CD 輸入盤

ポストホルン・セレナード ラインハルト・ゲーベル&ザルツブルク・モーツァルテウム管弦楽団

モーツァルト(1756-1791)

基本情報

ジャンル
:
カタログNo
:
0303022BC
組み枚数
:
1
レーベル
:
:
Germany
フォーマット
:
CD
その他
:
輸入盤

商品説明


歴史的情報準拠演奏実践(HIP)のパイオニアとモーツァルテウムの共演

モーツァルト:ポストホルン・セレナーデ
ラインハルト・ゲーベル指揮ザルツブルク・モーツァルテウム管弦楽団


ザルツブルク・モーツァルテウム管弦楽団がベルリン・クラシックス・レーベルと共同で2023年8月に開始した6部作シリーズのうちの5作目。このアルバムで、ザルツブルク・モーツァルテウム管弦楽団は同楽団のルーツに戻り、再びモーツァルトの作品に取り組みます。
  オーケストラを率いるのは、2010年にアーノンクールの後任としてザルツブルク・モーツァルテウム音楽院の歴史的演奏実践の教授に就任していたドイツ人指揮者ラインハルト・ゲーベルです。
  歴史的演奏実践について広範な知識を持ち、バロックから後期古典派までの多くの作曲家や作品に精通しているゲーベルは、一見馴染みのある作品に新鮮な視点を取り入れ、20世紀に肥大化した演奏様式から楽団を解放してきた実績の持ち主。

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 演奏家情報

ザルツブルク・モーツァルテウム管弦楽団
楽団員数91名のフルサイズ・オーケストラですが、モーツァルトを中心としたコンサートや各国へのツアーなどでは少なめの編成となる場合が多かったため、室内オーケストラとして広く知られています。
  その歴史は長くすでに180年を超えており、所属組織のことや社会的・宗教的な背景などややこしい部分もあるので、以下、ザルツブルクの統治史と、モーツァルテウム誕生の根本要因となったマリア・テレジアの改革など時系列で簡単にまとめておきます。ちなみにザルツブルクは高地ドイツ語では「サルツブルク」ですが、すでに「ザ」で普及しているため、ここでもザルツブルクとしておきます。
 ザルツブルク統治略史

1328-1800 ザルツブルク大司教領 (約472年)
ザルツブルク大司教によって統治されたカトリックの独立した領邦。
1800-1801 占領 (約4か月)
フランス革命戦争により1800年12月から1801年4月までフランス軍が占領。
1801-1809 オーストリア領 (約8年)
1801年2月のリュネヴィルの和約により、オーストリア領のトスカーナ大公国をフランスに割譲する替わりに、ザルツブルク大司教領がオーストリアに編入。
  1803年2月にはザルツブルク大司教領が世俗化され、大司教の統治権が無効化し、神聖ローマ帝国の代表者会議を経て4月にザルツブルク選帝侯領が成立。
  しかし、1805年12月のアウステルリッツの戦いでオーストリア軍が敗北したため、戦後処理のプレスブルクの和約により、ザルツブルク選帝侯領は解体。

1809-1810 フランス領 (約1年)
1809年10月、シェーンブルンの和約により、翌1810年10月までフランス領に編入。

1810-1816 バイエルン領 (約6年)
1810年10月、シェーンブルンの和約により、バイエルン王国に割譲。

1816-1938 オーストリア領 (約122年)
1816年、ミュンヘンで締結された条約により、ザルツブルクのかつての大司教領部分はオーストリア領に復帰。1849年にはザルツブルクはザルツブルク公国となり安定。この状態が1918年のオーストリア=ハンガリー帝国崩壊まで継続し、1918年以降はザルツブルク州としてオーストリア共和国に帰属。

1938-1945 ドイツ領 (約7年)
1938年、ドイツによるオーストリア併合に伴い、ザルツブルク大管区が設置。
1945-1955 占領 (約10年)
1945年、アメリカ占領軍政府による統治が開始。1955年のオーストリア主権回復まで継続。
1955-現在 オーストリア領 (約70年)
1955年5月、オーストリアが主権を回復。現在に至ります。
 1774年 一般教育令

イエズス会解散
1773年、ローマ教皇クレメンス14世がイエズス会を解散(1814年に再興)させたことで、カトリック国家ではイエズス会の資産を国家が没収して財源化。

