 IV. Thème russe. Allegro
Le Club Français du Disque CFD203
5 大フーガ 変ロ長調 Op. 133
Le Club Français de Disque CFD206/9
録音:1957年10月(第7番) & 1959年 (大フーガ)
CD05
ベートーヴェン
弦楽四重奏曲第8番 ホ短調 Op. 59-2「ラズモフスキー」
1 I. Allegro
2 II. Molto Adagio. Si tratta questo pezzo con molto di sentimento
3 III. Allegretto
4 IV. Finale. Presto
Le Club Français du Disque CFD204
弦楽四重奏曲第9番 ハ長調 Op. 59-3「ラズモフスキー」
5 I. Introduzione. Andante con moto - Allegro vivace
6 II. Andante con moto quasi Allegretto
7 III. Menuetto. Grazioso - attacca
8 IV. Allegro molto
Le Club Français du Disque CFD205
録音:1957年10月
CD06
ベートーヴェン
弦楽四重奏曲第10番 変ホ長調 Op. 74「ハープ」
1 I. Poco Adagio - Allegro
2 II. Adagio ma non troppo
3 III. Presto - attacca
4 IV. Allegretto con Variazioni
Le Club Français du Disque CFD205
弦楽四重奏曲第12番 変ホ長調 Op. 127
5 I. Maestoso - Allegro
6 II. Adagio, ma non troppo e molto cantabile - Andante con moto - Adagio molto espressivo
7 III. Scherzando vivace - Presto
8 IV. Finale
Le Club Français du Disque CFD206
録音:1958年
CD07
ベートーヴェン
弦楽四重奏曲第11番 へ短調Op. 95「セリオーソ」
1 I. Allegro con brio
2 II. Allegretto ma non troppo - attacca
3 III. Allegro assai vivace ma serioso
4 IV. Larghetto espressivo - Allegretto agitato
Le Club Français du Disque CFD206
弦楽四重奏曲第13番 変ロ長調 Op. 130
5 I. Adagio ma non troppo - Allegro
6 II. Presto
7 III. Andante con moto, ma non troppo
8 IV. Alla danza tedesca. Allegro assai
9 V. Cavatina. Adagio molto espressivo – attacca
10 VI. Finale. Allegro
Le Club Français du Disque CFD207
録音:1958年
CD08
ベートーヴェン
弦楽四重奏曲第15番 イ短調 Op. 132
1 I. Assai sostenuto - Allegro
2 II. Allegro ma non tanto-
3 III. Molto adagio
4 IV. Alla marcia, assai vivace
5 V. Allegro appassionato
弦楽四重奏曲第16番 ヘ長調 Op. 135
6 I. Allegretto
7 II. Vivace
8 III. Lento assai e cantante tranquillo
9 IV. Grave, ma non troppo tratto – Allegro
Le Club Français de Disque CFD206/9
録音:1959年
CD09
ベートーヴェン
弦楽四重奏曲第14番 嬰ハ短調 Op. 131
1 I. Adagio, ma non troppo e molto espressivo
2 II. Allegro molto vivace
3 III. Allegro moderato
4 IV. Andante, ma non troppo e molto cantabile
5 V. Presto - Molto poco adagio
6 VI. Adagio quasi un poco andante
7 VII. Allegro
Le Club Français de Disque CFD206/9
シューマン
弦楽四重奏曲第3番 イ長調 Op. 41 No. 3
8 I. Andante espressivo - Allegro molto moderato
9 II. Assai agitato - Un poco Adagio - Tempo risoluto
