ハンス・ロット:交響曲第1番
パーヴォ・ヤルヴィ&フランクフルト放送響
ブラームスに貶されて心を病み、25歳で亡くなった作曲家、ハンス・ロットの残した傑作、「交響曲第1番」が、パーヴォ・ヤルヴィ指揮フランクフルト放送交響楽団による演奏で登場します。「管弦楽のための組曲への2つの楽章」も収録。
【ブルックナーの弟子】
ハンス・ロットは1858年ウィーンの生まれ。16歳でウィーン音楽院に入学し、オルガンをブルックナーに学んだほか、ピアノ、和声法、対位法、作曲を修めます。ロットは14才で母を、18歳で父を失っていたため、教会オルガニストとして生活費を稼ぎながら勉学に励むという生活でした。音楽院での友人には、1年遅れて入学した2歳年下のマーラーがおり、彼とは同室だったこともありました。
【作曲コンクール】
在学中の1878年、音楽院で開かれた作曲コンクールに、ロットは交響曲第1番の第1楽章で応募しますが、ブルックナー以外の審査員たちはこれを評価せず、中には嘲笑した者もあり、却下されることとなってしまいます。ちなみにこのとき高く評価され、賞を得たのは、皮肉にも若きマーラーのピアノ五重奏曲の第1楽章でしたが、この作品は後にマーラー自身によって破棄されています。
【ブラームスからの酷評】
その後、1880年に交響曲全曲が完成すると、ロットは今度は指揮者のハンス・リヒターと作曲家のブラームスに見せて、なんとか演奏にまで漕ぎつけようとしますが、ブラームスは作品を徹底的に酷評し、音楽を諦めるべきだと侮辱、このことが原因ともなって、ロットは以後、精神を病むようになります。
【精神病院入院と25歳での死】
それが決定的になるのは、ブラームスによる酷評からほどなく、アルザスに音楽教師の職を得たロットが、旅立つために乗った列車で、「ブラームスがダイナマイトを仕掛けた」などと妄想から騒いで精神病院に収容されることになったという出来事でした。
ロットはこの後、鬱病となって自殺未遂を繰り返し、小康状態になってからは作曲もおこなっていましたが、やがて憔悴した体は結核に罹り、1884年6月25日、25歳の若さで世を去ることとなってしまいます。葬儀には、才能ある教え子の死を悲しむブルックナーの姿もありました。
【交響曲第1番の復活】
ロットの存命中には演奏されなかったこの作品の楽譜は、オーストリア国立図書館に所蔵されていましたが、1984年、ロット没後100年を契機にイギリスの音楽学者であるポール・バンクスが、草稿やパート譜を精査したうえで作品をよみがえらせています。
初演はサミュエル指揮シンシナティ・フィルハーモニア管弦楽団によっておこなわれ、CDもハイペリオンからリリース、大きな話題となり、以後、数多くのCDがリリースされることとなります。
【交響曲第1番の内容】
ブラームスの酷評はともかく、作品は実際にはたいへん優れたもので、ブルックナーやワーグナーの影響を感じさせながらも、後のマーラーを予見するような音楽が随所に示されているのも興味深いところです。
第2楽章後半や第3楽章、第4楽章には、だいぶ後に書かれたマーラーの交響曲第3番や第1番、第5番、第2番などに酷似した部分がありますし、もしかすると、ロットのこの作品が無ければ、マーラーの音楽もずいぶん違ったものになっていたのかもしれません。
【パーヴォ・ヤルヴィ】
最近は発表するすべての作品が高水準といわれるパーヴォ・ヤルヴィ。大編成作品はフランクフルト放送響やパリ管弦楽団、シンシナティ交響楽団、エストニア国立響などと録音しており、中規模作品ではドイツ・カンマーフィルハーモニーと良い仕事をしてきました。
今回登場するロットの作品では、マーラーの第2番『復活』と第10番アダージョほかをレコーディングしていたフランクフルト放送響と共演しているので、マーラーが引用した箇所を同じオケの演奏で直接比較できる面白さもあります。
なお、組み合わせは、世界初録音となる『管弦楽のための組曲への2つの楽章』です。(HMV)
【収録情報】
ハンス・ロット:
・交響曲第1番ホ長調
1.第1楽章 アラ・ブレーヴェ
2.第2楽章 非常に遅く
3.第3楽章 明朗に、生き生きと
4.第4楽章 非常に遅く−活発に
録音時期:2010年4月15,16日
録音場所:フランクフルト、アルテ・オーパー
・管弦楽のための組曲への2つの楽章
1.スケルツォ アレグロ・コン・ブリオ
2.終楽章 非常に早く
録音時期:2010年6月29日
録音場所:フランクフルト、ヘッセン放送ゼンデザール
フランクフルト放送交響楽団
パーヴォ・ヤルヴィ(指揮)