マリア・テレジアの一般教育令
1774年にマリア・テレジア(1717-1780)が布告した義務教育制度。イエズス会の資産はオーストリア大公国でも財源として活用することになり、各カトリック教会教区で小さな小学校を運営したほか、町には上級小学校も設置。当初は主に修道士や司祭など教会関係者が読み書きと計算を教えていました。

ヨーゼフ2世による拡大
母マリア・テレジアと共同統治をおこなっていた息子のヨーゼフ2世(1741-1790)は、母の死後も教育改革を継続。学費無償化や罰則導入(親が子供を学校に行かせない場合)により就学者が3割近くとなり、教員不足を補うため、州都には教員養成学校も開校。教会組織を利用した教育制度を維持しながら世俗化・啓蒙化を推進し、聖職者になるための条件として教員養成学校修了を義務付けてもいます。

教会の経費節減 → 教会音楽が衰退
1784年、各種啓蒙主義的改革により増大する費用に対応するため、教会の経費節減施策が導入。夜間の職務を無くしたほか、聖歌隊の人数を削減。楽器使用も聖日のみとされ、器楽奏者のアンサンブルも縮小し、教会音楽が衰退することになります。
 1840年 「大聖堂音楽協会」設立

大聖堂音楽協会
楽団のルーツは、1840年に枢機卿で大司教のフリードリヒ・シュヴァルツェンベルク王子(1809-1885)によりザルツブルクで設立された「大聖堂音楽協会」まで遡ります。
  同協会は、マリア・テレジアの「一般教育令」が要因となって導入された「教会の経費節減施策」のおかげで下火になっていた教会音楽を少しでも復興させるべく設立されたもので、ザルツブルクの14の教会で音楽演奏を提供することを主目的としていました。

 1841年 「大聖堂音楽協会とモーツァルテウム」設立

大聖堂音楽協会とモーツァルテウム
「大聖堂音楽協会」には音楽学校であるモーツァルテウムが付属して教会音楽家の職業訓練も担うことになり、1841年に「大聖堂音楽協会とモーツァルテウム」として活動を開始。

オーケストラ演奏会
教会での演奏と劇場公演への参加だけでなく、年に数回はオーケストラ演奏会も実施。当初の楽団員数は52人ほど。

理事/楽団監督/宮廷劇場指揮者
モーツァルテウムの初代理事と楽団の監督には、ザルツブルク宮廷劇場でモーツァルトのオペラ上演もおこなっていた指揮者アロイス・タウックス(1817-1861)が選ばれ、1861年4月に亡くなるまで20年間在職。

ザルツブルク宮廷劇場
1775年にコロレド大司教により建設。モーツァルト存命中からモーツァルトのオペラを上演していたほか、演劇なども盛んに上演。建設から117年目の1892年に6,400グルデン(約640万円相当)でザルツブルク市に建替え前提で売却され、取り壊し。
 1861年 後任人事とブルックナー

ハンス・シュレーガー
タウックスの没後、後任を決める際に、ウィーンで合唱指揮者として活動していた40歳のハンス・シュレーガー(1820-1885)と、リンツ大聖堂でオルガニストを務めていた36歳のブルックナー(1824-1896)らが選考対象となり、シュレーガーが選ばれています。

ブルックナーの先輩
シュレーガーはリンツ近郊の聖フローリアン修道院で1845年まで働いており、ブルックナーはその後任で、シュレーガーから作曲の指導も受け、作品も献呈していました。

 1868年 再び後任人事とブルックナー

シュレーガーのことぶき辞任
1868年5月、ハンス・シュレーガーが結婚を理由に辞任。結婚相手はオルダースハウゼン伯爵未亡人パウリーネ(1836-1890)で、以後は、オペラや教会音楽、交響曲、歌曲の作曲と、モーツァルト音楽祭の推進や、モーツァルト全集楽譜刊行の顧問として音楽界に貢献。ザルツブルクとハンガリーの領地を行き来する生活を送っています。

オットー・バッハ
後任の選考は、35歳のオットー・バッハ(1833-1893)と、43歳のブルックナーらが対象となりますが、オットー・バッハは若いながらもすでにマインツ、アウクスブルク、オルミュッツで楽長経験があったことなどから選ばれ、7月1日に就任。12年後、オットー・バッハは、「大聖堂音楽協会とモーツァルテウム」が分離することが決まると、1880年4月1日に辞任してウィーンに移っています。