10 III. Adagio molto
11 IV. Finale - Allegro molto vivace
Le Club Français du Disque 94
録音:1959年1月23日 (第14番) & 1957年 (シューマン)
CD10
モーツァルト
オーボエ五重奏曲 ヘ長調, K. 370
1 I. Allegro
2 II. Adagio
3 III. Rondeaux. Allegro
クラリネット五重奏曲 イ長調, K. 581
4 I. Allegro
5 II. Larghetto
6 III. Menuetto
7 IV. Allegretto con variazioni
Résonances RES 6
録音:1957年
ロベール・カジエ(オーボエ), アンドレ・ヴァスリエ (クラリネット)
CD11
モーツァルト
弦楽四重奏曲第14番 ト長調 KV 387
1 I. Allegro vivace assai
2 II. Menuetto allegretto
3 III. Andante cantabile
4 IV. Molto Allegro
弦楽四重奏曲第15番 ニ短調 KV 421
5 I. Allegro
6 II. Andante
7 III. Menuetto: Allegretto
8 IV. Allegretto ma non troppo
Le Club Français du Disque CFD85
録音:1956年6月
CD12
モーツァルト
弦楽四重奏曲第16番 変ホ長調 KV 428
1 I. Allegro non troppo
2 II. Andante con moto
3 III. Menuetto (Allegro)
4 IV. Allegro vivace
弦楽四重奏曲第17番 変ロ長調 KV 458「狩り」
5 I. Allegro vivace assai
6 II. Menuetto moderato
7 III. Adagio
8 IV. Allegro assai
Le Club Français du Disque CFD86
録音:1956年6月
CD13
モーツァルト
弦楽四重奏曲第19番 ハ長調 KV 465「不協和音」
1 I. Adagio - Allegro
2 II. Andante cantabile
3 III. Menuetto. Allegro
4 IV. Allegro
Le Club Français du Disque CFD87
録音:1956年6月
シューベルト
ピアノ・トリオ第1番 変ロ長調 D. 898
5 I. Allegro moderato
6 II. Andante un poco mosso
7 III. Scherzo. Allegro molto - Trio
8 IV. Allegro vivace – Presto
Le Club Français du Disque DC121
録音:1957年6月
ヴィルヘルム・ヘッカー(ピアノ), フランツヨーゼフ・マイアー(ヴァイオリン), クルト・ヘルツブルッフ(チェロ)
CD14
シューベルト
弦楽四重奏曲第14番 ニ短調 D. 810「死と乙女」
1 I. Allegro
2 II. Andante con moto
3 III. Scherzo. Allegro molto
4 IV. Presto
5 弦楽四重奏曲第12番 ハ短調 D. 703「断章」
Résonances RES 22
録音:1958年10月16-17日
CD15
モーツァルト
フルート五重奏曲 ニ長調, K. 285
1 I. Allegro
2 II. Adagio
3 III. Rondeau
ホルン五重奏曲 変ホ長調, K. 407
4 I. Allegro
5 II. Andante
6 III. Andante
Résonances RES 31
録音:1957年
フェルナン・マルソー(フルート)
ジョルジュ・バルボトゥ(ホルン)
【商品説明:年表シリーズ】
指揮
●
アルヘンタ
●
オッテルロー
●
ガウク
●
カラヤン
●
クイケン
●
クーセヴィツキー
●
クチャル
●
クラウス
●
クレツキ
●
クレンペラー
●
ゴロワノフ
●
サヴァリッシュ
●
シューリヒト
●
ターリヒ
●
チェリビダッケ
●
ドラゴン
●
ドラティ
●
バーンスタイン
●
パレー
●
フェネル
●
フルトヴェングラー
●
メルツェンドルファー
●
モントゥー
●
ライトナー
●
ラインスドルフ
●
ロスバウト
鍵盤楽器
●
ヴァレンティ
●
カークパトリック
●
カサドシュ
●
グリンベルク
●
シュナーベル
●
ソフロニツキー
●
タマルキナ
●
タリアフェロ
●
デムス
●
ナイ
●
ニコラーエワ
●
ノヴァエス
●
ハスキル
●
ユージナ
●
ランドフスカ
弦楽器
●
カサド
●
コーガン
●
グリラー弦楽四重奏団
●
シュタルケル
●
シュナイダー四重奏団
●
パスカル弦楽四重奏団
●
ハリウッド弦楽四重奏団
●
ブダペスト弦楽四重奏団
●
フランチェスカッティ
●
ヤニグロ
●
リッチ
●
伝説のフランス弦楽四重奏団
作曲家
●
アンダーソン
●
ヘンツェ
●
坂本龍一
シリーズ
●
テスタメント国内盤