ブルックナーも就職決定
選考時期に精神が不安定になっていたブルックナーは、並行して応募していたウィーン楽友協会音楽院への教職採用通知が7月6日に届いていたので、以後は安定していました。

 1870年 「モーツァルト財団」設立

有志らによる組織
前年6月に教育関係者のヨハン・エヴァンゲリスト・エングル(1835-1921)を中心とした有志15名が「大聖堂音楽協会とモーツァルテウム」からモーツァルテウムを分離することを決定し、この年に設置された団体。彼らは、「大聖堂音楽協会とモーツァルテウム」の楽団の演奏活動が、宗教関係が主体で、通常のオーケストラ公演が年に数回しないことに不満を持ってもいました。

モーツァルテウムと大聖堂音楽協会の分離が目標
「モーツァルト財団」は、モーツァルテウムの分離だけでなく、楽譜の出版・販売と、その楽譜によるモーツァルト演奏の推進、モーツァルトの遺品の整理・博物館展示なども目的としています。
 1876年 モーツァルト全集出版を決定

全集楽譜の出版を開始
「モーツァルト財団」は、ブライトコップ&ヘルテル社からモーツァルトの楽譜の批判版を全集として出版することを決定し、1877年1月より出版開始。1883年12月まで6年11か月かけて出版し(補遺はその後も継続)、先行していたバッハ全集と並んで成功したビジネス・モデルとして広く認知されます。
 「ザルツブルク・モーツァルト音楽祭」を開催

ザルツブルク音楽祭の前身
1877年7月、「モーツァルト財団」は、ウィーンフィルなども招聘して「ザルツブルク・モーツァルト音楽祭」を開催。ザルツブルク音楽祭のルーツとみなされるこの音楽祭は、1910年までの33年間に8年度で実施されています。

 1880年 「モーツァルテウム財団」が誕生

分離と合併
1880年10月、「モーツァルト財団」と「大聖堂音楽協会」の合意により、「大聖堂音楽協会とモーツァルテウム」から教育組織が分離して「モーツァルト財団」と合併し、「国際モーツァルテウム財団」が誕生。財団は「モーツァルテウム音楽学校」を設立し、モーツァルトの生家の3階にモーツァルト博物館を設立。
 1880年 「モーツァルテウム音楽学校」設立と楽団の誕生

モーツァルテウム → モーツァルテウム音楽学校
「国際モーツァルテウム財団」は「モーツァルテウム音楽学校」を設立して運営を開始。

自前の楽団の誕生
「国際モーツァルテウム財団」は、財団の目的であるモーツァルト演奏を推進すべく自前の楽団も組織。楽団は、当初は「大聖堂音楽協会」の音楽家の力も借りながら、演奏活動をおこなうようになります。

楽団の初代芸術監督
芸術監督のヨーゼフ・フリードリヒ・フンメル(1841-1919)は、「国際モーツァルテウム財団」の理事長で、1880年8月から1908年2月まで約28年間「モーツァルテウム音楽学校」の校長を務めていたほか、市立劇場の指揮者でもあったので、当初から楽団の仕事には劇場での演奏も含まれるようになり、また、「国際モーツァルテウム財団」は、1881年にはコンサート協会を設立してもいました。

ザルツブルク市立劇場(現・州立劇場)
1892年に取り壊された旧劇場の、後継劇場として建設され、1893年10月に開場。建設費用は65万クローネ(約8億円相当)で、最大約1,000人収容可能(約700席+立見300人)。
 1908年 「モーツァルテウム管弦楽団」と改称

楽団芸術監督のヨーゼフ・フリードリヒ・フンメルが、楽団名称を「ザルツブルク・モーツァルテウム管弦楽団」と改称。
 1914年 「モーツァルテウム音楽院」が認可

「モーツァルテウム音楽学校」が、「モーツァルテウム音楽院」として認可。直後に第1次大戦が開戦。
 1922年 「モーツァルテウム音楽院」国有化

高インフレによる経営危機で国有化
第1次大戦後の高インフレにより存亡の危機にあった音楽院が、国際モーツァルテウム財団から切り離され、オーストリア共和国政府により国有化。但し国有化にあたっての条件は厳しいもので、大規模な経費削減策として、教職者、科目、学生数をすべて減らさなければならなりませんでした。

院長パウムガルトナーの苦肉の策
対応策として、院長のパウムガルトナーは、セミナーや教員養成コースの設置のほか、音楽以外の一般科目の拡充や図書館の設置など、政府の許可が得られそうな施策を数多く実施して窮地を切り抜け、1929年には、モーツァルテウム管弦楽団の楽団員により18世紀作品専門の室内オケ「モーツァルト管弦楽団」を結成して各地を巡るツアーもおこなっています。

国際モーツァルテウム財団
1925年4月、国際モーツァルテウム財団は、自己資金で運営される民間の非営利団体として再スタート。
 1939年 モーツァルテウムから独立

オーストリア併合による教育機関統廃合
1938年にドイツがオーストリアを併合したことで、1939年に「モーツァルテウム音楽院」が「モーツァルテウム大学」に吸収されています。

モーツァルテウム音楽院が無くなったため独立組織に
統廃合により「モーツァルテウム音楽院」が無くなったため、音楽院所属だった「ザルツブルク・モーツァルテウム管弦楽団」は独立組織となり、ザルツブルク大管区の「ザルツブルク交響楽団」として存続。但し、実際の活動の際には「ザルツブルク・モーツァルテウム管弦楽団」の名前を使用していました。

ザルツブルク市立劇場 → ザルツブルク州立劇場
1940年には、「ザルツブルク市立劇場」が「ザルツブルク州立劇場」と改名。実際には大管区の運営でしたが、州の名前の使用が認められていました。

 1945年 占領軍政府の指示により再編成

元の名前で再編
アメリカ占領軍政府の指示によりザルツブルク音楽祭で重要な役割を果たす目的で、「モーツァルテウム管弦楽団」として再編成。パウムガルトナーやロベルト・ワーグナーらが指揮し、アメリカ、ドイツ、イタリアなどへのツアーも実施しますが、楽団の財務状況は逼迫。

 1952年 紛らわしいライバル出現

モーツァルテウム大学の室内オケ
パウムガルトナーは、モーツァルテウム大学の教師と学生により室内オーケストラ「ザルツブルク・モーツァルテウム・カメラータ・アカデミカ」を結成し、1952年に活動を開始。
  この紛らわしい名前のオーケストラは、1959年にパウムガルトナーがザルツブルク音楽祭の総裁に就任したことでザルツブルク音楽祭への出演が増えると有名になり、独立プロ楽団である「ザルツブルク・モーツァルテウム管弦楽団」と混同されることも多くなります。

半世紀後に事態が収拾
混同現象が解消されたのは、1997年、「ザルツブルク・モーツァルテウム・カメラータ・アカデミカ」がロジャー・ノリントンの代にモーツァルテウムとの関係を解消し、独立したプロ組織の室内オケ「カメラータ・ザルツブルク」と改名したときなので、実に半世紀近く紛らわしさが続いていたことになります。もっとも、過去の録音の批評や紹介などでは混同されているケースがまだまだ多いようです。
 1958年 公的団体に

ザルツブルク・モーツァルテウム管弦楽団は、ザルツブルク州とザルツブルク市の運営する団体となり、コンサートのほか、ザルツブルク州立劇場での演奏も引き続き担当。
 1960年 公務員待遇に

公務員待遇
この年から楽団員の身分も公務員として雇用環境が安定しています。

首席指揮者たち
1960年に首席指揮者に就任したのは、前年にザルツブルク州立劇場のオペラ監督に任命されていたクロアチアの指揮者、ムラデン・バシッチ(1917-2012)。バシッチはオペラがメインだったので、当初からオーケストラ公演では若いレオポルト・ハーガー(1935- )も指揮。ハーガーは1969年から1981年まで首席指揮者を務めてもいるのでその関係は約20年に及び、楽団史上初のザルツブルク出身首席指揮者ということもあって注目されます。
  その後、ラルフ・ヴァイケルト(約3年)、ハンス・グラーフ(約10年)、ユベール・スダーン(約10年)、アイヴァー・ボルトン(約12年)、リッカルド・ミナージ(約7年)と引き継がれ、2024年にはゴンサレス=モンハスが首席指揮者に就任。

歴史的情報に準拠した演奏への対応
近年は客演指揮者にトレヴァー・ピノックやジョヴァンニ・アントニーニらを招いてピリオド風な演奏もおこなうようになり、2017年から首席指揮者を務めていたリッカルド・ミナージもピリオド系でした。
  こうした環境の中で、モーツァルテウム管弦楽団はピリオドもモダンも完全に消化し、説得力のある演奏を聴かせることができるオーケストラに進化。特に、得意のモーツァルトやその時代の音楽での演奏は、細部に至るまで素晴らしいものとなっています。

ブルックナーの伝統
フルサイズのオーストリアの楽団であるモーツァルテウム管弦楽団には、ザルツブルクの東北東約100kmのアンスフェルデンに生まれたブルックナーの演奏にも積極的で、メルツェンドルファー(墺)、ハーガー(墺)、ヴァイケルト(墺)、グラーフ(墺)、スダーン(蘭)と連なる首席指揮者たちと数多く演奏しています。


 トラックリスト (収録作品と演奏家)

CD 46'18

ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト (1756-1791)

2つの行進曲 ニ長調 K.335
1. 第1番  03'50

セレナーデ第9番ニ長調 K.320「ポストホルン」
2. 第1楽章 アダージョ・マエストーゾ - アレグロ・コン・スピリト  07'45
3. 第2楽章 メヌエット. アレグレット  02'44
4. 第3楽章 コンチェルタンテ. アンダンテ・グラツィオーゾ  06'53
5. 第4楽章 ロンド. アレグロ・マ・ノン・トロッポ  05'25
6. 第5楽章 アンダンティーノ  06'34
7. 第6楽章 メヌエット  04'28
8. 第7楽章 フィナーレ プレスト  04'38

2つの行進曲 ニ長調 K.335
9. 第2番  04'01
ザルツブルク・モーツァルテウム管弦楽団
ラインハルト・ゲーベル(指揮)

 Track list

Wolfgang Amadeus Mozart 1756-1791
Zwei Märsche in D-Dur, K.335'
1. No. 1  03'50

Posthorn-Serenade in D-Dur, K.320
2. Adagio maestoso-Allegro con spirito  07'45
3. Menuetto. Allegretto  02'44
4. Concertante. Andante grazioso  06'53
5. Rondeau. Allegro ma non troppo  05'25
6. Andantino  06'34
7. Menuetto  04'28
8. Finale. Presto  04'38

Zwei Märsche in D-Dur, K.335
9. No. 2  04'01

Mozarteumorchester Salzburg
Reinhard Goebel

Total Runtime  46'18



 商品説明詳細ページ一覧

【複数作曲家】
女性作曲家たち
Piano Classics スラヴ・エディション
Piano Classics フレンチ・エディション
オランダのピアノ協奏曲集
オランダのチェロ協奏曲集
イタリアのヴァイオリン・ソナタ集
イタリアのチェロ・ソナタ集

【バロック作曲家(生年順)】
バード [c.1540-1623]
スウェーリンク [1562-1621]
モンテヴェルディ [1567-1643]
カッツァーティ [1616-1678]
ルイ・クープラン [1626-1661]
クープラン一族
ブクステフーデ [1637-1707]
ムルシア [1673-1739]
グリューネヴァルト [1673-1739]
ダンドリュー [1682-1738]
J.S.バッハ [1685-1750]
スタンリー [1713-1786]
ヨハン・エルンスト・バッハ [1722-1777]

【古典派&ロマン派作曲家(生年順)】
ハイドン [1732-1809]
ミスリヴェチェク [1737-1781] (モーツァルトへの影響大)
ボッケリーニ [1743-1805]
モンジュルー [1764-1836] (ピアノ系)
ベートーヴェン [1770-1827]
クラーマー [1771-1858]
ジャダン [1776-1800] (ピアノ系)
リース [1784-1838]
ブルックナー [1824-1896]
マルトゥッチ [1856-1909]
マーラー [1860-1911]
トゥルヌミール [1870-1939]
ルクー [1870-1894]
レーガー [1873-1916]
ラフマニノフ [1873-1943]

【近現代作曲家(生年順)】
レーバイ [1880-1953] (ギター系)
マルティヌー [1890-1959]
ミゴ [1891-1976] (ギター系も)
サントルソラ [1904-1994] (ギター系も)
ショスタコーヴィチ [1906-1975]
ラングレー [1907-1991] (オルガン系)
アンダーソン [1908-1975]
デュアルテ [1919-2004] (ギター系)
プレスティ [1924-1967] (ギター系)
ヘンツェ [1926-2012]
坂本龍一 [1952-2023]
【オーケストラ】
ザルツブルク・モーツァルテウム管弦楽団

【指揮者(ドイツ・オーストリア)】
アーベントロート
エッシェンバッハ
カラヤン
クナッパーツブッシュ (ウィーン・フィルベルリン・フィルミュンヘン・フィル国立歌劇場管レジェンダリー)
クラウス
クリップス
クレンペラー (VOX&ライヴザルツブルク・ライヴVENIASボックス
サヴァリッシュ
シューリヒト
スイトナー (ドヴォルザークレジェンダリー)
フリート
フルトヴェングラー
ヘルビヒ (ショスタコーヴィチマーラーブラームス)
ベーム
メルツェンドルファー
ヤノフスキー
ライトナー
ラインスドルフ
レーグナー (ブルックナーマーラーヨーロッパドイツ)
ロスバウト
【指揮者(ロシア・ソ連)】
アーロノヴィチ
ガウク
クーセヴィツキー
ゴロワノフ
ペトレンコ
マルケヴィチ
【指揮者(アメリカ)】
クーチャー(クチャル)
スラトキン(父)
ドラゴン
バーンスタイン
フェネル
【指揮者(オランダ)】
オッテルロー
クイケン
フォンク
ベイヌム
メンゲルベルク
【指揮者(フランス)】
パレー
モントゥー
【指揮者(ハンガリー)】
セル
ドラティ
【指揮者(スペイン)】
アルヘンタ
【指揮者(スイス)】
アンセルメ
【指揮者(ポーランド)】
クレツキ
【指揮者(チェコ)】
ターリヒ
【指揮者(ルーマニア)】
チェリビダッケ
【指揮者(イタリア)】
トスカニーニ
【指揮者(イギリス)】
バルビローリ
【指揮者(ギリシャ)】
ミトロプーロス
【指揮者(日本)】
小澤征爾
【鍵盤楽器奏者(楽器別・生国別)】

【ピアノ(ロシア・ソ連)】
ヴェデルニコフ
グリンベルク
ソフロニツキー
タマルキナ
ニコラーエワ
ネイガウス父子
フェインベルク
フリエール
モイセイヴィチ
ユージナ
【ピアノ(フランス)】
ウーセ
カサドシュ
ティッサン=ヴァランタン
ハスキル
ロン
【ピアノ(ドイツ・オーストリア)】
キルシュネライト
シュナーベル
デムス
ナイ
レーゼル (ブラームスベートーヴェン)
【ピアノ(ハンガリー)】
ファルナディ
【ピアノ(南米)】
タリアフェロ
ノヴァエス
【チェンバロ】
ヴァレンティ
カークパトリック
ランドフスカ
【弦楽器奏者(楽器別・五十音順)】

【ヴァイオリン】
オイストラフ
コーガン
スポールディング
バルヒェット
フランチェスカッティ
ヘムシング
リッチ
レビン
【チェロ】
カサド
シュタルケル
デュ・プレ
トルトゥリエ
ヤニグロ
ロストロポーヴィチ
【管楽器奏者】

【クラリネット】
マンツ

【ファゴット】
デルヴォー(ダルティガロング)
【オーボエ】
モワネ
【歌手】
ド・ビーク (メゾソプラノ)
【室内アンサンブル(編成別・五十音順)】

【三重奏団】
パスキエ・トリオ
【ピアノ四重奏団】
フォーレ四重奏団
【弦楽四重奏団】
グリラー弦楽四重奏団
シェッファー四重奏団
シュナイダー四重奏団
ズスケ四重奏団
パスカル弦楽四重奏団
ハリウッド弦楽四重奏団
バルヒェット四重奏団
ブダペスト弦楽四重奏団
フランスの伝説の弦楽四重奏団
レナー弦楽四重奏団
【楽器】
アルザスのジルバーマン・オルガン

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明るい響きで演奏され、楽しませてくれる。...

投稿日:2025/04/09 (水)

明るい響きで演奏され、楽しませてくれる。低音の量感から徐々に高音へと音を重ねて安定した演奏である。テンポ感もちょうどよく、聞き入った。

げたんは さん | 鹿児島県 | 不明

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人物・団体紹介

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モーツァルト(1756-1791)

1756年:ザルツブルクで誕生。 1761年:最初の作曲(『アンダンテ ハ長調 K.1a』)。 1782年:オペラ『後宮からの誘拐』初演。 1783年:大ミサ曲ハ短調 K.427(417a)を上演。 1785年:弦楽四重奏曲集(ハイドン・セット)をハイドンに献呈。 1786年:オペラ『フィガロの結婚 K.492』初演。 1787年:父レオポル

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